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2014年6月24日火曜日

ハラスメント、あるいは苦情の文化

かなり前のことだが、ツイッター上で、あるプロ写真家の女子高生たちの花見写真のRTと彼が女子高生側から難詰(だまってとらないでよ!)をぼやく発話をRTしたとき、フェミニスト風のオジョウサンから、「被写体の人物に了解をとってから、写真を撮るのが現在の最低限の礼儀だわよ、おじさん!」とさとされたことがある。

この「おっさん」はフェミニストのたぐいが怖いタチなので
「でもねえ、こっちの国では若い女の子たちはこっそり撮られて
あとで気づいても、にこっと微笑みかえすだけだけどねえ」
と応答しておくだけにして
ややこしい反論はしないでおいたが。

「写真の本質は盗写じゃないかね」なんて言っても
通用しそうな相手じゃなさそうだったから。





「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p46)

こっそり写真を撮るのは、スカートの下じゃなくても
ハラスメントなんだろうなあ、いまでは。




「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。

(……)あるいは、「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」という塀ゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』P173-174)

この「ハラスメント」への極度の敏感さの現代的傾向については、大澤真幸の説明がわかりやすい。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』より)

ここで《現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い》とあるのは、ラカン派では「<エディプス>の斜陽」とか「父性的な象徴権威の弱体化」、さらには「大文字の他者の不在」などと言われるものだ。

「大文字の<他者>の非存在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「政治的に正当な」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大文字の<他者>」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大文字の<他者>」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大文字の<他者>」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大文字の<他者>」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者>が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはあんらないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」)

…………

ところで都議の「セクハラ」発言と大臣の「金目」発言(パワハラ)があって世論の反撥を生むのは当然だが、その反撥の度合、温度差が著しく異なる(たとえば「署名」数)。

@AtaruSasaki: 「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります。確かにたいへん重大な問題です。しかし石原金目発言も同じように問題ではないでしょうか。みなさん、福島をお忘れですか? →【署名はこちら】http://t.co/f8x6tjh3pw (佐々木中)

《「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります》や、あるいは「福島」はわすれられているとあるが、それだけではなく、あの温度差は、じつは石原金目発言は、かなりの割合の人々はひそかに「正しい」と思っているせいかもしれない。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

実際、「原子力安全委員会」の委員長であった斑目春樹はかつて次のように発言しているようだ。

(最後の処分地の話は)最後は、結局、お金でしょ。
どうしても、みんなが受けて入れてくれないとなったら、じゃあ、おたくには、今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう、それでも手を挙げないんだったら5倍払いましょう・・・・(斑目春樹2011.5)

インターネット上からは次のような見解をも拾うことができる(石原伸晃の「金目」発言の裏側でうごめくものの正体)。

私はある意味では伸晃君を買っているのです。彼は、絶望的な正直者なのです。だから、政治家には向いていない。


都議の「セクハラ」発言は、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》の対象でもありうるのかもしれない、そのため多くの「正義の士」による反撥を生む。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

《現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。》(中島義道『醜い日本の私』)

…………

以下は資料。

Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?

Rationally, of course, we know that not everyone should have kids, and that not everyone wants to have kids, and that life without kids is an entirely plausible and even pleasant possibility; and yet, do many of us secretly feel sorry for or condescend to or fail to understand women who don’t have children? Do we assume they are bravely harboring some deep disappointment, do we think they can’t possibly be happy with things as they are, that there is some brittleness, some emptiness at the center? This is the argument of the French feminist, Elisabeth Badinter, and I think she is probably right.

(意訳、すなわちテキトウ訳)
理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の核には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。
Taboo is a strong and unsubtle word, probably, for how we feel about childlessness; it might be more precise to say that the shrewder, wilier form that taboo takes is probably something closer to pity, as if the childless woman has somehow not pulled it together, as if she is damaged or thwarted. Especially if that childless woman conforms to our clichéd narrative, and say has a dog or cat, or a dog and a cat, or multiple dogs or cats: the general interpretation is that she is sad, not that she is doing a different thing.

We know of course that we are not supposed to judge other women for something like not having children, but we do it all the time.……

タブーは強くて、隠微なものなんてものじゃ全然ないわ、わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より突き刺すように、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はいくらか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェに語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというのじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……

ーーエリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)はかつて『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)で次のように語った人物である。

著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)

ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)


…………

◆2013年07月21日(日)東浩紀 @hazumaツイートより。

ぼくは基本的に異性愛だろうが同性愛だろうがなんでもいいひとです。ただ他方で子どもを作るのも尊いことだと思っているひとです。この両者を両立させるのはなかなか難しいんですが、今後はそれしかないでしょう。

このあいだも某政治家さんから雑談で「いまは選挙戦説でも難しい。子作り支援する社会を作ろうと言うと、では子ども作らないひとはどうなるのかという話になるので、そこはむろん個人の選択でみたいな註釈を付けねばならずすべてがぼやけていく」とかいう話を聞かされたのだけど、それはほんと問題。

問題は、保守的で家父長的で女性差別的で異性愛中心主義的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇になっていて、子ども作ったらそれなりに楽しいよーとか、子ども作るなら年齢限界あるよーとかいう話がほとんどできなくなっているということなのですよ。

この、「保守的で家父長的で差別的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇なので結果的になにも発言したくなくなる問題」は、結婚出産の問題に限らず、リベラルの影響力をあらゆる方面で削ぎ落としているので、そろそろなんとかしたほうがいいと思うんだけどね。

まあ、とはいえ、一方に頑迷な差別主義者が残っているのは事実で、他方で差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多いのも事実なので、ぼくみたいな主張は理解されないんだろうけどね。差別と受け取られることを怖れないで積極的に提言していくリベラルとか、想像つかないよな。。

…………

以下のような言説は、現在では一言でも口に出してはならぬ(?)、ことさら《差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多い》現代日本では。

「私は母性が何をもたらすかわからない。わかっているのは、子供を産まないと、世界の半分を失うということよ。同性愛は決してこの働きを知らないでしょう。それが同性愛の限りない貧しさよ」マグリッド・デュラス
いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)
 …………

(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰

バッハオーフェン、あるいはニーチェの「ディオニソス」思考系譜の、ケレーニンは、女ははゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、とする。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であると。


ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない(参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

男/女の二項対立(分子)の土俵には、無限の生(zoe)の分母があるに決っている。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)


女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より