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2014年6月21日土曜日

「わたしに何事が起ったのだろう。聞け!」

Bibiana Nwobilo



Elisabeth SchwarzkopfKirsten FlagstadAulikki RautawaaraCloe ElmoRosa Olitzka





《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」)


ーー同じ曲の歌唱ではないが、他の時期の彼女の歌声を聴いても、このほとばしるアンテンシテ(強度)は、わたくしにはきこえてこない。彼女は激しい恋をしていたのではないか? そんな憶測をしたくなるほどの絶唱である。

もっとも、ひとは齢を重ねれば技術は向上するだろうが、ほとんど誰もが萌芽期にあった「ビロードの肌ざわり」を失ってしまう。

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出された時」)

《最初、わたしの青空の中に あなたは白く浮かび上がった塔だった。あなたは初夏の光の中で大きく笑った。わたしはその日、河原に降りて笹舟を流し、あふれる夢を絵の具のように水に溶いた。空の高みへ小鳥の群れはひっきりなしに突き抜けていた。空はいつでも青かった。わたしはわたしの夢の過剰で一杯だった。白い花は梢でゆさゆさ揺れていた。》(大岡信「青空」より)


Je-t-aimeは能動的である。自身を力として確認するーー他の諸力に逆らって。いかなる力か。世間に存在する無数の力(科学、通念、現実、理性、など)、Je-t-aimeの価値を低めようとするすべての力。あるいはまた、言語に逆らって。(……)発語としてのJe-t-aimeは記号ではない。記号の負けに賭けるものなのだ。Je-t-aimeを言わぬ者(唇の間をJe-t-aimeが通過することを望まぬ者)は、多様で、不確実で、疑わしく、かつ貪欲な愛の諸記号を、その標識を、その「証拠」を、つまりは、身振り、視線、ほほえみ、ほのめかし、省略などを、とめどもなく発しつづけるほかない。彼は解釈されるがままになるしかない。愛の諸記号の反動的要求に支配され、すべてを言わぬことによって言語の隷属的世界に譲渡されてしまうのだ(奴隷とは舌を切られた者、態度、身振り、表情でしか語れぬ者である)。

恋愛の諸「記号」は広範な反動的文学を養っている。愛は表象され、外観の美学に委ねられている(要するに、恋愛小説を書くのはアポロンなのだ)。反記号としてのJe-t-aimeはディオニューソスの側になる。苦痛は否定されない(嘆きも、嫌悪も、怨念さえも)。ただし、発語によって苦痛が内化されるのではない。Je-t-aimeを言うこと(それをくりかえすこと)は、反動的なものを放逐すること、それを、記号の、ことばの迂路(ただし、わたしはたえずそこを通過しつづけている)の、音のない悲しい世界へ送り返すことなのである。(ロラン・バルト「わたしは・あなたを・愛しています」『恋愛のディスクール・断章』)


Barbara Hendricks  Schubert "Nacht und Träume"



人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。(……)

その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。(加藤周一『絵のなかの女たち』)