あいつは馬鹿だとかあの連中は気がついていないとか、さてまたあなたの発言は役に立ちますとかとても示唆溢れるお言葉をいただきありがたく思いますとかのたぐいが、ツイッターという場の「コミュニケーション」の大きな特徴のひとつであるとまで言うつもりはないが、他者と共感を共有してうなずき合い湿った瞳をかわし合ったりするのと同じくらい「あいつは分かっていない」の類の発言が目につくとは言っておこう。ようするにこれらはヘーゲルの古典的な指摘、《人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつ》の実践なのであり、なにもツイッターの場のみの現象ではない。まあどちらかどいえばわたくしもあいつは馬鹿だというたぐいの発言は好きなほうなのでツイッターに書き込んでおればついついそのたぐいの発話をしてしまうほうなのだが、それらの言葉をたとえば翌日読みかえしてみると、腐りやすい果物のようにすでに傷み変質しており、こちらの顔を羞恥心で赤らめることになる。
ひとがにわかインテリとして振舞いたければ、インテリを批判するのがいちばん近道なのであり、これはすなわち《他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望》の実践である。柄谷行人はかつて《知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきだある》とした。
“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」1990)
これは繰りかえせば、SNSにおける書き込みが蔓延る現在、いっそう「効果的」なのであり、かつて居酒屋や井戸端で語られるのみで済んだ浅墓で素朴な「寝言」のような非難でさえ、いまでは巷間に流通することになる。「学者」「医者」「評論家」を批判することもファッショナブルであり、ここに書きつつある「どこかの馬の骨」もそうやって束の間の「インテリ」であることを誇示する誘惑から免れているとは毛頭言いがたい。
ところであいつは馬鹿だとか無知だとかいうとき、ひとは己れは馬鹿でなく無知でないと思い込んでいるはずだ。「気づいていない」君が「彼は気づいていない」といえば、これはエピペメデスの《クレタ島人は嘘つきだとクレタ島人はいった》と同じ話になる。発話当人は自らを「客観的」な立場にあると錯覚していなければこんなことは発言しがたい。客観的な位置すなわちメタレベルであろう。まあそれはツイッターでどこかの馬の骨――ここで、わたくしのような、と付け加えておかないと後から読んで恥じ入ることになるーーの言葉だけでなく、相対的な聡明さをほこる批評家やら思想家やらの文章も似たようなものであるということが言える、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)。そうはいってもこれはどこかの馬の骨だけでなく、さらに相対的に聡明な、すなわち凡庸な書き手だけのことだけでさえなく、カントでさえ超越論的主体という語彙を使いつつ、ある時期から超越的主体になってしまったなどという見解もある。
「三人称客観」の視点は仮構であるが、それはカントでいえば、「超越論的主体」という仮構に対応するものである。逆にいうと、カントが超越論的主体を仮構した時点で、小説に生じたのと同じことが哲学におこった。坂部氏がとらえたのはそのような変化である。『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部(恵)氏はいう。カントの柔軟な思考と文体は、「学校の文体といわば妥協し、伝統的な形而上学の枠どりに何らかの程度復帰して、自己の思考の社会化に乗り出すと同時に、必然的にうち捨てられることになる」(柄谷行人「カントとルソー」)
超越論的とは本来つぎのようなものであるのだし、カントの初期の『視霊者の夢』にはそれがあったのだけれど、その後カントは「超越論的主体」といいつつメタレベルに立ってしまったという「批判」である。
カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)
「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。この言い方を援用すれば、あいつは馬鹿だと発話するとき、こう発言する「私」はその発言をどうしてしてしまうのだろうと自己吟味しなければならないということになる。オレは超越的ではなく超越論的に語ってるよ、などと言い放つだけでは埒が明かない。そのように昂然と語るものこそメタレベルに立っていると柄谷行人や坂部恵に指摘から読み取ることができもするが、さてそう語る二人がメタレベルに立つ言葉を書いていないかかといえばそれは疑わしい。とすればさてどうしたものか。ときにはメタレベルに居直って挑発的発言するのをたのしんでもいいではないか、などとこの「馬の骨」は束の間思わないでもない。メタレベル批判をしておきながら、自らの言説がメタ言説になっていることに「気づかない」連中よりはまだましだろうなどと。
一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
合理論も経験論もたちまちドクサになる。《”真理”とは古い隠喩の凝固したものに他ならない》(ニーチェ)。凝固してしまったら、そこからたえず移動しなければならない。
反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひ とつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと 遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。(ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』)
バルトは、《メタ言語を破壊すること、 あるいは、 少なくともメタ言語を疑うこと 》といいつつすぐさま《というのも一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである》とつけ加える(「作品からテクストへ」)。われわれは一時的にはメタ言語に頼る必要があるのであり、すくなくともひとが発話するときつねに超越論的であるわけにはいかない。ときには己れの立場を括弧に括る必要があるのだ。そもそも言語で話すこと自体、どこかメタレベルに立っているという議論さえもあるがそれはここでは触れないでおこう。
まあいずれにせよ、柄谷行人は長年「超越論的」について考えてきた思想家・批評家であり、とくに『探求Ⅰ』、『探求Ⅱ』から『トランスクリティーク』までの書物は超越論的論としても読めるぐらいだ。超越論的主体がメタレベルに立ってしまうのなら、では「超越論的な領野」と言い換えてみようではないかなどと胡麻化してもこれも埒が明かない。たとえば、柄谷行人はデリダの「差延」あるいは「差異」についてこう書いている。
まあいずれにせよ、柄谷行人は長年「超越論的」について考えてきた思想家・批評家であり、とくに『探求Ⅰ』、『探求Ⅱ』から『トランスクリティーク』までの書物は超越論的論としても読めるぐらいだ。超越論的主体がメタレベルに立ってしまうのなら、では「超越論的な領野」と言い換えてみようではないかなどと胡麻化してもこれも埒が明かない。たとえば、柄谷行人はデリダの「差延」あるいは「差異」についてこう書いている。
たとえば、デリダは、現象学における明証性が「自己への現前」、すなわち「自分が話すのを聞く」ことにあるという。《声は意識である》(「声と現象」)。これは、西欧における音声中心主義への批判というふうに読まれてしまうけれども、彼は、たんに哲学的あるいは現象学が、話す=聞く立場に立っているということをいっているにすぎない。そして、デリダは、そのような態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。《このような痕跡は、現象学的根源性そのもの以上に<根源的>であるーーもしわれわれが<根源的>というこの言葉を、矛盾なしに保持することができ、直ちにそれを削除しうると仮定すれば》(「声と現象」)。
直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることになる。デリダは、「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。しかし、われわれは、マルクスがいうように、「哲学者を神秘主義へと導く“神秘”は、社会的なもののなかにひそんでいる」と、考える。もとより、この「社会性」という概念がより難解なのだとしても。(柄谷行人『探求Ⅰ』P26)
エクリチュールの策士デリダは《直ちにそれを削除しうると仮定すれば》とはするのだが、それでも「差異」は超越化してしまう。これは「脱構築」も同じである。デリダにおいて脱構築概念は超越化されてしまっているとジジェクは言う。
In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)
ではどうすればいいのか。「エクリチュール」が、そこから逃れる唯一の方法だ、とかつては言われたが、エクリチュールの本尊のひとりデリダでさえこのようである。そもそもファストフード的な知的消費者ばかりの現在、「エクリチュール」などほとんど読まれはしない。
要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種の能記〔シニフィアン〕の実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)
ツイッターでは、どこかの教師のツイートをさえ「要約」して、すなわち己れの「物語」に劣化させ、ためになるとかとてもヒントになる、あるいははげましを受けましたなどと言って満悦している輩さえいる。
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
《たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。》(蓮實重彦『物語批判序説』)
繰りかえせば、ここでいまこの文を書き綴っている「どこかの馬の骨」もこの「物語化」をまぬがれているなどとは毛頭言うことができない。だが、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならない。
事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。(蓮實重彦『物語批判序説』)
とはいえ、われわれはファストフード的パロールに馴れ切った現在、以前よりいっそう「理解する前に判断したい欲望」の囚人であるだろう。
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。
この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)
たとえば次のように、まさに「超越論的」な態度による言葉の実践を続ける古井由吉の小説がいまどれだけ読まれているだろう。
自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス』)
学者や知識人の論文はどうだって? バルトは学者や知識人の書く文章などエクリチュールではない、としている。
パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(「作家、知識人、教師」)
教師や、知識人は、パロール(発話)を活字にする人であり、あれらの文はエクリチュールではないとしたら、現在流通する書物のなかに、そうそうエクリチュールは見当たらないことになる、かろうじて、すぐれた小説や詩、ときにエッセイや批評文(稀有な論文)のなかだけにある、と。
もちろんバルトの主張をそのまま真に受ける必要はないのはいうまでもない、バルトにとって《エクリチュールこそが現代において思考さるべき特権的な課題だととりわけ強調されているのでもない。つねにいまここにありながら、ある種の錯覚から見えなくなってしまっているものに改めて視線を注ごうとしているだけなのである。》(蓮實重彦『物語批判序説』)
もちろんこれはパロールとエクリチュールの話だけでなく、「医師・学者・評論家は~に気づいていない」などと繰り返し言い放って、そう反復してしまう《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける》ことのない振舞いも、現在共有される少なくともSNSの文化であるといえるだろう。すなわち真になされなければならない己れ自身へのへの問いかけから目をそらす方法なのだ。
あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。(プルースト「見出されたとき」)
印象だけではない、苛立ちやら怒りも同じく。
…………
もっとも学者・評論家・医師などと対象化して、彼らをしきにり責め立てるような振舞いは、この発話当人にとって、なにかに役立っているのかもしれない。たとえばなにかトラウマ的な出来事を遣り過すための。とすれば「批判」の対象ではなくなる。
◆Slavoj Žižek: The Pure Differenceより
人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)
……for Lacan, repetition precedes repression—or, as Deleuze put it succinctly: “We do not repeat because we repress, we repress because we repeat.”65 It is not that, first, we repress some traumatic content, and then, since we are unable to remember it and thus to clarify our relationship to it, this content continues to haunt us, repeating itself in disguised forms. If the Real is a minimal difference, then repetition (which establishes this difference) is primordial; the primacy of repression emerges with the “reification” of the Real into a Thing that resists symbolization—only then does it appear that the excluded or repressed Real insists and repeats itself. The Real is primordially nothing but the gap that separates a thing from itself, the gap of repetition.
注)この《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー、“われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。”――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。
65. The consequence of this also involves an inversion in the relationship between repetition and re‐memoration. Freud's famous motto “what we do not remember, we are compelled to repeat” should thus be reversed: what we are unable to repeat, we are haunted with and are compelled to memorize. The way to get rid of a past trauma is not to rememorize it, but to fully repeat it in the Kierkegaardian sense.