Patience, patience.
Patience dans l'azur
chaque atome de silence
est la chance d'un fruit mûr !
耐えること 耐えること
青空のさなかで耐えること
もの言わぬ瞬間(原子)の一つ一つが
成熟への機会である。
ーーPatience dans l'azur Paul
Valéry ヴァレリー(中井久夫訳)
それに私も、どうすればこのソナタ(シューベルト D.960)の心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。(ヴァレリー・アファナシエフ『ピアニストのノート』)
さして美しくも醜くもない一人の女性が―――リストの『ピアノソナタ ロ短調』のビデオクリップを製作する。(……)このカリスマ的女性ピアニストは、衣装を替えたり付けたりひげをつけたりパイプを吹かしたりして、ファウスト、メフィストフェレス、マルガレーテの三役を演じ分けてみせる。すると聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。(同上)
ある日のこと、さながら地獄界に降るようにしてアトリエの階段をきたのは、あの「詩人」だった。いつも何か怒ったような顔をしている彼だ。しかし不機嫌はたちまちほぐれ、彼はにこやかになった。( ……)※あの「詩人」とは、もちろんヴァレリーのこと。
こうするうちに、自分の技倆に深くたのむところのある詩人は、詩作というあの長期労働を引き合いに出した。必要なのは、辛抱づよさということだ。不成功におわることがいくらでもあるということ、半成功は不成功よりなおはるかに危険なものだということ、彼はそういった点を説明してくれた。「まさに一歩ごとに、あの何ひとつ書かれていない丸い表面をふり返らねばならない。そうしてあの表面にぴっちり貼りついているような装飾の軌跡を作り出すことは、まずむつかしい。だからこそ、厳密な定型詩でなければ、仕事というものも案出というものも、私には考えられない。定型詩というものを、私は海のあの水位というものにたとえたい。海水は諸大陸のあいだをめぐり、諸海洋を区分しているのに、海の水位は、何物とも一致しない。しかも水位がすべてを決定している。規則に寸分たがわぬ定型詩などというものは、一行たりともありはしないのだ。しかし規則というものは、あの切れ目なく、また歪めようもない海の表面にもひとしい。その表面にわれわれがちっぽけな山々を、つまり語というものになった第二の素材を肉付けするわけだ。それにまた、何もかも詩によって言いつくされるわけでもない。というのも、あの上塗りが、何か意味をおびぬことには、詩にはならないのだから。必要なのは、ただ辛抱づよさだけだ、そう痛感したことが私には何度もあった。しかも、そう痛感したのは、きまって自分に辛抱が掛けているときだった」(アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)
マラルメとドガ(ヴァレリー『ドガに就いて』吉田健一訳より)
この二人の交渉は決して簡単な性質のものではなく、またそうある筈がなかった。というのは、ドガの残忍なまでに無遠慮な意識的に邪慳な性格ほど、マラルメの意識的な性格と異なっているものはなかった。
マラルメは或る思想の下に生きていたのであって、彼が想像していた或る最高の作品が彼の生涯の究極の目標であり、それは彼にとって彼の存在を正当化するものであると同時に、宇宙そのものが包含する唯一の意味でもあった。彼はこの、宇宙の本質たる純粋な概念を保存し、それをますます明確にしていく目的の下に、彼の外面的な生活とか、人や出来事に対する彼の態度とかを根本的に建て直し、変換して、この概念を規準としてすべてのことを評価したのだった。敢て言えば、彼にとって人とか作品とかは、彼が発見したことの真理がどの程度に其処に明確に感知されるかということによって整理され、それによってそれらの人とか作品とかの価値が決定されるのだった。ということは、彼が彼の脳裡において多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去ったことを意味するのであって、彼が何人に対しても、礼儀を重んじ、忍耐強く、また真に驚歎すべき優しさを以て彼らを迎えたということの根柢には、常にこの非情さが横たわっていたのである。彼は誰が彼を訪問しても必ず面会し、すべて彼の所にくる手紙に、常に典雅な、そして絶えず新しい言い廻しで満たされた文章で答えた……。彼のそういう洗練された応対の仕方や、相手が誰であるかを問わない鄭重さはしばしば人を驚かせ、私にしても、極めて素朴な意味でそれを不愉快に思ったことがあるが、彼はこの普遍的に礼儀正しい態度によって、何人も侵すことができない一つの武装区域を設定し、その圏内に彼の稀有の矜持は、それが彼のものであることにおいて少しも損なわれることなく、彼と彼自身の特異さとの親密な対決の、無類の結実として存在する場所を与えられたのだった。
これに反してドガは一歩も人に譲ることがなく、事情を斟酌したりするには余りにも性急で、専らはったりで物事を批判し、まったく弁解の余地を残さないような辛辣な言葉ですべてを片づけてしまうことを好み、そういう彼の苦々しい気持が、何事も彼の何処かに潜んでいることが感じられ、事実彼は些細なことで機嫌を悪くし、たちまち激昂するのだった。そしてそれはマラルメの少しも変わることのない、滑かな、他人に対する気遣いに掛けて実に微妙な、そして絶えずこの上もない皮肉を裡に含んでいる態度とは似ても似つかぬものだった。
マラルメもドガのそういう、自分とは正反対の性格には幾分辟易していたように私には思われる。
ドガの方では、マラルメのことを常によく言っていたけれど、彼は主としてマラルメの人物に好意を寄せていたのだった。そして彼にマラルメの作品は、一人の卓越した詩人の精神がほんの少し変になった結果であるとしか考えられなかった。しかもそういう誤解は芸術家の間にはありがちなことなのであって、むしろ彼らは、お互いに理解し合うことが全然ないように出来ているということさえも容易に想像されるのである。殊にマラルメの書いたものはその性質からして、あらゆる種類の諧謔や嘲笑の的となるのに適していた。その点でドガの意見は、マラルメも時々寄ることがあったゴンクールの家の常連がやはりマラルメの作品について考えていたことと少しも異る所がなかった。彼らはマラルメの人物に魅せられて、彼らと話している時は極めて明晰な頭脳の持主であり、常に無類の正確さと純粋さで豊富に暗示しつつ話をする人間が、何か書くと、全然意味が取れない、煩雑さそのもののような作品がその結果として出来上るのを、まったく不思議なことに思っていたのだった。殊に彼らには、彼ら自身は努めてその歓心と顧慮とを獲得しようとしている公衆というものをマラルメが完全に無視しているのが、どういう訳なのか少しも理解することが出来なかった。そしてもしその時、自分の著作の法外な出版部数を第一義のことに考え、同じ文学者として互いに激烈に嫉妬しあっていたこれらの大作家たちに、五十年立たないうちに彼らの言説に対する信頼や、彼らが書いた有名な小説の売れ行きがまったく衰えて、その代わりに、長い期間に亙って極度に意識的に練磨された形式の効果によって流行や読者数の影響を絶した、マラルメの僅少な、秘教的な作品が優れた精神の持主たちの裡に、完璧さというものの強大な諸能力を発揮することになることを予言したら、彼らはどれほど驚いたことだろう。
或る日ゴンクールの家に集まった人たちが議論をしている時、ゾラがマラルメに、彼の考えでは糞とダイヤモンドは同じ値打ちだと言った。「そうね、――しかしダイヤモンドはそうざらにあるものじゃないな」とマラルメが答えた。
ドガは平気でマラルメの詩を種々の笑い話の種に使った。マラルメの詩は、
Victime lamentable à son destin offerte …
(その宿命に捧げられたる憐むべき供物、……)
だった。
例えばドガの話によると、マラルメが或る日彼が作った十四行詩を弟子たちに読んで聞かせた。弟子たちはそれにすっかり感心してしまってそのあげく、各々その解釈を試みた。或るものは、其処には夕焼けの空が歌われているのだと言い、また或るものは、其処には荘厳な日の出が詠まれているのだと言った。そうするとマラルメは、「そんなことはないよ……。これは私の箪笥の歌なんだ」と言ったそうである。
ドガはこの話をマラルメの面前でもしたことがあるらしく、その時マラルメは微笑したが、それは少し無理な微笑だったということである。
ーーーPortrait of Mery Laurent 1888-1889
マラルメのメリへの誕生祝の四行詩(愛人メリ・ローランの47回目の誕生日1886 保苅瑞穂訳)
Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.
メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く
この詩には異本がある。それもあわせて。
L'an pareil en sa course au fleuve qua voici
S'écoule vers la fin d'un été sans merci
Où le pied altéré, fêté par l'eau, se cambre
Pour le taquiner mieux au bout d'un ongle d'ambre.
年はここを流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
喉の渇いた足はそこで水に祝福されて、琥珀色の爪先で
水をもっと、からかおうとして、指を反らす。
-----{Blog} Philippe Sollers
メリ・ローランは、かつてマネの愛人だった。
…………
蓮實重彦)なぜ書くのか。私はブランショのように、「死ぬために書く」などとは言えませんが、少なくとも発信しないために書いてきました。 マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表象の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。私は彼らの後継者を自認するほど自惚れてはいませんが、この動物的な「愚鈍さ」の側に立つことで、何か書けばその意味が伝わるという、言語の表象=代行性(リプレゼンテーション)に対する軽薄な盲信には逆らいたい。
浅田彰) …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。
蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。
浅田彰) 例えば、デリダ論の本を書いたとして、十年後に知らない誰かがそれを読むというのが、本当のレスポンスであり、大文字の他者の承認なのであって、いま流行っているアニメについてブログに書いたら、その日のうちに 100個くらいレスポンスが来たと言っても ……。… そういう小文字の他者からのレスポンスは一週間後には最早なかったに等しいでしょう。即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだという誤った神話に惑わされてはいけない。
蓮實重彦)それを嘲笑すべく、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけじゃないですか。
浅田彰) そうですね。ドゥルーズは、哲学者でありながら、あるいはまさにそれゆえに、論争(はやりの英語で言えばディベート)は何も生み出さないから嫌いだと明言した。そう言いながら、彼はガタリと二人で本を書き、いろいろ長いインタビューに答えてもいる。それは、しかし、ディベートではないわけです。 …ドゥルーズは、その新哲学派を徹底批判するために自費出版のパンフレットを出す一方、メディアにおけるレスポンスを求めないために書く。そのためなら二人で書いたっていい、そういう立場であって、その姿勢は今こそ学ぶべきものだと思います。( 2009年9 月18日)