2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)
「いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!』」(プラトン『国家』藤沢令夫訳)
この翻訳では「見たいという欲望」となっているが、この「欲望」は、二〇世紀以降(フロイト以降)の文脈でなら、フロイトのリピドー、あるいは冒頭に掲げられたジジェクの文の「享楽」か、もしくは「欲動」としてよいだろう。
いずれにせよ、フロイトの快原則の彼岸とは、まずは上のようなことを言う。それは不快なものをもとめる衝動であり、快感原則の埒外にあるものだ。かつての公開処刑や鞭打ちの刑に公衆が押しかけた(祭りの催しの一環として行われていたことも多い)などという例もあるし、現在でもひとがホラー映画に惹かれてしまうのも同じドライブ(欲動)なのだ。
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。
悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
この悦楽jouissanceは、「享楽」とも訳される(バルトはたぶんラカンから借用しているはずだ)。
『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』)
ジジェクの著書の題名「現実界の砂漠にようこそ」とあるように、ラカン派的にいえば、「享楽」は現実界realの審級に属するものであって、このrealは象徴界に属するrealityとは異なる。ロラン・バルトが「快楽」を《文化から生まれそれと縁を切らず》としているのは、すなわち象徴界から縁を切らずということだ。
ところでニーチェの『ツァラトゥストラ』には、「快」と訳されたり「悦楽」と訳されたりするLUSTという語がしばしば出てくる。
ニーチェを引用するまえに、まずLUSTについてフロイトの説明を聞こう。
人間や動物にみられる性的欲求の事実は、生物学では「性欲動」という仮定によって表わされる。この場合、栄養摂取の欲動、すなわち飢えの例にならっているわけである。しかし、「飢え」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味でリピドーという言葉を用いている。(フロイト『性欲論三篇』 フロイト著作集5 人文書院)
この性欲論の冒頭にこうあったあと、すぐさま註がふされる。
ドイツ語の「快感」Lustという語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことには多義的であって、欲求の感覚と同時に満足の感覚をよぶにもこれが用いられる。
ニーチェの“Lust”にも満足の感覚の快として使用されている箇所もあり、しかしながら欲動や享楽(悦楽)、場合によっては死の欲動としてもよい使用の仕方がある。もっともラカンにとっては、すべての欲動は死の欲動であるし、ジジェクの説明によれば、死の欲動とは死なない欲動、永遠の反復運動である。
フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
ジジェクの他の説明であるならば、死の欲動とは、アンデルセンの童話「赤い靴」でもある。少女が赤い靴を履くと、靴は勝手に動き出し、彼女はいつまでも踊り続けなければならない。靴は少女の無制限の欲動ということになる。あるいは独楽が永遠に反復回転をすれば、それは静止したように(死んだように)みえる。
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925 )
だが、これらの言葉から、フロイトの死の欲動と、ニーチェの永劫回帰をすぐさま結びつける愚は避けておこう。
次の永劫回帰が語られるツァラトゥストラの結末のひとつ前の章「酔歌」では、享楽の匂いがぷんぷんする。訳者の手塚富雄氏もあやまたず「悦楽」という訳語を当てている。文脈上、より分り易く読むために、「悦楽」という語が頻出するすこし前から引用しよう。
…………
ツァラトゥストラ第四部 酔歌
6
甘美な竪琴よ、甘美な竪琴よ。わたしはおまえの調べを愛する、おまえの酔いしれた、ひきがえるの声に似た調べを愛する。――どんなにはるかな昔から、どんなに遠いところから、おまえの調べはわたしにやってくることか、はるかな道を、愛の池から。
おまえ、古い鐘よ、甘美な竪琴よ。あらゆる苦痛がおまえの心臓に打ち込まれた、父の苦痛、父祖の苦痛、太祖の苦痛が。おまえのことばは熟した。――
――金色の秋と午後のように、わたしの隠栖の心のように、それは熟した。――そしていま、おまえは語る。
「世界そのものが熟した、葡萄が色づくように、――
――いまやそれは死のうと願っている、幸福のあまりに死のうと願っている」と。おまえたち高人よ、おまえたちはその匂いを嗅がないか。ひそかに湧きのぼってくる匂いを。
――永遠の香り、永遠の匂いを。古い幸福の匂いを。ばらのように至福な、褐色をおびた黄金の葡萄酒の匂いに似た幸福のその匂いを。
――酔いしれた、真夜中の臨終の幸福の匂いが、湧きのぼってくるではないか。その幸福が歌うのだ。「世界は深い、昼が考えたより深い」と。
7
わたしを放っておいてくれ! 放っておいてくれ! わたしは、おまえと手を結ぶには清らかすぎる。わたしに触れるな。わたしの世界は、ちょうどいま完全になったではないか。
わたしの皮膚は、おまえの手などに触れられるには清らかすぎる。わたしを放っておいてくれ。おまえ、愚かな、鈍重な、うっとうしい昼よ。真夜中のほうが、おまえより明るいのだ。
最も清らかな者が、地の主となるべきなのだ。最も知られていない者、最も強い者、どんな昼よりも明るい、深い真夜中の魂をもつ者が、地の主となるべきなのだ。
おお、昼よ、おまえはわたしをつかもうと手探りしているのか。わたしの幸福がほしいのか。おまえの目には、わたしはひとりぼっちで、富裕で、宝の鉱脈で、黄金の庫〔くら〕であるように見えるのか。
おお、世界よ、おまえはわたしがほしいのか。おまえから見て、わたしは世俗的なのか、宗教的なのか、神的なのか。しかし、昼と世界よ。おまえたちはあまりに不器用だ、――
――おまえたちは、もっと怜悧な手をもつがよい。もっと深い幸福に、もっと深い不幸に、手を伸ばせ。どこかの神につかみかかれ。だが、わたしにはつかみかかるな。
――おまえ、奇妙な昼よ、わたしの不幸、わたしの幸福は深い。だが、わたしは神ではない、神の地獄でもない。その苦痛は深いのだ。
8
神の苦痛のほうが、より深いのだ。おまえ、奇妙な世界よ。神の苦痛につかみかかるがよい。わたしをつかもうとするな。では、わたしは何か、一つの酔いしれた甘美な竪琴だ、――
――真夜中の竪琴だ、ひきがえるの音を出す鐘だ。その音は、だれも理解しない。しかし、それは語らざるをえないのだ。聾者たちに向かって。高人たちよ。つまりおまえたちは、わたしを去ってしまった、去ってしまった。おお、青春よ、おお、正午よ、おお、午後よ。そしていま夕べと夜と真夜中が来た、――犬がほえる、風がほえる。
――風は犬ではないか。風は啼き、わめき、ほえる。ああ! ああ! なんとそれはため息をすることか、笑うことか。なんと喉を鳴らし、あえぐことか、この真夜中は。
この酔いしれた女詩人の「真夜中」は、いまなんとまじめな酔わぬ声で語ることか。彼女はおそらくその酩酊をも飲み越えてしまったのだろうか。彼女は眠らずに目がさえてしまったのだろうか。彼女は反芻しているのだろうか。
この老いた、深い真夜中は、彼女の苦痛を、夢のなかで、反芻しているのだ。さらにそれ以上に彼女の悦楽を反芻しているのだ。つまり、苦痛は深いとはいうものの、悦楽は心の悩みよりいっそう深いのだ。
ihr Weh käut sie zurück, im Traume, die alte tiefe Mitternacht, und mehr noch ihre
Lust. Lust nämlich, wenn schon Weh tief ist: Lust
ist tiefer noch als
Herzeleid.
9
おまえ、葡萄の木よ。なぜおまえはわたしを讃えるのか。わたしはおまえを切ったのに。わたしは残酷だ、おまえは血を噴いているーー。おまえがわたしの酔いしれた残酷さを褒めるのは、どういうつもりだ。
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう」そうおもえは語る。だから葡萄を摘む鋏はしあわせだ。それに反して、成熟に達しないものはみな、生きようとする。いたましいことだ。
苦痛は語る、「過ぎ行け、去れ、おまえ、苦痛よ」と。しかし、苦悩するいっさいのものは生きようとする。成熟して、悦楽を知り、あこがれるために。
――すなわち、より遠いもの、より高いもの、より明るいものをあこがれるために。「わたしは相続者を欲する」苦悩するすべてのものは、そう語る。「わたしは子どもたちを欲する、わたしが欲するのはわたし自身ではない」と。――
しかし、悦楽は相続者を欲しない、子どもたちを欲しない、――悦楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。
Lust aber will nicht Erben, nicht Kinder, - Lust will sich selber, will
Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
苦痛は言う。「心臓よ、裂けよ、血を噴け。足よ、さすらえ。翼よ、飛べ。痛みよ、高みへ、上へ」と。おお、わたしの古いなじみの心臓よ、それもいい、そうするがいい。痛みはいうのだ、「去れよ」と。
10
おまえたち高人たちよ、おまえたちはどう思うか。わたしは予言者か。夢みる者か。酔いしれた者か。夢を解く者か。真夜中の鐘か。
一滴の露か。永遠からの香りの一種か。おまえたちの耳は聞かぬか、おまえたちの鼻は嗅がぬか。いままさにわたしの世界は完全になったのだ、真夜中はまた正午なのだ。
苦痛はまた一つの悦楽なのだ。呪いはまた一つの祝福なのだ。夜はまた一つの太陽なのだ、――おまえたち、学ぶ気があるなら、このことを学び知れ、賢者も一人の阿呆であることを。
おまえたちは、かつて悦楽にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」を言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。――
――おまえたちがかつて「一度」を二度欲したことがあるなら、かつて「おまえはわたしの気に入った。幸福よ、刹那よ、瞬間よ」と言ったことがあるなら、それならおまえたちはいっさいのことの回帰を欲したのだ。
――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――
――おまえたち、永遠な者たちよ、世界を愛せよ、永遠に、また不断に。痛みに向っても「去れ、しかし帰って来い」と言え。すべての悦楽はーー永遠を欲するからだ。Denn alle Lust will - Ewigkeit!
11
悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー
Alle Lust will aller Dinge
Ewigkeit, will Honig, will Hefe, will trunkene Mitternacht, will
Gräber, will Gräber-Thränen-Trost, will vergüldetes Abendroth –
悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist
durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als
alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt
in ihr, -
――悦楽は愛しようとする、憎もうとする。悦楽は富にあふれ、贈り与え、投げ捨て、だれかがそれを取ることを乞い求め、取った者に感謝する。悦楽は好んで憎まれようとする。――
- sie will Liebe, sie will Hass,
sie ist überreich, schenkt, wirft weg, bettelt, dass Einer sie
nimmt, dankt dem Nehmenden, sie möchte gern gehasst sein, -
――悦楽はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。
- so reich ist Lust, dass sie
nach Wehe durstet, nach Hölle, nach Hass, nach Schmach, nach dem
Krüppel, nach _Welt_, - denn diese Welt, oh ihr kennt sie ja!
おまえたち高人たちよ。悦楽はおまえたちをあこがれ求めている、この奔放な、至福な悦楽は、――できそこないの者たちよ、おまえたちの苦痛をあこがれ求めているのだ。すべての永遠な悦楽はできそこないのものをあこがれ求めている。
Ihr höheren Menschen, nach euch
sehnt sie sich, die Lust, die unbändige, selige, - nach eurem
Weh, ihr Missrathenen! Nach Missrathenem sehnt sich alle
ewige Lust.
つまり、悦楽はつねにおのれ自身を欲しているのだ。それゆえに心の悩みをも欲するのだ。おお、幸福よ、おお、苦痛よ。おお、心臓よ、裂けよ。おまえたち高人たちよ、このことをしっかり学び知れ、悦楽が永遠を欲することを。
Denn alle Lust will sich selber,
drum will sie auch Herzeleid! Oh Glück, oh Schmerz! Oh brich,
Herz! Ihr höheren Menschen, lernt es doch, Lust will Ewigkeit,
――悦楽はすべてのことが永遠ならんことを欲するのだ、深い深い永遠を欲するのだ。
- Lust will _aller_ Dinge
Ewigkeit, will tiefe, tiefe Ewigkeit!
…………
ここで、もう一度、ジジェクの《死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動》だという言葉を想いだしておこう。
永劫回帰にはいろいろな議論があるが、ここではひとつだけ、クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の冒頭を附記しておく。
永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何かもう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの何ともわけの分からない神話は何をいおうとしているのであろうか?
永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というものは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。だから、十四世紀にアフリカの二つの国家の間で戦われた戦争で、ことばにあらわしがたい苦しみの中に三十万人もの黒人が死んだにもかかわらず、世界の顔を何ひとつ変えなかったように、その恐ろしさ、崇高さ、美しさはまともにとりあげる必要はないのである。
十四世紀のアフリカの二つの国家の戦いが、永劫回帰の中で数限りなく繰り返されたとしたら、何かが変わるであろうか?
変わる。それは目に立ち、永遠に続く塊となり、その愚かしさはどうしようもないものとなるであろう。
もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述は、ロベスピエールに対してこれほどまでに誇り高くはないであろう。ところがその歴史は、繰り返されることのないものについて記述されているから、血に塗れた歳月は単なることば、理論、討論と化して、鳥の羽よりも軽くなり、恐怖をひきおこすことはなくなるのである。すなわち、歴史上一度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロベスピエールとの間には、はかり知れないほどの違いがある。
そこで永劫回帰という思想がある種の展望を意味するとしよう。その展望から見ると、さまざまな物事はわれわれが知っている姿と違ったようにあらわれる。それらの物事は過ぎ去ってしまうという状況を軽くさせることなしにあらわれてくる。このような状況があるからこそ、われわれは否定的判断を下さなくてもすむのである。どうして消え去ろうとしているものを糾弾できようか。消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである。ギロチンでさえも。
つい最近のことだが私は信じがたい感情にとらわれた。ヒットラーについての本をパラパラやっていたとき、何枚かの写真を見て、感動させられた。私に自分の少年時代を思いおこさせたのである。私が少年時代を過ごしたのは戦時中であった。親戚の何人かはヒットラーの強制収容所で死んだ。でも、ヒットラーの写真が私の失われた時代、すなわち、二度ともどることのない時代を思い出させてくれたのと比べて、あの人たちの死は何だったのであろうか?
ヒットラーとのこの和解は、回帰というものが存在しないということに本質的な基礎が置かれている世界の、深い道徳的な倒錯を明らかにしている。なぜならばこの世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されているからである。
われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。
だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?
その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。
そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか? 重さか、あるいは、軽さか?
この問題を提出したのは西暦前六世紀のパルメニデースである。彼は全世界が二つの極に二分されていると見た。光――闇、細かさーー粗さ、暖かさーー寒さ、存在――不存在。この対立の一方の極はパルメニデースにとって肯定的なものであり(光、細かさ、暖かさ、存在)、一方は否定的なものである。このように否定と肯定の極へ分けることはわれわれには子供っぽいぐらい単純にみえる。ただ一つの例外を除いて。軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか?
パルメニデースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
本当かどうか? それが問題だ。確かなことはただ一つ、重さーー軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。