《一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか》(森有正)
森有正は、渡辺一夫門下の東大仏文系の優秀な弟子の一人だったのだが、40歳前後にフランス留学(戦後官費留学第1号)し、結局、日本に帰ってくるのはやめてしまって、日本の職を投げ捨てた。日本に残っていた妻とも離婚した(渡辺一夫が激怒したらしい)。その森有正のパリ滞在記でもある日記風文章に10代のわたくしはひどくいかれてしまった、あたかも聖書のようなにして読んだといっていいかもしれない。加藤周一や木下順二、あるいは大江健三郎にもいくつかの森有正讃がある。
反面、こういう話もある。
辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。因みに、渡辺格氏は『ももんが』の平成15 年5月号で晩年の父君(森有礼の三男:※引用者)は森が帰国し自宅を訪問しても頑として会わなかったこともその理由も引用するに忍びないほどあけすけに書いている。(平川祐弘)
まあ辻邦生が「かまとと」であってもそれはどうでもよろしい。《距離の遠さが、わたしに蛇の汚さと悪臭を隠していたのだ。奸智にたけたとかげがみだらな気持でそこを匍いまわっていたことを隠していた》(ニーチェ「無垢な認識」『ツァラトゥストラ』としてもよい。
だがニーチェのこの言葉は本来、森有正向けではなく、「観照の者たち」向けだ。《おまえたち臆病者よ……おまえたちはおまえたちの去勢された「ながし目」を「観照」と呼ぼうとする。そして、臆病な目で撫でまわしたものを、美と名づけたがる。(……)おまえたちは欺瞞者だ、「観照の者たち」よ。ツァラトゥストラも、かつてはおまえたちの神々しい外観に心酔した。そのなかにつまっている蛇のとぐろを見抜くことができなかったのだ》--この言葉は、平川祐弘氏は東京名誉教授だかなんだかしらないが、たかだか凡庸な大学教師の平川氏にふさわしく、森有正にはふさわしくない。《生を、欲念なしに、また犬のように舌をたらすことなしに、観照する》者たちよ、森有正は犬のように女を追い回した。だがそれでなにがわるい? 《無邪気さはどこにあるか。生殖への意志があるところにある。》
《戦後日本の知的ヒーローだった「渡辺先生」以下の仏文出身者の正体は何だったのか。》(平川祐弘)だと? まあ氏は伊文研究者らしく日陰の身にながらく耐えていたのだろうし、敢えて文句はいうまい。
◆森有正氏の思い出――丸山真男氏に聞く」
「非常に広 く読まれた『バビロンの流れのほとりにて』なども含めて、けっきょく森さんは、自分の 哲学を周辺の部分しかのべないで終ってしまった、と思うんです。むしろある種の文学的 な受けとられ方をして愛読者をもったことで、本当の思想的影響を与えることが少なかっ た、とさえいえるのじゃないですか。森さんにいちばん期待していたことが果せないで終った。だから森哲学というのは、周辺から窺う以外にないんです」 。 「森有正をめぐるノー ト12」 、全集12付録、十九頁。
外国において詩人であった森有正氏は、まさに日本において哲学者になろうとする直前に亡くなったのかもしれない。
私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳(ママ)を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。
「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。
その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(加藤周一著作集「月報」ーー大岡昇平「加藤さんの印象」)
およそどの書物も、書き出しの一節が、その作品のトーンを奏でる。稚拙なこと ばで始まれば、聴くに耐えない曲に似て、ページをめくる気にもなれない。だが <バビロン>は感動的である。1976年パリで客死した思索家・森有正。その翌年 秋、朝日新聞に彼を想う記事が載った。「去るものは日々に疎しといわれるが、 およそ森さんほど亡くなってからも私たちの心に棲みつづけている人も少ない。 このところ私なども、よく意外な人たちから、間もなく森さんの一周忌になりま すね、といわれておやっと思うことがある。そのたびに、ああこの人の心のうち にも森さんが棲んでいたのか、と思う。森さんは亡くなってから私たちの心に棲 みつづけている、といまいったが、あるいはむしろ、亡くなってからいっそう私 たちの心に棲むようになった、というべきかも知れない。これは尋常ならぬこと である。(考える愉しみ 中村雄二郎エッセー集1《森有正のこと》所収」 )
以下は、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭。読む年齢やそのとき置かれた環境によって、ときにひどく共鳴したり、ときに強く反撥を感じたこともあるが(たとえば野心の時代、三十歳前後には、ひどく反撥ししばらく森有正から遠ざかっていた)、いまは最近の心的外傷理論とともに読むこともできると敢えてしておこう。すなわち幼児期誰もが抱かざるをえない言語化不可能な三つの問い(女性性、父性、性関係)やら幼児型記憶などにかかわる根源的幻想(あるいは原抑圧)は、原トラウマとして(欲動衝拍として)ひとの生涯を決定的に左右するというものだ。
一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。ヨーロッパの精神が、その行き尽くしたはてに、いつもそこに立ちかえる、ギリシアの神話や旧約聖書の中では、神殿の巫女たちや予言者たちが、将来栄光をうけたり、悲劇的な運命を辿ったりする人々について、予言をしていることを君も知っていることと思う。稚い生命の中に、ある本質的な意味で、すでにその人の生涯全部が含まれ、さらに顕わされてさえいるのでないとしたら、どうしてこういうことが可能だったのだろうか。またそれが古い記録を綴った人々の心をなぜ惹いたのだろうか。社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかしそのことはやがて、秘かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない。
たくさんの若い人々が、まだ余り遠くない過去何年かの間に、世界を覆う大きな災いのなかに死んでいった。君は、その人々の書簡を集めた本について僕が書いた感想を、まだ記憶していることと思う。そのささやかな本の中で僕の心を深く打ったのは、やがて死ぬこれらの若い魂を透きとおして、裸の自然がそこに、そのまま、表われていることだった。暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥かに空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲に立っている鷲、嵐を孕(はら)む大空の下に、暗く、荒々しく、見渡すかぎり拡がっている広野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、坤きもないのだ。ただあらゆる形容を絶した Desolation(絶望)とConsolation (慰め)とが、そしてこの二つのものが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。もう今は、僕の心には、かれらが若くて死んだことを悲しむ気持はない。この現実を見、それを感じ、そこから無限の彼方まで、感情が細かく、千々に別れながら、静かに流れてゆくのを識るだけだ。これは少しも不思議なことではない。極めてあたり前のことなのだ。ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら ……。
僕を驚かすものが一つそこにある。いま言ったことは、人間が宇宙の生命に瞑合するとか、無に帰するとか、仏教や神秘哲学がいうしかじかのこととはまるで違うのだ。もっと直接で素朴なことなのだ。ライプニッツというドイツの哲学者が単子説に托して言っているように、この限りない彼方まで拡がってゆく光の波は一人一人の人間の魂の中に、さらにまたそれに深く照応する一つ一つの個物の中に、その全量があるものなので、あるいはそういうものが人間の魂そのものと言ってもよいかも知れない。しかしもうこういう議論めいたことは止めよう。つまり一人の人間があくまで一人の在りのままの人間であって、それ以上でも、それ以下でもない、ということが大切だ。
紗のテュールを篏めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れこめる夕暮の暗い空が、その空の一隅が、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。すこしはなれたところにあるゲーリュサック街を通る乗用車やトラックの音が時々響いてくる。小さいホテルの中は、何の物音もしない。本やノートを堆く重ねた机の前に僕はこれを坐って、書いている。これがすくなくとも意識的には虚偽の証言にならないように、ただそれだけを、念じながら。
人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんな立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。
考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「 M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壷を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いて来た。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。
たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに深く立つ日まで、止まらないだろう。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)
加藤周一が森有正は哲学者としては失格だ、詩人であったというのは、この文章はもとより、後年の「経験」の哲学もあきらかにリルケの影響が窺われるからだ。詩人としての森有正はリルケの人としての森有正ということだ。
だが詩というものは、若いころに書いたものにろくなものはない。それには待つということが大切だ。そうして一生かかって、それもたぶん長い一生を倦まずたゆまず意味と甘味とを集めねばならない。その果てにようやくたぶん十行の良い詩を書くことができるのであろう。なぜなら、詩はひとの言うように感情ではない(感情ならはじめから十分あるわけだ)、 ――それは経験なのだ。一行の詩句を得るためには、たくさんの都会を、人間を、物を見なければならない。けものたちを知り、鳥の飛び方を感じ取り、朝小さな草花のひらく身ぶりを知らなければならない。はじめての土地の、なじみない道のことを、思いがけない出会いや、もう久しくその近づいてくるのが見えていた別れを思い出すことができねばならない、 ――まだよく意味が明らかにされていない幼年時代のことを、また、両親がぼくたちをよろこばせようとして持って来たものが、ぼくたちにはなんのことかわからず(それはほかの子どもならよろこぶにちがいないものだった)、両親の心を傷つける破目になってしまった思い出や、じつに奇妙な始まり方をして、思いがけない深い重い変化を伴う子どもの病気のことや、ひっそりとつつましい部屋のなかですごす日々のことを、海辺の朝を、海そのものを、多くの海のことを、高い天空をざわめきながら、星々とともに飛び去って行った旅の幾夜さのことを、―― そしてたとえ幸いにも、そういう一切のことを思い出すことができても、それはまだ十分ではない。ひとはまた、どの一夜も他の夜に似ることのなかった多くの恋の夜の思い出を持ち、陣痛にあえぐ女たちの叫びと、産み終えてかろやかに、しろじろとして眠っている女たちの思い出を持たねばならない。しかしまた、死んで行く人々の枕辺にはべり、死んだ人とひとつの部屋にすわって、あけた窓から高くなり低くなりしながらきこえてくる外の物音に耳傾けた経験がなくてはならない。そして思い出を持つだけでも、まだ十分ではない。思い出が多くなれば、それを忘れることもまたできなければならない。忘れられた思い出がいつかふたたび戻ってくる日を、辛抱強く待たねばならない。なんとなれば、思い出はそれだけでは、まだ何物でもないのだ。それがぼくたちの内部で血となり、まなざしとなり、身のこなしとなり、名もないものとなって、もうぼくたち自身と見分けがつかなくなってはじめて、いつかあるきわめてまれな時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、それらの思い出のただなかから立ちあがって、そこから出て行くということが考えられるのだ。(リルケ『マルテの手記』)
(Rilke with Lou Andreas-Salomé (1897) On the balcony of the summer house)
この写真から一年あとの四月、リルケはフィレンツェに滞在して、ルー・アンドレアス・サロメに書簡を送りはじめる。
これからあなたに宛てて日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の域に達したかどうかーーそういうことはわたくしには一切判らない。ただわたくしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくともわたくしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたくしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたくしのよろこびは自分に縁の遠い、孤独のままでとどまるだろうということを感じるばかりである。それで、わたくしは書き始める。そして、かつて、あなたこそわたくしが優しい願いで自分を準備したその成就であることをまた知らずに、そこはかとない同じ郷愁にかられていたその日々をまる一年の歳月が隔てる今日この頃になって、わたくしの欲望のあかしをすることができる萌しが出て来たことを、わたくしは、喜んで承認するのである。(『フィレンツェだより』1898.4.15)
この『フィレンツェだより』の「あとがき」には、訳者森有正の「リルケのレゾナンス」という文が附されている。
こうして私はリルケの刻印を受けた。それは私自身のある姿でもあった。私の歩みがどういうものであるか、それは「バビロンの流れのほとりにて」の中に私は誌した。私は、リルケのではなく、私の歩みを続ける外はなかった。私のうけた刻印は、私の歩みに従って、苦痛や歓喜や感動や、さまざまの反応を起した。私はそれに耐えて行く外はなかった。(……)
そのようなわけで、リルケは、殆ど対蹠的に見えるアランと共に、ヨーロッパにおける私の生活と仕事との二本の支柱のようなものとなった。そしてこの二人によって代表される二つの思想傾向が本当は異質のものではない、ということを、長い時間をかけて読んだプルーストは私に教えてくれた。(森有正「リルケのレゾナンス」)
いま、わたくしの手元には『バビロンの流れのほとりにて』と、エッセイー集二冊、それにリルケの『フィレンツェだより』だけしかない。
森有正は、パリ滞在では先輩格にあたる彫刻家高田博厚から次のような不評のことばをも貰っているし、製本家栃折久美子との奇妙な恋愛などもある(「四足の靴を抱えて、小間使いのように扱われている栃折さん」『森有正先生のこと』)。
〈世渡り〉の面で彼には矛盾を感ぜず、一見不器用そうなのに、むしろ得意になる点があるのを私は以前から見ていた。結局、有正は孤独な魂の所有者ではなかったのか?しかし、彼は私にはそういう点は一切見せず、パリの日本学生会館館長に二期もなり、その上、パリ日本人会会長になろうと奔走したことも言わなかった。(高田博厚「回想」『森有正全集7』、月報)
新聞の随筆に話を戻すと、大江は森に尋ねたいことがあった。それは森の「木々は光を浴びて」において、森とフランス人女性の話についてである。インタビューをうまくすすめるために、大江は前もってその質問を森へレジュメで送っていた。森とフランス人女性との間で日本についての会話がなされる。日本をよく知るフランス人女性は独り言のように「3発目の原爆が落とされるのも日本だと思う」と言葉にする。それを聞いた森はそのことばに全く反駁する気持ちが起きなかったという。「胸を掻きむしられるような思い」であったという。
この逸話について大江はその後、そのフランス人女性と森との間にどんな対話があったのか、という質問を持っていた。
日本滞在時、ICUのチャペルで森は朝パイプオルガンを弾くことが日課であった。その日は重い感じのするバッハの単調の前奏曲とフーガを何度も運指の練習を弾いていたと大江は記している。
結局、そのあと朝食を共にするという約束を森が違えて、裏口から森は出て行ってしまう。
その日の夜に大江に速達が届き、①フランス人女性に人種的差別感を持たないでほしい ②あの件はもともと自分の思いついたことであったが、そのままの表現にすることに編集者が抵抗して、そのアドバイスに森自身が乗ったことが書かれていたとのことだ。(森有正と大江健三郎)
◆BWV 564 Adagio
森有正の『バビロンの流れのほとりにて』は、性愛、その官能とエゴイズムが、哲学的あるいは芸術的の仮装の衣の下に生生しく蠢いており、十代の少年がなによりも魅了されたのは、女を感覚的に愛し、「ヤリマクレ」との御達し(?)を読んだせいでもあるだろう。たかだか萎びて抑圧された生涯を送ったに違いない大学教師たちが、森有正の哲学的な書き物のすくなさに驚く辻邦生を「かまとと」と嘲笑しても、それは彼らの「かまとと」ぶりを露くだけだ。
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(……)
恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ(……)
ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』)
◆森有正『バビロンの流れのほとりにて』
青いブルーズを来たアルジェリアの男が三人(……)かれらの体全体は気安さと、そこはかとないかなしみを表している。削げたようにやせこけた体、日に焼けた皺の多い皮膚、黒目がちの鈍い眼はどこを見ているのか判らない。かれらの体全体は、再びかえらぬ時、あるいは、花咲くことなく朽ち枯れてゆくと時の嘆きを発散している。(……)僕はこういうアルジェリア人を見るのが大すきだ。かれらは思想をもっていない、精神さえもっていないのかも知れない。かれらは輝く太陽の降り注ぐ、まっ青な地中海に切り立つイベリアやアフリカ、あるいはコルシカの岩壁に生えている香り高いジュネヴリやミルトの潅木のようだ。(……)かれらを見ていると一種のノスタルジー、感覚のノスタルジーが湧いてくる。それはかくされていて表面には出ていないが、恋というものをする宿命をもった人間の淡い本能的な憧れの一つの極限をなしている。かれらの恋は感覚の興奮と同じ長さの持続性しと同じ程度の強度しかもたない。激しく短いこと、そして次第に衰えてゆくこと、これがかれらの恋の姿だ。マイヨ門の白じらとして広場を背景にしたかれらの影絵姿は、鉄の柵にもたれたまま、じっとしている。それは感覚と神経と反射中枢とだけでできた人間だ。愛情も歓喜も悲哀も、この反射組織を、ダンスと女と音楽と食物と咲けとに結びつける機能にすぎない。かれらにとって賭は、思考の作用ではなく、かれら自身の存在を抽象化してみる本能の動きだ。この透明な人間たちは、人が恋をする時の理想、意識されない理想ではなかったのか。かれらはメトロの硬い鉄柵にもたれて何を待ち何を考えているのか。、愛ということで人が求めているものの、ぎりぎりの、裸の真実、もうそのうしろには何もかくされてはいない。それ自体で全部である愛欲の裸の姿。愛ということは、二つの人間が合わさることだと誰かが言っているが、かれらは女に対して合わさることしか考えない。P10
およそ人間でも、ものごとでも、恋愛関係としてでなければ考えられない型の人間があるものだ。(……)リールケがそうだった、ゴッホがそうだった、ドストエフスキーがそうだった。しかしその人たちの運命は悲劇に充ちている。殆どすべての場合、孤独の中に終るのだ。P16
仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由はすべて嘘だ。中世の人々は神を愛し敬うが故に、あのすばらしい大芸術を作るのに全生涯を費やすことができたのだ。しかし仕事の対象となるこの存在はいったい何なのだろう。何でなければならないのだろう。それでこの人の仕事の質が決定してくるのだ。実に恐ろしい問題だ。僕はたえずこの問題を考えている。P43
ミケランジェロの彫刻の肌は、実に深く、またこまかく、それが生れたトスカナの柔らかい空気を思わせる。パリやシャルトルやランスのカテドラルの肌がイール・ド・フランスの豊かな自然を思わせる様に。しかしここに否定することのできないことがある。それはこの宇宙的、あるいは全人生的なミケランジェロの芸術は、我々に一つのノルムを提供しているということだ。その作品の前に我々の存在の全機能は吟味されてしまう。これは実に辛く、苦しい道だ。その中で自己を破壊しないようにしつつ、この吟味に耐えてゆかねばならない。バッハ、ドストエフスキーに出会ってこの方、僕ははじめて、ここに三度目に僕の全存在を上げて向う対象に出あったという感じがする。(……)自分をどこまでもどこまでも引きずりこむ、底の知れない程深い対象にゆき会うということは人生の最大のよろこびの一つである。しかもそれは同時に最大の責任の一つなのだ。僕がこの吟味を通りこすことができるかどうか、その重みに耐え切れるかどうか。いまや一切はそこにかかっている。P45-46
ありのままの人間をぎりぎりに追いつめて見た時、それは一つの享楽の意志をもった肉体の塊以上のものだろうか。(……)本当の享楽は、自分と同じように意志をもった他の肉体と相互の享楽関係に入ることではないだろうか。これは議論ではなくて事実だ。P61
人は、愛の対象となる人は、その相手の自分に対する愛が利己的であるばあるほど満足を覚えるのではないだろうか、愛は徹底的にエゴイスティックになった時、はじめて相手を満足させるのではないだろうか、。そうに相違ない。僕は殆どすべての友人を喪ってしまった。しかしそれはそれでよい、僕は後悔しない。そんなことは人間の本当の価値とは何の関係もないことなのだ。P73
《真の女は愛が芽生える瞬間がどのようなものであるかを知っている。女はおびえた心を外へ呼び出そうとする声に抵抗できない。男は自分の声を女の心がこのように意識することに抗うことはできない。真の男は愛の魅力からは逃れられない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』p185からだがいくらか変更)
フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。(……)
サビナはメランコリックな黙想を続けた。(……)
「で、なぜときにはその力を私にふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。
サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(同p131-132)
真の愛とは一人の男あるいは一人の女をその自我から引きはなす、そういう愛である。そして他の者の意志がそれにとってかわるのである。愛の行為とは相手をその自我から引きはなし、それを吸収することである。つまり、相手にとってかわるのである。相手は己れから決定的に引き離されてしまうのである。究極の行為はだから暴力である。しかしそれは、同意し同意された暴力だ。僕は何も、肉体に基づく行為のことを言っているのではない。ただ愛のもつ意義について語っているのである。(森有正『語彙集』)
森有正はラカン、あるいはラカン派の言説は読んでいないはずだが、ここでは原初の「母」なるものとの共生symbiosis、享楽の愛が語られているとしてよいだろう。クンデラのいう女の「不安」は享楽の条件であるエゴの消滅の深淵を覗く瞬間を表している。だがほとんどの男はそんなものからは逃げ出し、ファリックな快楽に耽るのみなのだ。だが、そこにはエロスではなくタナトス、Tristis post Coitum(性交後の悲しみ)しかない。
原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
――西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より
◆THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE(Paul Verhaeghe)
woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position, which any subject can adopt vis-a-vis the other. This explains why sexuality, no matter how satisfying it may be, always contains the seeds of dissatisfaction—the pleasure of one direction detracts from that of the other tendency. Freud anticipated this when he wrote in 1896 that sexuality itself contained a source of displeasure. The two directions are clearly sex-related. Eros and jouissance belong on the side of the woman, Thanatos and phallic pleasure on the side of the man. Each has within itself the potential, or even the aspiration, for the other. The female orgasm is also phallic—she is even multi-orgasmic. However, she needs it less and does not feel it to be essential. Sometimes it can even diminish her potential for gaining pleasure from the other, the lasting aspect of symbiosis in which the original bond is restored. The man is all too familiar with jouissance and is constantly seeking it, though he also flees from it in the short-circuiting of his phallic pleasure, because this other enjoyment turns him into an object without a will, part of a larger whole.