「ママにもおちんちんあるの?」
「もちろんよ、なぜ?」
「ただそう思っただけなの」
(……)
あるとき彼は就寝前に脱衣するのを固唾をのんで見まもる。母親が尋ねる。「何をそんなに見ているの?」
「ママにもおちんちんがあるかどうか、見ているだけよ」
「もちろんあるわよ。あなた知らなかったの?」
「うん。ママは大きいから、馬みたいなおちんちんをもっていると思ったの」
――フロイトの『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)の冒頭近くからだが、わたくしの七歳になる次男も「おちんちん」にひどく関心があるし、長女の場合も長男の場合もいま思いかえせばそうだった。
次男はいま犬のおちんちんが気になるようだ。妻が友人から雄の白い子犬をもらってきた。当地の俗語では、男性のあそこは金の塊(コプヤン)、女性のはダイヤモンド(キンクン)という意味の言葉を使う。息子はキンクンのほうがいい、という。なんども繰りかえす。しかたなしに、通いの手伝いに来ている婦人の家の雌の茶色の子犬を貰う。しばらくはその犬を愛玩する。だがその犬はおきゃんなのか、鉄門の格子(いわゆる京格子風の竪子)の合い間をかいくぐって、外に出る。前からいる大型犬はもちろんくぐることができないし、最初に貰った白い子犬は体軀からすればくぐることはできるがその癖はない。息子は子犬が外に出て野良犬とじゃれあうのが気に入らない。そうこうするうちに、近くのおばあちゃん(義母)の家で子犬が生れた。何匹かのなかから白と茶色のぶちの雌犬をまた貰う。というわけで一匹だけだった犬がこの二ヶ月のあいだに四匹になった。
次男は一歳上の従姉が毎日曜日遊びに来るのを楽しみにしている。よく一緒にシャワーを浴びたり水遊びをしているが、なにをしているのかを探るつもりはない。
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86ーーメモ:「ペニス羨望」、あるいは「想像的ファルスの欠如」)
『ある五歳男児の恐怖症分析』のハンス少年の両親はフロイト理論の信奉者で、二人とも精神科医。母親のほうは少女時代、神経症にかかってフロイトの診察をうけている。
この論文の前半のほとんどはハンスの父親の報告からなっており、フロイト自身はハンス少年に一度しか会っていない。
・かつて三歳半の彼は、動物園のライオンの檻のまえで、興奮してうれしそうに叫ぶ、「ライオンのおちんちんをぼく見たよ」
・三歳九ヶ月のときには、停車場で機関車から水が放出されるのを見て、「ほら、機関車がおしっこをしている。どこにおちんちんはついているの?」
しばらく考えてから彼はこうつけ加える。「犬と馬はおちんちんをもっている。机と椅子にはないんだね」と。
……かれはあるとき厩舎に行き、雌牛の乳しぼりを見る。
「ほら、おちんちんからミルクが出ているよ」
すでにこれらの観察から期待できるのは、ハンス少年に見られたものの大部分とはいわないが、その多くは子供の性的発展に現われる典型的なものらしいということである。女子に、男性性器を吸うという考えが見出されても、さして驚くにはあたらないということを私はかつて論じておいた。このけしからぬ興奮のよってきたる原因は、非常に無邪気なもので、つまりそれは、母親の乳房を吸うことに由来するのであり、その場合雌牛の乳房はーーその機能上からいうと女性の乳房、形態および位置からは陰茎――格好の仲だちとなるのである。幼いハンスの発見は私の主張の後半の証明をしている。
さておちんちんに対する彼の興味は、単に理論的な面だけにとどまらず、予期された通り、彼に性器接触への興味を起こさせる。三歳半のときペニスをいじっているところを母親に見つかる。母親は脅かす。「そんなことをしていると、A先生に来ていただきますよ。先生はおちんちんを切っておしまいになります。そうしたらどこでおしっこをするの?」
ハンス「お尻」
彼は罪悪感も抱かずに返事をしているが、この機会に「去勢コンプレクス」を獲得している。(PP174-175)
この箇所の註に、ルー・アンドレアス・サロメの名が出てくる。
〔1923年の追加〕去勢コンプレクス理論は爾来、ルー・アンドレアス、A、シュテルケ、F・アレクサンダーらの寄与によってさらに拡大されることになった。乳児はすでに母親の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり重要な、自己の所有権のある身体の一部の喪失と感じるにちがいないこと、規則的な便通もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、誕生行為がそれまで一体であった母親からの離別として、あらゆる去勢の原像であるということが認められるようになった。このコンプレクスのこれらすべての根源を容認したうえで、私はしかし、去勢コンプレクスという名称はペニスの喪失と結びついた興奮や影響にかぎるべきであると主張した。……
フロイト理論とラカン理論のもっとも大きい相違のひとつは、フロイトでは現物のペニスを考えたのに対し、ラカンはシニフィアンとしてのファルスを考えたことだろう。シニフィアンとしてのファルスは象徴的には、いわば「空の場所」であり、そこにはなんでも入る。乳房やうんこがファルスであってもよいのだ。そしてそれらはイメージとして語られればイマジナリー(想像的)ファルスとなる。フロイトがうえのサロメらの見解をすこしでも取り入れていれば、無駄にフェミニストたちからの反発をうけず、理論的発展もすみやかになっただろうに、と惜しまれる。
ハンスの症状は、まずは馬に噛まれそうだという恐怖である。そのため表通りにでかけることを恐がる。馬が倒れるという恐怖もある。
『だいたいどの馬がいちばん恐いの?』
『全部だよ』
『そうじゃないだろう』
『いちばん恐いのはね、口のところに何かこんなものをもってる馬なの』
『何のことなの? 馬の口についている鉄かい?』
『ちがう。何か黒いものを口のところにつけているよ(自分の口を手でおおう)』
『何だって、もしかしたら口ひげかな?』
(笑って)『ううん、ちがう』(P204)
ハンスの父親はこのとき既に、馬恐怖は父親恐怖のことだと見当をつけている。
馬に噛まれるというのは父親にむさぼり食われるということであり、馬が倒れるというのは、父親が倒れて死んでくれたら母を独占できる願望だと。
フロイト自身もこの見解をとっている。ラカンのセミネール四巻『対象関係論』では、まったく異なった解釈をしていることがよく知られている(後資料)。(もっともフロイト自身、《倒れる馬は死んでいく父だけではなく、出産のときの母親でもあったわけである》P262とは書いている。)
フロイトは後年の論文『制止、症状、不安』(1926)にて、同じ少年ハンスに言及し、《父に食べられるという考えは、受身の情愛衝動の退行し低下した表現であり、その衝動は、性器的愛の意味での対象として愛されたという意味をもつことを教える》と書いているが、馬が父であることには変わりはない。
ハンスに妹が生まれる(三歳半のとき)。
生後一週間の妹がお風呂に入れてもらうのを眺める。彼はいう。『おちんちんまだ小さいね』そして慰めるようにつけ加える。『この子が大きくなったら、おちんちんもきっと大きくなるよ』(……)
『三ヶ月の妹がお湯を使うのを眺め、残念そうに彼はいう。『とっても、とっても小さなおちんちんをもっている』
私は妻に、彼女が便所へ行くときに、ハンスがそばにいたことはよくあるのかと尋ねる。彼女は『ええ、よくあるわ。自分があの子にそれを許してやるまでは泣きべそをかいてねだりつづけるんです。これはどこの子だってやってるのよ』という」( P210)
『ママといっしょにお前よくお便所へ行ったの?』
『しょうっちゅうさ』
『そこでいやな気持がした?』
『うん……いいや』
『ママがおしっこしたりうんこしたりするとき、そばについているのが好きなんだね?』
『大好きさ』
『なぜ大好きなの?』
『それはわかんない』
『おちんちんが見えるだろうって思うからだね』
『うん、そうだとぼくも思う』(P215)
……ハンスは黒い革のクッションを見ていう。『ぺっ、たまらないや。黒いパンツと黒い馬を見ても、ぼくたまらなくなる。だってうんこしなくちゃならないもの』
『もしかしたらお前、ママの何か黒いものを見て、びっくりしたんじゃないかい?』
『そうなの』
『いったい何を見たの?』
『知らないよ。黒いブラウスか黒い靴下か』
『きっとおちんちんのところの黒い毛だろう。お前は見たくて、覗いたんだから。』
(弁解するように)『でもおちんちんはぼく見なかったよ』(P218)
まだまだいろいろな細部はあるが、引用はこのくらいにしておく。
注目すべきなのはーーポストフロイトのいくつかの研究を読んだ身には意想外に思われるということであり、当時のことだから止む得ないのは承知しているがーー、この最後に引用された箇所を、フロイトの解釈ほとんど無視していることだ。馬の口は母親の女陰かもしれず、あるいは馬に噛まれるとは、むさぼり喰う母親のことであるかもしれないという可能性を。
『セミネール四巻」を読んだことはないのだが、ラカンは半年にわたってこの少年ハンスに言い及ぶ講義をしているらしい。そしてラカンは馬を母だとは直接には言っていないようだ。《the horse represents a different person in Hans’s life》 (S4, 307)
ただハンスの父親の象徴的機能の弱さを語っている。
母親がむさぼり食う馬かもしれないだというのは、次のようなことにかかわる。
母親がむさぼり食う馬かもしれないだというのは、次のようなことにかかわる。
◆向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋( 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)
母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。
だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。
ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。
漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。
父なき世代以降の若者は、父親の象徴的権威が弱くなっているはずであり、母は、あるいは「女」は、むさぼり喰う馬や鰐として現われることがかつてより多くなってはいないか。しかも一神教ではない日本はもともと父の権威は弱かったという議論もあるし、だが他方、エディプス的母親もいるだろう。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。
明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収ーー父なき世代)
母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)という話もある。
…………
以下、資料。
◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995 (Paul Verhaeghe)
If there is one person little Hans is not afraid of, it is certainly his father, but the same cannot be said about his mother.
What is threatening to Hans,” according to Rodriguez (1999), “is not the father (as Freud had assumed), but a desire of the mother that appears to Hans as unsatisfied and not subjected to the law. As such, it assumes terrifying imaginary figurations, dominated by oral cannibalism, that is, the fantasy of the devouring mother that lies behind the symptom (fear of horses biting)” (p. 128). The horse that Hans fears, we might say, is not a symbol of the father, as Freud had suggested, but rather the child's attempt to create a substitute for the missing (symbolic) father that he so desperately needed.
The little Hans: the father's kindness, the devouring
mother, the horse and sister Hanna
If we now turn to the case of the little Hans, which Lacan studied in details in his seminar on The Object Relations, we find his reading of the case extremely different from that of Freud's, and especially concerning the function of the father. Freud has it that Hans became scared of his father because of his own close relationship with the mother, the horse being nothing else that a slight transformation of the father's actual appearance (his moustache, his spectacles, his mouth, etc.). The father's implication in the treatment , Freud writes, allows the child to experience his castration anxieties differently: he comes to the conclusion that a new phallus is being offered to him by the plumber, presented as a father substitute. J.Lacan, on the contrary, has it that the child is anxiety-stricken because he doesn't know where his desire for the mother- confused as it is with the mother's own desire - is going to take him. The kindness of the father, little Hans interpreted as a weakness, Lacan writes, as an incapacity to give some limits to the mother's fancies. While Freud says little about her - she seems to have been one of his patients - Lacan clearly describes her as "quaerens quem devoret", "at the apogy of her feminine voracity", dissatisfied with her relationship with her husband, exhibiting her colorful underwear to her son, taking him into her bed, etc. While Freud considers Hans' castration anxiety as a sort of an independent problem, Lacan, on the contrary, relates it to this priviledged relationship to the mother. It raises a question for which the boy has no answer, not only because it is a mere instinctual phenomenon, but because his desire is in his mother: he doesn't know, Lacan writes, where his sexualexcitement is taking him to. Now the way the symptom is built, according to Lacan (when Freud quotes it, he does not pay much importance to it) is extremely striking: it is underpinned by the structure of the German language. It seems that the child took the German word for "because" (Wegen), and tied it to … a horse, a procedure made possible by the fact that there is only a small phonological difference between "Wagen" and "wegen".
◆An Introductory Dictionary of Lacanian
Psychoanalysis(Dylan Evans)
Lacan, in his seminar of 1956–7, offers a detailed reading of the case of Little Hans, and proposes his own view of phobia. Following Freud, he stresses the difference between phobia and anxiety: anxiety appears first, and the phobia is a defensive formation which turns the anxiety into fear by focusing it on a specific object (S4, 207,400). However, rather than identifying the phobic object as a representative of the father, as Freud does, Lacan argues that the fundamental characteristic of the phobic object is that it does not simply represent one person but represents different people in turn (S4, 283–8). Lacan points out the extremely diverse ways in which Hans describes the feared horse at different moments of his phobia; for example, at one point Hans is afraid that a horse will bite him and at another moment that a horse will fall down (S4, 305–6). At each of these different moments, Lacan argues, the horse represents a different person in Hans’s life (S4, 307). The horse thus functions not as the equivalent of a sole signified but as a signifier which has no univocal sense and is displaced onto different signifieds in turn (S4, 288).
Lacan argues that Hans develops the horse phobia because his real father fails to intervene as the agent of castration, which is his proper role in the OEDIPUS COMPLEX (S4, 212). When his sexuality begins to make itself felt in infantile masturbation, the preoedipal triangle (mother-child-imaginary phallus) is transformed from being Hans’s source of enjoyment into something that provokes anxiety in him. The intervention of the real father would have saved Hans from this anxiety by symbolically castrating him, but in the absence of this intervention Hans is forced to find a substitute in the phobia. The phobia functions by using an imaginary object (the horse) to reorganise the symbolic world of Hans and thus help him to make the passage from the imaginary to the symbolic order (S4, 230, 245–6, 284). Far from being a purely negative phenomenon, then, a phobia makes a traumatic situation thinkable, livable, by introducing a symbolic dimension, even if it is only a provisional solution (S4, 82).
The phobic object is thus an imaginary element which is able to function as a signifier by being used to represent every possible element in the subject’s world. For Hans, the horse represents at different moments his father, his mother, his little sister, his friends, himself, and many other things besides (S4, 307). In the process of developing all the permutations possible around ‘the signifying crystal of his phobia’, little Hans was able to exhaust all the impossibilities that blocked his passage from the imaginary to the symbolic and thus find a solution to the impossible by recourse to a signifying equation (E, 168). In other words, a phobia plays exactly the same role which Claude Lévi-Strauss assigns to myths, only on the level of the individual rather than of society. What is important in the myth, argues Lévi-Strauss, is not any ‘natural’ or ‘archetypal’ meaning of the isolated elements which make it up, but the way they are combined and re-combined in such a way that while the elements change position, the relations between the positions are immutable (Lévi-Strauss, 1955). This repeated re-combination of the same elements allows an impossible situation to be faced up to by articulating in turn all the different forms of its impossibility (S4, 330).
What are the practical consequences of Lacan’s theory in the treatment of subjects who suffer from phobias? Rather than simply desensitising the subject (as in behavioural therapy), or simply providing an explanation of the phobic object (e.g. ‘the horse is your father’), the treatment should aim at helping the subject to work through all the various permutations involving the phobic signifier. By helping the subject to develop the individual myth in accordance with its own laws, the treatment enables him finally to exhaust all the possible combinations of signifying elements and thus to dissolve the phobia (S4, 402). (It should be borne in mind that Lacan’s discussion of the case of Little Hans only explicitly addresses the question of childhood phobias, and leaves open the question of whether these remarks also apply to adult phobias.)
As Freud himself noted in his case study of Little Hans, phobias had not previously been assigned any definite position in psychiatric nosographies. He attempted to remedy this uncertainty surrounding the classification of phobia, but his proposed solution is prey to a certain ambiguity. On the one hand, since phobic symptoms can be found among both neurotic and psychotic subjects, Freud argued that phobias could not be regarded as an ‘independent pathological process’ (Freud, 1909b: SE X, 115). On the other hand, in the same work Freud did isolate a particular form of neurosis whose central symptom is a phobia. Freud called this new diagnostic category ‘anxiety hysteria’ in order to distinguish it from ‘conversion hysteria’ (which Freud had previously referred to simply as ‘hysteria’). Freud’s remarks are thus ambiguous, implying that phobia can be both a symptom and an underlying clinical entity. The same ambiguity is repeated in Lacan’s works, where the question is rephrased in terms of whether phobia is a symptom or a STRUCTURE. Usually, Lacan distinguishes only two neurotic structures (hysteria and obsessional neurosis), and describes phobia as a symptom rather than a structure (S4,285). However, there are also points in Lacan’s work where he lists phobia as a third form of neurosis in addition to hysteria and obsessional neurosis, thus implying that there is a phobic structure (e.g. E, 321); in 1961, for example, he describes phobia as ‘the most radical form of neurosis’ (S8, 425). The question is not resolved until the seminar of 1968–9, where Lacan states that One cannot see in it [phobia] a clinical entity but rather a revolving junction [plaque tournante], something that must be elucidated in its relations with that towards which it usually tends, namely the two great orders of neurosis, hysteria and obsessionality, and also the junction which it realises with perversion. (Lacan, 1968–9, quoted in Chemama, 1993:210)
Thus phobia is not, according to Lacan, a clinical structure on the same level as hysteria and obsessional neurosis, but a gateway which can lead to either of them and which also has certain connections with the perverse structure. The link with perversion can be seen in the similarities between the fetish and the phobic object, both of which are symbolic substitutes for a missing element and both of which serve to structure the surroundingworld. Furthermore, both phobia and perversion arise from difficulties in the passage from the imaginary preoedipal triangle to the symbolic Oedipal quaternary.