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2011年1月7日金曜日

カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  (ジジェク)

ジジェクはカオス理論における<ストレンジ・アトラクター>とラカンの<対象a>を結びつけようとする試みの叙述をしている(『斜めから見る』Looking awry)。

まず前段である。
【ストレンジ・アトラクターとは】
カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。
 この理論の価値転倒的な側面は「ストレンジ・アトラクター」という述語に凝縮されている。あるシステムが「カオス的」・不規則的に行動し、すなわち絶対に以前の状態に戻らないが、それでもなおそれを規制するある「アトラクター」によって形式化の能力を保っている、ということがありうる。その「アトラクター」が「奇妙strange」であるのは、点とか対称図形といった形をとらず、「歪んだ」円とか「蝶々」とかの明確な図形の内部で、どうしようもなく絡み合った曲線の形をとるからである。(p79~)

ここで簡単に、「カオス理論」と「ストレンジ・アトラクター」の説明がなされているいくつかの記述を、ネット上からリンクしておく。

※すこし、カオス理論から離れるが、かつて清水博氏が名著『生命を捉えなおす』(たしか80年代の時点で、浅田彰が絶賛している)の中での、「散逸構造」と「関係子(メディオン)」をめぐる記述も併せて記載する。場のアトラクター

【散逸構造】 
自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 複雑なシステムとしての観点から眺めると、卵モデルは即興劇モデルにつながっていくのである。
場という舞台に存在するということは、自己が場としてのアトラクター(場のアトラクター)に存在しているということである。それは存在者が場所的世界における場所的自己言及性によって生成したアトラクターに存在すると言う意味である。それは第一に場のアトラクターの内部に自己が存在を与えられて散逸構造を生成しているということであり、そのために場のアトラクターと自己の身体の活き(はたらき)の非分離性が注目される。身体は自己の存在に重要な二重の働きをもっている。第一は世界との主客非分離状態の生成(場のアトラクターの生成)であり、第二は独立的な存在者相互との間の自他非分離的関係の生成である。存在者の場のアトラクターが身体の相互引き込み(エントレインメント)の活き(はたらき)によってコヒーレントとなるために、場と間が共有されて、それぞれの位置が場のアトラクターに位置づけられる結果として、各存在者はその場の内部にそれぞれのポジションを確保しながらそれぞれの局所的散逸構造を生成する。これが即興劇の基礎構造である。この即興劇では場のアトラクターは文字通りのアトラクターとして役者と観客を引きつける働きをするのである。このようにして自己組織的に創出する場におけるそれぞれの役割はドラマの筋書きがなければ決まらない。それを決めるものが観客と場のインターアクションである。観客が場のあり方を未来の方からガイドするのである。場のアトラクターは一般的にストレンジ・アトラクターであり、その内部に様々な「秩序」ばかりでなく、様々な「無秩序」も包摂しているために、どのようなシナリオに対しても即興的に対応できるのである。 

【関係子】
生命システムは絶えず不確定な変化をする環境のなかで生きていかなければなりません。そのためには生命システムが環境のなかで何らかの積極的な活動をする必要があります。どのような活動がふさわしいかは、そのときのシステムの状態と環境の状態とによって変わります。一般に環境は複雑で、その変化は規定できません。そのためにすべての操作情報(この場合はフィードフォーワード制御に用いる情報)をあらかじめ用意しておくことはできません。そして状況に応じて適切な操作情報を自己組織する必要があります。
 一般に場の情報は、環境、システム、関係子という順に上から下へと流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子に伝え、そして関係子群の情報生成によって、関係子の状態が下から上へと逆行する状態で運ばれ、全体として情報の循環ループが形成されます。このように循環する情報は、関係子をシステムのなかで位置づけるばかりでなく、また環境のなかでも位置づける働きをします。
これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素のとの関係、そして要素と要素との関係だけを論じてきましたが、環境とシステム、そして環境と要素との関係を、意味的な面を含めて議論するために本当に必要な方法をもっていませんでした。今後は環境の複雑さを前提として、環境、システム、要素の三者の関係を取り扱うことのできる科学をつくることも含めて、環境から関係子である人間に送られてくる場の情報を読み取ることが、ますます重要になってくるでしょう。

さてジジェクの引用に戻る。

【ストレンジ・アトラクターと対象a
さらにここで、「正常な」アトラクター(混乱したシステムが指向すると考えられる均衡状態あるいは規則的振動)と「奇妙な」アトラクターとの対立を、快感原則が必死に向かう均衡状態と、享楽を具現化しているフロイト的な<物自体>との対立に重ね合わせてみたくなる。
フロイトのいう<物自体>とは、心的装置の正常な機能を妨害し、それが均衡に達するのを阻止する、一種の「宿命的アトラクター」ではなかろうか。「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの<対象a>の物理学的隠喩なのではなかろうか。<対象a>は純粋な形であるというジャック=アラン・ミレールのテーゼが、ここでも確証される。それはわれわれをカオス的振動へと引き寄せるアトラクターの形である。
カオス理論の優れた点は、そのおかげでわれわれはカオスの形そのものを見ることができる、すなわちふつうは形のない無秩序にしか見えないところに一つのパターンが見えてくるということである。

ラカンの<対象a>、あるいは<欲動>については、次のリンクを参照のこと→「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))

つまりgoalaimの相違であり、欲動、あるいは享楽はaimに係わる。上記のリンクから、一部、再掲しよう。
 フロイトは欲動のgoalaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。(ミレール)

終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(ジジェク)


【まとめ】
こうして「秩序」と「カオス」という伝統的な対立は棚上げされる。株式の変動や伝染病の発生から渦巻きの形成や木の枝の配置にいたるまで、制御不能なカオスと見えたものが、ある一定の規則に従っているものだと見なされる。カオスは「アトラクター」によって統御されているのだ。重要なのは「カオスの背後に秩序を探る」ことではなく、むしろカオスそのものの、つまりその不規則な散乱の形、パターンを探ることである。一定不変の法則(原因と結果の不変な繋がりなど)にもっぱら注目した「伝統的」科学とは裏腹に、これらのカオス理論は、未来の「<現実界>の科学」の、すなわち象徴的自動人形とは反対の偶然性を生み出すような規則を作り上げる科学の、最初の青写真を提供しているのである。現代科学の真の「パラダイム・シフト」は、古臭い「機械論的」世界観に取って代わる新しい全体論的・有機的アプローチの確立をめざすと自称する人びとが素粒子物理学と東洋神秘主義の「綜合」と称している訳の分からぬ論文などにではなく、カオス理論にこそ見出されるといってよい。

最後に、浅田彰が「カオスとは何か」をめぐって「器官なき身体」と関連づけて述べている箇所を抜書きしてみよう『批評空間』1996ー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)。なお、下記の引用は、その前段であるこの討論会での問題設定を読むと、よりわかりやすい。ドゥルーズの「超越論的経験論」、あるいは過激な独我論 (浅田彰)

……
(浅田)その見方はよくわかります。ただ、身体においてカオスは語れないと言われるけれど、『意味の論理学』ではたとえばアルトーの身体の深層―――「器官なき身体」というものが、キャロルの言語の表層に最終的に優越する形で出てくるわけでしょう。その辺はいったいどうなるのか。
もしかするとカオスの定義が違うのかもしれませんね。前田さんは丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念のことを意識しすぎておられるのではないか。言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそんなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオスーーー少なくとも内在的平面においてとらえられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在するわけでしょう。
(前田)『意味の論理学』のアルトーの章は、深層の言語の可能性についての章ですね。この本は言語、意味、出来事の「表層」としての形式性に対して、身体的なものの「深層」としての混合性を強調しているにすぎません。この二分法はやがて変更されます。事物、身体は果てのない液体の混合ではなく、言語に対して自己自身の機械上のアレンジメントを呈示します。浅田さんは事物、身体の潜在的次元での微分の運動をカオスと言われるのですね。
(浅田)「器官なき身体」をカオスと呼べる限りでそこにもカオスがあると言っていいんじゃないですか。
単純化するために、たとえばカオスを科学の準拠平面ないし座標空間で切り取ったとして、そこには潜在的なものはポテンシャルとして現れ、ポテンシャルがいろんな道をとって顕在化されることになる。古典的には、ライプニッツ的な形で、最適なものが選ばれてくるわけですね。しかし、現代的には、プリゴジン的な形で、最初の多様な揺らぎの中からたまたまひとつの方向が増幅されて出てきて、さらに分岐を重ねながら展開していくという形もあるわけです。ちなみに、潜在的なものを考えることは必然的に最適なものの勝利につながるので、それに対して可能的なものを復権しなければならない、ということはぼくには理解できない。
プリゴジン的な形で言えば、分化のコースはまったくコンティジェントであっていいわけですからね。ちなみに、プリゴジンはベルグソンに影響を受けているし、彼の共著者のスタンジェールがドゥルーズに近いということも、強調しておくべき事実です。
こういう過程は、もちろん、物理学的な乱流のモデルにせよ、生物学的な形態形成のモデルにせよ、いたるところに見いだすことができる。身体と言語についても、赤ん坊がなんとなくアーとかオーとか言っている時に、それが大人たちに聞き取られて反復されることで、アとオという母音への引き込みが起こって、最終的に音素のシステムが形成されていくとか、そういうことは考えるわけでしょう。

すこし「カオス」をめぐる記述からは外れるが、浅田氏によって、可能的なもの、可能世界論批判が書かれているので、この同じ討論で、のちほど柄谷行人がコメントしている部分も引用しておく。可能世界についての覚書

(柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどい ない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・ プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解され ていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。 可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。


※なお、ジジェクによる「器官なき身体」をめぐる見解は、ここに詳しい。ラカンとドゥルーズ  (ジジェク)、あるいはファルス、対象a,ララング