Against the standard feminist critiques of Freud's “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan's radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001, p. 292).(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)
あるいは、Paul Verhaeghe――おそらく「ポール・ヴェルハーゲ」と読むのだろう、ベルギーのラカン派精神分析医であるーーの、『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』(1998)にはこうある。
……フロイトが女性にとって重要だと信じたペニス羨望――つまり自身のファルスを持ちたいと推定された欲望――は、フロイト自身の男性的、あるいはその結果としての男根主義的な想像力の産物のよるところが多いように見える。今までの経験で私が出会った有名なペニス羨望は男性のなかにしかない。その拠って来たるところは、己れのペニスの不十分さへのたえまない怖れと他の男のペニスに比してのたえまない想像的比較による。男の男根主義に対応する女性の主眼は、関係性にある。(私意訳)
the penis envy that Freud believed to be important in girls—the presumed desire of girls to have their own phallus—seems more a product of his own male, and consequently phallocentric, imagination. The only place where I have ever found this famous penis envy up to now is in men. It is based on their constant fear of inadequacy and their continual imaginary comparisons with other men's penises. The female counterpart of this male phallocentrism is a focus on relationships.
ポール・ヴェルハーゲはここではフロイト批判(吟味)をしているが、わたくしがいくつか読んだ論文のほとんどは、フロイトへの絶対的な信頼の色調を帯びている。
As far as Lacan is concerned, I find it rather difficult to answer the question of whether he was a structuralist or not. In a discussion of that sort, everything depends on the definition one adheres to. Nevertheless, one thing is very clear to me: Freud was not a structuralist and, if Lacan is the only postfreudian who lifted psychoanalytic theory to another and higher level, then this Aufhebung, elevation in Hegel's sense, has everything to do with Lacanian structuralism and formalism. The rest of the postfreudians stayed behind Freud, even returning very often to the level of the prefreudians.
It is obvious that Freud was fundamentally innovative. He operated on his own a shift towards a new paradigm in the study of mankind. He was so fundamentally innovative that it would seem almost impossible to go any further.
というわけで、ここではとりあえず、ペニス羨望をめぐって比較的言及の多い藤田博史の「セミネール断章 2012年2月11日講義より」からのおそらく”標準的な”説明を並べておく。そのうち、フロイトやらラカンの資料を並べた記事を気が向いたら書くつもりだが、そのための資料として。
-φ は(……)「ファルスの欠如の心像」であり「想像的ファルスの欠如」を意味しています。これはラカンのいう「鏡像段階」に生じるイメージであって、まだシニフィアンではありません。ちなみに鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の期間、つまり6ヶ月目から数えて1年間という意味ですが、その間に子が鏡に映る自分の姿を見て情動的に反応する時期に相当します。少し説明を加えると(図を描く- 図1)「母」「子」の関係がある。ここで母は既に言語の世界に取り込まれています。母は子に対して欲望を注いでいます。言い換えるなら、母は子に欲望のベクトルを向けている(図2)。フロイトの用語を用いるなら、それはペニス羨望(ペニスナイト)の延長上にあります。ペニス羨望とは、自分が持っていないペニスに対する憧れです。欲望ではない。ペニス欲望ではないのです。欲望 Wunsch と言わずに Neid と表現したところに、フロイトの用語に対する繊細さが垣間見えます。母の欲望は、自分の場所に欠如しているもの―――欠如しているものを「欠」と書いておきましょう(図3)ーーー欠けているものの代わりに、これを自分のここにもってくれば、完全なものになるでしょう。これがペニス羨望です。
これについて子の立場から見ると、母の欲望に応える形で、自分が母のペニスであろうとする。そうすると、子供にどんな欲望が生まれるか。お返し(図を描く-図4)。これはどんな欲望かと言えば、母の望んでいる想像的なペニスであろうとする欲望。これを désir d'être phallus デジール・デートル・ファルス。母の想像的なファルスであろうとする欲望、désir d'être phallus 。こういう欲望なのです。そうするとここに欲望の交流が生じる。つまり、母は自分の場所に欠けているものとして子を欲望する、その欲望に応じるように、母の期待に応えるために、子は母の場所に欠如しているファルスであろうとする。その欲望を更に母が欲望する、その欲望を子が欲望する、その欲望を母が欲望する、その欲望を子が欲望する、、、これが欲望の「交流」です。この「交流」という用語は、人と人との関係を表わすと同時に、情念という電流が交互にめまぐるしく入れ替わるという意味を含んでいます。鏡像段階に照らして考えてみます。子の目線から見ると、ここへ鏡があると思ってください、子とその鏡像との関係、実はそれは自分自身の姿なのですが、鏡像の位置にあるのが -φ 。それに対峙しているのが φ 。これには ー moins モワン がつきません。そこを占めるのは自分自身ですから、ここは φ petit phi プチ・フィです。そして -φ と φ がめまぐるしく交錯する、このような関係性の境域をラカンは imaginaire イマジネールと呼びます。別の言い方をすれば鏡像的境域です。通常「想像界」と訳されています。
いずれにせよ、わたくしは二人の息子と一人の娘をもったが、幼い子供たちに接する機会が多ければ、おそらくほとんどの親は、小児たちの「ソーセージ」と「がま口」への強い興味を否定しないのではないか。
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910 フロイト著作集3 P116)
標準的なペニス羨望をめぐる叙述をもういくらか附記しよう。
フロイトの殆ど最後の論文である、『終りのある分析と終りのない分析』で、フロイトは分析が乗り越えることのできない限界について述べている。「われわれは分析治療を施しているうちに陰茎願望と男性的抗議にまで達すれば、それですべての心理的な地層を貫いていわば人工の加わらない『自然のままの岩石』に突き当たったので、仕事はこれで終りであるという印象をしばしばもつものである。(……)
陰茎願望とは女性が男性性器を所有したいという陽性の志向に由来するものであり、ラカン的に言えばファリュスを得ようとすることである。男性的抗議とは、男性が、他の男性にたいして受身的、あるいは女性的立場をとらされること、つまりペニスを失うこと、についての反抗である。フロイトはこの二つを去勢コンプレックスと名づけている。
女性がファリュスを得ようとするのは誰にたいしてであろう。それは当然ファリュスを持っている者、去勢されていない者である。つまりトーテムの父親である。男性が他の男性にたいして受け身になることについては、陰性エディプスの問題がからんでくるものであるが、男性が受け身になる相手の男性とは、やはりあの愛される、『トーテムとタブー』の、殺された父の姿をとった男性である。それゆえフロイトが持ちだす分析の限界とはエディプスの限界であり、「フロイトにおいて何かが決して分析されたことがないということ」の限界なのである。(向井雅明『ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析』東京精神分析サークル)
ここにある「陰茎願望」、つまりペニス羨望と、男性的抗議は次の如し。
……二つの問題というのは両性の相違に関連している。すなわち、その一つは男性に特徴的なことであり、他の一つは女性に特徴的なことである。そしてこの二つはその内容の相違にもかかわらず明らかに対応しあった問題である。両性に共通してあるものが、性別の相違によって異なった表現形をとって現われているのである。
この互いに対応しあっている問題というのは、女性にとっては陰茎羨望Penisneidーー男性性器を所有したいという陽性の志向ーーであり、男性にとっては、他の男性にたいして彼が受身的、あるいは女性的立場をとらわれることにたいするは反応である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 著作集6 P.410)
ペニス羨望についてはこうもある。
正常のあり方では、その(男性)コンプレクスの大部分は変化して女性としての特質を構成するために寄与するものである。すなわち、鎮めることのできなかった陰茎が欲しいという願望は、子供が欲しいという願望となり、やがて陰茎を有する夫が欲しいという願望になるはずである。(同 P.411)
女性にもファルス体制があり、去勢コンプレックスが存在する。
少女の去勢コンプレックスにおいては、少女は自分にペニスがないという事実を性別の特徴としては理解せず、以前は同じように大きなものをもっていたが、去勢されてそれを失ったのだと自分に説明する。また、成人女性には男性のような完全な性器がそなわっていると想定する。
このように、少年が去勢が実行される可能性を恐れるのに対して、少女はすでに去勢が実行されたことを事実として受け入れるという本質的な違いがある。少女のエディプス・コンプレックスは少年のそれよりはるかに単純であり、自分を母親の位置におき、父親に対して女性的な姿勢を示すという範囲を超えない。
少女はペニスをあきらめ、いわば象徴の方程式にしたがって、ペニスへの願望から赤子への願望に移行する(例えば、父親から贈り物として赤子をもらいたい、父親のために赤子を産みたい等)=<ペニス羨望の換喩>
しかし、このような願望が満たされることはないため、エディプス・コンプレックスはゆっくりと消滅していくような印象をうけるが、ペニス羨望は無意識のうちにしっかりと根を下ろす。
男性にとっての指と女性にとっての指は少し意味合いが違うのですが、その元になっているのはやはりペニスです。ただフェティシズムの基本というのは、ペニ スの代わりのものを他のペニスの近辺の部位に求める、あるいはそれに類似の部位に求める。つまり代替物を求めていくのがフェティシズムの基本構造です。
一方女性が指を好き、例えば男性の血管の浮いた指を隙というような表現をしたときは、むしろダイレクトなかたちでのペニスナイトです。ペニスを求める願望です。
ペニスを求める願望というのは、そのままその延長上に子供を求める願望につながっていくのですが、同じペニスであっても、ペニスの置換物なのかあるいはペニスそのものかによって違うようです。
特に女性が自分の手を見てうっとりしているというのは、本来付いていないペニスがそこについていることを発見するわけであって、ペニスを勝ち得た女性の心の中に沸き起こってくる特有の万能間というのか、充実感というのか、それが表現されてます。
その時にアナロジーから言うと、指のかたちと爪の場所を見てみると、まさにペニスと亀頭の部分に相当する。亀頭の部分は色が違う。ひょっとしたら赤く、ある場合によっては光沢を放っているかもしれないということを考えると、われわれは知らないうちに爪の手入れをしているようでいて実は生殖器の手入れをしている、ということは十分ありうるわけです。
鼻は意識的にせよ無意識的にせよ、男性器の「隠喩」とか「換喩」とか、あるいは「象徴」として使われることが多い。
「鼻筋が通る」ということはどういうことかというと、これはとりもなおさず」長いペニスになる」、つまり「興奮した状態のペニスになる」ということです。
いずれにせよ「鼻」は、ひとつのフェティシズムの対象です。「フェティシズム」とは何かというと、本来性器に向かう欲望が、直接性器ではなく性器の代替物によって置き換わっている状態です。
その性器の代理物として用いられるのが「鼻」であり、その他、太腿、ふくらはぎ、足首、脚、靴、靴のかかとのヒールとか、そういうものがフェティシズムの対象として挙げられます。
最後に、ジジェクの「ペニス羨望」をめぐる叙述をもうひとつ、『LESS THAN NOTHING』(2012)から英文のまま資料として抜き出しておこう。ここには、ミレールのラカン解釈を引きつつ、フェミニスト寄りの主張がなされている。《The lesson from all this is a surprisingly feminist one: being a mother is not the ultimate destiny or path of fulfillment for a woman, but a secondary substitute》
Far from being a symbol of power and fertility, the phallic signifier thus gives body to the structural fault of the system; that is, it stands for the point at which a fault can no longer be recast as a positive feature, the point of “What do you want? No system is without faults!” the point at which castration is inscribed into a system. This is why it has to be covered up: its disclosure equals the disclosure of castration. This covering‐up has “two essential recourses: the wall—which is the phobic solution—or the veil—which is the fetishistic solution.”27 We can even take a step further and conceive the veil as a painted wall, like the Berlin Wall, which was painted on its Western side, or the wall that separates the (very diminished and fragmented) West Bank from Israel proper. The dream that underlies this politics of “painting the wall” is best illustrated by a wall that separates a Jewish settler's town from the Palestinian town on a nearby hill somewhere in the West Bank. The Israeli side of the wall is painted with the image of the countryside beyond the wall—but minus the Palestinian town. Is this not ethnic cleansing at its purest, imagining the outside beyond the wall as it should be, empty, virginal, waiting to be settled? Who is devouring whom here? Afraid of being devoured by the Arabs surrounding it, Israel is effectively gradually devouring the West Bank.28
And the same goes for the so‐called “non‐castrated” omnipotent devouring mother: apropos the real mother, Lacan noted that “not only is there an unsatisfied mother but also an all‐powerful one. And the terrifying aspect of this figure of the Lacanian mother is that she is all‐powerful and unsatisfied at the same time.”29 Therein resides the paradox: the more “omnipotent” a mother appears, the more unsatisfied (which means: lacking) she is: “The Lacanian mother corresponds to the formula quaerens quem devoret: she looks for someone to devour, and so Lacan presents her then as the crocodile, the subject with the open mouth.”30 This devouring mother does not respond (to the child's demand for a sign of love), and it is as such that she appears omnipotent: “Since the mother does not respond … she is transformed into the real mother, that is to say, into power … if the Other does not respond, he is transformed into a devouring power.”31
The lesson from all this is a surprisingly feminist one: being a mother is not the ultimate destiny or path of fulfillment for a woman, but a secondary substitute. Being‐a‐mother makes a woman “the one who has,” it obfuscates her lack, but behind the mother there is always a Medea; this is always in the order of the possible. And even if the mother is exemplary, the child is only a substitute, to such a point that one must assume the question which is presented here: is maternity the only path or the privileged path of the realization of the female? … Lacan surely had the idea that maternity is not the path, it is a metaphorical part for the woman, to the point that I think that the ethics of psychoanalysis cannot really impose this ideal that is more on the side of substitution, even for Freud himself.32
The “good” mother fills in her lack with a child‐fetish; the “evil” devouring mother fills it in with her phobic‐terrifying figure—again, two modes of obfuscating the void that is (feminine) subjectivity.33
But this description opens up the space for a standard reproach to the Lacanian notions of the phallus and castration, which is that they involve an ahistorical short‐circuit: Lacan directly links the limitation of human existence as such to a particular threat (that of castration) which relies on a specific patriarchal gender constellation. The next move is usually to try to get rid of the idea of castration—this “ridiculous” Freudian notion—by claiming that the threat of castration is, at best, just a local expression of the global limitation of the human condition, which is that of human finitude, experienced in a whole series of constraints (the existence of other people who limit our freedom, our mortality, and, also, the necessity of “choosing one's sex”). This move from castration to an anxiety grounded in the finitude of the human condition is, of course, the standard existential‐philosophical move of “saving” Freud by getting rid of the embarrassing topic of castration and penis envy (“who can take this seriously today?”). Psychoanalysis is thus redeemed, magically transformed into a respectable academic discipline that deals with how suffering human subjects cope with the anxieties of finitude. The (in)famous advice given to Freud by Jung as their boat was approaching the US coast in 1912—that Freud should leave out or at least limit his emphasis on sexuality, in order to render psychoanalysis more acceptable to the American medical establishment—is resuscitated here.
27 Miller, “Phallus and Perversion,” p. 61.
28 It would be appropriate if the Zionists who want to annex the West Bank were to remember passages from the Old Testament like the following: “Do not oppress an alien; you yourselves know how it feels to be aliens, because you were aliens in Egypt” (Exodus 23:9); “When an alien lives with you in your land, do not ill‐treat him. The alien living with you must be treated as one of your native‐born. Love him as yourself, for you were aliens in Egypt” (Leviticus 19:33–4).
29 Miller, “Phallus and Perversion,” p. 23.
30 Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,” lacanian ink 33 (Spring 2009), p. 19.
31 Ibid., p. 28.
32 Ibid., p. 31.
33 So is there a vagina with teeth? There is, of course, and it is called virginity—the point of losing virginity is precisely that the vaginal teeth get broken.