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2013年12月29日日曜日

遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえ

ひさしぶりにホースで庭の水撒きをする。乾季がはじまって二ヶ月近くたち、喉を枯らした土壌が恵みの水をたちどころに吸い込んで安堵の吐息のように迸らせるエロスの香りに一瞬くらくらする。窒素や尿素などの臭気の渾然としたかすかに糞尿に近いにおいに包み込まれ懐かしい大地に吸い込まれるような感覚。

と、土の匂のエロスとしたが、じつは雨が降りはじめたときの埃の匂、あるいはアスファルトが濡れる匂だって似たような悦びを覚えることがある。

《小雨が降り出して埃の香いがする》(西脇順三郎『第三の神話』)

《ずっとわたしは待っていた。/わずかに濡れた/アスファルトの、この/夏の匂いを、/たくさんをねがったわけではない。/ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。/奇跡はやってきた。/ひびわれた土くれの、/石の呻きのかなたから。》(ダヴィデ 須賀敦子訳)

「一瞬よりはいくらか長く続く間」(大江健三郎)の至福の感覚というわけだ。

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」手塚富雄訳)

エロスやタナトスなら思想家の言葉より詩人や小説家の言葉を信用したくなるほうだ(上の文はもちろん詩人としてのニーチェだ)。たとえば、つるはしをふるい大地と性交する秋幸のほうがいっそう肝腎なことを教えてくれる気がする。

自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』)

故郷の小さな家の庭で夏の日に麦藁帽子をかぶった少年が水撒きの途中で振り向いた写真が遺っている。あの時も同じようなにおいが立ち昇っていたはずだ。半ズボンからふっくらした太腿を晒した十歳前後のいっけん温室育ちともみえる少年。日焼けでやや赤らみ、なぜかはにかんだ顔は、だが少年の無邪気さはなく、少年が六歳のとき精神分裂病とも診断された母親の過敏な神経の起伏に右往左往する鬱屈が垣間みえる。おそらく母が写真機を手にしたのだろう、そんな鬱屈のなかの束の間の安堵の表情。蝉しぐれが聞こえてきそうでもあり、うしろには稀なほどの大きさの向日葵が写っている。その向日葵の種は小学生向けの月刊の雑誌の附録なのを今でも強く覚えている。あまりにも見事な姿なので庭に咲いた花からの種を乾かし保存したものを翌年も植えて楽しみにして待っていたのだが、今度は平凡な大きさの花が開き落胆した。

土のかおりを嗅ぐことにより、渥美半島が南西にのびる根元にある海に近い故郷の町、その旧市街の城跡近くのいまではほとんど老人たちしか見ることができない地域にある無人となった実家での記憶が重なり(余談だが、「中央公論」12月号『壊死する地方都市』における《2040年、地方消滅》とは2010年代の今このとき移民政策を抜本的に変えねば決して杞憂ではないだろう)、黒田夏子の小説の冒頭近くにある魅されてやまない表現、《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》が浮かび上がることにもなる。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

今の庭はかなり広くホースで水撒きするのはたいへんなので、庭土を掘ってポリエチレン製のパイプを通してところどころ撒水用のパイプを垂直を立たせその頭にクルクルまわるノズルがつけてある。水は深く掘った井戸水を電力のモーターで吸いだす仕組みだ。ところがこのところそのモーターが劣化したのか、あるいはまた二キロほど北の工業団地にこの国一二を誇るらしい麦酒工場ができて地下水が枯渇しつつあるのかどうかーーこの工場では日本の著名な麦酒会社が当国向けの麦酒を委託生産をもしていると聞いたことがあるーー、いやそれ以外の別の理由なのかは窺いしれないが、庭隅までは水が到底とどかない。

今年のはじめ塀際に二百本あまりの灌木を植え替えた。以前は玉砂利で敷いた楕円形の散歩道に沿って膝下の高さの灌木が植え込まれていたのだが、庭の中央にある巨木の根がその植え込みの下まで這い伸びてところどころ持ち上がってしまい、不揃いで見苦しかったのを結局全部引っこ抜いて移したのだが、その香り高い花が咲く庭隅の月橘〔げっきつ〕の樹までは十分に届いていないことに気づいて、そのための散水ホースによる水撒きである。

学校から帰ってきた次男が珍しがって自分でもやりたいと乞う。妻も愉快そうに息子がホースの水を斜め上方にしてはしゃぐ様子を眺めている。この二ヶ月のあいだに貰った子犬三匹がそのまわりを駆け回る。古くからいる大型のフーコック犬(当国の南にある富国島特産のもともと狂暴で名高い犬種)だけが、どこふく風の佇まいで、それでもしばらくは連中の騒擾を物憂そうに眺めまわしていたが、結局ピロティー状になった空間にまだ老いるには早すぎるはずの身を無関心そうに横たえている。

庭仕事の手伝いのおばさんが、この数日病を得て休んでおり、落葉が散乱しているのを妻が掃き集めはじめる。そうすれば今度は焚火だ。煙が上方まで勢いよくほぼまっすぐに立ち昇ったあと、北西からの風に乗って家屋のほうにたなびき漂う、白い棚を空中にかさねて流れるかのようだ。

故郷の家は母が病んでから母方の祖父母の家の裏手に建てて移り住んだものだが、祖父母の家の裏庭で、つまりふたつの家の合い間でしばしば焚火をした。揃って体格のいい美丈夫の叔父たちの一人がその火のなかにさつまいもを潜りこませ焼き芋をつくる。焦げてぱりぱりになった表皮をまだ熱いうちに指先で捲り、香ばしい匂いを振り撒く黄金色の肉にかぶりつく。宵闇がせまって祖父母や他の叔父たちや母も焚火のまわりを囲みだす。焚火のにおいもよいものだ、火と煙がゆらめくのを眺めるのと同じくらい。勤め先が遠くなった父はいつも姿がみえず少年は完全な叔父っ子だった。通いのお手伝いさんも、皺としみですっかり覆われているーーそのこと自体に徹底したものの美しさもあるーー渋紙色の横顔を覗かせる。この自転車で牛川といういうと村名がついた農村から通う「かあ(川)ばあちゃん」は、精力増強のためといって、梅干壺のようなもののなかに蚕のような白い幼虫を飼い、ときおり抓みだして口にいれる習慣があった。

火は人を呼ぶ。盛大な焚き火は人々を集める。盛大な焚き火は人々を集める。人々は火を囲んで焔が一時輝き、思い切り背伸びするのをみつめる。かと思うと、焔は身をかがめて暗くなり、いっとき薪にまつわって、はらはらさせる。火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ。

私は思い出す、戦後の大阪駅前を。敗戦後何年か、夏でさえ、南側にはいつ行っても焚き火があって人々が群がり、待ち合わせ場所にも使われていた。私も長い時間をその焚き火の側で過ごした記憶がある。時代の過酷さを忘れて人々はいっとき過去を思い出す表情になっていた。

岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。

しかし、他の何よりも思い出を誘うのは火、ことに蝋燭の火だ。間違いない。「ロウソクは一本でいい。その淡い淡い光こそ/ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう/亡霊たちの来る時にはーー愛の亡霊が。/……今宵の部屋は/あまり明るくてはいけない。深い夢の心地/すべてを受け入れる気持、淡い光――/この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る/亡霊たちを招くためにーー愛の亡霊を」(カヴァフィス)。終生独身のこの詩人の書斎の照明は最後まで蝋燭一本だったという。特にお気に入りの友が来た時は二本、稀には三本を灯したとか。(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)

火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ、とある。匂いはいっそうそうだ。もちろんひとによってそれぞれ異なるだろうが。

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

中井久夫には別に「匂いの記号論」序説ともいうべき素晴らしい文章がある(後引用)。この感覚を表現する文章家は、小説家のなかでも珍しい。その感覚を濃厚に喚起してくれるのは、わたくしの限られた読書範囲では、古井由吉や金井美恵子のいくつかぐらいだ、もちろん嗅覚と触覚の綯い交ぜになったエロス、その眩暈を与えてくれる谷崎潤一郎はいるし(参照:隠れた詩人たち)、冒頭近くにあげた中上健次もいる。だが多くの小説家たちでさえ視覚偏重、頭脳のひとであり、始原のエロス感覚から遠く離れているように感じられてしまう。詩人たち? たとえば西脇順三郎はけっして視覚の人ではないだろう、聴覚の、嗅覚の、芸術家だ。《タイフーンの吹いている朝/近所の店へ行って/あの黄色い外国製の鉛筆を買った/扇のように軽い鉛筆だ/あのやわらかい木/けずった木屑を燃やすと/バラモンのにおいがする/門をとじて思うのだ/明朝はもう秋だ(「秋Ⅱ」『近代の寓話』)

古井由吉の文章には鋭敏な聴覚とともに男女のにおいが立ちのぼる。

・石をおろしてひときわ深い息をついたとき、覚えのある甘い匂いが、怒った時も潤んだ時も同じ興奮した佐枝の匂いが、戸の内でもほのかにふくらんだ。

・佐枝が寄ってきて、背中の荷物を上手におろさせるとすばやく炉のほうへ押しやり、火照った頬を肩に埋めた。声が潤んで昨夜と同じ匂いをふくらませた。(古井由吉『聖』)
その黙んまりの時期に、家に居ればどこか半端な、貧乏ゆすりでもしそうな恰好で坐りこんでいたのが、夜中にもう眠っている妻の寝床にくる。声をかけずに呻くような息をもらして押し入ってくるので、外で人にひややかにされるそのかわりに家で求めるのだろう、とされるにまかせていると、よけいにせかせかと抱くからだから、妙なにおいが滴るようになる。自分も女のことだから、よそのなごりかと疑ったことはある。しかし同棲に入る前からの、覚えがだんだんに返って、怯えのにおいだったと気がついた。なにかむずかしいことに追いつめられるたびに、そうなった。世間への怯えを女の内へそそごうとしている。(古井由吉「枯木の林」)

あるいは金井美恵子であるならば、エロスではなくタナトスのにおいを醸しだす表現が豊富だ。

腐敗した水のにおいだけではなく、路地の家々の壁には小便のにおいがしみついていて、粘り気のある有機質のにおいに混じったきな臭いアンモニアのにおいが充満してもいるのだ。腐敗した牛乳の匂いに似た、皮膚の表面から分泌する、汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおいが建物の中庭に咲いているジャスミンと薔薇のにおいと混じりあり、甘ったるい吐き気のする睡気になって私の身体を包囲する。(金井美恵子『沈む街』)
(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおいのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)

いまエロスやらタナトスやらと書いたが、においにおいては、エロスとタナトスは限りなく近づくと書く中井久夫がいる。

……実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収ーー「トラウマを飼い馴らす音楽」より)

エロスとタナトスについては、いろいろな見解がある。だがいっけんそう思われるようには対立した概念ではない、というのが、ドゥルーズやジジェクらの見解だが、ここでは凡庸にメビウスの輪のようなものだ、とだけしておこう。

フロイトは、《家族が構成されたことと、人間の性欲が、もはや一種の客のようなものーーつまり、突然あらわれるが、いったん姿を消すとふたたび長いあいだまったく音信がないといったものーーとして登場するのではなく、いわば継続的な間借人として定着したことのあいだには関連がある》(「文化への不満」)としている。そしてこの文に注が付され、次のように書かれる。

生理機能としての性交の周期性はそのまま残ったけれども、心理的な意味での性欲がそれから受ける影響は、かえって逆になってしまった。この変化の最大の原因は、月経現象が男性の心理にあたえる影響の原動力だった嗅覚刺激の衰退である。すなわち、嗅覚刺激が果たしていた役割は視覚による興奮にとってかわられたのであって、視覚による興奮は間歇的性質の嗅覚刺激とは違い、一種の恒久的作用を維持することができたのだ。月経がタブーとされるようになったのは、すでに克服されてしまった発展段階の再登場防止の意味を持つこの「器官性抑圧」が原因であって、これ以外の動機はすべて二次的なものにすぎないように思われる。(……)古臭くなった文化時期の神々が魔神〔デーモン〕になるのも、これと同じ現象の別の次元での繰返しである。けれども嗅覚刺激の衰退という現象自体、人間が直立歩行する決心をつけて大地と訣別し、かくて、これまで隠蔽されていた生殖器が丸見えで保護を必要とするものになり、したがって羞恥心が生まれたことの結果である。こうしてみると、人類の呪いとなった文化というもののそもそもの発端は、人類の直立歩行という現象だったといえるだろう。その後事態は、嗅覚刺激がもつ意味の低下および月経現象の無視、視覚刺激の優位、性器の露出、性的興奮の持続、家族の成立から人類文化の開幕というふうにつぎつぎと進んでいったのだ。これはもちろん理論上の仮説にすぎないが、人間に近い動物の生活状況を手がかりになお詳細に検討してみる値打ちは充分にある。(フロイト『文化への不満』)

冒頭近くにあげたホルクハイマー&アドルノが書くように匂いをまさぐることの下等なものへの憧れ、《自分を失い他人と同化しようとする衝動》とは、エロス、享楽(ジュイサンス)の感覚である。究極のエロスとは、原初の共生への回帰、<母>との融合により自己がなくなってしまう実現しがたい衝動に他ならない。

さて、<あなた>が《嗅覚はよくわからない、と首をかしげられる方は視覚のほうなら納得されるだろう》でしかない、すなわち文明化され過ぎた人なのかのかどうかは、次の文をどう感じるかで、いくらか判定できるだろう。

最初の記憶のひとつは花の匂いである。私の生れた家の線路を越すと急な坂の両側にニセアカシアの並木がつづいていた。聖心女学院の通学路である。私の最初の匂いは、五月のたわわな白い花のすこしただれたかおりであった。それが三歳の折の引っ越しの後は、レンゲの花の、いくらか学童のひなたくささのまじる甘美なにおいになった。

家が建て込むにつれてレンゲは次第に私の家のあたりから影をひそめたが、家々がきそって花壇をつくるので、ことに三月下旬の初めごろの散歩は、次々にちがう花のかおりに祝われた祝祭となった。色彩も夕暮にはアネモネの赤が沈み、レンギョウの黄がはげしい自己主張をした。

青年時代の京都の生活は、腐葉土のかもしだす共通感覚、すなわち、いくばくかのキノコのかおりと焦げた落葉のにおいと色々の人や動物の体臭のごときものとを交え、さらに水の流れなくなってまだ乾かないうちの石づくりの流水溝の臭気を混ぜたうえで、冷気としめり気とをあたえてひんやりさせ、地を低くはわせたときの共通感覚と切り離すことができない。もっとも同じ京都とはいえ、嵐山のあたりは少しちがって、ある歯切れのよさがある。定家の晩年の歌にはそれを反映したものがあると私は思う。また西山の竹林の竹落葉には少しちがったさわやかさがあって私の好みではあるが、触発される思考の種類さえ京都の東部とは変わってしまう。

これに対して中年期の東京の私の記憶は、何よりもまず西郊の果樹の花のかおり、それも特に桃と梨の花の香と確実にむすびついている。蜜蜂の唸りが耳に聞こえるようだ。むろん、風の匂いは鉄道沿線によって少しずつ異なる。おそらく、その差異の基礎は、土のかおりのちがいであろう。国分寺崖線を境に土の匂いがはっきり異なって、私は、その南側のかおりの記憶のほうに親しみを感じる。国立、小平の家の庭の土と、調布上石原のあたりの土のかおりの差を感じないひとはあるまい。

立川段丘は地元で「ハケ」と呼ばれ、狛江から始まって、特に谷保のあたりでは立派な森になっている。樹種が多いのはむかしの洪水によって流れついたものの子孫だからであろう。ハケ下の小さな、今ではほとんど下水になっている流れが二千年前の多摩川である。川越からその北にかけてのさまざまな微高地の上に生えていた(今でもあるであろうか)樹々のつくる森とは、同じ腐葉土でも、かおりが決定的にちがう。秋にはハケの上の茂みにアケビが生った。珍しい樹種に気づいて驚くこともあった。私の住んだ団地の植栽はずいぶん各地から運んだらしく、ついてきて、頼まれないのに生えている植物を、日曜日ごとに同定してまわったら、六〇種を越えた。ハケの森の樹種はもっと多種だろう。

嗅覚はよくわからない、と首をかしげられる方は視覚のほうなら納得されるだろう。

まず中央線沿線の最初の印象は、長い水平の線が多いということだった。縦の線は短く、挿入されるだけである。これはたしかに譜面の与える印象に近い。京王線では、何よりもまず、葉を落とし尽した欅の樹がみごとな扇形を初冬の空に描いている。もっとも、分倍河原駅を出て多摩川を南西に越えると、匂いも視覚も一変する。小田急線は、多摩川を越えて読売ランドの南側の「多摩の横山」を背にした狭隘地を抜けると次第に匂いが変化して、京王線の西部のかおりに近づく。

もっとも、小田急線は長く、さまざまの文化を通過し、車窓の風の香もつぎつぎに変化する。本線が小田原に向かって大山を背に南下するところ、酒匂川が豊かな水量の布を盛大に流している、二宮尊徳の生家の東がわの、見えない海のかおりが、もうかすかに混じるのを感じさせるところに来るとほっとする。

塩味のまったくない空気は、どうも私を安心させないらしい。鎌倉の最初の印象は、“海辺にある比叡山”であった。ふとい杉の幹のあいだの砂が白かっただけではない。比叡の杉を主体とした腐葉土の匂いが、明らかに海辺の、それもほとんど瀬戸内海の夏の匂いでしかありえないものとまじるのが驚きのもとであった。もっとも、比叡山のかおりにも、杉とその落葉のかおりにまじって、琵琶湖の水の匂いが、なくてはならない要素である。この水の匂いゆえに、京都時代の私は、しばしば、滋賀県に出て屈託をいやした。比良山は、六甲山に似て、草いきれがうすく、それでいてわびともさびともちがう、淡いながらに何かがたしかにきまっているという共通感覚をさずけられるのが好きであった。好ましく思うひとたちとでなければ登りたくない山であった。

ふつうは「匂いの記号論」とよばれるであろうか、実はそれを問題にしたところの個人史の一部をここに終る。本稿もこれで終りである。近畿のひとには、神社の森ごとにちがうかおりを語ればいちばんわかってくださるであろう。(中井久夫「世界における索引と徴候」)