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2013年12月2日月曜日

「倒錯」批判の無邪気な無神論者

彼は(フェレンツィ)は正当にも、同性愛という名のもとに器質的にも心理的にも価値の等しくないさまざまな状態が、ただ同じようにインヴァージョンを症状をもっているからという理由で混同されていることを非難している。彼は少なくとも、自らを女性であると感じ、またそのように振舞う主体的同性色情と、まったくの男性であって、ただ女性の対象を同性のそれと取りちがえただけの対象的同性的同性色情者との二つの型をきびしく区別することを求めている。彼は前者が「性的中間者」であることを認め、後者はーーそれほどうまくいっていないがーー強迫神経症者だとしている。(フロイト『性欲論三篇』著作集5 人文書院 p17)

このフェレンツィの態度は、プルースト、あるいは『プルーストとシーニュ』のドゥルーズの態度でもあろう(参照:プルーストのトランスセクシュアリスム、あるいは同性愛をめぐる)。

実際、『マゾッホとサド』の冒頭でも、ドゥルーズは、《サディスム=マゾヒスムが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまった。すべてを始めからやりなおさねばならない》としている。

医学には、徴候群と徴候の区別がある。すなわち徴候とは、一つの疾患の特徴的な符牒であるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。サド=マゾヒスム的なる実体は、それじたいで一つの徴候群で、他には還元しがたい二系統に解離すべきものとは確信をもって主張しがたい。(『マゾッホとサド』)

そして書物の最後には、次のように書かれることになる。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。

①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。

以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)

古い訳なので、訳語にいささか気になるところがありはするが、今はそのままにしておく(たとえば⑨の「同一視」は今では「同一化」とすべきだろう、⑥の「幻影」は原著に当っているわけではないが、おそらく「幻想」か)。これを全面的に信用する必要はないのであって、おそらくもっとも異議のありうるのは、フロイトに直接的に反して書かれる⑨だろう。これはユーモア/イロニーを区別して語る箇所でもあるのだが、《われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない》とドゥルーズはしている。もしユーモアが超自我からのまなざしによるものでないなら、仮にアスペ的特徴とされる傍らの思考とユーモアを繋げてもよいのかもしれない。上ではなく脇にずれて自己を眺めるのだ。だが、わたくしはこのあたりはほとんど無案内である(参照:精神健康をあやうくすることに対する15の耐性(中井久夫))。

ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(フロイト「ユーモア」)

柄谷行人もフロイトの見解を踏襲しており、ドゥルーズの⑨の立場をとっていないのは、「ヒューモアとしての唯物論」の叙述から明らかだ、あるいは最近でも超自我と文化=文明化の問題」の叙述はそれに準ずる。

ーーと引用したが、いまサディスムとマゾヒスムの話をするつもりはない。

以下に書くのは、この『マゾッホとサド』で提出されているドゥルーズの「倒錯」概念も同じように扱わなければならないということだ。すくなくともフィレンツェが「同性愛」の二つの型をきびしく区別したように、一般に流通するラカンの「倒錯」概念とまったく同じものではないはずで、それを混同しないようにすべきだろう。あるいはまたかりに全く同じものであったにしろ、強調点がまったく異なるはずだ。それがドゥルーズ=蓮實重彦のいう戦略的倒錯の側面である。

いまのところドゥルーズの「倒錯」概念で、わたくしが最も好ましく注目するのは、死の欲動と関連させたマゾヒズムであり、あるいは「宙吊り」である。たとえば後者を松浦寿輝が次のように説明している。

「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(……)

「倒錯」とは、何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで、そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくり馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである。ひとことで、「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ。。(松浦寿輝『官能の哲学』)

ドゥルーズから直接抜き出せば、次の箇所だ。

期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態において生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それのみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれている対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能にする条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してかかるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)

このマゾヒスム的宙吊りを中井久夫ならこう書く。

英国人はのんびりしているという人がいれば大まちがいである。ペイシェンスを発明する国、釣りの好きな国民がどうして悠長でありえよう。これらはほとんどマゾヒスト的に焦りをいじめ殺すものである。(……)

おまえは待てるか。いつでもとはいわないが、私はいつの間にか待つのが好きになった。「実現してしまえばそれだけのことである」とさえ思うようになった。駅や港や空港は私の好きな場所であり、そこの人たちはたっぷり私を楽しませてくれる。このエッセイも、その産物でなくもなかろう。(中井久夫「待つ文化、待たせる文化」『記憶の肖像』所収)

ドゥルーズの「宙吊り」はクンデラのいう「不確実性の知恵」にも繋がる。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)

いずれにせよ、齟齬があるなら、ドゥルーズという固有名による「倒錯」概念を批判(吟味)すべきだろう。ツイッターでの発話を垣間見るに、ラカン的な倒錯とドゥルーズ的な倒錯を混同するかのようにして、しきりに批判の言葉を呟いている人物がいるが、その主張の正否は別にして、短文で自らの思い込みをくり返すのは児戯に類する。ツイッターでの発話を読んでいて苛立つのは、そういう手合いが多いせいだ。「私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」」(蓮實重彦デリダ論)たちの跳梁跋扈。あれでは自らの思い込みによる「概念」をCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させているにすぎないように見える。



◆『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)

柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。

ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えることなんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。

浅田彰)だから、たとえばデカルトの「コギト」(われ思う)というのが概念の創造なんですね。

蓮實重彦)まさにそのとおりだと思うけれども、ちょっと違う角度から言うと、たとえば『マゾッホ』、あれはサディズムの概念をおもしろく定義したからいいのではないし、マゾヒズムの概念をおもしろく定義したからいいのではなくて、ふたつを分けたことが概念の創造なんです。

浅田)「マゾヒズム」はサディズムと関係ないというのが概念の創造なんですね。
(……)
音楽でいうと概念というのはライトモチーフなんですよ。だから、一回聴いたらそれがだれのものかわかるんですね、どういう変奏のもとに出てきたとしても。

蓮實)そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。

浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。

蓮實)ありますよ、それは(笑)。か

浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガタリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。その点では、ガタリはまだ新しい言葉を生み出しているとして、ドゥルーズはほとんどそういう言葉を生み出していないとあえて言いたいぐらいなんですね。

蓮實)であるがゆえにすごいんだということでしょ。

浅田)そうです。つまり、ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグールドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリとの関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。

柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。

浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。

柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(……)
蓮實)……ドゥルーズは、共通の美的感性の持ち主のグループというのを想定しないと言いつつ、『シネマ』に関してはしているんですね。明らかに、ある種の『カイエ・デュ・シネマ』的なシネフィリー(映画好き)というものの上に立っている。つまり、与えられた題材をもとにその分類と体験の質を分割しているだけであの中で、あっと驚く映画はひとつも出てこない。もしそうなら、それは大した哲学者じゃないと言うべきじゃないの(笑)。

浅田)いや、哲学者はそれでいいんでしょう(笑)。

蓮實)ただし、それにもかかわらず、(……)概念化へと向かう言葉がまったく描写することがないのに、映画のひとつひとつのシーンが目に見えるようでしょう。これはすごい才能だと思う。その才能に立ちあえば、それが、哲学であろうとなかろうといいと思う。概念化されたものが、あれほどまざまざと見えるってことは、ちょっとないですよ。それは、同じ感性を持ってない人、そもそも映画に興味のない人には、ほとんど何もわからない。だけどそういう力を持っていた人がいたということはすごいことです。

柄谷)それじゃあ、ぼくには関係ないな(笑)。

浅田)たしかに、『哲学とは何か』でも、哲学と科学に並んで、芸術を大きく取り上げている。芸術家は、自存する感覚のブロックをつくり、そこから、潜在的でも顕在的でもない、可能性の宇宙を作り上げるのだ、と。とすると、それが哲学的に見ると浅いものかもしれない。にもかかわらず、ドゥルーズにとってはーーそして、柄谷さんはともあれ、蓮實さんと同じくぼくにとってもーーかけがえのないものなんです。


すくなくともドゥルーズのようなすぐれた著者の概念を批判するときは、直接引用して、この箇所がおかしいよ、としないと、まったく無償の饒舌にしか思えないぜ、そこのニューアカの無残な生き残りの「強迫神経症者」か「自閉症者」くんよ。--あ、いけねえ、このように「印象」で語ってはいけないのだよ、わかるかい?

要するに、誰が自閉症的(アスペ的)だ、だれがスキゾ的だなどというのは、すでにM君が次のように語っているよな、きみに向けて。《人間一般にあまねくスペクトラムとして存在するものとしての「自閉症」を(……)読み込むことができるかもしれません。》--これをきみの言動への批判としていまだ受け止めていないのが不思議だね。


まあこれは「投壜通信」なので宛先に届くかどうかは窺いしれないが、きみの読解力のなさは巷では有名だからな、こんなジジェクの書の冒頭近くにある、最もわかりやすい箇所のひとつがわからないのだからな、溜息がでるぜ、別にホモソーシャルの話ではまったくなく、いわゆる「第三者の審級」の話だろうに。ーーきみのまわりのラカンに詳しい「おともだち」にきいてみろよ、噂ではM君からはすでに憐笑されているらしいがね。まあU君からも愛想を尽かされたようだが、これはきみへの直接の批判ではないが、《精神科の診断カテゴリを安易なレッテル貼りに使うという習慣》という文があり、まさにCMコンセプトを流通させる「自閉症」的な振舞いなんだよな。すくなくとも共同体の人だね。

「共同体」とは、それがどんな規模であれ、一定の規則体系・価値体系によって閉じられた空間である、と定義してよい。

たとえば、村や種族や国家や西洋圏といったものも、それぞれ共同体である。
のみならず、「自己」も一種の共同体なのである。 -定本柄谷行人集2

まあここではたいして裏付けのない嘲笑はやめておいて(ようするに阿呆らしくてツイートさえもたまにしかみる気がしないからな、きみのヤツは。まあ、これはきみのツイートを読んで誤魔化されているかもしれない若い連中宛に書いているのだがね)、冒頭からの話に戻れば、たとえば、ドゥルーズの倒錯概念を批判して、死の欲動なり享楽をどう扱うのか。ラカン自身、これは『マゾッホとサド』が上梓される一年前のセミネールからだが、"the death drive, the primordial masochism of jouissance."としている。これはまさにドゥルーズのマゾ論の主題(少なくとも「死の本能(欲動)とはなにか」の章の)ではないか。

I challenge whichever philosopher to account now for the relation that is between the emergence of the signifier and the way jouissance relates to being.…No philosophy, I say, meets us here today. The wretched aborted freaks of philosophy which we drag behind us from the beginning of the last nineteenth century as the habits that are falling apart, are nothing but a way to frisk rather than to confront this question which is the only question about truth and which is called, and named by Freud, the death drive, the primordial masochism of jouissance.…All philosophical speech escapes and withdraws here.(Jacques Lacan, L’objet de la psychanalyse (unpublished seminar), 8 June 1966.)

※参考: The Lacanian child is a trholematized child, by Philippe Lacadéeより
We remark as well how, for Lacan, the Freudian child is guilty of wallowing in the masochistic jouissance he endures, indeed in the jouissance from which he benefits. In the child there is a precocious disposition to revert to a primordial masochism, which pushes him to suffer his degeneration and extract a fundamental satisfaction, a jouissance.

ラカンは1967年4月19日、ドゥルーズの『マゾッホとサド』に触れて、「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです。」としている。(身体なき器官なき身体なき・・・(1)

…………


※附記

直接引用して批判(吟味)するということはこういうことだ。

ギー兄さん自身、梅雨の頃に手紙をよこして、確かにかれの内部で、すっかり新しい事態とはいわぬまでも、めざましい勢いの展開が起り始めていることをつたえるようだったのである。ギー兄さんは、それがかれの性癖のひとつだが、気軽な間柄での手紙でも相手の書いた文章を要約しない。直接に引用しながら、次のように書いていた。

きみは出版社の宣伝用小冊子にこういうことをしゃべっていたね。――僕は少し前から、自分の一番根幹にある感情は、「悲嘆グリーフ」だと感じてきました。これは、学生の頃フォークナーやブレイクの文章に見出した言葉ですが、最近ではスタイロンの評論集『この静まりかえった塵』にも、その感情が充ちていることを感じました。若いときも、ある悲嘆の感情を持ったけれど、それは荒あらしかった。年をとってきて、気がついてみると、非常に静かな悲嘆というものになってきている。これからも年をとるにつれて、この感情は深まってゆくのではないかと思います。……

きみのいう「悲嘆グリーフ」の感情が、ある年齢を越えた者を繰りかえしとらえるという観察には、経験に立つ言葉として自分も賛成します。われわれをとらえる「悲嘆グリーフ」の感情といいたいほど、じつは共感してもいる。しかしきみより少し年をとっているこちらの、やはり経験にそくしての言葉をのべれば、きみのいうこととちがいところもあるわけなのだ。

若いときも、ある悲嘆の感情を持ったけれど、それは荒あらしかった。この観察にはまったく賛成。自分のも、きみのそれもさ、お互いの若かった時の顔つきにかさねてね、思い起こすことがある。あの時分というと、漠然とした話になるが、感じはつたわるだろう。あの時分さ、Kちゃんよ。きみは額が狭いといって気にかけていたね。ところがこの春、テレヴィで話すきみを見て額のあたりに眼がいって、ある種の感慨があったよ。

さて、つづいてきみのいう、年をとってきて、気がついてみると、非常に静かな悲嘆というものになってきている。その考えにも、いうならば段階的・過程的に賛成なのだ。自分も、ついこの間まで、そのように自覚していたことを思い出すからね。ところが、きみより五歳年長の自分は、次の一節に、決して賛成するわけにはまいらぬ。これからも年をとるにつれて、(非常に静かな悲嘆ともいうものとしての)この感情は深まってゆくのではないかと思います。

年をとる、そして突然ある逆行が起る。非常に荒あらしい悲嘆というものが自分を待ちかまえているかも知れぬと、Kちゃんよ、きみは思うことはないか? いつまでも本気でダンテを読みはじめる気配のないきみに、こうしたことをいうのもセンないことだが、かれの地獄にも煉獄にも、荒あらしい老年の悲嘆者たちは充ちているよ。きみの談話筆記を眼にして、それに触発された、自分の近況報告として、これを書きました。ともかくもきみとオユーサンと子供たちの健康を祈念しています。ギー》(大江健三郎『懐かしい年への手紙』黒字強調箇所は原文は傍点)

…………

※追記:上に引用された『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)の前段。

浅田)……ガタリというのは、ほとんど錯乱せる概念創造機械なんです。それで、彼がひとりで書くと、たとえば『分裂症分析の地図作成法』の理論的論文に見られるように、概念がめちゃめちゃに繁茂して、ほとんど理解不能なところまで暴走してしまう。そういう緻密な概念のブロックを、ドゥルーズがあの長い爪の生えた手でフワッと解きほぐして、しなやかに組み直すと、非常にうまくいくんです。その最高の成果が『千のプラトー』でしょう。もちろん、ふたりで書いたには違いないけれど、しいて言えば、ガタリのほうがより多く書き、ドゥルーズのほうがより多く読んでいるといってもいい。だから、ドゥルーズが、ガタリは稲妻で自分は避雷針だと言っているのはたしかに当たっているんです。ただ、そのこと以上に重要なのは、ガタリがそうやって哲学的概念を提供しながら、それを同時に具体的な現実と結合させていったということなんですね。

蓮實)おっしゃるとおりだと思う。ただし、ガタリには、概念はあっても、彼の概念は機能していない。それは、彼の概念が創造されたものではないということなんです。

浅田)そう、ガタリはそこがほとんど無意識なんです(笑)。

蓮實)そこをドゥルーズがやはり創造しているわけです。そもそも、ガタリには不可能というものがない。自分に何が可能で何が不可能かということを分けない。ところがドゥルーズは、これを見事に分けている。そうすると、その作業は哲学的な作業であろうか。むしろ、これは生きていくことのほとんど最低限の本能ですよ。ガタリは生きる能力をもっていない。だからガタリは概念が創造できないんです。けれども、何が可能であるか可能でないかを即座に見分けるドゥルーズによってガタリが生きて、あれだけの概念が創造されたわけですね。そのことはすごいことですよ。

だいたい、ガタリとの共作にとどまらず。ドゥルーズの本の中にはあまり引用がない。括弧にくくった他人の文章が少なく、ほとんど全部、勝手に自分の言葉に直して、その点でもぼくは異様な哲学書だと思う。

浅田)まさに自由間接法ですね。最近、柄谷さんもそうだと言われていますけれど(笑)。