美しい川 平田好輝
水晶が溶けて流れているとしか思えない
そんな水の中に
両手をさし入れて
石をめくる
石の蔭から
小さな魚がこぼれ出る
せいいっぱいにヒラヒラと全身を動かして
溶けた水晶に溶けて行く
幼いわたしは
魚の溶けた水を
蹴散らして歩く
そんなに乱暴に歩いては
魚なんか取れやしない
三つ年上の従姉は
スカートをたくし上げて
白い股を全部見せながら
幼いわたしに文句を言った
いい詩だなあ
「両手をさし入れて/石をめくる」
「両手をさし入れて/石をめくる」
「三つ年上の従姉は/スカートをたくし上げて/白い股を全部見せながら/幼いわたしに文句を言った」
溶けた水の魚ってのは
きっとエリュアールを思い出して書いてるんだろうなあ
溶けた水の魚ってのは
きっとエリュアールを思い出して書いてるんだろうなあ
魚たちも 泳ぎ手たちも 船も/水のかたちを変える。/水はやさしくて 動かない/触れてくるもののためにしか。//魚は進む/手袋の中の指のように。/~ ポール・エリュアール『魚』(安藤元雄訳)
従姉も姉もいなかったけど
小学生の同級生の少女たちってのは
おねえさんみたいなもんだから
何人かの少女の顔をおもいだすよ
アヤちゃんとかリエちゃんって
毎日のようにスカートめくってたら
カワイサあまってにくさ百倍なんていったけど
むずかしいこというよ
アヤちゃんのおとうさん大学の先生だったからなあ
遊びにいったら手塚治虫の漫画が書棚にずらっと並んでいて
びっくりしたなあ、漫画本ってあんなふうに大切に扱うものかって
オレ好かれてたんだよなあ、特別あつかいだぜ
ああとりかえしのつかない悔いだ
もっと肝心なことをやっとかなくて
ヤラシテくれたかもしれないのに
素足 谷川俊太郎
赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ
アヤちゃんもリエちゃんも
《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)
って感じだったなあ
《処女にだけ似つかわしい種類の淫蕩さというものがある。それは成熟した女の淫蕩さとはことかわり、微風のように人を酔わせる。》(三島由紀夫)
なんだよな
いまから思えば
「触らないで、というものを身に纏っている 」(ケベード)
なんだよなあ、あああ
触っとけばよかったなあ
白い股の奥のほうを
ところで女たちが後年つけあがるのは
男女共学のせいじゃないかねえ
オレたちはガキにみえただろうからなあ
柳田国男の「こども風土記」をたまたま読んだところなのだけれど
児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精一ぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、今とよっぽど違った点があったのである。
第一には小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識しえたゆえ、悦んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気ごんでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引継ひきつぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、御蔭でいろいろの珍しいものの伝わっていることをわれわれ大供も感謝するのである。
学校のクラスも年齢別じやあなかつたら
三島由紀夫のような感慨もすくないんじゃないか
誰でも男の子なら覚えのあることだが、
子供の時分に、女の子の意地の悪さとずるさと我儘に悩まされ、
女ほどイヤな動物はないと承知してゐるのに、
色気づくころからすつかり性慾で目をくらまされ、
あとで結婚してみて、又女の意地の悪さとずるさと我儘を発見するときは、
前の記憶はすつかり忘れてゐるから、
それを生れてはじめての大発見のやうに錯覚するのは、むだな苦労だと思はれる。(三島由紀夫)