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2013年12月7日土曜日

無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」

             小田実に

総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
彼は象徴にすらなれやしない
きみの大阪弁は永遠だけど
総理大臣はすぐ代る

……
(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

谷川俊太郎自身のあとがきによれば、「夜中に台所で……」の詩14篇は、19725月某夜、なかば即興的に鉛筆書きしたものとのこと。

当時は、第3次佐藤改造内閣であり、佐藤栄作長期政権最後の時期にあたる。

たしかに総理大臣ひとりを責めたって無駄だ。

だが「佐藤栄作」は、戦前からの亡霊の「記号」としても己れを主張していたはずであり、人びとは、意識的であれ無意識的であれ、このいささか疚しいシーニュを、隠しておきたい恥部を刺激する不気味な異物として取り扱っていたには相違ない。もちろんフロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」であり、自己投射の対象として機能する。

ここで戦前からの亡霊の「記号」というのは、戦前の「公」と戦後の「公」とが連続したまま繋がっており、戦前的思想・政策を戦後の<今>になってもいまだ完全に否定できていないことを否が応でも想起させる「名」ということだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ようするに、小田実や加藤周一らの当時の「左翼知識人」たちは、無責任体制の社会的、文化的条件の存続としての「記号=佐藤栄作」の露骨な流通に、いてもたってもいられない憤りを覚えていたはずでもある。


ところで、第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

ここで中井久夫は、佐藤栄作や岸信介の名を出していない。父(晋太郎)と近衛文麿だけが言及されているが、おそらく、それは「あえて」であり、精神科医としての中井久夫は当然佐藤栄作や岸信介の名に思いを馳せているに相違ないにもかかわらず言わないままでおいたのは、多くの読者を抱える「神戸新聞」という発表の場が促す「節度」からだろう。

さて現在、第二次安倍政権のまっさかりであり、「安倍晋三」という記号は、あたかも戦前の亡霊を喚起する「名」として機能しているかのようである。そして《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込む》かのようでもあろう。

そのことに敏感なひとたちが少数であっても存在する。たとえば鈴木創士氏は、ツイッター上で次のように発話する。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(2013.11.27)

ここで「ES」というのは「無意識」のことだとすればーー厳密に言えば『自我とエス』におけるフロイトの説明では、「エス」だけでなく、「自我」や「超自我」にも無意識的な部分があるーー、この「無意識」という言葉は、佐藤優氏の発言にも次のように使われる。

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。(特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

《巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り》という詩才溢れる鈴木創士氏のセリーヌやバロウズばりの表現は、《集合的無意識で動いている》という「外務省のラスプーチン」(驚嘆すべき知性の活動家ーー柄谷行人評)の言葉に翻訳できるだろう。

あるいは現代詩ムラの他者」辺見庸氏なら次のように語る。

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」――2013年8月31日の講演記録)

これも、《議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長》している症候を敏感に察知しているひとの言葉だ。辺見庸氏の記事には、「安倍」という語が頻出するが詳しくは上のリンク先の、三時間に及ぶ講演記録全文を参照のこと。

そして講演者としての穏やかさの仮装を脱ぎ、本来の詩人としての辺見庸氏なら、その思いは次のように言葉として炸裂する。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

ここにも《「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか》と、「深層心理(欲動)」という表現があることに注目しておこう。


ところで、逆に、自らのなかに残存する「あなたのなかにあるあなた以上のもの」としての「無責任体制」を否認したい議員や国民は、パラノイア的投射の対象として「安倍晋三」という「無能の主人」を利用していることだってありうる。

ここでの「無能の主人」とは、日本は直接選挙で国の指導者が選ばれるわけではないから、いささか事情が異なるかもしれないが、レーガン元米大統領をそう呼ぶコプチェク起源の用語法だ。

ラカン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純


フロイトは、パラノイア的「投射」の機制をめぐって次のように叙述している。
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

ラカンの心的構造論によれば、ひとには「神経症」「精神病」「倒錯」のみっつの構造のどれかがあり、いかなる人もこのどれかに当てはまる。

現在は境界例や自閉症、アスペルガーなどの症状の出現でいささかの動揺はあるにしろ、”標準版”のラカン派の疾患分類とは、神経症、精神病、倒錯が3大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認によって規定されている。神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

いまはそれらを詳細に書くつもりはないが、ラカン派では、投射Projectionとは、自身のうちにある欲望や思考、感情への防衛であり、それらの思いを立ち退かせて、他の主体に移しかえる心的メカニズムであって、精神病のカテゴリーのひとに属する症状のひとつである。

フロイトを再度引用するならば、
嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(同上 フロイト) 

こうであるならば、議員や国民は、自分自身のなかの「戦前の亡霊」を、首相のなかの「戦前の亡霊」に投射して、彼らのうちの「亡霊」は意識しないままにしているなどとも勘ぐることができる。

投射projection」は、ラカン派的にはパラノイア的イマジネールな症状であるが、フロイト概念を定義しなおしたラカンの厳密化以降も、他の流派では精神病(パラノイア)だけではなく神経症者の症状にもかかわってその概念が使用されているようだ。

他方、「取り込み」、あるいは「摂取」とも訳されるintrojection」が、ラカン派では、神経症のメカニズムとして説明される。投射が想像界、取り込みが象徴界に関連するメカニズムで、前者が想像的同一化(理想自我)、後者が象徴的同一化(自我理想)に関わる。言葉の意味からすれば、一見「投射」と「とりこみ」は、逆転機制かとも思われるが、ラカンはその解釈を拒絶して想像界と象徴界の審級の違いのメカニズムとしている。

Whereas projection is an imaginary mechanism, introjection is a symbolic process (Lacan Ec, 655).

そもそもフロイトには、理想自我と自我理想の区別が不鮮明で、これはラカンのセミネール一巻(「フロイトの技法論」)で、フロイトの『ナルシシズム入門』を読み解くなかでの峻別であり、ジジェク曰くは、《ラカンが、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか》(『斜めから見る』)ということになる。


 たとえば「安倍晋三」が、パラノイア的投射(想像的同一化)の対象ではなく、自我理想(象徴的同一化)として機能しているならば、自民党議員たちの症状は次のようなこととも考えられる。

同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集り(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ここでの後半にあるおたがいの自我で同一視(同一化)し合う個人の集まりが、「理想自我」のメカニズムにかかわる。


想像的同一化(理想自我による同一視)とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化(自我理想による同一視)とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)


もっとも安倍晋三の存在を「自我理想」とするならば、それは萎んだファルスであり、《父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在(無能)であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能としての天皇制》(浅田彰)のなれのはてのいかがわしく矮小化された男根でしかありえないだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩句から引けば、佐藤栄作でさえ《彼は象徴にすらなれやしない》のだ。

とすれば、やはり想像的な投射に近づく(「父」の象徴的機能、「母」の想像的機能という側面から言えばということだが)。せいぜいサンブラン(見せかけ)としての「父」だ。(参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

サンブランは自我の置き換えとして機能する。この想像的な二項関係による疑似論理が横行すれば、《微笑を浮かべたソフトな全体主義》(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)を生むことにもなりかねない。

もともと一神教ではない日本では「父」の象徴的機能が弱く、戦前の全体主義も浅田彰やバラードのいうような母性的なファシズムであったのではないか、という問いが、例えば柄谷行人の次のような主張をも生む。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

いまでも、安倍政権は「日本株式会社」を目指している、などという指摘があるのは衆知だろう。

これらの会社主義や日本株式会社とは創業社長の率いる「会社」とは異なり、次のような権力構造のことである。
事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

すなわち「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理を促す権力なのだ。

いずれにせよ、これらの理由によるものかどうかは実のところ窺いしれないが、佐藤優氏が曰くの《この動きをとどめるのはなかなか難しい》という現象をいまわれわれは目の当たりに見ている。


《特定秘密保護法が参院本会議で自民、公明両与党の賛成多数で可決、成立した。》(12.06.23:23)

もちろん萎びた男根にもかかわらず比較的長期政権が予想される安倍晋三の内閣は、官僚たちが自由に裁量をふるえる願ってもない存在である。政治には疎いわたくしには、いくら「一寸先は闇」の日本の政治でも、病気以外の理由で安倍辞職などということは今のところ想像し難い。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

ーーというわけで、安倍晋三という記号をめぐって雑然と書いてきたが、その「記号」の不気味さに限っていえば、それはまあ杞憂だったら杞憂でよろしい。もし「杞憂」でなければ、かりに安倍晋三退陣があって男根的なファシストまるだしの首長になったほうが、議員や国民にとっては、母性的な投射の対象になり辛く、むしろ不気味さは減るのではないか(「母」ではなく仮にも「父」であれば反発が生まれ議員たちの分裂が起る可能性だって高い)。

実際のところは、ひたすら「きなくささ」を感じる。わたくしは海外住まいで、マスコミのニュースのたぐいにもほとんど接していないから、ピントはずれの印象が多いのかもしれないけど、いくつかの記事を追っていると、どうも「NSCは戦争するかしないかを決めるところ。最近の日本政府はナチスの手口に学んでいるんじゃないかと思います(佐藤 優)」という「におい」に、わたくしの感度のわるい鼻は、収斂してゆく。

国家が「秘密」を重視した時は非常時から準戦時体制への転換点であることは歴史が示している。(岩波講座「日本通史」18卷・近代3)いまや軍産複合体だから、民間企業にまで蛸の足のように「秘密」は伸びていく。この法案とともに「武器輸出3原則」が空洞化する法案が、密かに国会に出されている。極端な例だが、「日本核武装」には、原発産業全体に「特定秘密」は拡大されていくだろう。(西島健男「特定秘密保護法」を読む


《「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理》--いつのまにか戦争になる、なんてことはないのかね、近いうちに。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


…………


亡霊として機能する幻想的投射の「対象a」をめぐっては、ジジェクが「ブラック・ハウス」という小説をめぐって書いている文を付記しておく(『斜めから見る』より)。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。


(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。

…………

※附記

以上の内容とは、いささか文脈が違うが、イデオロギー的幻想(投射)ideological fantasy (projection),と、ラカンの「現実界のかたわれ」little bit of the Realを序す次のジジェクの文を参考にしてこの記事は書かれている。

A statement is attributed to Hitler: “We have to kill the Jew within us.” A. B. Yehoshua has provided an adequate commentary: “This devastating portrayal of the Jew as a kind of amorphous entity that can invade the identity of a non‐Jew without his being able to detect or control it stems from the feeling that Jewish identity is extremely flexible, precisely because it is structured like a sort of atom whose core is surrounded by virtual electrons in a changing orbit.” In this sense, Jews are effectively the objet petit a of the Gentiles: what is “in the Gentiles more than the Gentiles themselves,” not another subject that I encounter in front of me but an alien, a foreigner, within me, what Lacan called the lamella, an amorphous intruder of infinite plasticity, an undead “alien” monster which can never be pinned down to a determinate form. In this sense, Hitler's statement says more than it wants to say: against its intended sense, it confirms that the Gentiles need the anti‐Semitic figure of the “Jew” in order to maintain their identity. It is thus not only that “the Jew is within us”—what Hitler fatefully forgot to add is that he, the anti‐Semite, his identity, is also in the Jew. Here we can again locate the difference between Kantian transcendentalism and Hegel: what they both see is, of course, that the anti‐Semitic figure of the Jew is not to be reified (to put it naïvely, it does not fit “‘real Jews”), but is an ideological fantasy (“projection”), it is “in my eye.” What Hegel adds is that the subject who fantasizes the Jew is itself “in the picture,” that its very existence hinges on the fantasy of the Jew as the “little bit of the Real” which sustains the consistency of its identity: take away the anti‐Semitic fantasy, and the subject whose fantasy it is itself disintegrates. What matters is not the location of the Self in objective reality, the impossible‐real of “what I am objectively,” but how I am located in my own fantasy, how my own fantasy sustains my being as subject.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


以下も同じ『LESS THAN NOTHING』からだが、ここに書かれる側面は、叙述が複雑化するため敢えて省いた。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control. On that account, the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.

※ジジェクはここで標準的な投射の理論の説明のなかで、《the figure of the Jew the disavowed part of himself》としている。disavowedとは「否認された」と訳される語で、通常、この語が使われるときには「倒錯」の症候を表す。他方、「投射」は上に見たように、パラノイア(精神病)の症候を表す。

「否認」という語が使用されたとき、単純にラカン的な「倒錯」として理解するのは慎まねばならない。すくなくともジジェクは、つねにこの語をラカン的な意味で厳密に使っているわけではない。

さらに言えば、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ(ミレール派)、いや「倒錯」の時代へ(メルマン派)などと言われるように、この見解の相違は、ラカン派のなかでも、精神病と倒錯の区別がつきがたいことを示しているのではないか。


最後に、ジジェクは同書で、ラカンの「エクリ」から引用して、次のようにフェティッシュ(倒錯の一症状)の実態をフロイトに反して指摘していることを追記しておこう。

As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.(資料:フェティシズムと対象選択