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2014年10月27日月曜日

ギリシャ人を装うこと

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352ーー『幻影の哲学者ニーチェ』山口誠一からの孫引きーー聖者と道化、あるいはニーチェとラカン

さて、ギリシヤ人になることとは、どういうことであろうか、ギリシア人の仮面を被ってみるということは? 《ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせ》ることと蓮實重彦は書くが、これはすぐさま器官なき身体、蜘蛛になることを想起させもする。にもかかわらず、この仮面をかぶった元東大総長は、その同じドゥルーズ追悼文にて次のようにも言っている。

プラトン的でないものにプラトンを「接ぎ木」することを選び、哲学史を放棄すること。それがドゥルーズの一貫した姿勢であることは、ギリシャ哲学を深くきわめたことのない者の目にも明らかである。にもかかわらず、その事実があっさり無視され、「リゾーム」や「器官なき思考」、あるいは「戦争機械」だの「遊牧論」だの「襞」だのといった言葉ばかりで彼の思考が語られがちなのは、いったいどうしてなのか。人びとは、ドゥルーズに欺かれているのだろうか。そうではない。彼の思考の中に「一気に身をおく」ことだけが必要とされていながら、誰もがその身振りを自粛してしまうのだ。

おわかりだろうか、接ぎ木の姿勢を。その刻限をーー、《この小径は地獄へゆく昔の道/プロセルピナを生垣の割目からみる/偉大なたかまるしりをつき出して/接木している》(西脇順三郎)




もちろん巧みに接ぎ木をするには、「神々しいトカゲ」の舌のゆらめく閃光の刻限、「一瞬よりはいくらか長く続く間」、それなりの準備をする必要があるのはよく知られている。

《まだこの坂をのぼらなければならない/とつぜん夏が背中をすきとおした/石垣の間からとかげが/赤い舌をペロペロと出している》(西脇順三郎)




「ただ この子の花弁がもうちょっと/まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のただなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたそうだ。

ところで、〈あなた〉がいくら謹厳居士であろうとも、いまどきこの程度の画像貼り付けるだけで、《驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実)ーーなどというたぐいの人物ではあるまい。母親が驚愕したのは《子供の臀に蕪を供え》られたせいであるが、それさえいまでは陳腐化してしまった。

そもそもひとは現役まっさかりなら、こんなものは貼り付けはしない。蕪の硬質さがめっきりおとろえた初老の男が玩味するたぐいのものである。わたくしにあるものは「距離のパトス」である。

ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)

で、何の話だったか。そう、器官なき身体の話である。器官なき身体やら蜘蛛やらをぐたぐた論じるのではなく、蜘蛛になること、蜘蛛の巣に一気に身をおくこと、《生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまること》。それが〈あなた〉に求められることだ。

しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(……)そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。……(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章)

とはいえ、蓮實重彦が《ものの形の、音調の、言葉の崇め人》、恩寵=音調のひとであるかどうかは、議論の余地があるだろう。が、彼の文章は、巷間に輩出する解釈のみに汲々とするのみの「誠実で真摯な」論文とは異質の言葉で成り立っていることは間違いない。

《知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。》(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

ギリシャ人を装うことーーあえて「ギリシャ的」であることーーでドゥルーズの思考がまとうことになる豊かな拡がりがどんなものか、(……)だが、その豊かさ、哲学者としての彼が、ギリシャ人たちの思考をそっくり自分のものとしていたが故に可能になったものと理解してはなるまい。

たとえば、ヘーゲルもハイデッガーも、その時代のその土地にはぐくまれた思考に深く通じていたし、哲学の誕生とギリシャとの関係にも充分すぎるほど意識的だった。だが、ギリシャに投げかける視線を彼らと共有しあう意志などこれっぽちもないと『哲学とは何か』のドゥルーズはきっぱり宣言する。何かにつけて、ギリシャ哲学の起源を求めずにはいられない精神というものが、彼には我慢ならないのである。

(……)ギリシャ哲学との関係は、ドゥルーズにとって、「歴史としてというより、生成として、……本性においてというよりはむしろ恩寵として」考えられねばならない。そう口にする言表の主体が「マルクス主義者」であろうはずもない。

とはいえ、「恩寵」の一語を、世界を超越したものがもたらす願ってもない特典、予期せぬ喜ばしい報酬といった程度のことと理解してはなるまい。ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせているとき、あたかもその姿勢が導きだしたかのように、ただその瞬間にのみ、嘘としか思えぬ身軽さで現前化するできごと、それだけが「恩寵」の名にふさわしいものなのだ。哲学がギリシャに生れたのは、「恩寵」のような瞬間をうけとめるにふさわしい大気の流れといったものが、その時代のその土地んいみなぎっており、それに進んで身をまかせる者がいてくれたからなのだ。「偶発的」なものを「絶対的」なものへと変容せしめるものがこの「恩寵」のほかならず、もちろん、そこにはいかなる神学的な色彩も影を落としてはいない。いずれにせよ、「起源」といった言葉で「生成」に背を向けるドイツの哲学者たちに、ドゥルーズはきっぱりと顔をそむける。

あたかもギリシャ人であるかのように振る舞うドゥルーズが、この二十世紀末のヨーロッパであれこれ思考をめぐらせていた姿を思い描こうとするとき、われわれもまた「恩寵」の一語を口にせずにはいられない。ドゥルーズとプラトンの出会いは、哲学の歴史が必然化する時空に位置づけられるものというより、それを遥かに超えたところで、あたりの大気の流れに触れた者が、その表層に走り抜ける感知し得ないほどの変化にも同調せずにはいられないときに出現するできごとにほかならない。そのとき、そこにみなぎっている朗らかさは、例えば、「ライプニッツ主義者」には微笑みかけないが、「ライプニッツとともにある」存在には微笑みかける。それは、「マルクス主義者」には微笑みかけはしまいが、「マルクスとともにある」存在にはあまねく微笑みかけるだろう。思考は、そのようにしてしかできごととはなるまい。そこには、文字通りの「襞」がいくえにもおりこまれてゆくのであり、そのかぎりにおいて、「われわれは、なおライプニッツ的な存在である」と口にできるのである。

「恩寵」としてのドゥルーズ。彼を哲学者と呼ぶべきか否かがもはや問題となりがたい時空に、「一気に身をおく」こと。だが、哲学は、その「恩寵」に向けて投げかけるべき視線に恵まれていたことなどあるのだろうか。(蓮實重彦 ドゥルーズ追悼文『批評空間』1996Ⅱ-10)


 この蓮實重彦の一見して、徹底的なドゥルーズ顕揚とでも読める文章を「額面通り」とる阿呆はいまどきいまいが、二十一世紀はフローベールの時代にもまして「愚かさは進歩する」(フローベール)の時代ではあり、やはり次のように同じ『批評空間』のに前号に掲載された談話を附記しておくことにする。

◆『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)より

蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない?

浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。

蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。

浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。

蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。

浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。

蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。

浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。

蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。

浅田)「偉大な哲学」である、と。

蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。

浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。

ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventumtantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。

蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。

浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。

蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。

浅田)絶対にゴダールを取ります。

蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。

浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。

蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。

浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。

蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意に不ノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。

浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。

蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。

浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。



            (DELEUZE, GODARD, MARLON BRANDO)

さて、おわかりであろうか、この画像を貼り付けた意味合いが? ここでいささか親切心をだしてそれを明かすのなら、すなわち「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」であり、また次の如くの意味である。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中ツイート)




シツレイした、ケンキューシャ君だけでなく、学者センセたちをも含めた〈あなたがた〉を子ども扱いして。

その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(テオ・アンゲロプロス 蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)


と、ここまでのところは、目新しい発見など何ひとつ含まぬごく貧しい日常の再確認にすぎない。物語は勝利するという物語の、一つの変奏を提示したまでのことであって、とりたてて詳述するにもおよぶまい退屈な現実であろう。というより、現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されているまでだ。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、それとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。

とはいえ、いまはもう忘れてしまったものからつい先刻覚えたばかりのものまで、そんな一連の名前を列挙しながら、いささか冷笑的に、あるいは道化のけたたましい闖入ぶりによって虚構の歴史をたどりなおして悦に入っていられる時代ではない。それぞれの虚構にはそれなりの有効性はそなわっていたし、だいいちそれはまごうかたなき現実として罠たりえもしたのだから、いまさら愚痴っぽくあれこれ批判めいた言葉をつぶやいてみてもはじまらないと思う。さしあたっての急務は、善意の虚構へのほとんど普遍化されたといってよい確信が、普遍的であることに見あった希薄さであたりに漂いでた結果、罠の捏造者自身をはじめその直接=間接の共犯者たちから何を奪ったか、またいまも奪いつつあるかを明らかにしてみることにある。罠でもない装置を罠として思い描き、それにだけは足をとられまいとして身がまえる仕草が希薄に連帯されることで捏造してしまった善意の装置は、邪悪なるものとして想定された装置が現実のものであった場合に持ちえたであろう残酷さにもおとらぬ残酷さで何ものかを奪うが故に罠なのだが、その装置が、欲望から何をかすめとっているかを生なましく触知することこそが問題なのである。なぜ欲望からなのかと問うものがいるなら、ごくぶっきらぼうに生からと呼びなおしてもかまわない。だが、呼び名などはこの際どうでもよろしい。善意のものであれ悪意のものであれ、とにかく虚構は、その構築の過程できわめて具体的に生きた何ものかを犠牲に供することなしには虚構たりえないのだから、いま、この瞬間、虚構が現実にいかなる犠牲を提供せよと迫っているのか、その力学を捉えることこそが必要なのだ。力学、といってもことはきわめて曖昧である。虚構を生きつつあるものが放棄せざるをえない自分自身の一部、それを無理にも手放すことの痛みを緩和し、犠牲を犠牲としては意識させない何やら麻薬めいたものまでがそこに含まれてもいるからだ。善意の罠の真の恐しさは、何よりもまず、それが大がかりな忘却装置として機能してしまう点にある。


絶望と饒舌

では、誰もが驚くべき執着のなさで放置することでその忘却装置を機能させてしまう自分自身の一部とは、 何なのか。欲望から、あるいは生から不断にかすめとられつつありながらその痛みする感ずることのないものとは、いったい 何なのか。

何か 。その何かをこれ だと口にすることほど容易なはなしはないし、同時にそれほど困難なこともまたとあるまい。では、なぜ容易であり、かつまた困難なのか。まず、その何ものかをこれだとあっさり指摘しうるものは、指摘しつつある自分が虚構の物語の語りつがれる圏域の外部に位置していると確信しなけれならないということがある。つまり、自分はその物語に醜く汚染してはいないが故に装置にはいかなる犠牲をも提供してはおらず、したがって多くのものが信じがたい素直さで譲りわたしているものが 何であるかを明確に識別することができるという確信が存在する。この確信を共有することはきわめて容易であろう。事実、多くの人が口にする「批判」とか「分析」なるものはその種の確信から生まれ落ちてくるものだ。だが、汚染せざる自分への確信があたりにばらまく「批判」的言辞や「分析」的思考、それが、いま「批判」し「分析」しつつある物語の言葉によってしか語られえないという点を便利に無視しているという意味で、この圏外者の指摘ははじめから抽象たるべく運命づけられているといえる。しかもこの手あいの抽象にもそれなりの物語がそなわっていて、間違いなくあの偉大なる忘却装置の中枢に据えられた歯車としてせっせとまわり続けているのだから、それは何もいわずにおくことと選ぶところがないわけだ。にもかかわらず あれだ、これだと指摘してまわらずにいられない言葉たちを、無償の饒舌と名付けよう。忘却装置の円滑なる機能ぶりを促進すべく放棄する自分自身の一部を これだと名付けることが、容易さと困難さとをともに生きざるをえないとしたら、それが無償の饒舌たるほかはないとあらかじめ決定されているからである。だから何かと問うことそのものが、そもそも無効なのである。

無償の饒舌を避けるにはどうするか。問うことの無効性を自覚するに至ったものは、まず絶望を選ぶだろう。それが真剣なやり方というものだ。だが、実はその真剣な絶望すらが装置の潤滑油にすぎないのである。いま、欲望から、生から、かけがえのないものが不断にかすめとられている。そのかすめとられた貴重なる 何かを目指そうとして、いくつもの言葉を口にしてもそれは言葉であることをやめてしまう。その失語意識、その記憶喪失は文字通り絶望的といってよい。こうしているうちにも奪われてゆくかけがえのない自分自身の一部を的確に言語化しようとすると、その言葉さえが奪われてしまうという二重三重の困難。だが、人はこの困難にたやすく絶望するみちを選んでしまってはならないのだ。

絶望を回避すること。それには希望を持つといったことが有効な手段とはなりがたい。希望などと口にして新たな罠に陥ることなく、何でもよろしい、ただあっけらかんとした風情で適当な一語をつぶやいてみる。それが、真に奪われた言葉であるかどうかは問題ではない。とりあえず一言、たとえば 肯定することとでも口にしてみるだけで充分だ。そして、かれにその一語が人から言葉を奪うあの忘却装置にこそふさわしいと思われようと、奪われかすめとられた一語がまさに 肯定の一語にほかならなかったかのように振舞えばよろしい。人が絶望するのは、いま、 肯定することが禁じられているからだと思い込むふりをすること。口実はなんでもよろしい。 価値の多元化とやらがその元凶だとでも信ずるふりをしておけばよい。それが無償の饒舌にいささか類似し、すんなりと装置に吸いこまれてしまいそうでも気にすることはない。そもそも世にいう記憶回復の儀式など貧しい抽象にすぎないし、その記憶という奴にしてからが、完璧な再現などを自分からこばむもっともいいかげんで荒唐無稽なものなのである。嘘だと思うならマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んでみるがよい。欠落した記憶の切れはしを難儀しながら拾いあつめ、それで総体としての記憶が回復するなどと信じている人がいたとするなら、この小説は、そんな人間の鼻さきに、ただもう荒唐無稽というほかはない充実した過剰としての記憶が、畸型の動物めいたけもの臭さをふっとはきかけてくれるにちがいない。だから、いまはさしあたって、欠落した記憶を回復せんとする試みにならって失われた言葉を生真面目に探し求めたりせず、とりあえず選ばれた 肯定の一語こそがそれだと信じ込む演技を徹底的に演じきってみることだ。そうすることで真剣な絶望をひとまずかわし、物語に汚染しきった無償の饒舌をも模倣したりしながら、まさに物語自身の言葉で、忘却装置の機能のために自分が犠牲にしたものが何であるかを口にすればよい。肯定の一語が物語の秩序に従って自分になりかわり次の一語をつぶやいてくれるだろう。で、その次の一語とは 何であろうか。

その一語は何であろうか。それを耳にするには、何も物語の圏外に身を置く自分を確信する必要はない。むしろ積極的に装置の一部として機能しながら物語の圏域にとどまり、その続きを心待ちにする様子などしてみればもう充分だ。装置にさからうには、間違ってもその総体を破壊しようなどと目論んではならない。その総体がますます円滑に連動しかねぬ歯車のようなものへと自分を畸型化させても涼しい顔をしていること。肝腎なのは、戦略的に倒錯すること、そして倒錯に耐えうるだけの柔軟さを見失わずにおくことだ。倒錯すべき正統的な理由など求めてはならない。とりあえずの契機さえありさえすれば、もう心配はいらないだろう。ザッヘル=マゾッホを想起してみるまでもなく、倒錯とは、きまって戦略的なものではなかったか。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)


まさか、わたくしにその一語を書け、というほどには、〈あなた〉は阿呆ではあるまい。その一語がなにであるかわからないなどというほど不感症ではあるまい。ここではその一語を書き記すなどというはしたない振舞いは避けるのが〈あなた〉を信頼するひとつの礼儀正しいあり方だろう。そんな厚顔無恥な仕草に身をさらすのではなく、もっともらしく無償の饒舌に耽るのみの手合いーー彼らには戦略的倒錯に身をまかせることにも、ギリシア的時空に一気に身をおくことにもまったく無縁であるかにみうけられるがーーそういった連中への嘲弄の言葉を「世間を真に受けぬための積極的な方法」より再掲して並べておくだけにする。

みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦)
どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)
・同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。P7

・説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。P27

・制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する不可視の装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章に冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こそが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが、『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者たちは、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。P50(『物語批判序説』)

おわかりだろうか、これらの振舞いだけはやめにしなければならぬ。ギリシア人であることを装うーーわれわれはニーチェやゴダールのように真のギリシヤ人ではありえないとしたら、次善の策は、ドゥルーズや蓮實重彦のようにギリシア人の「仮面」を倒錯的につけることだ。





樫村晴香がいみじくもドゥルーズ批判の論文で最後にポツリとドゥルーズ顕揚の言葉を語っているように、「音楽を聴くように」対象と接すること。それが蜘蛛になることである。

例えばニーチェの永劫回帰は、 Dz の「理論構造」から判断する限り、永劫回帰の隠喩として受容‐処理されているが、現 実には、Dz はすべての言説を、隠喩ではなくそれこそ「音楽を聴くように」、または小説の エクリチュールを読むように、「半覚醒的に」受信していたのだろう。そしてその感覚があれ ばこそ、意味作用を完全に確定することなく宙吊りにし、理論的分節を半ば未確定に開い たまま次々進み、個々の論点相互の差異へは鷹揚なまま、すべてを取り入れ絶え間なく 移動していく、増殖するエクリチュール‐小説のごとき彼の記述スタイルが可能になる。こ の半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される過程 にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共 鳴に、帰属する。子供が泣き、豚が叫び(キャロル)、Kの分身の学生が走り、廷丁が走る (カフカ)。意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層 にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異‐変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異 ‐移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそ Dz の内発的感覚がある。(「dyssyntagmatismus者」たち、あるいはニーチェと樫村晴香

ロラン・バルトも言っているではないか。学者さんたちよ、「器官なき身体」について、がたがたピントはずれのことをもうこれ以上書かないでほしいと願う。

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(バルト『テクストの快楽』)

だが、「とはいえ」とする樫村晴香の言葉を、ここで〈あなた〉のためにつけ加えておくぐらいの親切心は、わたくしにはある。これが凡庸さというものだ、--《それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。》

……とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。(『ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点』)





事実そのとおりにあれらケンキューシャ諸君の不感症ぶりのなんというさま! なによりもまず解説書を書くことを書くことと勘違いしておられる! 《私たち他の者、私たち静穏なる者がヴァーグナーに欠けているのに気づくものに、どうして彼らが気づくことができようかーー悦ばしき知識 la gaya scienzaに、軽やかな足に、機智、熱火、優雅に、大いなる論理に、足の舞踏に、気力あふれる精神性に、南方の光のわななきに、滑らかな海にーー完全性に・ ・ ・》(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』)


ところで冷感症の女性は、男たちをわたり歩くそうだ。あのケンキューシャくんたちの好奇心の旺盛ぶりもそのたぐいではなかろうか、すなわち、あれやこれやと好奇心でいろんなことに頭をつっこむのは、オーガズムの経験がないせいではないか。

性興奮不全の冷感症のタイプの女性たちは、飽くことを知らない性的な欲求を持っているように見える。もし彼女らが超自我の抑圧に打ち勝つのなら、ひとりのパートナーから他のパートナーたちに渡り歩いていく、だが、ああ、なんという空しく! すなわち新しい経験が熱望されたオーガズムを齎してくれるのではないか、というわけだ。稀なケースでは、レイプ、鞭打や暴力の無理強いの様相を想定する限定されたファンタジーに拘わってのみ膣によるオーガズムが実現されることがある。(冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb

わたくしはここで親切心をさらに露わにして、鞭打ちや緊縛の画像は貼り付けるべきだろうか。いやいまはそこまでしてまで「恩寵」やら「オーガズム」を促すつもりはない。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

蛇足ながら、これらの文はわたくしが語っているのではない、ニーチェその人が、現代の温和な仔羊たち、〈あなたがた〉に--それはわたくしも含めたければそうしたらよいーー言っているのだ。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

ところでラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールもわたくしと同様、荒木経惟ファンであるのか、『A New Kind of LoveJacques-Alain Miller』なる記事に、アラキの画像が貼り付けてある。





ああ、こうやってその一語を口に出してしまった、しかも緊縛画像をも。これは、わたくしの凡庸さのなせる技である。

さて、ところでひょっとしてJudith Miller Lacanは、冷感症タイプなのではないか、とわたくしは疑わないでもない。