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2014年10月23日木曜日

仕立屋の処刑

もうやめようと思ったのだが、、またニーチェとフロイトの仲良しぶりにめぐりあってしまった。意図せざる遭遇だね、前記事で、「エロス的祝祭」=攻撃欲動をめぐって書いて、祝祭って言えばやっぱりニーチェだな、と『道徳の系譜』第二論文眺めてたら、フロイトの鍛冶屋と仕立屋の話に当ってしまった。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

ーーで、以前はどうして気づかなかったんだろ?
そもそも本なんてものは、まともに読んでないのさ
やっぱり三度か四度程度読むだけじゃダメなんじゃないか

読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が『読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は牛になってもらわなくてはならぬ。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(道徳の系譜・序 八節)

で、「新自由主義」の二十一世紀人
ーーイデオロギー的にはみなさんイギリス人だからな、
《人間は幸福をもとめて努力するのではない。
そうするのはイギリス人だけである》(ニーチェ『偶像の黄昏』12番)ーー、
幸福をもとめるのに忙しくて、
牛になることなんてできるわけないだろ。

「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」(Paul Verhaeghe
《われわれの時代、ひとびとはこんなに自由で、
こんなに無力であることはなかった》

ーー眠る暇さえないんじゃないか。

忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)

あきらめたほうがいいぜ、「教養」なんて。

私は読書する閑人をにくむ。
もう一世紀、読者であったならばーー
精神そのものが悪臭を放つであろう。(ツァラトゥストラⅠ)

もう一世紀経ってるぜ。

早朝、夜の明けがた、すべてがすがすがしく、
自分の力も曙光の中にあるのに、
本なんか読むことーー
それを私は罪悪と呼ぶ! (この人を見よ)