裏庭に大型の黒い野良猫がはいり込んで、わが家に四匹いる犬のうちの猛犬一匹が猫を血だらけのずた袋にしてしまったので、マンゴスチンの樹の根もとを掘って埋めた。
果物の女王樹は植えて十年以上たつのに、まだ結実しない。二匹の犬の屍も埋めてあるのに。果物の王ドリアン七年、マンゴスチン十年とはいうものの、ドリアンの樹は六年で実をつけた。
ああ女王の根も貪婪な蛸のように屍を抱き、水晶のような液をたらたら垂らす猫の軀に、いそぎんちゃくの食糸の毛根を聚めて、腐乱して蛆が湧いた屍の養分を吸い、女王の娘のための花弁や蕋を作り出さないものか。
我が庭から出現したアフロディアの深紅の鮮やかな衣裳をぱっくり割って、ふくよかな白いお尻の裂け目に舌を絡めて、官能に酔った口もとから果汁を滴らせつつ、果実を貪りかぶりつく夢は徒花なのか、わたしは未来の空しい煙を吸っていただけか。
果実が溶けて快楽(けらく )となるように、
形の息絶える口の中で
その不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、
岸辺の変るざわめきを。(ヴァレリー 若きパルク 中井久夫訳)
ところで犬と猫の喧嘩は、猫がいくら降参のポーズをとっても通じないよようだが、猫同士の降参のポーズはどんな具合のものか、と検索してみれば、犬と似たようなものらしい。
以下の文は講演録のようでいつのものかはわからないが、たぶん最近になってのものだろう。
……「殺さない本能」と言うのは、文字通り本能であって理性ではありません。(……)オオカミとかセイウチとか、いかにも獰猛な動物がたくさんいますけれど、相手と時に激しく喧嘩するのは、どっちが強いかという優位性の序列を決めるだけで、序列を決めれば深追いしないのです。
ところが人間は深追いするのです。相手が「降参」と言っても殺すことを今でもやっています。その意味では人間というのは生半可な肉食獣というべきでしょう。もともとはアフリカの密林で果物とネズミと鳥の卵ぐらい食べていたものが、いろんな理由で地上に降りたわけですね。で、そうしたなかで共同で狩りということになって、弱い人間が強い動物を狩るためにお互いにことばを使って連絡し合うようになったのです。(……)
……人間は、草食獣にはない「殺す」本能をもつというところまではいっているけれど、本当の肉食獣ならたいてい持っている「不必要に殺さない」という、その絶対の歯止めの仕組みをまだ持っていないのです。オオカミにも犬にも降参のシグナルがあって、ひっくり返っておなかを出せば、それが降参。勝者はその無防備なおなかを噛めばトドメをさせるのに、そこまではしないのです。
人間も何かのシグナルを出せば、降参で、そうしたら絶対に攻撃できないという仕組みをつくれば、かなり状況は違ってくるはず。たとえば、女の人が降参と言ったら強姦できないというようなサインがあれば、ものすごく性犯罪が減るのですが、人間には無理なのでしょうね。どんなことをしても本質的に賢くはなれない。「No!」と言っている人間も無視して強姦したり殺したりするわけです。
さて、あなたはこの文を読んでどう思うだろうか。わたくしは少年時代のように額面通りに感心してしまうことはできない。
《人間だけが深追いする》、要するに人間だけがアウシュビッツやコソボがある、そこまではいい。だが、《人間は、草食獣にはない「殺す」本能をもつというところまではいっているけれど、本当の肉食獣ならたいてい持っている「不必要に殺さない」という、その絶対の歯止めの仕組みをまだ持っていないのです》などという文は、四十年たってヒネクレてしまったわたくしの頭には、どうあっても受け入れがたい。
わたくしが、ヒネクレてしまったのは、きみたちのせいだよ、蓮實センセ、浅田彰や、ジジェクよ。どうしてくれる?
……『閉ざされた言語・日本語の世界』の著者の鈴木孝夫氏は、オットー・イェスペルセンやブルームフィールド、さらにはJ・B・キャロルという欧米の代表的な言語学者の学説を紹介しながら、(……)おそらくわれわれ日本人が漠然と感じている気持を代弁しておられる。これは、はなはだ心強い味方を得たものだと、人は一瞬うれしくなる。また、それと同時に心から心配にもなる。というのは、(……)この書物の言語的知識があまりにも貧弱だからである。(……)鈴木氏の希望的観測に心情的に同調しながらも、この種の書物にありがちな科学者の信じがたい杜撰さに、あらためて驚くことから始めなければならない。
(……)まるでブルームフィールドより一世紀以上も前の言語観でブルームフィールドを攻撃しようというわけではないか。(……)
しかし、鈴木氏のいかにも杜撰な「文字」顕揚の試みを嘲笑することが重要なのではない。また、大学の教師なり研究者なりが、英語のLanguageとwordといった基本的な単語の意味をとり違えるといった現象を介して、日本の言語的環境の曖昧さを改めて指摘することもさして重要ではない。問題は、鈴木氏のような専門家でも、「音声」的帝国主義の真の恐ろしさにいまだ無自覚であるという点にあるのだ。……(蓮實重彦『反=日本語論』1977)
この『反=日本語』は、数多くの著名な学者への罵倒が書かれているのだが、この書を読んだせいで、大学教師や専門家という人種の書き物の瑕瑾を見出しては嘲弄する悪癖がついてしまった。でも、まあそれはこの際どうでもよろしい。引用された鈴木孝夫の文にまっこうから対立する二十四歳の浅田彰の文を掲げよう。
フォン・ユキステルの示した、有機体と環境世界の相互的・円環的統一というヴィジョン。これを人間の世界にあてはまることの拒否から、人間学が始まったと言ってもいいだろう。シェーラーは、有機体が環境世界被拘束性を特徴とするのに対し、固有の環境世界をもたない人間は世界開放性を特徴とする定式化を行い、プレスナーは、環境世界の原点に安住している有機体を中心的、中心からズレてしまい自己との間にする距離をもたずにはいられない人間を離心的と呼んで、そこから各々の人間学を展開したのである。シェーラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」(『宇宙における人間の地位』)と呼んでいるのは興味深い。この延長上に、衝動解除と、社会制度を通じたその回路付けによる負担免除を中核とするゲーレンの人間学があることは、よく知られた通りである。
ここで衝動と呼んだものは正確に言うと何なのか。ここの問いに答えるためには、人間学と遠からぬ所から出発し、遥か先まで到達した精神分析に、目を移した方がいいだろう。そこでは、有機体と人間の対比は、Instinkt/TreibないしInstinkt/pulsionの対比に集約される。最近の慣例に従って、これに本能/欲動という訳語をあてよう。本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。
自然からのこのようなズレは、一体どうして生じたのだろうか。最近援用されることの多いボルクのネオテニー(幼態成熟)説やポルトマンの早産説が重要なポイントのひとつを突いていることは疑いない。彼らの理論とシェーラーやゲーレンの人間学との相互関連はよく知られているが、精神分析家ラカンもまたボルクを援用しつつ、「胎児化」による「発達のおくれの結果」として「視知覚の早すぎる成熟がその機能的さきどりの価値をもつ」(『エクリ』)という事実を根拠に、先に「鏡の地獄」と呼んだ鏡像段階の理論を展開していることを付け加えておこう。
しかし、ネオテニーはひとつの契機であっても唯一の原因ではない。ホモニゼーション(人間化)は多くの契機から成る多元的プロセスとしてとらえなれなばならないだろう。そして、そのプロセスの「震央」と目されるべきは、脳の「爆発的進化」(ケストラー)であり、その結果としての、大脳の「超複雑化」(モラン)である。実際、ノイロン(ニューロン)の膨大の数とシナプスの恐るべき錯綜ぶりは、コンピューター時代にあってもなお驚異の的であり、しかも、かなり未完成な状態で誕生を迎えるため、多くのシナプスが後から形成されるという事情が、それに加わるのである。これらは、進化の現段階において出現した全く新しい現象である。
元来、エントロピーを増大させる環境の中で局所論的な秩序を維持していく存在である生物が、情報による制御の高次化という道を辿るのは当然であった。このプロセスは、頭化(cephalisation)ないし頭脳化(cerebralisation)、即ち、神経系の階層的樹状〔トゥリー〕構造と中枢の形成という形をとった。目的性に対し機能分担のハイアラーキーで応ずるという、極めて一般的な解決である。ところが、このプロセスが極限的に進行するとき、いわば情報の過剰が生み出され、それらの情報は本来の目的を離れて空回りし始める。レヴィーストロース風に言えば、浮遊する情報群(informations flotantes)の洪水が出現するのである。生の方向=目的性によって要請された樹状〔トゥリー〕構造の高次化過程としての頭化は、その極限において、シナプスの横断的な網目状連結(リゾーム!)に基づく「無頭」(acephale)のカオスを生み出す。進化における最大の逆説。今や、この「焼けつく大頭」の中では「屋内の火災」が猛威をふるっている(バタイユ「松果体の眼」)。(浅田彰『構造と力』p33-36 1981年2月 執筆 1981-1982『現代思想』掲載)
わたくしにとっては以来、これが「常識」なのだが、鈴木孝夫先生は、きっと晩年になってこの「常識」を覆すことをオッシャッテイルに違いない。とても聡明な顔貌をした方なのだから。まさか蓮實センセの嘲弄を浴びた《一世紀以上も前の言語観》で語る癖を繰り返して、プレフロイトの一世紀以上前の人間観で語っておられるのではあるまい。
やはりある程度年齢をへたら男は顔で勝負しなくちゃいけない。キレキレのさすがに二十ヶ国語がぺらぺららしい鈴木孝夫先生の顔である。そんなお方が《人が漠然と感じている気持を代弁して》、共同体への慰めの言葉を呟くなどということはアリエナイ……。しかもかの神話的な井筒俊彦の弟子筋らしいのだから。
黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)
本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)
隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)
フーコーも《すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる》と言っているからな。やっぱり面貌を磨かなくちゃいけない。
私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かせました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ、ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。(フーコー「倫理の系譜学についてーー進行中の作業の概要」)
やっぱりフーコーのように生を芸術作品にするには、本だけじゃだめさ。
フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(出典:ギベール著『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者あとがき)。
で、面貌の話はどうでもいいが、いやここで思い出したから、世紀の男前であるジャコメッティをめぐるボーヴォワールの話をもうひとつ引いておこう。
サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』上)
ーーというわけで、この記事の流れに戻って、最後にジジェクさんのお出まし願うことにしよう。
……こうした詩と暴力のつながりは偶然によるものなのだろうか? いかにして言語と暴力 は接続するのだろうか? 「暴力批判論」において、ヴァルター・ベンヤミンは次のように問 題提起している。「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」 彼の出 した答えは、そのような係争の非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼の ある「内輪の人間どうしの関係において」である、というものだ。「暴力を行使せず人間同 士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である 場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」このテーゼは主流の伝統に掉さしている(則っている:引用者)。その伝統では、言語や象徴界という広く普及した発想は、和解や仲裁の 媒体となる発想のことであり、無媒介かつ剥き出しのまま対峙させる暴力的な媒体の発想 とは対極にある、争いを好まない共存共栄の発想のことだ。言語のなかでは、互いに直接 暴力をふるうのではなく、われわれは畢竟するに、議論をぶつけ、言葉を交換する定めに ある。――そんなやりとりは、それが人の攻撃に向かう場合でさえ、最小限、相手の立場を 〔事前に〕承認するという前提に基づいている。
とはいえ、人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかなら ぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマに したてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイ デガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦 点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人 間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガー のモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科 学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。「フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体なのです」。(スラヴォイ・ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所ーーいかにして詩は民族浄化と関係するのか」)