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2014年10月7日火曜日

ニーチェの「生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった」(ヴァレリー)

ニーチェは卓越した人間であった。文献学の優等生。メッツの城壁の下では良き看護兵。勤勉で控え目な青年。屈託よりも病気で身を退いた優れた教授。狂気にいたってもなお静かな人柄であった。彼の生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった。いや、賢者よりもキリスト教徒としてこそ適わしいと思える貞節、そのような貞節のつらぬく生涯であった。

ところが彼の存在の、さほど重要でもない内的部分が、書くことへと向かった。そしてこの部分こそが心神喪失をきたしたものと思える。全体的には穏和で規則正しいこの体系〔人間〕が、ある熱狂的な一部分に、錯乱した冗漫な一部分に、とり憑かれたのだ。(ポール・ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』Nietzsche et Valery : sur les manuscrits de Paul Valery au sujet de Nietzsche)

 …………

わたしは、ギリシア語でいえば、いや、ギリシア語で言わなくてもそうだ、アンチクリスト(反キリスト者)なのだ……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳 P82)

訳者注にはこうある。《アンチクリストーーAntichristは、元来、新訳聖書に見える語(ヨハネの第一の手紙、二の一八)なので、「ギリシア語で」と言ったのである。「非キリスト教徒」の意味。》

アンチクリストとはキリストに反することではなく、反キリスト教徒、あるいは非キリスト教徒のことのようだ。

もっともヨハネの手紙はいろいろな解釈があるようだが(たとえばカルヴァン解釈とそれに異議をとなえるベルクーワ解釈)。ーーなどということはわたくしは残念ながらあまり関心がない。


私はキリスト教のまがいのない歴史を語ろう。--「キリスト教」という言葉からして、すでに誤解である、--つきつめたところ、キリスト教徒はただ一人しかいなかった、そしてその人は十字架の上で死んだのである。「福音」は十字架の上で死んだのだ。この瞬間以後、「福音」と呼ばれているものは、すでに、彼が生きていたものの正反対であった、「悪しき音信〔おとずれ〕」、禍信であった。

「信仰」において、たとえばキリストによる救いといったことを信ずることにおいて、キリスト教徒のしるしを見る者があるなら、それは馬鹿らしいほど間違っている。

ただキリスト的実践のみが、十字架上で死んだ人が生きたような生活のみが、キリスト教的なのだ……

今日でもなおそのような生活は可能である。ある種の人間には必要でさえもある。まがいのない、根源的なキリスト的精神は、いつの世にも可能であろう……(アンチクリスト 三九節 秋山英夫訳)

 ここにある「ある種の人間」とはどんな種類の人間だろう。ニーチェが、反キリスト教徒Antichristであるのは、唯一のキリスト教徒、十字架の上で死んだ男の跡継ぎは、ニーチェ自身しかいないと主張してはいないか。ーーいやいやそんな馬鹿げたことを言うつもりはない。ツァラトゥストラや「超人」が跡継ぎなのだ、と断言するのもここでは避けておこう。

(一)……救世主〔キリスト〕はわれわれの代わりに、われわれの罪を引き受けて死に給うた! すくなくとも聖パウロの解釈はこうである。そしてこの解釈が〈教会〉のうちで、また歴史において勝利をおさめたのだ。だからキリストの殉教は、ディオニュソスの殉教とは真向から対立する。前者の場合には生は裁かれ、罪を贖わねばならない。後者の場合、生はそれ自身充分正しく、一切を正当化するのである。従って「十字架にかけられた者に対抗するディオニュソス」と言われる。――(二) しかしもしひとが、いま述べたようなパウロ的な解釈の下に、キリストの個人的な類型がどのようなタイプであるかを探すとすれば、キリストはあるまったく異なった様式で「ニヒリズム」に属するのだということがよくわかる。彼は温和で、歓びに充ち、あらゆる罪過に無関心で、非難も断罪もしない。彼はただ死ぬことを望み、死を願う。そのことによってあkれは、聖パウロよりもはるかに進んでいることを証明している。既に彼はニヒリズムの最高の段階を、〈最後の人間〉のそれを、あるいは〈滅びようと望む人間〉のそれさえも表象している。ディオニュソス的な価値転換に最も近い段階を示すのである。キリストは「デカダンたちのうちで最も興味深い者」であり、一種の仏陀である。彼は価値転換が可能となるようにする。この観点からすれば、ディオニュソスとキリストの統合が、「ディオニュソス – 十字架にかけられた者」が、それ自身可能となる。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳 P81)





「福音」の全身理学のうちには負い目と罰という概念はない、同じく報いという概念もない。「罪」、神と人間とのあいだを分かついずれの距離関係も除去されている、--まさしくこれこそ「悦ばしき音信」なのである。浄福は約束されるのではない、それは条件に結びつけられるのではない、それは唯一の実在性なのであるーーその他は、それについて語るための記号である。

そうした状態の結果は一つの新しい実践、本来的に福音的な実践のうちに投影される。「信仰」がキリスト者を区別するのではない。キリスト者は行為し、異なった行為によって区別されるからである。キリスト者は、おのれに悪意をいだく者に、言葉によっても心のうちでも手向かわないということ。キリスト者は、異教人と同郷人とのあいだに、ユダヤ人と非ユダヤ人とのあいだになんらの区別をもおかないということ(「隣人」とはもともと信仰の仲間、ユダヤ人のことである)。キリスト者は、誰にも立腹せず、誰をも軽蔑しないということ。キリスト者は、法廷に姿をみせることもなければ、弁護をひきうけることもないということ(「誓うな」)。キリスト者は、どんなことがあっても、たとえ妻の不義が証明された場合でも、その妻を離縁しないということ。--すべてこられは根本においてただ一つの命題であり、すべてこれらはただ一つの本能からの結果であるーー

救世主の生涯はこうした実践以外の何ものでもなかった、--彼の死がまたこれ以外の何ものでもなかった・・・(ニーチェ『反キリスト者』三三節 原佑訳)





《「隣人」とはもともと信仰の仲間、ユダヤ人のことである》などという文がある。

このニーチェ解釈によれば、フロイトやラカンがあれほどゴネた「隣人」をめぐる議論は、十字架の上で死んだ唯一のキリスト教徒以外の「似非キリスト教徒」によって拡大解釈された「隣人」の議論ということになる。

「お前の隣人をお前自身のように愛せ」……。なぜそんなことをしなければならないのか。そんなことをして何の役に立つというのか。それに第一、そんなことはできようはずはないではないか。私の愛は私の貴重な財産なのだから。充分な理由もなしに大盤振舞いすることなど許されない。(……)

そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちの持物だと思っているのだから。私がその他人をこれら家族の者たちと同列に置けば、私は自分の家族を不当に扱うことになる。けれども、その他人も昆虫・みみず・がらがら蛇などと同じくこの地上の生物であるという理由でどうしてもその他人を愛さなければならないとすれば、この他人に振り向けられる私の愛はごく微量だ。理性の判断にしたがうかぎり、私も私自身のために自分の愛の一定量を取っておく権利があるが、それだけの量の愛をこの赤の他人に振り向けることはとうていできない。(……)

まったくの話、あのご結構な命令が「お前の隣人がお前を愛するのと同じようにお前の隣人を愛せ」といっていたら、私はなんの異議もさしまさまないだろう。(……)

ところが、もっと不可解に思え、もっと激しい抵抗を感じさせる第二の命令がある。それは、「お前の敵を愛せ」というのだ。しかしよく考えて見ると、このほうがもっと不当な要求だといって退けるのは当たらない。なぜなら、これら二つの要求は、根本においては同じことをいっているのだから。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3)
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でも あるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃 本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは 阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する 種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(同フロイト『文化への不満』)

→《もし私が諸君にどこからこのテクストを抜き出してきたのかあらかじめ告げていなかったとしたら、これはサドのテクストだと言って通すこともできたかもしれない。 》 (ラカン SVII, 217)

サド(サン=フォン) : 「もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう」 (澁澤龍彦訳)


リルケの「隣人」にも登場ねがっておこう。

目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。

それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(『マルテの手記』)

ーーこれはたぶん大山定一訳だと思うが、いま確認しがたい(文庫本がみつからない。わたくしは『マルテの手記』は四種類の邦訳をなぜかもっている)。


愛の応答〔いらえ〕を求めての叫びかけではない、もはやそのような呼びかけではなく/おさえてもおさえきれぬ声のほとばしり、それがおまえの叫びの本性であれ。おまえは鳥のように無垢にさけびもしよう、/……/思ってはいけない、運命は幼い日の密度よりゆたかだと。/いかにしばしばおんみらは恋人を追いぬいたことか、いかなる獲得をも目ざさず、/ただ自由の世界へ突きすすむ至福の疾駆に息をはずませながら。/……/ただわれわれは、笑いさざめく隣人たちが/承認してはくれぬもの、うらやんではくれぬものを忘れやすいのだ。疑いようのないものとして/われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が/われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。/……/天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛〔もと〕めたとして! おんみは来はしない。なぜならわたしの/声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶〔こばみ〕につねに充ちているのだから。このように強い/気流に逢ってはおんみはそれを冒して歩みよることはできない。さながら高くさしのべられた/腕だ、わたしの呼びかけは。そして摑もうとして花さいた指は、/捉ええぬもの天使よ、おんみを前にして/大きく押しひろげられたままなのだ/さながら拒否と警告のしるしとして。(リルケ『ドゥイノの悲歌』「第七の悲歌」(手塚富雄訳)