このブログを検索

2014年10月28日火曜日

「私の母の淫らな頸」 粒来哲蔵

--死の総量ってどのくらい?と私は母に尋ねた。そうね、青梅の
種子の胚ほどよ、--と母は答えた。じゃその胚の重さは?とかさ
ねて問うと、母は少し間を置いてから、子猫の爪ほどよ--と笑っ
答えた。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(花神社、20140810日発行)の扉にある「青梅雨(つゆ)」という短い詩である。そのまま「帯」にも使われているそうだ。わたくしが新しい詩に廻り合うのは、ほとんど谷内修三氏のブログ「詩はどこにあるか」での紹介のみであるーーいや、「のみ」とは大げさであり九割方としておこう。新しく詩集を手にとることは、ない。

粒来哲蔵は、192815日生まれ。今年、86歳になる。『荒地』参加者の一番若い詩人が、高野喜久雄(1927年 - 2006年)だったようで、高野氏と一歳違い。だが粒来氏は、戦後、福島で小学校教員をしばらくしたあと、上京して『歴訪』同人となっているそうだ。詩から受ける印象は『荒地』の仲間たちであるように感じられるが、鮎川信夫、田村隆一、吉本隆明などのよく名の知られた詩人たちよりはすこし遅く生まれている。だが遺言執行人の世代であるには相違ない。


たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
——これがすべての始まりである。

死んだ男」より  鮎川信夫


《死に直面した人間、多くの仲間を失った人間は、もし一メートル右にいたら、自分も死んだかもしれないという偶然を、決してないがしろにはできないだろう。たとえ、それから一年たち、あるいは二〇年たっても、それは同じことである》(黒田三郎)

これは七〇年たっても同じことである。


以前、同じ谷内氏のブログで粒来哲蔵の「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」からの引用を読んでびっくりした。それまでは名も知らなかった。

 背景ともども白くぼやけた写真の中で、笑っている女がいる。もち
ろん女の笑いそのものもぼやけていて、指を口もとに当てているよう
には見えるが、指をとると肝腎の口がない、唇がない。在るのは笑い
だけであって、みているとその含み笑いがいつのまにか弾けるような
哄笑になり、ぼやけた背景の隅々にまで細かい縮緬状の小皺を作って
いる。
 笑いが消えると、写真のどこにも女はいない。後には女のいた証拠
に、さびれた女の古里がせり出して来て、崩れかけた分教場の机の上
に女の口と唇がのっている。

この詩を読んで鳥肌が立つほど打たれたのは、リルケの世界のなかのみの衝撃ではなく、まさに日本のおそらく戦争時の風景のなかでーーわたくしの母の女学校時代の懐かしい写真にあるかのようにーー、《顔を剥がれた血みどろの頭部がむき出しになっている》のを見た気になったせいか。

だがあの女。あの女には驚いた。彼女はすっかり考えごとに沈んで、前のみりにからだを折りまげ、手に顔を埋めていた。それはノートルダム・デ・シャンの通りのかどだった。ぼくは彼女を見かけるとすぐ、足音を忍ばせた。あわれな人々が考えごとをしているときには、そのじゃまをしてはならない。それでも、たぶん彼らはすぐ気づいてしまうのだ。

その通りにはまるで人影がなかった。いわばその空虚さ自体が退屈さのあまり、ぼくの足もとから足音を抜きとって、木靴なんぞのように、それをからころともてあそんだ。女は驚いて顔を上げたが、それはあまり急激な動作だったものだから、顔が両手のなかに残ってしまった。ぼくにはそれが両手のなかに、くぼんだ鋳型のように残っているのが見えた。ぼくはこの両手にだけ目をそそいで、この両手からむりやりひき放されたものを見まいとして渾身の力をふりしぼった。顔をその裏側から見るというのは、むろん恐ろしいことだったが、顔を剥がれた血みどろの頭部がむき出しになっているのを見るのは、もっともっと恐ろしいことにちがいなかった。(リルケ『マルテの手記』)

実は雷に打たれたようなとてつもない心持になったのは、ほかにも理由があるのだが、ここでは書きたくない。崩れかけた分教場の机の上の女の口と唇、ーーこれがいけない。

ところで処女詩集『虚像』(1956)に収められた「射程」にはこうある。

私の肩には古風な銃が掟のようにのつている。この引鉄をひくことは容易ではなかろう。第一私はこの銃を好いていない。これを私に遺したのは私の祖父である。祖父はこの銃で妻を撃ち自らも死んだ。以来白い標的は絶えず私の目の前に動いている。それは季節はずれのダリアであり、私の母の淫らな頸である。
 私は、この銃をかつて試みたことがない。何故なら私はこれが私の意に抗つて、射角を途方もなく拡げることを懼れるからだ。事実これには死角がない。つまり一切の事物がこの銃の背後に隠れることを許されていないのだ。死角であるべきところには、いつも母が佇つているが、それは酷く私の指をためらわせるので、母は永劫に死ねないだろう。
 ある日、私は立木を背にして、見定め得ぬ虚空の一点にこの銃を擬していた。と忽ち単純な波動が枯葉を巻いて私の脚に衝き当り、私の疑意を一層根深いものにした。銃口は確かに下降しつつあり、逆に私の位置は堆土の上に被いかぶさつた一枚の幕布のように思われた。すると私の場を囲んで荒々しい跫音がきこえ、私はその中に、私の祖父の咳の音も聞きとつたのだ。

処女詩集からそうそう《私の母の淫らな頸》と出てくる、《季節はずれのダリア》とともに。それは《白い標的》なのだ、いつまでも消えずに繰り返し現われるーー。ダリアは「心臓の音/ダチュラ」(村上龍)だ。


ここで高橋睦郎の70歳の誕生日をめぐる詩を挿入しておく。

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく 妹
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね

ーー「奇妙な日」(高橋睦郎)


86歳の詩人粒来哲蔵が謳い呟く「母」を、もういくらか抜き出してみよう。

              男の夢の中で、母は前掛をしめ忙し
く立ち動いていた。母は男の好きなカドの腹を裂いて竿にかけ一夜
干しを作っていた。母の膝の近くにカドの入ったバケツがあり、母
はカドをつかんでその腹に指を入れていた。卵が散り、母の顔にう
ろこがはねた。母は笑っていた。この時も夢の中で男は母に駆け寄
った。カド臭い前掛が頬に触れた。
 
ーーカドとはにしんのことだそうだ。にしんの腹を指でまさぐり卵がはじける、そして母の笑い、にしんの臭い。エロチックでありながら、タナトスもある。正月前ににしんの昆布巻きをつくるのだけは欠かさないようにしたわたくし自身の「母」の顔が、遠くからやってくる。

次は莟を潰してかるい破裂音のしたあと、その先から漂う淡い香りにうたれ、しかも手触りが天竺鼠の赤子の肌の感触に似ている、と。そして少年が匂いにうっとりしていると母に見咎められる、とある。小胞をつぶしてーーたとえば、にきびをつぶしてーーその先から何かが飛び出すのは、フロイトによれば、すべて手淫のかわりであり、それは淡い香りでも同じである。だが、母に見咎められるのは自慰でしかないなどという妄想に耽るフロイト頭は追っ払わなければならない。

 花が風になびいてうつ向き顔で揺れていた。少年は花のおののき
の中で、まるで花のしぶきを浴びたように立ち尽くした。ふと、手
はそれら紫の花の一本に触れた。少年は花はそのままに、指先で莟
をはさんでそっと潰してみた。莟は崩れ、崩れ際にふっというかる
い破裂音を残した。少年は莟の先から漂う淡い香りにうたれ、莟の
手触りがいつか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似てい
る--と思われた。少年はまだ香りの残る指先をみつめていたが、
その様はすぐに母に見咎められた。(「五月雨桔梗」)

次のは「妄執 2」と題されているが、その前の「妄執 1」には「作家故梅崎光生氏に」と副題があるる。その詩には「母」は出現しないが先に引用しよう。巨木と女の舌愛好家であるわたくしには引用しないままですませることはどうしてもできない。

妄執は人を殺す。たとえば熱帯のある種の蔓は、恰好の巨木の幹
に凭りながらそれを巻き、巻き攀じて成長し、身をひねり、ねじり
にねじって遂に宿主の巨木を悶死させるという。
 腐ったまま菌類の餌食と変り果てた巨木の骸の洞から、どうかす
ると当の蔓の新芽の葉先が、木洩れ日を浴びてくねくねと体をくね
らせながら、なおも新たに身を委ねるに適わしい頃合の樹幹を探る
姿勢を見ると、それはもはや妄執としかいいようがない。
 見るがいい、新芽の葉先はまるでどこそこの女の光る舌のようだ。
もしかすると巻かれ巻かれて巨木は愉悦のうちに倒壊したのではあ
るまいか……。
月夜だった。鎌の形の月の下で男は歯を磨かねばと思った。男は
上衣の内ポケットから歯ブラシを取り出そうと幾分身をかがめ、手
間どりながらも歯ブラシを引き出そうとした--がその時、俘虜監
視の米兵が、男が拳銃を取り出す仕草と見てとった。彼の銃が鳴り、
男の手の中のうす青い歯ブラシの柄は粉砕した。弾丸は男の胸を貫
き、男は血反吐を吐いて死んだ。米兵が来て男の屍を見下ろしてか
ら靴先で男を転がした--歯は磨けずじまいだった。

さてこうして、「妄執2」の《おっ母、うめえよ》を続けることができる。

         手首程の太さもある牛蒡は、それでいて柔らか
で、男は故郷の母への手紙でそれを誇ろうとさえ思った程だった。
捕虜達は黙って牛蒡を噛んでいた。
 幸い大方の牛蒡はうす紫色の花をつけ、収穫期には相当の嵩をも
たらした。引き抜いてみた牛蒡の土を手でこそぎ、男はそれを火に
くべて焼き牛蒡にして食ってみた。芳香は男の腹にしみた。--おっ
母、うめえよ、と男は呟いた。(「妄執 2」)

次の「冬瓜」には「母」は出てこない。そのかわりに《老いて病み衰えた女の下半身》が出てくる。

そのうち老いて病み衰えた女の下半身は、泥田につかった日の記
憶そのままに重かった。女は終生貧しかったから、生家の誰彼の侮
蔑に長く耐えたが、あえてそれを咎めることはなかった。痩せた手
にかって冬瓜車を曳いた感触はまだ残っていて、女はひとりふふ、
と笑う日もあった。
 女が死を迎えた時、一人残った女の息子は母の好みの冬瓜汁を作っ
てみた。冬瓜の薄切りを淡く煮て、片栗粉でとろ味をつけた。それ
は歯応えのないもので腹を満たしはしなかったが、何故か息子には
懐しく思われた。
--利根の堤下の枯芦の上に、冬瓜様のうす青い月が出ていた。


そして「静かな木々」。谷内修三氏が書いているように、実に美しい。静けさが美しい。北国で独楽が澄むのをみつめる子供たちのまなざしも美しいがーー《つち澄みうるほひ/石蕗の花さき》(室生犀星) ーー、《遠い森の木々の木肌を撫でるような目で私を見や》る母も美しい。

北国の子供達は、独楽の回りが頂点に達し、一瞬静止したかのよ
うな様相を示すと、独楽が澄んだ--といってはしゃぐ。すると澄
む前の回転、或いは澄んだ後の崩れに至る袴の乱れた舞い姿にも似
た回転は、子供達は何と呼んだのか、私に記憶はない。
 子供達は澄んだという形姿以外の独楽の在り様を、何とも名付け
ていなかったのではないか。
                         彼らは実に
静かにつかまる。手にしてからもこちらの指を噛むこともせず、不
意に飛び立って逃げることもない。彼らは交尾以外の些事にかまけ
ることはない。おそらく彼らにとって人の手に捕われ死を目前にし
ても、その死もまた些事と観じているかのようだ。彼らは静寂の時
を知っている。
母に蜻蛉の話をしたら、母は遠い森の木々の木肌を撫でるような
目で私を見やっただけだった。人と人との間にも独楽に似た蜻蛉に
似た静寂の時間は創り得るのか、と実は尋ねたかったのだが、止め
にした。母の瞳の中で木々の肌が互いに寄り合い擦り合い、玄妙な
微音を奏でているのが感得されたからだった。全ての葉の落ちた木々
の木肌の風に寄り添って触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音
が深まるにつれいや増しに増していく森の静寂--。若い母の内の
ほとばしるものの一瞬の静止、静寂。

一瞬の静止、静寂。-- 《だがぼくはそれを十分に聞いただろうか》


静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音  遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくても聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属していて
静けさはこの地球に根ざしている

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の棘は地下でからみあう毛根につながり
声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

ーー谷川俊太郎「夕立の前」の二連から四連まで(五連まであるが、ここでは割愛)。


と引用したところで、谷川俊太郎は何年生まれだったかと調べてみると、1931年12月15日生まれであり、粒来哲蔵より三年若いだけである。

粒来哲蔵の詩は、辛抱強く待たれたあとふたたび戻ってきた掛け替えのないもののみが歌われている、とわたくしは思う。21世紀も10年以上過ぎて、こういった詩に廻り合えたことの僥倖、ーーその紹介者に感謝しなければならない。

谷内修三氏は、この粒来哲蔵の「静けさ」に打たれてかどうか、次のような詩を書いている。

…………

大通りから路地に入るときの、  谷内修三

大通りから路地に入るときの匂いが好きだ。
雨が上がって、光がケヤキの葉っぱに集まってきて、
輝きながら落ちていくとき空気の中の静けさが匂う。

大好きな本の、何度も何度も傍線を引いて読んだことばを、
また思い出すために読むときのよう。

…………

路地にはいり込んでゆくときの感覚、その静かな懐かしい歓びに包まれる思いが、慈しんだ言葉に出会うために本を開くときの感覚の比喩と重ねられて、しっとりと謳われている。木の葉が光りに輝き、路地に入ってしばらくすれば、生活のにおいも濃密さを増し心地よさに浸ることができる。ここには「一瞬よりはいくらか長く続く」刻限がある。また、ひとは本を開くまでもなく、たとえば少年時代に愛でた本の背表紙を撫でさするだけでも、路地に入ってゆく思いがすることもあるだろう。

きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

わたくしは三十過ぎに、しばしば京都の街中の人通りがすくない路地を選んで、ひとりで歩き回った。そして錦市場近くのお気に入りの店で食事をしたり、ちょっとした買い物(魚の干物や漬物など)をするのをひどく好んだ。顔馴染みになった女将さんたちの上品な笑顔がノスタルジーの甘美な痛みとともに浮かんで来る。あの路地廻り当時は、ある個人的な幻滅があって人恋しさでいっぱいだったということもある。

さらに言えば、ここでは「路地」の作家中上健次は持ち出さないでおくことにするが、路地は、エロスの、母胎回帰の場所でもある。ベンヤミンは、「女と本はベッドに連れこむことができる」という古い俚諺を持ち出し、娼婦と書物との関係をめぐる考察をしていたそうだ。彼にとってパリは、「知」と「性」とが錯綜した絡まり合いを示す街にほかならなかったのであり、《実際、パリを「遊歩」するとは彼にとって、巨大な女体の秘部をまさぐることでもあった。/内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない》(松浦寿輝)と。

次のように金井美恵子が書くとき、女陰の「不気味さ」と「懐かしさ」を、そこに読んだっていいだろう。

腐敗した水のにおいだけではなく、路地の家々の壁には小便のにおいがしみついていて、粘り気のある有機質のにおいに混じったきな臭いアンモニアのにおいが充満してもいるのだ。腐敗した牛乳の匂いに似た、皮膚の表面から分泌する、汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおいが建物の中庭に咲いているジャスミンと薔薇のにおいと混じりあり、甘ったるい吐き気のする睡気になって私の身体を包囲する。(金井美恵子『沈む街』)

《俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。》(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』)

やはりフロイト的妄念をいたずらに忌避するのはやめて、彼に少しだけお出まし願おう。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)

…………


《思い出を持つだけでも、まだ十分ではない。思い出が多くなれば、それを忘れることもまたできなければならない。忘れられた思い出がいつかふたたび戻ってくる日を、辛抱強く待たねばならない。》

だが詩というものは、若いころに書いたものにろくなものはない。それには待つということが大切だ。そうして一生かかって、それもたぶん長い一生を倦まずたゆまず意味と甘味とを集めねばならない。その果てにようやくたぶん十行の良い詩を書くことができるのであろう。なぜなら、詩はひとの言うように感情ではない(感情ならはじめから十分あるわけだ)、――それは経験なのだ。一行の詩句を得るためには、たくさんの都会を、人間を、物を見なければならない。けものたちを知り、鳥の飛び方を感じ取り、朝小さな草花のひらく身ぶりを知らなければならない。はじめての土地の、なじみない道のことを、思いがけない出会いや、もう久しくその近づいてくるのが見えていた別れを思い出すことができねばならない、――まだよく意味が明らかにされていない幼年時代のことを、また、両親がぼくたちをよろこばせようとして持って来たものが、ぼくたちにはなんのことかわからず(それはほかの子どもならよろこぶにちがいないものだった)、両親の心を傷つける破目になってしまった思い出や、じつに奇妙な始まり方をして、思いがけない深い重い変化を伴う子どもの病気のことや、ひっそりとつつましい部屋のなかですごす日々のことを、海辺の朝を、海そのものを、多くの海のことを、高い天空をざわめきながら、星々とともに飛び去って行った旅の幾夜さのことを、――そしてたとえ幸いにも、そういう一切のことを思い出すことができても、それはまだ十分ではない。ひとはまた、どの一夜も他の夜に似ることのなかった多くの恋の夜の思い出を持ち、陣痛にあえぐ女たちの叫びと、産み終えてかろやかに、しろじろとして眠っている女たちの思い出を持たねばならない。しかしまた、死んで行く人々の枕辺にはべり、死んだ人とひとつの部屋にすわって、あけた窓から高くなり低くなりしながらきこえてくる外の物音に耳傾けた経験がなくてはならない。そして思い出を持つだけでも、まだ十分ではない。思い出が多くなれば、それを忘れることもまたできなければならない。忘れられた思い出がいつかふたたび戻ってくる日を、辛抱強く待たねばならない。なんとなれば、思い出はそれだけでは、まだ何物でもないのだ。それがぼくたちの内部で血となり、まなざしとなり、身のこなしとなり、名もないものとなって、もうぼくたち自身と見分けがつかなくなってはじめて、いつかあるきわめてまれな時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、それらの思い出のただなかから立ちあがって、そこから出て行くということが考えられるのだ。。(リルケ『マルテの手記』)


ーーとしばらく前に書いてほうってあった。いまいくらか削った。途中、書いてあったことを消し去り、「書きたくない」とした。谷内氏が紹介する粒来哲蔵のもうひとつの母の詩をそのかわりに掲げよう。「石の声」という詩である。

--ひとはどうも身の内に湖を蔵しているのではあるまいか。近
頃少し傾けばその湖、つまりわが内在湖の水が鳴り、水が何処そこ
から洩れ出て来るように思われる。まず転倒すれば膝裏でごほごぼ
と水音がする。かがめば背胸骨の中でちりちりと水音がして、耳孔
から鼻孔から水がこぼれ出す。女を抱けば当然迸るものが、橅の
落葉の下水程にやわやわと哀しくこぼれ出る……。身の内ばかりで
はない。心情の傾斜にも内在湖はいちいち波立ち、静まって、果て
は温い靄さえ吐き散らす。
内在湖の水際に母といた。私は母の背に負われていて、その母の
踝は水に浸っていた。母の脛の影が湖にのびていて、その小揺ら
ぎが私の目に眩しかった。負われたまま私は二三歩進み、母の背か
らずるずると水に落ちる気配だった。
           -と母は両手で抱えあげて私
を元の背に戻してくれた。私はいやいやをしたようだった。抱え上
げる母の手を拒んでやや乱暴に湖に降り立ったと思う。私が手で水
を掬い砂粒を掻き集めていた間、母はゆったりと靄につつまれ、湖
面を撫でるようにして遠去かって行った。私の手からひとりでに砂
がこぼれた。
母の死は私の知らぬうちにやって来た。母は庭先で猫と戯れなが
ら死んだのだ。不意に猫が奇妙な声をはりあげたから、猫は母の死
の到来を知っていたのだ。母が自らの死を認識する前に、死の方は
猫に予告し、伝達さえしていた。
父は変哲もない小石を一つ、真綿にくるんでマッチの空箱の中に
収い置いたのを私に遺した。遺したくて遺したものでもあるまいが、
どう叩いても割れる代物ではなかった。私は時折その石を耳に当て
がうことがある。