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2014年10月11日土曜日

能動的ニヒリストと受動的ニヒリスト

@kumatarouguma: ドゥルーズを読んで政治を語りたがる人間は、あらゆる批判、反省、省察は何もの意味もなさない、すべて新しいものはいいものである、それだけがまともな世界をつくることができるという、そういう言葉にこめられた絶望と凄みを実践的に考えるべきだとおもうけどね。他人を批判する人間のほぼ99%はただのルサンチマンで怨恨、こんなもので政治と正義を語ったと気取っている連中が「権力」なぞににぎったらどういう連中になるか容易に想像ができる。本当に最低の社会になるぜ。(檜垣立哉)

――という文を以前拾ったのだが、
ネット上のツイート記録としては残っていないようで、
削除されたのだろうか。

檜垣立哉氏といえば、ドゥルーズの、
やや旧世代に属する代表的な研究者の一人としてよいだろう。

ところで、この文は「斜めから」読むことができる。
まずは《ドゥルーズを読んで政治を語りたがる人間》
を批判しているに相違ない、
《政治と正義を語ったと気取っている連中》を。

彼らの振舞いが《ただのルサンチマンで怨恨》であるかは
窺い知れないが、中堅世代で人気がある
《ドゥルーズを読んで政治を語りたがる人間》は想定できないでもない。

その人物が「権力」を握っているかどうかは別にして、
テレヴィでコメンテーターとして活躍したりするようだ。
あの現象は「啓蒙」哲学者として、
「ほどよく聡明な」インテリ公衆への
「権力」を握りつつあるとしてもよいかもしれないとは思う。

で、その中堅の学者批判なら檜垣氏ツイート自体が、
ルサンチマン=反感として読めないでもないのだな

ところで、これもツイッターから拾ったのだが、
もう一人の人気もののドゥルーズ研究者
――政治と正義を語らないタイプーーの著書をめぐって、
スガ秀実氏が次のように語っているようだ。

@toyamakoichi
昨日のスガ秀実氏語録。「千葉雅也の“動きすぎてはいけない”はその真意はともかく、届くべきところ(TVコメンテーター業に精を出す若手インテリ)には届かず、届くべきでないところ(政治運動アレルギーな若手インテリ)に届いてキャッチフレーズ的に流通してしまう危険性が高い」2014-07-22 10:30

かつてドゥルーズは、地球の裏側で起きたことを、
まるで自分の足もとで起こったことのように感じることのできる感性をさして、
それを「左翼的なもの」であると言ったそうだ。

これも出典をウェブ上で検索してみようとしても見当たらない。
だが「左翼」であるだろう野間易通氏のツイートに遭遇した
(このところ野間氏への言及が多いがこれは偶然である)。

21世紀の日本では「遠く起きていることを我が事として感じ取り、近く起きていることを他人事と感じ取る者たち」にアップデートしなければ。平井玄がその筆頭。RT @hiraigen: ドゥルーズは、左翼を「遠く起きていることを我が事として感じ取る者たち」と言い遺した。

もっとも「遠く起きていることを我が事として感じ取り、
近く起きていることを他人事と感じ取る者たち」とは、
21世紀の日本」とまで言わないまでも、
古典的心理学の範疇内の見解ではある。

人が同情を寄せる相手は、知らない人びと、想像で思い描く人びとであり、すぐそばで卑俗な日常生活のなかにいる人たちではない(プルースト『見出された時』)

…………

とまで書いたところで方向転換。

「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ! 虚無への意志よりもむしろ意志の虚無だ!」と呟く最後の人間が現われる(……)。しかしながらこういう決裂を発条〔ばね〕として、こんどは虚無への意志が反動的な諸力に反逆するようになり、反動的な生それ自身を否定しようとする意志になる。そして人間に、自分自身を能動的に破壊したいという欲望を抱かせるのである。最後の人間を超えた彼方には、だからさらにまだ滅びようとする人間がいる。そしてニヒリズムが成就するこの地点において(すなわち〈真夜中〉において)、すべてが準備されているーーつまり価値転換への準備がととのうのである。(……)

ツァラトゥストラの〈然り〉は、ちょうど作り出すことが担うことに対立するように、驢馬の〈然り〉に対立する。ツァラトゥストラの〈否〉は、ちょうど攻撃性が怨恨に対立するように、ニヒリズムの〈否〉に対立する。価値転換とは、肯定ー否定の諸関係をこのように転倒することを意味するのである。ただし価値転換とは、ニヒリズムの後で、その出口においてしか可能でないことが見てとれるだろう。否定がついに反動的な諸力に叛旗を翻し、それ自身一つの能動となり、上位の肯定に奉仕するように移行するためには、人間たちの最後の者にまで至らなければ、そして次には滅びようと望む人間にまで至らねばならなかったのである(ニヒリズムの克服、しかしニヒルズム自身による克服……というニーチェの言い回しは、この点に由来する)。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳 P55-60)


《ツァラトゥストラの〈否〉は、ちょうど攻撃性が怨恨に対立するように、
ニヒリズムの〈否〉に対立する》とあるが、
檜垣立哉氏は、ツァラトゥストラではまさかないだろうが、
あれはツァラトゥストラ流の攻撃ツイートかもな。
そのように「肯定=然り」的にとることもできる。

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(『善悪の彼岸』 154番)

いずれにせよ、たぶん健康のためさ

ところで最後の人間と滅びようと望む人間の違いってわかるかい?
あまり気にしたことなかったんだが、オレ

受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズムの体現者のことかな
ドゥルーズはそれに言及していないのだが、
どこか他のところで言ってるのだろうか。

最後の人間と滅びようと望む人間とのあいだの区別は、ニーチェの哲学において根本的な区別である。(P56)

としつつ『ツァラトゥストラ』の序説を見よ、としているのだが、そこにはこうある。

人間において偉大なものとは、彼が一つの橋であって、最終目的地ではないということだ。人間において愛しうる点とは、彼が過渡であり、破滅であるということだ。

私は愛する、滅びる者として生きるほかには、生きるすべを知らない者たちを。なぜならそういう人々は、滅びつつ、自己を超える者たちだからである。……

《滅びつつ、自己を超える者たち》というのは
能動的ニヒリストだよな、たぶん。

ニヒリズムとは何を意味するか? ――最高至上の諸価値が価値たることを失うということ。目標が欠けているのだ。「何のために?」という問いに対する答が欠けているのだ。(ニーチェ『権力の意志』 2番 秋山英夫訳)
ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する。

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

というわけで皆さん、
能動的ニヒリストとしてせいぜい攻撃しましょう!

これだけはやめとけよ
ローティ流のリベラル・アイロニストだけは

ローティにとって、リベラルとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」のことである。また、アイロニストとは、自分にとって重要な信念や欲求が、時間と偶然の範囲を超えた何ものか、つまり〈真理〉に関連しているのだという考えを捨て去る人のことである。(寛容・普遍性・肯定―「正義論」の脱構築―稲田真人)

これってまさに最後の人間、
あるいは受動的ニヒリストのことだぜ

ジジェクがしばしば口にする状況の座標を変えることってのは
小粒のニーチェの「価値転換」だからな、たぶん

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」)
人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54ーー何もしないことのエクスキューズ



※附記

われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。

(一)〈力〉への意志に関して(〈力〉への意志が、「支配欲」を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じこむこと)。

(二)強い者と弱い者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。

(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。

(四)最も後期の諸作品に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。(ドゥルーズ『ニーチェ』P74)