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2014年10月24日金曜日

天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」

 ◆ジジェク『LESSS THAN NOTHING』より(私訳)
哲学の存在論的前提に反して、ラカンは享楽の現実界に焦点を絞った。それは単純に言語の外部にあるのではないにも拘わらず(むしろ言語に関して外-親密“ex‐timate”である)、象徴化に抵抗し、言語内部で異物の核のままであり、裂開、切れ目、ギャップ、非一貫性、あるいは不可能として現われるなにかである。

Against this ontological premise of philosophy, Lacan focuses on the Real of jouissance as something which, though far from being simply external to language (it is rather “ex‐timate” with regard to it), resists symbolization, remains a foreign kernel within it, appearing as a rupture, cut, gap, inconsistency, or impossibility:

《私は、ある関係を今明らかにするために、いずれの哲学者にもけんかを売っています、関係、すなわち、シニフィアンの出現と享楽が存在に結びつく間にあるもの…… どの哲学者も、私に言わせれば、今日ここでわれわれに落ち合うことはできません。哲学のみすぼらしく挫折した酔狂、それは、ぐずぐずした習慣として、前世紀(19世紀)の初めから、われわれは足を引っ張られているのですが、この問いに直面しないで、その周囲を踊る方法にすぎません。それは真理についての唯一の問いであり、また言わば、フロイトが名づけた死の欲動、原初の享楽のマゾヒズムなのです…… すべての哲学的陳述はここから逃れ視線を逸らしています。》(ラカン セミネールXIII(未出版)

I challenge any philosopher to account now for the relation that there is between the emergence of the signifier and the way jouissance relates to being … No philosophy, I say, meets us here today. The wretched aborted freaks of philosophy which we drag behind us from the beginning of the last [nineteenth] century as habits that are falling apart, are nothing but a way of dancing around rather than confronting this question, which is the only question about truth and which is called, and named by Freud, the death drive, the primordial masochism of jouissance … All philosophical speech escapes and withdraws here. Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).


extimateという語が出てきて、仮に外-親密と訳したが、外-密とも訳されることもある。この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということである。《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(Lacan S16 松本卓也氏ツイート)

それ以外にも、ことさらいつもにもまして自信のないイイカゲン訳であり、とくにラカンのセミネールのなんと訳しにくいこと! 

ex-timate”をジジェクは他の書で次のように使っている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』――『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのでのex-timateが出て来ると同時に ,a foreign body at the very heart of myselfともある。foreign body は、本来、目のなかの異物という意味で使われることが多いらしいが、初期フロイトはすでにこの用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。

その独原語はFremdkörperであり、邦旧訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。


Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

というわけで冒頭の文の”a foreign kernel ”も「異物としての核」と訳したんだが、要するにラカンやジジェクの文で”foreign”と出てくるときは、フロイトのFremdkörper”を想起しなさいということだな、ジジェクがかつて多用した“alien”ーー映画のエイリアンからだがーーこれも、この絡みであることに最近ようやく気づいた。

…………

で、何が言いたいかと言えば、快感原則の彼岸に死の欲動があるんじゃないんだな、ジジェク=ラカンの視点では。

ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳ーーラカンの三つの身体


享楽も死の欲動も、言語=象徴界の空間に、傷として回帰する、象徴界の彼岸(向こう)にあるんじゃなくて。

ドゥルーズやジジェクは、死の欲動は超越論的であるというのだけれど(参照:攻撃欲動はタナトスではなくエロスである)、超越論的とは、柄谷行人の言い方では存在しない(目に見えない)けれど機能するものである。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

オレみたいな経験論者には、手強いなあ。至高の経験論者である〈きみたち〉にはいっそうそうだろ?

でも経験論者だと、いつまでも天動説のままなんだよ、地球のまわりを太陽動いたままなのさ、すなわち、〈きみたち〉にとっては、地球中心(自己中心)のままということになるな、〈きみたち〉にはオレも含めてもいいさ、もちろん!

一般には、コペルニクス的転回は、天動説(地球中心)から地動説(太陽中心)への華々しい転倒として理解される。しかし、地動説は古代から存在したものである。それがコペルニクスによってはじめて理論として成立したのは、主観が対象を受動的に受け取るという考えから対象が主観の形式によって能動的に構成されるという考えへの転回によってである。カントが重視したのは後者のように見える。そして、カントのあとの観念論はそこに成立する。だが、そのとき、カントがなそうとした転回が、本来、地動説(太陽中心)、いいかえれば、世界はわれわれが構成したものではなく逆にわれわれが世界の中に投げ込まれているのだという考えに向けられたことが忘れられる。(柄谷行人『トランスクリティーク』 P208

というわけでもう少し柄谷行人を引用しよう。

コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。(……)

フロイトの精神分析が画期的なのは、「無意識が人間行動の多くを制御している」という考え自体――それはロマン主義以来常識であった――にあったのではない。初期の『夢判断』――これも古来存するものだ――が示すように、意識と無意識のズレをもたらすものを、言語的な形式においてみようとしたところにあった。そして、そのことから無意識の「超越論的な」構造が見いだされていったのである。(……)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)

柄谷行人、二種類の反復(「反復強迫automaton」と「反復tuche」)、あるいは二種類の無意識(ふたつの主体)の区別ついてんだろうか? まああまりつっこまないでおくけどさ、えらそうなことはぜーんぜん言えないからな、オレは。

でもフロイトの無意識も「超越論的」なのさ、「無意識が人間行動の多くを制御している」なんていっているだけの連中は、天動説のままってわけ。


さて、ニーチェにお出まし願おう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸


善悪の彼岸も、おそらく超越論的だよ、と言ってんじゃないか、ニーチェは。

とすれば、権力への意志や永劫回帰も超越論的なのかね? さあて、経験論者の凡庸な頭では、サッパリわかんねえな。

でもいつまでも天動説はいやだからなあ、きみたちはへいっちゃらかい? ひとが何を言おうと、自分の感じることは真実だ、なんて言ってる連中は、太陽がいまだ動いているつもりのボケらしいぜ。まあオレは阿呆のまま人生終ってもいいがね、若いきみたちはやめとけよ。

標準的な見方からすれば、主体性を構成している次元は現象的な(自己)経験の次元である。次のように自分に言えたならば、その瞬間に、私は主体になる。「どんな正体不明のメカニズムが私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私がたったいま見て感じていることを、何物も私から奪うことはできない」。たとえば私が激しい恋愛をしているときに、生物学者が私に、私の強烈な感覚は私の身体の生物学的なプロセスの結果にすぎないと言ったとする。私は見かけに固執してこう答えることができる。「あなたが言っていることはすべて正しいかもしれないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と。分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本的幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となったときに、はじめて登場するのである。接近不能な現象とは、最も根源的なレベルにおける無意識であり、私の現象的経験を規定する客観的メカニズムではない。したがって、常識的には、ある実体が内的生活(外的行動に還元できない幻想的経験)の徴候を見せたなら、そこにあるものは主体だと考えるわけだが、これと対照的に、われわれは以下のように主張すべきである。すなわち、人間の主体性を特徴づけているのはむしろ、外部と内部を隔てている落差、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である、と。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』p96)

しぱしぱよ、なぐさめに、船人ら
信天翁生け捕るよ、
潮路の船に追いすがる
のどけき旅の道づれの海の巨鳥。

ーー「信天翁(あほうどり)」『悪の華』 ボードレール、堀口大学訳

アホー、アホー、アホー