近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である。(梅崎春生)
ーーつまりはこういうことだよ、オレの言う「若い奴らは……」ってのは。
しかもこの嫉妬=ノスタルジーは、古典主義的ノスタリジーでさえなく、ロマン主義的ノスタルジー、すなわち「不在の追憶」、「一度たりと存在していなかったもの」へのノスタルジーでさえありうるからな。
ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(ローゼンのシューマン論 ―― Slavoj Zizek/Robert Schumann-The Romantic Anti-Humanistよりの孫引き)
誰もがたやすく絶望しようとはしない現実への深い絶望、それは、特権的な輝きを欠いた現在という曖昧な中間地帯をのがれ、いま、ここではない世界に不在の理想郷を、きまって夢想せずにはおれない。そしてその理想郷が、未来であるか過去にあるのかどちらかでしかないという事実が、文学の(あるいは思考の:引用者)制度性とみごとに一致する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
で、現在に、《「これこれをしておいたら、いま陥っているーー未来の「今」陥ってるーー破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入すること》が肝要らしいな。
過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。
《大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。に もかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(ジャン=ピエール・デュピュイ Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。》
もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。
環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。
つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
まあ、ジジェクもいろいろ言うからな、次のは90年代初頭のノスタルジアをめぐる文。オレのノスタルジーはほぼこのメカニズムが働いていると思うよ。ヤメナクチャいけないな、心地よいノスタルジーは。
ノスタルジックで懐古的な映画では、対象としての視線の論理はそのものとしてあらわれる。魅惑の真の対象は、提示された場面ではなく、それに魅惑され吸収された素朴な「他者」の視線である。
たとえば『シェーン』では、われわれは「無垢な」子どもの視線という媒体を通してのみ、シェーンの神秘的な出現に魅惑されるのであって、直接的に魅惑されるわけではけっしてない。主体が対象の中に(自分が抱いているイメージの中に)自分の視線を見出すという、つまり自分の抱いているイメージの中に「見ている自分を見る」という、このような魅惑の論理について、ラカンは、これこそが、主体と内省(自己反映)というデカルト主義の哲学的伝統を特徴づけている、完璧な自己鏡像という幻想そのものであると述べた。
だがここでは眼と視線の二律背反はどうなったのか。すなわち、ラカンの主張の眼目は、哲学的主体の自己反映にたいして、対象としての視線と主体の眼との還元不能な不一致を突きつけることである。対象としての視線は、自己満足的な自己反映の点などではけっしてなく、主体の見ているイメージの透明性を曇らせる染みとして機能する。他者の中の、他者が私を見つめ返している点を、私はちゃんと見ることができないし、自分の全体的視野の中に取り込むこともできない。ホルバインの『大使たち』の細長い染みのように、その点は私の視野の調和を乱す。
われわれの問題にたいする答えは明らかだ。すなわち、ノスタルジックな対象の機能とは、その魅力によって、眼と視線のとの二律背反をーーつまり対象としての視線が与える外傷的な衝撃をーー隠すことである。ノスタルジーにおいては、他者の視線はある意味で飼い馴らされ、「高級化gentrify」されている。視線が、調和を乱す外傷的な染みとして噴出するのではなく、われわれは「見ているわれわれ自身を見ている」ような、つまり視線そのものを見ているような幻想を抱く。(ジジェク『斜めから見る』p224 )
けれどもプルースト的過去の無意志的想起(レミニッセンス)とはまったく違うのだよ。
紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、「コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する」。「コンブレがかつて現在であったためしがない〈純粋過去〉という形式で、つまりコンブレの即自という形式で出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)
たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である<私>は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)
このあたりが区別がつき難いときがあるのだよな、ジジェクや蓮實重彦が貶すノスタルジーと。いいんじゃないか、過去に溺れすぎてなかったら、--と最近は思うようになったね。プルースト的な無意志的的想起なんて一年に何度もあるもんじゃなかいらな。
ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)