このブログを検索

2014年10月2日木曜日

「俺があの男を憎むのは、俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ」

「日本人の嫌韓・嫌中感情の根」とでも題名をつけようとしたが、このところネトウヨらしき方々からたびたびコメントを頂くのでーーやっぱり〈旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通〉などという題で投稿するもんじゃないなーー、ドストエフスキーの言葉にしとくよ。

題なんかどうだっていいよ
詩に題をつけるなんて俗物根性だな
ぼくはもちろん俗物だけど
今は題をつける暇なんかないよ(谷川俊太郎)

まあ君らは興味ぶかいひとたちであるには違いないのだが、どうもよい贈り物が見つからなくてね

小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。(……)

わたしはまた、どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。沈黙は抗弁の一種なのだ、言いたいことを飲み下してしまうのは、必然的に性格を悪くするーーそれは胃さえ悪くする。沈黙家はみな消化不良にかかっている。--これでおわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

血圧はもともと高いんだが、さらに胃も悪くもしたくないのさ。この記事も凡庸なオレなりの糖菓入り壺のつもりなんだが、わかってくれるかい?


…………

「《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

「あいつは俺に親切だったか」はここでは保留しよう、だが「俺はあいつにひどい仕打ちをした」に相違ない。日本の植民地支配のことである。われわれは負い目があるから謙虚になるのではない。負い目があるからこそ、あいつを憎むのだ(たとえば嫌韓・嫌中)。

犯罪者は、単に自己の予め受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。(……)共同体は犯罪者を除斥するーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」、「良心の疚しさ」・その他」木場深定訳 P81)

もっともこれでは世界的排外主義の傾向を説明できない。その説明としては、これはたぶん若き有能なラカン派の松本卓也氏の論文への反応のはずだが、次のような文がそれを明らかにする。

猫飛ニャン助 @suga94491396

現代のレイシズムを享楽する(と想定された)他者のスケープゴート化と見なすミレール/ジジェクの分析は妥当と思うが、それに精神分析は対応できないというのも、そのとおり。処方あっても、「健全なナショナリズム」=「衣食足りて礼節を知る」を出まい。衣食足りずして礼節を知ることは可能か。(スガ秀美)

ここにある享楽すると想定された他者とは、前投稿での対象aのこと。

S1—the subject supposed to believe; S2—the subject supposed to know; a—the subject supposed to enjoy; and … what about $? Is it a “subject supposed to be a subject”?(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)


さて話を元に戻せば、他方、韓国や中国の「共同体」は日本人を排斥する。そして、あらゆる種類の敵意は日本人の上に注がれてよいことになる、――ということがいえるだろうか。では例えばドイツは?

加藤周一は『20世紀の自画像』(ちくま新書 2005)の「あとがき」に、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次のように書いている。

「個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。

戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。

その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。

何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。

私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。

2005年といえば、加藤周一(1919年9月19日 - 2008年12月5日)の死ぬ3年前ということになる。


加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。(浅田彰

ーー大知識人ではなくてもいいさ、小知識人のみなさん、なにやってんだい?


さて日本の政治家・高級官僚たちが、「歴史修正主義」やら「戦後レジーム」の復活やらを言い募るのなら、それは火に油をそそぐことにしかならない。

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相 2014.3.14

ところで「戦後レジーム」の脱却とはなにか。次のような見解がある。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授


しかも憲法 9 条をなし崩しに変える、あるいは解釈崩壊させようとしているわけで、火災中の大風のようなものだ。

つい先日なくなったばかりの土井たか子の次の言葉は核心を突いているんじゃないか。

「日本は、アジアに対する謝罪をしたと思ったら取り下げるみたいなことを繰り返してきた。 しかし、それで済んでいるのはなぜかというと、実は平和憲法が『大きな謝罪』として、『反省』だとして受け止められている。だから、たとえ宮台さんの言うような正当な理由があった としても、憲法 9 条を変えるということは、その『謝罪』を撤回したというニュアンスになりか ねない。」 (土井たか子ーー資料:憲法の本音と建て前

…………
文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。(加藤周一「歴史の見方」1986)
ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。(柄谷行人『ヒューモアと唯物論』1993)