……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。
そ して私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を 惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)
…………
10-23-77 In the afternoon [R.] writes a long letter to Dr. Eiser in Frankfurt, who wrote a detailed report about our friend Nietzsche's state of health. R. says, "He (N.) is more likely to listen to the friendly advice of a medical man than to the medical advice of a friend."
私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。
"I have been thinking for some time, in connection with Nietzsche's malady, of similar cases I have observed among talented young intellectuals. I watched these young men go to rack and ruin, and realized only too painfully that such symptoms were the result of masturbation," Wagner on April 4, 1878
David Allisonは、1977年に出版された“The New Nietzsche”にて、このワーグナーの手紙を引用しつつ、次のように書いている。
まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、完全にばらばらに崩れ堕ちた……1878年の春の出来事によって。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。
Quite simply, Nietzsche's world completely fell apart ... by the spring of 1878, when Wagner accused him of suffering from an excessive preoccupation with onanism, and this was revealed to Nietzsche by his physician, Dr. Otto Eiser, who, as President of the Frankfurt Wagner Circle, also Circulated Wagner's charge about Nietzsche's onanism to the assembled festival celebrants at Beyreuth. Nietzsche was humiliated, and forcibly had to remove himself from perhaps the single group of educated and cultivated figures with whom he would have enjoyed public contact and recognition. (David Allison “ The New Nietzsche”1977)
この出来事は、ニーチェの生涯纏わりつくトラウマになった筈であり、彼の「忘却」のすすめ、「同情嫌悪」などは、この心的外傷性記憶に由来するところが大きいのではないかとさえ憶測することができる。
たとえば『道徳の系譜』第二論文には、《健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえない》としつつ、また次のようにもあるのだ。
「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 P66-67)
烙印された記憶はトラウマであると読むことができる。
あるいはまた、ニーチェの友人たちは、ワーグナーによるオナニズム糾弾に触れて「同情」することにより、ニーチェの《誇りを苛酷に傷つけた》のではないか?
…わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う。そればかりでなく、自分の魂をも念入りに拭うのだ。
というのは、悩む者が悩んでいるのを見たとき、わたしはそのことを、かれの羞恥のゆえに恥じたのだから。また、かれを助けたとき、わたしはかれの誇りを苛酷に傷つけたのだから。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「同情者たちVon den Mitleidigen」手塚富雄訳)
1878年の春の「出来事」当時ニーチェ三十三歳。一年後にはバーゼル大学教授を辞職しーー果たして病気だけのせいで辞職したのだろうかーー、二年後には父が死んだ同じ齢、三十六歳となる。
わたしの父は、三十六歳で死んだ。きゃしゃで、やさしくて、病弱で、いわば人生の舞台をただ通り過ぎるだけの役割を定められている人だった。――生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出だった。父の生が下降したのと同じ年齢で、わたしの生も下降した。つまり三十六歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたもの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生れた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳 P17-18)
ここで、1880年に上梓された、――ニーチェが《わたしの最低の位置だった》状態から生れたとするーー『さすらい人とその影』から抜きだそう。
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番 秋山英夫訳)
…………
深みへ、深みへ! わたしの釣り針よ。下れ、沈め、わたしの幸福という餌よ。おまえの最も甘美な露をしたたらせよ、わたしの心の蜜よ。深く食い込め、わたしの釣り針よ、あらゆる黒い悲愁の腹中に。
かなたへ、かなたへ! わたしの目よ。おお、わたしをめぐって、なんというあまたの海! 明けゆく人間の未来! そして頭上にはーーなんというばら色の静寂! なんという晴れわたった沈黙。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「蜜の供え物」手塚富雄訳)
《深く食い込め、わたしの釣り針よ、あらゆる黒い悲愁の腹中に。》
「あらゆる黒い悲愁の腹中」とは、過去の心的外傷性記憶の迷路=内耳(Labyrinth)とまでいうつもりはない、だが、ニーチェは最後までワーグナーの、いやワーグナー夫妻の、とてつもなく残酷な仕打ちの記憶から逃れられなかったのは確かだろう。
賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より
《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿)
わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』)
『ニーチェ対ワーグナー』には《トリノにて1888年クリスマス フリードリヒ・ニーチェ》という署名があり、その僅か十日あまり後の、1889年1月3日がいわゆる「発狂」の日だ。この日、コジマ・ワーグナー宛に《 アリアドネよ、私はお前を愛する。 ディオニュソス》との書簡が送られている。同日少し前の書簡にはこうもある。
「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」(Turin, January 3, 1889: Letter to Cosima Wagner)
そしてニーチェは、数ヵ月後、精神病者保護施設で「私の妻コジマが私をここに連れて来た」(March, 1889)と言明したとされる。
……to his guardians at the German asylum, Nietzsche declared, ''It was my wife Cosima Wagner who brought me here.''(The Will to Madness The story of Friedrich Nietzsche's fateful relationship with Richard and Cosima Wagner. By ALAN RYAN)
さて、『ニーチェ対ワーグナー 一心理学者の公文書』の「序言」にはこうある。
以下の諸章は残らず私の以前の諸著作から慎重に選び出されたものでありーーいくつかは1877年までさかのぼるがーー、おそらくはそこここで明瞭にされ、なかんずく短縮されている。これらの諸章は、次々に読んでもらえば、リヒアルト・ヴァーグナーに関しても、私に関しても疑惑の余地を残さないであろう。すなわち、私たちは対蹠者なのである。そのさいなおまた別のことも、たとえば、これは心理学者のためのエッセイであるが、ドイツ人のためのものではないということも理解されるであろう・・・(……) トリノにて1888年クリスマス フリードリヒ・ニーチェ
『ニーチェ対ワーグナー』の「結び」は、『悦ばしき知識』の《序言》三節と四節からである。
《私は私の生涯の最も困難な年月になんらかの他の年月にもましていっそう深い義務を負っている》とあり、《私の長いあいだの病衰に関して言えば、私はそれに私の健康以上に言い知れぬほどはるかに多くのものを負っているのではなかろうか?》ともある。この「病衰」をただたんに「身体的」な病いとのみ考える謂れはない。ーー《大いなる苦痛、私たちがいわば時間のかかる生木でもって焼かれるがごときあの長期の緩慢な苦痛》などという表現もある。《時間のかかる生木でもって焼かれる》苦痛が、はたして身体的な苦痛だけであるだろうか。
もっともニーチェが若き頃より梅毒に罹患していたなら、進行性麻痺の症状として、それがあり得ることを否定するものではない。ここではヴァレリーの『カイエ』のなかの言葉を想起しておくだけにしよう。
《体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。》
もっともニーチェが若き頃より梅毒に罹患していたなら、進行性麻痺の症状として、それがあり得ることを否定するものではない。ここではヴァレリーの『カイエ』のなかの言葉を想起しておくだけにしよう。
《体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。》
私はしばしばこう自問してきた、私は私の生涯の最も困難な年月になんらかの他の年月にもましていっそう深い義務を負っているのではなかろうかと。私の最も内なる本性が私に教えているとおり、すべての必然的なものは、高所から眺めれば、また大きな経済という意味においては、有益なもの自体でもある、――人はそれに耐えるべきであるのみならず、人はそれを愛すべきである・・・運命愛 Amor fati これが私の最も内なる本性である。――そして私の長いあいだの病衰に関して言えば、私はそれに私の健康以上に言い知れぬほどはるかに多くのものを負っているのではなかろうか? 私はこの長わずらいに、高次の健康を、それを殺すことのない一切のものによっていっそう強くなるそうした健康を、負っているのである! ――私はそれに私の哲学をも負っている・・・大いなる苦痛にしてはじめて、あらゆるUをXにする、正真正銘のXに、言いかえれば最後のものから二番目の文字にする大いなる疑念の教師として、精神の最後の解放者である・・・大いなる苦痛、私たちがいわば時間のかかる生木でもって焼かれるがごときあの長期の緩慢な苦痛にしてはじめてーー、私たち哲学者が、私たちの究極の深みへと降ってゆき、私たちがおそらく以前にはそのうちに私たちの人間性を置いておいたすべての信頼、すべての善良なもの、言い繕うもの、温和なもの、中位のものを身から振りすてることを余儀なくさせる。私は、はたしてそうした苦痛が「改善する」かどうかを疑うが、しかし私は、それが私たちを深めることを知っている・・・私たちがそうした苦痛に、私たちの矜持を、私たちの嘲笑を、私たちの意志力を対抗させることを学び、だから、どれほどひどく苦しめられても、毒舌によってその苦しめ手に対する埋め合わせをするインディアンと張りあうにせよ、また、私たちが苦痛のあまり、あの無のうちへと、唖のような、硬直した、聾のような自己放棄、自己忘却、自己抹殺のうちへと引きのくにせよ、人は、自己支配のそうした長期の危険な練習のなかから、いつくかの疑問符を、これまで以上にたずさえて、別の人間となって抜けでてくる、――なかんずく、これまで地上で問われてきた以上に、これからはいっそう多く、いっそう厳しく、いっそう冷酷に、いっそう意地悪く、いっそう静かに問う意志をたずさえて・・・生への信頼は消え失せている、生自身がひとつの問題となったのである。――このことで人は必然的に陰気な者と、ふくろう属となってしまうとは、けっして信じないでもらいたい! 生への愛さえなお可能である、――ただ人は別の愛し方をするにすぎない・・・それは、私たちに疑惑の念をおこさせる女に対する愛にほかならない・・・
このうえなく奇妙なことが一つある。それは、あとになって別の趣味をーー第二の趣味をもつにいたるということである。そうしたさまざまの深淵のうちから、大いなる疑惑の深淵のうちからさえ、人は新しく生れなおして帰ってくる、脱皮して、かつて以前にあったよりもいっそうくずぐったくなって、いっそう意地悪になって、歓びに対するいっそう繊細な趣味をそなえて、すべての優れた事物に対するいっそう柔らかな舌をそなえて、いっそう生きいきとした感覚をそなえて、歓びにおける第二のいっそう危険な無邪気さをそなえて、いっそう子供らしくなると同時に百倍も洗練されて。
おお、その人はいまや、享楽がいかに厭わしいことか、享楽者、私たちの「教養ある者」、私たちの富者や統治者のいつも解しているような、粗野な、鈍色の、褐色の享楽が、いかに厭わしいことか! 私たちはいまや、今日「教養ある」人間や大都会人が、アルコール飲料の助けをかりて、芸術、書物、音楽によって手ごめにされてそれで「精神的享楽」をたのしむ歳の市的大喧騒に、いかに意地悪く聞き耳をたてていることか! 私たちの耳にはいまや激情の芝居じみた叫喚がいかに痛くこたえることか、私たちの趣味には、教養ある賤民が好むロマン主義的擾乱や感覚の混乱の全部が、崇高なもの、高尚なもの、奇妙なものへの熱望をふくめて、いかに疎ましくなってしまったことか! いや、私たち快癒者が芸術をなお必要とするなら、それは別の芸術であるーー純なる炎のごとく一点の雲もない大空へと燃えあがるところの、嘲笑的な、軽快な、移ろいやすい、神的に屈託のない、神的に巧妙な芸術である! ……(『ニーチェ対ワーグナー』「結び」より 原佑訳)
これらの文を、1878年の出来事の記憶に苛まれるニーチェというレンズを通して読む方法もあるというだけで、それは冒頭のヴァレリーのいうような《彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない》ものかどうかは、わたくしの知るところではない。だが、われわれは、たとえば、これはアリアドネ=コジマ・ワーグナー説に関するヤスパースの見解なのだが、伝記的な謎解きは、哲学的意味の理解にはなんらの寄与をもたらさないという考え方に、囚われすぎているのではないか。
ここ数日、”Nietzsche Wagner TRAUME”の語彙群で、ウェブ上を検索してみてはいるのだが、英文ではたいした指摘にはめぐり合えない。とはいえ、ここにいまわたくしが書いている文章は、”Out My Fishing Rod! Radical Uses of David B. Allison's Reading the New Nietzsche”(A. ALEXANDER ANTONOPOULOS,)に多くを負っており、そこに一箇所Allisonの引用として"Trauma"という語彙が出現するのだが、残念ながら詳しく追跡はされていない。
もっとも心的外傷ではなく、ニーチェ「精神病」説の論文は、"Were Nietzsche's Cardinal Ideas – Delusions? by Eva M. Cybulska"(2008)があり、上に書いたニーチェのワーグナーとニーチェの父の同一化の可能性が説かれている。また日本では樫村晴香のニーチェ分裂病説(統合失調説)が比較的よく知られている。
作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切り離して作品を論ずる気にはなれない。ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。(柄谷行人)
ここ数日、”Nietzsche Wagner TRAUME”の語彙群で、ウェブ上を検索してみてはいるのだが、英文ではたいした指摘にはめぐり合えない。とはいえ、ここにいまわたくしが書いている文章は、”Out My Fishing Rod! Radical Uses of David B. Allison's Reading the New Nietzsche”(A. ALEXANDER ANTONOPOULOS,)に多くを負っており、そこに一箇所Allisonの引用として"Trauma"という語彙が出現するのだが、残念ながら詳しく追跡はされていない。
もっとも心的外傷ではなく、ニーチェ「精神病」説の論文は、"Were Nietzsche's Cardinal Ideas – Delusions? by Eva M. Cybulska"(2008)があり、上に書いたニーチェのワーグナーとニーチェの父の同一化の可能性が説かれている。また日本では樫村晴香のニーチェ分裂病説(統合失調説)が比較的よく知られている。
樫村晴香は、永劫回帰着想を分裂病の妄想と見なしていて、それってどうなんだろうと思っていたが、あながち大間違いでもないみたい。Wilhelm Lange-Eichbaumが、1948の研究で、進行性麻痺だがスキゾなところもあると見なし、「分裂病的進行麻痺」という言葉を使っている。(千葉雅也ツイート)
というわけで、ヴァレリーの言うように《我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない》にしても、これらの観点は、《何の役にも立たない》わけのものでもないように思う。
…………
これを巡っては、スイスの医師Samuel Tissotの“Tentamen de morbis ex manustupratione ”(1758)、すなわちティソ『オナニズム』や、フーコーの『異常者たち』Les anormauxなどを引用しつつの論文、「18世紀のオナニスム ティソを中心として 阿尾安泰」に詳しい。
これを読むと、19世紀のロマン主義芸術の興隆、梅毒の猖獗は、ひょっとして、この反オナニズム運動のせいではなかったか、とさえ疑いたくなるぐらいだ。17世紀まではたいして問題にもなっていなかった自慰,、その撲滅運動(主に精液=エネルギー流出説による)は、奇妙にも性交での精液流出は問題とされていなかった。
私は、二つの点において居心地の悪さを感じています。(……)なぜ、性的活動一般ではなく、自慰が問題となったのでしょうか。(…)次に、自慰撲滅運動の特権的な標的となるのが、労働する人々ではなく、子供ないし青少年である、という点も、やはり奇妙に思われます。しかも、この運動は、基本的に、ブルジョワ階級に属する子供や青少年を標的としています。(……)
自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)
…………
※附記:ヴァレリー詩のすぐれた翻訳者でもある中井久夫は、ヴァレリーがオナニストであったのではないかという推測を、こっそりとーー丸括弧つきでーー示してくれている。
もしこういう思いがあれば、ヴァレリー詩の訳語さえ異なった選択がなされることがあり得る。ニーチェの翻訳もしかり。
トラウマをあまりにも強調しすぎるのも、笑止千万なのは重々わかっているつもりだ。心に傷のない人間はなく、誰にでも、多かれ少なかれ持ち合わせているものであるのだから、-- 《季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう》(ランボー「地獄の一季節」)
だが1878年の春のは、やはり、ニーチェにとてつもない衝撃をもたらしたのではないか。それは過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueであり得るヴァレリーの20歳時の恋愛事件以上に。
彼はワーグナー夫妻とのあいだに甘美な記憶を持ちすぎている。そこでのあの仕打ちである。
ここに「リスト」の名が出てきているのにも注目しておこう。ニーチェは、リストの音楽を評価する口ぶりはあまりなかったはずだ。だが、この死後出版される1888年10~12月に執筆されたとされる書に、リストへの愛が語られる。反ユダヤ主義者でどうみても美人とはいえない、いまでは人気のない19世紀のヒロインであるとさえいえるコジマ・ワーグナーは、リストの娘である。
《ジークフリート牧歌》は、はじめ《トリプシェン牧歌》と題され、家族の内輪の音楽として、世間に公開するなど夢にも考えていなかった、という見解もあるようだ(E・ニューマン)。だがそんなことはどうでもいい、《今日この曲をきくものには、(……)ヴァーグナーの「室内楽」がききたい時、私たちはこれをきくのだ》(吉田秀和)。――そういうことだろう。
ーーこの演奏は、名高いチェビリダッケのものではなく、まさに「室内楽」のようであるショルティでなければならない(わたくしにとって)。
…………
以下は五十歳を過ぎて「女狂い」に陥り詩が書けなくなったヴァレリーをめぐる中井久夫の叙述である。《「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである》とある。ニーチェ(1844-1900)とコジマ(1837 - 1930)はわずか八歳違いである。
もっともアリアドネがコジマだというつもりは毛頭ない。いささかくだけた調子で書いた前投稿におけるロラン・バルトの引用を援用すれば、そこからアリアドネは享楽、あるいは対象aとすることができるのではないかと思う。ーー《「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。》
ラカンの対象aの最もシンプルな定義は、《私の中にあって私以上のもの》である。コジマの中にあってコジマ以上のもの、ニーチェの中にあってニーチェ以上のもの。
ーーだがこう書いたからといって、二人それぞれの中にあって、コジマ以上のもの、ニーチェ以上のものが、ワーグナーだというつもりもない。
《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)
※附記:ヴァレリー詩のすぐれた翻訳者でもある中井久夫は、ヴァレリーがオナニストであったのではないかという推測を、こっそりとーー丸括弧つきでーー示してくれている。
(ここだけ私の医師に顔を出させてもらうが、彼(ヴァレリー)はストレートであり、敢えていえばおそらく masturbatorでもあったろう。「ナルシス断章第 Ⅱ」二五五― 二六一行の不定法の羅列で書かれている部分は、男女の情事と比べて男子同士が向かい合って夜を明かすことを「危険だが甘美」としている。この体験は思春期、青年期の男性においては決して稀ではない。不定法の使用は時間の停止あるいは、事態の(他のーー異性愛をも含む通俗的人生からの)解離を意味しているのか、のいずれかであろう。この際、程度の差はあれ、 mutual masturbationを伴っても不思議ではない。むろん、裸体同士の共寝に終わる場合もある。相手が親友ジッドであっても、この時期のジッドは相互自慰しかしていない。私はジッドがみずから喧伝するほどに同性愛者かどうかを疑っている、晩年を除いてであるがーー。) p319「ヴァレリーと私」『日時計の影』所収
もしこういう思いがあれば、ヴァレリー詩の訳語さえ異なった選択がなされることがあり得る。ニーチェの翻訳もしかり。
トラウマをあまりにも強調しすぎるのも、笑止千万なのは重々わかっているつもりだ。心に傷のない人間はなく、誰にでも、多かれ少なかれ持ち合わせているものであるのだから、-- 《季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう》(ランボー「地獄の一季節」)
だが1878年の春のは、やはり、ニーチェにとてつもない衝撃をもたらしたのではないか。それは過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueであり得るヴァレリーの20歳時の恋愛事件以上に。
彼はワーグナー夫妻とのあいだに甘美な記憶を持ちすぎている。そこでのあの仕打ちである。
ニーチェの処女作『悲劇の誕生』(1872)には、その決定稿にいたるまでに「ディオニュソス的世界観」と「悲劇的思想の誕生」という手稿があり、1870年のクリスマスに、その手稿のひとつが、ワーグナーの妻コージマの誕生日プレゼントとして捧げられている。このおなじ日、《ジークフリート牧歌》が初演されている。
《ジークフリート牧歌》は純粋に器楽用のものとしてヴァーグナーの書いた、ごく少数の曲の一つである。これは彼の息子ジークフリートの誕生を祝って、妻コジマの誕生日に当たる1870年12月25日の朝、当時彼らが世間を避けて静かに暮らしていたトリプシェンの家で、初演された。(吉田秀和『私の好きな曲』)
ニーチェがワーグナーから離れたのちも、唯一の例外として顕揚された別名《トリプシェン牧歌》。彼は、この曲を愛し続けることをやめなかった。
――なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄のかわいい女であることである。……わたしは、ドイツ人が音楽とは何かであるかを知りうる力のあることを、断じて認めないだろう。(……)わたし自身は、依然としてポーランド人であることが抜けきらないので、ショパンを残すためには他の音楽を全部放棄してもよいという気持はある。ただし、三つの理由から、ワーグナーのジークフリート牧歌は例外としたい。おそらくはまた、すべての音楽家にまさって高貴なオーケストラ的アクセントをもつリストの作若干をも例外としよう。……(ニーチェ『この人を見よ』(手塚富雄訳)
ここに「リスト」の名が出てきているのにも注目しておこう。ニーチェは、リストの音楽を評価する口ぶりはあまりなかったはずだ。だが、この死後出版される1888年10~12月に執筆されたとされる書に、リストへの愛が語られる。反ユダヤ主義者でどうみても美人とはいえない、いまでは人気のない19世紀のヒロインであるとさえいえるコジマ・ワーグナーは、リストの娘である。
1861年; Wagnerの「トリスタン」ピアノ抜粋曲を知っての熱狂から始まり、そして1888年には《疲れたのである。(……)私はRichard Wagner以外には誰一人として所有してはいなかったからである。》と呟くことになる。
◆Richard Wagner - Siegfried Idyll
ーーこの演奏は、名高いチェビリダッケのものではなく、まさに「室内楽」のようであるショルティでなければならない(わたくしにとって)。
…………
以下は五十歳を過ぎて「女狂い」に陥り詩が書けなくなったヴァレリーをめぐる中井久夫の叙述である。《「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである》とある。ニーチェ(1844-1900)とコジマ(1837 - 1930)はわずか八歳違いである。
もっともアリアドネがコジマだというつもりは毛頭ない。いささかくだけた調子で書いた前投稿におけるロラン・バルトの引用を援用すれば、そこからアリアドネは享楽、あるいは対象aとすることができるのではないかと思う。ーー《「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。》
ラカンの対象aの最もシンプルな定義は、《私の中にあって私以上のもの》である。コジマの中にあってコジマ以上のもの、ニーチェの中にあってニーチェ以上のもの。
ーーだがこう書いたからといって、二人それぞれの中にあって、コジマ以上のもの、ニーチェ以上のものが、ワーグナーだというつもりもない。
《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)
ニーチェは遺稿の中で、「お前が迷宮だ」というディオニュソスの言葉をうけてアリアドネは「私のために英雄はみな破滅する運命なのです。これがテセウスに捧げる私の最後の愛です。<私はあの人を破滅させます>と言い返している、という指摘がある。(『賢くあれ アリアドネ:ニーチェ「ディオニュソス・ディテュランボス」第七歌の詩法(2) 』高橋明彦より)
さて寄り道が長くなったが、中井久夫の文を引用してこの稿おわりとする。
「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』所収 p273)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)