このブログを検索

2014年10月19日日曜日

ニーチェとフロイトの「エスEs」

フロイトの『自我とエス』には、次のような叙述がみられる。

グロデックはわれわれが自我とよぶものは人生において本来受動的にふるまうものであり、彼の表現にしたがえば、未知の統御しえない力によって「生活させられ」といる、と繰りかえし主張している(註記:グロデック『エスについて』国際精神分析出版発行、1923年)。
われわれは、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、自我がそのなかで存続する他の心理的なものーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。(フロイト著作集6 P273) 

そして次のような註が附される。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。

さてニーチェのエスの話に移る前に、ここでいささか捕捉しておこう、エスだけが無意識ではないことを。

自我の多くのものは、それ自身無意識的である。とりわけ自我の中核とみなされるものは無意識的である。そしてそのごくわずかの部分は、われわれが前意識とよぶものに相当する。こんなふうに記述的な表現法を、体系的あるいは力学的な表現法にかえるならば、被分析者の抵抗はその自我から生ずるのである、ということができるし、それにつづいて、反復強迫を意識されぬ抑圧されたものに由来すると理解することができる。(フロイト『快感原則の彼岸』p160)

と引用すれば、「反復強迫」にも捕捉を加えなければならない。

ラカン派には、フロイトは二種類の反復を混同しているという見解がある。シニフィアンの反復と享楽(リアルそのもの)の反復を。

セミネールⅩⅠのラカンによればーーあえてセミネールⅩⅠと断わったのは、セミネールⅩⅦやⅩⅩなどでやや異なったこと? いやひとによればラカンの享楽概念の転回ともいうのだが、ここではそれは脇にやることにしてーー、快原則の此岸内、すなわち象徴界におけるシニフィアンの繰り返しが、反復強迫Wiederholuagszwangであり、automatonとされる。とすればフロイトの「自由連想」もautomatonであるだろう。

快原則の彼岸、すなわち快原則内の非-全体の領域ーーこれはセミネールⅩⅩでの話であり、カントの閉集合における「否定判断」ではなく開集合の「無限判断」の話でもあり(参照)、そのS.20とS.11の叙述を混淆させていうとしたらーー、象徴界(快原則内)の非-全体の領域に、外-存在ex-sistするものがtuchèと呼ばれてよい、すなわち、リアルとの真の遭遇(〈他者〉の享楽)であるということになる(参照:二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」)。


これはフロイト概念Fremdkörper(Freign body)にもかかわる。ひょっとしてアルトー=ドゥルーズの器官なき身体にもかかわるのではないか、というのは浅墓なわたくしの「妄想」である。

ところで、最近上梓されて渋好みの一部の「識者」に評判の高い江川隆男氏の『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』に「身体の身体」などという言葉があるそうで、前書『死の哲学』書評(小泉義之)を眺めると、スピノザの文がこの前書の出発点であるそうだ。

われわれは、この生において、とくに幼児期の身体を、その本性の許す限り、またその本性に役立つ限り、もっとも多くのことに有能な別の身体に、そして自己と神と物とについいてもっとも多くのことを意識するような別の身体に変化させようと努める。

しかし、こういうことを引用して何が言いたいわけでもない。


後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75

無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということ(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。(仏語とは三十年ほど仲がよくないので、間違っていたらゴメンナサイ!)

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことであり、またかつそれは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある(参照:ラカンの三つの身体)。


さて、こうしてようやくニーチェのEsの話に向かうことができる。

ツァラトゥストラ第二部最終章「最も静かな時刻」にある、「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」Du weisst es, Zarathustra? という文をめぐってである。

わたくしの手元にある手塚富雄訳には、この「それ」を含む文に、次のような註釈が書かれている。

「それ」は永劫回帰の真理。知っていて、なぜ黙っているのだ。

この手塚富雄氏の註釈は、やや飛躍のある指摘ではあると感じられないでもないが、それが言わんとしている含意は同じツァラトゥストラの第四部を読むとなるほどと思わせられる。が、それについては後述することにし、今は第二部の最終章をめぐることに専念する。

「最も静かな時刻」には、「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」( Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )ともある。

ここでラカンの「それ自身を知らない知」を説明するジジェクの文を挿差しておこう。

知られている「知られていること」、知られている「知られていないこと」、知られていない「知られていないこと」、そして、知られていない「知られていること」などと出てきて(“known knowns”、“ known unknowns”、 “unknown unknowns”、“unknown knowns,”)やや邦訳だけでは混乱を招くので、英文を併記しておく。

2003年、ドナルド・ラムズフェルドは、知られていることと知られていないことの関係をめぐり、突然発作的にアマチュア哲学論を展開した。

《知られている「知られていること」がある。これはつまり、われわれはそれを知っており、自分がそれを知っているということを自分でも知っている。知られている「知られていないこともある」。これはつまり、われわれはそれを知らず、自分がそれを知らないということを自分は知っている。しかしさらに、知られていない「知られていないこと」というのもある。われわれはそれを知らず、それを知らないということも知らない。》

“There are known knowns. These are things we know that we know. There are known unknowns. That is to say, there are things that we know we don’t know.But there are also unknown unknowns. There are things we don’t know we don’t know.”

彼が言い忘れたのは、きわめて重大な第四項だ。それは知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものであり、その核心にあるのが幻想である。

What he forgot to add was the crucial fourth term: the “unknown knowns,” things we don’t know that we know – which is precisely the Freudian unconscious, the “knowledge which doesn’t know itself,” as Lacan used to say,the core of which is fantasy.

もしラムズフェルドが、イラクと対決することの最大の危機は「知られていない『知られていないこと』、すなわちサダム・フセインあるいはその後継者の脅威がどのようなものであるかをわれわれ自身が知らないということだ、と考えているのだとしたら、返すべき答はこうだ―――最大の危機は、それとは反対に、「知られていない『知られていること』」だ。それは否認された思い込みとか仮定であり、われわれはそれが自分に付着していることに気づいていないが、それらがわれわれの行為や感情を決定しているのだ。

If Rumsfeld thinks that the main dangers in the confrontation with Iraq are the “unknown unknowns,” the threats from Saddam about which we do not even suspect what they may be, what we should reply is that the main dangers are, on the contrary, the “unknown knowns,” the disavowed beliefs and suppositions we are not even aware of adhering to ourselves, but which nonetheless determine our acts and feelings.

これを読めば、ニーチェはすくなくともフロイトの「無意識」(ラカンのそれ自身を知らない知」)と類似したことを謳っていると読めないではない、ーー「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」( Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )

さて、『ツァラトゥストラ』第二部最終章「最も静かな時刻」からやや長く引用する。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。――ああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。(……)

君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。――

足の指の先までかれは驚愕する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。

このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ。夢がはじまった。

針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。――いままでこのような静寂にとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚愕したのだ。

そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」――

Dann sprach es ohne Stimme zu mir: Du weisst es, Zarathustra? -

このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。

と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」――

Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! -

と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった、「欲しないというのか、ツァラトゥストラよ。そのことも真実か。反抗のなかに身をかくしてはならない」――

そのことばを聞いて、わたしは幼子のように泣き、身をふるわした。そして言った。「ああ、わたしはたしかにそれを言おうとした。しかし、どうしてわたしにそれができよう。そのことだけは許してくれ。それはわたしの力を超えたことなのだ」

と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった。「おまえの一身が問題なのではない、ツァラトゥストラよ。おまえのことばを語れ、そして砕けよ」――
(……)

と、ふたたびささやくようにわたしに語りかけるものがあった。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。

おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来たらざるをえない者の影として歩まねばならぬ。それゆえおまえは命令しなければならぬ。命令しながら先駆しなければならぬ」――

わたしは答えた。「わたしは羞恥を感ずる」と。

と、ふたたび声のない声はわたしにむかって語りかけた。「おまえはこれから幼子になり、そして羞恥の思いを放棄しなければならない。

青年期の誇らしさがまたおまえを離れない。おまえは青年になることがおそかったのだ。しかし幼子になろうとする者は、おのれの青年期をも乗り超えなければならぬ」――(『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻」 手塚富雄訳)

ここには《わたしの恐ろしい女主人の名だ》という蠱惑的な表現もある。もっともこの「女主人」がアリアドネのことだなどと言い出すつもりはない。

手塚富雄註釈では、「女主人」について、《時刻 die Stundeが女性名詞なのでこうと言った。「最も静かな時刻」に直面し、その命令を聞くことは、内省的な人間には非常におそろしい》とされている。

ただ「最も静かな時刻」にある《彼女の名(女主人の名)をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。》と次の文を並べておくだけにしよう。

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳

ーーというわけだが、わたくしの「妄想」をexplicitに言い表わすのはやめておこう。

クロソウスキーさんよ、あなたのも「妄想」だよ。

《いまや、迷路、アリアドネ、ディオニソスその三つの名前だけがニーチェのなかに残されたものである》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)」

フーコーさんよ、あんた、クロソウスキーを褒めすぎだよ

おそらく表徴=記号(シーニュ)と模造(シミュラークル)とのあいだには厳密な区別を設けるべきであろう。それらは、たとえ時として重ね合わされることがあろうとも、同じ経験には属してなどいないのである。それはつまり模造は意味を定めはしないからだ。それは時間の炸裂の中の現われの領界に属する―<真昼>の悟明であり永遠の回帰だ。

たぶんギリシャの宗教は模造しか知っていなかった。まずはじめソフィストが、ついでストア派とエピクロス派がそうした模造を表徴(シーニュ)のごとく読もうとし、この遅まきな読解によってギリシャの神々は姿を消してしまった。アレクサンドリアを故里とする、キリスト教的釈義はこの解釈を受け継いだのである。クロソウスキーが彼の言語のうちに描き出しそして動かしている人物像はすべて模造(シミュミラクル)である以上、このシミュラクルという語を、われわれが今やそれに与え得る響き合いのうちに聴解せねばなるまい―虚しい似姿(現実との対立において)であり、何ものかの表現=代理(そのものがそれのうちに代理派遣され、顕現し、しかもしりぞいて、或る意味では身を隠すもの)であり、一つの表徴と取り違えさせる虚偽であり、一個の神体の臨在の表徴(そして今度は逆にこの表徴をその反対のものと取り違えるという可能性)であり、<同一者>と<他者>の同時到来である(擬装するとは、元来、共に来ることである)。かくしてクロソウスキーに固有の、そしてすばらしく豊かなあの星座が形成される―シミュラクル、シミリチュード(相似)、シミュルタイネイテ(同時性)、シミュラシオン(擬装)、そしてディシュミュラシオン(隠蔽、ごまかし)。(フーコー『外の思考』――「クロソウスキー・メモ 永劫回帰の複数化」)

ラカン=アリストテレスのように、「わかりやすく」、オートマトンautomaton /チュケーtuche との反復の相違だと言うわけにはいかないのだろうか、シーニュ/シミュラークルの反復を。

意図なしに行動すること、それがニーチェの内に秘められた決意であり、不可能なモラルである。ところで、意図なき宇宙の全体の体制は、意図ある諸存在を産出する。「ヒト」という種はこのようにして――偶然に――生み出された被造物、そこでは力の強度が意図に転換される、そうした被造物なのだ。つまりは道徳の産物なのである。人間の意図を力の強度に、ファンタスムを生み出す力の強度につれもどすこと、それがシミュラークルの機能である。それは科学の機能ではありえない。科学は意図を否定しながらも、有効性のある、有益な活動をおこなうことによって、その意図の否定を埋め合わせるのである。(ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

いやいや、やや趣きが違うようにも思える。

でも、ドゥルーズをパクってすこぶるシンプルに言い放つ柄谷行人のように言う訳にはいかないのだろうか。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

このあたりは樫村晴香が、ハイデガー、クロソウスキー、ドゥルーズ、ラカンを参照しつつのニーチェの永劫回帰をめぐる論に、わたくしにはすこぶる巧みと思われるまとめがあるが、いまは割愛する。ところで、樫村氏は、この論文を書いたあと、仏で「労働者」をやりつつ小説を書いたり、ミャンマーで山篭りしたり、などという噂があるが、あれはホントウなんだろうか、--とはどうでもいい話である。

さて、次のツァラトゥストラ第四部「正午」にある、《陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である》とされる糸がアリアドネの糸であるなどとも臆断するつもりは、わたくしには毛ほどもない。

静かに! 静かに! 世界はいままさに完全になったのではないか。いったいわたしの何事が起こ
るのだろう。

柔和な風が平坦な海の面〔おもて〕で、目に見えずかろやかに、鳥の羽毛に似てかろやかに舞うように、眠りはわたしを訪れて舞う。

この眠りはわたしの目をふさがない。わたしの魂を目ざめたままにしておく。この眠りは軽い。まことに鳥の羽毛のように軽い。(……)

魂は身を伸ばす、長く、――より長く。そして静かに横たわっている、この奇妙な魂は。それはあまりにも多くの美味をすでに味わった。そのことからくる黄金の悲哀が、魂を押しつける。魂は口をゆがめる。

――このうえもなく静かな港にはいった船に似て、――それはいま地にもたれている。そして長い旅とふたしかな海に飽きている。地のほうが海よりも誠実なのではないか。

――このような船が陸に寄りかかり、寄りそうているときにはーー陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である。それより強い綱はいらない。

静かな湾に憩うこういう疲れた船のように、わたしもいま地に触れてやすらっている。誠実な心をもち、信頼をよせて、待ちながら、そしてかぼそい糸でつながれて。

おお、幸福よ、幸福よ。おお、わたしの魂よ。おまえは歌おうとするのか。おまえは草のなかに横たわっている。しかしいまは、ひそやかな、おごそかな時刻なのだ。笛を吹く一人んお牧人もいない。

つつしむがいい。暑い正午が野いちめんを覆って眠っている。歌うな。静かに。世界は完全なのだ。

こうしてこの後、永遠という泉が謳われることになる。

わたしに何事が起こったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(ニーチェ「正午」)

以下、いくらかは神々しいトカゲ」に行を分けて引用してある、西脇順三郎やフロイトの蜥蜴とともに。


さて、ツァラトゥストラの第二部「最も静かな時刻」と、第四部「正午」には、あきらかに互いに響き合う。

そして前者には、《おまえはこれから幼子になり、そして羞恥の思いを放棄しなければならない》とあり、後者には《船が陸に寄りかかり、寄りそうているときにはーー陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である。それより強い綱はいらない》とある。

ドゥルーズをたいして読んでいるわけではないわたくしにも、ああ、ここにはドゥルーズがいる、と感じるわけで、おそらくドゥルーズのよき読み手であれば、もっとほかにもドゥルーズの痕跡を嗅ぎ分けることだろう。

たとえば「蜘蛛」、ーーニーチェの「最も静かな時刻」とは「女主人の名」やら「無意識」などといわないでも、われわれが「器官なき身体」になっている刻限ではないか。

はっきりしているのは、語り手は何も見ず、何も聞かないで、ひとつの器官なき身体であり、あるいはむしろ、いわば自分の巣の上でじっと身構えている蜘蛛のような存在であるということである。この蜘蛛は何も観察しないが、ほんの僅かの兆候、ほんの僅かの震動にも反応して、自分の餌にとびかかる。……(『アンチ・オイディプス』)
しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用でできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者――狂人――普遍的な分裂病患者である語り手の身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、器官のないおのれの身体の強度な力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシュルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

そしてニーチェの「幼子になる」とは、どうしたってドゥルーズ&ガタリの「少女になる」あるいは「子供になる」を想起せざるをえない。

少女とは何か、そして少女の集団とは何か? 少なくともプルーストは、この問いに決定的な答を与え、少女の個体化は、それが集団的なものであれ、個別的なものであれ、決して主体性にもとづいて実現するのではなく、あくまでも<此性>によって、それも純粋な<此性>によって実現することを明らかにした。「逃れゆく存在」。少女とは純粋な速さと遅さの関係であって、それ以外の何ものでもない。少女は速さによって遅れる。彼女を待つ者の相対的時間に比べると、少女はあまりにも多くのことをおこない、あまりにも多くの空間を横切ってしまったからだ。そこで少女は示す見かけ上の遅さは、待つ側に特有の途方もない速さに変化する。『千のプラトー』P312
ある<此性>の思出。――ひとつの身体は、それを限定する形態によって規定されるのでもなければ、限定された実体や主体として規定されるわけでもないし、それが所有する器官やそれが果たす機能によって規定されるのでもない。存立平面の上では、一つの身体はもっぱら経度と緯度によって規定されるのだ、つまりなんらかの運動と静止の、あるいは速度と遅さの関係のもとで、身体に所属する物質的要素(これが経度だ)と、なんらかの力、あるいは力能の度合のもとで、それが身体が受けいれることのできる強度的な情動の総体(これが緯度だ)によって規定されるのである。そこには情動と局所的運動、そして微分的速度しかない。この<身体>の二つの次元を抽出し、<自然>の平面を純粋な経度および緯度として規定したのはスピノザの功績だろう。緯度と経度は地図学を構成する二大要素なのである。『千のプラトー』P300

そしてこうやってドゥルーズ(&ガタリ)から拾い出せば、アリアドネの糸が出現することになる。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(……)

歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「リトルネロについて」厚表紙版p359)

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より

小さな耳とは、「内耳」(Labyrinth)のことであり、「迷路」(Labyrinth)のことでもある。

わたくしの見解を差し挟まないように書いているつもりだが、そうはいってもいささか隠された牽強附会の気味あるかもしれない。ここで書かれていることは、要するに、「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)で引用したロラン・バルトの文にかかわる。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳)

そしてそのさらに起源としては、次の文の「アリアドネ」にかかわる。

その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』)


そして、さらにーー、結局、わたくしは常にここに戻ってしまう、最も根源的な欲動、あるいは享楽としての無意識(原トラウマ)、すなわち「スフィンクスの謎」の反復=永劫回帰に。

これらの文と対決しつつ、な。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)

これらの見解への齟齬を表明している論者ーーわたくしが勝手にそう読むのだがーーは、日本でも、向井雅明やら(参照:心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ)、樫村晴香(ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 )などがあるが、ここではそれに触れだしたら長くなりすぎる。

樫村晴香の奥さんである樫村愛子さんは、ジジェクに何度か文句を書いているはずだが、どのような文句なのかは知らない。

ーーというわけで、このような短い文で何が言えるわけではない。そのうち気が向いたらーー、おそらく永劫回帰する。

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。(ドゥルーズ『差異と反復』「はじめに」)