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2014年10月10日金曜日

「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか」(ニーチェ)

エピローグ

一閃の電光、ディオニュソス エメラルド色の美に包まれて現われる。

(ディオニュソス)               

賢くあれ、アリアドネ!……
そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。
一つの賢き言葉を汝が耳に納めよ!--
ひともし愛し合うべきなれば、先ずもって憎み合うべきにあらずや?……
われは汝が迷宮なり……


ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)
第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より

アリアドネの「小さき耳」とはなにか
アリアドネは「耳」の中の「耳」、内耳(Labyrinth)を持つこと
眼を閉じよ、そうすれば内耳への小道が開ける

武満徹は瀧口修造への追悼曲「閉じた眼Ⅱ」
の題名について問われてこう応じた
《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させたから》

「われは汝が迷宮なり」とは
「内耳」(Labyrinth)の「迷宮」(Labyrinth)のなかに真実を探さないこと
真実とは迷宮にさ迷うことではないだろうか

アリアドネは迷宮の王ミノスの娘
迷宮の奥に怪物をさぐろうとするテセウスに
帰りの道に迷うないようにと糸を渡す

その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

 (「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ここでバルトは何を言っているのか
《迷路の人間は、決して真実を求めず、
ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ 遺稿)

真実を求めるのは、ストゥディウムの次元に属するとまではいっていない
だがアリアドネの糸はプンクトゥムの次元に属するに相違ない。

・ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

・プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

・ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する。(ベルト付きの靴と首飾り

ストゥディウムとはたんに「好奇心」の次元に属するものである。

快楽も、愛も、好奇心から生まれるものではない(……)。好奇心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていないものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申し合わせのことである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)

…………

《ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。》(ニーチェ)

ーーニーチェ三十歳のときの作品『反時代的考察』からであり、
ここだけ抜き出せば口あたりのよい
「人生指南」的な言葉としても読めるかもしれない。

だが、今はこの言葉を素直に読もう。
ときに忘れてしまっているのだから。

《これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか》

ーーときには過去をふりかえって見ることも必要だ。
初老の男にとっては過去に耽溺する仕方でない限り。
また若い人であれば次のようであるべきだろう。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)

われわれはたいして愛していないものに
たんなる「好奇心」に促されて時間をとられていないか

好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なままに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。ことによると、それは、無自覚なまま先取りされた死の実践であるかもしれぬ。自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。好奇心とは別の文脈に生きること。中庸の記号たるバルトの真の美しさは、そうした願望を、決定的な実現へと導くことなく、退屈と倦怠のよるべなさと戯れさせた点にある。それが彼自身の生の倫理だ。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」)

…………

さてニーチェの言葉を単に「人生指南的」に読まないために、もうすこし長く引用しておこう。

群衆に属すまいとする人間は、自己に対し安易であることをやめさえすればよい。「君自身たれ! 君がいま行い、思い、欲求している一切のものは、君ではないのだ」と呼びかける自分の良心に従えばよいのだ。

すべての青春のたましいは日夜この呼びかけを耳にし、うちふるえる。なぜなら、彼らは、そのたましいの真の解放を思うとき、そこに定められている測りしれない幸福を予感するからだ。しかも彼らが俗見と恐怖の鎖にしばられているかぎり、とうていこの幸福にたどりつくことはできないのだ。そして人生は、この解放をもたない場合、なんと味気なく無意味になりかねないことか!

自分の守護本尊を手ばなし、四方八方をぬすみ見している人間以上に、味気なく疎ましい生物は自然界にはない。こういう人間はついにもはや全然つかみどころがなくなってしまう。彼はまったく核心のない表皮であり、虫の食った、派手な、だぶだぶの衣裳以外のなにものでもなく、恐怖どころか、同情する気さえ起こらぬ飾りたてた幽霊にほかならぬからだ。

……ほかならぬ君が生の流れを渡って行く橋は、君ひとりを除いては誰もかけることはできないのだ。なるほど世間には、君をになった川を渡してやろうという無数の小道や橋がある。しかしそれは君自身を犠牲にするにきまっているのである。君は人質にとられ、自己自身を失うであろう。世には、君を除いて他の誰も行きえぬただ一つの道がある。どこへ行くか、と問うことは禁物だ。ひたすらその道をいけ。「自分のたどる道がどこへ行くのか自分にも分からないときほど、先へ行っていることはない」と述べたのは、誰であったか。(ゲーテ「格言と反省」901番)

しかし、どうすればわれわれは自分自身にめぐり会えるであろうか。どうすればおのれを知ることができるか。

人間は一つの暗い、覆いかくされたものだ。そして、うさぎに七枚の皮があるとするなら、人間は七の七十倍の皮をむいても、「これこそ本当のお前だ、これはもう皮ではない」と言いえないであろう。

ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。

そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。

なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。

君の真の教育者・形成者は、君の本質の真の根源的意味を根本素材とを、君に洩らしてくれる。すなわち君の教育者は、君の解放者にほかならぬのである。

そして、これこそすべての教養の神秘であるが、義手義足や、蠟性の鼻や、めがねをかけた目を貸しあたえてくれるものが、教養なのではない、――むしろ、そういう贈物をくれるようなものは、教育の偽者にすぎない。

解放こそ教育である。若木のきゃしゃな芽を侵そうとかかる、あらゆる雑草、瓦礫、害虫をとりのぞき、光りと熱をそそぎ、愛情をもって夜の雨を振りそそいでくれるものこそ、教育なのだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874 秋山英夫訳)

途中ゲーテの言葉として
「自分のたどる道がどこへ行くのか自分にも分からないときほど、
先へ行っていることはない」とある。

これが迷宮にさ迷うことの起源ではないか
そしてニーチェのアリアドネの起源ではないか

迷宮あるいは耳。迷宮はニーチェにしばしば現われるイメージである。それはまず無意識を、自己を、指示する。アニマだけがわれわれを無意識と和解させ、無意識を探すための導きの糸をわれわれに与えることができる。次に、迷宮は永遠回帰そのものを指示する。迷宮は循環的であって、行きどまりの道ではなく、同一の地点に、また、現在、過去、未来の同一の瞬間にわれわれを導く道である。だがより根本的に言えば、永遠回帰を構成するものの観点からみると、迷宮は生成であり、生成の肯定である。ところで、存在は生成に由来し、生成そのものによって自己を肯定する。そのかぎり、生成の肯定は別の肯定(アリアドネの糸)の対象である。アリアドネがテセウスのところに足繁く通ったあいだは、迷宮は逆の意味にとられていた。それはましな価値に開放され、糸は否定と怨恨の糸、道徳の糸であった。だが、ディオニュソスは彼の秘密をアリアドネに教える。真の迷宮はディオニュソス自身であり、真の糸は肯定の糸である。「私はおまえの迷路なのだ。」ディオニュソスは迷路にして雄牛、生成にして存在であるが、その肯定そのものが肯定される場合にのみ存在であるような生成である。ディオニュソスはアリアドネにたんに耳を傾けることだけでなく、肯定を肯定することを要求する。「おまえの耳は小さい。私の耳と同じだ。その耳で私の細心の言葉を聞くがよい。」(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』足立和浩訳)

…………

閑話休題。

ニーチェという名の基体として、自分が何を書いているかを意識することができるのは、まさにその瞬間に、書くということが起こるために何が生み出されたのかを自分が知らない、いやそればかりか(もし彼が書き思考したいと思うならば)知らないでいる必要があるということを、さらには、後に彼が衝動たちのあいだの闘いと名づけるものをその瞬間にはまったく必然的に知らないでいるということを、彼が知っているからなのである。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

では、クロソウスキーは何を言っているのか。
《知らないでいる必要がある》だって?
これも迷宮にさ迷うことだ
ーーそう、作家は知らないでいる必要があるのだ。


ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』から
辞書のようにアルファベット順に列挙されていくGの項目のひとつ、
「GRADIVA」(「グラディヴァのような女」)の項目の冒頭を挿入しよう。

『グラディヴァ』の主人公は尋常ならざる恋人である。ほかの者なら思う浮かべただけで終るものを、幻覚として体験し、とり憑かれているのだ。それと気づかぬままに愛している女性がいて、そのフィギュールとなるのが、いにしえの女グラディヴァなのであるが、彼はこれを現実の女性として知覚している。そのことが彼の錯乱(妄想? ※引用者)である。ところで問題の女性は、ひとまずは彼の錯乱に同調したうえで、穏やかにそこから引き出そうとしている。ある程度まで彼の錯乱の中へ入りこみ、あえてグラディヴァの役を演じ、幻影を一挙に打ちこわしたり、夢想から唐突んび目覚めさせたりはせず、それと気づかぬうちに現実に近づいていってやろうとするのだ。そのことで、ひとつの恋愛体験が、分析治療と同じ機能を果たすことになるのである。

「グラディヴァ」とはもちろんフロイトの論文からである。

われわれの仲間の一人が『グラディーヴァ』に出てくる夢とその解釈可能性に関心をもった(……)。その人が当の作家に直接会って、あなたの考えに非常によく似た学問上の理論があることをご存知だったのかと尋ねれみた、はじめから予想できたことだが、これにたいして作者は知らないと返答した、しかもそこには多少不快げな調子がこもっていた。そして、自分自身の空想が『グラディーヴァ』のヒントをあたえてくれたのだ、(……)これが気に入らない人はどうかかまわないでいただきたい、と言った。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

《作者はこのような法則や意図を知っている必要などまったくないし、だから彼がそれを否定したとしてもそこに微塵の嘘もないのである》としつつ、フロイトは続けてこのように書く。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

批評家と創造者の振舞いを混同してはならない
リルケは、才能を無くするということでフロイトの治療を断わられた

リルケ?
クロソウスキーがリルケの隠し子であるかどうかは知るところではない

クロソフスキーの《ディアーナとアクタイオーンII》1957





これは女に襲いかかったつもりで
ひそかに手助けされてしまう男だな
チガウカナ?

(あなたガンバッテ!
そこじゃないの
アタシが手引きしてあげるわ)

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

心の傷が疼くんだよな
(オレは全然ミソジニーではないけどさ
と言っておかないとな)

これが彼のーーオレの、あるいはクロソフスキーのーー
グラディヴァであり、ひょっとしとアリアドネである
とするよりはリルケ隠し子説は信憑性が低い

ピエール・クロソウスキーはバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ
という弟をもっており、別名バルチュスであるのはよく知られている


でなんの話だったか?
オレがホントウに愛してきたものの話だな、
タブン?

時刻は遅い午後、といっても陽が落ちるにはまだ遠く、燦々と輝いていた陽光がその盛りをすぎ、どれほどともわからぬ時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていったことはぼんやりと意識にのぼっているのだが、正確な時刻となると見当もつかない晴れた日の昼すぎ、まるで部屋の外にはなにも存在せず、ただこの室内だけが世界のすべてであるかのようだ。まるで眼につかぬほどゆっくりと、だが着実に翳ってゆく陽射しが、長椅子の肘掛や背凭せ、テーブルの縁、またあれら少女たちのスカートや剥き出しになった下着の上に落ちかかり、それぞれの粒子の物質的な手触りを際立たせながら優しい白さで輝き出させ、穏やかに暖めている。





……まるで浴槽の熱い湯の中に浸りこむようにして、少女は自己の内部の充足のなかに浸りこむ。甘美な自己放棄。視線がうつろになる。もうわたしは何も見ていない。眼をつむる。猫のように、うっとりと伸びをし、軀を丸める。だが、―――だがまさにその瞬間、ふと軀から溢れ出すものがある。何かが、足りないような気がするのだ。苛立ちと呼ぶにはあまりに甘ったるく熱っぽい、この胸苦しいやるせなさ。むずかゆさ。これはいったい何なのか。何もかもが満ち足りていたはずなのに、今は、しきりと何かが不足しているように思われてならない。何かが欲しい。われしらず溜息が漏れる。けれども、わたしの息はどうしてこんない熱いのだろう。このせつない欠乏感は決して嫌悪をそそる種類のものではない。むしろ快いとさえ言っていいような、奇妙に甘美なやるせなさ。(……)少女は眠りの中に閉じてゆきながら、しかも同時に自分を世界に向かって押し広げてみずにはいられない。脚と脚とがわれしらず離れてくる。しだいに頭の上へとあがってゆき、頭部を抱えこんで自分を内へ閉ざそうとする両腕のやるせない動きそれ自体が、そのまま、腕の付け根の柔らかな腋窩を思いきり開ききって外へさらけ出すことになる。(……)そして、目に見えないほど細かな粒子として、しかしくまなく全身から、じっとりと滲み出してくる夢を吸いとっているブラウスと下着の、決して純白というわけではない白さの何とすばらしいことだろう。この汚れた白さの何という輝き、捲くれ上がったスカートの下のシュミーズの縁取りのレースのよじれと縮み、股間を覆う下着によった襞。そして、折り曲げた左足によってかたちづくられ、この股間の白いよじれた襞をのぞかせている三角形と照応するもう一つの、逆向きの三角形、襟元のブラウスの下からのぞいている小さな三角形の、何という蠱惑。顔を横に捩っているために筋肉の腱がくっきりと浮かび上がっている首筋の真下に、強く打たれた句読点のように輝いているこの小さな白い三角形の染みこそ、少女の夢がそこから発散してくる負の起源、またそこへと収斂してゆく虚の焦点であるかのようだ。夢想に軀を預け背を後ろに倒しながら、しかし完全な自己放棄には至らず、背筋をわずかにこわばらせ、不安定な角度で身を支えているこの緊張した姿勢のうちに、開くことと閉じることとの官能的な共存が生きられている。その微熱を帯びた緊張のただなかで滲み出した夢の粒子は、あたり一面に拡散して空気中に漂い、椅子やテーブルや水差しや猫や猫がなめているミルクと親しく交流し合う。……(松浦寿輝「インテルメッツォ―――バルテュスの絵をめぐる」(『官能の哲学』より)

もっともオレはパンストフェチ、ストッキングフェチであり
(理由はどこかに書いたな
ーー「遠い道」にあるよ、かなりぼかして書いてあるが)
同じ「変態」でもややクロソフスキー兄弟と趣味が異なる






「これまで本当に愛してきた」にもかかわらず
当地は暑い国であり
よほどの高級オフィスガールでなければパンスト類を穿かず、






すなわち滅多にお眼にかかれないという限りない不幸は
画像を収集することでなんとか埋め合わせてはいるのだが
なぜか椅子とストッキングの組み合わせを好み
これはひょっとしてバルチュスの影響ではないか