フロイトは『文化への不満』(新訳では『文化の中の居心地悪さ』)にて、《ゲーテがメフィストフェレスにおいて悪の原理と破壊欲動を同一視しているのはまったく感服のほかない》として、『ファウスト』から引用している。
『なぜと言うに、一切の生ずるものは
滅してよいものです。
…………
こうしたわけで、あなたがたが罪悪だの、
破壊だの、つづめて悪とおっしゃるものは、
みなわたしの分内のことです』(森鴎外訳)
破壊欲動、すなわち悪の原理は、だれもが持っている。
「憐れみptiie」や「同情=共苦compassion」
ーーニーチェの独用語では"Mitleid"--
これらは東洋では孟子の「惻隠の情」(みてしのびざるの情)
とでもいうべきものだが、
それらを根源的なものとするか
それとも「破壊欲動」がより根源的なのかは
議論が分かれる。
いやわたくしに言わせれば
ーーいやわたくしでなくてもすこしまともに考えれば
議論など分かれるはずはない(最末尾↓に資料添付しておく)
《あらゆる反省よりも先立つ、憐れみの感情》(『人間不平等論』)
としたルソーでさえ、後年、『エミール』の三つの格率のうちの第二格率では、
《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》
としている。
すなわち、「人は自分がまぬがれると考えれば、他人の不幸を憐れまない」と
ルソーの言葉を「翻訳」できるだろう。
ルソーの言葉を「翻訳」できるだろう。
おそらく「理論的」には、攻撃欲動がわれわれ人間の根源的なもので、
憐れみや惻隠の情は二次的なものとしてよいのではないか。
ただ「実践的」には、攻撃欲動の存在を前面に出して居直るわけにはいかず
その欲動を飼い馴らすあり方として、憐憫、同情、恥などが大切になってくる。
フロイトは同情はなぜ起こるのかという問いを立てている。
《同情は同一化から生まれる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
すなわち同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する
またフロイト=ラカン派では、ルソー的な想像的同一化ではなく
象徴的同一化が肝要なのだという議論がある。
(参照「「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ」)
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。
したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。
「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。
通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。
民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 )
※ ひと続きの文だが読みやすさのためーー誰の? 老眼が進みつつあるわたくしのだーー勝手に行を分けている。以下も同様。
また同じ『文化への不満』には次のような文もある。
われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。(……)われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。
より詳しくは、フロイトを中心に引用され、ドゥルーズの同調の見解をも引用された「メモ:超自我、良心、罪責感(フロイト)」を参照のこと。そこでの究極のポイントはやはり、《罪責感に本質的かつ共通な点としては、それは内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った》という文である。
ところで次の文を読んでみよう。
外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。(……)敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。
誰の文だろうか。
またフロイトに決まってるって?
いやいやニーチェの見解である。
ニーチェもフロイト同様、ゲーテ読みだったことはよく知られている。
私の意味での進歩。――私もまた「自然への復帰」について語るが、もっともそれは、もともと帰ることではなく高まりゆくことであるーー高い、自由な、怖るべきものでさえある自然と自然体、大いなる課題と戯れる、戯れることの許されているそうした自然と自然性のうちへと高まりゆくことである・・・
それを比喩で言えば、ナポレオンは私が解する意味での「自然の復帰」の一つであった(たとえば戦術のことにおいて in rebus tacticis それでころか、軍人の知るとおり、戦略的なことにおいて)。――
ところがルソー ーーこの男はもともとどこへ帰ろうとしたのであろうか? ルソー、この最初の近代的人間は、理想主義者と下層民とを一身にそなえている。この男は、しまりのない虚栄としまりのない自己軽蔑に病んで、おのれ自身の外見を保つために、道徳的「品位」を必要とした。近代の閾ぎわに陣取ったこの奇形児もまた「自然への復帰」を欲したーー繰り返したずねるが、ルソーはどこへ帰ろうとしたのであろうか? ――
私は革命の点においてもやはりルソーを憎悪する、革命は理想主義者と下層民というこの二重性を世界史的に表現するものであるからである。この革命が演ぜられた血なまぐさい茶番、その「無道徳性」は、私にはほとんどかかわりない。だが、私が憎悪するのは、そのルソー的道徳性であるーーこの道徳性がいまなおそれで影響をおよぼし、一切の浅薄な凡庸なものを説得して味方にしている革命のいわゆる「真理」である。平等の教え! ・・・
しかしこれ以上の有毒な毒は全然ない。なぜなら、平等の教えは正義について説いたかにみえるのに、それは正義の終末であるからである・・・「等しき者には等しきものを、等しからざる者には等しからざるものを」――これこそが正義の真の言葉であるべきであろう。しかも、そこから生ずるのは、「等しからざるものをけっして等しきものになすことなかれ」ということにほかならない。――
あの平等の教えの周囲ではあれほど身の毛もよだつ血なまぐさいことがおこったということは、この選りぬきの「近代的理念」に一種の栄光や火光をあたえ、そのためこの革命は演劇として最も高貴な精神をも誘惑したのである。このことは結局は、この革命により以上の敬意をはらう理由とはならない。――
私は、この革命が感じとられなければならないとおりに、嘔吐をもってそれを感じとったたった一人の人を知っているーーゲーテを・・・(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」『偶像の黄昏』原佑訳 P142)
さてフロイトとニーチェの文を対照するために、上に引用した箇所の前後をもう少し長く引用してみる。
……文化が自分に敵対する攻撃欲動を抑え、無力化し、うまくゆけば遮断さえもするために使う手段にはどんなものがあるか(……)。
この方法を知るには、われわれの一人一人の発展史をたどるがよい。われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。それは、ちょっと想像もつかぬほど非常に奇抜だが、考えてみるとごく当たり前の方法である。
すなわち、われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。
このようにして自我の内部に戻った攻撃欲動は、超自我の形で自我の他の部分と対立している自我の一部に取り入れられ、こんどは「良心」になって、本当なら自我自身が自分とは縁のない他人にたいして示したかったであろうのと同じ厳格さでもって、自分自身の自我にたいするのである。
厳格な超自我とこれに隷属する普通の自我との緊張関係――これがいわゆる罪の意識であり、これは自己懲罰の欲求として現われる。
すなわち文化は、個々人の内部に潜む危険な攻撃欲動を押えつけるために、個々人を弱め、武装解除し、その心の中の法廷にーー征服された都市が占領軍に看視されるようにーー看視させるという方法を使うのだ。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P.478)
…………
次はニーチェの『道徳の系譜』より。
さて私はここでもはや「良心の疚しさ」の起源に関する私自身の仮説をまず一通り序説することを回避するわけにはいかない。これを聴き容れていただくのは容易なことでなく、長い間の考慮と顧慮と熟慮とが必要である。
私は良心の疚しさを深い病気だと見る。人間はかつて体験したあらゆる変化のうちで最も根本的なあの変化の圧力のために、この病気に罹らなければならなかった、――あの変化とは、人間が窮極において社会と平和との拘束を脱しえないことに気づいたあの時の変化をいうのだ。陸棲動物になるか、または死滅するか、そのいずれかを強いられた時に水棲動物が経験しなければならなかったと全く同様のことが、野蛮・戦争・漂白・冒険に首尾よく順応したこの半動物の上にも起こった。――たちまちにして彼らのあらゆる本能は価値を奪われ、「スウィッチを切ら」れた。彼らはそれまでは水によって運ばれていた所を、それからは足で歩いて「自分自身を運ば」なければならなかった。恐ろしい重みが彼らの上に伸しかかった。最も簡単な用事をするにも彼らは自分自身の無器用さを感じた。彼らはもはやこの新しい未知の世界に対する老練な案内者を、無意識的に安全に導いてくれる規制的本能をもたなかった。――これらの不幸な者たちは思惟・推理・算定・因果的結合に引き戻され、彼らの「意識」に、すなわちあの最も貧弱な、最も間違いを仕出かすことの多い器官に、引き戻されてしまったのだ! これほど悲惨な感じ、これほど重苦しい不快さは、かつて地上に存在しなかったと私は信じる。――しかもその際、あの古い諸本能はそこでその要求を持ち出すことを突然に止めてしまったわけではなかったのだ!
要するに、それらの本能は新しい、いわば潜行的な充足を求めるしかなくなったのだ。外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への捌け口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。
国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡――わけても刑罰がこの防堡の一つだーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。
外部に敵や抵抗がなくなったために慣習の狭苦しさと単調さのうちへ押し込められた人間は、耐え切れなくなってわれとわが身を引き裂き、追い詰め、食い齧り、掻き立て、虐げた。自分の檻の格子に身を打つけて傷を負うこの動物(それを諸君は「飼い馴ら」そうとしているのだ)。この窮乏した者、荒野への郷愁に憔悴した者(彼は自ら冒険を、拷問所を、不安で危険な蛮地を創り出さずにはいられなかった)、――この阿呆が、憧憬に悴れ絶望に陥ったこの囚人が、「良心の疚しさ」の発案者となったのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 P98)
このニーチェやフロイトの考え方ーーすなわち攻撃欲動を取り込み内面化することーーを、後年フーコーなどは次のように捉えなおしたとする浅田彰の指摘がある。
力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方 (ニーチェの妹)
では、力が自由に展開しえない、あるいは攻撃欲動の発露が弱い人間はどうなのか。
彼らは自分自身を律する力も弱いことになりはしないか。
ーーなどとわざわざ捏造された疑問符などつけなくても
すでにプラトンの『国家』において器量の大小をめぐる議論がある。
アデイマントス発言)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)ーー「四つの徳」
攻撃欲動を抱えこむ器が小さい人間は、自己陶冶の力もわずかしかない。
彼らは弱さ・器の小ささをとりあえず善良さと呼ぶことで、互いにおのれの貧しさを肯定しあっていはしないか。
もっとも攻撃欲動の発露形式は、ニーチェによれば二つの型がある。
それは、能動的ニヒリズムと受動的ニヒリズムである。
ニーチェは、後者を《もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズム》としているが
ルサンチマンによる攻撃もこれに含めてよいのではないか。
怨恨。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする。反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「反感=怨恨」となる。それでひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その<力>から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」。(ドゥルーズ『ニーチェ』)
他方、能動的ニヒリズムとは、次の如し。
それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)(ニーチェ『権力への意志』 23番)
これらがニーチェが「虚弱者たちを笑う」理由である。
『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)から四つの文を抜き出してみよう。
・世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れのなかへ走りこんだという人間が少なくないのだ。
・わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。
まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。
・よし悪人がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である。
・善い者、(……)かれらの精神は、かれらの自身の「やましくない良心」という牢獄のなかに囚われていた。測りがたく怜悧なのが、善い者たちの愚鈍さだ。
これらは、ーーたとえば浅田彰が説くフーコーやドゥルーズの考え方はーーニーチェの可能性の中心を読もうとするあり方であり、別の読み方もできるのは言うまでもない。
人間の本性の根源をつきつめようとした彼らを悪く考えることさえできる。
《悪く考えることは、悪くすることを意味する。 》(ニーチェ『曙光』76番)
たとえば次のふたりの文を楽しんで読めるか、それともあきれ返るかは、読み手の資質しだいである。
優越への努力。――優越への努力は、絶えまなく隣人に注目し、彼がどんな気持ちであるかを知ろうとする。しかし、この衝動が自分を満足させるために必要とする共感と関知は、無邪気であったり、同情的であったり、好意的であったりすることからは極めてほど遠い。
われわれはむしろ、隣人がわれわれのためにどんなに外面的また内面的に苦しむか、彼がどんなに自制を失い、われわれの手、あるいはまた単なるわれわれの姿が彼に与える印象に服従するかを認めたいと思い、推測したいと思う。そして優越へと努力する者が、喜ばしい、向上させ、快活にする印象を与えるときですら、与えようと思うときですら、彼がその際隣人を喜ばせ、向上させ、快活にするかぎりは、彼はこの成り行きを享楽しないのであり、彼が自分を他人の魂に印象づけ、その魂の形を変え、自分の意志に従ってそれを支配する限りにおいて、その成り行きを享楽するのである。
優越の努力は、隣人の圧倒への努力である。たとえそれが極めて間接的な、また単に感じられた圧倒であっても、あるいは夢想された圧倒でさえあっても、このひそかに切望される圧倒の程度の長い系列が存在する。そしてこの系列の完全な表は、初期のまだ馬鹿げた野蛮状態から、精巧すぎ、病的に理想的な状態の道化茶番に立ち至るまでの文化の歴史にほぼ匹敵するであろう。
優越への努力は、隣人に対して以下のものをともなう。――この長い梯子の数段だけをあげるとーー呵責、次に殴打、恐怖、不安な驚き、驚嘆、嫉妬、讃嘆、向上、喜び、快活、嘲笑、嘲り、軽蔑、自分を殴打すること、自分に呵責を加えること。――梯子のこの最後のところには、苦行者、殉教者がいる。彼は、その梯子の最初の段階にいる彼の対照である野蛮人が、自分がそれよりもぬきんだたいと思っている他人に対して苦しませるために与えるもの、まさしくそのものを、自己への優越との衝動の隔靴として自分で獲得することに、最高の享楽を感じる。苦行者の自分自身に対する勝利。その際内面に向けられた彼の眼。――それは、人間が苦しむ者と傍観する者に分裂しているのを見、それ以来外界を見入るばかりであり、そこからいわば自分を火刑にするための薪を集めるのであるーー。優越への衝動のこの最後の悲劇。……(ニーチェ『曙光』113番 茅野良男訳)
…………
私の身辺にある人間がいる。私はその人を憎んでいる。だからその人が何かの不幸にもで遭えば、私の中には烈しい喜びの気持が動く。ところが私の徳義心は、私自身のそういう気持を肯定しようとしない。私はあえて呪いの願望を外に出すことをしかねている。
さて偶然その人の身の上に何か悪いことが起こったとき、私はそれに対する私の充足感を抑えつけ、相手の気の毒に思うことを口にも出すし、自分の気持にも強制するであろう。誰にもこんな経験はあるにちがいない。
ところがその当の人間が不正を犯してそれ相当の罰をこうむるというようなことでも起ると、そのときこそ私は、彼が正当にも罰をこうむったことに対する私の充足感を自由に外に出すことができる。そして、彼に対して愛憎を持っていない多くの人々と自分もこの点では同意見だとはっきり口外する。
しかし私の充足感はほかの人たちのそれよりも一段と強いものであることを、私は自分自身のうえに観察しうる。私の充足感は、情念動出を内心の検閲によってそれまでは妨げられていたが、今や事情が一変してもはやそれを妨げられることのなくなった私の憎悪心という源泉からエネルギーの補助を受けているのである。
こういう事情は、反感をいだかれている人物であるとか、世間から好かれていない少数党に属する人間であるとかがなんらかの罪を己が身の上に招くようなときには普通世間でよく見られるところのものである。こういう場合、彼らの受ける罰は彼らの罪に釣り合わないのが普通で、むしろ彼らに対して向けられていたが外に出ることのなかった悪意プラス罪というものに釣り合うのである。
処罰者たちはこの場合明らかに一個の不正を犯す。彼らはしかし自分たちが不正を犯しているということを認め知ることができない。なぜならかれらは、永いこと一所懸命に守ってきた抑制が今こそ排除されて、彼らの心の中には充足感が生まれてきて、そのために眼が眩んでしまっているからである。こういう場合、情動はその性質からすれば正当なものであるが、その度合からすれば正当なものではない。そして第一の点では安心してしまっている自己批評が、第二の点の検討を無視してしまうのはじつに易々たることなのである。扉がいったん開かれてしまえば、もともと入場を許可しようと思っていた以上の人間がどやどやと入りこんでくるのである。
神経症患者における、情動を湧起せしめうる動因(きっかけ)が質的には正常だが量的には異常な結果を生むという神経症的性格の著しい特色は、それがそもそも心理学的に説明されうるかぎりではこのようにして説明されるのである。しかしその量的過剰は、それまでは抑制されて無意識のままにとどまっていた情動源泉に発している。そしてこれらの源泉は現実的動因(きっかけ)と連想的結合関係を結びうるものであり、また、その情動表出には、何の要求をも持たないところの、天下御免の情動源泉が望みどおりの途を拓いてくれるのである。
抑制を加える心的検問所と抑制を受ける心的な力とのあいだにはいつも必ずしも相互的妨害の関係が存するばかりではないということにわれわれは気づかされるわけである。抑制する検問所と抑制される検問所とが協同作業をして、相互に強化しあい、その結果ある病的な現象を生じせしめるというようないくつかの場合も同様注目に値する。 ……(フロイト『夢判断』高橋義孝訳 文庫 下 P219-221)
◆資料附記:冒頭近くに、資料添付しておくと書いたが、その資料である。
新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム(〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ)をめぐって。--ジジェクによれば、21世紀になってますます顕著になってきた、ベルリンの壁崩壊後、新しい壁ができつつある言う。人間たちは、つねに壁が必要なのかもしれない。
ジジェク) リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……
浅田彰) こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。
ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)
「外部」に排除された者には、われわれは一般的に憐れみや同情を抱かないだろう(その例外の可能性としては、《トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つ》(中井久夫)にかかわるかもしれない)。
私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同化する (se identifier) ことによってである。彼が苦しんでいると判 断するのでない限り、私たちが苦しむことはないのであって、私たちは、自身のうちでではなく、まさに彼のうちで苦しむのである。この転移がいったいどれほど多くの獲得されたを前提としているか考えて ほしい。私がそれについての何の観 念 も持っていないような不幸をどのように想像する (imaginer) というのであろうか。他人が苦しんで いることを知りもせず、 また、彼と私のあいだに共通するものがあるということを知らなければ、他人が苦しんでいるのを見ながら、どう して私が苦しむだろうか。決して反省(réfléchir) したことのない人間は、寛大でも公正でも憐れみ深く (pitoyable) もありえない( ルソー『言語起源論』)
《苦しんでいる存在に同化する (se identifier) 》と読めば、たちまちフロイトの《同情は同一化から生まれる》(『集団心理学と自我の分析』)を想起することができる。
すなわちわれわれは同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する。そして新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉の向こう側の人間には苦しんでいても同一化しがたい、とすることができるのか。すくなくともジジェクの「左翼の」友人の例は「壁の向こうの」子供が死んでも無関心である。
すなわちわれわれは同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する。そして新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉の向こう側の人間には苦しんでいても同一化しがたい、とすることができるのか。すくなくともジジェクの「左翼の」友人の例は「壁の向こうの」子供が死んでも無関心である。
ここで、東浩紀氏の著書の“美しい”表現を援用させていただくとするなら――誤解されるといけないので、つけ加えておけば、ここではまったく悪気はなく、また彼の著書を読んでいるわけではない身であり、ただ以前ツイッターにて次のような言葉に偶然出会い、ネット上にて検索してみた文章からである。
東浩紀氏に「敬意」を表して、すこし長めに出所の文を引用しておこう。
ニーチェやフロイトとひどく異質なルソーやローティーの言葉が散りばめられているが、これもカント的な意味での理論的/実践的の二項の後者として捉えれば、文句をいう筋合いはない。いくらニーチェのルソー批判を併せて引用しているからと言って、彼の口真似をして《これ以上の有毒な毒は全然ない》、あるいは道徳の毒蜘蛛め!などというつもりは毛頭ない。--ーなどと書いているうちにナボコフの言葉が突然閃光のようにやってきたって、彼のひねくれた言葉を真に受けて、このホモ・センチメンタリスめ! などと罵倒するつもりも毛筋ほどもない。
ただ今はルソー『エミール』の第二格率の名言を嚙みしめ反芻するのみである。
かつまたプルーストをつけ加えて味わってもよい。
ああ、なんとまたプルースト家の家政婦フランソワーズの顔まで唐突に浮かんで来た……。
※この文は、「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」から引き続いている。
坂口恭平 @zhtsss東浩紀さんの「弱いつながり」読了。僕は東さんの「一般意志2.0」を読んで鼎談したのが初対面だったのだが、僕は出会い頭に「一番感動したのは第十三章で『憐れみの海』という四文字でした」と言った。ふとそのことを思い出した。何だか全く違う方向向いているようで、意外と東さんとシンクロしてる
さて東浩紀氏の次の文、《熟議が閉じる島宇宙の外側に、憐れみの海(リベラルの海)が広大に広がっている》の変奏である。
「新しい形態のアパルトヘイトが築く壁の向う側には、無関心・無感覚の海が広がっている。」
ひとがヘイトスピーチなどの排外運動に無関心であるなら、その理由のいくらかはこのせいであるに違いない。
(ルソーの考えでは)人間はもともと自然状態で完全に満足していたはずである。にもかかわらず、いま人々が他者とともに生き、社会契約を結ぶはめに陥っているのはなぜか。ルソーは、その理由を、自己保存のための功利主義的な判断ではなく、「同胞の苦しみを見るのを避ける生来の嫌悪感から、幸福を追求する自分の熱意を緩和する」、あるいは「あらゆる反省よりも先立つ、憐れみの感情」に求めている。
ローティはルソーについてほとんど語っていない。しかし、彼が「見知らぬ人々を苦しみに悩む仲間だとみなすことのできる想像力」と呼ぶものが、ルソーの「憐れみ」に近いことは明らかである。
ルソーもローティも、理性ではなく、他者の苦しみを無視できない自然の感情こそが社会を作ると考えた。
そもそも人間がそれぞれ尊厳をもった交換不可能な主体であり、ある人の不幸が別の人の幸せで埋め合わされることが決してない以上、功利主義のみに基づいて人間集団の運営を行うことは原理的に不可能なのだ。
人間は熟議で世界全体を捉えられるほど賢くはない。熟議が閉じる島宇宙の外側に、憐れみの海(リベラルの海)が広大に広がっている。そのようなモデルのほうが、現代社会を捉えるうえでは適切になっているのだ。(東浩紀『一般意志2・0』)
ニーチェやフロイトとひどく異質なルソーやローティーの言葉が散りばめられているが、これもカント的な意味での理論的/実践的の二項の後者として捉えれば、文句をいう筋合いはない。いくらニーチェのルソー批判を併せて引用しているからと言って、彼の口真似をして《これ以上の有毒な毒は全然ない》、あるいは道徳の毒蜘蛛め!などというつもりは毛頭ない。--ーなどと書いているうちにナボコフの言葉が突然閃光のようにやってきたって、彼のひねくれた言葉を真に受けて、このホモ・センチメンタリスめ! などと罵倒するつもりも毛筋ほどもない。
私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりに進歩的思想を語ったが、一方で自分が産ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。(ナボコフ『ロシア文学講義』)
ただ今はルソー『エミール』の第二格率の名言を嚙みしめ反芻するのみである。
人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ
かつまたプルーストをつけ加えて味わってもよい。
人が同情を寄せる相手は、知らない人びと、想像で思い描く人びとであり、すぐそばで卑俗な日常生活のなかにいる人たちではない(プルースト『見出された時』)
ああ、なんとまたプルースト家の家政婦フランソワーズの顔まで唐突に浮かんで来た……。
……身内のものを除けば、彼女から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった。(犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花)
※この文は、「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」から引き続いている。