むさぼるように私は『曙光』の断章を読みました。ニーチェを読むときに役だつ、あのあらゆるひねくれた感情を込めながら。そして翻訳者にたいする、一巡してはまた生まれてくる感謝の気持を、その“ひねくれた”感情に交えたのです。……(「ニーチェとヴァレリー ヴァレリーのニーチェに関する手稿から」 丹治恒次郎 著 – 1985 ネット上PDFより)
もっともヴァレリーは死の二年前のカイエ(72歳)にも、ニーチェに触れている。
ニーチェを読むーーニーチェ(かれはイデオロギーの分野で私のもっとも高く評価するもののひとりだが)にある詐りのものはーーかれが他者に付与する重要性――論争術、――およびいろんな理論立てを思わせるものすべてである。彼はすでに「文学史」中に席を与えられた物事をあまり眼中におきすぎる。――ソクラテスとカントを制服した「彼」が、だ。――/それから魔術的な語の『生』。しかしこれに助けを呼ぶのは安易というものだ。(寺田透訳)
この時期に到っても熱心にニーチェを読んでいたことになる。しかもやはり「詐りのもの」という表現を差挿させて。
だが《イデオロギーの分野で私のもっとも高く評価するもののひとり》ともあるわけだが、ヴァレリーはマルクスの最初期の読者であることも知られている(もっともマルクスーニーチェーフロイトという偉大な三人組(イデオロギー、道徳、自我の)の残りの一人フロイトへの言及というのは殆んどなかったんじゃないか)。
まあそれはこの際どうでもよろしいが、ニーチェを、”道徳の分野で”、とはいわず、”イデオロギーの分野で”もっとも高く評価すると言っているのも、ヴァレリーらしい。たぶんニーチェの同情道徳批判など端から信じていなかったのだろう。
ニーチェのなかでもっとも面白いものはあの断固たる風采、倫理的執心である。――これが僕をいつも笑わせる。――というのは、要するにこれは台所仕事なのだ、道徳のなかで働こうとする。道徳の現代的基礎が見かけのよい無関心でだということに気がつかない。(ヴァレリー ジッド宛ての書簡 1899.1.13)
◆ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』より
・私はニーチェが言っていることを気にかけない。ニーチェが考えねばならないことに関心がある。
・あまりにも教授気質、あまりにもドイツ的、あまりにも非古典的、形而上学と美学の不純な混合だ。
・山師根性の発生源〔は何か〕。存在の分割。
・大ほら吹き。――構築家ではない。
山師だって?、大ほら吹きだって?
ニーチェは妹への手紙で言っている、
自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ。
ーーたぶん、「お兄さん、どうして物を書くとき、あんなに大言壮語するの?」 とでも訊ねられたのではないか。
ところで冒頭の「“ひねくれた”感情」については小林秀雄もすでに昭和二十五年のエッセイ「ニーチェ雑感」にて次のように引用している。
「私はニイチェを読む、彼を読むに必要な悪意をもって」とヴァレリイは言っている。これはニイチェの知らぬフランス風のアイロニイだ。彼は、彼が腹を立てようと立てまいと、ルーテルの血筋をひいている。そういう血筋についての日本人としての一種の不感症の意識が、ニイチェを読むには、およそ女々しさを知らぬ善意が必要だ、と私に言うようである。ニイチェは暴露心理学の名人ではない。それは彼にはあんまりやさしい芸である。心理は暴露されるが、ひたすら隠そうとしているものが、常にそこにある。それは真理の絶対性であり、そこにはドイツの伝統的精神の血が流れている。頑固な執拗な容赦のない精神の渇望が、憧憬がある。これを、彼の「悪意の知恵」のうちに、いつも感じているのには強い善意を要する。
ここには上に引用したヴァレリーの『ニーチェに関する手稿』における《あまりにも教授気質、あまりにもドイツ的、あまりにも非古典的、形而上学と美学の不純な混合だ》の翳も窺われる、すなわち《彼は、彼が腹を立てようと立てまいと、ルーテルの血筋をひいている》とは、《あまりにもドイツ的》の変奏だろう。
ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)
吉田秀和はもちろん小林秀雄の弟子筋であり、この見解も起源は小林秀雄にあるに相違ない。
反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)
ニーチェの主著のひとつ『道徳の系譜』では、この書に収められた三論文のテーマ、第一論文「善悪」、第二論文「同情」、第三論文「禁欲主義」に対して、それぞれ激しく反駁しているのだが、ニーチェこそ善悪の彼岸にある「善=真理」の人、窮極の「同情」の人、至高の「禁欲主義」の人であった、と小林秀雄はすでに暗に言ってしまっているのだ。
そして小林秀雄の見解も、ヴァレリーに負うところが大きいように見える。
ニーチェは卓越した人間であった。文献学の優等生。メッツの城壁の下では良き看護兵。勤勉で控え目な青年。屈託よりも病気で身を退いた優れた教授。狂気にいたってもなお静かな人柄であった。彼の生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった。いや、賢者よりもキリスト教徒としてこそ適わしいと思える貞節、そのような貞節のつらぬく生涯であった。
ところが彼の存在の、さほど重要でもない内的部分が、書くことへと向かった。そしてこの部分こそが心神喪失をきたしたものと思える。全体的には穏和で規則正しいこの体系〔人間〕が、ある熱狂的な一部分に、錯乱した冗漫な一部分に、とり憑かれたのだ。」(ポール・ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』sur les manuscrits de Paul Valery au sujet de Nietzsche)
たとえばショーペンハウアーの《哲学上のドグマを、後年のニイチェは罵倒しているが、哲学上のドグマなぞ、初めから問題ではなかったのである》とある次の文を読んでみよう。
ニイチェは、「教育者としてのショオペンハウエル」を、私という人間を知る鍵だと、これを書いてから十年も経ってから、ローデへの手紙で言っているが、どんな鍵だかは言っていない。鍵をあけるのは読者の方だ。これはニイチェの変わらぬやり方である。
彼はショオペンハウエルの第一ページを読むやいなや、あらゆるページを読んで、あらゆる言葉を傾聴するに違いないことを決定的に感じてしまう、そういう種類のショオペンハウエルの読者だ、と言っているが、彼の書いたものは、まさにそういう読者の書いた「ショオペンハウエル論」であって、この哲学者の哲学上のドグマを、後年のニイチェは罵倒しているが、哲学上のドグマなぞ、初めから問題ではなかったのである。相手を信頼しきった愛読者として、ニイチェがショオペンハウエルから感得したものは、もっと深い処にあるもの、ドグマが死んでも今日もショウペンハウエルが私たちを動かしているものだ。感得とは私の勝手な言葉ではない、ニイチェはこの哲学者を語り、愛読者の「生理的印象」を語るのだ、とさえ言っている。「教育者としてのショオペンハウエル」は、同時代への攻撃が目的であり、それは鋭く雄弁で、一篇の重点をなしているのだが、ニイチェの鍵をあけるなら、私としては、彼が愛読者としての気持ちを語る最初の部分を選びたい。
ショオペンハウエルが、カントの「批判」から立ち上がったのは周知のことであるが、この点で、ニイチェは特色ある洞察を述べている。カントによって厳密に証明された知性の相対性を、いろいろと弄くり廻しているような「計算機械」たちには自分は何の興味もない、なぜ絶望しないのかと彼は言う。彼は、カントから与えられた打撃により、絶望した心を語るクライストの手紙を引用し、人間はいつになったら、クライストのように自然にすなおに感じるようになるか、いつになったら哲学の意味を自分の心の底に照らして計ることを学ぶようになるかと言っている。ショオペンハウエルは、それをやった。それをやったところに、ニイチェが見たものは奇怪なほど明らかなあたりまえなことであった。正直な思想家。その点で、彼に肩を並べられる思想家はモンテエニュ一人だと断言しているのもおもしろい。同時にニイチェは、当代の思想家の、不機嫌、憂鬱、錯雑が、つまるところ自分自身に対する信頼感の不安定をごまかそうとする虚偽から来ているのであって、他にもっともらしい理由なおいっさいないのだと見る。ところで、正直であるとは、「人生の全像」が、この苦痛と不幸との絶えぬ絵が一つ目で見えているという意味だ。ショオペンハウエルは、この絵から、画家を発見しようと男らしく、単純に誠意をもって考えて行く、他の思想家たちが、絵も見えずにカンヴァスと顔料とを研究している間に。この愛読者は、そういうふうに読んだ。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)
小林秀雄の、しばしば「はったり的」とも批判される様をこの文章に読むひとがいるかもしれない。ショーペンハウアーの「哲学的ドグマなぞ初めから問題ではなかった」だって? 研究者だったらこの断言に苛立つのを憶測できないわけでもない。
ニーチェはこう書いてるじゃないか、と。
ショーペンハウアーは生に敵対した、このゆえに彼にとっては同情が徳になったのである・・・アリストテレスは、周知のごとく、同情のうちに、ときどきは一服の下剤でなおすのが好ましい、病的な危険な状態をみとめた。彼は悲劇を下剤と解したのである。ショーペンハウアーの場合が(そしていかんながら、セント・ペデルブルグからパリまでの、トルストイからヴァーグナーまでの現代の全文学的芸術的デカタンスもまた)示しているような、同情のそうした病的な危険な鬱憤に一撃をくわえる手段が、生の本能からこそ事実探しもとめられなければならないであろう、すなわち、この鬱積が炸裂するためにである・・・(ニーチェ『反キリスト』原佑訳 P172)
だがニーチェが山師なら、小林秀雄を山師として読んでどうしていかないわけがあろう。その山師根性から生み出される神経や情動に働きかけてくるエクリチュールに魅せられないひとーーたとえば学者共同体のひとびとはーー、地道に研究活動に精をだしておればよろしい。それが《絵も見えずにカンヴァスと顔料とを研究している》のではないことを、ここで他人事ながら祈願しておこう。
《――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。》(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)
もっともいま黒字強調をした箇所も、たとえば次の文とともに読む必要があるだろう。
もちろんニーチェはこれだけではない。ここでニーチェ読みなら欠かせないとされるクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』を次のように引用しておいてもよい。
ひとはものを書く場合、分ってもらいたいたというだけでなく、また同様に確かに、分ってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にはならない。おそらくそれが著者の意図だったのだ--著者は《猫にも杓子にも》分ってもらいたくなかったのだ。すべて高貴な精神が自己を伝えようとする時には、その聞き手をも選ぶのだ。それを選ぶと同時に、《縁なき衆生》には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこに起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである」(『悦ばしき知識』381番 秋山英夫訳)
もちろんニーチェはこれだけではない。ここでニーチェ読みなら欠かせないとされるクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』を次のように引用しておいてもよい。
強度、刺激、音調。それが思考である。思考が何を語るかはまた別の問題であり、思考が何を語ろうとも同じである。そして思考が何かに適用されれば、また他 の強度、他の刺激、他の音調が生み出される。いまやニーチェは、もはや概念的能力においてではなく、情緒的能力において、思考を実践しようとする。それは 一つの限界点。知が、悟性の平和のためにではもはやなく、〈カオス〉の呼びかけにも似た諸力の意のままに活動する、そのための手段のようなものを手にする 限界点にほかならない。(『ニーチェと悪循環』「トリノの陶酔」兼子正勝訳)
「音調」という語彙が出てきた。ならば、こう重ねて引用せざるをえない。
二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』ーー「自分の声をさがしなさい」)
で、小林秀雄のニーチェ小論はこの側面が欠けているって? まさか!
ニイチェは、「ツァラトゥストラ」を音楽だと言っている。比喩ととるのは間違いだ。音楽は、まさしく、かくのごときものとして、彼には聞えていたのだと私は思う。もう一つ奇怪な例をあげよう。彼の一生で彼を本当に驚かした書物が三つある。二十一歳の時読んだショウペンハウエルの主著、三十五歳で出会ったスタンダアルの「赤と黒」、四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。第二部は、「汝自身を知れ」というパロディイに関する天才的な心理学だが、第一部は全く非ドイツ的な(ドイツという言葉は、ニイチェの用いた最大の反語の一つであることに注意したい)世にも不思議な音楽だと言うのである。「地下室の手記」を読んだ人に、これが音楽として聞えて来る耳を私は要求したいのだ。これが音楽家ニイチェの鍵だ。……(小林秀雄「ニーチェ雑感」)
…………
※附記
彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収ーー意図的な誤読の「楽しみ」)