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2013年4月24日水曜日

今までに存在した世界人口累計

前回、水村美苗の講演での発言でちょっと気になる箇所を挙げたが、本を読んでいても、こういう疑念はしばしばあるもので、むしろ二流以下の評論家などの文には、枚挙に暇がないといえる。この人の言うことならほぼ間違いないだろうと思われる信頼のおける著者にだってときにはある。

たとえば、かなり入れ込んで敬愛している中井久夫の『日時計の影』所収の二つのエッセイから引用してみよう。

 現生人類は第四氷河期を生き延びて、今は第四間氷期にいる(もっとも最近の研究でも氷河期は十二回あったそうだ)。だが氷河期百万年の歴史も宇宙の歴史からみれば一瞬である。実際、今までに存在した現生人類は(推定の根拠は知らないが)百億人、そのうち今生きている人は二〇〇八年で何とその三分の二の六七億人だそうである。人類はバッタの大発生の一回分にすぎないのかもしれない。そして、人類の垂れ流した大量の物を黙々と吸収している最大のものは海洋であって、深海がついに汚染で飽和する時が人類の究極の危機だという。(中井久夫「焔とこころ、焔と人類」初出2007.9『日時計の影』2008所収




炭酸ガス増加も石油不足も食糧難も、世界人口の急増なくしてはありえない。二十世紀初めの世界人口は二〇億だった。今、七〇億は間近で百億も遠くない。ホモ・サピエンス(賢いヒト)という現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない。これは異常な大発生でないのか。産業革命以後二五〇年、物資とエネルギーの消費となると、それ以前の何億兆倍だろうか。(中井久夫「清陰星雨」2008.6「先が見えない中を生きる」同『日時計の影』所収)
二十世紀初めの世界人口は二〇億(正確には16~7億人)で、今は七〇億は間近というのもグラフにすると、驚くべきことが二十世紀に起こったのが今更ながら強い感慨を生む。

ーー漱石・鴎外の時代、多くの人が新聞小説を心待ちにして読んだのだなあ、当時どのくらいの読者数で、どのくらいの人口だったのだろう、と、漱石の『彼岸過迄』の冒頭を読んで、つまりしばらく新聞小説を休んでいた漱石の大患後のつぶやき、《自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬いなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る》などを読んで、すこし前調べてみたのだが、日本の人口推移はこんな具合だ。


汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸滊の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。(夏目漱石『草枕』)
この漱石文からは、《公共機関としての鉄道は、強制収容所へと無数のユダヤ人を運ぶ装置として発明された》、までほんの半歩しかない。

(ゴダールは)、「20世紀の夜明け」に起こったこととして「テクノロジーは、生を複製することに決め、そこで写真と映画が発明された」ともいっているが、すぐさま「喪の色である黒と白とともに、映画術が生まれたのだ」とつけ加えることをゴダールは忘れない。(……)さらに「映画は生命の動きを模倣しようとしたのだから、映画産業がまず最初に、死の産業に売り渡されたのは、当然で、理に適ったことだった」と語りなおされることになるだろう。(……)テクノロジーが知らずにいたのはこのことだ。すなわち、生の模倣が死の模倣と同じ仕草におさまるしかないことを、技師者たちはいまなお知ろうとしないのである。そのことの傍証であるかのように、ゴダールは、「1B」(『(複数の)映画史』)の「ただ一つの歴史」で、『ラ・シオタ駅への列車の到着』のしばらく後、アウシュヴィッツへと人々を運ぶ列車のイメージをフラッシュのようにごく短く挿入してみせる。あたかも、公共機関としての鉄道は、強制収容所へと無数のユダヤ人を運ぶ装置として発明されたといわんとするかのように。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

どうも脇道に逸れてしまう傾向があるのだが、もうひとつ。
距離を縮めてくれる鉄道などがなかったら、子供が生まれる故郷から出てゆくということもないので、したがって、その声を聞くための電話も不必要であろう。太平洋航路などが開設されていなかったら、友人は船旅には出なかっただろう。そうすれば友人の安着を知るための電報も不要であろう。子供の死亡率が抑えられたということも、まさにそのおかげでわれわれが、生殖活動の厳重な制約に甘んじなければならず、その結果、なんのことはない、われわれが育てる子供の数は全体として衛生学などまだなかった時代と同じで、しかもそのさい、夫婦間の性生活に重大な困難が生まれるとともに、おそらくは、人類にとってプラスである自然淘汰も阻止されたとすれば、いったいわれわれにとって何の利益になったと言うのだろうか。(フロイト『文化への不満』)
このフロイトの文は、冒険家以外は、とか、避妊革命以後は? などの但し書きは必要だろうし、最近なら安楽死は、とか……、というわけでもう一つ付け加えざるをえない

二〇世紀前半、ナチスが優生学的発想からユダヤ人のみならず障害者も虐殺しちゃったこともあって、二〇世紀後半は、とにかく生命は絶対だ、絶対に延長すべきだってことになってたけど、二一世紀は「よく死ぬ」ことも含めて「よく生きる」ことを考えていくべきなんじゃないか。僕は個人的には安楽死(「尊厳死」っていう言葉はきれいごとに過ぎると思うから)を合法化すべきだと思うし、自殺幇助の合法化すら考えていいと思う。っていうか、たとえば末期がんになった場合、金持ちなら安楽死の合法化されてるオランダやスイスに行って死ねるってのは、どうみても変でしょ。

 むろん、これはものすごく微妙な問題なんで、患者の意志の確認に関しては慎重の上にも慎重を期すべきだし、ちょっとでも長く生きたいと思う人の意志がそれで少しでも妨げられることがあっちゃいけないよ。だけど、もう十分だ、自由な意志で死にたいって人がいたら、それを妨げることもないからね。(浅田彰「よく生きる」ということ



……

さて冒頭の中井久夫の文に戻れば、より一層驚いたのは、 《現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない。》という指摘であり、最初はそんなものなのかと思って感心していたのみだが、すこし経って振り返ると、いかにも実感と違和があり、調べてみると下記の如くであった(これは数年前のことで、ああ、あの精緻な中井氏にも間違いがあるのかなと、twitterに書き込んだことがある)。

それを改めてここにいくらかの資料を添付して書いておこう。

…………



現人類が現れてからの総人口推定というのは非常に困難らしいのだが、研究者によって六百億から一兆二百億ほどとされている。



たとえば"How Many People Have Ever Lived on Earth?"では、

累計総人口が、107,602,707,791

2011年世界人口が、6,987,000,000 (mid-2011)


つまり現在の人口は 6.5%ほどとなり、中井久夫の記述とは桁が違う。




より少ない推定もあるにはあるのだが、、《今までに存在した現生人類は(推定の根拠は知らないが)百億人、そのうち今生きている人は二〇〇八年で何とその三分の二の六七億人》とは、おそらく誤謬ではないか。

すこし意地悪にいえば、「清陰星雨」、つまり神戸新聞のチェックにも引っ掛からず、「みすず」の編集チェックにも引っ掛からず、しかも二度も桁間違いのデータ読みでははないか。


※参照:Geography
What proportion of humans who have ever lived are alive today?At some point over the last few decades, someone started a notion to alarm people that population growth was out of control. Whoever it was said that a majority of the humans who have ever lived were alive today. Well, that's a gross overestimate.

Most studies place the total number of human beings to have ever lived at 60 billion to 120 billion and since the world population right now is a mere 6 billion, the percent of humans who have ever lived and are alive today is anywhere from a mere 5 to 10 percent.


※参照2:世界人口推移予測





ナイジェリアってのは、2050年(いや、この図表にも2050年なのか、2100年のか判然としない記述があるが、たぶん後者だろう)には世界第三位の人口となるのだな
孫の代まで心配するのなら、ナイジェリアに土地か家を買っておいたらどうだい?



石油もでるし公用語は英語らしい
あわよくば内戦の記者の職だってある




…………


※追記:いささか文脈とは異なるが、人口予測は当たるか、をめぐっての叙述を拾ったので附記。


◆「超高齢日本の 30 年展望
持続可能な社会保障システムを目指し挑戦する日本―未来への責任 」より

大和総研理事長 武藤敏郎 監修 調査本部. 2013 年 5 月 14 日


【人口予測は当たるのか】

人口予測は経済予測よりも確実だという言い方がよく聞かれるが、それは今から 50 年前に現在の 人口構造をほとんど予測できなかったことを忘れた議論である。 「少子化」という言葉が登場したの は 1990 年代になってからのことであり、 1980 年代まで私たちは現在ほどの少子高齢化を想定できな かったのである。恐らく、私たちは今から 50 年後の人口構造を正しく予測することはできないだろ う。 これまで各時点で人口の将来推計は行われてきたが、 将来推計人口とは、 あくまでも最近の傾向を 延長して将来に投影したプロジェクションにすぎない。そこには例えば賃金や価格の変化によって 人々の行動(出生行動や居住地の移動)が変化するという要素は組み入れられていない。50 年先の 人口構造は、 現在の傾向の延長線上にあるのではなく、 人々の考え方の変化や経済動向などによって 大きく変化すると考えた方がよいだろう。だからこそ経済成長は重要なのである。 とはいえ、今後の 20~30 年先までについて言えば、人口推計結果に近い現実が訪れる確率はかな り高い。 人口動態には強い慣性があるため、 当面の期間について、 既に実現した出生行動や長寿化傾 向を前提に考えることには合理性がある。 仮に、 現時点で出生数が突然増えたとしても、 新生児が成 人するまでには 20 年を要する。 日本の高齢化率が 30%を超えることが、 ほぼ確実である以上は、 様々 な社会の仕組みをそれに適合したものに変革する必要がある。