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2014年11月11日火曜日

血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉

もうその手の話は、わたくしは厭きた。だがそこの〈きみ〉への応答のために最後の「糖果入りの壺」を贈ろう。

(わたしは)小さな愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝せずにすむだろう。

比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖果入りのつぼを送るのである。……わたしに何かよからぬことをしてみるがいい。まちがいなく、わたしはそれにたいしてこういう「報復」をする。つまり、わたしはほどなく、その「犯人」に(ときにはその犯行にたいして)わたしの感謝を表明する機会をみつけるのである―――もしくは、その犯人に何かを頼む機会をみつけるのである。この方が、こちらから何かを進呈するよりいんぎんでありうるのだ。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

以下、すべて引用ですませておく。わたくしはいま忙しいのだ。

 …………
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

サド(サン=フォン) : 《もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう》 (『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド澁澤龍彥訳)

……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81

おわかりだろうか? 偽の正義の味方、おろかな猿たちよ、きみたちにも〈隣人〉がいないわけではあるまい?

フロイトが、まるで恐れをなしたかのように、隣人愛の掟がもたらす帰結の前で立ち止まるたびに、浮かび上がってくるもの、それはこの隣人のうちに宿るあの深い悪意の現前にほかならない。ところが、そうであるとすれば、この悪意は私自身のうちにも宿っている。いったいどんなものが、私の享楽の核心であるところのこの私自身のうちの核心以上に、私に近しいというのか? ただし私は、この核心にあえて近づこうとはしない。というのも、私がそれに近づくやいなや――それこそが『文化のなかの居心地悪さ』の意味である――あの測深しがたい攻撃性が現れてくるからであり、私はそれを前にして後ずさりし、それを私自身に向け直すのである。そうすると、この攻撃性は、消え入ってしまった〈法〉にまさに代わって、 〈物〉の限界にあるひとつの境界線を私が踏み越えることを妨げるものに、重さを与えにやってくるのである。 」 (ラカンSVII, 219)
 何よりも毒性が高いのは〈隣人〉という存在、その欲望とみだらな快楽の深淵である。したがって、人間関係を支配するあらゆる法則の究極の目的は、この毒 性を隔離もしくは中和して〈隣人〉を同胞に転じることだ。(他者という、もうひとつの)主体にあるかもしれない毒性をさがすだけでは不十分だ。自己という 主体自体が、その内部の〈大文字の他者〉という深淵に毒性をたたえているのだから。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』p82)

ここにあるように、〈隣人〉とは、悪をなした他人その人ではなく、大文字の〈他人〉である。フロイトを挿入しよう。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

おわかりであろうか? きみたちの〈正義〉なるものの根源を。

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

攻撃欲動の標的が外部に見当たらなければ、自己破壊に向かうということはあり得る。ナチに拷問された生存者たちが自殺衝動に襲われるように。

…………

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。
 
Recall the strange fact, regularly evoked by Primo Levi and other Holocaust survivors, about how their intimate reaction to their survival was marked by a deep split: consciously, they were fully aware that their survival was the result of a meaningless accident, that they were not in any way guilty for it, that the only guilty perpetrators were their Nazi torturers. At the same time, they were (more than merely) haunted by an irrational feeling of guilt, as if they had survived at the expense of others and were thus somehow responsible for their deathsas is well known, this unbearable feeling of guilt drove many of them to suicide. This displays the agency of the superego at its purest: as the obscene agency which manipulates us into a spiraling movement of selfdestruction.
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的なを途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。 
The function of the superego is precisely to obfuscate the cause of the terror constitutive of our beinghuman, the inhuman core of beinghuman, the dimension of what the German Idealists called negativity and Freud called the death drive. Far from being the traumatic hard core of the Real from which sublimations protect us, the superego is itself a mask screening off the Real.
レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 
For Levinas, the traumatic intrusion of the radically heterogeneous Real Thing which decenters the subject is identical with the ethical Call of the Good, while, for Lacan, on the contrary, it is the primordial evil Thing, something that can never be sublated into a version of the Good, something which forever remains a disturbing cut. Therein lies the revenge of Evil for our domestication of the Neighbor as the source of the ethical call: the repressed Evil returns in the guise of the superego's distortion of the ethical call itself.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

きみたち仔羊のために穏やかな衣裳をまとったリルケをも引用しておこう。

目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。

それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(リルケ『マルテの手記』)


 さてプリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちの自殺衝動」に戻ろう。きみたちには「死んだ人に申し訳ない」という生存者罪悪感はないのか?そうであるならそれを仔羊の人生という。


一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリサーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある。膵臓疾患の診断の第一は「膵臓が存在することを忘れていないこと」である。それほど膵臓は忘れられやすい臓器だということだが心的外傷でも同じである。多くの外来患者はフラッシュバックなど侵入症状を初めとする外傷関連症状の存否をそもそも聞かれていない。それに怠慢ばかりでなく、心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密を土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行われつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)


ヤスパースは《「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。》


おわかりだろうか、レヴィナスの寝言があまりにも寝言すぎるのが。あるいはヤスパースの「形而上の罪」の厚顔無恥な寝言ぶりを。

ヤスパースは戦後まもない講演(『罪責論』)において、戦争責任を、刑事的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任の四種類に分けている。

第一に、「刑事上の罪」、これは戦争犯罪――国際法違反を意味する。これはニュールンベルク裁判で裁かれている。

第二に、「政治上の罪」、これは「国民」一般に関係する。《近代国家において誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんびとも、これを回避することは許されない。政治に携わる人間は後になって風向きが悪くなると、正当な根拠を挙げて自己弁護するのが常である。しかし、政治的行動においてはそういった弁護は通用しない》(橋本文夫訳)

つまり、ファシズムを支持した者だけでなく、それを否定した者にも政治的責任がある。《あるいはまた「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。

第三に、「道徳上の罪」、これはむしろ、法律的には無罪であるが、道徳的には責任があるというような場合である。たとえば、自分は人を助けられるのに、助けなかった、反対すべき時に反対しなかったというときがそうである。もちろん、そうすれば自分が殺されるのだから、罪があるとはいえない。しかし、道徳的には責任がある。なぜなら、なすべきこと(当為)を果たさなかったからである。

最後に、「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。

この講演はほとんど知られていないが、戦後ドイツの戦争責任への処し方を規定したものである。こうした区別は、それらがつねに混同されている現状から見て不可欠である。しかし、ここに幾つかの問題がある。ヤスパースは、まるでナチズムがたんに精神的な過誤であり、それを哲学的に深く反省すれば片づくかのように考えている。そこには、ナチズムをもたらした社会的・経済的・政治的諸原因への問いが欠落している。ヤスパースは、カントのいう道徳性を「道徳的な罪」のレベルにおき、「形而上の罪」をより高邁なものであるかのように見なした。しかし、カントのいう道徳性は根本的にメタフィジカルである。同時に、それは「責任」を離れて、「自然」(因果性)を徹底的に探求すべきであることと矛盾しないのだ。(『トランスクリティーク』P190の註より)

おわかりだろうか、ヤスパースのなんたる寝言カント解釈を。きみたち猿の〈正義〉は、このヤスパースをさらに四周ほど寝言にしたものだ。「寝言は寝てから言え」!

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

2014年11月9日日曜日

「いまの痛みか vs 近い将来のより大きな痛みか」

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)


国家のホンネはひとびとが年金受給年齢になったら死んでくれることだ
健康保険金を食いつぶす病者たちははやくお陀仏してくれることだ
失業保険や生活保護だと? 税金払わないやつらは野垂れ死んでくれることだ
国の経営者だったらそう願うのは当たり前だ

ただし優秀な官僚たちは「企業」や「政治家」たちとの配偶関係(その娘や孫娘を娶る)や天下り先などで「えげつない」資本主義に絡め取られているには相違ない。


どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

だが高級官僚たちは少なくともきみたち衆愚のように阿呆ではない
そして「国家」とは税金の収奪装置に決まっている

持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交換」の一種だということができる。人間の社会的関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ごたごた言ってくるヤツがいるから書いているのだが
ーーワタクシが逃げたなどと!
だがすでにワタクシは十分に書いた、以下のようにして。

・「人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる
高齢化社会対策の劇薬
「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)


どうせ読みもしないだろうから、次ぎのごとくを読んでおけばよろしい。これがごく「常識的」な経済学者の見解だ。日本はいったん「劇薬」を飲むべきだという見解とはほど遠いが、このままでは--要するにきみたちのような人情派が猖獗する日本ではーー劇薬をこの数年のあいだに飲むことになるだろう。それもまたいい。「日本はいったん亡びるべきだ」(北野武)。

小黒一正@DeficitGamble11月6日

本当の対立軸は「いまの痛みか vs 近い将来のより大きな痛みか」→(NBO)再増税を巡る対立の本質は「実施 vs 延期」ではない http://goo.gl/gi3bdY
池尾和人 ‏@kazikeo 12月4日(2013)

私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。RT @iida_yasuyuki

きみたちの消費税増反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いあるのにそのことに気づいていない(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン)。それを阿呆、あるいは完全ロバという。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

もっとも、日本は消費税導入時に、3%などというネズミのションベン的数字で導入した大きな政策的ミスがあったのは否定できない。すくなくとも10%で導入して、その当時、他の税をいくらか下げておいたらよかったのだ。


諸外国における付加価値税の標準税率の推移




というわけで、このたぐいの話はもう御免こうむる。ワタクシはいま忙しいのである。

ーーそうそう、これぐらい読んでおけよ。

クルーグマン教授、“消費増税で国債暴落”論を一蹴 デフレ対策徹底を首相にも直言


話半分にな、そのうち「クルーグマン教授“日本に謝りたい…”」と、またいうかもしれないからな。


2014年9月17日水曜日

マッチョイメージとしての「革命家」

さて、〈とかくうわつ調子な〉「議論しないこと」と「ほっとく」能力などという記事を、たとえばクンデラに批判されてみよう。

二十歳で共産党に入党したり、あるいは小銃を手にして、ゲリラに参加して山岳地帯に入ったりする青年は、革命家としての自分自身のイメージに魅惑されているのである。なにしろ、そのイメージによって彼はすべての他人と区別され、そのイメージによって彼自身になれるのだ。(クンデラ『不滅』)

たとえば若い時代に左翼系の論客なり新聞記者なりとして自らの職業を選択した者は、その自分自身のイメージに生涯魅惑されている、ということはありうる。そして、そこにマッチョの臭いを嗅ぎつけるひとが数多いるのは十分に憶測される。

もちろんもっと短期的な視野でもよい、「革命家」や「ラディカル左翼」して己を選択するのは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》(中井久夫)――のかもしれない。もっと一般化して言えば、人間にとって卑怯と勇気とはしばしば紙一重」であるだろう。

マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想の自我として経験される。男のマッチョイメージの裏には、なにも秘密はなく、彼の理想に恥じない行動をとり難いただ弱々しいごく普通の男があるだけだ。(私訳)

the macho-image is not experienced as a delusive masquerade but as the ideal-ego one is striving to become. Behind the macho-image of a man there is no secret, just a weak ordinary person that can never live up to his ideal.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father)

そうだろう、どのマッチョの仮面の裏にも、弱々しいごく平凡な男がいる。マッチョでなくてもよい。理念や正義を語り行動する人たち、彼らに胡散臭さを感じる人々がいるのは止む得ない。彼らを冷笑する露悪主義者たちは、いつの世にも存在する。

理念や正義? 良心や超自我?

良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではないということ――良心とは、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので方向を変えて内面へ向かうようになった残虐性の本能であるということ。( ニーチェ『この人を見よ』)

ここにはすでに『快原則彼岸』以降の後期フロイトがいる、「死の欲動」を語ったフロイトが。すなわち超自我は外的なものではなく、攻撃欲動が自分自身に向かうことによって形成されるとしたフロイトだ。

罪責感に本質的かつ共通な点としては、それは内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った(フロイト『文化への不満』)

だが、《たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。》(柄谷行人ーー「世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれ」(大岡昇平)

偽善は統整的に働くのだ。

たとえば、われわれが自然を認識できるだろうという「統整的理念」は、事実、発見的に働くのである。マンハッタン・プロジェクトに関与したというノーバート・ウィーナー(サイバネティックスの創始者)は、原爆製造に成功した後、防諜上最大の機密とされたのが、原爆の製造法ではなく、原爆が製造されたという情報であったといっている。同時期にドイツ・日本でもそれぞれ原爆の開発を進めていたので、それが製造されたという事実がわかれば、たちまち開発に成功するからである。詰め将棋の問題は実戦におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である。自然界が数学的基礎構造をもつというのもそのような理論的な「信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p83-84)

ただここで統整的な理念と構成的な理念の相違には注意しておこう。

理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することであり、目的が構成的になったしまえば、それは暴力的強制となる。運動者による「正義」の主張が、統整的であるのか構成的であるのかはよく見極めねばならない。(参照:柄谷行人「第一回長池講義 講義録」

運動者の「正義」が統整的なものであるなら、どうして彼らが「マッチョ」のようにみえて悪いわけがあるだろう? いや本来、ひとは構成的理念の正義の人物のみをマッチョと見なすべきだとしてもよい。だが、いわゆる「正義」のために活動している人物をすべてマッチョ的だと見なす傾向にあるのではないか。

シニカルな露悪主義者たちーー善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心している彼らーーは決定的に間違っている。騙されない者は彷徨うのだ。


マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent

ーーといささか断定的な口調で書いたが、これらも柄谷行人とジジェクから読みとれるひとつの「政治的な」態度に過ぎない。ただいまのところこの態度をとりたいと、残念ながら非行動主義者でしかありえないわたくしは、このように「統整的に」考えているだけの話である。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

…………

ところでジジェクの最近の書(2012)にはカントの「統整的理念」への批判(吟味)がある。

The Kantian “regulative Idea” is on the side of desire with its forever elusiveobject‐cause: with every object, the desiring subject experiences a “ ce n’est pas ça” (this  is not that—not what I really want), every positive determinate object falls short of the elusive spectral “X” after which desire runs. With the Idea as the principle of division, by contrast, we are on the side of the drive: the “eternity” of the Idea is nothing other than the repetitive insistence of the drive. However, in the terms of the triad of Being/World/Event, this solution only works if we add to it another term, a name for the terrifying void called by some mystics the “night of the world,” the reign of the pure death drive. If an individual belongs to the order of being, if a human (being) is located in a world, and if a subject has its place within the order of an Event, a neighbor always evokes the abyss of the “night of the world.” Our hypothesis is that it is only with reference to this abyss that one can answer the question “How can an Event explode in the midst of Being? How must the domain of Being be structured so that an Event is possible within it?” Badiou—as a materialist—is aware of the idealist danger that lurks in the assertion of their radical heterogeneity, of the irreducibility of the Event to the order of Being:(ZIZEK “LESS THAN NOTHING”)
One should be careful not to read these lines in a Kantian way, conceiving communism as a "regulative Idea:' thereby resuscitating the specter of an "ethical socialism" taking equality as its a priori norm-axiom. One should rather maintain the precise reference to a set of actual social antagonisms which generates the need for communism-Marx's notion of communism not as an ideal, but as a movement which reacts to such antagonisms, is still fuly relevant. However, if we conceive of communism as an "eternal Idea:' this implies that the situation which generates it is no less eternal, i.e., that the antagonism to which communism reacts wil always exist. And from here, it is only one small step to a "deconstructive" reading of communism as a dream of presence, of abolishing all alienated re-presentation, a dream which thrives on its own impossibility. How then are we to break out of this formalism in order to formulate antagonisms which will continue to generate the communist Idea? Where are we to look for this Idea's new mode? (Zizek "First As Tragedy, Then As Farce")

“night of the world”という表現が見られるように、カント対ヘーゲルの文脈でも読みうる文である。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

ーーというわけで、カントやヘーゲルをまともに読んだことのないわたくしにはお手上げであり、聡明なひとたちに、それぞれ勝手に考えていただくことにしよう。



2014年7月3日木曜日

ソクラテスのイロニーとプロソポピーア

悲しいときに悲しい詩は書けません/涙をこらえるだけで精一杯です/楽しいときに楽しい詩は書きません/他のことをして遊んでいます(谷川俊太郎「問いに答えて」)

ところでツイッターに悲しいやら楽しいやらと書き込むとき、ひとはほんとうに悲しかったり楽しかったりするのだろうか。たぶんそうではないだろう。愛しい誰かを喪ったときにまさか「かなしい」などと他人に向けて語りはしない。「楽しい」のほうはちょっと違うかもしれない。ひとにうらやましがらせたり、共感してもらったりすると、楽しい心持が増幅する場合があるかもしれない。こっちのほうは、楽しんでいるボクチャンを見て! ということなのだろう。とすれば、悲しんでいるアタシを見て! というのもあるのかもしれない。

この悲しいやら楽しいやらは滅多にみかけはしないが、私はこれこれが好きなのです、という囀りはよく見かける。あれは、こんな(趣味のいい)作品を好むアタシを見て! と発話しているとしてよいだろう。そしてそこには共感の渦が場合によっては拡がる。湿った瞳を交わし合い頷き合う共感の共同体。もちろんそれは逆に、バルトが書くように、いらだちを起こしもする。

《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざま な享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

さて「私は怒っている」というのはどうか。これも稀にしかみないが、ある限られた種族のなかにはこう何度か囀るタイプがいる。社会の不正やら、上から目線への、たとえば学者やら医者、評論家への難詰として。これも「怒っているボクチャンを見て!」ということなのだろう。ほんとうに怒っているとき、「私は怒っている」などと書き込むとは思えない。

――などと書いているのはひねくれた性格のせいである。このところ自分の性格にあわないマジメなことを書きつづけたので、ちょっと軌道修正をしなくちゃ、な。

こういったことは他人のことはよくみえるが、自分のことはあまりみえないものだ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

「メタ私」、すなわち中井久夫独自の「無意識」概念だが、おのれの「メタ私」がわからないことが、このボクチャンを生かしている。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)


閑話休題、すなわち荷風風にいえば「あだしごとはさておきつ」。釈迢空風なら「話の腰を折ることになるが」。

《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)

…………

ヘーゲルが語るソクラテスのイロニーをめぐる文を掲げる。

ソクラテスが一般的な見解を受けいれ、それを提示せしめるということが、彼が自ら無知をよそおって、人々をして口を開かせるという外観をとるーー彼はそのことを知らない、そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。さてこれが有名なソクラテスのイロニーである。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

ここで「表題」のもうひとつの言葉、ギリシア語起源の”プロソポピーア”とは次のように定義される。

A prosopopoeia (Greek: προσωποποιία) is a rhetorical device in which a speaker or writer communicates to the audience by speaking as another person or object. The term literally derives from the Greek roots "prósopon face, person, and poiéin to make, to do".

プロソポピーアは、日本では、一般に擬人法、活喩法と訳され、《無生物を生き物(特に人間)であるかのように表現する方法。「嵐が吠える」「花が笑う」の類》とされる。だが、以下にあるのは、われわれの話はすべてプロソポピーアではないかという議論である。


◆”THE LACANIAN PROSOPOPOEIA” (ジジェク『LESS THAN NOTHING』より 私意訳)

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により対話者の立場の矛盾を露わにし、相手の立場を彼自身によって崩壊させる。(……)ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を“プロソポピーア”に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者はおのれの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになり、彼らが権威化のありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威化は崩れおちる。それはまるでイロニーの聴きとれえない反響が、彼らの会話につけ加えられたかのようなのだ。その反響とは、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。

プロソポピーアとは、“不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法”と定義される。(……)ラカンにとってこれは会話の性格そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。

ーーということで、ソクラテス風のイロニーをやるなら、女性的な態度がいいらしいわ

「男の言葉を女の言葉に/近づけることを考えなければならない」(西脇順三郎)

《男性とは「自分が存在すると信じている女性である」》だったら、男も(象徴界に)存在しないようにしなくちゃね、そうでないと女たちにやられっぱなしになっちゃうわよ

結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)


さてここでラカンの言表行為/言表内容という言葉が出て来たので、いささか捕捉しておこう。まずごく一般的には、「言表内容 enonce」とは実際に話された言葉(意味内容)であり、「言表行為 enonciation」はその言葉を発言する行為のこととされる。

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」

《言表内容と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ》とするラカンの『同一化』セミネールでは、次のようにある。

「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない。(……)「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。(……)

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(……)もう一つの意味は「私は考える存在である」である。この場合はもちろん、「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。私が「私はひとつの存在です」と言うと、それは「私は存在にとって本質的な存在である」ということで、ただのおもいあがりである。(ラカン『同一化セミネール』

このラカンの「言表行為」と「言表内容」の還元できないギャップというのは、いろいろな形で語られてきた。デカルトのCogito ergo sumやカントの「超越論的」もこの流れのなかで捉えうるといえるかもしれない。ほかにもヘルダーリン(ヘーゲルの同時代人)やニーチェなら次のように書く。

もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳ーー「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーードゥルーズ『ニーチェ』湯浅 博雄訳より)


◆ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。

ミレールの「エルピロポ」から引用されたこの文は、ここでの文脈との関連性からやや離れてるかもしれないが、この文と似たような内容のことを、柄谷行人バフチンやヴィトゲンシュタインを語るなかで書いている。


◆柄谷行人『探求Ⅰ』より

言葉が話し相手に向けられていることの意味は、はかりしれないほど大きい。実際、言葉は二面的な行為なのである。それは、それが誰のものであるかということと、それが誰のためのものであるかということの、二つに同等に規定されている。それは、言葉として、まさに、話し手と聞き手の相互関係の所産なのである。あらゆる言葉は、《他の者》に対する関係における《ある者》を表現する。言葉のなかでわたしは、他者の見地にみずからに形をあたえる。と言うことは結局、みずからの共同体の見地からみずからを表現する。言葉とは、私と他者とのあいだに渡されたかけ橋なのである。もしそのかけ橋の片方の端が私に立脚しているとすれば、他方の端は話し相手に立脚している。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。

だが話し手とはいったいなにものであろうか? たとえ言葉が全面的にはその者に属さないーー、いわば、彼と話し相手の境界ゾーンであるーーにしても、やはりたっぷり半分は言葉は話し手に属している。(バプチン「マルクス主義と言語哲学」桑野隆訳)

いうまでもなく、彼は、話し手と話し相手の両方が同時にみえるような「客観的」立場に立っているのではない。むしろ、“対話”とは「命がけの飛躍」であり、「私と他者とのあいだに渡されたかけ橋」は、それを渡るというより飛びこえるほかないものだといわねばならない。「言葉が話し相手に向けられているということ」は、話し手自身にとって「意味している」という特殊な内的経験などは存在しない、ということを意味する。フッサールがいうような「孤独な心的生活」においては、意味というものが“意味をなさない”のだ。そのかぎりで、“対話”は、独我論(方法的独我論=現象学)に対する決定的な批判の視点となりうるだろう。それは、われわれが「教える」側の視点と読んだものにほかならない。

バプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。P21-22



…………

さてもうひとつ、ジジェクがプロソポピーアを説く文のなかに、《私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”》とあった。この象徴的アイデンティティとは、象徴的去勢にかかわる。そして「去勢」という言葉のイメージとは異なり、実は「去勢」とは「権力」のこととされる。《去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。》


……私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファルス(男根)である。なぜラカンにとって、ファルスはたんなる授精のための器官ではなく、シニフィアンなのか。伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力の行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。この去勢は、私が象徴的秩序に取り込まれ、象徴的な仮面あるいは称号を身にまとうという事実そのものによって起きる。去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。したがってわれわれはファルスを、私の存在の生命力をじかに表現する器官としてではなく、一種のしるし、王や裁判官がそのしるしを身につけるのと同じように私が身につける仮面である。ファルスはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の身体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 P64-65)

もっともこの文は額面通りに受け取らなくてもよいのであって、たしかに象徴的去勢はこのジジェクの説明がただしいのだろうが、通常語られるのは、イマジネールな去勢、すなわち想像的去勢とでもいうべきものだろう。それならば旧来の「おちんちん」がカットされた男ということであり、この用法を、すくなくともこの〈わたくし〉は棄て去るつもりはない、たとえば浅田彰が使うような使い方を。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(『憂国呆談』)

事実、ジジェクの師であるラカンの娘婿ミレールも次のように使っている。

Sarah Palin: Operation "Castration" .Jacques-Alain Miller

The choice of Sarah Palin is a sign of the times. In politics, the feminine enunciation is hence called to dominate. But be careful! It's no longer about women who play elbows, modeling themselves on the men. We are entering an era of postfeminist women, women who, without bargaining, are ready to kill the political men. The transition was perfectly visible during Hillary's campaign: she began playing the commander in chief and, since that didn't work, what did she do? She sent a subliminal message, one that said something like: "Obama? He's got nothing in the pants." And she immediately took it back, but it was too late. Sarah Palin is not only picking up where she left off but, being younger by fifteen years, she is otherwise ferocious, slinging feminine sarcasm like a natural; she overtly castrates her male adversaries (and with such frank jubilation!) and their only recourse is to remain silent: they have no idea how to attack a woman who uses her femininity to ridicule them and reduce them to impotence. For the moment, a woman who plays the "castration" card is invincible.





2014年6月13日金曜日

歓待の掟

貴君の口から再度ある語彙が洩れたら、
わたくしの「歓待の掟」として書こうと思っていたのだがね、
《真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、
 欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう》
いままで十分にこの「歓待の掟」を守っていなかったことを後悔して。

貴君がこのブログをいまだ読んでいるかどうかは
わたくしにはよく分からないが、それはこの際どうでもよろしい。

マジョリティがマイノリティに向ける寛大さを利用して
《つまり希少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして》、
マジョリティとの間に《目には触れない隔離の幕を張りめぐらせてゆく》
それは、マジョリティにとってもマイノリティにとっても
不幸な事というべきだろう。
《この自堕落な寛大さこそが、
 真の言葉の障害と呼ばれるものにほかならないからだ》
このマジョリティ/マイノリティの姿勢をこそ、
貴君は批判している人だったはずでね、
わたくしの勘違いでなかったら。

《当事者》という概念には、「外部から語ってはいけない」の神学が含まれると思います。いっけん良心的なのですが、「尊重さえしておけば良心的であることになる」という有無を言わさぬ恫喝にもなる。「この人は当事者だぞ」には、菊の御紋を突き付けるようなところがある。

これは限りなく「正しい」のだよな
わたくしも、フロイトや中井久夫などを引用することが多いのでね
以前のツイッターのアカウントのことだが
精神医学関連の著者の文を引用すると、
ある種のひとたちに関心をもたれる、
メンションがある、共感の、あるいはいささかの異議をもった。
メンションに応答して、対話者の解釈へのわたくしの齟齬感を投げつける
すると「わたしは当事者です」などと突然言い出したことがあった。
「私は統合失調者」なのだから、「私」は「お前」より分かっている
黙っておれ、ということなんだな
こういうことがあると、この種の人たちに「遠慮」することになってしまう。
だがそれはあなたの云う「名詞形」のせいだけなのだろうか
「当事者」という名詞の問題なのだろうか
レッテル貼りだけの問題なのだろうか。
それよりも日本的風土のせいなのではないだろうか
という疑義がある

※たとえば参照:


…………

ニコラス・レッシャーは、弁証法を論争の形式、あるいは法廷の形式から再考しようとした。それは、まず提案者(検事)の意見提示からはじまり、反対答弁者(弁護士)がそれを論駁し、さらに提案者が答えるというかたちでなされる。この場合、提案者の主張が、反駁しえないような絶対的な自明のテーゼ(真理)である必要はない。さしあたって、その主張に対する有効な反駁が出ないかぎり、それは真であると推定される。こうした論争においては、提案者にだけ「立証責任」があり、反対者は、なに一つ積極的な証拠を提示する必要がない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p108)

というわけで、貴君は、すくなくともある主張を展開しようとしているのだから、
いくら「少数派」の立場に立っていても、やはり「説明責任」はあるのだよ。

まず、私が一方的に「説明する側」に回っていることに気づいていただけませんか。多数派の側に立つ○○さんが、少数派の説明趣旨に立つ私を非難すれば、○○さんは一方的に「責める側」に回るのですが、この時点で、政治的バイアスが強すぎます。
何が問題になっているかにすら気づいておられないのですが、――多数派の価値観に乗っているので、○○さんは説明を求められません。そして、多数派に基づいて、私に「説明しろ」と詰め寄る権利があると思い込んでいる。

この○○さんは、どこかの若い社会学者だな。
まあオレの好みのタイプではないがね。

ところで、「政治的バイアス」などという言葉が
貴君の口から洩れてしまうのには驚いた。
以前、貴君のブログの次の文にひどく賛同した覚えがあるのでね。

支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。

これは難しい問題ではあるのだけれど。
ポリティカル・コレクトネスだな
何にせよマイノリティの側に立って、
従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが
「政治的に正しい」(PC)という話
マジョリティ側からの「説明せよ」は
抑圧なんだよな
マジョリティは多くの場合この「抑圧」的仕草を遠慮する。
それは日本的風土ではことさらいちじるしい
○○さんはその点では希少価値がある。
やはりわたくしも貴君の主張は
「説明」がたらなすぎると印象を受けるのだが
それを「遠慮」していたんだな
いまこうやって書いているのは
その「遠慮」を取っ払おうとする振る舞いだよ
そもそもマイノリティの「特権を享受しようとする」態度を拒絶するのが
貴君のすぐれた姿勢だと感じ入ったにもかかわらず
貴君がみずからその姿勢を翻してしまう発言がときにみられるのではないか
その疑義を呈するためでもある
それは錯覚なのかもしれないけれど。

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)

だれかを傷つけるし、自分も傷つく
それでもしょうがないからやるしかない
という態度をもっている人だなと感じ入り
ツイッター上での貴君の論争を注目していたのだけれど
ーー微力ながら、応援もだがね。
それにもかかわらずいざ問いつめられたら
やはりマイノリティの側に立って
難詰してしまうというのは
議論の経緯を無視すればやはりちょっと残念だな
ソクラテスのイロニーの餌食になるのは
堪えがたいというのは分からないでもないが

ソクラテスが一般的な見解を受けいれ、それを提示せしめるということが、彼が自ら無知をよそおって、人々をして口を開かせるという外観をとるーー彼はそのことを知らない、そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。さてこれが有名なソクラテスのイロニーである。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、 彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

柄谷行人はこの文を引用して次のように書いている。

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(柄谷行人『探求Ⅰ』P210)

いずれにせよ、ひとは「名詞形」=概念=表象(想像物)を使わずには
ものを書き得ない、《結局は概念から逃れられない。
ものを書くなら、そこで勝負するほかない。
とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね》(柄谷行人
ある程度のレッテル貼りもほとんど避けがたい
名詞形を動詞形にしても似たようなものだ
ーー動詞化(当事化)だったな、貴君のは。
似たようなものはロラン・バルトや中井久夫にもあるのだがね

たとえば「絆」という名詞にうんざりして
「寄り添う」という動詞に変えてみてもこれは同じことだ
レッテル貼りもある状況では許容される、たとえば学校などでの「あだ名」。
すくなくとも相互性のある場では、たいした問題ではない。
どんなときの「名詞形」が悪なのか
それの「説明」が足りないように感じる
「メタ」「ダブスタ」等への批判も同じく。
そもそも日本人はもっとダブスタであるべきだという議論もあるぐらいだ
たとえば浅田彰と柄谷行人の「ホンネとタテマエ」、
あるいはジジェク=ラカンの「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent

《名詞形による人間の区切りを/前提にしたままの議論を許すな。》
などとスローガン的に怒りを表出しても埒が明かないとわたくしは思う。

上に「相互性」と書いたが次のようなこと。

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。(中井久夫「いじめの政治学」)

さてそれ以外にも、上の文に出てきた二つの語彙の出所を提示しておこう。


◆「遠慮」についてーー『「甘え」の構造』(土居健郎)より

ここで「遠慮」というこれも特殊な日本語について考えてみよう。

 この語は本来は文字通り「遠く慮る」意味で使われていたようであるが、現代ではもっぱら上述したごとき人間関係の尺度を測る読みとして使われているのである。すなわち親子の間には遠慮はないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠慮がないばかりでなく、親も子供に対して遠慮はしない。親子以外の人間関係は、それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ、疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など、親子以外の関係でも、随分遠慮のない関係も存するが、日本人がふつう親友という場合は、このような友人関係を指すのである。

 要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。遠慮の意味は前に説明した「気がね」や「こだわり」とほとんど同義であるといってよい。すなわち相手の好意に甘え過ぎてはいけないというので遠慮するのである。いいかえれば、遠慮しないと図々しいと考えられ、相手に嫌われはしないかという危惧がそこには働いている。したがって遠慮しながら実は甘えているのだということができる。このように遠慮は窮屈な心理状態であり、ふつうはあまり好まれないが、時として人は遠慮の価値に気づくこともある。

 例えば、「どうも遠慮があって話しにくい」というときは遠慮はこのましくないものであるが、「あの男は遠慮がなくて困る」というときは遠慮が好ましいものと感じられている。それはまた、親子間の確執や、またもともと親しかった者同士の間に起きたトラブルは、まさに当事者間に遠慮がなかったことが原因であると解されることが多い。日本人は、一般的に自分のこととしては遠慮を嫌っても、他人には遠慮を求める傾向があるが、これは結局甘えの心理が社会生活の根本ルールになっているからであろう。また遠慮をそれこそ遠く慮ることとして積極的に価値づけるプライバシーの観念が従来日本に発展しなかったのもこのためであると思われる。

「歓待の掟」が日本にはないというのも
結局、古典的な「甘え」の話になるのだな
古臭くてすまないが。
より最近の言説なら
それは母性のオルギア(距離のない狂宴)
父性のレリギオ(つつしみ)の話であり、
日本は旧来から「母性的」なのだな

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰)


なかなか一筋縄ではいかないよ
そして世界そのものも「父権的権威」の斜陽のせいで
この点では「日本化」しているのだから。

他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク「ラカンはこう読め!」ーー寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

結局、こういうことじゃないかな、いちばん大事なのは。

巧みな少数者として生きること(……)。そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。そして、多数者もまた多くのことを断念してはじめて社会の多数者たりえていることが少なくないのではないか。そして、多数者の断念したものの中に愛や友情ややさしさが算えられることも稀ではない。それは、実は誰もが知っていることだ。(中井久夫「世に棲む患者」『世に棲む患者』ーー精神健康をあやうくすることに対する15の耐性)


◆蓮實重彦「歓待の掟」より『反=日本語論』所収

……妻があまり人前で日本語を話そうとしないのは、何もテレヴィジョンのせいばかりではない。それよりもむしろ、外国語を介して成立する人間関係の曖昧さ、というのかむしろ醜さとさえ呼ぶべきものが、日本ではとりわけ強調されているかに見えるからだという。それは、二重の意味で醜い。まず、たとえば、子供を公園に散歩させている時など、多くの場合は英語で、しかも理由もなく話しかけてくる日本人の顔が、例外もなく醜いという。同時に、場所がらもわきまえずに、大声で日本語を操る仲間の外国人も醜い。勿論、と、妻はいいそえる。勿論、外国語一般を頭から否定しているわけではないし、必要とあれば、日本語を話さねばならないし、英語で意志を通じあうことだってある。また、街頭での偶然の出逢いから親しいつきあいが生れたことも随分ごある。なかには、本当に親切さから言葉をかけてくれる日本人もいる。そんな時は、日本に暮らしている以上、当然の礼儀だと思って何とか下手な日本語で返事をしようとする。問題はそれから後に起る事態なのよ。


まず、こちらが日本語で話していることに気がついて、知っている限りの外国語の単語を挿入し、どれぐらいわかっているのかなあとなかば心配げに、時に身振りなどをまじえて説明しながら日本語で答えてくれる人がいる。そんなときその人は如何にも快活に生活を楽しんでいるなあと思って嬉しくなる。次に、実に自然な日本語で、しかもいかにも繊細な心遣いで難解な単語をそれとなく排除しながら会話を続けてくれる人がいる。そんな人には、かりに言葉につまって非礼を覚悟でフランス語を使ってしまっても、それを許してくれる心の柔軟さがそなわっているから、あとは何語で話そうと、人間としての心の触れあいを持つことができる。ところがこちらが無理して口にする日本語の言葉など頭からうけつけようとせず、たて続けに外国語を話し続ける人がいて、何とも醜いのはこの三番目の連中なのだと妻はいう。彼らは、身振りも表情もどこか似かよっていて、多くの場合、季節の変化とか、東京に住んで何年になるかとか、シャンソンが好きだとか、外国旅行にでかけたことがあるとか、パリの女性は美しいとか、そんな種類の文句ばかりをこちらの存在を無視してじゃべりまくる。そして、たまたま話題を転じて会話教則本の範囲をぬけでようとすると、あとはもう、イエスとかウイとか、何でもかでも肯定してしまう。最近、そんな人たちのふるまいの意味がどうやらわかって来た。自分が習った外国語が通じるかどうか、あたしを使って実験しているというわけなのね。日本という地理的配置からしてそれも無理はないと思う。それにしても、と、妻は不満げに口にするのだ。それにしても、そんなとき、こちらはガイジンという抽象的存在であって、人間とはまるで認められていない。それは贅沢な不満かも知れないけれど、何とも情けない話だと思う。それに、絶望的な点は、外国語を話すことで、自分のまわりに厚い壁をこしらえあげて、頑迷なまでにコミュニケーションを断っているのだということを、その人たちがまるで気づいていないらしいこと。それはちょうど、日本語がわかるということを示そうとするだけの目的で、入ったレストランの料理に文句をつけたりする外国人が、まさに自分の使っている日本語で日本人との対話を断ち切っているさまに似ているといえばいいかしら。とにかく、言葉の壁というものがあるというけど、それは外国語の無知が築きあげる障害というより、なまじ外国語を知っている人が捏造する文化的な環境汚染の一つだというべきだわ。だから自分としては、あまり流暢に日本語を操る気がしないのだというのが、妻の一応の結論である。結論といっても、怠惰であることの正当化の一つかも知れないけれど。でも、醜さに加担して言葉の環境汚染を蔓延させる気にはどうしてもなれない。

妻は、何も特別目新しい発見をしたわけではない。それは、日本に暮す外国人の多くが日々体験していることであろうし、われわれが祖国を離れて異国の地で生活するときにも、しばしば実感される現象である。(……)

確かに、言葉が巧みであればあるほど、自分が歓迎されている、容認されているという印象が誇張されはしよう。だが、真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう。まぎれもない差異としての他者の不気味さに、存在のあらゆる側面で馴れ親しむことこそが、歓待の掟であるはずだ。したがって、自然さとは、忘却の身振りではなく、あくまで意識化のそれでなければなるまい。

たとえば、フランス人の旧友と午後のひとときを過すような場合、こうして成立した自然さに埋没した結果、ついいましがた読んだばかりの週刊誌で目にした流行語とか、大学という環境の中でのみ流通しうる俗語の幾つかを思わず口にしてしまうときがある。すると相手は、全く別の文脈の中にそれに相応するより由緒正しい語彙をさりげなくまぎれこませ、その種の流行語や俗語を使って自然さを捏造しようとする外国人の不自然さを、いかにも自然に指摘してくれるのだ。勿論、あらゆるフランス人が、あらゆる外国人に対して、この種の自然さで接しているというのではない。だがそれは、日本人同士の日々の生活にあっても同じことだろう。要は、他なるものへの全的な合一でも、他なるものの全的な容認でもない。そして、そんな話はごく当然のことだと抽象的には理解できても、ひとたび外国語と呼ばれるものが介在するとあっさり忘れられて、流暢さという不自然のみが夢みられてしまうのだ。日本語を話そうとするとき妻を戸惑わせるものが、この不自然さへの怖れであることはいうまでもない。日本という風土にはこの不自然さを蔓延させるものが絶えず漂っている。そしてとりわけここで強調しておきたいのは、日本に住む外国人のかなりの数の人間が、この風土にすっかり浸りきっているかにみえる点だ。つまり、あんな風にだけははりたくないと妻がいう奇妙なガイジン達は、程よい巧みさで日本語を操って日本人の間を泳ぎまわりながら、彼ら自身の言動の根源に横たわる本質的な滑稽さに日本人が向ける寛大さ、つまり希少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして、日本人との間に目には触れない隔離の幕を張りめぐらせてゆく。それは、彼らにとってもわれわれ自身にとっても不幸な事というべきだろう。すでに述べたごとく、この自堕落な寛大さこそが、真の言葉の障害と呼ばれるものにほかならないからだ。そのため、コミュニケーションの道はいたるところで絶たれ新たな鎖国が始まっている。そして、二十一世紀を間近に準備しつつある時期のこの鎖国状態は、その鎖が人目に触れないだけにいっそう開国を困難なものにしてゆく。すべては、起源に身を潜める滑稽さを明確に標定し、しかる後に共有しつつある何ものかをたがいに辛抱強くさぐりあてながら、滑稽それ自体にゆっくり時間をかけて馴れてゆくという作業があらかじめ放棄されてしまっていう点から来ているのだ。……





2013年11月26日火曜日

民主主義の中の居心地悪さ(ジジェク)

以下、資料の列挙。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より))

次に同じ『斜めから見る』の「形式民主主義とそれに対する不満」の章からだが、この章の原題”Formal Democracy and its Discontents”はフロイトの読者ならすぐ気がつくように、『文化への不満』Civilization and Its Discontents (Das Unbehagen in der Kultur, 1930)からきており、旧訳の『文化への不満』(人文書院版)という題名は、新訳のフロイト全集版(岩波書店)では、『文化の中の居心地悪さ』と変更されている。ジジェクの章題も「民主主義の中の居心地悪さ」と変更してもよい内容になっている。

基本的な問いから出発しなくてはいけないーー民主主義の主体は誰か。ラカンの答えは明快である。ーー民主主義の主体は人間ではない。豊かな欲求、関心、信仰などをもった「人間」ではない。

民主主義の主体とは、精神分析の主体と同じく、抽象化されたデカルト主義的な主体、つまり個別的な内容をすべて除去した後に残る空疎な規則性に他ならない。

いいかえれば、コギト、すなわち空虚な点、あるいは残存物としての再帰的自己指示を生み出す、根源的疑念というデカルト主義的な方法と、あらゆる民主主義的な宣言の序文に見出される「(人種、性別、宗教、財産、社会的地位)にかかわらず、すべての人間は」という表現は、構造的に同質である。

この「にかかわらず」の中には抽象化という暴力的な行為が働いていることを見落としてはならない。

それはすべてのポジティヴな特徴の抽象化、すべての実体的・生来的な繋がりの崩壊であり、このことが、純粋な非実体的主体性の点としての、デカルト主義的なコギトと密接に相関している実体を生み出すのである。

ラカンは精神分析の主体をこの実体と結びつけ、人間は「非合理な」欲動の集積であるという「精神分析的人間観」に慣れているものを驚かした。

ラカンは、ポジティヴで実体的な同一性を主体に与えるような支えはいっさい構造的に存在しないのだということを示すために、主体を、斜線を引かれたSによってあらわす。

同一性が欠けているからこそ、精神分析理論においては同一化の概念がこれほど大きな役割を演じるのである。

主体は同一化によって、すなわち象徴的ネットワークにおける位置を保証してくれるなんらかの主人のシニフィアンに自分を同一化することによって、みずからの構造的欠損を埋めようとするのである。(……)

「民主主義」は根本的に「反人間主義的」である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無情な抽象化に合わせて作られたものである。民主主義という観念そのものの中には、具体的な人間の内容の充実とか、共同体の結束の真性とかの入る余地はない。民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。民主主義を「具体的内容」で満たそうとするすべての企ては、その動機がどんなに真摯なものであろうとも、遅かれ早かれ全体主義の誘惑に屈する。(ジジェク『斜めから見る』P304~)


民主主義は普通選挙制度にもっとも典型的に表われるパラドクスを原理的にはらんでいる。この制度においては、市民が自分の意志を表明することによっ て自らを政治的主体として実現するまさにその瞬間に、彼らは社会生活のネットワークのすべてから分離され、計算単位に還元されてしまう。数字が実体にとっ てかわる。民主主義はこのように、いわばデジタルな計算によって根拠づけられているのである。個人的意志を表明する選挙という機会が諸個人を数に還元し、 つまり、個人の単独性がその単独性を表現する行為によって消去されるというこのパラドクスを通じて、民主主義は主体を常にヒステリー状態に追いやる、と ジョーン・コプチェクは言う。そして、これはアメリカ的民主主義において特に顕著になるヒステリーである。

自らの〈根源的無垢〉というアメリカの感覚は、そのもっとも深い起源を、市民たちの 多様性にはかかわりなく、基本的な人間性が存在するという信念にもっている。民主主義は、〈メルティング・ポット〉、〈移民国家〉としてのアメリカが、自 らを国家として成立させるための普遍的数量詞なのである。すべての市民がアメリカ人と呼ばれうるとすれば、それは、何か実体的な特質をわれわれが共有しているからではなく、むしろ逆に、われわれすべてがこうした特質を脱ぎ捨て、肉体から分離された存在として法の前で自己を表出する権利を与えられたからである。我、自己自身から実体的アイデンティティを剥ぐ、故に、我市民である、ということだ。
私〉の単独性とは、私が包含されるあれこれのカテゴリーの属性ではない、私という主体固有の核である。主体が何らかの属性を表わす記号(白人、黒人、男 性、女性……)において主人に認知されるとき、差異は示差的な体系における相対的なものになり、〈他ならない私〉の単独性は失われてしまう。なぜなら、私 の単独性とは、あれこれの属性の総和ではなく、どんな属性にも還元されない残余にほかならないからだ。すべての実体的属性を剥ぎ取られることによりアメリカ人として登録された主体は、しかし、その普遍性においてではなく、ひとり一人の単独性において〈主人〉に認知されたいと望む。そのような単独性とは、属性として記述しえず記号化しえない、表象不可能で空虚な剰余であるから、この要求は到底実現不可能だ。だからこそ、アメリカ人はそのとき、ヒステリー的な態度によって主人を選出するのだとコプチェクは言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになるのである。コプ チェクはそれを、「アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている」と表現する。大文字の〈他者〉が主体の単独性を認知しそこなうからこそ、この単独性は傷つけられることなく保たれる。というよりもむしろ、〈他者〉によるこの認知の失敗として、主体の単独性が 形成される。アメリカの民主主義において、身体なきこの政治体の権力の場を占める主人=代理人としての大統領は、このように無能であるがゆえに愛される存在になりうる。コプチェクがここで念頭に置いているロナルド・レーガンはまさにそんな無能であるからこそ愛された〈王〉にほかならなかった。

…………

自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治のそれよりも複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではない実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。ほとんど常に自由の統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義を好む大衆によって貴族政治と見なされてきた。ここから進歩的な人間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生じる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求しているのは、大衆の運命の改善のためである。したがって、彼らが支持を求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への不信ないし無關心によって、自由の障害となるのも民衆なのである。(プルードン『連合の原理』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

…………

国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)緒関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)
……マルクスが、ブルジョア独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール一八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王権製においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際にそうではないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。

「ブルジョア独裁」とは、ブルジョア階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョア独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それは現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

※蛇足ながら、マルクスにおいて、「ブルジョア独裁」はもちろん「プロレタリア独裁」に対して否定的に語られている。


…………

◆附記:小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より。


【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。

【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】あるいは【論戦の戦術】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養の見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。

…………

浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か(2001年4月28日 東京大学駒場

……50~60年代の近代的な常識を叩き込むのはフランス革命に遡る思想。コンドルセらが、民主主義で全員が投票するのなら、全員の知識をかさ上げしなければ間違った判断が出されかねないから、民主制を衆愚政治から守るために最低限のパブリックな振る舞いを含めた最低限の知識を共有することが大事だと言っていて、日本も特に戦後、それを強調。ところがそれは押し付けられた西洋的理念であり建前だと相対化され、70~80年代になると教える側も自信をなくす。正しい近代の常識を身につけることが戦後の民主的な社会を合理的に作る基礎だとして、かつて教える側は過剰に自信を持っていた。だが今度は過剰に自信を喪失して、これは建前だけれども効率的に覚えて受験戦争を勝ち抜くために必要だという感じになった。そこで妙なことが起こった。68年までは自信を持った権威があって、それに対して学生が異議申し立てする図式があったが、今度は権威が空洞化し、相手に擦り寄った。性急な近代へのシニシズムが起こり、最低限の近代の良識が失われたのが80年代から90年代にかけて。
状況は絶望的だがここまでくれば怖いものはないというか、絶望的楽観主義という点において前進するしかないというのが今の状況。シニカルに構えるのがかっこよかった時代は終わっている。かっこ悪くても個々のローカルな場所で手探りしながら実践していく時期にきている。そういう実践がネットワークを作っていくと大変いいのではないか。




2013年4月5日金曜日

デルタの夜


泥水がうねるような大河の流れに挟まれた、あの黄金のデルタの土地に日が暮れかかると、男も女もカフェ・オーレ色の水で入浴しはじめる。といっても女たちはかつての日本の庭での行水のようには素っ裸ではなく、タオルやゆったりしたシュミーズ状のものをまとっている。最初に訪れた十八年まえも、今もこの風習はかわらない。妻はこの土地の貧しい農村地帯の出身であり、わたしもこの母方の伯母の家――かつては祖母の家――に数年に一度は訪れる(父方の系統は逆にこの土地の川向うの高地に住まう名家であり、日本からの観光でも知られている壮大な寺院の正面入り口にはその苗字が刻まれた寄進の石柱が立並び、儀式の折には、今でも祖父の名が祈りの最初に唱えられるらしい)。母方の義理の伯母のある地帯は高床式の家が並び、河岸に近い遠いで高さには差があるが、伯母の家の縁の下は、私の首のあたりまでの高さはあって、雨季にはそこまで川水が到く。そうなれば交通の便は小舟だけというエリアだ。



妻の母親の世代のひとびとの話を米焼酎を飲みながら耳を傾ければ、かつてはクメールの土地から屍体がいくつも流れてきた。胴体だけであったり足だけであったり。不思議に首だけの話はきかない。こうやって滋養分いっぱいの川水は土地を潤す。女たちの肌や髪を輝かす。隣国との国境の町は異文化混交で食べ物が美味であったり女が美しいといわれるが、この土地にも珠玉の乙女たちが棲息しており、小汚く薄暗い家の土間から貴種の蕾やら可憐な花の姿態を覘かせる。


おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛ふらんして蛆うじが湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪どんらんな蛸たこのように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚あつめて、その液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんな蕊しべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。(梶井基次郎『桜の樹の下には』)



入浴が川水なら用便もそうだ。川が内側に彎曲した場所をもうすこしだけ掘り込んで水を引き込み、岸辺からすこしはなれたところに、竹の骨組みに椰子葺きで囲った小部屋をつくって、人ひとり通れる板を通して、そこで用を足す。そこを若い女がひっそりと歩み小屋の簾を閉じる姿を脇目で眺めればなにか神聖なものに立ち会った気味合いがある。「渡し場に/しやがむ女の/淋しき、」(西脇順三郎)であり、「河原で自然の女神の泉の/音を聞いた」、そして、「永遠にやるせない音を残して/女は便所からもどつてまた」である。女とすれ違うようにして厠に向かえば、「藪の腐つた臭いは/強烈に脳髄を刺激する/神経組織に秘む/永遠は透明な/せんりつを起す」――ああ、永遠!

――《わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(……)――おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部 「正午」)


しかし束の間の旅行者にとって、夜が落ちて、蝋燭一本のたよりない明りをたずさえてこの厠に向かうのは、大のおとなでも気味がわるい。幼い息子たちは大のほうの便でも近場の川辺で済ます、もっとも入浴場とはすこし離れた場ではある。

密生した椰子の樹々の幹にハンモックがいくつも吊らしてある。蚊を追いはらう工夫さえすれば、午睡も快適だがーーときには可憐な少女が珍しい異国の旅行者のために椰子の葉で編んだ大ぶりの団扇で扇いでくれるーー、ものものの輪郭が明晰さを失っていく宵闇のなか、川風に吹かれて星が瞬きはじめるのを眺めるのはまた格別だ。ストローで吸うどぶろくのような壺酒と馴れ寿司状の塩と米飯で発酵させた川魚が傍らの卓に用意されてあり、叔父たちやいとこたちに竹筒で吸う水煙草も勧められるが、こっちの方は強烈過ぎて、一度試して眩暈がしてからは、愛用のパイプを掲げて遠慮することにしている。そうやって寛いでいれば、梢を飛び交ったり葉ごもりに潜んでいる無数の小鳥たちの囀りも朧になってゆく。だが同時に、樹々が、草々が、岩や小石までが息づきはじめる。川の水の流れが昼間とはまったく違ってきこえてくる。ゆったりとうねる水のさざめきは、むしろ静けさの鼓動のようであり、それが闇のぬくもりの中で心地よい。そして虫たちの鳴き声や小動物たちのかすかに吐く息が静寂を際立たせる。




ここで竹笛の音やらギターの爪弾きがきこえてくれば申し分ないのだが、そういう訳にはいかない。晩飯を終えた家々からは、テレビやラジオの音が大音響できこえてくる。なんと無粋な!、などという感慨は都会に住むものの身勝手な感想だ。実際、闇のなかで沈黙に領され続けるのは耐え難いに相違ない。文明機器のフィルターが途絶えれば、細木の骨組みと椰子の葉で覆っただけの屋根と壁の小さな家からは、男と女の睦言の囁き、肌を擦れ合わせる気配、快楽に耐え切れずうめき洩らす吐息まで聞こえてくる。

……

音楽は、テレビの大音響のように、世界の囁き声に耳を塞ぐために聴く場合もあり、逆に静けさの鼓動に敏感になることを促す音楽もあるだろう。これは音楽の質による場合もあるし、同じ音楽だって人により二つの聴き方をしていることもある。世界の徴候化とは、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》(中井久夫)であり、あるいは、《些細な足音や草の倒れた形から獣が通った跡を推理する狩人の「徴候的知」》(カルロ・ギンズブルグ)でもある。

夜の闇はわたしたちに不安を齎したり世界は徴候化する。だが、《ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。》(ジジェ ク『斜めから見る』)――われわれの〈現実〉は世界の囁き声に圧倒されないための遮断幕であり、それは美情意のフィルターにかけられているという意味では〈幻想〉の側にある、ひとは〈不安〉によりもっとも遠くもっとも杳かな兆候に溢れる〈現実界〉に接近する。そこで音楽という美の遮断幕を利用して〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能させる場合もあるのだ。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)


また「徴候化」とは、ときによれば「精神の危機」でもあろう、

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。それが私の中に起これば精神の危機である。私の中に起こるつかもどころのない変動のいちいちは、私の精神がバランスを失うかも知れない徴候である。この場合にも、私にとっては、日常の食事、睡眠、入浴が二の次になる。(「「世界における索引と徴候」について」同P27


高橋悠治は、《異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配》と書く。

全体の展望がある音楽は構成を決めるまでに時間がかかるがその後は途中で考えを変える余裕をあたえず一気に作りあげるのに対して響きについてゆく音楽は入口が決まればそこから回廊のように蔓草のように時間をかけて伸びてゆきなにかに出会うとそれを避けて周囲を回転しながらそのものになじんでゆくすこしつづ けては作業を休んでしばらく時間を置いてからもどったときには響きの感触が変わってそこまで持ち続けて来た記憶の惰性が失われ冷めた状態になっているそこ から再開すると彩りはむらになり予測とはちがう方向にずれてゆく逸脱と言っても近代のあるいは啓蒙主義のもっていた論理の徹底化や対立や競合の強調によって過剰増幅加速に向かうのではなくわずかなものたちがあいまいに漂う空洞の空白のゆるやかな時間の内側できこえる音そのものではなくその周囲の沈黙ですらなくそこにはないがその彼方に微かな感触を残している不安定な短い波の一瞬の断面実現しなかった可能性の幻は視角によってさまざまに映るにしても協同作業のなかで一歩ごとにそこから眼を離さずにいることがどうしたらできるのだろうとは言え直接見つめることはできないそれは見るものを石に変えるゴルゴンのたとえのように鏡像としてとらえるかいやそれさえできない残像か周辺視のなかにしかない虚像として感じられるもの論理や方法ではなく関数や方程式でもなく分布や密度のように特徴があるものでもない異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配ベンヤミンの歴史の天使は過去の断片をひろいあげる楽園から吹きつける進歩の風は止んでいるもがれた翼はもう拡げられることもなく閉じることもできない谷間 に(耳の慎ましさ  高橋悠治


《私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

…………


冒頭の文は武満徹の親しい友人でもあった川田順造『曠野から―アフリカで考える』 1973の「夜」の章冒頭の変奏である。
サヴァンナの上に夜が落ちると、ものの輪郭は明晰さを失う。月の明るい夜でも、木立が木立の影と同質のものになるだけでなく、枝にさがっているこうもりたちや、葉のしげみに抱きかかえられている無数の小鳥たちは、もう枝や葉から区別できない存在になってしまう。乳呑子は、母親の胸に身体をおしあてたまま、母親とともに昼の世界をはなれ、男と女とが生命を交換する。岩や小石までが、息づきはじめる。すべてのものは、自分たちが、かたくなに閉ざされた、ひとつひとつの「個」を形づくっているのではなく、開かれ、他のものと交わり、はてしなく連続したものの凹凸や鼓動であることを、闇のぬくもりのなかで感知する。私の吐く息を、白い花をしぼませているこのひょうたんの葉や、あの黒くふくらんだバオバブの木が吸うことだろう。私の吸う息は、あの井戸にひそんでいる蛙や、穴の奥でじっと目をあいているかもしれないねずみどもの吐く息なのであろう。すべてのものは、エーテルのように自由になる。音と形が、たがいにたがいを変換しあう。空をわたる風や、遠くからまたたきを送ってくる星たちとさえ、私はことばを交わせるように思う。