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2014年6月30日月曜日

「人間嫌い」と「人間大好き」

昼食後の息抜きの時間なり。ツイッターをいつものように眺める。

このごろ、だんだんわかってきたことですが、「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人ではなかろうか。そして、その底には「人間大好き」が潜んでいるのではなかろうか。(中島義道『人生を<半分>降りる』)

その著書を読んだこともないカント学者の中島義道ツイッターbot (@yoshimichi_bot)から。

なかなか「共感」したくなるbotであり、わたくしもどちらかと言えば「人間嫌い=人間大好き」なのだが、たとえば次のようなのもある。

最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。『人生に生きる価値はない』中島義道
社会的成功者とは傲慢かつ単純な人種が多いので、自分の成功を普遍化したがる。こんな自分でも成功した、だからみんなも諦めずにやってみたら、という「謙虚な」姿勢の裏には、臭いほどの自負心が渦巻いている。しかも、底辺から自力でのし上がって来た人ほどこの臭気は強い。『私の嫌いな10の言葉』中島義道

さて、手元にある資料を附記しておこう。

◆《「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人》から、中井久夫による「己との折り合いと他者との折り合い」。

「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」(……)

こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。

私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではあるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。

非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。

性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。(中井久夫「感銘を受けた言葉」ーーヴァレリーのカイエと中井久夫


◆《「人間嫌い」の底には「人間大好き」が潜んでいる》からは、プルーストによる「絶対的な蟄居の群集への度外れな愛」。

堤防に沿って歩いているそんな人たちは、まるで船の甲板を歩いているように、みんなひどくからだをゆすぶっていて(……)、ならんで歩いてゆく人たちや反対の方向からくる人たちと衝突しないように心がけながら、相手をこっそりながめ、しかも相手に無関心だと思わせるために、見て見ないふりをするのだが、そんなふうにして衝突を避けながら、やはり相手にぶつかったり突きあたったりするのは、おたがいに表面で軽蔑を装っていても、その底では、どちらからも相手にひそかな好奇心をよせているからで、群集にたいするそうした愛情は―――したがってまた恐怖は―――他人をよろこばせようとするときでも、おどろかせようとするときでも、軽蔑していることを示そうとするとこでも、あらゆる人間の内部のもっとも強い動機の一つなのであり、孤独者にあって、生涯のおわりまでつづくほどの、絶対的な蟄居でも、その根本は、しばしば群集への度外れな愛にささえられていることが多く、それが他のどんな感情よりもまさっているので、外出したとき、住まいの入口の番人や、通行者や、呼びとめた馭者などから、感心されることがないと、今度はもう彼らに見られたくない、そのためには、外出を必要とするどんな活動も断念したほうがいい、と思うようになるのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)


◆「人間大好き」にもかかわらず「迷路に踏み込んでしまう」、とするトーマス・マン。

認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうから だ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」)


◆人間嫌いでないひと、人間観察を好まないひと、「無私の人」は、実は「人間軽蔑者」ではないかい?

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)


《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)


もっとも、礼儀や信頼の象徴的効果を侮ってはならないだろう。礼儀や信頼関係に騙されないひとは間違える(参照:騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)。軽蔑やいじわるな態度をとれば、相手はいっそう悪くなる。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

これは通俗道徳ではあるが、この通俗道徳で、われわれの生は99%やっていける。隠遁していてすむような職業でなければ、ひとはニーチェやプルーストの態度をいつもとっているわけにはいかない。ただその通俗道徳を超えた「極地が存在する」。そのことに意識的でなければならない。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)


《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)


私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

2014年1月31日金曜日

総統のピアニスト





Elly Neyエリー・ナイの名はまったく知らなかった(Rosita Renardの演奏録音を探すなかで見つかったもの)。

エリー・ナイは、総統のピアニストと呼ばれていたそうだ。すなわちヒットラーのお気に入り。ベートーヴェンの目覚しい録音がYoutubeにある。

冒頭のエリー・ナイの演奏、シューマンのEtudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5にはびっくりした。リヒテルの演奏は次の如し。





ポリーニ(6:40より)




…………

※附記

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは,かつて次のような注目すべき事実を強調した.ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも,東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく,名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り,人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった,ということである.キルケゴール流に言うならば,この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが,まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが,そこで重要であったのは何か政治以上のもの,美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり,その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう.(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ『哲学の終りと思惟の使命』より)
一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。(中沢新一 対談「宮沢賢治と日本国憲法 」)
だが、と最後に急いで付け加えなければならないが、ここには何か恐ろしく不吉なものがある。それは、賢治の見た「二つの風景」(「春と修羅」)、現実空間と異次元の詩的空間とが二重化した場処に孕まれた危うさへの予感だろうか。死に魅入られたこの空間を満たす「水いろ」の透明な情炎、あるいは透明性へのあまりに「まつすぐ」な情炎の禍々しさ。宗教と科学技術とを最先端の過激さで交わらせようとした賢治の想像力が、その切っ先で煌めかせた不穏な何ものかの到来の兆しを、震災後の危機と賢治botとの遭遇、そしてそこに生じたシンクロニシティに認めたことを末尾にこうして記すのみで、この短い「心象スケツチ」めいた記述は閉ざさなければならない。
 テクストでは触れなかったが、この禍々しささえ帯びた透明性への情炎には、ファシストのための「ガラスの家」であるカーサ・デル・ファッショを建てたイタリア・ファシズムの建築家、ジュゼッペ・テラーニの「汚れなきファシズム」を連想した(鳥のさえずり──震災と宮沢賢治bot)。


《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』ーー「悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう」)







2013年9月18日水曜日

あなたを落ち込ませることとは? /アホな連中が幸せそうにしているのを見ること

ジジェクの愛の定義」に引き続く。


《――あなたを落ち込ませることとは?/アホな連中が幸せそうにしているのを見ること。》(ジジェク)


まずは、トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」より。

認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。


ああ、幸福な凡庸性に浸れる連中がなんとうらやましいことよ

「愛」やら「魂」、「祈り」でもいい、そのことの実質はなんなのかを問わずに、そこでとどまっていられる文芸愛好者らのナイーヴさよ

「このばら色の光の中で息をつける者は幸福だ」(シラー)

――これはフロイトの『文化への不満』(人文書院旧訳)からだが、シラーの詩を別訳でもうすこし長く引用しておこう。


Der Taucher 海に潜る若者

Lange lebe der König! Es freue sich,
「Wer da atmet im rosigten Licht! Aber da unten ist's fürchterlich,
Und der Mensch versuche die Götter nicht,
Und begehre nimmer und nimmer zu schauen,
Was sie gnädig bedecken mit Nacht und Grauen.


王様万歳!バラ色の光の中で
生きられることの喜びよ!
この海の底は恐ろしいありさまでした。
人は神々を試そうなどと思ってはなりません。
神々が慈悲深く、闇と恐怖でおおい隠している
物を、のぞき見ようなどと思ってはなりません。


(獨協大学外国語学部ドイツ語学科教授 渡部重美)



神々が慈悲深くおおい隠している
海の底などをのぞく誘惑にかられない精神よ
バラ色の光だけで我慢している手合いよ
なんとウラヤマシイことよ


ロマン派のロマン・ロランよ
「大洋的な感情」だと?
きみも同じ穴のムジナだ


フロイトは下記の文で、「同時代の人間に尊敬されている私の友人(ロマン・ロラン)」を穏やかながら徹底的に軽蔑しているがね

高橋義孝の翻訳の加減もあるのだろうが

《「大洋的な感情を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてよこした》ーーなんてのは悪意ある訳かもな


ところで、きみらはいまだロマン・ロラン派かね

詩好きや三文小説好きには多いんだよな、いまだ
お上品な音楽好きもだな


◆フロイト『文化への不満』より

われわれは、人類は物事を間違った尺度で測っている、権力とか成功とか富とかを自分でも追い求め、それらを手中に収めた人々を讃嘆する一方では、人生において本当に価値のあるいろいろなものは不当に低く評価しているという印象を禁じえない。(……)

(同時代の人間に尊敬されている)すぐれた人間の一人が、手紙の中で自身のことを私の友人と呼んでいる。宗教を幻想だと断定した私の小論(『ある幻想の未来』)を送ったところ、その人は返事の中で、「自分は宗教についてのあなたの判断にまったく賛成である。しかし、あなたが宗教のそもそもの源泉を十分評価していないのが残念だ。それは一種独特の感情で、つねづね一瞬たりとも自分を離れず、ほかの多くの人々も自身がその種の感情を持っていることをはっきり述べているし、また無数の人々についても事情は同じと考えてよいものだ。それは、「永遠」の感情と呼びたいような感情、なにかしら無辺際・無制限なもの、いわば「大洋」のようなものの感情である。この感情は、純粋な主観的事実で、信仰上の教義などではない。この感情は、死後の存続の約束なでとは無関係であるが、宗教的エネルギーの源泉であり、さまざまの教会や宗教的体系によって捕捉され、一定の水路に導かれ、じじつたしかに消費されてもいる。たとえすべての信仰、すべての幻想は拒否する人間でも、こうした大洋的な感情を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてよこしたのである。

幻想の持つ魔力をかつてみずからもその作品の中で高く評価したことのある尊敬すべき友人のこの言葉に、私は少なからずとまどってしまった。私自身のどこをどう探してもこの「大洋的な」感情は見つからない。(……)私の理解が正しいとするならば、私の友人のいわゆる大洋的な感情とは、あるかなり風変りでユニークな詩人が、主人公の自殺にあたって餞として与えた「われわれは所詮この世界から足を踏み外すことはない」という慰めの言葉と同じものを意味している。つまり、「外界全部と一体になっている・離れがたく結びついている」という感情である。しかし私としては、私にとってはそれはむしろ知的洞察の性格を持っていると言いたい。むろん、そこには感情の要素が伴っているけれども、それは、これほど包括的な観念内容であればどんな場合にも当然起こってくることであろう。私自身に関して言うならば、この種の感情がもともと存在しているということはどうしても納得できないであろう。しかし、そういう感情がほかの人々には事実存在するということは、私としても否認はできない。問題はただ、この感情が正当に解釈されるかどうか、それがあらゆる宗教的欲求の「源泉にして起源」だとされるべきかどうかの点である。

私としては、この問題の解決に決定的な影響をおよぼすような意見は何ひとつ持ち合わせていない。ただし、「自分の存在が周囲の世界と一体をなしていることは、そもそもその目的のために備わっている直接の感情によってすべての人間に分かるはずだ」という考え方はまことに唐突で、われわれの心理の全体系からいってぜんぜん異質のものであるから、そもそもこういう感情がどこから生まれていうるかという精神分析的な検討が試みられてしかるべきである。そうすると次のように考えることができる。普通の場合、われわれにとっていちばん確実なものは、われわれ自身の感情、われわれの自我感情である。この自我はわれわれの目に、独立したもの・統一的なもの・すべての他のものからきっぱり区別されているもののように映ずる。ところが、このように思うのはわれわれの錯覚であること、内部へと探っていった場合むしろ自我は、明確な境界のないまま、われわれが「エス」と呼んでいる無意識の精神的存在につながっており、自我はいわばこのエスの表玄関にすぎないことーーこのことは、精神分析的な研究をまってはじめて明らかにさらたもので、自我とエスの関係については、精神分析的な方法によって明らかにされなければならないことがまだまだ多い。しかし自我は、少なくとも外部に向っては、明確で異論の余地のない境界線を主張できるように思われる。例外は一つだけで、その状態はもとより異常ではあるけれども、病的であるとして退けることはできないものである。すなわち、恋愛の極致においては、自我と客体のあいだの境界線はぼやけてしまいそうになる。恋に夢中になっている人間は、客観的な事実がどれほどそれに背馳しようとも、自分と恋人とは一体なのだと主張し、本当にそうであるかのように振舞おうとする。一時的な生理作用(恋愛)によって除去されてしまうようなもの(自我と外界の境界線)は、病的な現象によっても阻害されうるはずであることはむろんである。じじつ、病理学によれば、自我と外界の境界が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。(……)

さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情なるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。乳児にいちばん強烈な印象を与えるのは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものはーーそれが自分自身の身体器官に他ならないことが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばねば自分のところへやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして「客体」が、自我の「そと」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。感情の総体からの自我の分離――すなわち「非我」とか外界とかの承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快感原則が除去し回避するように命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感である。こうして自我の中に、このような不快の源泉になりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我と対立する、純粋な快感自我を形成しようとする傾向が生まれる。この原始的な快感自我の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快感を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害の出発点になる。


自我が外界とのあいだに境界を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめに一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していたーー感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。けれども、はじめあったものが、それから生まれてきたあとのものと並んでそのまま生きつづけると考えて正しいのであろうか。

むろんである。(……)

これでわれわれは、人間心理における存続という一般的な問題に触れることになる(……)。われわれによく起こる忘却という現象が記憶痕跡の破壊――つまり一種の抹殺――であるという謬見を打破して以来われわれは、これとは正反対の、人間の心理生活の中では、ひとたび形成されたものは何一つ消え去ることなく、すべてが何らかの形で存続し、たとえばその時点までの逆行など、適当なチャンスにさえめぐり会えばふたたび表面に浮かべ出ることもあるのだという仮説を取っている。(……)

ひょっとすると、この仮説自体が行きすぎかもしれない。おそらくわれわれとしては、心理生活においては過去は存続することもあり、必ずしも破壊されるとは限らないと主張するだけで満足すべきなのかもしれない。いずれにせよ、人間心理の中においても、古いものの一部がーー原則としてであれあるいは例外的にであれーーいかなる出来事によってももはや回復したり甦生したりすることができないほど酷く消されたり消耗しつくされたりすることがあるということーー別の言葉でいえば、一般的に、存続はある種の有利な条件があって始めて起こりうるということーーは考えられないことではない。じじつはそうであるかもしれないが、詳しいことはまだ何も分かっていない。われわれに確認できるのは、人間の心理活動においては過去の存続という現象が、唐突な例外というよりはむしろ原則だということだけである。

このようにして、多くの人々が「大洋的な」感情を持っていることを進んで承認し、しかもその感情の根拠を自我感情の昔の段階の一つに求めようとすると、つづいて起こってくるのは、この「大洋的な」感情を宗教的欲求の源泉とみなすべきだとする主張にはどのような根拠があるかという疑問である。

私は、この主張にはすべての人々を納得させるに足る根拠はないと思う。なぜなら、感情がエネルギーの源泉たりうるのは、その感情自体がある強い欲求の表現である場合に限られるのだから。宗教的欲求の起源としては、幼児時代の寄辺ない状態、およびその状態によって呼びさまされた父親への憧憬以外には考えられないように思われる。ことに、この感情はたんなる幼児生活からの継続であるばかりではなく、圧倒的に強大な運命にたいする不安によってたえず維持されているわけだから、なおさらそうである。私は、幼年時代の欲求で父親の保護にたいしる欲求ほど強いものをほかに知らない。こういわけで、「大洋的な」感情は、あるいは無制限なナルシシズムの復活を目指しているかもしれないけれども、宗教的欲求の源泉としてはもはや問題になりえない。宗教的な態度の源泉は、幼児が持つ「寄辺がない」という感情にいたるまで、明確な線を辿って追求することができる。その背後にはもっと別のものが潜んでいるかも知れないが、その点はまださしあたりヴェールに包まれている。

「大洋的な」感情があとになって宗教と関係を持つようになったということは十分考えられる。この感情の観念内容である例の万物との合一感は、宗教的な慰めの最初の試みであるかのようなーー自我が外界からの脅威と考えている危険を否認するもう一つの手段であるかのようなーー印象を与えることは否定できない。けれども、前にも白状したように、ほとんど捕えがたいこの種の対象を相手にするのは私にはたいへん苦手である。止みがたい知識欲に駆られてまことに異常な実験を試みたあげく、ついには悟りを開いた私のいま一人の友人の断言によると、ヨガの修業においては、外界に背を向けること、注意力を肉体機能だけに集中すること、独特の方法で呼吸することなどによって、実際に自分の中に新しい感情や普遍感情を呼びさますことができるそうで、その友人はそれらの感情を、とっくの昔に埋没してしまった原始状態の心理活動への逆行現象だと解釈しており、これらの感情は神秘思想の叡知の多くのもののいわば生理的裏づけだと考えている。失神や恍惚状態など、心理活動のヴァリエーションの暗黒面のいくつかとも関係のあることは容易に察せられるであろう。しかし私としては、シラーの潜水者の言葉を借りていちどせひ次のように叫んでみたいのである。

「このばら色の光の中で息をつける者は幸福だ」と。



この文は、『文化への不満』の冒頭であり、後半には「死の欲動」概念が出てくるのだが、それについては見解の相違はあるにしろ、また《宗教的欲求の起源としては、幼児時代の寄辺ない状態、およびその状態によって呼びさまされた父親への憧憬以外には考えられない》と、「父」が強調されすぎていることを除けば、ラカンやミレール、ジジェクの系譜の現在につらなる基本的な姿勢だろう(いや現在なら、思索にたずさわる者の基本的姿勢だとしておこう)。


 「純粋な愛」とか、「魂」とか言い放って澄ましこんでいる
解釈放棄の思考の怠慢の手合いよ
海に潜る心持はこれっぱかりもないようだ


ああウラヤマシイ、ばら色の光の中で息をするのみのきみたちよ


愛やら魂やらの称揚は、「フィクション」のなかの言葉、詩や小説のなかだけだな
我慢できるのは、ね

《死なれてみると父親の一生が前よりよく見えるようになった/あれはあれでなかなかのものだ/呆けて寝たきりになった母の枕もとで/何時間も黙って新聞を読んでいた/「ぼくは多喜子を愛していたと思う」と母が死んでから彼は言った//「愛していた」じゃなくて「愛していたと思う」かとぼくは思う/……》(谷川俊太郎「猫たちと」)

虚構のつもりなら、「言葉の美醜、または巧拙」に気をつけなくちゃな

わたしの大好きな云々、魂に突き刺さる、言葉を失う……
などとつぶやいてばかりおらずに、な

ーー《当たり前のことだからこそ、繰り返します。「言葉に出来ない」「言葉なんて野暮」ということも、言葉ではないと言えない。言葉は言葉ではないもののなかで生成し、言葉ではないものは言葉のなかでこそ咲(ひら)く。簡単に(簡単に、です)「言葉の外」なんて「言う」のは、それこそ「言葉が軽い」。》(佐々木中)

《「言葉が軽い」のと「言葉に軽みがある」のとは断じて違う。無闇と振り回さないと決めて大事にしている語彙はあるか? 安易に流れるから絶対使わない言葉は? 重々しい言い方で、だらしない共感をもとめていないか? 純粋素朴を装い、自らの密かな欲望から目をそらして言葉を使っていないか?》(同佐々木ツイート)
…………


《私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない。》(加藤周一著作集「芸術の精神史的考察 I」あとがき 1979)

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

…………

《質問 十五》   

ふつうの言葉と、詩の言葉の 
違いは何ですか?
          (みく 三十四歳)


《谷川さんの答え》

ふつうの言葉だと、
たとえば「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが
問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を
動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると
ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体である詩人は
真偽については責任がなく、
言葉の美醜、または巧拙について
責任があるのです。

ーーー『谷川俊太郎質問箱』より










2013年9月5日木曜日

悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう

《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ)ハンス・ウルリッヒ・グンブレヒト『なぜ精神科学を改革しなければならないのか』(田中純)

 《一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。》(中沢新一――太田光との対談 「宮沢賢治と日本国憲法 」)







 《これは、志賀直哉の小説で読んだと覚えているが、父親が病気の子供をかかえて、夜の闇の中を医者のもとに走るーーあるいは、子供をおいて医者を呼びに走るーーその時、彼は、シューベルトの歌《エリケーニヒ(魔王)》を思い出し、何といやな歌だろう、こんな歌を書いたシューベルトとは何といやな男だろうと呪う。志賀直哉という人も、少なくともここでは、自分の感情をむき出しにぶつけて書いているという印象を与えずにはおかないけれども、しかし、その中には真実な直観がある。シューベルトという男は、疑いもなく、人間の心の奥底にある何かにじかにぶつかり、そこに眠っている深い恐怖をひきずり出してくることのできた芸術家である。

《エルケーニヒ》には、馬のはしるところの描写だとかいう三連符のリズムの持続音型があるわけだが、それはそう思ってきけばというだけの話だけであり、まして《死と乙女》には、そういうモチーフはまるでない。ここでの三連符が死神の象徴ということにはならない。しかし、彼はどんな標題楽作曲家もやれないような形で、音楽を通じて、特定の感情をきくひとからひきだす。そうしないではいられなかった男である。

だが、シューベルトにできたのは、こういう鬼気迫る、凄みだけではない。《ぼだい樹》の三連符――風にそよぐ大樹の葉ずれの音といわれている、あのモチーフ。それと組みあわされた旋律。あれは、きくものをどんな子守唄よりも、もっと深い、私たちの生命の根源にあるところまでつれていって、その眠りの中に誘い入れる魔力をもっている。トーマス・マンが《魔の山》の終りで、戦死した主人公の最後の意識の中で浮びあがらせるのが、この旋律であるのは、この音楽のもつ真実と完全に一致する。ここでは、死は解放であり、安息なわけだが、音楽が生まれてきたのは、その死からだといいたくなるほどである。》






《シューベルトには、音楽にしかない道を通って、こういう生死の根源的な源泉にじかにぶつかるという経験を、きき手に味わせずにはおかない能力がある。それは、きき手の深い陶酔の中で行われるのだが、その時、きき手は何も、いつも、志賀直哉の小説の主人公のように、闇夜の苦悩の中にいる必要はない。いや、正反対である。それは、あの《ます》の歌の澄んだ、平明な三連符の躍動の中にもあるのだし、《水車小屋》の若者といっしょに、小川の流れのモチーフを口笛で、何回もくりかえしていたってかまわない。

シューベルトの音楽には、日常生活の次元での意識にそって、そのまま動いていながら、同時に、もうひとつ下の層の意識を呼びさます力がある。その時、私たちは、音楽に魅せられて眠りに入るといってもよいし、逆に、日常の世界から、もうひとつの深い世界への意識に目ざめるといってもよい。どちらにせよ、同じことなのだ。それを、私は、シューベルトの音楽のデモーニッシュな性格と呼ぶ。》(吉田秀和『私の好きな曲』)






ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)






トーマス・マンはデモーニッシュ、あるいはディオニソス的なものにアンビバレントな感情を抱き続けていた。もちろんそれはマンだけではない。

《音楽による偽りの深さ/音楽的ニーチェ/安請合いをする人》(ヴァレリー)

近代の音楽はあまりにも大きく、あまりにも甘美で、あまりにも速い。そのためそれは、すべてのものをあまりにも脆くする。音楽はその力を濫用し、その能力はわずか三分間で生命を賦与する。/加速するイリュージョン。停止するイリュージョン。――そのイリュージョンが、あらゆるものに個々別々に価値をあたえてしまう。そしてこれがアーティキュレーションなのだ。思想は力づくで柔らかくされてしまう、――不完全な現実によって。(ヴァレリー「カイエ」)

音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)
彼(キェルケゴール)は知っていた。だから、この素晴らしい芸術に対する俺の特別な関係に精通していた―― 彼の見るところ、この芸術はもっともキリスト教的な芸術なのだ。―― 勿論、マイナの符合付きだ。それはキリスト教によって創始され、展開されたのだけれども、やがてデモーニッシュな領域として否定され排除された、―― 君、このことは知っておけよ。音楽はきわめて神学的な問題なのだ ―― 罪がそうであるように、悪魔である俺がそうであるように。このキリスト教的音楽に対する情熱こそ本当のパッションなのだ。認識と惑溺が一体となっているのがこのパッションなのだ。本当の情熱は曖昧なもののなかにのみイロニーとして存在するのだ。最高のパッションの領域は絶対的に疑わしいものなのだ。(トーマス・マン『ファウスト博士』)

『ファウスト博士』の執筆には、アドルノとの対話(あるいは助言)が大きく寄与しているらしい。


音楽は、それ自体の歴史的傾向に反抗せずに盲目的、無抵抗に服従し、世界理性ではない世界精神に身を委ねる。このことによって音楽の無邪気さは、あらゆる芸術の歴史が準備に取りかかっている破局を早めようとする。音楽は歴史をそれなりに認めている。歴史は音楽を廃棄したがる。しかしながら、まさにこのこと事体が死のみそぎを受けた音楽をもう一度正当化し、存続する逆説的チャンスを音楽に与える。(アドルノ『新音楽の哲学』)






《音楽がぼくをタメにし音楽がぼくを救う/音楽がぼくを救い音楽がぼくをダメにする》  (谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より)