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2014年9月26日金曜日

「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」

昨日からツイッターで、在特会とカウンターの
「どっちもどっち」論が賑わっているな
日本の政治に無知の身で「反応的」に書くのは、
マズイに決まってんだが
たまにはやってみたくなるものだ。
ただしよい子はやらないように、と忠告しておくよ

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

@TomoMachi: だからさ「安倍死ね」とか言っちゃ在特会と同じだってば。大多数の人の支持は得られないってば。政権を本気で変えたいなら大多数の支持を得なきゃならないでしょ。それを考えない運動なら、本気じゃない。ただのオナニーだよ。@bcxxx.

「大多数の人」ってなんだ?
まずは「何もしない人」だな

@TomoMachi「何もしない人」を批判するのではなく、そういう大多数の人々の支持を得ないと社会は変えられませんよ。 RT @royterek: 「そういうやり方では人は増えないよ」とだけ言って自分では何もしない人たちについては偽善的なものしか感じません。

嫌韓・嫌中本が売れているらしいが
それを購入する連中がマジョリティかどうかは断言しないでおこう。
だがたとえば丸善や三省堂のていたらくを
見て見ぬふりするのがマジョリティには相違ない。
嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」だって?

ところで教師や研究者はマジョリティだろうか

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

学者やケンキューシャ諸君も「大多数の人」の仲間だろうよ


フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』私訳)

フロイトだってこうだからな
「学者」という人種はこんなものさ

《学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。》(ニーチェ『悦ばしき知』)

・排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイートを「翻訳」したもの→元ツイート

で、このような「 大多数の人」の支持を得るというのは、
「カウンター運動者」の振舞いを見ているかぎりはすこぶる困難さ

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(野間易通語録

というわけで、次のような連中がうじゃじゃ這い出てくる。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

さて冒頭の町山智浩氏のツイートに戻れば
マジョリティの支持を得ないと「政権」は変わらないだって?
ご尤も、なんという「正論」!


オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。



「安倍死ね」がダメだったらこんなのはどうだろう?

@sosodesumus: 安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!今日は災厄の日だ!!! 馬鹿とキチガイによる、ばかのための、のうたりんの政治。こんな責任を誰が分かち合うのか。(鈴木創士)

これも町山氏にはダメかね?

白状しろよ。
いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。
安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。
田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。(辺見庸

あるいは「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)なんてのはどうだい?

さて言わせてもらえば、問題は 「マジョリティ」の支持を得ることではないのだよ

@royterek .@TomoMachi あくまでデモへの参加という点ではという意味です。3・11以降の社会的抗議の高まりの中で、穏当な表現のデモはことごとく「ただのお祭り騒ぎ」などと揶揄されてきました。少なくとも直接動員という点では、ストレートな抗議の方が好まれることは官邸前抗議以来の常識です。

 湿った瞳を交わし合い頷き合って「絆」やら「寄り添う」とかいってる
共感の共同体の連中がマジョリティなんだぜ

真の敵は在特会でもネオナチの連中でもなく、
「共感の共同体」に憩い切っている連中、
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)
をもった「大多数の人」なんじゃないかい? 
あのマジョリティの大半はひそかなレイシストだったらどうだろう
もっとも、かつての岩井克人のように
ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ
とまでは言わないでおくが。

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」の歯車がスムーズに動いているぜ
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが。

数十年前、ある婦人が、ブルックリンの大きなアパートメントの中庭でゆっくりと打たれて嬲り殺しになった。窓から何が起こっているのかをはっきりと見た七十人以上の目撃者がいたのだが、ひとりも警察を呼ばなかった。どうしてそうしなかったのか? のちの取調べでの大方の言い訳は、どの目撃者もだれか他の人がすでに報告しているだろうと思い込んでいたというものだ。この事実は、道徳的な臆病とかエゴイスティックな無関心のたんなる言い訳として、道徳的に払いのけるわけにはいかない。ここでわれわれの直面していることもまた、大文字の他者の機能である。今度は、ラカンの「知っていると想定された主体」ではなく、「警察を呼ぶと想定された主体」とでも呼ぶべきものである。(私意訳)

Some decades ago, a woman was slowly beaten to death in the courtyard of a big apartment block in Brooklyn; of the more than seventy witnesses who clearly saw what was going on from their windows, not one called the police. Why not? As the later investigation established, the most prevalent excuse by far was that each witness thought someone else would surely have already reported it. This fact should not be dismissed moralistically as a mere excuse for moral cowardice and egotistic indifference: what we encounter here is also a function of the big Other—this time not as Lacan’s “subject supposed to know,” but as what one might call “the subject supposed to call the police.”(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)

※ 「知っていると想定された主体」については、<ラカン派の「転移」のいろいろ>を参照。


「嬲り殺し」の高みの見物と似たようなもんじゃないのか、
たとえば「在特会」やら「ネオナチ」の動きをほうっておくのは。

湿った瞳を交わし合うのみで、
誰かがネオナチをとめてくれると想定しているだけの
去勢された子羊たちが「マジョリティ」ではないか

それともこっち系かね
ネオナチや在特会は「ほんとうの問題」を提起している
とひそかに思っている類だってマジョリティかもな

彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006

共感の共同体に憩っている手合いってのが、
田母神を「ほんとうの問題」を提起しているなどと言い出す
その境界線を跨ぐまでに半歩ほどしかないかもな、
いやもう越えているのかい?

「具体的に憲法を取り戻す。国軍を創設する。歴史を取り戻す。つまり東京裁判史観から脱却する。教育を再建する。このような今、国民が熱望している緊急課題、そしてもちろん領土を守る。拉致された国民を救い出す。これを具体的に実行できる国家体制をつくるということは、国民の総意なくしてはできない。その先頭に田母神俊雄閣下になっていただくということだ」(田母神氏「タブーない政治を」

いずれにせよ、正義の味方くんやら正論くんたちよ
ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?
ってことだよ、とくに町山智浩やら彼のツイートを大量RTしている手合いというのは。

オレが役に立っているなどと自惚れるつもりはないがね
すくなくともヘイトスピーチやネオナチへの「カウンター」運動者を
微力ながらサポートしたい心持はあるな
そしてそれに反する言葉には反吐をはきかけたいね

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)


あるいは次のようなことをことあるごとにつぶやく手合いがあまたいるんだが
(貴君らふたりにはなんの怨みもない、サンプルとして使わせてもらうだけだからな)

@ueyamakzk「意図がなくても差別だ」というのは、 まったく同じことが、左翼・リベラルについて言えます。意図として「差別に反対している」ことは、その人の言動が差別に反対していることを保証しません。

(以上の主張は、tweetやブログで何度かくり返していますが、折にふれて提示するつもりです。主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています。)
@unorthodox_TW: 私が危惧するのはやはり、他の差別者が「ヘイトスピーチ」のみを殊更に非難してみせて自分の差別性の隠れ蓑にすることであり、差別の問題を語るにあたってそれはゼロどころかマイナスの影響しか及ぼさない、ということです。 @dattarakinchan

ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」
ってわけでもないだろう、お二人さん
そろそろ役に立ったらどうだい?

それともただの「善良」なひとなのかい?

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


《@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。》(「議論しないこと」と「ほっとく」能力


繰り返せば、いま問われるべきは、
「大多数の人の支持を得」ることではないのさ
たとえばマスコミの記者だって、
「安倍のケツを、ペロペロと舐めてる」手合いがマジョリティなんだから


「行動「であり「態度」ーー、それが「大多数の人」の思考の牢獄の座標軸を
わずかでも揺り動かす可能性をもつ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

真の敵はこのソフトな閉塞の奈落の底へと吸引する
「共感の共同体」の不可視の牢獄なのでではないか。

カウンターの動きにおける「おみこしの熱狂気質」の傾斜に十分に心を配りつつ
ムラ社会の無責任性、ヒットラーが羨望したといわれる会社主義corporatism
すなわちいつのまにかそうなる「なあなあ主義」に抵抗しなくちゃな

《その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。》(中井久夫

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

《根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。》(同ジジェクーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」


根源的悪とは、パトローギッシュな理由から、「安倍死ね」という罵倒を、社会的規範に反するとして批判することだ、と言っておこう。



…………

※追記:ははあ、町山氏だけでなく「リベラル」なおっちゃんがぞくぞく湧いている。


◆小田嶋隆氏と野間易通氏(2014.9.26 4.30PM前後のツイート)

@tako_ashi: 「行動もしてないヤツが文句言うなよ」てなことを言って、行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。永遠に「行動する勇気を持った少数者であるオレ」であり続けたいということなのか?
@kdxn: 「反ヘイト程度のことでいちいち誰かの運動に "加わ" らずに自分でやる人が増える事態」ですかね。客商売じゃないので。RT @tako_ashi: 行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。

@kdxn: こういうこと言う人って必ず最初の段階で大きな間違いをおかしています。RT @tako_ashi: 行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化 まあ、一本道ですよ。

@kdxn: その「大きな間違い」とは、「行動しないマジョリティーを軽蔑」の部分で、ここは正しくは「行動しないでトンチンカンな論評ばかりやりたがるマジョリティーを軽蔑」です。単に行動しないだけの人は単に誘われたりするだけです。@tako_ashi

@kdxn: さらにもうひとつの大きな間違いは「主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除」ってところで、そもそも排除する主体も枠組みもないのに、何から排除されるというのか。あなたたちは単に反批判されているにすぎない。@tako_ashi

@kdxn: 同じ組織の「メンバー」でもないアカの他人に単にネット上で反批判された程度のことで「セクト化→カルト化→テロ化」とか陳腐極まりないこと書くのやめてほしいです。もう飽きた。それとも「メンバー」にならないと何もできないの? @tako_ashi

ーーさあ、貴殿たちも、よーく考えてみよう 、
どちらがわれわれの社会の「悪」なのか

町山氏も小田嶋氏も相対的にいえばマジョリティに好まれている書き手なのだろう。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

ーーこんな書き手というべきかどうかを判断するほどには、わたくしは彼らのことを知らないが。


※参照:寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか



2014年6月25日水曜日

安倍晋三「フェティシスト」政権という「仮説」をめぐって

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相 2014.3.14

戦後レジームとはなにかをめぐっては、まずは中井久夫の説明を読んでおこう(歴史にみる「戦後レジーム」)。

ところで「戦後レジーム」の脱却とはなにか。おそらく、それは要するに「富国強兵」政策ということなのだろう。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

まさか、いくらなんでも、そんな時代錯誤的な考え方を安倍自民党政権がもっているはずはない、とひとは思ってしまうかもしれない。だがその「証拠」らしきものはいくらでも挙げることができる。

・(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方

・(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」(安倍晋三――都知事が考える「立憲主義」と「憲法改正」『憲法改正のオモテとウラ』著者・舛添要一氏インタビューより)
・教育基本法は(第二次大戦後の)占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある。(戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言

徴候感覚の「詩人」鈴木創士氏なら、その臭いを鋭敏に嗅ぎとり、次のようなツイートを炸裂させる。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(鈴木創士ツイート2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(鈴木創士ツイート2013.11.27)

もっとも「エディプスコンプレックス」や「精神病」という語彙については、保留しておこう。前者は、ラカン派的には「神経症」であり、「精神病」とは異なるのだから。

ラカンはフロイトの 著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。神経症では抑圧Verdrangung(repression)、精神病で は排除Verwerfung(foreclosure)、倒錯では否認Verleugnung(disavowal,desaveu)です。最後に、ラカ ンは否認Verleugnungにdementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。(ミレール「「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)

捨てたものがシニフィアンに媒介されて「隠喩」として回帰するのが神経症的な「抑圧されたものの回帰」であり、他方、捨てたものが他のシニフィアンに媒介されずにそのままの形で回帰してくるのが精神病的な「排除されたものの回帰」である(シニフィアンとはフロイト的に言えば、「言語表象 Wortvorstellung」のこと)。

さて「富国強兵」は隠喩として回帰しているのか、それともそのままの形で回帰しているのか。すなわち安倍政権は「神経症」的であろうか、「精神病」的であろうか。

……マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

代表制議会の危機がいま日本にあるかどうかは保留しよう(いや、むしろいまさらのことではないのだから)。だが資本制経済の危機があるのは、日銀がデフレ脱却のために博打を打たざるをえない状況にあることから(あるいは原発事故処理をも視野に入れつつ)、たしかにそうだ、といいうる。そしてそのとき「国家」があらわれる。

いままで言ってきたように、アベノミクスってのがそもそも危険きわまりないギャンブルなんだけど、それがうまくいってるように見える今のうちに、参議院選挙に勝って両院のねじれを解消し、憲法改正をはじめ、いわゆる「戦後レジームからの脱却」を強引に進めようってのが、安倍政権の狙いだね。でも、国際的には「戦後レジーム」ってのは第二次世界大戦の戦勝国である米英仏ロ中が国連の安全保障理事会の常任理事国を構成する体制なんで、それを否定するのかってことになると、中国はむろん、アメリカその他だって黙っちゃいない。本来、北朝鮮に圧力をかけるため米中その他の諸国と協力すべき時だし、中国の覇権主義に対して日米同盟で対抗するってのが安倍政権の外交の基軸なんだから、他方でそれを揺るがし、アメリカにさえ警戒感をもたせるような言動をとるってのは、愚かとしか言いようがない。(田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 TALK 63

 ところで、柄谷行人の文にも、「抑圧されたものの回帰」(神経症の機制)とフェティシズム(倒錯の機制)が混在する。すなわち、ここでは、安倍自民党政権の「富国強兵」は、抑圧されたものの回帰(精神病の機制)なのか、「抑圧されたものの回帰」なのか、それとも「フェティッシュ」(倒錯の機制)なのか、というラカン派的な問いを「仮に」立ててみよう。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』)

ここでジジェクのいう「症候」モードとは「神経症」モードのことであり、「フェティッシュ」モードとは「倒錯」モードのことである。さて、どう異なるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。

この正確な意味で、貨幣は、マルクスにとって、フェティシュである。私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュのなかに自分の否認された信念を包みこむ……。ときには、ふたつの間の境界線はほとんど見分けがたいこともある。対象は、フェティッシュ(正式には断念された信念)とほとんど同じように、症候(抑圧された欲望)としても機能することもある。たとえば死んだひとの衣服などの遺品は、フェティッシュ(そこには、死んだ人が魔法のように生き続ける)としても機能するし、あるいはまた症候(死者を想い起こさせる心を掻き乱す細部)としても機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳ーージジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード

ジジェクは、症候もフェティッシュも区別がつきがたいときがあるとしている。「富国強兵」は症候(抑圧された欲望)なのか、フェティッシュ(死んだ人(大日本帝国)が魔法のように生き続ける)のかは判然としない。

もし後者であれば、安倍自民党政権は、徹底的な「リアリスト」ということになる。《フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。》すなわち、《私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュ=「富国強兵」のなかに自分の否認された信念を包み》んでいるのかもしれない。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。(……)主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。(……)サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

ここでラカンは「幻想」といっているのは、神経症(モード)のことである。他方、「倒錯」が厄介なのは、己れが「病気」だと無意識的にも意識的にも感じていないことだ。

<大文字の他者の意志>の純粋な道具の地位を引き受けるという倒錯的な態度(……)。それは私の責任ではない。実際にそれを行うのは私ではない。私はたんにより高次の〈歴史的必然性〉の道具にすぎない。こうした状況がもたらす猥褻な享楽は、私は私自身が自分のしていることに対して無罪であると考えているという事実から生み出される。私は、私には責任がなく、たんに〈大文字の他者の意志〉を実現しているだけだということをじゅうぶんに意識しているからこそ、他人に対して苦痛を課すことができる。(ジジェク『ラカンはこう読め』p181)

ジジェクにはこれらの説明の種々のヴァリエーションがある(参照:Hysteria, Psychosis,Perversion-----Zizek "Less ThanNothing")。ここではひとつだけ抜き出しておこう。

倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』)

安倍自民党政権の「富国強兵」がどのように機能しているのかは、わたくしの知るところではない。おのおのの所属者によって「神経症」的であったり、「倒錯」的であったり、あるいはまた「精神病」的であったりするのかもしれない。精神病の特質は次のようである。

精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.Clinique ironique. Jacques-Alain Miller

だがどうやらわたくしの浅墓な見立てではーージジェクや柄谷行人の論のパクリとしての見立てではあるがーー、安倍自民党政権全体としては、どうも「倒錯=フェティシスト」的であるように見えないでもないのだ。《フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす》。だが、「富国強兵」という呪物(フェティッシュ)が建設的な役割を果たしてもらったらコマル。

呪物は、確かにその信奉者から異常なものと認められているのだが、病気の症状と感じとられていることは稀(……)。たいてい彼らはその呪物にまったく満足しており、あるいはかえって、彼らの愛情生活に役立つ便宜さを高くかってさえいる。(フロイト『呪物崇拝』)

ーーここでは、ヒトラーが羨んだといわれる戦前の日本型ファシズム、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」(柄谷行人)」をめぐっては、議論が煩雑になるので触れていないが、フェティシズムについて考える上には、当然、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》ことを視界におさめなければならない。

…………


レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。
分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるとも。


…………

※附記

やや上の文脈からはずれるが、次のジジェクの問いかけ(柄谷行人への)を付記しておこう。

ジジェクは、『パララックス・ヴュー』あるいは『LESS THAN NOTHING』にて重ねて、柄谷行人の権力論を批評(吟味)している。

それは、《もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である》(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283)をめぐる箇所である。

"the center exists and does not exist at the same time"(中心は在ると同時に無い)

《But is this effectively enough to undermine the "fetishism of power"? When an accidental individual is allowed to temporarily occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: "I know very well that this is an ordinary person like me, BUT NONETHELESS... (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!" Does all this not fit the general matrix of Kant's solutions where the metaphysical propositions (God, immortality of the soul...) are asserted "under erasure," as postulates? Consequently, would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? 》(The Parallax of the Critique of Political Economy


こういったジジェクの柄谷行人批判(吟味)の核心部分(『パララックス・ヴュー』)を、いまだインターネット上では、誰も引用していない(わたくしは手元に英文しかないので、いま邦訳がないのか探ってみたのだが)。『LESS THAN NOTHING』も、そろそろ邦訳が上梓されるはずだが、この大著『パララックス・ヴュー』のさらに二倍ほどの分量をもつ書もたいして読まれることはないだろう。

ところで柄谷行人の権力欲をめぐる考え方は、次の通り。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ジジェクのいう、権力の「場所」という神秘を取り除くことが真の仕事である、という主張は「ユートピア」的思考であり過ぎるという観点もあるだろう。

…………

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)


2014年4月17日木曜日

イマージュと美、あるいは感性の形式と悟性のカテゴリー

まず、『映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-』(箭内 匡)より。www.tenri-u.ac.jp/icrs/dv457k0000006wgb-att/1-6.pdf

『シネマ』におけるドゥルーズの思索の出発点をどこに見出すことができるだろうか。それは、非常にゆるやかな意味では、現代の多くの重要な哲学書――ドゥルーズ自身の旧著『差異と反復』を含め――と同様に、『純粋理性批判』のカントの思索であるということができるだろう。これに関して興味深いのは、ドゥルーズが『シネマ』の執筆に取りかかる少し前の1978年に、パリ第八大学で行なった、カントについての講義である。なぜなら、後の『シネマ』でのドゥルーズの議論の基礎になっている「イメージ」と「時間」の二つの概念が、『純粋理性批判』の中でカントが創始し、現代の我々もまたその影響下にあるような、ある根本的な思考の変革の中心部分として、この講義で事実上提示されているからである。

註):《「事実上」と書いたのは、そこでは「イメージ」(image)というベルクソン的表現でなくて、カント自身の「現れるもの」(ce qui apparaît あるいは apparition)という表現が使われているからである。(……)「現れるもの」に相当するカントの原語はErscheinung であり、これは通常は phénomèneと仏訳される言葉だが、ドゥルーズはドイツ語のニュアンスを生かす形で ce qui apparaît あるいはapparitionという言葉を使っていると思われる。「現れるものの条件」については、「現れるものの意味(sens)」と言ってもよい、とも述べている。》

では、ドゥルーズにとっての、カントによる根本的な思考の変革とは、具体的には何だろうか。それは、『シネマ』の全体に関わる点からいえば、次の三点になるだろう。第一にカントが、プラトン以来の「本質」(essence)と「仮象」(apparence)の対立と訣別し(つまりこの世界の背後に、この世界を根拠付けるような「真の世界」を前提することを廃止して)、ただ「現れるもの」(ce qui apparaît)のみを、その「現れるものの条件」(conditions de ce qui apparaît)ととともに思考したこと。第二に、この「現れるものの条件」の根底にあるものとして、新しい、真に近代的な「時間」の概念――いかなる宇宙的リズムをも前提としない、つまり、いかなる「動き(運動)」の蝶番からも解放された、純粋な「時間」――を導入したこと。第三に、この純粋な「時間」の概念を、同時にいかなる心理的リズムにも依拠しないものとして考えることを通じ、「私の存在」が「私は他者である」(“Je est un autre”)というパラドックスを内包する形でのみ綜合されうること、そして、この綜合作用の根底に「自己の自己による変様」としての「時間」があること、を見出したことである。

――という文を冒頭に掲げたのは、現代思潮社の「鈴木創士の部屋」の次の文を読んだ(読み返した)からだ(わたくしは鈴木創士氏のスタイルのすこぶるファンであって、このウェブ上のエッセイを一年毎くらいにまとめてPDFにして読み返す)。

カント的問題には、生々しいものであれ、古代ギリシアの唯物論風であれ、形而上学的であれ、はたまた神学的であれ、「イマージュ」についての考察がすっぽり抜け落ちているように思われる。そんなものは問題にすらならない。カントは物を見ていたのだろうか。「物自体」はイマージュとの光の照応を断っていたのだろうか。ともあれわれわれは何かを見ている最中なのだから、いくら「美」の哲学というものが複雑な代物であっても、美学が「感覚の論理」であるならば、ある曲線を、ある直線を、ある水の流れを、ある風景を、ある瞳を、ある動物を、稀にはある人の心の様を、ある横顔を、ある瞬間を、ある花や樹を、ある音楽を、ある静寂を、ある肢体を、ある朝と夜を、美しいと思うのは、まずはとても単純で揺るぎないことのように思えるのだけれど …。この点では私はいつも実在論と唯名論の中間を漂い続けざるを得ないということになる …。(鈴木創士「悪魔……」

さてどのように上のふたつの文の齟齬を処理したらよいのだろうか。カントやドゥルーズをまともに読んでいるわけではないわたくしは、それでも「物自体」と「イマージュ」について、たとえば次のような文を引用することぐらいはできる。

物自体に何ら神秘的な意味合いはない。カントは次のように警告している。

《一般に観念論の主張することろではこうである―――思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者の外にあるいかなる対象も実際に対応するものではない、というのである。

これに反して、私はこう主張する。―――物は、我々の外にある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体が何であるかということについては、我々は何も知らない、われわれはただ物自体の現れであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象が何であるかを知るだけである。それだから、私とて、我々の外に物体のあることを承認する》(『プロレゴメナ』篠田英雄訳、岩波文庫)。

つまり、カントは世界も他我もわれわれが作ったものでなく、われわれに関係なく存在し生成していることを認めている。言い換えれば、われわれが「世界内存在」であることを。彼が物自体をいうのは、主観の受動性を強調するためである。(柄谷行人 『トランスクリティーク――カントとマルクス――』(岩波書店)第一部注P467)

あるいは、ドゥルーズのイマージュをめぐれば、前田秀樹【「悟性と感性の「性質の差異」について』(「批評空間」1996)より。

【伝統的な哲学】
哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。

ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない。

【ベルクソンの哲学】

これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。


さて素朴な疑問に戻って鈴木創士氏のいう、ある横顔を、ある肢体を、美しいと思うのは、単純で揺るぎないことなのだろうか。わたくしの誤読でなければ、ここでは何かが忘れられている。《われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たち》、すなわち醜いと思った女が、美しく見えるようになった経験を、われわれはして来ている。たとえば黒人女が美しくなったのは、二十世紀中葉の写真家や映像作家のせいではなかったか。

こんにちならよい趣味の人たりはわれわれに向ってこういう、――ルノワールは十八世紀の大画家である、と。しかし、そういうことを口にするとき、彼らは忘れているのだ、時を。すなわちルノワールが大芸術家としての待遇を受けるには十九世紀のただなかにあってさえ多くの時を必要としたことを。そのようにして世に認められることに成功するには、独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳) 

《美学が「感覚の論理」であるならば、ある曲線を、ある直線を、ある水の流れを、ある風景を、ある瞳を、ある動物を、稀にはある人の心の様を、ある横顔を、ある瞬間を、ある花や樹を、ある音楽を、ある静寂を、ある肢体を、ある朝と夜を、美しいと思うのは、まずはとても単純で揺るぎないことのように思えるのだけれど …。》――だが、それらが美しいのは、とても単純で揺るぎないことではない。

たとえば、アルプスが障害物でなく、「美しい」自然となったのは、ルソーの「文学」によるとする比較的若い時期の柄谷行人がいる。

『告白録』のなかで、ルソーは、1728年アルプスにおける自然との合一の体験を書いている。それまでアルプスはたんに邪魔な障害物でしかなかったのに、人々はルソーがみたものをみるためにスイスに殺到しはじめた。(柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』)

次に「準備と注解/岡崎乾二郎」より、アルブレヒト・デューラーの《一人の人間から美しい像を写し取ることは不可能である。美しい人間というものは地上に生きていないから。人はつねにもっと美しくありうるから。また、人間の最美の形態がいかなるものかを語ったり示したりすることのできる人も地上には生きていない。神以外には美を判断することは誰にもできない。それについて人は異なる意見をもちうる。》という文の引用で始まる凝縮されたエッセイから、カントを孫引こう。

経験的条件のもとでは、形態の美に関して黒人と白人とはそれぞれ異なる標準的理念をもつに違いないし、またシナ人はヨーロッパ人と異なる標準的理念をもつに違いない。そして美しい馬や美しい犬(それぞれ異なる種属の)の模範についても、事情はまったくこれと同様であろう。美のかかる標準的理念は、経験から得られて一定の規則と見なされるような比例に基づくものではない、むしろこの理念に従って初めて判定の規則が可能になるのである。この標準的理念が則ち個体に関する直観─換言すれば、さまざまに異なる一切の個別的直観の遥曳するところの形象であり、これに対応するものは『類』の全体である。自然はかかる形像を、同一の『類に属する自然的所産の原型とした、しかし個々のものについては、この原型の完全な実現は見られないようである。要するに標準的理念は、人間という『類』における美の完全な原型そのものではなくて、およそ美の成立に欠くことのできない条件を成すところの形式であり、従ってまたこの『類』の表現における適正を示すにすぎない。この理念はポリュクレイトスの有名な『ドリュフォロス』が規則(カノン)と呼ばれたのと同じ意味において規則なのである。またそれだからこそ標準的理念は、個別的─性格的なものをいっさい含んではならないのである。もしそうだとしたらこの理念は『類』に対する標準的理念ではなくなるだろう。標準的理念は、美によって我々に快いのではなくて、人間という『類』に属するものが美であり得るための唯一の条件に矛盾していないからこそ、快いのである。要するにかかる表現は正格というだけのことである。(カント『判断力批判』篠田英雄訳)

つまるところ、時代の、文化の「美しさ」という標準的理念から与えられる規則(カノン)があって、対象は「美しい」のであり、「美」は対象の性質ではないと主張している。

カントの『純粋理性批判』にはこうある。

感性的直観能力は本来、受容性にほかならない、 ――換言すれば、表象によって或る仕方で触発せられる能力である。そしてこれらの表象の間の相互関係が即ち空間および時間という純粋直観(我々の感性の純粋形式)なのである。

またこれらの表象は、それがかかる関係(空間および時間の)において経験統一の法則に従って結合せられ規定せられる限りでは、 “対象” と名づけられる。かかる表象を生ぜしめる非感性的原因は、我々にはまったく知られていない、従って我々はこの非感性的原因を対象として直観することはできない。

このような対象(自体)は、(感性的表象の単なる条件としての)空間においてもまた時間においても表象せれれ得ないだろう、しかし我々はかかる感性的条件なしには、直観というものをまったく考えることができないのである。

それにも拘わらず我々は、現象一般の仮想的原因を先験的対象と名づけて差し支えない。しかしそれは我々がかかる対象によって、受容性としての感性に対応する何か或るものをもつためにすぎない。

我々は、我々の可能的知覚の範囲と連関とをすべてこの先験的対象に帰し、かかる先験的対象は一切の経験に先きだってその自体与えられている、と言って差し支えない。

ところがこの先験的対象に対応するところの現象は、それ自体与えられるのではなくて、経験においてのみ与えられるのである。  (『純粋理性批判』中、篠田英雄訳 岩波文庫)

柄谷行人の『トランスクリティーク」は、このカントの「感性の形式」(あるいは「悟性のカテゴリー」)をめぐっての議論に、そのかなりの箇所がさかれているといってよい。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。P101
マルクスの唯物論は、観念論的と経験論の「視差」においてしかない、そして、この「視差」を失えば、唯物論はもう一つの「光学的欺瞞」(カント)に陥らざるを得ない。

日常生活では、どんな店屋の主人でもごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

マルクスの批判は、考えていること(悟性)と現にあること(感性)のギャップの意識においてのみあらわれる。P215-216

「感性の形式」や「悟性のカテゴリー」、あるいは先例と慣例」によるまなざしの汚染をめぐっては、蓮實重彦のいささか衒学的な表現、《解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線》も、上のカントの変奏であるといってよい。もっとも蓮實重彦はパラダイムやエピステーメをめぐる文脈で書いているのだが、そもそもパラダイムとはその時代・文化の感性の形式や悟性のカテゴリーによるものだろう。ここでT.S.クーンのパラダイム概念を想起するなら、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見 出される、としている。

……だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収)

これらだけではない。われわれは昨日美しかったものが、今日は美しくないという経験をしているはずだ。

諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――(ニーチェ 『曙光』539番)

ーーと引用してきたが、感性の形式、悟性のカテゴリー、あるいは物自体について、たいしたことが分かっているわけではないので誤解があるのかもしれない。カントのそれらをめぐっては、覗きたい人は「純粋理性批判の研究 第四章 カテゴリー」などたぐいのまとめがウェブ上にもいくらでもある。

いちばん厄介なのは「物自体」概念であり、当然のことだが、上に引用された文を額面通りに受け取る必要はないのであって、たとえば柄谷行人は次のように書く、《フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》(『トランスクリティーク』)。あるいは、

カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象」と呼び、たえず主観を触発しつつありながら、主観によってはとらえられないものを「物自体」と呼んでいる。さらにつけ加えるべきなのは、「仮象」である。ここで注意すべきなのは、「現象」と「物自体」は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識)という旧来の区別とは異なるということである。たとえば、科学的認識がとらえるのは「現象」である。それは物自体ではないとしても仮象ではない。つまり、大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである。カント以前の哲学者は、仮象が感覚にもとづくがゆえに生じる、ゆえに、感覚を越えた理性による認識が真であると考えてきた。カントが画期的なのは、仮象をもたらすのは感覚だけではない、ある種の仮象が理性そのものによって生み出されると考えたところにある。彼の仕事は、そのような理性を批判(吟味)することであった。しかし、それは、人がそのような仮象を容易に取り除けるということを意味するのではない。むしろ、その逆である。たとえば、自分(自己同一性)という考えは仮象である。とはいえ、もし自分というものがないとしたら、人は恐るべき心理状態に陥るだろう。カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んだ。

このように、物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの 概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、『隠喩としての建築』所収)

だが、ジジェクは物自体はラカンの現実界ではない、としている。

……ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化を擦り抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。それはドイツ観念論者イマヌエル・カントが「物自体」と呼んだもの、すなわちわれわれの知覚によって歪曲される前の、われわれから独立した、そこにあるがままの現実とはいっさい無関係である。

《……この概念はまったくカント的ではない。私はこのことをあえて強調したい。もし<現実界>という概念があるとしたら、それは極端に複雑で、それゆえ理解不能である、そこから<すべて>を引き出すようなふうには理解できないのである。》(Lacan”Le Triomphe de La Religion)(ジジェク『ラカンはこう読め』P115-116)

ーーという具合だ。ジジェクはこの『ラカンはこう読め』の出版前に、柄谷行人の『トランスクリティーク』に絶賛に近い書評をしているが、上の文は「物自体≒現実界」とする柄谷行人解釈には瞭然と異議をとなえていると読んでもよいだろう。

…………

上にプルーストを引用したが、あのたぐいの文はいくらでもある。たとえば、《われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。》(プルーストーー「知った人に会う」という知的行為

いまは、食事のテーブルがかたづけられるあいだも、私はゆっくり居残って、小さな一団の少女たちが通りかかりそうな時刻ではない場合も、海ばかりながめているということはもうなかった。私は手近なさまざまなものをながめたのであり、エルスチールの水彩画のなかにそれらを見てからは、それらを現実のなかに再発見しようとつとめるのであった。

たとえばまだはすかいに置かれているナイフの類のその中断されたままの身ぶり、太陽の光線が黄色いビロードの一片をさしこんでいる使ったあとのナプキンのふっくらしたまるみ、朝顔型に口がひらいた高貴なカットをいっそう目立たせている飲みのこされたワイングラス、日ざしの凝固にも似た透明なそのクリスタルの底の、くすんだ、しかも光にきらめいているぶどう酒の残り、注がれた量の位置のずれ、光線の照明による液体の変質、すでになかば果物の山がくずれたコンポートのなかの、みどりから青へ、青から金色へと移るプラムの色彩の変化、食道楽の祭典が催される祭壇のようなテーブルの上の、敷きつめられたテーブルクロスのまわりに、日に二度ずつやってきては場所につく古ぼけた椅子たち、そしてそのテーブルの上の、牡蠣の殻の底に残っているみず、石の小さな聖水盤のなかに見られるような光った数滴の水、そうしたものを、何か詩的なもののように、私は愛するのであって、そんなところに美があろうとはいままで想像しなかった場所に、もっとも日用に使いなれた事物のなかに、「静物」の奥深い生命のなかに、私は美を見出そうと試みるのであった。(「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ 」井上究一郎訳)



2014年3月17日月曜日

論文指導要項そのⅠ:「コピペはやめて優雅に置きかえなさい」

巷間では盗用、あるいは剽窃論争が花盛りである。

《コピペはよくない、「自分の言葉」で書かなくては、それが「基本」》とオッシャル先生がイラッシャル。ーーご尤も!

だがこの文自体、われわれが小学校や中学校の先生から耳にした台詞の「盗用」の印象を生むのだ。そして、《はい、よく「自分の言葉」で説明できました、オリコウねえ》などと優しい小学校の先生の貌を想起することになる。まあでもひねくれ者の戯言はやめよう。

だが「自分の言葉」とはなんだろう。

ランボー曰く《私は他者である》(“Je est un autre”)であるなら、私の言葉とは<他者>の言葉ということになる。あるいは次のヴァレリーのカイエの文を読んでみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年

この他者とは、訳者によれば「言葉」である。とすれば、「私=他者」の「言葉=他者」は、「他者」の「他者」ということになる。などとすれば、まるでラカンの<大他者>の<大他者>は存在しない、すなわち私の言葉は存在しないとなってしまう、ーーもちろんこれは言葉遊びでありまったく関係ないよ、としておかないと、ネット上には真に受ける方々がいらっしゃるから、くどくなるが書いておく。


ーーああ、またひねくれた戯言を言ってしまった!

このような人物はひたすら「引用」するに限る。


…………

みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦
どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。(松浦寿輝『官能の哲学』)
自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ(鈴木創士ツイートーー「言葉のコラージュ」と「原典のない翻訳」

もちろんこれらの主張はそれぞれの意味するところが違う。だがそれはここでは追求しない。ここでは上の三つの文に対して次の文を対比させるみる。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

すくなくとも「身体」から出た言葉は、自分の言葉である、と仮にしておこう。こう書けば、アルトーを想起するひとがあるかもしれない。

アルトーの創作活動は狂気のなかで自らの不在を体験しているけれども、こうした体験、こうした体験をくりかえし始める勇気、言語活動の根本的な不在にふかって投げつけられるすべての語、空虚をとり囲む、いやむしろ空虚と合致している、あの身体的苦痛と恐怖にみちた空間、これこそ、創作活動それじだいである。つまり、創作活動の不在という深淵に臨んでいる急斜面である。(フーコー『狂気の歴史』(558頁)

だがここではアルトーの、たとえばグロソラリ(舌語)にかかわるつもりはない。たいして知っていないことを語るのは口はばったい。ただ「身体」からの発話は、小学校の先生の言葉の剽窃であっても、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えない、--ことがあり得る…だろ? とだけしておく。

ーーもちろんこれらは極論を言っているのであって、いわゆる「自分の言葉」がこれら以外にないということではない。しかるべき条件下でしかるべき形式におさまる所謂「自分の言葉」が自分の言葉のつもりの「他人の言葉」でしかないということだけであり、そのまま真に受けてもらったらこまる。


…………

いまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている(批評をめぐって(蓮實重彦)―――『闘争のエチカ』より

《「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。「作品=テクスト」を「読む」行為(こ れも一種の「労働」です)の軽視という「ニューアカ」の特徴は、浅田彰や中沢新一の本当の気持ちは別として、彼らのブレイクにとっては重要な要素だったのだと思います。》(阿部公彦書評『ニッポンの思想』佐々木敦より

あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。(ニーチェ遺稿)

《ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている》(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))

…………

さてここからが「本題」の人文系の「優雅な置き換え」の例である。

ユリウス・カエサルの殺害というヘーゲルの挙げている古典的な例をみてみよう。カエサルに敵対する共謀者たちの直接的・意識的目標は、もちろん共和制を復活させることだった。しかし、彼の共謀の最終的結果――「本質的副産物」――は、帝政の樹立、すなわち彼らが意図していたこととは正反対のことだった。ヘーゲルの用語を使えば、歴史の理性がその目的を達成するために、何も知らない彼らを道具に使ったのだといえよう。

いうまでもなく、歴史の糸を操るこの理性とは、ラカンの<他者>をヘーゲル流に言い換えたものである。ヘーゲルによれば、歴史の背後で機能しているこの理性の所在を突き止めるためには、歴史の担い手たちが掲げた偉大な目標や彼らを導いた理想に目を向けるのではなく、彼らの活動の実際的「副産物」に目を向けなければならない。

ヘーゲルの「歴史の狡知」の歴史的源泉の一つである、アダム・スミスの「市場の見えない手」についても同じことがいえる。市場では、個々の参加者が、自分の利益だけを追求することによって、知らないうちに共通の利益に奉仕する。彼らの行動はまるで目に見えない善意の手に導かれているようだ。この「市場の見えない手」もまた、<大他者>の言い換えにほかならない。

「<大他者>は存在しない」というラカンのテーゼは、以上のようなことを踏まえた上で読まれなければならない。<大他者>は歴史の主体としては存在しない。それはあらかじめ与えられるものではなく、われわれの活動を目的論的に調整するわけではない。目的論というのはつねに遡及的な幻想であり、「本質的に副産物であるような状態」は本質的に偶然的なものである。

コミュニケーションに関するラカンの古典的な定義もまた、以上のようなことを踏まえた上で捉えなければならない。ラカンの定義によれば、話し手は相手から反転した真の形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体に返されるのである。その際に問題なのは、一般に主体は自分の行動の結果生じた混乱状態の中に自分の行動の真の意味を見出すことができない、ということである。(ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳 149~150頁)


上記のジジェクの叙述を大澤真幸がより丁寧に「置き換え」している(ドクター・ショッピングと原発情報)。

ヘーゲルが援用している、きわめて顕著なケースは、ブルータス等によるカエサルの暗殺である。カエサルは、大きな軍功をあげ、ライバルのポンペイウスを打ち負かし、ローマ市民にも圧倒的な人気があったため、ついに終身独裁官の地位に就いた。ブルータスたちは、カエサルにあまりにも大きな権力が集中し、ローマの共和政の伝統が否定されるのではないかと懸念し、カエサルの暗殺を決行した。クーデタは成功し、カエサルは殺害された。

しかし、この出来事をきっかけとして、歴史が大きく動き出し、紆余曲折の末に結局、暗殺から17年後にあたる年に、政争を勝ち抜いたオクタヴィアヌスが事実上の皇帝に就任し、ローマは帝政へと移行する。

これはまことに皮肉な帰結だと言える。ブルータスたちは、最初、カエサルが皇帝になってしまうのを防ぐために――つまりローマが帝政へと移行することがないようにと――カエサルを暗殺した。そして、その暗殺は、実際に成功した。しかし、まさにその成功こそが、共和政から帝政へのローマの移行を決定的なものにしたのだ。オクタヴィアヌスが初代の皇帝に就位するに至る出来事の連なりは、この暗殺によってこそ動き出すからである。

ヘーゲルは、この過程を、次のように分析している。カエサルが個人的な権限を強化し、さながら皇帝のようにふるまっていたとき、実は、本人は気づいてはいないが――つまり即自的には――歴史的真理に合致した行動をとっていたのだ。共和政はすでに死んでいたのだが、カエサルや暗殺者たちを含む当事者たちは、まだそのことに気づいていなかったのである。

したがって、暗殺者たちは、カエサル一人を排除すれば、共和政が返ってくると思ったのだが、しかし、実際には、カエサル殺害こそがきっかけとなって、共和政から帝政への転換が決定的なものになった――即自的なものから対自的なものへと転換した。それによって、「カエサル」は、個人としては死んだが、ローマ皇帝の称号として復活したのだ。

「カエサルの殺害は、その直接の目的を逸脱し、歴史が狡猾にもカエサルに割り当てた役割を全うさせてしまった」(Paul Laurent Assoun, Marx et répétition historique, Paris, 1978, p.68)。この場合、まるで、歴史の真理を知っている理性が、ブルータスやカエサルを己の手駒として利用し、歴史の本来の目的(ローマ帝国)を実現してしまったかのようである。これこそが、ずるがしこい理性である。

こうした考え方の原型は、プロテスタント・カルヴァン派の「予定説」であろう。キリスト教の終末論によれは、人間は皆、歴史の最後に神の審判を受ける。祝福された者は、神の国で永遠の生を与えられ、呪われた者には、逆に、永遠の責め苦が待っている。これが最後の審判である。神による最終的な合否判定だ。

予定説は、このキリスト教に共通の世界観に、さらに次の2点を加えた。第一に、神は全知なのだから、誰が救われ(合格し)、誰が呪われるか(不合格になるか)は、最初から決まっている。しかし、第二に、人間は、神がどのように予定しているかを、最後のそのときまで知ることができない。このとき、人はどうふ るまうか。それぞれの個人は、神の判断を知ることもできないのだから、ただ己の確信にしたがって、精一杯生きるしかない。彼らは、歴史の最後の日にしかる べき判決を受けるだろう。

これら三つの例に登場している第三者の審級(見えざる手、ずるがしこい理性、予定説の神)には、共通の特徴がある。第一に、どの例でも、第三者の審級が何を欲しているのか、何をよしとしているのか、渦中にある人々にはまったくわからない。つまり、人々には、その第三者の審級が何者なのか、何を欲望する者なのかが、さっぱりわからないのである。

これは、第三者の審級が、その本質(何であるかということ)に関して、まったく空白で、不確実な状態である。しかし、第二に、にもかかわらず、第三者の審級が存在しているということに関しては、確実であると信じられている。第三者の審級の現実存在に関しては、百パーセントの確実性があるのだ。

本質に関しては空虚だが、現実存在に関しては充実している第三者の審級、これがあるとき、リスク社会は到来しない。三つのケースのどれをとっても、内部の 個人には、ときにリスクがある。たとえば、市場の競争で敗北する者もいる。カエサルもブルータスも志半ばで死んでしまった。カルヴァン派の世界の中では、 神の国には入れない者もたくさんいる。だから、個人にはリスクがある。

しかし、全体としては、第三者の審級のおかげで、あるべき秩序が実現することになっている。全体が崩壊するような、真のリスクはありえない。見えざる手 は、最も望ましい資源の配分を実現するだろう。ずるがしこい理性は、歴史の真理に従った目的を実現するだろう。神は、しかるべき人を救済し、そうでない人を呪うだろう。


ジジェクの『斜めから見る』には、カルヴァンの話も出てくる。

カルヴァン主義は、その信者たちを休む間のない熱狂的な活動へと駆り立てることで知られているが、この宗教は予定、すなわち運命はあらかじめ決まっているのだという信仰にもとづいている。カルヴァン派の信者は、かならず起きるとされている出来事はひょっとしたら起こらないかもしれない、という不安にみちた予感に駆り立てられているのではなかろうか。(『斜めから見る』p137)

…………

さてこうやって並べたからといって、なにも大澤真幸の文にいちゃもんをつけるつもりはない。多くの文というのは、このような「書き換え」であることが多いのを示したいだけだ(ここまで似ているのは稀ではあろうが)。いやいや実はよくシラナイ…そうじゃなかったら「ごめんあそばせ!」 きっと独創的な書き手がいるのだろう、ニーチェ並には、ーー《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》--「ごきげんよう!」、並み居る独創家さんたちよ。


ジジェクの文も、ヘーゲルの、あるいはラカンの「書き換え」である気味は多分にあるだろう。より「分かり易く」書き換えたら、ラカンやジジェクを敬遠している読者にも理解され、役に立つこともあるだろうと思う。

なんの役に立つ?

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。

ーーこれだけでないことを祈る。

ここでまったく悪気はないのだが、浅田彰の発言を想い起こしてしまったので、つけ加えることにする(ゴメンアソバセ、國分ファンの方々よ!)

僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。(「えらくなろう」という不滅の幼児願望


僕の言葉、僕の見解、僕の「盗用」、……を語りたいヤツが多いのだよな、この「僕」のように。


さて話を元に戻せば、ジジェクやラカンの名を出さずに「書き換え」られた文は、失われるものがある。

ひとつだけ挙げれば、大澤真幸の主要概念「第三者の審級」と、ジジェク、あるいはラカンのいう「大文字の他者」といったいどう違うのか、が不鮮明なのだ。仮に同じものなら、わざわざ言い換えるまでもなく、よりよく流通している「大文字の他者」概念でいい筈だ。

なお「審級」については、agencyの訳として、『斜めから見る』のなかに次のような記述がある。

死んだ父親が父―のー名という象徴的審級として君臨しさえすれば、父親殺しは象徴的宇宙に組み入れられる。(鈴木晶訳)
The murder of the father is integrated into the symbolic universe insofar as the dead father begins to reign as the symbolic agency of the Name-of-the-Father.

そして、『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』(松浦俊輔 訳 ネット上で無料ダウンロード可)では「第三の媒体」という訳語があるが、これは原文ではThird Agencyになっており、「第三者の審級」と訳すこともできるだろう。

……すなわちサイバースペースで生じているのは,象徴的去勢(近親相姦的二者関係を禁止/妨害し,それによって主体が象徴界の次元に入り込むのを可能にする〈第三の媒体〉の介入)という構造から,ある新たなエディプス以後のリビドーの経済への移行だということである。


もしかりに大澤氏が独自に「第三者の審級」を言い募るなら、「大文字の他者」概念や上のジジェクの「第三の媒体」との相違を鮮明にすべきだろうとは思う。それが、大澤真幸の論や書物に明示されているかどうかについては、寡聞にして知らない、ーーなどとエラソウに書いているが、実はわたくしは大澤氏の書物を読んだことはない。インターネット上で片言隻語を拾って、ときにニヤニヤしているだけだ。なんのニヤニヤかはあまり書きたくない。


◆大澤真幸『<自由>の条件』2008

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』2008)

◆ジジェク 『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007)

あるいはまた『ジジェク自身によるジジェク』には、--これは邦訳が手元にないのだがーー、次のような発話がある。《The whole obsession that we have today with different forms of harassment - smoking, sexual, social, etc. - is simply how to keep the neighbour at a proper distance.》ーーこれだけではなく似たような叙述は枚挙にいとまがない。

ジジェクの「わかりにくい」文章を優雅に置きかえている大澤真幸に、真の幸あれ!


ーーところで世間にはこんなことをオッシャル方もイラッシャル。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より






2014年3月6日木曜日

棺桶に片足つっこんだような文体

棺桶に片足つっこんだような文体
で書いてる若い連中がいるが
まあオレもひとのことはあまり言えないけど
そろそろ片足つっこんでもいい齢だからさ
オレは棺桶文体で書いてもいいだろ

たとえばラカン読んでいて
どうしてあんな学者風の無味乾燥な文体で書く気になれるんだろ
と思わざるをえない若いラカン派の「聡明な」若者がいるが
あれはラカンの初期博士論文風なのかね
いや医者のディスクールってやつだろうな
ラカンの四つのディスクールの区分けからいえば
医者のディスクール」は、大学人(知)のディスクールじゃなく
主人のディスクールということになるらしい

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

ってわけだな ファルスだったら
ラカン「解説者」にはお似合いってわけのものでもないだろ
あれじゃあラカンを生きていないといわれても仕方がないな
Meaningのひとで、Senseのひとでは全くない
解釈ではなくて解釈学でしかない

ジジェクによればMeaning is an affair of hermeneutics(解釈学),
Sense is an affair of interpretation(解釈)で
前者が男性の論理、後者が女性の論理というわけだが
男性の論理、すなわちやっぱり父性原理の権化ということになるな
医者のディスクールのやまいに侵されてんだろうよ
評価すべき惜しい人材なんだがね

Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning.(「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より

オレはいまこんな文体で書いてるがね
似合いもしないのはわかってんだが
これじゃあダメなんだよなあ
メリハリがない
メロドラマに染まり易いたちで
つとめてそれに抵抗してんだよ

でなにがいいたいだって?
いやね
鈴木創士の文章読んで唖然としたんだよ
ここで呼び捨てにするのは
言い切りによる敬称だがね
鈴木創士氏といままで書いてきたんだが
これからは「鈴木創士」だな

縦横無尽な、バロック風、セリーヌ的
なんて「紋切型」の形容句しか思い浮かばないけどさ
今月の「鈴木創士の部屋」の文章は
稀に見る傑作じゃないか
誰も言っていないようだから敢えてそういうが
毎回魅力溢れるのはたしかだけれど
今回は格別だな
(オレだけかね 
あれに魅せれらないのはやっぱなにかが欠けてるんじゃないか)
以前の大野一雄追悼にも眩暈がしたな

舞踏家・大野一雄が103歳の生涯を閉じた。
何もない明るい丘に、葉っぱを落とした一本の古木が立っていた。ここからは見えない丘のむこうからかすかな口笛が聞こえる。時おりはしばみの実をくわえた大きな鳥が裸の枝にとまりにやってくる。
 手が、幾度となく、鳥のように宙で小さな弧を描いているだけだ。青空。眼を閉 じて、何も言うまいとする大野一雄。何も言うことがないのだ。……

今回は別の種類の眩暈で
ちょっと引用する気にもなれないな
あの「日常語」や「罵倒語」を織り交ぜる見事さは

かわりに蓮實重彦の「失語体験」でも引用しとくか
事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はその物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれる欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出合いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

鈴木創士の著作が売れるかどうかは別の話さ
メロドラマ風文学趣味の連中をぶっとばす文体だからな

※鈴木創士のツイートより
ランボーがビートニクスだったことを知らないの? ランボーの訳で一番重要なことは、だから思考のリズムと同時に言葉のリズムが作り出すある種のトーンなのさ。ランボーはとにかく速いんだよ。「詩情」とやらがべったり張り付いたかったるい日本語訳はランボーの書いたものとはまったく違うってこと!
さらについでに言っておくと俺のランボーの訳(河出文庫)には「何の詩情もない」とわざわざ仰る人がいるが、言っとくがランボーは文章を徹底的にきりつめることによって「君たちの詩情」など全部殺してしまったのだ。ランボーの原文を見りゃわかる(日経新聞2011年11月12日参照)。残念でした

…………

ワカンネエやつがいるらしいからつけ加えておくよ
スカンション、言い澱み、沈黙、飛躍、跳躍……、それがラカンの、すくなくともセミネールのラカンの蠱惑だろ。

……ラカンは、書いてきた原稿を読むということはありませんでした。また、何らかの神憑りの状態で、即興で語ったわけでもありません。そうではなくて、ラカンは、机の上に散らばっている夥しい量の彼のノートと対話しながら彼の道を辿り、熟考し、様々な問いを立てました。聴衆の動向に対しても注意深く、ある時は駆け足で進み、ある時はじっくり論じ、熟達したスキャンションの技術をもちいて、話ぶりや調子を変化させました。それはまるで、気紛れな風が様々の形の大きさの雲を作り出し、ついには入道雲が沸き立ち、稲妻が輝き、突然の嵐がやってきて、哀れな聴衆に襲いかかるように、ラカンはほんのしばらく人々を揺さぶるような調子で語ったかと思うと、次の瞬間には穏やかな口調となり、静かな講義の調子を取り戻しました。そして、その結論は時間のセミネールに新しい光をもたらすことを約束するものでした。(ミレール

《でくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろ》たちめ!

エンマは、もういまはこんな風に書かないと思う …だからフランス語が世界中で後退しつつあるとしても驚くにはあたらないのだ、と。どんな現代作家といえどもこんな喚起力をもっていない、と。一人でもいいからぼくに名前を言ってもらいたい! もちろん、いくつかの要素は古びてしまった(彼女のこの条りを読み返すたびに、しばらくのあいだコルセットを身につけたくなるのだが)、でもスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力がある …いや、この文体の巧みな中断のなかに人はすべてを感じ取るのだ …「何かしら極端で、漠然として、沈痛なもの」 …そしてとりわけ、「彼女が彼の情婦であるというより、むしろ彼が彼女の情婦になっていた …彼女は、深淵で、隠されているためにほとんど実体の無いこの堕落を、はたしてどこで習い覚えたのであろうか?」

実際、彼女のように仰々しいいでたちの女は現代的な解放すべてに属しており、エンマはエンマのままなのだ …奇妙なことに唯一文学だけが書き留めているこの荒々しい発見を前にすれば、あるのは同じ反芻、同じ痛み、同じ激昂、同じ失望である。この世界における、その名に値する男たちの不在 …男などいない! ただの一人も! 全員がでくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろなのだ …果てしなく、再び、彼女のすべての連続的再生において、エンマはこの単調な同じ絶望的結論に達する …彼らはいかなる堅固さを有していない …その空しさと同様、彼らの獣性がそこで暴かれる時間をのぞいては …その時の彼らの眼差しにはそっとさせられる …彼らは根本からほんとうに腐っている …結局は全員が贋のエンマなのだ …ぺてん師たち…  (ソレルス『女たち』p116鈴木創士訳)

すこしは味わいをつけろよな、学者文体のはしたないやからめ!

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」


ーーなどとつけ加えて、貴君たちを子どものように扱いたくなかったのだがね。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(蓮實重彦インタヴュー テオ・アンゲプロス『光をめぐって』より)

お、平倉圭氏がいいこといってんじゃないか、この感覚がないような連中というのを「うすのろ」っていうんだよ

露骨に狙った「いい文章-感」を、許しがたく・汚らしいものに感じるというわけさ

@hirakurakei: @EnricoLetter @masayachiba そこはかとなくただよう(あるいは露骨に狙った)「いい絵-感」を、許しがたく・汚らしいものに感じるということです。でもどうしてそんなに強い感情を覚えるのか考えたことなかった。私は落書きは好きです






2014年2月21日金曜日

安倍晋三とマインドコントロール

・(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方

・(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」(安倍晋三――都知事が考える「立憲主義」と「憲法改正」『憲法改正のオモテとウラ』著者・舛添要一氏インタビューより)

・教育基本法は(第二次大戦後の)占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある。(戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言

安倍氏は「参謀」に、あるいはなにかの「亡霊」に、マインドコントロールされているのではないか。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

…………


<憲法とはConstitution>
 憲法とは英語で”Constitution”です。法”law”という言葉が入っていません。つまりこれは、「みんなで統治権力をどのように戴くのかということを契約し合ったもの」という意味です。
<憲法とは「自治」への介入を制約するもの>
「民主」の本義は、多数決ではなく「自治」なんです。つまり、「自分たちで自分たちのこと を決める」ということ、これが民主主義の本義なんです。そこに統治権力が勝手に介入して きてしまっては、自分たちの自治が成り立ちません。だから「統治権力が介入してはいけ ない市民たちのコミュニケーションの領域」を定めたもの、これが人権規定です。 人権というのは、天賦人権論などは実はどうでも良くて、その本質的な機能は「自治に国家権力が勝手に介入できないようにするためのもの」なんです。人々の「自治に介入して はいけない」というように統治権力を制約して、相互的に契約をしているもの、これが憲法 です。 だから、「統治権力が勝手に介入してはならない」という規定を持たないものは、仮に憲 法という名前が付いていたとしても、憲法ではないということです。その意味では、今回の自民党の憲法草案は、全く憲法に関する議論にはなっていない。(宮台真治)




「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)


あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(鈴木創士ツイート2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(鈴木創士ツイート2013.11.27)

…………


第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))


いまや「理解を超えた馬鹿」とするだけなのは空しい。

気をつけなくてはいけないのは、表面的な庶民的正義感のはけ口(賤民の値の騰貴)として利用してはならないことだ。

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽であり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

さらに、権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)


《安倍晋三さんはバカだ。しかもただのバカではなく病気である。…しかし、彼が首相の座にいるのは、私たち自身が病気だからである。》(小出裕章 20140202)



…………

※附記:《原発をそう簡単にはやめるというわけにはいかない》(安倍晋三

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。むしろ事態の推移には視線を注ぐまいとして、もろもろの予言や断言が行きかうことになる…(蓮實重彦『物語批判序説』)


放射能汚染水―海外では「世界最大のスキャンダル」

2014年1月27日月曜日

「言葉のコラージュ」と「原典のない翻訳」

前回、《自分が書く詩に飽きたので、「現代詩年鑑2013」掲載の作品から、無断でコラージュしてみました》とする谷川俊太郎のコラージュ詩を掲げた。

ところでアンドレ・ブルトンにも次のようなコラージュ詩がある。

軍人たち
かまうものか 私の詩句 のろのろしたことの
運び
活気
言わせておいた方がましだ
間接税収税人の
アンドレ・ブルトンが
退却を待ちながら
コラージュにふけっていると  André Breton, « Pour Lafcadio » [1919]

「自動記述」の手法によってより知られているアンドレ・ブルトンだが、そもそも自動記述の代表作『溶ける魚』の草稿には、新聞の切り抜きによるコラージュ詩が含まれていたようだ。
(中田健太郎『アンドレ・ブルトンにおける自動記述とコラージュ』による)


 …………

わたくしは「自分の言葉」で表現しようとすると、これはどこかで覚えこんでいた台詞を無意識的に劣化させた表現ではないか、と思えてしまうタチで、とくに海外住まいで日常的に日本語を使うことが稀なせいもあり、ーーと書いたところですでに劣化させた表現をしているわけだ、《昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象》という文を。

『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)

この文は紋切型表現批判をめぐる箇所なのだが、蓮實重彦に言わせれば、サルトルの『大戦の終末』でさえこのようなのだから、凡人はあまり気にすることはないともいえる。

さらには、書くことはみな「なぞり書き」であるという福田和也=ド・マンの発言がある。
ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている。要するになんにもなしに書くことなんていうことはありえないわけで、いずれもなぞり書きである。ただそれに対して自覚的な人が批評家で、無自覚な人が批評家でないというわけではない。自覚的でありながら、それを非顕在的にするのが一応近代小説だったと思う。それがなぞり書きであるということは、非顕在的で、ナラティヴには表われない。それに対して批評というのは、無自覚な人であっても、それはなぞり書きだということがわかる構造になっているのが近代までの性格だったのでしょうね。(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))

そもそも美文家として誉れ高い三島由紀夫の文章について、こんな言葉さえある。

・三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果(大江健三郎)

・「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡昇平は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだと(丹生谷貴志)

ーー三島由紀夫の文章がこのようであるかどうかは評者により見解の相違があるだろうが、中途半端な才能の持ち主が文学的表現をしようとすると、「銭湯の壁画」のようにみえたり、「死体に化粧」であるのは、ツイッターやブログなどでうんざりするほど見られるだろう。

さて少し前に戻って、「自分の言葉」をめぐって鈴木創士氏は次のように書く。

「自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ(鈴木創士ツイート)

ただしその剽窃やら引用やらなぞり書きでさえ才能は現われるもので、それは次の通りである。

文章など何をやってもいい。自分を引用しようが、引用を捏造しようが、自分を根絶やしにしようが、自分は自分などと言えないようにするためにどんな手を使おうが構わない。ただ全くピアノをやらない人に五分間滅茶苦茶の即興をやれと言っても続かないように、文章にもそういうところがあります。ばあ!(鈴木創士)

いわば語彙の豊富さ、音調、リズム、歯切れのよさ、ドモリよう、立ち止まり方などに才能が現われるのであって、ーーと書けば、これも劣化された要約であり、《細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起る》、あるいは、《言葉が独走するときに起るその種の衝突は、必ずしも迅速さの印象を与えるとは限らない。それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起りうる》(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)と引用しておくほうがよい。

あるいはドモリとか立ち止まり方などというのは、ドゥルーズやアランの言葉を頭の片隅に覚えこんでいるのだが、正確に記憶しているわけではないための劣化である。

文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。(ドゥルーズ『ディアローグ』)

ーーこのドゥルーズの発言には、プルーストの「美しい書物は一種の外国語で書かれている」がベースにある。

アランの文も並べておこう。

・散文にも、かならず一種の歌は聞こえる。フレーズの円環というべきかもしれないが。ただし、私にいわせるあんら、散文作家はそういう形をずたずたに切ってしまうという点で、詩人からきっぱり区別されるものだ。

・脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、 散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。

・散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。


さて、ここで基本に立ち戻るならば中井久夫の文がよい。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

これらの才能の顕れの肝要な技法として、《「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである》(柄谷行人『隠喩としての建築』)ということを忘れてはならない。

他にも、言葉の意味とはけっして無関係でないにもかかわらず「形式的」といえる技法として、オクシモロンというものがある(以下は、安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」より)。

ヴァレリーはオクシモロンを多用した、《修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmorosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法》。

魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「オクシモロンー覧表」より)

シェイクスピアなら次の如し。

ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……

たとえば蓮實重彦のいくつかの概念《魂の唯物論》、《表象の奈落》などがオクシモロンでなくてなんだろう。

これはオクシモロンとはやや異なるが、偉大な思想家により、ひとつの言葉が相反する意味を示すことが説かれるのを知っていると、その語は特別な輝きをもつということがある。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』)


 で、なんの話であったか。

前回の谷川俊太郎のコラージュは、一行毎のコラージュであるようだが、文章といいうものは、実は単語のコラージュのようなところがあるわけだ、ということを言いたいために、松浦寿輝の次の文を引用するつもりだったのだ。

どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。

しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から開放されるための絶好の契機なのである。どんな些細な言葉ひとつでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表そうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。自分の奥底まで届いた唯一のかけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくというもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていないか。

だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。

そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書き付けたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現れる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』)

さて最後に、次の古井由吉の驚くべき言葉をもう一度考えてみる「ふり」をするために掲げておこう。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)



2013年12月7日土曜日

無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」

             小田実に

総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
彼は象徴にすらなれやしない
きみの大阪弁は永遠だけど
総理大臣はすぐ代る

……
(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

谷川俊太郎自身のあとがきによれば、「夜中に台所で……」の詩14篇は、19725月某夜、なかば即興的に鉛筆書きしたものとのこと。

当時は、第3次佐藤改造内閣であり、佐藤栄作長期政権最後の時期にあたる。

たしかに総理大臣ひとりを責めたって無駄だ。

だが「佐藤栄作」は、戦前からの亡霊の「記号」としても己れを主張していたはずであり、人びとは、意識的であれ無意識的であれ、このいささか疚しいシーニュを、隠しておきたい恥部を刺激する不気味な異物として取り扱っていたには相違ない。もちろんフロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」であり、自己投射の対象として機能する。

ここで戦前からの亡霊の「記号」というのは、戦前の「公」と戦後の「公」とが連続したまま繋がっており、戦前的思想・政策を戦後の<今>になってもいまだ完全に否定できていないことを否が応でも想起させる「名」ということだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ようするに、小田実や加藤周一らの当時の「左翼知識人」たちは、無責任体制の社会的、文化的条件の存続としての「記号=佐藤栄作」の露骨な流通に、いてもたってもいられない憤りを覚えていたはずでもある。


ところで、第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

ここで中井久夫は、佐藤栄作や岸信介の名を出していない。父(晋太郎)と近衛文麿だけが言及されているが、おそらく、それは「あえて」であり、精神科医としての中井久夫は当然佐藤栄作や岸信介の名に思いを馳せているに相違ないにもかかわらず言わないままでおいたのは、多くの読者を抱える「神戸新聞」という発表の場が促す「節度」からだろう。

さて現在、第二次安倍政権のまっさかりであり、「安倍晋三」という記号は、あたかも戦前の亡霊を喚起する「名」として機能しているかのようである。そして《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込む》かのようでもあろう。

そのことに敏感なひとたちが少数であっても存在する。たとえば鈴木創士氏は、ツイッター上で次のように発話する。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(2013.11.27)

ここで「ES」というのは「無意識」のことだとすればーー厳密に言えば『自我とエス』におけるフロイトの説明では、「エス」だけでなく、「自我」や「超自我」にも無意識的な部分があるーー、この「無意識」という言葉は、佐藤優氏の発言にも次のように使われる。

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。(特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

《巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り》という詩才溢れる鈴木創士氏のセリーヌやバロウズばりの表現は、《集合的無意識で動いている》という「外務省のラスプーチン」(驚嘆すべき知性の活動家ーー柄谷行人評)の言葉に翻訳できるだろう。

あるいは現代詩ムラの他者」辺見庸氏なら次のように語る。

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」――2013年8月31日の講演記録)

これも、《議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長》している症候を敏感に察知しているひとの言葉だ。辺見庸氏の記事には、「安倍」という語が頻出するが詳しくは上のリンク先の、三時間に及ぶ講演記録全文を参照のこと。

そして講演者としての穏やかさの仮装を脱ぎ、本来の詩人としての辺見庸氏なら、その思いは次のように言葉として炸裂する。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

ここにも《「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか》と、「深層心理(欲動)」という表現があることに注目しておこう。


ところで、逆に、自らのなかに残存する「あなたのなかにあるあなた以上のもの」としての「無責任体制」を否認したい議員や国民は、パラノイア的投射の対象として「安倍晋三」という「無能の主人」を利用していることだってありうる。

ここでの「無能の主人」とは、日本は直接選挙で国の指導者が選ばれるわけではないから、いささか事情が異なるかもしれないが、レーガン元米大統領をそう呼ぶコプチェク起源の用語法だ。

ラカン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純


フロイトは、パラノイア的「投射」の機制をめぐって次のように叙述している。
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

ラカンの心的構造論によれば、ひとには「神経症」「精神病」「倒錯」のみっつの構造のどれかがあり、いかなる人もこのどれかに当てはまる。

現在は境界例や自閉症、アスペルガーなどの症状の出現でいささかの動揺はあるにしろ、”標準版”のラカン派の疾患分類とは、神経症、精神病、倒錯が3大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認によって規定されている。神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

いまはそれらを詳細に書くつもりはないが、ラカン派では、投射Projectionとは、自身のうちにある欲望や思考、感情への防衛であり、それらの思いを立ち退かせて、他の主体に移しかえる心的メカニズムであって、精神病のカテゴリーのひとに属する症状のひとつである。

フロイトを再度引用するならば、
嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(同上 フロイト) 

こうであるならば、議員や国民は、自分自身のなかの「戦前の亡霊」を、首相のなかの「戦前の亡霊」に投射して、彼らのうちの「亡霊」は意識しないままにしているなどとも勘ぐることができる。

投射projection」は、ラカン派的にはパラノイア的イマジネールな症状であるが、フロイト概念を定義しなおしたラカンの厳密化以降も、他の流派では精神病(パラノイア)だけではなく神経症者の症状にもかかわってその概念が使用されているようだ。

他方、「取り込み」、あるいは「摂取」とも訳されるintrojection」が、ラカン派では、神経症のメカニズムとして説明される。投射が想像界、取り込みが象徴界に関連するメカニズムで、前者が想像的同一化(理想自我)、後者が象徴的同一化(自我理想)に関わる。言葉の意味からすれば、一見「投射」と「とりこみ」は、逆転機制かとも思われるが、ラカンはその解釈を拒絶して想像界と象徴界の審級の違いのメカニズムとしている。

Whereas projection is an imaginary mechanism, introjection is a symbolic process (Lacan Ec, 655).

そもそもフロイトには、理想自我と自我理想の区別が不鮮明で、これはラカンのセミネール一巻(「フロイトの技法論」)で、フロイトの『ナルシシズム入門』を読み解くなかでの峻別であり、ジジェク曰くは、《ラカンが、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか》(『斜めから見る』)ということになる。


 たとえば「安倍晋三」が、パラノイア的投射(想像的同一化)の対象ではなく、自我理想(象徴的同一化)として機能しているならば、自民党議員たちの症状は次のようなこととも考えられる。

同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集り(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ここでの後半にあるおたがいの自我で同一視(同一化)し合う個人の集まりが、「理想自我」のメカニズムにかかわる。


想像的同一化(理想自我による同一視)とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化(自我理想による同一視)とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)


もっとも安倍晋三の存在を「自我理想」とするならば、それは萎んだファルスであり、《父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在(無能)であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能としての天皇制》(浅田彰)のなれのはてのいかがわしく矮小化された男根でしかありえないだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩句から引けば、佐藤栄作でさえ《彼は象徴にすらなれやしない》のだ。

とすれば、やはり想像的な投射に近づく(「父」の象徴的機能、「母」の想像的機能という側面から言えばということだが)。せいぜいサンブラン(見せかけ)としての「父」だ。(参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

サンブランは自我の置き換えとして機能する。この想像的な二項関係による疑似論理が横行すれば、《微笑を浮かべたソフトな全体主義》(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)を生むことにもなりかねない。

もともと一神教ではない日本では「父」の象徴的機能が弱く、戦前の全体主義も浅田彰やバラードのいうような母性的なファシズムであったのではないか、という問いが、例えば柄谷行人の次のような主張をも生む。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

いまでも、安倍政権は「日本株式会社」を目指している、などという指摘があるのは衆知だろう。

これらの会社主義や日本株式会社とは創業社長の率いる「会社」とは異なり、次のような権力構造のことである。
事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

すなわち「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理を促す権力なのだ。

いずれにせよ、これらの理由によるものかどうかは実のところ窺いしれないが、佐藤優氏が曰くの《この動きをとどめるのはなかなか難しい》という現象をいまわれわれは目の当たりに見ている。


《特定秘密保護法が参院本会議で自民、公明両与党の賛成多数で可決、成立した。》(12.06.23:23)

もちろん萎びた男根にもかかわらず比較的長期政権が予想される安倍晋三の内閣は、官僚たちが自由に裁量をふるえる願ってもない存在である。政治には疎いわたくしには、いくら「一寸先は闇」の日本の政治でも、病気以外の理由で安倍辞職などということは今のところ想像し難い。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

ーーというわけで、安倍晋三という記号をめぐって雑然と書いてきたが、その「記号」の不気味さに限っていえば、それはまあ杞憂だったら杞憂でよろしい。もし「杞憂」でなければ、かりに安倍晋三退陣があって男根的なファシストまるだしの首長になったほうが、議員や国民にとっては、母性的な投射の対象になり辛く、むしろ不気味さは減るのではないか(「母」ではなく仮にも「父」であれば反発が生まれ議員たちの分裂が起る可能性だって高い)。

実際のところは、ひたすら「きなくささ」を感じる。わたくしは海外住まいで、マスコミのニュースのたぐいにもほとんど接していないから、ピントはずれの印象が多いのかもしれないけど、いくつかの記事を追っていると、どうも「NSCは戦争するかしないかを決めるところ。最近の日本政府はナチスの手口に学んでいるんじゃないかと思います(佐藤 優)」という「におい」に、わたくしの感度のわるい鼻は、収斂してゆく。

国家が「秘密」を重視した時は非常時から準戦時体制への転換点であることは歴史が示している。(岩波講座「日本通史」18卷・近代3)いまや軍産複合体だから、民間企業にまで蛸の足のように「秘密」は伸びていく。この法案とともに「武器輸出3原則」が空洞化する法案が、密かに国会に出されている。極端な例だが、「日本核武装」には、原発産業全体に「特定秘密」は拡大されていくだろう。(西島健男「特定秘密保護法」を読む


《「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理》--いつのまにか戦争になる、なんてことはないのかね、近いうちに。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


…………


亡霊として機能する幻想的投射の「対象a」をめぐっては、ジジェクが「ブラック・ハウス」という小説をめぐって書いている文を付記しておく(『斜めから見る』より)。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。


(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。

…………

※附記

以上の内容とは、いささか文脈が違うが、イデオロギー的幻想(投射)ideological fantasy (projection),と、ラカンの「現実界のかたわれ」little bit of the Realを序す次のジジェクの文を参考にしてこの記事は書かれている。

A statement is attributed to Hitler: “We have to kill the Jew within us.” A. B. Yehoshua has provided an adequate commentary: “This devastating portrayal of the Jew as a kind of amorphous entity that can invade the identity of a non‐Jew without his being able to detect or control it stems from the feeling that Jewish identity is extremely flexible, precisely because it is structured like a sort of atom whose core is surrounded by virtual electrons in a changing orbit.” In this sense, Jews are effectively the objet petit a of the Gentiles: what is “in the Gentiles more than the Gentiles themselves,” not another subject that I encounter in front of me but an alien, a foreigner, within me, what Lacan called the lamella, an amorphous intruder of infinite plasticity, an undead “alien” monster which can never be pinned down to a determinate form. In this sense, Hitler's statement says more than it wants to say: against its intended sense, it confirms that the Gentiles need the anti‐Semitic figure of the “Jew” in order to maintain their identity. It is thus not only that “the Jew is within us”—what Hitler fatefully forgot to add is that he, the anti‐Semite, his identity, is also in the Jew. Here we can again locate the difference between Kantian transcendentalism and Hegel: what they both see is, of course, that the anti‐Semitic figure of the Jew is not to be reified (to put it naïvely, it does not fit “‘real Jews”), but is an ideological fantasy (“projection”), it is “in my eye.” What Hegel adds is that the subject who fantasizes the Jew is itself “in the picture,” that its very existence hinges on the fantasy of the Jew as the “little bit of the Real” which sustains the consistency of its identity: take away the anti‐Semitic fantasy, and the subject whose fantasy it is itself disintegrates. What matters is not the location of the Self in objective reality, the impossible‐real of “what I am objectively,” but how I am located in my own fantasy, how my own fantasy sustains my being as subject.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


以下も同じ『LESS THAN NOTHING』からだが、ここに書かれる側面は、叙述が複雑化するため敢えて省いた。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control. On that account, the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.

※ジジェクはここで標準的な投射の理論の説明のなかで、《the figure of the Jew the disavowed part of himself》としている。disavowedとは「否認された」と訳される語で、通常、この語が使われるときには「倒錯」の症候を表す。他方、「投射」は上に見たように、パラノイア(精神病)の症候を表す。

「否認」という語が使用されたとき、単純にラカン的な「倒錯」として理解するのは慎まねばならない。すくなくともジジェクは、つねにこの語をラカン的な意味で厳密に使っているわけではない。

さらに言えば、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ(ミレール派)、いや「倒錯」の時代へ(メルマン派)などと言われるように、この見解の相違は、ラカン派のなかでも、精神病と倒錯の区別がつきがたいことを示しているのではないか。


最後に、ジジェクは同書で、ラカンの「エクリ」から引用して、次のようにフェティッシュ(倒錯の一症状)の実態をフロイトに反して指摘していることを追記しておこう。

As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.(資料:フェティシズムと対象選択