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2014年2月14日金曜日

「バカジャナイノ?」

《プラグマティズムは、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう》(ジジェク)

――だけではないと祈るよ
でもミクロな政治活動から
「ガン細胞のようにして」
マクロの政治を変える
っていうのはクリシェ気味だな

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫する機しか果たしていない。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000.11.27)

――だけでないことを祈るよ

なんだって?

・これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと(國分功一郎

・「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」(想田和弘)

こんな題名の本が岩波書店から出版されるようになった時代なのだな
いやいや皮肉をいうつもりはない
それぞれなかなかの男前じゃないか

《政治家のみならず官僚も批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。》(柄谷行人)

――などと考えている手合いでもないだろ?

バカジャナイノ?
なんてオレは決していわない

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰

 代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。》(浅田彰)

ーーてわけでもないだろ
お勉強家そうだからなあ
オレみたいにジジェクや柄谷行人を
すこし齧ったバカとは訳が違うハズだ

ああ、……
なぜか奇怪な文章が浮かび上がってきたぜ

《いまこそその脆弱な殻を破って世界へと向けて身を投じなければならぬと、相対的な聡明さは胸をはって宣言する。だが、その宣言が有効なのは、聡明さが相対的におとっている連中に対してだけである。》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。(浅田彰 共同討議「トラウマと解離」2001)

ところでーー
〈あなた〉はどの国のどの時代の〈民主主義〉が好きですか?
と訊かれれば誰もが口ごもらざるをえない
まさか朧なイメージだけで米国の名をあげるひとはいまい
だろ? どこかのスーパーバカのように
「金持のための社会主義国」でることが明らかになったのだから

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

◆二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策

『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)

共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォー ル街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……
……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。(……)

この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』

※「目抜き通り」は、原著をみるとmain streetになっている。Wall street main streetであって、一般大衆の住むストリート、つまり「一般市民」として読もう。


どこにも〈民主主義〉の実現らしきものがないなら
来るべき民主主義〉とでも言って誤魔化さざるをえない


マルクスを「ラディカル化」するデリダの基本的前提は、具体的な経済的・政治的方策がラディカルになればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュやセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場だ)、そうした方策は事実上ラディカルではなくなっていき、ますます倫理-政治的な形而上学の地平に囚われてしまうというものだ。言いかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味しているのは、或る意味で(正確を期せば、実践的な意味で、と言うべきだが)、「ラディカル化」とは正反対のことである。それはすなわち、真にラディカルな政治的方策を断念することなのだ(補足的に言っておくと、ネルソン・マンデラに対する賞賛や、共和主義下のチェコスロヴァキアの反体制哲学者のためのアンガージュマンから、湾岸戦争でのイラク空爆を条件付きで支持したことにいたるまで、デリダによる個々の政治的介入のすべては、左翼穏健派のスタンスと完璧に一致している)。

デリダの政治学のラディカリズムは、来るべき民主主義というメシア的約束とその積極的な実現とのギャップを伴っている。まさしくこのラディカリズムゆえに、メシア的約束は永遠に約束であるにとどまり、一連の具体的な経済的・政治的法則へと転化されえないのだ。決定不可能な<モノ>の深淵と個々の場面での決定との隔たりは埋められない。<他者>に対する負債は返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対する応答は十分ではありえない。こうしたポジションに立つわれわれは、ギャップを無化する双子による誘惑、つまり無節操なプラグマティズムと全体主義による誘惑に抗わねばならない。プラグマティズムは、超越的<他者性>をまったく参照せずに、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう。他方、全体主義は、絶対的<他者性>を特定の歴史的形象と同一視する(<党>は直接的に具現化された歴史的理性である,等々)。ここに、脱構築による一定のひねりを加えられた全体主義の問題規制が浮かび上がる。全体主義は、そのもっとも基本的な姿において、社会生活の全体的支配、社会全体の透明化を目論む政治力であるのみならず、メシア的<他者性>と具体的な政治主体〔エージェント〕との短絡でもあるのだ。したがって、来るべき(à venir)というのは、民主主義に後から付け加えられたたんなる形容ではなく、その最深部にある核であり、民主主義を民主主義たらしめているものなのである。民主主義が来るべきものではなくなり、現実となったーー完全に現実化されたーーかのような様相を呈するやいなや、全体主義が到来する。(ジジェク「メランコリーと行為」)
Does this logic of the Idea as an “unfinished project” not commit us to Derrida’s notion of a gap between the spectral Idea that continues to haunt historical reality and the Idea in its positive form, as a determinate program to be realized? Every determinate form of the Idea, every translation of the Idea into a positive program, betrays the messianic Promise at its spectral core. We are thus back in pseudo-Kantian Levinasian territory, where eternal Truth is conceived as a regulative Idea which is forever “to come,” which never arrives in its full actuality. But is this the only solution? (Slavoj Žižek: Truth, Inconsistency, and the Symptomal Point

「同調圧力」やら「共感の共同体」
「絆」や「寄り添う」……
日本は「民主主義的」でありすぎるんじゃないかい?
などとバカなオレは口もとまで逆説を出したがっているから
要注意だぜ

《ぼくの考えでは、デモクラシーは基本的に「同質性」を確保することが目的だったと思う。》

柄谷行人 岩井克人対談(1990より

柄谷)ぼくは自由主義と民主主義ということをカール・シュミットの『議会主義の地位』を参考にして考えたんです。シュミットは民主主義と自由主義は対立する概念だと言う。民主主義は、基本的に共同体の同質性を目指すもので、異質なものを排除する。個々人はここでは、共同体に属している。そして、民主制においては、決定は無記名投票ではなく、いわば喝采によってなされる、と。つまり、全体主義であろうと、民主主義には矛盾しない。それに対して、自由主義は、同質的でない個々人に立脚している。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。そして、議会制は、じつは自由主義に基づくと言っています。

民主主義と言うと、よくギリシャが例にとられますから、そこから始めてもいいと思うんですが。アテネのデモクラシーというのは、もともとアリストクラシー(貴族制)に対するものです。この民主制は奴隷や外国人をのぞいています。だからと言って、古いと言うことはできない。現在の近代国家でも、外国人に投票権は、ない。したがって、決定権は与えられないんだから。

ぼくの考えでは、デモクラシーは基本的に「同質性」を確保することが目的だったと思う。たとえば、貴族は血縁で外国とつながりやすいしね。ところで、アテネに来ていたソフィストと呼ばれた思想家たちは、いわば自由主義者ですね。ソクラテスは、外国人ではないが、それに近い者として処刑されたわけです。とにかく、同質性が第一です。

このことは、近代のナショナリズムを考える上で重要です。アンダーソンは、ナショナリズムには平等主義的夢想が含まれていると言っています。実際に実現されているか否かに関わらず、ナショナリズムは「想像の共同体」であって、それはまさに民主主義的なのです。ところが、ギリシャのデモクラシーにおいて、最も重要なのは、たんに議会制ではなく、無記名投票を導入したことではないかと思うんです。と言うのは、民主主義では、現にギリシャでそうだったけど、僭主、つまり独裁者が必ず出てしまうからです。それは喝采をもって出てくるわけで、べつにクーデターで出てくるわけじゃないんですね。むしろ、民主主義にはそういう不可避性があると言うべきでしょう。ヒットラーにしても、あの民主主義的なワイマール憲法のなかから出てきた独裁者です。ワイマール憲法四十八条に大統領の非常権限を認める条項があったし、ヒットラー「総統」は合法的に出現したわけです。これを民主的でないというのはおかしい。というより、「民主主義」が何であるかがわかっていない。

アテネの連中が僭主を防ぐために何を考えたかと言うと、投票の匿名性なんですね。無記名投票というのが、自由主義であり、また「言論の自由」というものの本質なんです。ぼくたちは言論の自由というのを表現のほうで考えがちです。しかし、言論の自由というものは、匿名制によってだけ確保されるのです。

菊池寛の『入札』という短編にも書かれているけれど、無記名投票をやり出すと突然疑心暗鬼になりますよね。教授会でも同じですけど(笑)、みんなが発言している時はわかるんですよ。だけど匿名になると、それまで何も言っていなかった人がいわば「表現」しはじめるわけでしょう。これは、なんか、不当な感じがあるじゃないですか。しかし、自由主義とは、真理がこういうものも言わない、言えない人たちの多数決によって決まるという考えに成り立っているのです。

岩井)それは正しく個人主義なんですね。つまり黙っている人が権力を持つ。

柄谷)民主主義はそれを認めない。たとえば、全共闘の集会というのは明らかに民主的なので。拍手喝采で決まる。あんな時に匿名投票なんてやったら、「いったい何だ」ということになりますね。

岩井)カトリックがなぜ告白制度を持っているかと言うと、それはまさにいま言われた匿名性を恐れているわけですね。だからそれをいろんな形で抑圧しようとするわけで、告白制度とは、そのもっとも巧妙な仕掛けであるわけですよね。ソ連だと、喝采してゴルバチョフを選ぶとか、それは同じですね。

柄谷)自由主義の本質といいうのは、まさに匿名性の制度的保証にあると言ってもいいくらいなんです。ソ連にはそれがなかった。しかし、真理が競争による均衡を通して決まるという考えには、何の根拠もない。古典経済学の「見えざる神の手」と同じ形而上学なんですよ。だから、プラトンが言うように、哲学者=王、すなわち共産党が決定すべきだということになる。だからと言って、これが民主的でないということにはならない。自由主義的でないというだけです。しかし、じつは、完全な自由主義も民主主義もないんですね。

岩井)柄谷さんは、自由主義と資本主義を対応させて、民主主義と国会主義あるいは共同体主義と対応させる。……(P116-119『終わりなき世界』)

◆ 柄谷行人「歴史の終焉について」(1990)

自由主義と民主主義は、資本主義の具体的な局面を抜いて語ることはできないと、私はいった。しかし、それをたんに原理として検討するとしても、決して和解しえない対立をはらんでいる。たとえば、自由主義と民主主義は、「真理」にかんする根本的な態度にかんして対立している。民主主義は、真理が存在あるいは神から直接的に来るという考え、あるいは、真理は個々人が議論や競争によって決めるものではなく、すべてを代表する傑出した指導者あるいは個別利害を越えた一般者のみが見いだしうるとみなすものである。民主主義においては、決定は無記名投票によってではなく、いわば喝采によってなされる(たとえば、これは「全共闘」の集会でも同じである。そして、それが反民主主義であるとは誰もいうまい)。

一方、自由主義は、真理が、競争による均衡を通して予定調和的に示されるという考えにもとづいている。つまり、これは本質的な「真理」なるものを形而上学として斥けるとはいえ、真理が均衡を通してあらわれるという、もう一つの形而上学に根ざしている。それは、本質的な価値なるものはなく競争による均衡としての相対的な価格しかない。しかもそこに「見えざる神の手」が働いているという古典経済学的な「自由主義」と結びついている。

自由主義にかんして重要なのは、たんにそれが「表現の自由」を強調することではない。「表現の自由」はむしろ人間的本質に属する。要は、それがいかに制度的に保証されるかということである。その場合、自由主義において不可欠なのは、意見の公開性よりも、匿名性(無記名制)であるといえる。匿名が人を「自由」にする、あるいは「個人」にする。アテネにおいては、それは僭主の出現を避けるために採用された。しかし、これは奇妙なことではないだろうか。口に出してものをいわない(いえない)ような人たちの多数意見が「真理」を決定するとは。実際、ヘラクレイトスからプラトン、アリストテレスにいたるまでのギリシャの哲学者はこのようなデモクラシーに反対していた。

そもそも「真理」は多数決によるのではないと思う者は、暗黙に反「自由主義」的である。たとえば、真に「プロレタリアート」の立場に立ったレーニン主義者は、個々の労働者・農民の意見に反して「一般意志」を代行しなければならない。共産党とはプラトンのいう哲学者=王の一種である。したがって、このような発想はレーニン主義者にかぎらない。どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の案を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚も批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。

もちろん、こうした「真理」論は、いずれも近代の主観性の哲学にもとづくものでしかないと批判することができる。ソクラテスあるいはデカルト以後の「真理」観を批判し、古代ギリシャにおいて「真理」は存在の「隠れ無さ」であると言った、ハイデッガーはつぎのように演説している。


ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。 (ハイデガー「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年  石光泰夫訳)


これは、深遠な形而上学はどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときにのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制〔リプレセンテーション〕)を否定することに導かれる。

したがって、自由・民主主義は西洋の原理であるというなら、それに敵対する原理の方も西洋の原理である。ハイデッガーもシュミットも標的としているのは、英米の「自由主義」である。普通に「民主主義」と呼ばれているのは本来自由主義であり、ナチズム(国家社会主義)こそ真に民主主義的なのだといいたいのだ。しかし、シュミットの鋭い原理的分析にもかかわらず、アングロ・サクソン系の「民主主義」が強いのは、もともとそれが原理的ではないからである。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収 1990)

◆柄谷行人『トランスクリティーク』より

マルクスが、ブルジョワ独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール十八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王政においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際はそうでないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。
 「ブルジョワ独裁」とは、ブルジョワ階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョワ独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それが現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231 
周知のように、レーニンがいうプロレタリア独裁は共産党の独裁に帰結した。その結果、マルクス主義者もついにプロレタリア独裁という概念を放棄してしまった。だが、そのことが結局議会主義に帰着するのだとしたら、不毛というほかはない。プロレタリア独裁という誤解を生みやすいメタファーに固執する必要はないが、ここに重要な問題がふくまれていることを忘れるべきではない。マルクスがいう「プロレタリア独裁」は、いうまでもなく「ブルジョワ独裁」に対応する概念である。その場合、「ブルジョワ独裁」は議会制民主主義のことを意味している。絶対主義的専制を打倒してできた議会制民主主義こそブルジョワ独裁である。であるなら、マルクスがいう「プロレタリア独裁」が、ブルジョワ独裁以前の封建的専制や絶対主義的独裁に似たものに戻ることであるはずがない。ブルジョワ国家は独裁が再現されない仕組みを考えた。三権分立や無記名投票である。しかし、三権分立は事実上有名無実である。それはただ、市民社会と政治的国家の二重化を支える原理でしかない。一方、「プロレタリア独裁」は、独裁どころが、国家権力そのものを廃棄することを目指すものだ。したがって、それは、ブルジョワ国家以上に権力の固定化に対して敏感でなければならない。 
パリ・コンミューンは立法機関であると同時に行政機関であった。その意味で、これは近代国家における市民社会と政治的国家の二重性の揚棄である。しかし、そのように公人と私人の二重性が揚棄された「社会的国家」においても、立法・行政・司法という区分は残る。参加的民主主義を持続的に保証するためには、モンテスキューのいう三権分立とは違った意味で、これらの分立に注意しなければならない。たとえば、コンミューンもまた立法部門・行政的部門・司法部門をもっている。いいかえれば、代表制と官僚をもつのだ。コンミューンでは、すべての司法官と行政官僚を選挙するとともに解任できる制度があった。だが、それによって官僚制化、つまり立法・行政・司法の権力の固定化を阻むことができるだろうか。マックス・ウェーバーがいったように、官僚制は、分業の発展した社会においては不可避的であり、また不可欠である。それをただちに否定することはできない。そして、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲が存在することを認めなければならない。ただ、それらが現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである。

この点で、われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。

一方、アテネ民主主義システムから多くを学んだにもかかわらず、プルードンはブルジョア的普通選挙を批判したとき、それをくじ引き同然だといって非難している。しかし、くじ引きは選挙を否定するものではなく、むしろ選挙を真に活かすために不可欠である。代表者選挙においては、代表するものと代表されるものが固定的に分離されてしまうが、コンミューンにおける選挙も結局はそうならざるをえないだろう。決まっておなじ人が選ばれることになり、また内部的な派閥が生み出されることになる。とはいえ、全部をくじ引きで決めることは無意味であり、結局、それ自体が否定されてしまう結果になるだろう。たとえば、アテネでも、軍人はくじ引き制にもとづいていない。ただ、将軍を毎日交替させることで、権力の固定化を阻止したのである。今日、くじ引きが採用されるのは、陪審員や、誰がやってもよく、そして誰もがやりたがらないようなポストに関してのみである。つまり、くじ引きは、能力が等しいか、あるいは能力が問われない時にのみ採用される。しかし、くじ引きを採用すべき理由はその逆である。それはむしろ選挙を腐敗させないため、また、相対的に優れた代表者を選ぶためである。

 それゆえ、われわれにとって望ましいのは、たとえば、無記名(連記)投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶというようなやり方である。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。その結果、最善でないにせよ、相対的に優れた代表者が選出されることになる。くじに通った者は自らの能力を誇示することができず、くじに落ちた者も代表者への協力を拒む理由がない。このような政治的技術は、「すべての権力は堕落する」などという陳腐な省察とはちがって、実際に効力がある。このように用いられるとき、くじ引きは、長期的に見て、権力を固定させることなく、優秀な経営者・指導者を選ぶ方法である。くりかえすが、われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。労働者の自主管理や生産協同組合においても、この問題は消滅しない。特に資本制企業と競争しなければならないとき、それらは大なり小なり資本制企業の組織原理を採用するか、さもなければ消滅するかを迫られる。であれば、最初から、ハイアラーキー(位階)が存在することを前提しておくべきである。ただ、それが各人の合意によって成立し権力の固定化が生じないように、選挙とくじ引きを導入すればよい。

 ところで、国家と資本に対抗する運動は、それ自身において、権力の集中する場に偶然性を導入するというシステムを導入していなければならない。そうでなければ、こうした運動は、それが対抗するものと似たようなものになるほかはない。他方、集権主義的なピラミッド型組織を否定するところから始まった、様々な市民運動は、逆に、離散的で断片的なままの離合集団に留まっている。そして、結局、議会政党の票田となるだけである。そうであるかぎり、それらが資本と国家に対して、有効な対抗をなしうるとは思えない。しかるに、もしこのような政治的技術を導入すれば、中心化をすこしも恐れる必要はないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-286)

 ところでカラタニさん
But is this really enough to undermine the “fetishism of power”?

This Kantian limitation of democracy is strictly homologous to the limitation of Kojin Karatani’s Kantian “transcendental” solution to the antinomy of money (we need an X which will be money and will not be money). When Karatani reapplies this solution to power (we need some centralized power, but not fetishized into a substance which is “in itself” Power)—and when he explicitly evokes the structural homology with Duchamp (the object becomes a work of art not because of its inherent properties, but simply by occupying a certain place in the structure)—does this not all exactly fit Lefort’s theorization of democracy as a political order in which the place of power is originally empty and is only temporarily occupied by the elected representatives? Along these lines, even Karatani’s apparently eccentric suggestion of combining elections with selection by lot is more traditional than it may appear (he himself mentions Ancient Greece)—paradoxically, it fulfills the same function as does Hegel’s theory of monarchy.

Karatani here takes a heroic risk in proposing a crazy‐sounding definition of the difference between the dictatorship of the bourgeoisie and the dictatorship of the proletariat: “If universal suffrage by secret ballot, namely, parliamentary democracy, is the dictatorship of the bourgeoisie, the introduction of lottery should be deemed the dictatorship of the proletariat.” In this way, “the center exists and does not exist at the same time”: it exists as an empty place, a transcendental X, and it does not exist as a substantial positive entity. But is this really enough to undermine the “fetishism of power”?

When an ordinary individual is allowed temporarily to occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the usual logic of fetishistic disavowal: “I know very well that this is an ordinary person like me, but nonetheless … (while in power, he becomes the instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!”
Does this not fit the general matrix of Kant’s solutions, where metaphysical propositions (God, immortality, etc.) are asserted, “under erasure,” as postulates? Consequently, would not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the place of power? This is why, in his writings of 1917, Lenin reserves his most acerbic irony for those who engage in an endless search for some kind of “guarantee” for the revolution. This guarantee takes two main forms, in terms of either the reified notion of social Necessity (the revolution must not be risked too early; one has to wait for the right moment, when the situation is “mature” with regard to the laws of historical development) or the idea of normative (“democratic”) legitimacy (“the majority of the population is not on our side, so the revolution would not really be democratic”)—as if, before the revolutionary agent risks the seizure of state power, it should seek permission from some figure of the big Other (organize a referendum to ascertain whether the majority supports the revolution). Not surprisingly, a very Christian point.(Zizek”LESS THAN NOTHING”)


※補遺:民主主義の中の居心地悪さ(ジジェク)



2014年2月10日月曜日

「えらくなろう」という不滅の幼児願望

蓮實重彦の伝説の言葉(真偽は確かではない)「私を偉そうと言う人がいますが、偉そうなのではなく、偉いのです」における「偉い」というのは、承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことをやるということです。だから若者には「偉そうなのではなく偉い」態度で行け、と言いたい。(千葉雅也ツイート)

この「偉い」は、『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』における渡部直巳との対談のなかでの発言だったはず。

ところで浅田彰が最近の対談で《不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか》と発言しているようだ(インターネット上から拾ったので前後関係は不詳)。

この「偉そう」は、蓮實重彦の発言の文脈では、「偉そう」ではなく、「偉くしていればいいじゃないですか」としたほうがいいだろう。


 ◆SPA抜粋 2/11・18合併号 
浅田彰)……東浩紀さんなんてとても優秀な人だと思うし、柄谷行人さんと僕で編集していた『批評空間』でデリダ論(『存在論的,郵便的』)を書いてくれたことはありがたいですよ。あれは単行本で一万部くらい出て、15年たった今でも本屋で売れている。それが最大の承認でしょ?
ところが、例えばアニメについてツイートしたら、すぐにレスポンスが来る。それが承認だと思っちゃったんじゃないか-そんなの、翌日にはなかったも同然なのに。

そういう即時的レスポンスを求めて、彼は情報社会論とおたく文化論に行った。彼の時代認識に基づく決断だったから反対はしないけど、 何十年も読まれる本を書ける人なのにもったいない気がするんだな。やっぱり、反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。

ツイッターなんかでの評価を気にしすぎなんですよ。千葉さんのドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』について、僕は「不良の思想であるところが面白い」と褒めたけれど、不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか。もっとも、東浩紀がオタクをデータベース的動物として評価したのに対し、単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。

NHKの討論番組に若手論客と呼ばれう人たちがよく出てくるじゃないですか。2、3分しか見ないけれど、情報の整理も討論もなかなか上手だと思いますよ。
しかし、あれではほとんど学級会でしょう。「良心的」な「優等生」が、ネットも駆使してマイノリティの声を取り入れましょう、民主主義をヴァージョン・アップしましょう、と。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

福田和也)「それ、本気で言ってんの?」という。最初はジョークかと思ってたけれど。

浅田彰)代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。

浅田彰)京大の人文研にいる、東浩紀の同級生でディドロ研究者の王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。
じゃあ何を言うのかと思えば、住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。

ともかく國分のような「似非優等生」よりは千葉のような「不良」のほうが面白い。
ただ、自己批判しておくと、僕はガキのアナーキーをあえて肯定する立場だったんだけど、その前提をもっと強調しておくべきだったかもしれない。
ドゥルーズ&ガタリの概念に「マイナーになる」-女性に、子供に、動物に、知覚不能になる、というのがありますね。
しかし、子供に「なる」のと、子供で「ある」ことに居直るのは、全然別のことです。
大江健三郎がアドルノやサイードを踏まえて言う「晩年様式」じゃないけれど、老人が子供に「なる」ときに新鮮な驚きを感じたりするのであって、子供で「ある」ことに居直ったままでは子供に「なる」ことはできない。
というわけで、死にそびれたことでもあり、ここは潔く転向して・・・。福田さんは昔から一貫して、「成熟が必要だ」と。
僕は僕で、子供に「なる」ためにこそ成熟が必要である、という当たり前のことを言っておかざるをえない、と。

この発言の一部は浅田彰ならそう語るだろうと以前に推測したもので、浅田彰と蓮實重彦の対談「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰中央公論20101 月号、)を引用したことがある(ふたりの対談内容はくどくなるので再掲しない)。

そこでは己れの拙い印象を次のように書き始めている。

《ドゥルーズ研究者の評判の書を、序章、一章、二章と読みつつ、ツイッター上やらブログで感想を呟き、それを著者がリツイートしたり、感謝の念を表明する。

こんな現象がこの一週間ほど頻発している。

ダイジョウブカネ
クルッテルゼ
ハシタナイ連中ダ

…………》

もっとも浅田彰は福田和也氏の対談では千葉雅也氏のヤンキー論ベースの切り口にも言及しており、その立場を顧慮して、《単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。》と語っているが、このあたりのことについてはわたくしは全く不案内である。

いずれにせよ、冒頭の千葉雅也氏のツイートは、昨年末来、蓮實重彦との対談や、浅田彰の批評(吟味)を織り込んでの《承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことを》やりましょうという若者へ向けてのメッセージのはずだ。

すなわち千葉氏からみても《承認欲求のみみっちい競争》ばかりが目につくということだろう。

実際ツイッターを眺めていると、人文学系の研究者だけでなくたとえば「芸術家」の範疇に括られる仕事をしている人たちでも、もっと「偉そう」、いや「偉く」していたらいいのに、と感じることがある。そんなに媚をふりまいて気に入られようとしなくてもいいのではないかと。

だが彼らも生活がかかっているはずであり、人文学や文芸への公衆の関心が凋落しつつあるのが事実とするならば《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消》(ヴァレリーーー「承認欲望と承認欲動」より)せざるをえない状況にあるのかもしれない。

だがそうして自らの作品や書き物の宣伝活動をすると失われるものがある。ジョン・エルスターが「本質的な副産物であるような状態」といったものの「魅惑」、すなわち〈対象a〉としてのアウラが。もちろんいまどきアウラなどというのは時代錯誤もはなはだしいという立場があるのを知らないわけではない。

もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態をめざして行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然」に生まれるのを望むことである。たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち、われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないXである。(ジジェク『斜めから見る』p148

蓮實重彦が《読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ》と比較的最近のエッセイ(『随想』)で書くのも、ある部分ではそれにかかわるのではないか。

もっとも若いひとたちからは、次のような反発はあるだろう、蓮實重彦や浅田彰はすでにある時期に大いに「承認」された人物であり、承認欲求うんぬんを批判するのはもうすでに承認に食傷しているからにすぎない、と。

たとえば《隠れた人生が最高の人生である》(デカルト)やら《自己でありたくない欲望》(ヴァレリー)としたひとたちでさえ、実際にそうであったかは疑わしい。

デカルトがスウェーデン女王クリスティーナに招聘された(女王のために講義をしてわずか1ヶ月で体調を崩し、肺炎で亡くなった)のは、ただ生活のためだけだったとは思われない。

またしてもヴァレリーであるが、「あなたはなぜ書くか」というアンケートに「弱さから」と答えていたのは、そのとおりだと思う。執筆者とは自己不確実に悩み、批評に傷つき、ひそかに称賛によって傷口に包帯を当てている存在だと仮定して、編集者は間違わないだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

ほかにも職業としての詩人の立場を固持した谷川俊太郎、すなわち大学の先生とかの定職をもたなかった谷川は、公衆に承認される試みをときにはせざるをえなかったとすることができるだろう。《まあちょっと世間にサービスしすぎじゃないのかな、こういうのは歌謡曲の作詞家に任しておけば良いんじゃないのかな、なんて僕などはつい意地悪く考えてしまうこともある》(松浦寿輝 現代詩――その自由とエロス


ところでフロイトは『夢判断』で、己れの夢を分析して《不滅の幼児願望たる「えらくなろう」》と書いている。

……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであった。R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)

「えらくなろう」などという「はしたない」幼児願望はすでに拭い去ったよ、と「成熟」したつもりのひとたちもいるだろう。だがそれはそんなに簡単に払拭できるものではないのではないだろうか。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。(古井由吉――幼少の砌の髑髏

「えらくなろう」という言い方に抵抗があるのならば、「愛されたい」でもよい。それは「母」の愛を独占したい、という願いだ。

人間の幼時がながいあいだもちつづける無力さと依存性……。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行なわれ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない、愛されたいという要求を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』 フロイト著作集 旧訳)

これは無力な乳児として生れたわれわれ人間の原トラウマのようなものであり、誰もが否定するわけにはいかず、いくら後年「成熟」して拭い去ったつもりでも、ふとしたはずみにこの心的外傷は露顕する。

愛されたい欲望、それは、愛する対象objet aimantがそれとして捉えられる、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ、隷属させられる欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点son bienのため愛されることにはほとんど満足しません。これはよく知られています。彼の希求は、主体が個別性への完全なsubversionに行くほど愛されること、この個別性がもちうる最も不透明で最もimpensableなものにsubversionされることです。人はすべてが愛されたいのです。On veut être aimé pour tout.彼の自我のためだけではありません。デカル卜はこう言います。彼の髪の色、奇癖、弱さ、すべてのために愛されたいのです。(ラカン セミネール一巻『フロイトの技法論』)

巷間に「承認欲求」といわれるものの起源のひとつはこのフロイトやラカンの指摘にあるはずだ。

…………

ところでもう一度浅田彰のSPAの対談の発言に戻れば、「哲学者」として、もう一人の人気者國分功一郎に対し、「似非優等生」「あれではほとんど学級会でしょう」などとしている。

國分功一郎氏はキルケゴールのシンポジウム開催をめぐって、次のようにツイッターで発言している。

研究者に限らないかもしれないが、世の中には「…しないと…できない」という発想が多すぎる。僕は「…すれば…できる」という発想を多くの人に持ってもらいたい。どこぞの組織が後ろ盾にならなくても、こんな素晴らしいシンポが開けるし、それを出版もできるんだ。

これは通俗道徳としては「正しい」のだろうし、「啓蒙」哲学者、モラリストの言葉としては肯うのを躊躇うつもりはない(たとえばアランならそんなことを言いそうだ)。大学教師の言葉としてもふさわしいのだろう。また國分功一郎氏は若き仲間たちの「アニキ」分として振舞っており「オトウト」分たちには頼もしい存在なのだろう。もっともこうやって育てられた「弟」たちは恩義を感じて、後年互いの「批判」(吟味)がしにくくなるのではないかと邪推しないでもないが。

かれらのうちの若干の者は意志をもっている。しかし大多数の者は、ただ他人の意志によって動かされるだけである。かれらのうち、まがいものでないものも若干はいる。しかし大多数はへたな俳優だ。

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。
(……)

かれらのもとでわたしが最悪の瞞着と見なしたことはこれだ。それは命令する者も、仕える者の徳の面をかぶることである (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「卑小化する徳」手塚富雄訳)


ところで浅田彰のいう「哲学者」、すなわち《哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試み》の存在であるならば、國分功一郎氏の発言はあまりにも「哲学者」から遠く離れている、あるいは高校学園祭メンタリティのように感じられないでもないのだ。もともとそういう資質なのか、あるいはなにか深謀遠慮があって「俳優」をやっているのかはわたくしには窺知できないが。

もっとも、《いまは当たり前のことを当たり前にいわなきゃいけないんだ》、と中上健次は死ぬ一年前(1991)に語っており、学級会や学園祭メンタリティーを敢えて引き受けて、若者を鼓舞するそれなりに影響力のある人物は、現代ならいっそう不可欠であるには違いない。


ここで、ニーチェの『ツァラトゥストラ』第二部の「対人的知恵」の、「虚栄的な人間」と「誇りの高い者」を、冒頭に掲げた千葉雅也氏のツイート「偉そうなひと」と「偉いひと」として読んでみよう。《虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だ》とニーチェが書いているのは、もちろんジョークであり、虚栄的な人間の振舞いは、見世物としては面白いということだ。

わたしの第一の対人的知恵は、人間たちがわたしを欺くのにまかせて、詐欺漢を警戒せずにいるということである。(……)

さらに、わたしの第二の対人的知恵は、虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だということである。

傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではなかろうか。それとは反対に、誇りが傷つけられた場合には、おそらく誇りよりももっとよいものが生まれるであろう。

人生がおもしろい見ものであるためには、人生の劇がよく演じられねばならぬ。しかしそのためにはよい俳優が必要である。

わたしは、虚栄的な者がみなよい俳優であることを発見した。かれらは人々がかれらを喜んで見物することを望んで演技するーーかれらの全精神はこの意志と結んでいる。

かれらは舞台にあがり、自分の工夫した姿態を演ずる。かれらのほど近くにいて、人生劇を見物することを、わたしは好む。――それは憂鬱を癒してくれる。

そういうわけで、わたしは虚栄的な人間たちを大目に見る。かれらはわたしの憂鬱の医者であり、わたしを一つの演劇に結びつけるように、人間というものに結びつけるのである。

それにまた、だれが虚栄的な人間の謙遜の深さを測りつくすことができよう。わたしはかれの謙遜ゆえに、かれに好意をもち、かれをあわれむ。

虚栄的な人間は、おのれに寄せる自信を、君たちの手からもらおうとする。かれは君たちの視線を食料にしている。賞賛を君たちの手からもらい、かぶりついてそれを食う。

この虚栄的な人間は、君たちがかれを褒めて耳をくすぐる嘘をつけば、嘘でもそれを信ずる。というのは、心の奥底でかれは、「自分はいったい何者だろう」と嘆いているからだ。

もっともニーチェがこう書くのは、彼がひどく己れの虚栄心に悩んだせいではなかったか、とすこしは疑ったほうがいいだろう。

ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和  神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』からの孫引き)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

最後にクンデラの『不滅』から、おそらくほとんど多くのひとがやっている自分のイメージづくりの指摘を掲げておこう。果たしてどれほどの数のひとがこの機制から免れているだろう。

《自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている》(クンデラ『不滅』P328)
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(『不滅』P194ーー自己模倣と自己破壊

浅田彰が《反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。》と発言するときの《演技でもいいから》とは、ほとんど演技でしかありえないけれど、というふうに読んでみていいだろう。