このブログを検索

ラベル 辺見庸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 辺見庸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年9月26日金曜日

「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」

昨日からツイッターで、在特会とカウンターの
「どっちもどっち」論が賑わっているな
日本の政治に無知の身で「反応的」に書くのは、
マズイに決まってんだが
たまにはやってみたくなるものだ。
ただしよい子はやらないように、と忠告しておくよ

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

@TomoMachi: だからさ「安倍死ね」とか言っちゃ在特会と同じだってば。大多数の人の支持は得られないってば。政権を本気で変えたいなら大多数の支持を得なきゃならないでしょ。それを考えない運動なら、本気じゃない。ただのオナニーだよ。@bcxxx.

「大多数の人」ってなんだ?
まずは「何もしない人」だな

@TomoMachi「何もしない人」を批判するのではなく、そういう大多数の人々の支持を得ないと社会は変えられませんよ。 RT @royterek: 「そういうやり方では人は増えないよ」とだけ言って自分では何もしない人たちについては偽善的なものしか感じません。

嫌韓・嫌中本が売れているらしいが
それを購入する連中がマジョリティかどうかは断言しないでおこう。
だがたとえば丸善や三省堂のていたらくを
見て見ぬふりするのがマジョリティには相違ない。
嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」だって?

ところで教師や研究者はマジョリティだろうか

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

学者やケンキューシャ諸君も「大多数の人」の仲間だろうよ


フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』私訳)

フロイトだってこうだからな
「学者」という人種はこんなものさ

《学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。》(ニーチェ『悦ばしき知』)

・排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイートを「翻訳」したもの→元ツイート

で、このような「 大多数の人」の支持を得るというのは、
「カウンター運動者」の振舞いを見ているかぎりはすこぶる困難さ

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(野間易通語録

というわけで、次のような連中がうじゃじゃ這い出てくる。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

さて冒頭の町山智浩氏のツイートに戻れば
マジョリティの支持を得ないと「政権」は変わらないだって?
ご尤も、なんという「正論」!


オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。



「安倍死ね」がダメだったらこんなのはどうだろう?

@sosodesumus: 安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!今日は災厄の日だ!!! 馬鹿とキチガイによる、ばかのための、のうたりんの政治。こんな責任を誰が分かち合うのか。(鈴木創士)

これも町山氏にはダメかね?

白状しろよ。
いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。
安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。
田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。(辺見庸

あるいは「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)なんてのはどうだい?

さて言わせてもらえば、問題は 「マジョリティ」の支持を得ることではないのだよ

@royterek .@TomoMachi あくまでデモへの参加という点ではという意味です。3・11以降の社会的抗議の高まりの中で、穏当な表現のデモはことごとく「ただのお祭り騒ぎ」などと揶揄されてきました。少なくとも直接動員という点では、ストレートな抗議の方が好まれることは官邸前抗議以来の常識です。

 湿った瞳を交わし合い頷き合って「絆」やら「寄り添う」とかいってる
共感の共同体の連中がマジョリティなんだぜ

真の敵は在特会でもネオナチの連中でもなく、
「共感の共同体」に憩い切っている連中、
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)
をもった「大多数の人」なんじゃないかい? 
あのマジョリティの大半はひそかなレイシストだったらどうだろう
もっとも、かつての岩井克人のように
ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ
とまでは言わないでおくが。

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」の歯車がスムーズに動いているぜ
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが。

数十年前、ある婦人が、ブルックリンの大きなアパートメントの中庭でゆっくりと打たれて嬲り殺しになった。窓から何が起こっているのかをはっきりと見た七十人以上の目撃者がいたのだが、ひとりも警察を呼ばなかった。どうしてそうしなかったのか? のちの取調べでの大方の言い訳は、どの目撃者もだれか他の人がすでに報告しているだろうと思い込んでいたというものだ。この事実は、道徳的な臆病とかエゴイスティックな無関心のたんなる言い訳として、道徳的に払いのけるわけにはいかない。ここでわれわれの直面していることもまた、大文字の他者の機能である。今度は、ラカンの「知っていると想定された主体」ではなく、「警察を呼ぶと想定された主体」とでも呼ぶべきものである。(私意訳)

Some decades ago, a woman was slowly beaten to death in the courtyard of a big apartment block in Brooklyn; of the more than seventy witnesses who clearly saw what was going on from their windows, not one called the police. Why not? As the later investigation established, the most prevalent excuse by far was that each witness thought someone else would surely have already reported it. This fact should not be dismissed moralistically as a mere excuse for moral cowardice and egotistic indifference: what we encounter here is also a function of the big Other—this time not as Lacan’s “subject supposed to know,” but as what one might call “the subject supposed to call the police.”(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)

※ 「知っていると想定された主体」については、<ラカン派の「転移」のいろいろ>を参照。


「嬲り殺し」の高みの見物と似たようなもんじゃないのか、
たとえば「在特会」やら「ネオナチ」の動きをほうっておくのは。

湿った瞳を交わし合うのみで、
誰かがネオナチをとめてくれると想定しているだけの
去勢された子羊たちが「マジョリティ」ではないか

それともこっち系かね
ネオナチや在特会は「ほんとうの問題」を提起している
とひそかに思っている類だってマジョリティかもな

彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006

共感の共同体に憩っている手合いってのが、
田母神を「ほんとうの問題」を提起しているなどと言い出す
その境界線を跨ぐまでに半歩ほどしかないかもな、
いやもう越えているのかい?

「具体的に憲法を取り戻す。国軍を創設する。歴史を取り戻す。つまり東京裁判史観から脱却する。教育を再建する。このような今、国民が熱望している緊急課題、そしてもちろん領土を守る。拉致された国民を救い出す。これを具体的に実行できる国家体制をつくるということは、国民の総意なくしてはできない。その先頭に田母神俊雄閣下になっていただくということだ」(田母神氏「タブーない政治を」

いずれにせよ、正義の味方くんやら正論くんたちよ
ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?
ってことだよ、とくに町山智浩やら彼のツイートを大量RTしている手合いというのは。

オレが役に立っているなどと自惚れるつもりはないがね
すくなくともヘイトスピーチやネオナチへの「カウンター」運動者を
微力ながらサポートしたい心持はあるな
そしてそれに反する言葉には反吐をはきかけたいね

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)


あるいは次のようなことをことあるごとにつぶやく手合いがあまたいるんだが
(貴君らふたりにはなんの怨みもない、サンプルとして使わせてもらうだけだからな)

@ueyamakzk「意図がなくても差別だ」というのは、 まったく同じことが、左翼・リベラルについて言えます。意図として「差別に反対している」ことは、その人の言動が差別に反対していることを保証しません。

(以上の主張は、tweetやブログで何度かくり返していますが、折にふれて提示するつもりです。主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています。)
@unorthodox_TW: 私が危惧するのはやはり、他の差別者が「ヘイトスピーチ」のみを殊更に非難してみせて自分の差別性の隠れ蓑にすることであり、差別の問題を語るにあたってそれはゼロどころかマイナスの影響しか及ぼさない、ということです。 @dattarakinchan

ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」
ってわけでもないだろう、お二人さん
そろそろ役に立ったらどうだい?

それともただの「善良」なひとなのかい?

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


《@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。》(「議論しないこと」と「ほっとく」能力


繰り返せば、いま問われるべきは、
「大多数の人の支持を得」ることではないのさ
たとえばマスコミの記者だって、
「安倍のケツを、ペロペロと舐めてる」手合いがマジョリティなんだから


「行動「であり「態度」ーー、それが「大多数の人」の思考の牢獄の座標軸を
わずかでも揺り動かす可能性をもつ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

真の敵はこのソフトな閉塞の奈落の底へと吸引する
「共感の共同体」の不可視の牢獄なのでではないか。

カウンターの動きにおける「おみこしの熱狂気質」の傾斜に十分に心を配りつつ
ムラ社会の無責任性、ヒットラーが羨望したといわれる会社主義corporatism
すなわちいつのまにかそうなる「なあなあ主義」に抵抗しなくちゃな

《その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。》(中井久夫

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

《根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。》(同ジジェクーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」


根源的悪とは、パトローギッシュな理由から、「安倍死ね」という罵倒を、社会的規範に反するとして批判することだ、と言っておこう。



…………

※追記:ははあ、町山氏だけでなく「リベラル」なおっちゃんがぞくぞく湧いている。


◆小田嶋隆氏と野間易通氏(2014.9.26 4.30PM前後のツイート)

@tako_ashi: 「行動もしてないヤツが文句言うなよ」てなことを言って、行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。永遠に「行動する勇気を持った少数者であるオレ」であり続けたいということなのか?
@kdxn: 「反ヘイト程度のことでいちいち誰かの運動に "加わ" らずに自分でやる人が増える事態」ですかね。客商売じゃないので。RT @tako_ashi: 行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。

@kdxn: こういうこと言う人って必ず最初の段階で大きな間違いをおかしています。RT @tako_ashi: 行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化 まあ、一本道ですよ。

@kdxn: その「大きな間違い」とは、「行動しないマジョリティーを軽蔑」の部分で、ここは正しくは「行動しないでトンチンカンな論評ばかりやりたがるマジョリティーを軽蔑」です。単に行動しないだけの人は単に誘われたりするだけです。@tako_ashi

@kdxn: さらにもうひとつの大きな間違いは「主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除」ってところで、そもそも排除する主体も枠組みもないのに、何から排除されるというのか。あなたたちは単に反批判されているにすぎない。@tako_ashi

@kdxn: 同じ組織の「メンバー」でもないアカの他人に単にネット上で反批判された程度のことで「セクト化→カルト化→テロ化」とか陳腐極まりないこと書くのやめてほしいです。もう飽きた。それとも「メンバー」にならないと何もできないの? @tako_ashi

ーーさあ、貴殿たちも、よーく考えてみよう 、
どちらがわれわれの社会の「悪」なのか

町山氏も小田嶋氏も相対的にいえばマジョリティに好まれている書き手なのだろう。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

ーーこんな書き手というべきかどうかを判断するほどには、わたくしは彼らのことを知らないが。


※参照:寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか



2014年9月21日日曜日

若い女の米をとぐ濡れた手




外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終ったそうである。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収)

…………




午前一時。皆、寝静まりました。カフェー帰りの客でも乗せているのでしょうか、たまさか窓の外から、シクロのペダルをこぐ音が、遠慮がちにカシャリカシャリと聞こえてくるほかは、このホテル・トンニャット全体が、まるで深海の底に沈んだみたいに、しじまと湿気とに支配されています。(辺見庸『ハノイ挽歌』)

今は街中は交通事情のためシクロは多くの通りで出入り禁止になってしまった。




こういった景色は、今では中心部から外れた場所でしか見られない。


ところで辺見庸の文章はウェブ上から拾って手元にあるわけではないのだが、妙に印象に残る文章だと思ったら、「シクロ」、「深海」、「沈んだ」、「しじま」、「湿気」、「支配」と頭韻が踏んであるのだな。その前にある「寝静まり」の、シ音さえ響き合う。

「カフェー帰り」、「客」、「遠慮がちにカシャリカシャリ」も「カ」音のも、これはなんというのか、はて押韻だったか? まだほかにも「カ」音があるな

意図的かどうかは知れないが、こういった文章書かなくちゃな。


…………

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に

ーーー『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之訳より





汽車が速度をはやめだしたあいだも私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかったであろう。すくなくとも、そうした新しい人生につながっていると感じる甘美な気持をつづけてもつには、毎朝ここへきてこの田舎娘からミルク・コーヒーを買うことができるように、この小さな駅のすぐ近くに住めばよかったであろう。しかし、ああ! 私がこれから次第に早くそのほうにはこばれてゆくべつの生活には、彼女はつねに不在なのだ。かならずいつかまたこのおなじ汽車に乗り、このおなじ駅にとまれるようにしよう、そうしたプランを立てないではとても私はあきらめてこれからの生活を受けいれる気にはなれなかった。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)


1995年の阪神大震災とオウムの年、日本の生活から逃げるようにした三十代なかばの鬱屈した男は、インドシナのいくつかの土地をたいした目的もなく彷徨い、とりあえずの短い旅だけではなく、ある国に二ヶ月ほど住んでみることにした。






狭い路地に隔てられた向かいのアパートメントで色黒だが可憐な若い家政婦が部屋を掃除したりベランダに出て洗濯物を干したりしている。朝、こちら側のアパート、六階建ての三階にある殺風景な部屋のベランダに下着を干したりしていて、何度かその姿に目をやっていると、少女はそれに気づき互いに挨拶するようになった、覚えたての当地の言葉で、「おはよう、いい天気だね!」と。何日かすると、彼女は仕事が終ると近くの牛鍋家で給仕をしていること身ぶり手ぶりを交えて告げた。






それはプルーストのミルクコーヒー売りの田舎娘の話のようでもあり、あるいは大江健三郎の『懐かしい年の手紙』の次の一節のようでもあった。

《インスルヘンテス大通りのなにやら古風なざわめきが、こちらは今日風な車のクラクションともども階下のガレージから聞こえてくる殺風景なアパートで、僕はあきることがなかった。窓から見おろす妙に奥行きの深い建物の屋上には、いちめんに張りわたしたロープに毎日大量の洗濯物が干されていた。ひとりよく働く洗濯婦は、日中の労働が終ると、建物脇の階段の奥から運び出す大型の七輪に釜を載せて、売り物のタコスを焼きはじめる、そうした眺めをあかず見おろしながら……》。

きみが手紙に書いて来たドイツ系の日本研究者のさ、牛に踏み荒らされた泥濘の裏通りに日本風の風呂のあるコンクリートの家を建てて、混血〔メステイソ〕の若妻と暮らしているという暮し向きにね、スルリと入って行きそうな気もするんだ。/きみがひとりで経験しているメキシコ・シティーの長い夕暮の時間がね、きみにとって東京の家族のことはすこしも思わず、ただゆったりした時間の流れにひたっていることのある、そうした奇態なものだと、きみのいうその表現には妙な実感がある。Kちゃんよ、自分もまさに奇態なものをそこにかぎとるふうなんだが…… 

もっとも、牛鍋屋の娘ばかりではない、当時この土地は平均月収が30ドルほどであり、盛り場の若い女たちは、金ばなれのよさそうな異国の男たちにとても愛想がよかった(ただし目抜き通りの酒場のいくつかは米軍駐留時の酒池肉林に練磨された伝統を持っており、油断すると容赦なかった)。女たちの多くはまさに「泥濘の裏通り」に住んでおり、女の運転するバイクのバックシートやら、シクロに二人掛けで、その家を訪れると、彼女の父母やら兄弟、あるいは祖父母だかにまで歓待される。あれでほとんど危ない目に遭わなかったのは幸運だったのか……、女だと思ったまま部屋についてから男だと気がついたこともあった。

若い女の故郷、メコンデルタにある町にも誘われて何度か訪れた。




夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。(デュラス:『愛人(ラマン)』)





空に七つの星が昇ったとき 私はこの草に
座りつづける カムランガの花の赤さの雲が 死んだモニア鳥(どり)のように
ガンジスの河波に沈んでいった-やってきたのは静かな慎ましい
ベンガルの青い夕暮れ-美しい髪の娘が空にあらわれたかのよう、
私の目のうえに 私の口のうえに 彼女の髪は漂う、
地上のどんな道もこの娘を見たことがない-見たことはない これほど
豊かな髪がヒジョル、カンタル、ジャームの樹々にたえまなく口づけをふらすのを
知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に

地上のどんな道でも、やわらかな稲の香り-藻草の匂い
家鴨(あひる)の羽、葦、池の水、淡水魚たちの
微かな匂い、若い女の米をとぐ濡れた手-冷たいその手
若者の足に踏まれた草むら-たくさんの赤い菩提樹の実の
痛みにふるえる匂いの疲れた沈黙-これらのなかにこそベンガルの生命(いのち)を
空に七つの星が昇ったとき 私はゆたかに感じる。(同『美わしのベンガル』)





「私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかった」のであり「ただゆったりした時間の流れにひたっていることのある、そうした奇態な」感覚を捨て去るわけにはいかなかった。

奇態な両義性ということについていえば、メキシコの広大な空のもと微光が瀰漫しているところへ、しだいに赤っぽい粉のような気配がただよいはじめて、そしてついに日が昏れるまでの、長い長い時間、僕は決して当の時間の進行のゆったりさ加減に苛立つことはなかった。時間の汐溜りのなかに、プランクトンさながら漂っている気分だったわけだ。ヒカリが障害を持って生まれて以来、自分とかれの情動のどこかが癒着しているようにしてずっと生きて来たのに、ヒカリのこともその弟妹のことも、かれらの母親のこともまた、まったく考えず一日を終えたことに気がついたりしていた。むしろ僕は、四国の森のなかの谷間ですごした子供の時分に、長い時のゆっくりした進行をいささかも苦にせず、底の深い淵にでもひたっているような気持だった時期の、その再現を経験している思いでもあったのである。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

※補遺:デルタの夜



2014年9月9日火曜日

ネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダー

以下、日本の政治音痴の者の単なるメモ(おそらく多くのひとには周知のことなのだろう)。初老の身として、日本の政治家と政治団体の名に親しむためダケのものである。

…………


ここ日本には、山田一成という国家社会主義者がいる。彼は現在のネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダーとして活動している。今回VICEは、山田氏の一日に密着取材。民族の意思同盟と共にアメリカ大使館へ抗議にいく様子も捉えた。


          (「国家社会主義日本労働者党」の山田一成代表)

自由民主党の愛国保守議員というカタガタがいっらっしゃるようだ。

西田昌司議員、稲田朋美議員、高市早苗議員……










昨日も書いたが、野間易通氏のツイッターアカウントを数日前フォローし、彼のツイートに次のような記述があったのだが、タンナル誤記なのだろう、《高那智早苗 稲千田朋美》

ドウモ政治家ノ名ニ疎イ者トシテハ混乱シテイケナイ

混乱シツイデニくんでらノ文ガナゼカウカンデキタ、ハヤバヤトあるつはいまあ気味ナノカモシレナイ

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)


…………

以下はほぼ一年前の記事であり(2013.09.08)、上のメモとは「マッタク」関係がない。たまたま最近行き当たったのでここに附記する。


作家・辺見庸さん ファシズムの国か

 「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」。いらだち混じりの口調。低くゆっくりとした声が耳の奥深くに重たく響く。

 「日中戦争の始まり、あるいは盧溝橋事件。われわれの親の世代はその時、日常生活が1センチでも変わったかどうか。変わっていないはずです。あれは歴史的瞬間だったが、誰もそれを深く考えようとしなかった。実時間の渦中に『日中戦争はいけない』と認められた人はいたか。当時の新聞が『その通りだ』といって取り上げたでしょうか」

 ずっと以前に有事法制は通っている。そして集団的自衛権の憲法解釈の変更への傾斜、秘密保護法案…。「今が戦時という表現は僕は必要だと思う」。辺見さんは念を押した。

…………

※追記:これもまた「マッタク」関係がない(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」より)。


文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。(日高六郎『映画日本国憲法読本』2004年)

剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」より。

私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼 が今や直接に労働者階級 に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!左翼 がそれをするときは、民族 的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ 人」とか「移民 」云々で。極右 は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義 者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本 的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼 は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年 [大統領選挙 ]の第2回投票 の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右 を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト ・ポリティックの中道リベラルが極右の幽霊 を利用し、その想像上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治 対立の格好の例がここにあると私は思う。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006


2014年9月8日月曜日

旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」という記事を読み、ひさしぶりにあつくなったな

「“カウンターの『帰れ』も排除の一種”というあなたの記事の結論は、価値相対主義の悪い例。その前提には『どんな理由があるにせよ排除はよくない』という考え方がありますよね。僕らは、これにもアンチテーゼを唱えている。あの場でのカウンター側の『帰れ』は、『デモやめて家に帰れ』という意味であって、『外国人は国へ帰れ』という排外主義者の主張とは意味がぜんぜん違う。我々は『レイシストはここにくるな』『この場から排除する』とはっきりと言う。それを意識的にやることに、意味があると思ってる。『レイシストは町から出て行け』というスローガンは世界標準ですよ」

ところで、なんだい、この「首謀者」って?
このインタヴュー記事書いてる吉岡命なる人物は
言葉の使い方知ってるのかい?

首謀者」:(特に不法な行いの)先頭に立つ人、帳本人 ・ 巨魁 ・ 元凶 ・ 首謀 ・ 梟雄 ・ 張本人とあるな

対レイシスト行動集団「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)の「首謀者」というわけかい?

まあいいさ、オレもえらそうなことはまったくいえないからな。

“しばき隊”の名は知っていたが、「野間易通」という固有名詞はわずかに耳を掠めていた程度の政治音痴だからな。

しかも海外住まいを隠れ蓑にして、「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」の問いから免れているつもりになっているテイタラクさ

で、日本住まいのお前ら、この記事RTしたりファボしたりしているけど、どっちの立場なんだい?
「野間易通」を「首謀者」とする立場なのか
それともオレみたいにこの男に「惚れ惚れ」してしまうのか
どっちだい?
まあRTやファボしてんだから、彼にシンパシー感じてんだろうが
その割には威勢がないな

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

こうやって「あつく」なって書くのは、まずいんだろうがね
だがひどくあつくさせる男だな、野間易通は

ーーというわけで、熱さましのために、
野間易通のツイートを眺めてみることにしたんだが、
ツイッターの呟きというのは、オーラが消えるね
だだのオッサンだな、
だがさすがに「差別」等をめぐってよく勉強している
とても勉強になる

彼のツイートを眺めて後光を消すことができ
やっと以前メモした《デモの猥雑な補充物としての「享楽」》を読み返してみて
野間易通氏の弱点はないかと疑ってみる心持になったから
今こうやって書いているのだが

まずは参照してみるのは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』
ーーラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文と
とそれに対するジジェクの吟味だ。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

しばき隊と男組があるが、しばき隊が“人為的な”集団であり、男組というのが、後から来た“退行的な”原始集団とすることができる、--と断言するほどには、このしばき隊と男組の関係についてわたくしは詳しくない。





ここでは「世界で増殖する差別と憎悪…“反差別”という差別が暴走する(深田政彦ーNewsweek 2014 年 6 月 24 日号)の記事を附記しておくだけにする。

『しばき隊』を率いるのは、フリー編集者の野間易通だ。イラク戦争の際の反戦デモ、北京 五輪のときのチベット人解放運動、福島原発事故後は反原発……と、この 10 年余りの間 に次々と政治運動に参加。2012 年に首相官邸を 20 万人で包囲し、反原発活動家らと野 田佳彦首相(当時)の面会を実現させた官邸前デモで、運動家としての頭角を現した。た だ実際に野田との面会が実現すると、反原発運動はピークを過ぎたかのようにしぼんでい った。ちょうどその頃火が付いたのが、韓国の李明博大統領による竹島(韓国名・独島)上 陸をきっかけにした在特会のヘイトスピーチだ。2012 年末には、日本の政権が民主党か ら原発再稼働に意欲を見せる自民党の安倍晋三に代わった。「反原発運動もリセットしな ければ」という焦燥感。さらに「ファシズム政権に対抗する街頭闘争が重要だ」という使命 感に燃え、野間は反原発運動の仲間を中心に、組織を『しばき隊』に衣替えした。「反原 発運動の基盤が反ヘイト活動に転用された」(在特会を調査する徳島大学の樋口直人准 教授)のだ。

しかし、野間たちに唐突な方向転換を悪びれる風はない。それどころか、野間は反原発 運動を通じて確立した『怒りのマーケティング』の手法を反ヘイト活動に活用していることを 半ば得意げに語る。「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」。参加者同士が「頑張ろう」と呼び掛け合う生半可なスタ イルではなく、ただひたすら官邸に罵声を浴びせる。野間らの怒りのマーケティングは『炎 上マーケティング』でもある。反原発活動では、当時の民主党政権閣僚の“遺影”を官邸 前に掲げた。不謹慎とネットで炎上したが、その画像はツイッターなどで拡散。後に 20 万 人を動員する官邸前抗議につながった。

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。





ここでは失礼ながら予断を交えて、後から来た“退行的な”原始集団が予想外に育ってしまったとき、野間易通にはそれをコントロールする力があるのか、という疑念をーーかりに野間易通が男組から距離を置いているにしろーー呈しておこう。



…………

さて今度は野間易通氏がRTしているツイートに注目してみよう。

@whokilledxxxxx 毎日新聞に掲載されてる4コマ漫画のアサッテくん。 ヘイトスピーチとゆ言葉は市民権を得たかもしれないが、ヘイトスピーチとゆ言葉の意味は世間に全く浸透してない事がヨク解る。




すなわち、この漫画のヘイトスピーチの定義は間違っているということだろう。



今年の春ぐらいまではある程度しょうがなかったとも言えるのだが、ヘイト・スピーチという言葉が何を指すかいまだにわかっていない人がネトウヨはおろか左側にもけっこういて、レイシストを「死ね、クソボケ」とか罵っていると、「あなたもヘイト・スピーチをしていますよね?」とか言ってくる。してねえわ。

これをいちいち説明するのがめんどくさいのでここにまとめておく。

ヘイト・スピーチ はこれまで「憎悪表現」と訳されることが多かったが、これだと誤解が多いので有田芳生などが「差別煽動表現」という訳語を提案した。これを、「韓国メディアが旭日旗を戦犯旗と言い換えて嫌悪感を増幅させるやり方に似てい」るとか、知ったかぶりしているネトウヨがいたが、まったく違う。

hate は文字通りには憎悪を意味するが、hate crime / hate speech という熟語においては、「人種差別や性的マイノリティへの憎悪を強く連想させる」ものとなる。なんでそうなるのだ?と言われても、英語圏ではそのように使われてきたのだからしょうがない。

アメリカのヘイト・クライム禁止法(マシュー・シェパード法)(1)では、hate crime を以下のように定義している。

《人種、肌の色、宗教、国籍、民族性、ジェンダー(性犯罪は除く)、障害、性的指向に対する偏見に基づいた犯罪で、偏見に基づいた犯罪であることに合理的疑いの余地のないもの》

hate crime という語が頻繁に使われるようになったのは80年代に入ってからで、比較的新しい概念だ。hate speech は、このhate crime すなわち人種憎悪または性的マイノリティに対する憎悪犯罪を直接連想させる言葉である。

また、人種差別撤廃条約第4条では「人種的憎悪及び人種差別」「人種的優越又は憎悪」となっており、ここでは口語形の hate ではなく正式な名詞形 hatred が使われているが、これが hate crime / hate speech における hate の意味である。

要するに、hate crime / hate speech におけるhate とは、一般的な憎しみや憎悪感情を指すものではない。怨恨を動機とする暴行や傷害、殺人等犯罪には強い憎悪の感情が伴うことが多いが、そうしたものは通常の crime であって hate crime とは言わないのである。

カウンターからレイシストに対する罵詈雑言は民族的憎悪や性的指向への憎悪を伴っておらず、どこまでいってもヘイト・スピーチではない。したがって桜井誠をいくら「ヘイト豚!」と罵っても差別にはならないので問題はない。単なる罵倒、罵詈雑言にすぎない。まとめると、赤い矢印の部分だけがヘイト・スピーチである。




ところで、「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」には、次のような記述がある。

昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13 年 8 月 10 日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。

「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思 っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっ ちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら 言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」 冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。

上に黒字強調している文は、野間易通が、9月7日にリツイートしている次の文と重なる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

朝日新聞の野間易通インタビューからも拾っておこう。

-騒音はひどいし、通行もままならない。汚い言葉の応酬は不愉快です。これが理想的で すか?

「怒りをベースにした行動であれば、言葉も怒りをはらみます。欧米の反ファシスト運動は もっと怒りの要素が多いし、 実力行使もされている。それに比べれば、まったく平和的な光景と言ってもいいぐらいで す。 僕らは彼らを罵倒し続けることで、精神的にへこませ、デモに行く気を失わせようとしてい る」

「2010年から、在特会などへのカウンター行動に参加してきましたが、東京では多くても 数十人しか集まらず、 事実上何もできなかった。一方、彼らは昨年の李明博大統領の竹島上陸で勢いづき、新 大久保デモに加え、 『お散歩』と称する嫌がらせを始めた。通りの店に因縁をつけ、通行人に暴力的に絡む。 何とかしたいと今年1月末、ネットでしばき隊への参加を呼びかけました」

「最初はデモへの直接抗議ではなく、お散歩をやめさせることに重点を置いていました。 だが、2月17日のデモでは、しばき隊以外にもプラカードを掲げて抗議する人が30人ほ ど出て、1カ月後には数百人に膨らんだ。 それでごく自然に、全体がデモへの直接抗議に移行した。 色々な人がさまざまなやり方で抗議していますが、しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

-デモに抗議するにしても、他にやりようはないのですか?

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(聞き手・石橋英昭、太田啓之) 


さあて、きみたちはどっちの立場かい? 罵倒語を許す立場かい?
オレかい? オレはここでは上品さと傲慢さを綯い交ぜにして
「ジャーナリズムは上品じゃいけない」「強盗のようにあるべき」(佐高信、辺見庸両氏の対談)とか、以前の記事をリンクして逃げておくよ、「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)

「白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか」(辺見庸

こうやって語らなくちゃあな(だが正直なところオレはこの程度だね、《何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ》! 穏和な性格なのさ)。


ーーとすれば一方通行だから、丁寧で、資料を丹念に挙げ、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける「似非教養人」の一種のつもりでいるオレは、次の文を掲げておこう。こいつら、スローガン的言葉を顕揚する具合は、結局、大衆を侮蔑するヒットラーと同じじゃないかい?と。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」ーー「汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ」)

それに再度、穏やか系の辺見庸も引用しておかなくちゃ誤解があるな

 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録


やっぱり、みんなといても「ひとり」を意識することなんだろうな
これがひどく難しいんだな、「ひとり」ではどうしようもないときがあるしさ
「みんな」がいたから大久保のヘイトスピーチを阻止できたということもあるしな


…………


すこし話を方向転換する。

野間易通@kdxnそもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、世界のどの国においてもデモの是非なんて論点にすらなっていない。デモで社会は変わるか?とか。それで社会が変わろうが変わるまいが、デモはあるのが当たり前だから。

 というわけで、柄谷行人を続けて引用する。

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(「反原発デモが日本を変える」 柄谷行人


 …………

ところで、東浩紀氏は、デモには参加しない態度をながいあいだ表明していた。
たとえば、東浩紀 hiroki azuma@hazuma20130721()

ぼくはもともと、ネットでの動員の革命→官邸前デモの流れは在特会や橋下徹とかわらないポピュリズムだと言っていて、反原発左翼にマジ憎まれたりしていたのだけど、今回の山本太郎当選でそれが正しいことがわかった。

 ところが2014年09月07日(日)のツイートではこんなことを呟いている。

個人的には、野間さんとの最後の対話が収穫でした。野間さんはそういう表現をしなかったけれど、なるほど、(野間さんや五野井さんにとって)デモとは、自己正当化の論理でガチガチになっていた「正義」の感覚を解きほぐすための<リハビリ>だったのかと腑に落ちました。それは賛成です。

目の前で起きていることについて「これは悪だ」と直観が告げているにもかかわらず、「いやいや、もう少し考えてみよう」「そう決めつけるのこそ悪では」「そもそもおれになんの権利もない」と逡巡しているあいだに時間が経ち、被害者を見殺しにしてしまうことはよくあります。(→)

(→)最近さらにその逡巡の傾向が強まりました。ネットには「行動や判断を無限に引き延ばすための言葉遊び」が満ちています。たとえば人権を守れというだけでも、「まず人権を定義してください」「人権を守れも一種の差別ですよね」「人権の無視を排除するのは人権無視ではないんですか」……となる。

→)そういう状況でがちがちに強ばってしまった正義の感覚を、もういちど解きほぐし、一般市民でも適度に意見や感情を表明できるようにしてあげること。それはとても大切なことで、『一般意志2.0』『弱いつながり』の主張とも一致します。なるほど、デモをそう捉えているのかと腑に落ちました。

(→)この点ではぼくのほうが「頭が固かった」と反省しました。ぼくは率直に言って、大文字の政治においてデモが効果を上げているとは思わない(野間さん五野井さんは意見が違うと思いますが)。けれども、多くの市民の政治への接し方を変えているのは確かで、それは重要なことですよね。

(→)というわけで、行け行けと言われながらもどうしても躊躇して行けなかったデモの現場に、近日中に、取材に、というか、『弱いつながり』の言葉で言えば「観光」に行きたいと思います。それでよいのだ、いやむしろそれでよいのだと考え直しました。だれかお勧めのデモ(?)を教えてください。

これは東浩紀氏の決定的な「転回」の言葉のように思える。ただし若者たちにおおいに影響力があるようにみえる東浩紀氏に、若者がついていくかどうかは別問題ではある。

そしてこの発言は、《野間さんとの最後の対話》から生れたようだ。


※補遺:罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」


2014年7月16日水曜日

安倍肛門

・ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のただなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたのだという。これは傾聴すべきかんがえではなかろうか。(辺見庸 私事片々 2014/07/16

そうだ、安倍の肛門にも顔がある。どんな顔か。自民党の総領の顔だ、資本主義の顔、新自由主義の顔。金目の顔。むき出しの市場原理の顔。

中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん (資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

◆「優しい人たちによる魔女狩り」より

キリスト教世界の基盤を掘り崩しつつあるのがサタンの賄賂に目のくらんだ魔女の大群であり、魔女は手当り次第に秩序を破壊しつつサタンの世界支配を推進しつつあるーーこの想像は明らかに加害者のものである。このような想像は強迫症者にみられる、ステロタイプの想像に対応している。彼らは目に見えない汚染によって自分の存在が脅かされていると思い込み、その対策として汚染除去(洗浄や焼却)の儀式に耽り、しかもこれらの対抗手段の励行にもかかわらず汚染の原因は限りなく増殖してゆくと観念するのである。これは魔女狩り裁判官の想像そのものではないだろうか。(……)

二十世紀において私たちはよく似たセッティング(魔女狩り期の:引用者)がにわかに復活するのに出会った。不吉な予感に敏感となり、これにおののく支配階級、経済的・精神的フラストレーションーーエネルギー問題、経済計画の失敗、貨幣制度の不安定化、社会の目的にかんする幻滅、社会主義国にもみられる政治的分裂、多数の難民――があり、大衆の暗黙の合意がある。いわゆる発展途上国の政府の多くはルースで無能力なことルネサンス宮廷並みであるのに気づく。超大国の指導者でさえ(賢人と学者〔マギ〕)に囲まれた存在であり、巨大化しすぎた自国の官僚制度との連絡をうまくいっていない。不可視の病毒汚染という哲学を固守している迫害者が世界のあちこちにいる。また、ありもしない罪を、ありもしない共謀者の名とともに告白し、自分の有罪を肯定しつつ処刑されてゆく犠牲者がいる。……(中井久夫「アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り」『徴候・記憶・外傷』所収)





第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))

安倍を「理解を超えた阿呆」とすることは科学的ではない。

※参照:安倍晋三「フェティシスト」政権という「仮説」をめぐって



2014年6月22日日曜日

甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても

排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。


ーーというのは以下の文のコラージュである。


◆社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイート

・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。


甘く見てはならない。高をくくってはならない。相手を見くびってはならない。前例はもうなにもあてにならない。これは、この機に自衛隊を「日本国軍隊」として、どうしても直接に戦争参加させたがっている、戦後史上もっとも狂信的で愚昧な国家主義政権およびそのコバンザメのような群小ファシスト諸派と、9条を守り、国軍化と戦争参加をなんとしてもはばみたいひとびととの、とても深刻なたたかいである。それぞれの居場所で、各人が各人の言葉で、各人が各人のそぶりで、意思表示すること。「日常」をねつ造するメディアに流されないこと。ことは集団的自衛権行使の「範囲」の問題ではない。そもそも集団的自衛権じたいに同意しない、うべなうことができないのだ。9条に踏みとどまること。ひとり沈思すること。にらみ返すこと。敵と味方を見誤らないこと。いまを凝視すること。静かにきっぱりと、反対を告げること。「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性」をいま眼前にしている。それはよみがえったのだ。虚しくても空疎でも徒労でも面倒でも、たたかいつづけること。怒りをずっともちつづけること。安倍政権はうち倒されるためにのみ存在している。エベレストにのぼった。(辺見庸:私事片々 2014/06/17)

…………

・おい、安倍晋三よ、以下を読め。衆院本会議での答弁。吉田茂首相「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変が然り、太平洋戦争また然りであります」「戦争放棄に関する憲法の草案条項におきまして、(質問者は)国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(自衛のための軍隊などという)御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」(昭和21年=1946年6月26日。下線は引用者)。安倍、高村、石破よ、よく読め。「正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえん」。日本の戦後はこうしてはじまり、〈新しい戦前〉のいまがある。(辺見庸「私事片々(2014/06/19)」


加藤周一国会参考人の議事録(「第150回国会 憲法調査会 第2号 平成十二年十一月二十七日(月曜日) 」)。

それで、日本に関してもう一言申し上げておきたいと思うんですが、現実には日本の再武装があるわけですね。自衛隊があって、強い軍事力があって、そして憲法と矛盾しているじゃないかという議論が当然あると思うんです。しかし第一に、一般的に言えば、法律は現実と矛盾しているから法律があるんです。もし矛盾がなければ、だからほとんど現実と法 律との乖離は法律のレーゾンデートルです。泥棒がいなければ刑法は要らないんだから。 しかし、それは一般論です。 特に今の第九条に関しては、今まで申し上げたことがある程度それを説明していると思いますが、これはいわゆる解釈改憲で、政策をとってだんだんに軍備が増大したから現実と離れたんでね、そうでしょう。だから現在の問題は、憲法を現実に近づけるか現実を憲法に近づけるか、どっちかということになると思う。それが根本的な仕方ですね。 今までの私のお話ししたことで、ちょっとはしょりますが、結論は、今後の日本の行き先と しては、先取りの憲法は世界で早く徹底した平和主義をとったから先取りというだけではな くて、日本の将来にとって有効な政策を憲法が先取りしているというふうに私は考えます。 ですから、変えるよりも変えない方がいい。なぜならば、憲法にあらわれていることを実現することが日本の将来を開くのであって、憲法を変えて現在の現実に近づけることが将来を開くんじゃないんですね。 その状況はほとんど米国憲法のシビルライツに似ていますね。人種の平等をうたっているわけだから、米国憲法は。ところが、差別は非常に強かった。憲法を変えてそれを現実 に合わせたんじゃなくて、憲法に現実を合わせようとしたのがシビルライツです。そして、 その成果はかなり大きかった、六〇年代から七〇年代にかけて。ですから、日本国憲法 の場合にも同じような構造があると私は考えます。(資料:憲法の本音と建て前

…………

ところで、社会思想史研究者のツイートにこうあった、《後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ》

後期資本主義という社会制度とは、「新自由主義」システムとしてよいだろう。あるいは「市場原理主義」のそれと。89年の冷戦の終焉以後しだいにその姿が露骨になり、現在はいっそうのこと「市場原理主義」がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られるようになっている。

成功、投資、生産性、競争性、革新、成長、アウトプットーーこれらはすべて経済のディスクール、――ラカン派的に言えば「資本主義のディスクール」ーーの語彙群であるが、大学人もこれらの評語の音楽に乗って「踊る」ことを余儀なくされているに相違ない。(参照:Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf


だが、そもそも研究者や学者たちが、「無関心と無知と無自覚」でありうるのは、「財布の中身」だけの問題ではないだろう。フロイトさえ次のようであった。

◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より

フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク 私意訳)

Freud's voting preferences (in a letter, he reported that, as a rule, he did not vote—the exception occurred only when there was a liberal candidate in his district) are thus not just a private matter, they are grounded in his theory. The limits of Freudian liberal neutrality became clear in 1934, when Dolfuss took over in Austria, imposing a corporate state, and armed conflicts exploded in Vienna suburbs (especially around Karl Marx Hof, a big workers housing project which was the pride of Social Democracy). The scene was not without its surreal aspects: in central Vienna, life in the famous cafés went on as normal (with Dolfuss presenting himself as defender of this normality), while a mile or so away, soldiers were bombarding workers' blocks. In this situation, the psychoanalytic association issued a directive prohibiting its members from taking sides in the conflict—effectively siding with Dolfuss and making its own small contribution to the Nazi takeover four years later.(ZIZEK “LESS THAN NOTHING”)

ジジェクは大著『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)にて、フロイトばかりでなく、ラカンや自らの師であるラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールをも、その「政治的」姿勢を批判している。だがその具体的内容については、ここでの話題とは異なり、いま触れることはしない。そもそも上の文は、フロイトの『集団心理学と自我の分析』における考え方ーー《フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている云々》ーーこの考え方への批判(吟味)文の註記である。

いまは冒頭の話に戻って、ジジェクがリーマン・ショック後、しばしば引用する(好んで?)アイン・ランドの言葉を掲げておくだけにする。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)





2013年12月7日土曜日

無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」

             小田実に

総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
彼は象徴にすらなれやしない
きみの大阪弁は永遠だけど
総理大臣はすぐ代る

……
(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

谷川俊太郎自身のあとがきによれば、「夜中に台所で……」の詩14篇は、19725月某夜、なかば即興的に鉛筆書きしたものとのこと。

当時は、第3次佐藤改造内閣であり、佐藤栄作長期政権最後の時期にあたる。

たしかに総理大臣ひとりを責めたって無駄だ。

だが「佐藤栄作」は、戦前からの亡霊の「記号」としても己れを主張していたはずであり、人びとは、意識的であれ無意識的であれ、このいささか疚しいシーニュを、隠しておきたい恥部を刺激する不気味な異物として取り扱っていたには相違ない。もちろんフロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」であり、自己投射の対象として機能する。

ここで戦前からの亡霊の「記号」というのは、戦前の「公」と戦後の「公」とが連続したまま繋がっており、戦前的思想・政策を戦後の<今>になってもいまだ完全に否定できていないことを否が応でも想起させる「名」ということだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ようするに、小田実や加藤周一らの当時の「左翼知識人」たちは、無責任体制の社会的、文化的条件の存続としての「記号=佐藤栄作」の露骨な流通に、いてもたってもいられない憤りを覚えていたはずでもある。


ところで、第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

ここで中井久夫は、佐藤栄作や岸信介の名を出していない。父(晋太郎)と近衛文麿だけが言及されているが、おそらく、それは「あえて」であり、精神科医としての中井久夫は当然佐藤栄作や岸信介の名に思いを馳せているに相違ないにもかかわらず言わないままでおいたのは、多くの読者を抱える「神戸新聞」という発表の場が促す「節度」からだろう。

さて現在、第二次安倍政権のまっさかりであり、「安倍晋三」という記号は、あたかも戦前の亡霊を喚起する「名」として機能しているかのようである。そして《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込む》かのようでもあろう。

そのことに敏感なひとたちが少数であっても存在する。たとえば鈴木創士氏は、ツイッター上で次のように発話する。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(2013.11.27)

ここで「ES」というのは「無意識」のことだとすればーー厳密に言えば『自我とエス』におけるフロイトの説明では、「エス」だけでなく、「自我」や「超自我」にも無意識的な部分があるーー、この「無意識」という言葉は、佐藤優氏の発言にも次のように使われる。

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。(特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

《巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り》という詩才溢れる鈴木創士氏のセリーヌやバロウズばりの表現は、《集合的無意識で動いている》という「外務省のラスプーチン」(驚嘆すべき知性の活動家ーー柄谷行人評)の言葉に翻訳できるだろう。

あるいは現代詩ムラの他者」辺見庸氏なら次のように語る。

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」――2013年8月31日の講演記録)

これも、《議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長》している症候を敏感に察知しているひとの言葉だ。辺見庸氏の記事には、「安倍」という語が頻出するが詳しくは上のリンク先の、三時間に及ぶ講演記録全文を参照のこと。

そして講演者としての穏やかさの仮装を脱ぎ、本来の詩人としての辺見庸氏なら、その思いは次のように言葉として炸裂する。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

ここにも《「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか》と、「深層心理(欲動)」という表現があることに注目しておこう。


ところで、逆に、自らのなかに残存する「あなたのなかにあるあなた以上のもの」としての「無責任体制」を否認したい議員や国民は、パラノイア的投射の対象として「安倍晋三」という「無能の主人」を利用していることだってありうる。

ここでの「無能の主人」とは、日本は直接選挙で国の指導者が選ばれるわけではないから、いささか事情が異なるかもしれないが、レーガン元米大統領をそう呼ぶコプチェク起源の用語法だ。

ラカン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純


フロイトは、パラノイア的「投射」の機制をめぐって次のように叙述している。
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

ラカンの心的構造論によれば、ひとには「神経症」「精神病」「倒錯」のみっつの構造のどれかがあり、いかなる人もこのどれかに当てはまる。

現在は境界例や自閉症、アスペルガーなどの症状の出現でいささかの動揺はあるにしろ、”標準版”のラカン派の疾患分類とは、神経症、精神病、倒錯が3大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認によって規定されている。神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

いまはそれらを詳細に書くつもりはないが、ラカン派では、投射Projectionとは、自身のうちにある欲望や思考、感情への防衛であり、それらの思いを立ち退かせて、他の主体に移しかえる心的メカニズムであって、精神病のカテゴリーのひとに属する症状のひとつである。

フロイトを再度引用するならば、
嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(同上 フロイト) 

こうであるならば、議員や国民は、自分自身のなかの「戦前の亡霊」を、首相のなかの「戦前の亡霊」に投射して、彼らのうちの「亡霊」は意識しないままにしているなどとも勘ぐることができる。

投射projection」は、ラカン派的にはパラノイア的イマジネールな症状であるが、フロイト概念を定義しなおしたラカンの厳密化以降も、他の流派では精神病(パラノイア)だけではなく神経症者の症状にもかかわってその概念が使用されているようだ。

他方、「取り込み」、あるいは「摂取」とも訳されるintrojection」が、ラカン派では、神経症のメカニズムとして説明される。投射が想像界、取り込みが象徴界に関連するメカニズムで、前者が想像的同一化(理想自我)、後者が象徴的同一化(自我理想)に関わる。言葉の意味からすれば、一見「投射」と「とりこみ」は、逆転機制かとも思われるが、ラカンはその解釈を拒絶して想像界と象徴界の審級の違いのメカニズムとしている。

Whereas projection is an imaginary mechanism, introjection is a symbolic process (Lacan Ec, 655).

そもそもフロイトには、理想自我と自我理想の区別が不鮮明で、これはラカンのセミネール一巻(「フロイトの技法論」)で、フロイトの『ナルシシズム入門』を読み解くなかでの峻別であり、ジジェク曰くは、《ラカンが、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか》(『斜めから見る』)ということになる。


 たとえば「安倍晋三」が、パラノイア的投射(想像的同一化)の対象ではなく、自我理想(象徴的同一化)として機能しているならば、自民党議員たちの症状は次のようなこととも考えられる。

同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集り(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ここでの後半にあるおたがいの自我で同一視(同一化)し合う個人の集まりが、「理想自我」のメカニズムにかかわる。


想像的同一化(理想自我による同一視)とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化(自我理想による同一視)とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)


もっとも安倍晋三の存在を「自我理想」とするならば、それは萎んだファルスであり、《父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在(無能)であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能としての天皇制》(浅田彰)のなれのはてのいかがわしく矮小化された男根でしかありえないだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩句から引けば、佐藤栄作でさえ《彼は象徴にすらなれやしない》のだ。

とすれば、やはり想像的な投射に近づく(「父」の象徴的機能、「母」の想像的機能という側面から言えばということだが)。せいぜいサンブラン(見せかけ)としての「父」だ。(参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

サンブランは自我の置き換えとして機能する。この想像的な二項関係による疑似論理が横行すれば、《微笑を浮かべたソフトな全体主義》(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)を生むことにもなりかねない。

もともと一神教ではない日本では「父」の象徴的機能が弱く、戦前の全体主義も浅田彰やバラードのいうような母性的なファシズムであったのではないか、という問いが、例えば柄谷行人の次のような主張をも生む。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

いまでも、安倍政権は「日本株式会社」を目指している、などという指摘があるのは衆知だろう。

これらの会社主義や日本株式会社とは創業社長の率いる「会社」とは異なり、次のような権力構造のことである。
事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

すなわち「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理を促す権力なのだ。

いずれにせよ、これらの理由によるものかどうかは実のところ窺いしれないが、佐藤優氏が曰くの《この動きをとどめるのはなかなか難しい》という現象をいまわれわれは目の当たりに見ている。


《特定秘密保護法が参院本会議で自民、公明両与党の賛成多数で可決、成立した。》(12.06.23:23)

もちろん萎びた男根にもかかわらず比較的長期政権が予想される安倍晋三の内閣は、官僚たちが自由に裁量をふるえる願ってもない存在である。政治には疎いわたくしには、いくら「一寸先は闇」の日本の政治でも、病気以外の理由で安倍辞職などということは今のところ想像し難い。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

ーーというわけで、安倍晋三という記号をめぐって雑然と書いてきたが、その「記号」の不気味さに限っていえば、それはまあ杞憂だったら杞憂でよろしい。もし「杞憂」でなければ、かりに安倍晋三退陣があって男根的なファシストまるだしの首長になったほうが、議員や国民にとっては、母性的な投射の対象になり辛く、むしろ不気味さは減るのではないか(「母」ではなく仮にも「父」であれば反発が生まれ議員たちの分裂が起る可能性だって高い)。

実際のところは、ひたすら「きなくささ」を感じる。わたくしは海外住まいで、マスコミのニュースのたぐいにもほとんど接していないから、ピントはずれの印象が多いのかもしれないけど、いくつかの記事を追っていると、どうも「NSCは戦争するかしないかを決めるところ。最近の日本政府はナチスの手口に学んでいるんじゃないかと思います(佐藤 優)」という「におい」に、わたくしの感度のわるい鼻は、収斂してゆく。

国家が「秘密」を重視した時は非常時から準戦時体制への転換点であることは歴史が示している。(岩波講座「日本通史」18卷・近代3)いまや軍産複合体だから、民間企業にまで蛸の足のように「秘密」は伸びていく。この法案とともに「武器輸出3原則」が空洞化する法案が、密かに国会に出されている。極端な例だが、「日本核武装」には、原発産業全体に「特定秘密」は拡大されていくだろう。(西島健男「特定秘密保護法」を読む


《「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理》--いつのまにか戦争になる、なんてことはないのかね、近いうちに。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


…………


亡霊として機能する幻想的投射の「対象a」をめぐっては、ジジェクが「ブラック・ハウス」という小説をめぐって書いている文を付記しておく(『斜めから見る』より)。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。


(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。

…………

※附記

以上の内容とは、いささか文脈が違うが、イデオロギー的幻想(投射)ideological fantasy (projection),と、ラカンの「現実界のかたわれ」little bit of the Realを序す次のジジェクの文を参考にしてこの記事は書かれている。

A statement is attributed to Hitler: “We have to kill the Jew within us.” A. B. Yehoshua has provided an adequate commentary: “This devastating portrayal of the Jew as a kind of amorphous entity that can invade the identity of a non‐Jew without his being able to detect or control it stems from the feeling that Jewish identity is extremely flexible, precisely because it is structured like a sort of atom whose core is surrounded by virtual electrons in a changing orbit.” In this sense, Jews are effectively the objet petit a of the Gentiles: what is “in the Gentiles more than the Gentiles themselves,” not another subject that I encounter in front of me but an alien, a foreigner, within me, what Lacan called the lamella, an amorphous intruder of infinite plasticity, an undead “alien” monster which can never be pinned down to a determinate form. In this sense, Hitler's statement says more than it wants to say: against its intended sense, it confirms that the Gentiles need the anti‐Semitic figure of the “Jew” in order to maintain their identity. It is thus not only that “the Jew is within us”—what Hitler fatefully forgot to add is that he, the anti‐Semite, his identity, is also in the Jew. Here we can again locate the difference between Kantian transcendentalism and Hegel: what they both see is, of course, that the anti‐Semitic figure of the Jew is not to be reified (to put it naïvely, it does not fit “‘real Jews”), but is an ideological fantasy (“projection”), it is “in my eye.” What Hegel adds is that the subject who fantasizes the Jew is itself “in the picture,” that its very existence hinges on the fantasy of the Jew as the “little bit of the Real” which sustains the consistency of its identity: take away the anti‐Semitic fantasy, and the subject whose fantasy it is itself disintegrates. What matters is not the location of the Self in objective reality, the impossible‐real of “what I am objectively,” but how I am located in my own fantasy, how my own fantasy sustains my being as subject.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


以下も同じ『LESS THAN NOTHING』からだが、ここに書かれる側面は、叙述が複雑化するため敢えて省いた。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control. On that account, the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.

※ジジェクはここで標準的な投射の理論の説明のなかで、《the figure of the Jew the disavowed part of himself》としている。disavowedとは「否認された」と訳される語で、通常、この語が使われるときには「倒錯」の症候を表す。他方、「投射」は上に見たように、パラノイア(精神病)の症候を表す。

「否認」という語が使用されたとき、単純にラカン的な「倒錯」として理解するのは慎まねばならない。すくなくともジジェクは、つねにこの語をラカン的な意味で厳密に使っているわけではない。

さらに言えば、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ(ミレール派)、いや「倒錯」の時代へ(メルマン派)などと言われるように、この見解の相違は、ラカン派のなかでも、精神病と倒錯の区別がつきがたいことを示しているのではないか。


最後に、ジジェクは同書で、ラカンの「エクリ」から引用して、次のようにフェティッシュ(倒錯の一症状)の実態をフロイトに反して指摘していることを追記しておこう。

As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.(資料:フェティシズムと対象選択






2013年12月6日金曜日

アテネの衆愚政治と現代の似非能動性

以下、資料の列記。

…………


だれも、ひとりひとりみると
かなり賢く、ものわかりがよい
だが、一緒になると
すぐ、馬鹿になってしまう(シラー)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)



当時のアテナイは地中海交易の中心地の1つでした。焼き物の壷を開発するという小規模な産業革命が起こり、それを周辺諸国に売り、アテナイはポリスのなかでは極めて豊かな国でした。海外の植民地から渡航してきた人びともみなアテナイに集まるから文化的にも多彩ですし、ペリクレスという有能な指導者が出て、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を現出しました。

 とはいえ、アテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていたんです。1人のデマゴーグが出てきて、議会で調子のいいことを言えば、みんながワーッと同調して、ひどいこともしました。ペロポンネーソス戦争のあいだにも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺をおこなっています。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島ですが、戦争中にはっきりとスパルタがわについたために、圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領しました。その時アテナイの議会では、メロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえなんて提案が出されて、しかも、喝采をもって可決されてしまいました。すぐ命令書をもった使いが船で出発したのですが、1晩寝て冷静に考えるとやっぱりあれはひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したものの、もう間に合いません。ついに、メロス島の男の市民は全員殺されてしまいました。



◆ツキジデス『戦史』と歴史認識より www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/371pdf/matuba.pdf
「・・・そこでアテーナイ側使節はおよそ次のごとく言った。
『われらは市民大衆に語りかける機会を与えられていない。その明白なる理由は,大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれるやも知れぬとの恐れ(これが少数者との会談を誘致した諸君の真意であることは,われらも承知だ),されば,ここに列席の諸君には,さらに万全を期しうる方便をお教えしよう。つまり,諸君も一度限りの答弁に終らぬよう,一つの論には一つの弁で答える,またわれらの口上に不都合なりと覚える点があれば,ただちに遮って理非を糾して貰いたい。さて最初に,このわれらの申出が諸君には満足かどうか,答えて貰いたい。』


メーロス側の出席者は答えて言った。『冷静に互いに意志を疎通させる,といえば正道に反するものではなく,したがって誹謗の余地はない。しかし,これから戦が起るやも知れぬという場合であればさこそあれ,戦がすでに目下の現実であるこの場所で唯今の諸君の論は空疎としか思われぬ。じじつわれらの見うけるところ,諸君自身はあたかも裁判官としてこの会談の席に臨むがごときであり,またこの会談の結末は二者択一であることも先ずは間違いない。われらの主張が勝ち,故にわれらが譲らぬことになれば戦,われらの論が破れれば隷属に甘んじる他はないからだ。』

アテーナイ側,『よろしい,若し諸君がメーロスの浮沈を議するに際して,未来の可能性を論拠にするとか,それに類する思惑だけを頼りに,現実を度外視し,目前の事実に眼を塞ぐ,という態度で此処に集っておられるなら,この議論を打ち切りたい。現実的解決を求めておられるなら,続けてもよい。』

メーロス側,『かくの如き立場におかれた人間が,さまざまに言を練り想を構えることは当然の理でもあり,人情の恕するところと申したい。だがもとより,この会談は他ならずわれらの浮沈を議する席ゆえ,その会談の形式も,宜しければ,諸君が提案される形ですすめて貰いたい。』

アテーナイ側,『よろしい,もとよりわれらも言辞を飾って,ペルシアを破って得たわれらの支配圏を正当化したり,侵されたが故に報復の兵を進めるなどと言い張って,誰も信用しない話を長々とする気持は毛頭ない。また諸君も,ラケダイモーン〔=スパルタ〕の植民地であるからわれらの陣営に加わらなかったとか,アテーナイに対しては何ら危害を加えなかったとか,そう言ってわれらを説得できるなどと考えないで貰いたい。われら双方は各々の胸にある現実的なわきまえをもとに,可能な解決策をとるよう努力すべきだ。諸君も承知,われらも知っているように,この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者の間では,強きがいかに大をなし得,弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか,その可能性しか問題となり得ないのだ。』

メーロス側,『しかし,われらの考え及ぶ限りでは,諸君にとっての利益とは(この際損得など問題になるかどうか知らぬが,諸君が正邪を度外視し,得失の尺度をもって判断の基準とするというからには,われらもそのように議論をすすめねばならぬ),とりもなおさず相見互いの益を絶やさぬことではないか。つまり人が死地に陥ったときには,情状に訴え正義に訴えることを許し,たとえその釈明が厳正な規尺に欠けるところがあろうとも,一分の理を認め見逃してやるべきではないか。しこうしてこれは諸君にとっては一そう大なる益,諸君の没落は必らずや諸国あげての報復を招き,諸君が末世への見せしめにされる日もやがては来ることを思えば。』

アテーナイ側,『支配の座から落ちる日が来るものなら,来てもよい。われらはその終りを思い恐れる者ではない。なぜなら,他を支配し君臨した者,たとえばラケダイモーン人もその一例であるが,これらの者は敗者にとってはさして恐れることはない(断っておくが,われらの争いの相手はラケダイモーン人ではない),真に恐るべきは,被支配者が自発的に謀叛をたくらみ,旧支配者を打倒したときだ。しかしその危険もわれらにまかせておいて貰いたい。さて今回やって来た目的は,われらの支配圏に益をはかり,かさねてこの会談に託して諸君の国を浮沈の際から救うこと,この主旨の説明をつくしたい。われらの望みは労せずして諸君をわれらの支配下に置き,そして両国たがいに利益を頒ちあう形で,諸君を救うことなのだ。』

メーロス側,『これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる,しかし諸君の奴隷となれば,われらもそれに比すべき利がえられるとでも言われるのか。』

アテーナイ側,『然り,その理由は,諸君は最悪の事態に陥ることなくして従属の地位を得られるし,われらは諸君を殺戮から救えば,搾取できるからだ。』

メーロス側,『われらを敵ではなく味方と見做し,平和と中立を維持させる,という条件は受け入れて貰えないものであろうか。』

アテーナイ側,『諸君から憎悪を買っても,われらはさしたる痛痒を感じないが,逆に諸君からの好意がわれらの弱体を意味すると属領諸国に思われてはそれこそ迷惑,憎悪されてこそ,強力な支配者としての示しがつく。』

メーロス側,『とは言え,諸君の属領諸国から見れば,諸君とは何らのつながりのないわれらの場合と,その殆んどが諸君の植民地であり,しかも幾つかは叛乱し鎮圧されたかれらの場合とは,各々異なる道理によって律せられるべきだ,と思えるのではないか。』

アテーナイ側,『道理を言い立てるなら,どちらの場合にも理屈は立つと思うだろう,そして独立を維持するものがあれば,その者が強いからだと思い,われらが攻めなければかれを恐れるからだと考える。したがって,版図を拡げることもさりながら,それとはべつに,諸君の降伏はわれらの不動の地位を確認させることになる。とりわけ諸君のごとき島住民にして,しかも他より弱小なる者たちが,海の支配者たる者の向うを張るのを止めて頂ければ,だ。』
・・・〔中略〕・・・

メーロス側,『それなればなおのこと,こう言えるのではないか,諸君が支配者の座を失うまいとし,すでに奴隷たるかれらが支配者から脱しようと,それほどの危険をおかしあっているのであれば,われらのごとく今なお自由を保持する者が奴隷化を拒み,必死の抵抗をつくすのは当然のこと,さもなくば見さげはてた卑劣さ,卑怯さとさげすまれよう。』

アテーナイ側,『いや,冷静に協議すればあながちそうではない。なぜなら諸君は今,勇を競い名を惜しむ彼我互角の争いにのぞんでいるわけではない。圧倒的な強者を前にして,鉾を引き身を全うすべき判断の場に立っているのだ。』

メーロス側,『ともあれ,われらにも心得があること,勝敗の帰趨は敵味方の数の多寡どおりには定まらず,往々にして彼我公平に偶然の左右するところとなる。さればわれらにとって,今降伏することは今絶望を自白するに等しい,だが戦えば戦っている間だけでも勝ち抜く希望がのこされている。』

アテーナイ側,『希望とは死地の慰め,それも余力を残しながら希望にすがる者ならば,損をしても破滅にまで落ちることはない。だが,手の中にあるものを最後の一物まで希望に賭ける者たちは(希望は金を喰うものだ),夢破れてから希望の何たるかを知るが,いったんその本性を悟ったうえでなお用心しようとしても,もはや希望はどこにもない。諸君は微力,あまつさえ機会は一度しかないのだから,そのような愚かな眼にあおうとせぬがよい。また人間として取りうる手段にすがれば助かるものを,困窮のはてついに眼にみえるものに希望をつなぎきれず,神託,予言,その他同様の希望によって人を亡ぼす諸々の,眼に見えぬものを頼りにする輩は多いが,諸君はかれらの真似をしないで貰いたい。』

メーロス側,『諸君の兵力と幸運とに匹敵する条件を持たぬ限り,これと争うことの至難たるはもちろんわれらにも判っている,と考えていただきたい。だがわれらは罪なき者,敵こそ正義に反する者であれば,神明のはからいの欠くるところなきを信じ,軍兵の不足はラケダイモーンとの同盟が補いうると信じている。たとえ他に何の理由がなくともただ血族の誼と廉恥を重んじる心から,かれらはきっと救援にやってくる。されば,諸君が言うほどに全く何の根拠もなくして希望をかかげているわけではない。』

アテーナイ側,『その神明のはからいとやらについて言えば,われらにも欠くるところないであろうと思っている。なぜなら,われらの主張も行為も,人間が神なるものについて抱く考えに外れたものではないし,人間社会の慾求に反するものでもない。もとより神は想念によってとらえられ,人の行為は事実によって判断されるという違いはあるが,しかしいずれもつねに各々の本質を規定する法則に操られている。つまり,神も人間も強きが弱きを従えるものだ,とわれらは考えている。したがってこういうわれらがこの法則を人に強いるため作ったのではなく,また古くからあるものを初めて己が用に立てるのでもない。すでに世に遍在するものを継承し,未来末世への遺産たるべく己の用に供しているにすぎぬ。なぜなら諸君とても,また他の如何なる者とても,われらが如き権勢の座につけば必ずや同じ轍を踏むだろう。さればこれが真実ゆえ,われらにも神明のはからいに欠くるところがあろうなどと,思い恐れるいわれは見当らぬ。・・・』
・・・〔中略〕・・・

アテーナイ側,『・・・不面目な結果が明白に予知されるような危機に立ったとき,人間にとってもっとも警戒すべきは,安易な己れの名誉感に訴えること,諸君も心して貰いたい。往々にして人間は,行きつく先がよく見えておりながら,廉恥とやらいう耳ざわりのよい言葉の暗示にかかり,ただ言葉だけの罠にかかってみすみす足をとられ,自分から好んで,癒しようもない惨禍に身を投ずる。そうなれば,不運だけならまだしも,不面目の上塗りに不明の譏りを蒙るのだ。諸君は,充分に協議すれば,この過ちから免れえよう。また,最大の国が寛大な条件で降伏を呼びかけているとき,これに従うことを何ら不名誉と恥じる要はない。諸君は従来どおり此処に住み,年賦金を収めれば,われらの同盟者となれるのだ。それのみか,戦争か安寧か,という選択さえ与えられているとき,頑迷にも,より愚かな道をえらぼうとはせぬがよい。相手が互角ならば退かず,強ければ相手の意を尊重し,弱ければ寛容に接する,という柔軟な態度を保てば,繁栄はまず間違いない。われらが退席したのち,以上の諸点をよく考えて貰いたい。そして諸君の決定は諸君の祖国の浮沈にかかわることゆえ,充分に考えを尽して貰いたい,諸君の祖国はただ一つしかなく,しかもその浮沈はこの一回限りの協議にかかっているのだ。』・・・ ・・・」(ツキジデス『戦史』(岩波文庫)中巻,pp.352-362.)

 …………

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

……議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。


この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)

『戦前の思考』 柄谷行人 (1994年2月 文芸春秋)より

シュミットは、ナチの理論家です。もちろん、彼の考えは、一般的にナチを特徴づけていた「人種主義」のようなものと異質だし、そのために彼は途中失脚しています。戦後、彼はそのことをもって自己弁護しているのですが、それは見苦しいだけで、とうてい彼を免罪するものにはなりません。しかし、シュミットには、われわれが無視てきないような洞察があります。それは、彼がつねに例外状況から出発し、それによって通常科学ではけっして見えないようなものを見いだしたからです。そして、彼が思考のある極端さを実現しているかぎりにかいて、それを無視することはできません。

 しかし、ここで、注意しなければならないことがあります。われわれが例外状況から出発するのは、それが本来的だからだという意味ではないのです。それは、先にいったように、むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するためです。ある種の人間、ロマン主義的人間にとっては、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。明らかに、シュミットはロマン主義的です。彼は『政治的ロマン主義』という本を書きロマン主義者を鋭く批判していますが、それは自己分析というべきもので、彼自身がまさにそのようにふるまっているのです。

 たとえば、自由・民主主義という言葉があります。自由主義と民主主義はほとんど区別なしにあいまいに使われています。これを明確に区別したのがシュミットです。彼は、『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)において、こういうことをいっています。普通、民主主義というと、議会制民主主義だと考えられていますが、シュミットは、現代の議会制は、根本的に自由主義であり、これは民主主義とは異質なものだというのです。いいかえると、議会制でなくても、民主主義的であることは可能だというわけです。

 民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。しかし、問題は、どのようにして、大衆の意志が最もよく「代表」されるのかということにあります。
 
 デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。
 
 これはプラトン以来の難問です。それは、真理は、多数決で決定できるのかという問題です。すなわち、真理はいつも少数の者によって把握されるのではないのか、多数の同意は真理を保証しないのではないか、しばしば真理は多数が同意するものに反しているのではないか、というような問題です。プラトンは、政治形態にかんしてもそれを拡張し、議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると考えました。(……)

シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》。実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。


ハイパーメディア社会における自己・視線・権力(浅田彰/大澤真幸/柄谷行人/黒崎政男)

柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね.

浅田――ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.

…………


知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)


二〇一一年の春の事故から、二年九ヶ月たって、多くの人が<あれ>を忘れ去っている。いま騒いでいることを三年後の次の衆議院選挙まで忘れないでいられるであろうか。


みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいま す。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送ってはいません。未曾有 の歴史的な瞬間に見あう内省をしてはいません。3.11 は、私がそのときに予感したとおり、 深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっ かけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、 立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを 忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人びとは浮かれはじめている。


インターネットに事件のたびごとに、のべつまくなしに<悲嘆>の感想を書き込んでいる手合いよ、まさかフロイトのいうようにネット村社会内で、《情緒は異常にたかまり、知的活動はいちじるしく制限される》わけではないだろうな。

あなたがたのそれが、似非能動性でないことを祈る。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』54頁)

《「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひ とり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おか しな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。 孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは 深い自由だと私は思わざるをえません。》(辺見庸)

今、《状況の座標を実際に変化させる行為への道》とはなんだろうか。選挙投票者は、インターネット情報などに無関心な層のものが大半を占めるのだ。


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在し ないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢 でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

ところで「緑の党」の中沢新一はいまなにをやってるんだろう。オウム事件の記憶で彼がきらいな人もいるだろうから、そうであるなら、別の影響力のある党結成が三年後のために<いま>必要だぜ。


特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。

まさか、《何も変化しないようにするために、四六時中能動的でいる》わけじゃあないだろうな。


私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)