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2014年9月5日金曜日

平均律の演奏家たち




名手たちの聴き比べだが、アンドラーシュ・シフ(András Schiff )は、こうやって断片だけ取り出すと水際立っているように感じるときがある、ーー新鮮な果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚とでもいったらいいのだろうかーー、そうかといって全曲を聴き通すと、わたくしの場合、ゴールドベルグだけでなく、他の演奏でも、退屈してしまうことが多い(エロスが足りないのじゃないか、シフには。性戯は不得手そうだからなあ)。平均律などシフの演奏で通して聴いてみようとは思わない。いま通してしばしば聴くのはアファナシェフだ。この二週間ほどはこうやってブログなどを書いているときは、ピアノ演奏なら彼のバッハを聴いていたのだか、さすがにそろそろ飽きてこないでもない(そもそも平均律を通して聴くというのは邪道なのだろうが)。上のゴールドベルグを聴けば分かるようにバレンボイムも、あるいはポリーニの平均律も、--この男根主義者たちめ!ーーバッハは向かないぜ。

この平均律のニ長調のプレリュードを聴き比べたって、シフの演奏はすばらしい(まてよ、何度も聴いていると、最初最も退屈だったRosalyn Tureckがなぜかよくなってくるのだな……)。






グールドのバッハ演奏を聴いて育ったようなところがあるのだが、平均律だけは、最初にスヴャトスラフ・リヒテルのレコードーーわたくしの少年時代はレコードの時代だーーを購入している。それと殆ど同時に、たぶん、三ヶ月も経ずに、グレン・グールドのものを手に入れた。このグールドの平均律の録音演奏は全体としては、正直リヒテルのものほど魅了されなかった。むしろいくつかの曲については失望さえ覚えた。そしてその反動か、当時、リヒテルとグールドの録音とともに評判の高かったフリードリヒ・グルダの演奏録音をも手に入れた。この三者の演奏で、四十八曲あるプレリュードとフーガのどれが気に入ったのかというのはそれほど熱心にききくらべたわけではないので言いがたいが、よく聴いた順序は、リヒテル、グルダ、グールドの順ではあった。もっとも平均律に限らなければバッハのピアノ演奏のなにかを聴くというのではグールドのCDを聴くのが突出しているし、それはその後も、この現在まで、変わらない。たとえばグールドの平均律二巻の九番ホ長調フーガのレコード版とのちほど演奏されたヴィデオ版のなんという魅力の違うこと! →「バッハ平均律2巻第9番フーガの構造分析(グレン・グールド)

グレン・グールド、「バッハのもっとも偉大な演奏者」。

グレン・グールドは自分のバッハを発見した。そしてその意味ではそのような讃辞を受けるに値する人物だ。彼の主たる美点は音色面にあると思える。それはまさにバッハに相応しいものだ。

とはいえ、バッハの音楽は私に言わせればもっと深く、もっと厳しいものを要求する。然るにグールドにおいては、一切がちょっとばかり輝かしすぎ、外面的すぎる。その上、一切の繰り返しを行わない。これは許せない。つまりはバッハの音楽をそれ程愛してはいないということなのだ (リヒテル)

リヒテルのいう輝かしすぎ、外面的すぎるのが、グールドの平均律のいくつかの演奏では、もっとも気になったということかもしれない。ーーなどとグールドを貶したままではいられないので、ここはシュネデールの言葉を引用して、反作用としてのグールド賛をしておこう。

… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネーデル千葉文夫訳)

 平均律といえば第一巻の最終曲ロ短調が当時はひどく崇められており、少年時のことでわたくしもその尻馬に乗り至宝を扱うように熱心に聴いたのだが、リヒテルグルダに比べてグールドはいまでもわたくしにはちょっといけない。少年時リヒテルの沈潜した演奏に魅了されたのだが、たとえばさらに沈みこんだような演奏ユーリー・エゴロフーー彼は若くしてエイズで逝っているーー彼のものは最近になって初めて聴いたのだが、驚くべき、だが息が詰るような演奏だ。今のわたくしにはおそらく何度も繰り返して聴くのに耐えられそうもない。




《何度も繰り返して聴くのに耐えられそうもない》とは、もちろん修辞学的誇張である。音への、パートナーへの愛撫の仕方をよくわきまえた男の演奏だ。

エロスは、美しい肢体(てあし)を楽しく揃え、
すんなりと伸びた背丈の型をこね、
やさしいかんばせを整え、
さて、眉と眼と唇に指先を触れて
特別の触れ跡を残したのではないか。

ーーカヴァフィス「カフェの扉にて」 中井久夫訳


あるいは、音と沈黙は、どちらが地で図なのだろう、という問いを発してみたくなる演奏だ。
そして《答がある問いは ほんとうの問いではない》

沈黙は音と限りなく接していて、 音が次第に微かになり、消えていくとき、 音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。 逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、 ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。(高橋悠治


ここでは一息入れて、多くのバッハ演奏でそのペダル多用が気にならないでもない旧世代のエトヴィン・フィッシャーの、だが平均律ロ短調のすばらしく軽やかな演奏を聴いてみる。少なくともこのプレリュードはわたくしにはとても新鮮だ(フーガは? ノーコメント)。





内田光子は、「もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい」と語っているが、さて、ある種の演奏ではその抒情過多が鼻につく気味がないでもないーーシツレイ!ーーその彼女が演奏する平均律はどんなぐあいの演奏になるのだろうか。

ピアニストにはわたしのようにショパンを弾くタイプとリストを弾くタイプがあります。ショパンの美しさは例えようもないものです。詩的な感性のみならず明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています。ショパンの明確さと緻密さは、モーツァルトの作品と通じるところがありますね。見過ごしがちなことですが、各音符は然るべき場所に存在し重要な意味があります。単に美しい旋律が浮かんでくるのではありません。彼はバッハの音楽を細部まで暗記していました。ショパンはまことの音楽の源はバッハだと信じていたのです。ベートーヴェンは支持しませんでしたが、モーツァルトについては高く評価し尊敬していました。

 この先古い音楽と現代音楽の距離は縮まるでしょうか・・・半ば冗談で言わせてください。〝もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい〟とね。

 私は一人で弾いたり室内楽団と一緒に演奏することが好きです。また声楽家との共演を好み、シューベルトやシューマンの歌曲を愛しています。何よりリートの伴奏者としての演奏は私に向いているでしょう。(内田光子インタヴュー

…………

バッハのフーガは存在の主観外的な美を凝視させることによって、私たちに自分の気分、情熱と悲哀、自分自身を忘れさせたがるのに反して、ロマン派の旋律は私たちを自分自身のなかに沈みこませ、恐るべき強度で私たちの自我を感じさせ、外部にあるいっさいのものを忘れさせたがる。(クンデラ『裏切られた遺言』)





2014年7月6日日曜日

波紋のように空に散る笑いの泡立ち

@RichterBot: 何にも増して[ベートーヴェンの]ピアノ協奏曲第一番*が好きです。オーケストラが演奏しているのを聴くと、まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような、他の何とも異なる感覚に圧倒されます。*http://t.co/irZBfrbFjD. 

いいこというなあ、リヒテル
「まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような」なんて
初期ベートーヴェンは
このピアノコンチェルト一番だけじゃなくて
この感覚をあたえてくれる曲がおおいんだよなあ
1795年作曲だから25歳か
「波紋のように空に散る笑いの泡立ち」(大岡信「春のために」)
――なんだよなあ
ビロードの肌ざわりだよなあ、あの感覚

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出された時」)

ピアノコンチェルト2番もおなじ25歳のときの作品なんだな
「私はもう弾かない
初期のベートーヴェンだと軽くみるひとが多いからね」(ルドルフ・ゼルキン)だってさ



だいたい中期のアパッショーネとか皇帝をいつまでも好んでいるヤツってのは
なんとうか、あれは若い頃めぐりあって感動しておけばいいので
幼いころから音楽を聴きつづけていまだ好きなままでいるヤツってのは
信じがたいなあ
ホモセンチメンタリスじゃあないかい?

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』P295)

中期のベートーヴェンは、声をあげて泣くのだよなあ
《その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。
彼が誇張したとはいわないが
その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、
彼はよく知っていた》(吉田秀和)

いやいやなかにはいい曲もあるよ
気分にもよるしさ

でオレの好みをいってもしょうがないんだよな
どこかの馬の骨が好きだといってもね

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

リヒテルが好きっていうから意味があるのさ
田舎町で少年時代をおくったんだけど
県境をこえた隣町にリヒテルが訪れて
はじめて海外演奏家をまじかにみたのが
リヒテルでね
近親のものがヤマハで技師していてね
練習しているところ(ブラームスの間奏曲)をのぞかせてもらったんだなあ




だからリヒテルにはときにおいおいという演奏があっても
許しちゃうんだなあ

「波紋のように空に散る笑いの泡立ち」と引用して想いだしたけど
めったに聴かないストラヴィンスキーの
ーーConcerto for 2 solo pianosは1935年の作品かい?
五十歳すぎての作曲なんだなあ
「まるで輝いた光を放つ美しいものが現前したかのような」
あの泡立ちにくらくらするのは
この馬の骨の耳がへんなせいだろうよ




ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。(吉田秀和『私の好きな曲』)