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2014年6月17日火曜日

「内なる声 Innere Stimme」

シューマンのクララへの手紙より(1839年3月11日 結婚一年前)。

1週間以上もあなたに手紙を書いていませんでしたね。でも私はあなたの夢を見て、これまで経験したことのないほどの愛をもってあなたのことを想っています。ピアノの前に座っては、いっぺんに作曲しつつは文章を書き、笑いながら泣く毎日です。あなたにはこれらが全部、私のOp.20のグランド・フモレスケの中に美しく書き表されているのがわかることでしょう。曲はもう楽譜屋の手の中にあります。
私はこの世で起きるあらゆることから影響を受けて(……)その気持ちを表現したいと思っていたところ、音楽の中で表すという方法を見つけたのです。そのため私の楽曲は時に理解しがたいですが、それは音楽が色々な興味と結び付けられているからなのです。





譜例⑥を参照いただきたい。(……)三段譜表の中段に「内なる声Innere Stimme」と書かれた旋律の存在である。上段は右手で、下段は左手で奏されるが、中段の旋律は演奏されない。実はこれまで述べてきた譜例④の冒頭のバス旋律(複前打音がタイで伸ばされた音)は、譜例⑥の「内なる声」の旋律の前半四小節に書かれた二分音符による旋律d1-c1-b の音価を拡大したものである。さらに「内なる声」の続く4小節に書かれた四分音符(と二分音符)による旋律b-es1-d1-d1-c1-d1 は、譜例④のソプラノ旋律(第467 小節以下)と対応している。


この対応関係を踏まえた上で再び譜例⑥「内なる声」に目を向けると、後半四小節の旋律に強弱変化の記号がある。つまり、b からes1 にかけてクレッシェンド、d1 にディミヌエンドの指示がある(なお、d1 に対するディミヌエンドの指示は、三段譜表の最後を締めくくる二分音符d1 にも見られる)。

この部分と同じように対応する譜例④のコラール風の旋律にも強弱変化をつけると、音価を引き伸ばされた「内なる声」は、歌うように、音を伸ばしたり大きくしたり減衰したりできる「声」として聞こえてくるのである。(「内なる声が語るもの―シューマンの《フモレスケ》とフィスハルモニカ」 筒井はる香
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/art/pdf/sart-020-05.pdf)

◆Yves Natによる全曲演奏



Alicia de LarrochaVladimir HorowitzRadu LupuSviatoslav Richter

……シューマンの最も内省的な面の現れとして《フモレスケ》作品20の第2部に見られる「Innere Stimme=内なる声」を挙げたいと思います。中段に書かれた「内なる声」である音符は実際には演奏されず、ただ心の中で静かに歌われるべき旋律を意味しています。現実的な音響とは関係ないこうした書法や、モットーとしての詩の提示はシューマン独自の詩的世界の現れであり、シューマン以外ではほとんど考えられないことだと思います。

その一方で、シューマンはこの「一つの静かな音」とはクララであると彼女への手紙の中で書いています。この曲はクララのために献呈しようと計画されていました(実際出版された時には、ベートーヴェン記念碑の寄付を提唱したリストへ献呈されましたが)。シューマンは手紙の中で「第1楽章は私の書いた最も情熱的な曲でしょう。あなたへの深い嘆きです」と書いています。

1楽章の最後にアダージョの部分が突然出てくるのですが、この部分の旋律はベートーヴェンの《遥かなる恋人へ》という歌曲集からの引用であると言われています。シューマンが引用したというその歌は歌曲集の第6曲目にあたりますが、「さあ愛する君よ、以前に歌ったこの歌を受け取っておくれ。心の中からほとばしる、ただ憧れだけがこめられた歌を。そしてこの歌で、我々を隔てる邪魔物を消してしまおう」という内容の歌詞が付いているのです。これはシューマンからクララへのメッセージそのものといえます。シューマンは、ベートーヴェン記念碑のためにふさわしい、また自分自身の思いともマッチするベートーヴェンのこの曲を自身の《幻想曲》へさりげなく織り込んだのでした。楽譜を受け取ったクララは「幻想曲を読みながら美しい夢を見ました。このように深い印象を受けたことはありません」とシューマンへの手紙に書いています。聡明な女性であり、なおかつ優れた音楽家であったクララなら、すぐこのメッセージにも気付いたはずです。

シューマンにとっての「一つの静かな音」が自分自身の心の声なのか、クララのことを指しているのか断定することはもちろんできません。しかしロマン派の時代とは比較にならないくらい生活のおけるあらゆる点で進歩を遂げ、ほとんどの情報や物をすぐに手にできることができる私たちにとって、世界がますます雑多な音に満ち溢れ、どこかで静かに鳴っているはずの一つの音に耳をすますことが難しくなっていることは間違いないでしょう。(後藤友香理)


 ※ジジェクは90年代から、このシューマンの内なる声を繰りかえして語っているのだが、最近の書(『LESS THAN NOTHIING』2012)では、「内なる声」はドゥルーズの純粋差異のことだとしている(Slavoj Žižek: The Pure Difference)。ーーもっともジジェクが音楽や絵画を語るときは(少なくとも)額面通り受け取ると必要はない。

Deleuzian “pure difference” at its purest, if we may put it in this tautological way, is the purely virtual difference of an entity which repeats itself as totally identical with regard to its actual properties: “there are significant differences in the virtual intensities expressed in our actual sensations. These differences do not correspond to actual recognizable differences. That the shade of pink has changed in an identifiable way is not all-important. It is that the change is a sign of a re-arrangement of an infinity of other actual and virtual relations.”67 Does not such a pure difference take place in the repetition of the same actual melodic line in Robert Schumann’s “Humoresque”? This piece is to be read against the background of the gradual loss of the voice in Schumann’s songs: it is not a simple piano piece, but a song without the vocal line, with the vocal line reduced to silence, so that all we actually hear is the piano accompaniment. This is how one should read the famous “inner voice” (innere Stimme) added by Schumann (in the written score) as a third line between the two piano lines, higher and lower: as the vocal melodic line which remains a non-vocalized “inner voice” (which exists only as Augenmusik, music for the eyes only, in the guise of written notes). This absent melody is to be reconstructed on the basis of the fact that the first and third levels (the right and the left hand piano lines) do not relate to each other directly; that is, their relationship is not that of an immediate mirroring: in order to account for their interconnection, one is thus compelled to (re)construct a third, “virtual” intermediate level (melodic line) which, for structural reasons, cannot be played. Schumann takes this use of the absent melody to an apparently absurd level of self-reference when, later in the same fragment of “Humoresque,” he repeats the same two actually played melodic lines, yet this time the score contains no third absent melodic line, no inner voice―so that what is absent here is the absent melody, absence itself. How are we to play these notes when, at the level of what is actually to be played, they repeat the previous notes exactly? The actually played notes are deprived only of what is not there, of their constitutive lack; or, to refer to the Bible, they lose even that which they never had.68 Consequently, when we suspend the symbolic efficiency of the inexistent “third melody,” we do not simply return to the explicit line; what we get is a double negation―in the terms of the Lubitch joke, we do not get straight coffee, but a no-no-milk coffee;69 in terms of Schumann’s piece, we do not get a straight melody, but a melody which lacks the lack itself, in which the lacking “third line” is itself lacking.

…………

死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)

※ダヴィッド同盟舞曲集第十八曲とあるが、第十七曲の間違いか(ⅩⅦ Wie aus der Ferne(遠くからのように)、ⅩⅧ Nicht schnell (速くなく))。




痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)


2013年6月21日金曜日

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか(ジョン・ケージ)

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。(ジョン・ケージ @jcbotjp



《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させる》(武満徹)

――開かれた口という言葉は、閉ざされた耳という言葉を聯想させる


《どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。》(ロラン・バルト


あれらひとりでいられない者たち。

《芸術家が本当の意味で仕事をやれるのはまさに孤独のなかでしなかない。外的世界についてのその人の知識がつねに制限されていて、異物の侵入のせいで彼自身の想念とその実現を結び付ける一体性が破壊されたりしないような環境においてでしかない……ちょうどよい配分がどの程度なのかはわからないが、それでも、いわば直感から、ほかの人間と一時間一緒にいれば、x倍の時間はひとりでいる必要があると感じる……》(グレン・グールド)

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト「見出された時」)


あれら「外で吠える犬」たち。

ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間が自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。


思惟は孤独の営みである。世界は少しばかり沈黙しなければならない。だが自己喪失は思考のはたらきに致命傷を与える。想像するに、グールドがどうしようもなく孤独だったのは、「イン・オン・ザ・パーク」の部屋でフーガの対主題の開始のフレージングをどのようにやるべきかひとりで考えているときではなくて、コンサートの終わった後、満足したファンがいい気になって楽屋に押し寄せるのを迎えるときだったと思う。たぶんそのときの彼は、悪を「外で吠える犬だ」と呼んだ聖女テレサと同じように、悪霊に対して苛立っていたにちがいない。(ミシェル・シュネデール)

T. S. Eliot The Four Quartets(エリオット『四つの四重奏』第一部の詩篇「バーント・ノートンBurnt Norton」より)

Descend lower, descend only
Into the world of perpetual solitude,
World not world, but that which is not world,
Internal darkness, deprivation
And destitution of all property,
Dessication of the world of sense,
Evacuation of the world of fancy,
Inoperancy of the world of spirit;


低く降りてゆけ、ひたすら降りて
永遠なる孤独の世界
世界ではない世界、まさしく世界ではないものに向かってゆけ
内部の闇、
すべては財産の剥奪と没収
感覚世界は乾燥し
想像世界は中身が抜かれ
精神世界は活動がやむ

親しさではなく人混みへの愚かな愛。

孤独のなかに存在する、そこに困難がある。存在しつづけ、おのれの存在感情――もはや他者がいなくなっても存在し、そして存在しつづけるーーをたもちつづける、そして自分が誰であるかの意識、つまり自分であって、他者ではないという意識をたもちつづける。単純な事柄だと思う人々もいる。そう思う人々は自分たちの真の部分が間断なく存在しつづけ、しかも他者から離れることでたぶんそれがはじまるとさえ信じている。こうしてひとりになるとは、彼らの言い方にしたがえば、私生活、書きもの机、自分の寝室などの意味になるのだ。しかしながら多くの人々の場合、他者がいなくなれば、存在は解体し変質を遂げる(だが、他者がいなくなれば自分が無のなかに落ち込んでゆかざるをえないというなら、そのときこの他者なるものは果たして他者といえるのだろうか)。彼らは孤独でないかぎりにおいて存在するにすぎないのだ(親しさではなく人混みなのだ)。(シュネデール)

あれら、ホモ・センチメンタリス(ホモ・ヒステリクス)たち。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(クンデラ)

 ………

“それはふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否することです.(…)

1つの周期的リズムに多少とも結びつけられている音を聴くとき,私達は必然的に音そのものとは別のなにかを聞いているのです.音そのものではなく,音が組織されているという事実を聞くことになります.(…)

感情は,嗜好や記憶と同じように,あまりにも密接に自分自身に,自我(エゴ)に結びついています.感情は私たちが自らの内部に触れられたことを表し,嗜好は外部に触れられたことを各自のやり方で示すわけです.私たちは自我(エゴ)によって壁を築きます.しかしこの壁には,内部と外部が通じ合えるようなたった1枚の扉さえない.(…)

私は自分の感情から自由になろうとつとめています.そして自分の感情を殆ど主張しない人のほうが,感情がなんであるかを他の人々よりずっとよく知っていることに気づいたのです.”— ジョン・ケージ『小鳥たちのために』

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)


だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。


音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(シュネデール)

 なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。退屈しているのか、それとも孤独を失い自己喪失したいのか。あれら感情をひけらかそうとする「ホモ・センチメンテリス」、人混みへの愛、「外で吠える犬」の悪。それともたんなる「難聴者」なのだろうか。


いや、捏造された疑問符はやめにしよう。観客目当ての「演技」に決っている。

サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実でなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

そして、ひとは多かれ少なかれ、誰かの視線を求めることから免れない。だがその視線はいくつかのカテゴリーに分けられる。

クンデラ曰くは、

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)


これ以外にもあるだろう…(参照:「金儲け」の論理、あるいは守銭奴


少なくとも①②の観客目当ての演技によって失うものがある(③だって場合によってはそうだ)のを知らぬわけではあるまいに。
……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト「花さく乙女たちのかげに Ⅱ」)


※参照:John Cage quotes

2013年5月19日日曜日

ああ、またやってしまった。また、やってしまった

ああ、またやってしまった。また、やってしまったと、吹きぬける風に身をまかせてバスの唯一の乗客はつぶやく。いま、自分は、息苦しい地下鉄にもまれ、ごく当り前な乗客の一人としてその妻のかたわらに立ち、フランス語で繰り返される聞きなれた扇風機への悪口を黙ってうけながしていることもできたわけだ。だが二人は、つい十分ばかり前に、視線と視線で相手を攻撃しないながらものも言わずに別れて来た。こんなことが何度もあったと思いながら、なぜかもう我慢がならず、同じコースでの帰宅を拒絶しあったのである。

(……)それぞれ地下鉄とバスとの乗客になっている二人は、ついいましがた、出て来たばかりの映画館の前で、ほとんど狂暴なまでの苛立ちに同時に捉えられ、むしろ一時的にしてもたがいに避けあっていた方がよかろうと即座に判断したのだ。

(……)(その映画の)、何ということもない情景のつみかさねが、何ということもない技法で流れるように映像化されているのを目にして、自分は不覚にも涙を流してしまった。ほとんど背中をふるわせて泣いてしまったのだと、バスの唯一の乗客は回想する。椅子に埋めこまれた軀の小きざみな振動が、当然、隣の妻にも伝わってしまう。それから二時間後、(……)戸外の暑さをとり戻そうとする瞬間、妻は、いつもむつかしい顔で妙な思考ばかりをめぐらせている夫の顔を濡らした涙の意味を問いただす。なぜ、あなたは冒頭からあんなに他愛もなく泣いてしまったのか。(……)なぜ初めから、物語が語りだされる以前に、ああも簡単に涙など流してしまうものか。説明して頂戴。

夫は、この説明して頂戴に苛立つ。あの涙の原因をあれこれ言語化してみれば、全く不可能というわけではない。(……)だが夫は、それを言葉にするのを拒絶する。妻は、その拒絶にいらだつ。そしてその苛立ちを察知して夫は沈黙に閉じこもる。妻にはそれが我慢ならない。いま、二人がこうして地上と地下に別れて家路をいそいでいる理由は、そんな他愛もない話である。

この言葉への執着と沈黙の選択とが、感受性なるものの東西の文化的行き違いだなどともっともらしく言い張ったりはしまい。西欧的風土にあっても、口を開くべきでない状況はいくらでも存在するし、その点をめぐって、日本人はむしろ不謹慎なまでにおしゃべりな国民だとさえ妻は信じている。つまり、誰がいつ、饒舌となり寡黙となるか、問題はその条件をさぐることであり、無前提的に言語への執着と沈黙への志向とを西と東の文化圏に選り別ける仕草ほど不毛な試みはまたとあるまい。事実、夫が言語化を無理強いし、妻が言葉を拒絶したことからこれに似た険悪さが二人を距ててしまったことも何度かある。

(……)どちらかが相手の沈黙に自分を重ね合わせ、まるでそれがしめし合わせた合図でもあったかのように、二人は同時に別の方向に歩きはじめる。ああ、またやってしまったという同じつぶやきを反芻しながら、たがいに見えてはいない背中でいらだちをせいいっぱい誇張する。そして、別々の経路を興奮してたどったあげくに、決して約束してあったわけでもない同じ場所で、ついいましがた背を向けて別れあった相手と落ち合うのだ。(蓮實重彦『反日本語論』)



小津安二郎を愛するマリー=シャンタル・ヴァン・メルケベークと1966年知り合い親交を深め三年後結婚することになる蓮實重彦。愛するものを共有する夫妻であってさえかくの如くである。「映画」だけではない、「芸術」作品を他人と一緒に鑑賞することなど可能なのであろうか? もちろんここでの疑問符はいささか誇張というもので、友と一緒に鑑賞することは誰にでもできる。鑑賞後、友との会話で感動を語る幸福を、<あなた>がたは知っている。


そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。(『ゲルトマントのほう 二』 井上究一郎訳)


そう、<わたくし>のなかの伝達不可能な、唯一の真実な部分を犠牲にする、<偽の>幸福に耽ることができる。


……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(『花咲く乙女たちのかげに 二』)

…………


音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)


だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。 (ミシェル・シュネデール『グールド 孤独のアリア』)


こんなことは誰でも知っている、ただ忘れたふりをしているだけだ。芸術鑑賞を社交の場にのみ利用する輩以外は。あるいはいつまでも他人の手引きが必要な手合い以外は。あるいは、次のような芸術「愛」好家以外は、--とすれば、ほとんど「誰も知っていない」ということになる。

《彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせる。(……)彼らは芸術のなかにある真の養分を吸収しないから、つねに飢えを癒しえないあの病的飢餓症になやんで、たえず芸術的なよろこびを欲求するのだ。》(プルースト「見出された時」)




芸術鑑賞だけではない。


私が到着した日に私たちは一緒に庭の散歩に出かけた。ベンガル薔薇の生垣の前と通ったとき、突然彼は口を閉ざして立ちどまった。私もまた歩を止めたが、彼が再び歩きはじめたので私もそれにならった。やがて彼はもう一度立ちどもり、私に「少しここに残っていていいでしょうか、あの小さな薔薇の木を見ていたいのです」と言った。(……)城館をひと巡りしてから見ると、彼はあいかわらず同じ場所にいて、じっと薔薇を見つめていた。(……)彼は私が近づく足音を聞き、私の姿を見ていたのに、話すことも動くこともしたくない様子だった。そこで私は一言も発することなく通り過ぎた。一分間経ってからマルセルが私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、彼は私の方へ駈けて来るところだった。私に追いつくと彼は「気を悪くしなかった」かどうかたずねた。私は笑って彼を安心させ、とぎれた会話がまた始まった。薔薇の木については何も質問しなかった。寸評も冗談も言わなかった。そんなことをしてはいけないと内心で理解していたのだ……。


その後何度私は同じような場面に遭遇したことだろう。何度私はマルセルが自然と芸術と人生と完全に交感する神秘の瞬間を目撃したことだろう。……(レーナルド・アーン「散歩」吉田城訳)


ひとりになって時間を忘れるプルーストはいくらでもいる。その例のひとつ。


はじめ玄関を離れると私はゲルマント氏にいったのだった、当家所蔵の何点かのエルスチールを見せてもらうのが私の大きな望であると。(……)それから私は、絵のまえでしばらくひとりでいたいのだが、と公爵にいったので、ではのちほどまたサロンで自分のところへ顔をあわせにやってきてるださればいいのです、と言いのこして彼はつつましくひきさがったのだった。

ひとたびエルスチールの諸作品に面と向かうと、もうそれだけで、私はすっかり晩餐の時刻を忘れてしまった。 (……)

私がエルスチールの絵をながめているあいだも、到着する招待客たちの鳴らす呼鈴の音がはじめはたえまなくひびいていて、私の心をやさしくゆすぶっていたのであった。しかし、いつしかそれにとってかわった静けさ、そしてもうずいぶんまえからつづいているその静けさが、とうとうーーといってもそんなに急速にではなくーー私を夢想から呼びさました、(……)みんなに忘れられてしまったのではないか、みんなはテーブルについたのではないか、と私は思った、そしてあたふたとサロンのほうに向かった。(……)ここでの晩餐を自分からおくれさせてしまったことを考えてどきりとした。(プルースト「ゲルマントのほう 二」井上究一郎訳 p193)