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2014年11月3日月曜日

「諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう」(マルクス)

以下は社会保障給付の国際比較の図だが、やや古い(2009)が、現在も各国の比率は大きくは変わっていないだろうという前提(憶測)のもとに掲げる。


社会保障の給付と負担の現状と国際比較 厚生労働省2009


この図から、社会保障給付金の国民所得比率が西欧先進諸国に比べてひどく低いのが分かる。かつて80年代には「日本は世界で唯一成功した社会主義国家」で「格差が少ない平等な国」だなどと呼ばれたことのある日本のなんたる無惨さ! 日本の現状は、「自由主義」、「実力主義」のアングロサクソン国並である。とくに福祉(生活介護)などがひどく低レベルなのだから、ミクロ的には、公衆から文句がでるのは当たり前だ。

岩井克人は次のように言っているが(参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」)、日本はすでに英米型ということになる。

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

(先進国で比較する日本の税収と構成比率)

財政赤字がとんでもないことになったのは、90年代以降、超少子高齢化社会への急激な変貌が明らかだったにもかかわらずーー「二十一世紀は灰色の世界…働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって」渡辺美智雄1986ーー、税収が低いままに抑えられてきたのと、「失われた20年」の経済低迷、そして国民の将来への先送り気質などのせいだろう。

負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

いずれにせよ、ここまで財政が悪化してしまえば、いまさら社会保障制度の充実といっても遅いという見解もあるだろう。だが個別に文句をいう手合いを非難する筋合いは誰にもない。たとえば生活保護費の増は避けがたい。消費税増も、たしかにミクロ的には貧困者たちに打撃を与えるに相違ないので、庶民的正義派の「左翼」や「リベラル」のように、いつまでも反対しておればよろしい。






財務省

この図にある、消費税収が平成25年(2013年)から平成26年(2014年)に10.6兆円から15.3兆円に、4.7兆円アップになっているのは、5%→8%のせいだろう。消費税1ポイントアップは、年間2.5兆円ほどの税収になるとされており(参照:日本の財政破綻シナリオ)、その数字を使うなら、2.5×3×9/12(4月からの導入)=5.62となり、やや少な目の見積もりになっている。これは消費税導入後の買い控えも考慮されているということかどうかは、ちょっと分からない。

…………

で、「左翼」のみなさんが主張するように、消費税増反対して、社会保障費給付金を今より充実させたる主張を続けたらいい。カネがどこから来るのかしらないが。

「いのちとくらし」事務局長さんのなんという素晴らしいツイート!

河添 誠@kawazoemakoto

・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。

・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能

まだ若い「ほっとプラス」代表理事さんだって負けてはいない!

藤田孝典@fujitatakanori:

・みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

・ 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。



いや彼らだけがまったく理解不能の「奇矯さ」をもっているのではない、ここでご本尊のおでましを願うことにしよう。

日本共産党は、消費税増税に断固反対するとともに、消費税を増税しなくても、社会保障の拡充と財政再建のための財源をしめした「経済提言」の実現をめざしています。巨大開発などムダづかいの見直しや、大企業・大金持ちに応分の負担を求める税制改革こそ進めるべきです。国民の所得を増やして日本経済を立て直せば、税収も増やすことができます。(「赤旗」 2014年3月24日(月)

きっと民主党のかけごえばかりの宣言、《ムダの削減により16.8兆円を捻出する》などというマニフェストをしつつの数千億円しか減らせなかった軟弱ぶりではなく、実現性のある提言がなされることであろう、やはり共産党はスバラシ~イ! 

だがムダづかいを減らせるのはこの中からだけだ、じっくりみておこう。「その他」なんてぜんぶなくしちゃったらどうだい? ところで、それでも単年度の40兆円規模の財政赤字さえ埋まらないのだがどうしたもんだろう? ほかに1000兆円相当の累積赤字があってその利子支払い費だってバカにならないのだけれど。




小黒 そうですね。その視点は重要で、公務員人件費、議員の歳費の効率化に限らず、行政一般の効率化、すなわちムダの削減に終わりはなく、不断の見なおしを続けていかなければならないでしょう。実際、政府は、最近の「行政事業レビュー」という事業の見直し・効率化の取り組みをはじめ、ムダの削減を常に行っています。

しかし、多くの人がイメージするほど日本の政府支出は水ぶくれしているわけではなく、社会保障以外の政策的歳出については、すでにかなりスリム化してきているのが現状です。

 「ムダが多い」と言うのは簡単ですが、ムダと呼ばれているものが、じつは自分が日々使っている道路であったり、自分の子どもが通っている学校の先生の給料であるかもしれませんないのです。
なかには、だれの目にもムダな事業もあるでしょうが、そうした事業は金額的にはそう多くないのです。

―― たしかに、全体の割合としてはそれほど多くないというのは、逐一見ていかないとわからなかったですね。とにかく国債と社会保障が大きすぎるというのはよくわかりました。

小黒 前政権の民主党も、ムダの削減などにより16.8兆円を捻出するとマニフェストでうたいましたが、実際、ただちに壁につきあたり、鳴り物入りの事業仕分けでさえ、捻出できたのは数千億円にとどまっています。

 「節約してよ!」という気持ちはたいへんよくわかるのですが、仮に「その他」の30.9兆円の「その他」を全て削減しても、40兆円近い借金を無くすことはできません。

―― じゃあ、どうしたらいいんですか???

小黒 兆円単位で歳出を削減するためには、社会保障費に手をつけるしかないのが現状です。(小黒一正「どうして歳出減らせないの?」――30代のための財政入門【7】ーー「日本の財政破綻シナリオ」より)

さてここで敬愛すべき経済学者野口悠紀雄氏の2013年11月5日の「金利上昇がもたらす、悪夢のシナリオ」から図を付記しておこう。幸い今のところ国債の金利上昇は起こっていず、むしろ逆方向の「不可解な現象」が起こっているのは、「アベノミクスによる税収増と国債利払い増」にて見たが。


野口悠紀雄 金利上昇がもたらす、悪夢のシナリオ


2%金利なら国債利払い額だけで10年後には今のレベルの税収の半分、金利4%なってしまったら税収はすべて金利支払いとなってしまう。日本の今の国債がすぐさま4%の金利になるとは考えにくいがーー仮に金利が高くなっても、新規発行分と借り換え分のみに適用されるため、トータルの金利上昇はゆっくり進むーー、アベノミクスによりインフレが過熱してしまったり、財政破綻へのシナリオの悪循環が始まってしまえば、将来的には充分ありうる。世界の10年国債金利(2012.5)は次の通り。









さて話題を変えよう。

厚生労働省は、〈きみ〉たちの期待に沿うよう、現状投影ではなく、改善の方向で「社会保障に係る費用の将来推計について」という資料を提示しているじゃないか、メデタシ、メデタシ!


厚生労働省


2012年→2025年に社会保障費給付金が約40兆円増える推計になっている。そのうち、介護は倍増以上の11兆円。医療費だって35.1兆円→54兆円で、20兆円弱の伸び(後期高齢者が増えるという想定もあるのだろうが)、なんと5割増である。

社会保障費給付金40兆円増というのは、消費税1ポイントが、約2.5兆円だから、13年間で消費税16%相当のカネが必要なことになる。きっとアベノミクスの成功で、税収がバブル期ほどまでに増え、消費税増などしなくてもまかなえるという想定なんだろう、「左翼」のみなさんは。いやいや、上の一般会計税収の推移のグラフによれば、バブル期の最高税収は60兆円ほどだから、その最高時の税収でも足りないわけで、すなわちバブル期以上の税収を期待され、消費税増反対を唱えられるのかもしれない。

ところで毎年1%労働人口が減っていく国でどうやって目覚しい経済成長するんだろ? 共産党は移民反対だったな。とすれば、女性が輝く社会!、女性労働力のいっそうの拡充を! ってヤツだろ?


アベノミクスによる税収増と国債利払い増


あまりにも無責任だって? 元日銀理事の早川英男氏の「戯言」などほうっておけばよろしい、責任あふれる「左翼」のみなさんにとっては!

で、こういうことを書いて何がいいたいわけでもない。

ただ、最近ようやくわかって来たのは、「左翼」のみなさんは財政破綻を無意識的に願っていて、旧ソ連の崩壊後のように、平均寿命が急激に低下して、少子高齢化が革命的に是正されることではないか、ーーなどという錯覚にわたくしは閉じ篭りがちなことだ。ああ、なんというハシタナイ錯覚! 彼らはそんな冷酷でも無責任でもない人種にきまっている! とすればただの経済音痴のマヌケなのだろうか……いやマヌケなどと呼ぶシツレイなことをわたくしはけっして書かないタイプである、ただひどく近視眼な人たちなだけであろう、そして近視眼はかならずしも悪いことではない。

《偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フィリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)》(蓮實重彦 ヴェンダースとの対話『光をめぐって』所収)。そして、ゴダール、アンゲロプロス、ビクトル・エリセ……偉大なる日本の庶民派「左翼」も!

しかもラカンを変奏させれば、最も近視眼なひとは最も遠方を見ることができるのかもしれない。

《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(Lacan S16)

共産党のお方のヒドイ近視眼は反転して、理論経済学者たちのほどよい遠方とは訳が違う「至高」の遠方を垣間見ることさえできるのではないか?


高齢化社会対策の劇薬


劇薬服用するのがイヤだったら、大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(2013)によれば、消費税欧州諸国並にして、社会保障費を3割程度削減するしか他に道がないらしい。総額3割だったら、生活保護費はどうしても増すとするとしたら、年金や医療費は3割以上カットということになる。

だが、これだって高齢者どうやって生活するんだろ? 家族のあり方変えなくちゃいけないんだろうな。きっと真摯な「左翼」のみなさんがすでに、その近視眼を「遠近法的に倒錯」させて考えてくださっておられるだろう。彼らはヴェンダースやラカン的だけでなく、スピノザ的でもあるのだ!

社会保障制度全体の財源に占める公費負担割合を現在のまま一定とする前提で試算すると、代替率 82.4%を維持した場合、 2030 年頃でも 20%程度の消費税率でないと中央・地方政府の基礎的財政収支は均衡せず 、 社会保険料率は現在の 1.5 倍必要になる。 さらに、その状況を 2050 年頃まで延伸すると消費税率は 25%を超え、 社会保険料率は現在の約 2 倍となる。 これは、 現在 40%に満たない国民負担率51を 70%超に引き上げるということに相当する (なお 2011 年度の財政赤字を含む潜在的国民負担率は 48.6%)。代表的な福祉国家であるスウェーデンの現在の国民負担率が 62.5%(2009 年、潜在的国民負担率は 63.9%)であることなどに照らして、国民負担率 70%への道を辿るということは、日本の国家像や国民意識という点で考えにくいのではないか。

しかも、ここで消費税率 25%とは、かなり控えめにみた税率である。①医療や介護の物価は一般物価よりも上昇率が高いこと、②医療の高度化によって医療需要は実質的に拡大するトレンドを持つこと、③介護サービスの供給不足を解消するために介護報酬の引上げが求められる可能性が高いこと、④高い消費税率になれば軽減税率が導入される可能性があること、⑤社会保険料の増嵩を少しでも避けるために財源を保険料から税にシフトさせる公算が大きいこと――などの諸点を考慮すると、消費税率は早い段階でゆうに 30%を超えることになるだろう。

では、 代替率を抑制していけばどうだろうか。(……) 代替率を 1割抑制する程度では大きな効果は得られない。 だが、 代替率を現在から 3 割程度抑制できれば、状況はかなり違ってくる。年金・高齢者医療・介護に関する賃金で測った実質給付を今より 3割減らして平均代替率を 57.7%とすれば、 2030 年頃までは消費税率を 10%台半ばに抑制し、 2050年時点でも消費税率を代替率一定ケースの約 7 割に抑制できる。上で述べた①~⑤の要因を考えると、代替率 3 割引下げとは、今後の 30 年程度をかけて現在の大陸欧州並みの付加価値税率を目指していくシナリオといえよう。代替率 3 割の引下げは、現在の年金水準の高さや高齢者医療の自己負担割合の低さなどを考えると、実現不可能ではないと考えられる。


年金給付額は、物価スライド制やめて、消費税増スライドやめて、そして2%の経済成長によるインフレとなったら、実質は3割減ではなく、半額近くになっていく筈。そのときこそ共産党の真の提言のお出ましだ! 新しいアソシエーション、新しい家族! 未来は彼らの提言にかかっている!

もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう。(マルクス『フランスの内乱』)


実際、たとえば2016年より? は無理か、では2017年正月より毎年2%消費税増、2020年代半ばまでに徐々に社会保障費給付金3割カット、経済成長2%継続、そしてその間に国債金利が上昇しないことを神さまに祈るーー祈るのは神さまじゃなくマルクスやレーニンでもいいさ--このくらいしかないんじゃあないですか? 真のラディカル共産党さんよ、(そんな人はいないのは分かってるがね)、あなたたちの偉大なる「「経済提言」は? さて、どうでしょう? そこに新たなる「家族」案が入ってたら、それが真のマルクス的な提言じゃあないかしら?







2014年7月2日水曜日

資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(『資本論序文』)

――人はあるポジションにおかれたら、いくら「善」をなそうとしても、社会的な悪に染まってしまう。

《貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躪するものである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』p288

貨幣蓄蔵者は、黄金物神のために自分の欲情を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実なのだ。他方で、彼が流通から貨幣として引き上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものでしかない。彼は、生産すればするほど、多く売ることができるわけだ。だから、勤勉、節約、そして貪欲が、彼の主徳をなし、多くを売って少なく買うことが、彼の経済学のすべてをなす。(マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章第三節)
こういう絶対的な到富衝動、こういう情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通のものではあるが、しかし貨幣蓄蔵者が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な貨幣蓄蔵者である。貨幣蓄蔵者は、価値の休みなき増殖を、貨幣を流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。(『資本論』第一巻第二篇第四章第一節)

ここでドゥルーズの死の二年前のインタヴュー「思い出すこと」より抜き出すことにしよう(インタヴューそのものはドゥルーズの死後1995年に発表された)。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。


以下、ふたたび『トランスクリティーク』より。

なぜ資本主義の運動がはてしなく(endlessly)続かざるをえないか、という問い(……)。実は、それはend-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(p325-326)
……信用制度の下では、資本の自己増殖運動は、蓄積のためというよりも、むしろ「決済」を無限に先送りするために強いられたものとなる。つまり、資本の運動が、個々の資本家の「意志」を本当にこえてしまい、資本家に対して強制的なものとなるのは、このときからである。たとえば、設備投資は概ね銀行からの融資でなされるが、資本は借金と利子を返済するためには途中で活動を停止することができない。

資本の自己増殖運動を促進し、「売り」の危うさを減殺する「信用」が、資本の運動を無限(endless)に強制する。総体的にみれば、資本の自己運動は、自転車操業のように、「決済」を無限に先送りするためにこそ存続しなければならないのである。P344

 以下の建築家西沢大良氏のツイート(630日~7月1日)にも、資本のendlessな運動をめぐる示唆がみられる。《安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん》

…………

@tairanishizawa 
→集団的自衛権が容認されると、過去10年間米国で起きてきたことが日本でも起ります。つまり仕事をしたい人・お金が必要な人にたいして、特殊な人材派遣会社から電話がかかってくるようになる。別に若者だけじゃあないよ。中高年であれ女性であれ、電話がかかってくるようになる。

→西沢の知人S(米国人、西沢と同年齢)は、タクシー会社をクビになっった数ヶ月後、その手の電話をもらった(約10年前)。「就活イベントに参加しませんか」と。「Sさんの経歴を見込んで仕事をご紹介させて下さい」と。「ご自宅のある街で就活イベントを開きますので、ぜひご参加下さい」と。

→就活イベントの会場はホテルの宴会場。ビュッフェ形式で食べ放題のパーティー。ショーやスピーチもあった。帰りがけに「登録だけでもして下さいませんか」と請われたので登録した。その数週間後、その人材会社から再び電話がかかってきた。

Sはタクシー運転手時代、年収250万円だったが、「Sさんの腕を見込んで年収800万円の運転業務をご紹介します」と。「ついては詳しいご説明をオフィスでさせていただけませんか?」と。3ヶ月失業中の身であるSは、奥さんと子供の手前もあり、そのオフィスに説明だけ聞きに行った。

→話を聞くと「赴任先はイラクです」と。でも「後方支援物資を運ぶ運転手です。国連の平和維持活動部隊と同じエリアです。大型車両ですがSさんなら問題なく運転できます」と。「契約は1年ごとに年棒含めて見直しましょう」と。魅力的な話だったが、その場でサインはせず、契約書をもらって帰宅した。

→帰宅して奥さんと子供と激論になった。S家の当時の最大の悩みは、子供を大学に進学させられなくなりつつあったこと(Sの失業が原因)。だからイラクという赴任先は怖かったが、最終的にはその派遣の仕事を受けることに決めた。

Sがイラクに赴任したのはその3ヶ月後。仕事はトラックのドライバー。ただし運搬物は、正規の軍人たちが防護服とマスクを着用して搬入する。後になって劣化ウラン弾だろうと思い当たった。Sは防護服もマスクもなく、ジーンズとTシャツ。ほぼ丸腰で劣化ウラン弾から被爆し続けた。

→現地での最大の問題は水と食料。周りの正規軍人は米国から送られてきたペットボトルを飲む。でもSは民間の派遣社員だからその水にはありつけない。水も食物も現地調達せねばならない。現地の水(汚染水)を飲み続け、2ヶ月して下痢が止まらなくなり、鼻血も止まらなくなり、怖くなった。

→医者に診断してほしかったが、サインした契約書の一文が頭をよぎり、自制した。「万が一現地で被爆ないし化学兵器で障害を負った場合、法律で米国本土への輸送が禁じられているため、遺体を現地で焼却することに同意する」という一文。Sは本国に帰れなくなることを恐れ、医者にかからず仕事を続けた

→1年後、やっとの思いで米国に帰り、医者に見てもらったところ、急性白血病と診断された。すぐにでも治療を始めたかったが、米国では医療費が高価すぎて治せない。「じゃあどうしてるんだ?」と聞くと、「ネットで鎮痛剤を買って飲んでいる」と。

→「800万円はどうしたんだ?」と聞くと「500万は帰国前に現地で生きるために使った。水や食料代などを購入したが被爆は避けられなかった」「じゃあ残りは?」「帰国後の診断料や薬代ですぐに消えた」と。Sはその後も失業者。

→「息子はどうしたんだ?」と聞くと「大学は断念した。大学に進学するには奨学金をローンで借りなきゃいけなくて、すると返済のためにまた人材派遣会社にリクルートされる。俺と同じ目に遭うから大学は諦めろ、好きな仕事につけと諭した」と。

→これがいわゆる米国の経済徴兵制。正規の軍人以外に、膨大な民間人が戦場で働いている。皆お金に困った人たち(カードローンが返せないとか、就職できないとか)。
米国での戦争は、企業にとっての公共事業になっている。それが今やあらゆる業種に広がり、人材派遣業まで戦争で儲けている。

→安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん

→ちなみにテレビや全国新聞も、自民党とクリソツです。企業からの広告費で生き延びてるのが今のテレビと全国紙だもん。お金を出すヤツの考えを実現してくれるツールが近代情報産業であり、近代政党になっている。情けないことに、この近代情報産業が、近代都市を支える情報のあり方なんですよ。

→いずれにしても集団的自衛権ってのは、アホ中のアホの政策です。それは中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに大企業のケツをなめてるだけ。そうまでして大企業を活かそうとしても、カタチの上で生き延びてるだけで、実質潰れてるようなところばかりなのに。

→米国なら軍需産業に入る三菱重工とか日立とかだけじゃないよ。パナソニックも集団的自衛権してくれないと潰れちゃう。パナソニックは米軍にノーパソを納品してるけど、もっと納品しないと去年みたいに潰れそうになる。だから日本でも公共事業(戦争)を始めてほしい。経団連ってのはそんなのばっか。

→だけどね、どこのバカが大企業を活き伸びさせるために急性白血病になったり障害者になったりするかっての。別に若者だけの話じゃないよ。中高年や女性も同じだよ。Sがイラクに派遣されたのは47のとき。年齢も性別も業種も超えて戦争で稼ごうとするってのが、経済徴兵制の特徴なんだから。

→以上の話から、集団的自衛権ってのがいかにアホな政策かっていうのが、ちょっとは通じたかな。。。もし通じた方は、明日71に官邸前に来て下さい。安倍の強行採決はPM4時ころです。現時点ではデモ以外に阻止する方法がないから、ぜひ集まってください。

本日官邸前で質問してきた若者へ:
昨晩のツイート(経済徴兵制)は、初耳の人には信じ難いかもしれません。嘘だったら僕も嬉しいんですが、、、残念ながら事実です。米国のブルーカラーに知人がいれば(大都会のホワイトカラーではなく田舎のブルーカラー)、この手の話を聞かされてると思います。

→読み易い本もあります。下記の確か2の方に、経済徴兵制に引きずり込まれた米国市民の話が出ています。 この2冊は今後の日本人にとって必読書です。。。残念な紹介です。

★『ルポ・貧困大国アメリカ』堤未果、岩波新書2008

★『ルポ・貧困大国アメリカ2』堤未果、岩波新書2010





(@K_FILE_CAMP集団的自衛権についての歴代首相の見解。)


…………

資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。

資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。
「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。

剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽との、相同関係である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

2014年1月5日日曜日

現場主義とメタレベルの立場

 「非-全部はメタランゲージである」に引き続く。
私はカルテを読んで頭にはいりにくければ、朗読し、筆写し、ワープロに打つ。その間で何かが私の腑に落ちてくる。明敏な頭脳の人にはさぞ迂遠愚鈍な作業と思われるであろう。しかし、私にはそうしないとわからない何かがある。「刑事は現場を百遍踏むそうだ」と私は自ら慰める。(中井久夫「訳詩の生理学」)
病者と非病者は、対をなすものではない。病者が「有徴者」(印がついたものthe marked)であるのに対して、非病者は無徴者であるから、「非病者」という否定的表現しかできないはずであって、「健常者」ということばはおかしい。(中井久夫『治療文化論』1990)
被害者は「有徴者 the marked」である。疎外されがちである。この疎外はおそらく非有徴者たちの生存に有利なのだろう。共感しうる少数者は、その共感による苦痛と、当事者でないことによる一種の罪悪感あるいは後ろめたさとの間に板挟みになり、さらに一般大衆からの疎外感を味わう。建前はともかく、実際に心的外傷の治療を志す医師が少ないこと、そういう医師が孤立しがちなこと、心的外傷患者が精神科医にも必ずしも歓迎されていないのではないかという恐れは、まだ治療法が確立していないという理由だけによるものだろうか。被害者の弁護を進んで行う弁護士も少ないという。それは弁護士が「加害者でメシを食っている」ためだけではないだろう。それにもかかわらず、とにかく、少数の人たちは、心的外傷という苦しい領域に敢えてかかわろうとしている。わが国では一九九五年以後、特に顕著となったといってよいだろう。それまで、個人的不幸は個人が耐え忍ぶべきものとされていた。犯罪報道の過熱が問題にされる今であるが、一九七二、三年以前は犯罪、特に少年犯罪は報道されず、少年の犯罪だと聞いただけで、もう、新聞記者は警察から引き揚げたと『毎日新聞』に書いてあった。(中井久夫「トラウマについての断想」初出 2006『日時計の影』)

…………

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

このジジェクの文を、中井久夫のいう「有徴者」(被害者、病者)という語を使って、変奏してみよう。

――《有徴者にたいする差別について、非有徴者が声高に同情している場合は、とくに気をつけなければならない。「親有徴者的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、有徴者はか弱い生きものであり、侵入してくる非有徴者からだけではなく究極的には有徴者自身からも守らなくてはならない、という古い非有徴者=「健常者」優位主義的な神話があらわれる。》 

…………

私が「ああそうだ」とその世界を生で感じたのは、犯罪被害者死を遂げた人の家族たちとの会合である。犯罪被害者支援の集まりの後の夕食会であった。被害者家族たちの食卓には他の誰も座っていない。一席だけ空いているところに私は座った。

その卓だけ明らかに何かが違っていた。新たに被害者になった人たちに対して長く被害者家族でありつづけていた人たちが話しかけていた。今のあなたがたは自分たちがとおってきた道の初めのほうにいる、時間だけが救いだ、被害者同士しかわかりあえない、などなど。

それはしめやかな雰囲気などでは全然なかった。家族たちは大声で語り、笑い、ビールの杯を重ねた。それと語る内容との大きな開きが異様であった。それが呼吸に努力を要するほどの「空気の薄さ」を生んだ。隣の卓の学者同士の談話が遠い遠いものに聞こえた。

それは「基本的信頼」を失った痛々しい傷跡だった。ふつう、行きあう人間は何ごともなく行きあう。私たちの日常である。たいていはそれ済むのだが、それがいきなりそうでなくなった人たちである。それからその後に来るもの。世界全体ががらりと変わる。

考えてみれば、私たちの「基本的信頼」には根拠がない。「そういう保証があるか」というのは、議論において相手の言葉を詰まらせる必殺の技である。神さえそういう保証はしない。私たちは、大地に「揺るがないもの」という基本的信頼を置いて道を歩き、家を建てている。このいわれない仮定が覆ったのが震災被災者である。大西洋岸でのリスボンの地震が、この世はありうる世界の中の最善の世界であるという十八世紀西欧の楽観論哲学をくつがえしている。

いくつかの無根拠な基本的信頼にもとづいて私たちは生きている。物理的世界の恒常性も、私たちの心身の健康も、社会的基盤の確実さも、人々の善意も、実際は、それは私たちがお互いに生きてゆくことを可能にしている仮定にすぎない。それが無根拠・無理由のいわれない基本的信頼である。これを疑うことは「杞憂」といわれ、たいていはそれで済む。

それは確率の問題である。そして、私たちの寿命の短かさが、重大な犯罪被害に遭う確率、地震、洪水、噴火などに遭う確率を少なくしている。一般に私たちの寿命が短いために運が不平等なのだといえるだろう。無常感は一世にして多くを味わった戦乱の中世に生まれた。

しかし、それは第三者の立場に立っての言説である。当人たちも、わが身に起こるまでは「ひとごと」でもあった。犯罪被害者で、「それまではひとごとと思っていたからバチが当ったのだ」と感じておられる方もあった。わが身に起こってはじめて、起こったことは取り消せず、失ったものと時間が呼び戻せないことを身を以て味わう。それは人生の不条理を知り、理不尽を知る「実存的」体験である。(中井久夫『徴候・記憶・外傷』「あとがき」より)

精神科医は傭兵のようなものではないか、と言う(『治療文化論』)。

「苦しい時だけの傭兵だのみ」(……)傭兵が状況をこえることができないのは、精神科医と同じである。時に突然解雇される。決して、秩序回復の日に招待され表彰されることはない。

そして信頼できるのは自らの技術と状況把握力のみである。傭兵にもっとも必要とされる資質は「即興能力」ability of improvizationであるという。眼前の状況をとっさに把握し、手持ちの材料だけを用いて、状況から最大のメリットを搾り出す能力ability of exploitationということができる。やま場において、雇い主はもちろん、状況の中にいるひとたちの誰をも頼りにしてはいけないし、できないのである。

相似性については、なお尽きないが、とにかく精神科医は、以上のことを「歎き節」ではなく、いうまでもない自明の前提条件として受け容れるものでなくてはならないと私は思う。

ビンスヴァンガーに、「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」といったフロイトは、この辺りの事情がよくわかっていたのであろう。

だが傭兵だけではない、売春婦でもある、と。
もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(P197-198)

これら当事者側に立とうとする理想的な態度としてよいかもしれない。だが中井久夫は次のようにも語っていることを忘れてはならない。

《「相手の立場に立っての忠告」は相手を見下しての「おためごかし」としか受け取られない。》(意地の場について(中井久夫)


あるいはジジェクなら、《犠牲者に「本気で同情する」》ことをめぐってなんと語っているか。

……たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。(ジジェク『斜めから見る』p260)

被害者の側に立つこと、それは正義感の捌け口に終るだけでしかないことがままあるのだ。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

…………

ところで、メタレベルに立った言説はしばしば批判される。だがマルクスを想いだしてみよう。当事者、あるいは現場主義ではみえないものをみようとしたマルクスを。

レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。
分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるともしばしば語っている。

三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界(……)。

十九世紀は、一次的な証言の統合とは異質の視点からの事態の把握が、体系的な知の操作によっていくらも可能であることを人類に示した一時期でもあるということを忘れてはなるまい。

もちろん、その体系的な知にしても、所詮は一つの虚構に過ぎまい。だが、一つの有効な虚構を始動せしめることによって、直接的な情報の蒐集による歴史的な事件の了解とは比較にならぬ具体性をもって、証人の語る物語とは異質の物語が語りうるのである。(……)そうした直接的な証言性を超えた領域で、パリ・コミューンという歴史的なできごとの構造的な把握を可能にするだろう。一八七一年五月にパリにはいなかった一人の亡命ドイツ人が、ロンドンを一歩も離れることなくパリ・コミューンをめぐる興味深い物語を語りえたのはそのためである。(……)

問題は、マクシムにとって、その場に居合わせたわけでもない者に事態の分析を許す知の体系が、生身の証人が語る物語の限界をきわだたせるに充分な全体的視野の構築を許すという新たな説話論的な現象が、理解不能であったという点である。パリに育った生粋のパリジャンである自分だけが、パリという都会の蒙った騒乱の日々を語りうるのだと彼は信じて疑わない。(……)

(マクシムの)『パリ・コミューンの歴史』と「パリの痙攣」の二冊は、著者それぞれの政治的姿勢の違いにもかかわらず同じ構造の言説に属しており、基本的には、誰がより多くの正しい情報を持っているかという点にすべてが還元されるだろう。その場にいない人間に何が語れようかという、疲れを知らぬ旅人マクシムの一貫した立場(……)。

ところで、その場にいたという説話論的な特権の虚構的な肥大化こそがジャーナリズムの基盤なのだから、こうした立場はこんにちまで根強く生き残っている。だが、ある種の十九世紀的な知の配置は、この種の立場に明白なかたちでさからいながら、二十世紀的な物語を準備しつつあったといえる。実際、ロンドンに亡命中のドイツ人が、事態の推移に寄りそうようにして『フランスの内乱』を書きえたのは、マルクスがそのような知の配置に敏感であり、またその配置の変革に創造的に関わりえたからにほかならない。その説話論的な戦略は、話者の説話論的な特権の否定だといってよかろうが、それはまた同時に、その場にいたという説話論的な特権の虚構的な肥大化としてあるジャーナリズム的磁場の根底的な批判ともいえるだろう。あるいはまた、語ることそのものに露呈される階級性批判としてもよいが、別のいい方をするなら、旅行記的な言説の根本的な否定ということにもなろう。

(……)実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

現場主義には限界がある。そのことを熟知したうえで、刑事のように現場を百遍踏むのは構わない。現場に数度訪れただけで、己れの見たいところだけ見て「オレは現場を知っている」という手合いがもっとも厄介だ。だが「ジャーナリスト」などほとんどそんな連中ばかりではないか。


たとえば東浩紀氏が書いたものがわたしの心に響いてこないのは、それがカタログ的な知から構成されているよう に見えるからです。基本にあるのはジャック・デリダや量子力学の名を借りた思想カタログもしくは思想フィクショ ンです。実際に砂漠のなかを歩いたか、ジャングルのなかを歩いたか、実際に異国の地で何年も過ごしたか、という ような、生身の体験や根源的な危機感が感じられない。自らは安全な場所に身を置いて、頭の中で順列組み合わせで 知識を再構成している。厳しい言い方をすれば、人も羨むエリート大学卒業生が書斎で捏造した小賢しいフィクショ ンです。迷える子羊たちはその人の言うことについてさえ行けば何とかなると思ってしまう。藤田博史

…………

理論的な態度と実践的な態度があるとして、片方ばかりを称揚しても始まらない。

木村の精神病理学は、精神病理学というものの両翼である基礎構造論と失調破綻発病論のうちで前者に力点をいれているので、破綻と修復の過程をもっぱら関与的に観察している私と補いあう関係にある(中井久夫「世界における索引と徴候」)



2013年11月26日火曜日

民主主義の中の居心地悪さ(ジジェク)

以下、資料の列挙。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より))

次に同じ『斜めから見る』の「形式民主主義とそれに対する不満」の章からだが、この章の原題”Formal Democracy and its Discontents”はフロイトの読者ならすぐ気がつくように、『文化への不満』Civilization and Its Discontents (Das Unbehagen in der Kultur, 1930)からきており、旧訳の『文化への不満』(人文書院版)という題名は、新訳のフロイト全集版(岩波書店)では、『文化の中の居心地悪さ』と変更されている。ジジェクの章題も「民主主義の中の居心地悪さ」と変更してもよい内容になっている。

基本的な問いから出発しなくてはいけないーー民主主義の主体は誰か。ラカンの答えは明快である。ーー民主主義の主体は人間ではない。豊かな欲求、関心、信仰などをもった「人間」ではない。

民主主義の主体とは、精神分析の主体と同じく、抽象化されたデカルト主義的な主体、つまり個別的な内容をすべて除去した後に残る空疎な規則性に他ならない。

いいかえれば、コギト、すなわち空虚な点、あるいは残存物としての再帰的自己指示を生み出す、根源的疑念というデカルト主義的な方法と、あらゆる民主主義的な宣言の序文に見出される「(人種、性別、宗教、財産、社会的地位)にかかわらず、すべての人間は」という表現は、構造的に同質である。

この「にかかわらず」の中には抽象化という暴力的な行為が働いていることを見落としてはならない。

それはすべてのポジティヴな特徴の抽象化、すべての実体的・生来的な繋がりの崩壊であり、このことが、純粋な非実体的主体性の点としての、デカルト主義的なコギトと密接に相関している実体を生み出すのである。

ラカンは精神分析の主体をこの実体と結びつけ、人間は「非合理な」欲動の集積であるという「精神分析的人間観」に慣れているものを驚かした。

ラカンは、ポジティヴで実体的な同一性を主体に与えるような支えはいっさい構造的に存在しないのだということを示すために、主体を、斜線を引かれたSによってあらわす。

同一性が欠けているからこそ、精神分析理論においては同一化の概念がこれほど大きな役割を演じるのである。

主体は同一化によって、すなわち象徴的ネットワークにおける位置を保証してくれるなんらかの主人のシニフィアンに自分を同一化することによって、みずからの構造的欠損を埋めようとするのである。(……)

「民主主義」は根本的に「反人間主義的」である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無情な抽象化に合わせて作られたものである。民主主義という観念そのものの中には、具体的な人間の内容の充実とか、共同体の結束の真性とかの入る余地はない。民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。民主主義を「具体的内容」で満たそうとするすべての企ては、その動機がどんなに真摯なものであろうとも、遅かれ早かれ全体主義の誘惑に屈する。(ジジェク『斜めから見る』P304~)


民主主義は普通選挙制度にもっとも典型的に表われるパラドクスを原理的にはらんでいる。この制度においては、市民が自分の意志を表明することによっ て自らを政治的主体として実現するまさにその瞬間に、彼らは社会生活のネットワークのすべてから分離され、計算単位に還元されてしまう。数字が実体にとっ てかわる。民主主義はこのように、いわばデジタルな計算によって根拠づけられているのである。個人的意志を表明する選挙という機会が諸個人を数に還元し、 つまり、個人の単独性がその単独性を表現する行為によって消去されるというこのパラドクスを通じて、民主主義は主体を常にヒステリー状態に追いやる、と ジョーン・コプチェクは言う。そして、これはアメリカ的民主主義において特に顕著になるヒステリーである。

自らの〈根源的無垢〉というアメリカの感覚は、そのもっとも深い起源を、市民たちの 多様性にはかかわりなく、基本的な人間性が存在するという信念にもっている。民主主義は、〈メルティング・ポット〉、〈移民国家〉としてのアメリカが、自 らを国家として成立させるための普遍的数量詞なのである。すべての市民がアメリカ人と呼ばれうるとすれば、それは、何か実体的な特質をわれわれが共有しているからではなく、むしろ逆に、われわれすべてがこうした特質を脱ぎ捨て、肉体から分離された存在として法の前で自己を表出する権利を与えられたからである。我、自己自身から実体的アイデンティティを剥ぐ、故に、我市民である、ということだ。
私〉の単独性とは、私が包含されるあれこれのカテゴリーの属性ではない、私という主体固有の核である。主体が何らかの属性を表わす記号(白人、黒人、男 性、女性……)において主人に認知されるとき、差異は示差的な体系における相対的なものになり、〈他ならない私〉の単独性は失われてしまう。なぜなら、私 の単独性とは、あれこれの属性の総和ではなく、どんな属性にも還元されない残余にほかならないからだ。すべての実体的属性を剥ぎ取られることによりアメリカ人として登録された主体は、しかし、その普遍性においてではなく、ひとり一人の単独性において〈主人〉に認知されたいと望む。そのような単独性とは、属性として記述しえず記号化しえない、表象不可能で空虚な剰余であるから、この要求は到底実現不可能だ。だからこそ、アメリカ人はそのとき、ヒステリー的な態度によって主人を選出するのだとコプチェクは言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになるのである。コプ チェクはそれを、「アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている」と表現する。大文字の〈他者〉が主体の単独性を認知しそこなうからこそ、この単独性は傷つけられることなく保たれる。というよりもむしろ、〈他者〉によるこの認知の失敗として、主体の単独性が 形成される。アメリカの民主主義において、身体なきこの政治体の権力の場を占める主人=代理人としての大統領は、このように無能であるがゆえに愛される存在になりうる。コプチェクがここで念頭に置いているロナルド・レーガンはまさにそんな無能であるからこそ愛された〈王〉にほかならなかった。

…………

自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治のそれよりも複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではない実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。ほとんど常に自由の統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義を好む大衆によって貴族政治と見なされてきた。ここから進歩的な人間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生じる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求しているのは、大衆の運命の改善のためである。したがって、彼らが支持を求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への不信ないし無關心によって、自由の障害となるのも民衆なのである。(プルードン『連合の原理』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

…………

国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)緒関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)
……マルクスが、ブルジョア独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール一八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王権製においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際にそうではないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。

「ブルジョア独裁」とは、ブルジョア階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョア独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それは現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

※蛇足ながら、マルクスにおいて、「ブルジョア独裁」はもちろん「プロレタリア独裁」に対して否定的に語られている。


…………

◆附記:小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より。


【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。

【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】あるいは【論戦の戦術】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養の見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。

…………

浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か(2001年4月28日 東京大学駒場

……50~60年代の近代的な常識を叩き込むのはフランス革命に遡る思想。コンドルセらが、民主主義で全員が投票するのなら、全員の知識をかさ上げしなければ間違った判断が出されかねないから、民主制を衆愚政治から守るために最低限のパブリックな振る舞いを含めた最低限の知識を共有することが大事だと言っていて、日本も特に戦後、それを強調。ところがそれは押し付けられた西洋的理念であり建前だと相対化され、70~80年代になると教える側も自信をなくす。正しい近代の常識を身につけることが戦後の民主的な社会を合理的に作る基礎だとして、かつて教える側は過剰に自信を持っていた。だが今度は過剰に自信を喪失して、これは建前だけれども効率的に覚えて受験戦争を勝ち抜くために必要だという感じになった。そこで妙なことが起こった。68年までは自信を持った権威があって、それに対して学生が異議申し立てする図式があったが、今度は権威が空洞化し、相手に擦り寄った。性急な近代へのシニシズムが起こり、最低限の近代の良識が失われたのが80年代から90年代にかけて。
状況は絶望的だがここまでくれば怖いものはないというか、絶望的楽観主義という点において前進するしかないというのが今の状況。シニカルに構えるのがかっこよかった時代は終わっている。かっこ悪くても個々のローカルな場所で手探りしながら実践していく時期にきている。そういう実践がネットワークを作っていくと大変いいのではないか。




2013年7月14日日曜日

柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

Kojin Karatani,  "Revolution and Repetition"(「革命と反復」)UMBR(a) UTOPIA A Journal of the Unconscious 2008という論文がウェブ上にある。http://xa.yimg.com/kq/groups/19143263/185633726/name/Conferencia.pdf


この論が、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社2008に附記された評判の高い「表象と反復」と同じものなのか、ひょっとしてその日本文は、最初に英語で書かれたのかもしれないこの論文の和訳されたものなのか(事実、柄谷行人の『ヒューモアとしての唯物論』所収の最初のいくつかの文章はそういったものだ)、または『歴史と反復』(「定本 柄谷行人集 5」) の第一章序説に当たられた『ルイ・ボナパルトのブリューメル一八日』の変奏なのか、、さらにはまったく別のものなのかどうかは、それらの本が手元にないので判然としないが、いずれにせよ柄谷行人の主張が簡潔にして明晰に書かれた論文に相違ない。

柄谷行人の論文を英語で読むのもなかなかいいものだ、文体のある種の臭みが抜けている。

《晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。》(中井久夫「訳詩の生理学」)

"Revolution and Repetition"(「革命と反復」)は、《I believe that there is a repetition of history, and that it is possible to treat it scientifically. What is repeated is, to be sure, not an event but the structure, or the repetitive structure. Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well. However, it is only the repetitive structure that can be repeated.》ーー「反復されるのは出来事ではない、構造である(……)反復的構造のみが反復されうる」と書かれていることからも分るように、まずは、「構造主義者」としてのマルクスの影響のもとに書かれているとしてよい。構造主義の創始者のひとりとされるレヴィ=ストロースが、二人の真なる師としてマルクスとフロイトを挙げているのを想起しておこう(『悲しき熱帯』)。


ここで『ブリュメール』の翻訳者植村邦彦の論文から抜き出しておく。

エドワード・サイードは、文学批評の方法を論じたエッセイの中で小説と「情況的現実」との関係を論じながら、やや唐突に次のように述べている。「しかしながら、いかなる小説家も、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を書いたときのマルクスほどに現実的情況について明確な態度を取ることはできないだろう。私から見れば、現実的情況が甥[ルイ・ボナパルト]を革新者としてではなくて、偉大な叔父[ナポレオン]の笑劇的な反復者として仕立て上げたことを示すときの筆法の正確さがこれほどに才気あふれ、これほどに圧倒的な力をもって迫ってくる著作はない」。

サイードが強調する第一点は、「マルクスの方法にとって言語や表象は決定的な重要性を持って」おり、「マルクスがあらゆる言語上の工夫を活用していることが『ブリュメール18日』を知的文献のパラダイムたらしめ」ているということであり、第二は、ナポレオン伝説によって育まれた「実にひどい過ち」を修正するために、「書き換えられた歴史は再び書き換えることが可能であることを示」そうとするマルクスの「批評的意識」である。(植村邦彦『マルクスにおける歴史認識の方法――『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をめぐって――』)

さらに、『ブリュメール』におけるもっとも有名な一節を抜き出そう。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。(マルクス『ブリュメール』)

ジジェクの『ポストモダンの共産主義 ――はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』は、マルクスの文が和訳では副題となっているが、原題は、“First As Tragedy, Then As Farce2009である。

柄谷行人の『トランスクリティーク』では、『資本論』序文から引用され、次のように書かれる。

ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いてはいない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇〔カテゴリー〕の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』「まえがき」)

彼の「立場」は、社会的な構造を自然必然性としてみることである。ここでは「責任」が出てこない。だが、マルクスは、自然史的立場に立つことによって、すなわち、責任を括弧に入れることで、このような視点を獲得しているのだ。社会的な関係を「自然史的」過程として見るとき、彼は「理論的」態度をとったといってよい。これは、主観や責任の括弧入れであって、その否定ではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p182 岩波書店)


同じ文が『トランスクリティーク』p320にも引用され、《資本は自己増殖するかぎりで資本であり、それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係ない》とされており、要するに個々人はここでは主体でありえない、というマルクスの洞察をめぐる柄谷行人がいる。もちろん「構造主義」的思考は万能ではないのであり、構造主義の前提となっているメタレベル、つまり《構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい。》(ドゥルーズ「構造主義はなぜそうよばれるのか」)を柄谷行人は忘れているわけではない。だがドゥルーズのいう「超越論的」や、上に挙げた柄谷行人のいうような「責任」を、マルクスは括弧に括って語っているだけなのだ(肝心なのは「出来事」に決っている、だが「出来事」でさえも「構造」から出てくる場合が多いのだ、《Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well.》)。

「暗き先触れ」としての純粋な出来事は、ドゥルーズ(日本では蓮實重彦が最初期に紹介しているはずだ)やジジェクなど、バティウによる変奏もふくめて、再三語られてきた。《雷は相異なる強度の落差で炸裂するが、その雷には、見えない、感じられない、暗き先触れが先行しており、これが予め、雷の走るべき経路を、だが背面において、あたかも窪みの状態で示すかのように、決定する。》(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ーーこの文を読むと、わたくしは中井久夫の、《予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。》(「世界における索引と徴候」)をすぐさま想到してしまう。だが、その「予感」が、純粋な出来事=意味の発生器である無意味の「シーニュ」であるのかどうかは、ここでは保留しておく。


もちろん柄谷行人にも《けっして構造には還元できない出来事性》としての「出来事」の指摘がある。《「歴史」は、構造の外にある。いいかえれば、相称的(対称的)でないような関係のなかでの交通として生じる。実際は、ひとが言うような出来事のほとんどは、構造から作り出されたものである。だが、けっして構造に還元できない出来事性があり、それのみが歴史と呼ばれるべきである。》(「村上春樹の「風景」)

阿部) 語りの工夫や形式性の追求、何でそういうことを性懲りもなくやり続けてしまうのかというと、やはりフィクションにおけるリアリティーの問題に関係します。フィクションにおけるリアルというのは、現実の出来事を自然な形でかたどることではなくフィクションという形式を常に覆っている現実といいますか、その形式性を突き詰めるほどに浮き彫りになってしまうまがいものとしての不自然さをこそ指すのではないか。それはもちろん蓮實さんの著作を僕なりに読んできた中で考えついたことでもあるわけですが、自分にとっては創作上の基盤になっています。(……)フィクションを扱う創作において重要なのは、それぞれの表現形式に不可避的に備わっている不自然さ、その規則を忠実に守ることによって浮き彫りになってくる、これは現実ではないというリアリティーをこそ際立たせることなんじゃないかと思っています。蓮實重彦×阿部和重「特別対談 『ピストルズ』-小説という形式性の追求」

ほとんどの小説には、「純粋な出来事」がない。 構造から生まれた「出来事」しかない。パロディしかない。パロディだったらまだよい、最近ではバスティッシュしかない。

ここにおいて、パスティッシュが登場し、それとともにパロディは不可能となってしまう。パスティッシュとは、確かにパロディと同様に、特異なあるいはユニークなスタイルを模倣するものであり、文体という仮面をかぶって、死せる言葉で語ることである。しかし、パスティッシュとはそうした物真似を中立的な立場で実践することなのであり、パロディのもっていたような秘められた動機、つまり諧謔的な刺激や、嘲笑や、模倣されるものがそれに比較して滑稽に見えるようなノーマル(規範的な)何かが存在するという気分を、もってはいないのである。パスティッシュとは無表情なパロディ、つまりユーモアのセンスを失ったパロディなのである。パロディがウェイン・ブースによって、たとえば一八世紀の、安定した滑稽なアイロニーと呼ばれたものであるとするなら、パスティッシュとは一つの奇妙な実践、無表情なアイロニーの現代的な実践ということになろう。(フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」)

こうやって、柄谷行人の挑発的エクリチュールや発言が生まれることになる。

もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに“芸術家”を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。(柄谷行人「死語をめぐって」1990)

《――近代文学が終わったということ、旧来の知識人の文化が終わったということは、どこでも見られる現象ですね。ヨーロッパではアニメやマンガが流行しています。

柄谷)(日本発の)マンガやアニメが(世界的に)流行しようとも、少しもかまわないのです。それが日本文化であるとしたら、世界中が「日本化」しているといってもいいかもしれない。

しかし、実際には、世界は別に「日本化」していないのです。日本では、知的・倫理的な要素が死に絶えてしまった。それを嘲笑する人たち(動物化した人間達)が、幅を利かせている

サブカルチャーはいい、マンガはいい、アニメはすばらしいというようなことは、かつてはイロニーとしていわれていた。その限りで、一応の批評性があった。ところが、今の日本ではもうイロニーはありません。たんに夜郎自大の肯定があるだけです。はっきりいって、現在の日本には何も無い。そして回復の余地も無い。》(柄谷行人「イロニーなき終焉」「近代文学の終り」2005より)

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(同「近代文学の終り」)
《今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。》--この文の「文学」にいくつかの別の語を当てはめてみることもできるだろう。


ジジェクがドゥルーズの「暗き先触れ」、その純粋な出来事を顕揚する文を引用しようと思ったのだが、寄り道が長くなった。ここではドゥルーズ研究者の小泉氏によって簡潔にまとめられている文を取り出すだけにする。

……「もう一人別なるドゥルーズ、精神分析とヘーゲルにより近いドゥルーズ、その帰結がより破壊的なドゥルーズ」を際立たせること、これがジジェクの賭け金である。

別なるドゥルーズとは、とりわけ『意味の論理学』のドゥルーズである。ジジェクの解釈によれば、純粋な出来事=意味の発生器である無意味、言いかえるなら、不毛な場としての潜勢的なものを静的に発生させる準原因や暗き先触れ、これはヘーゲルの否定性やラカンのファルス=身体なき器官に相当するのであって、これが構造化する「影の劇場」こそが、昨今の政治左翼以上に、現実の変革においては決定的に重要なのである。ドゥルーズ自身はそのことに気づいていなかったからこそ、「内的に行き詰まって」ガタリの下へ走ったというわけである。(書評:スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』小泉義之より)


さて、ここで、ドゥルーズの最晩年のインタヴュー「思い出すこと」より抜き出すことにしよう。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。

ところで、そもそも「構造」とはなんなのか、そして「形式」とはどう違うのか。

私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

 《それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係ない》(マルクス=柄谷行人)--構造は主体よりも重要なのであり、たとえばいまわたくしはブログという構造の場で書いている。あるいは、ひとはSNSという構造の場(ツイッター、フェイスブックなど)で語る(ほとんどの場合、発酵のない条件反射的なパロールとして)。そこではひとはなによりも機能する形式(=構造)に囚われてしまう。資本家=インテリが情報を流し、消費者=非インテリが情報を受けとる。消費者もときには小商人として(つまり「にわか知識人」として)、情報を売ってみたくなる。SNSはほとんどの場合、「承認欲求」という資本(貨幣)を獲得するための守銭奴の情報の売り買いの場となっていることはないか。もちろん「承認欲求」などはいつでもある、だがSNSにおいては、情報の「形式的な」売買がすこぶる安易な「構造」を持っている。二一世紀十年が経って、かりに80年代の「ニュー・アカデミズム」の「笑劇としての反復」が窺われるのならば(ようするに当時は浅田彰の『構造と力』やらドゥルーズの本を抱えて街を歩くのがファッションになっていたのだがその「反復」があるとすれば)、SNSの「機能する形式」が大いに貢献しているのではないか。

彼等は相異なる生産物を交換において等価物として等置することにより、相異なる労働を人間的労働として等置する。彼らは意識していないが、しかしそう行なうのである。

だから、価値なるものの額(ひたい)には、それが何であるかということは書かれていない。むしろ価値が、どの労働生産物をも一つの社会的象形文字に転化する。のちにいたって、ひとびとは、この象形文字の意味を解こうとし、彼ら自身の社会的産物――けだし、価値としての諸使用対象の規定は言語と同じように彼らの社会的産物であるーーの秘密を探ろうとする。(マルクス『資本論』)
「意識しないが、しかしそう行なう」に注目しよう、そして「言語と同じように」に。ここで、マルクスはフロイトの「無意識」を先行して語っている、あるいは「無意識は言語と同じように構造化されている」(ラカン)を。つまるところ、言語(あるいは情報)の交換も、「守銭奴」の論理、マルクスの価値形態論の傘下なのだ。
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

情報の使用価値への欲望ではない、等価形態という「場」に立とうとする欲動(承認欲求という「貨幣」への無限の欲動)のため「情報」はフェティシュ=対象aとして機能していることはないか。《そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま》(茨木のり子「時代おくれ」)

《ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。》(ラカン「不安」セミネール)ーーもっとも、ここでのaは、厳密に言えば、objet (petit) aのaではなく、i(a)=イマジネールな他者の小文字のaであるだろうが、今は不問にする。
どんな対象もーーそれがもつ魅力がその直接的属性ではなく、それが構造内で占める場所によって生まれたものであるかぎりーー欲望の対象=原因として機能しうるが、われわれは構造的必然性から、その魅力は対象そのものに属しているのだという幻想の犠牲にならなければならない。(ジジェク『斜めから見る』)

小商人たちがリツイートやらファヴォやらを織り交ぜ、自らもなにやらつぶやいてみせるのは、《ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。/この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらす安心感の連帯と呼ぶべきものだが(……)、そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには他者に承認されたいという欲望しかありません。たとえば、他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない、そういうタイプの人が多い。最近の若手批評家などは、そういう人ばかりです。(柄谷行人『近代文学の終り』より)

ところで、ある時期から、構造主義批判があり、ポスト構造主義の言説が流通しているのは周知だろう。

「構造」は、はじめのうちは良き価値であったのに、あまりにもおおぜいの人びとの念頭で動きのない形式(「設計図」、「図式」、「モデル」)として考えられているということがあきらかになったとき、信用を失う羽目となった。が、幸いにも「構造化」ということばがそばにあった。そしてそれが、役わりを引き継ぎ、飛切の有力な価値を含意することとなったのだ。すなわち《つくり、おこなうこと》、倒錯的な(「何のあてもない」)費用支出、という価値である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

構造は作用する形式であることを忘れてはならない。もしそれを忘却しないなら、思考するためにはだれもが(――としておこう)まずは構造主義者でなくてはならない。

構造主義者、いったい誰がいまだにそうであろうか。ところが、彼はそうなのだ、少なくとも次のような点では。均等にさわがしい場所は、彼には構造性をもたないものに見える。なぜなら、その場所ではもはや沈黙か発言を選ぶ自由がないからだ(バーで、隣り合って人に彼は何回言ったことがあるだろう、《話ができませんね、あんまり音がうるさくて》)。構造とは、私にすくなくとも二項を提供するものであり、そこで私は自分の望むとおりにその一方にマークをつけ、他方を捨て去ることができる。それゆえ構造とは、つまることろ自由の(控えめな)担保である。あの日の私の沈黙にどうやってひとつの意味を与えてやれるだろうか、《どのみち》私は話ができない以上。(『彼自身』)

柄谷行人と蓮實重彦の対話をも抜き出そう。

蓮實)それにも、こっちはやや責任がないわけではないけれども、構造主義が定着しなかったのは、そもそも構造というものが思考しがたいというのが、ひとつあるわけでしょう。構造は図式ではなく機能する形式だという点で、思考の対象たりがたい。それはやはり歴史的な体験の欠如からくるものでしょうね、たぶん。だから機能する構造の歴史を見てゆけば、構造主義になるはずだということがあると思うわけ。

ただし、もうひとつ機能する形式に対する感性の不在ね。三島由紀夫だってそうした形式に対しての感性はまったくないと思うわけ。

柄谷)ないね。

蓮實)形とかフォルムとか、そういうものに対する感性が彼には欠けている。彼が持っているのは、機能を停止したあとの形式のイメージにすぎない。だからせいぜい安保の対応をどうかするという程度のことでしょう。形式は生きられていないですよね。

その形式に僕は魅かれます。だからレヴィ・ストロースを読んで、いろんな不満があったって、最終的にはやっぱり偉い人だ。三島を読むより、文学的に高度な興奮を与えてくれますもの。しかし、なぜ批評がフォルムを括弧に括った形で平気でいられるんだろう。

いわば形式に眩惑されていないわけね、眩惑されれば恐ろしくて逃げるやつが出てくると思う。それはいいのです。フォルムなんて怖くてやってられないっていって。ところが怖くて逃げているわけじゃなくて、それはそういうものもあるだろうけれども、適当にそれなしでやっていけると高を括って無感覚に安住する形で避けているだけなんですね。(『闘争のエチカ』)

あるいは。

柄谷)いま言われた形式のことでも、アリストテレスが形式と内容の区別をしたわけね。これはよく考えれば、すごく大きな問題なんですね。これをどう読むかでずっと批評がつづいてきたといってもよい。いろんな言い方をしても、この二元論は残っていますね。シニフィアンとシニフィエというような議論もその中にある。よく西欧の思考は二元論だから、それをこえなければならないというけれども、僕はそうは思わないんですね。「形式と内容」の区別が、形式主義を生みだすわけですからね。日本の思考においては、はじめから二元論が忌避される傾向がありますね。


蓮實)さっきの話に戻ると、二元論はだめだと、誰かが言ったらみんな信じちゃったわけですよ、結局は。なるほど形式と内容というのは、現実かどうかわからない。ただし概念としては機能するわけですよ、絶対に。それを機能させることが、形式というものに対する感性を養うことになるわけでしょう。


丸山圭三郎によると、アリストテレス的な単純な形式と内容は、シニフィアンとシニフィエではない。ソシュールには確かにもっと複雑な何かがある。しかし、それを先に言っちゃうと、概念として機能する二元論を消しちゃうわけですよ。一般には僕は二元論を回避する人間だと言われておりますけれどもね。そんなことないわけなんですよ。


僕も、どこかで形式と内容というのは、現実としては抽象でしかないという感じがしているわけです。ただし概念操作としては、明らかに機能しているし、僕もその機能に従って批評を書いたりするわけだし、ソシュールにしたってそうなんです。たぶん形式と内容といったものは、それ自体が大きなものとして括られて、ひとつの記号になっちゃうだろうということはわかっているけど、そのことを括弧に入れて仕事をせざるをえないわけですよ。こっちは二元論の罠に好んで落ちているわけで、べつに二元論を永遠に回避しようなんて思っているわけじゃない。二元論を回避するというのは、なんかのお終いであるわけですよ。そのなんかのお終いを自ら自分で演じて見せるほど、僕は図々しくもないし、またそれほど達観してもいないつもりです。


浅田君が二元論はいけないと言っているけれどもね。概念操作としては二元論というものは絶対必要なんですよ。(同上)

 …………

さてここで冒頭に戻って、"Revolution and Repetition"から、もうすこし引用する。

《Representation becomes actual repetition only when there is a structural similarity between the past and the present, that is to say, only when there is a repetitive structure inherent to the nation that transcends the consciousness of each individual.》

 《For instance, Giovanni Arrighi predicts that China will be the next hegemon in place of the Unites States. But I don't agree with him. No doubt China and India will be economic giants overwhelming the other empires, but as to whether China or India becomes a hegemon, that is another story.》

 《When capitalism is in crisis, the state will attempt to shore it up by all means. In this case, what is most likely is the world war.

Then, our most important and imminent task will be to create the transnational system to deter war, which is caused by the crisis of capitalism.》


柄谷行人=マルクスの歴史の反復的構造論は、基本的な部分では限りなく正しいのだろう(繰り返せば、超越論的主観の括弧入れをときに外してみる態度があるならば)。だが、柄谷行人によるその反復的構造論を周期説までに演繹して語ってしまうとき、その内実はひどく揺れ動くのであり(構造に還元できない出来事性によって逆に反復的構造が生まれるときもあるはずなのだが、おのれの発想に酔ってしまい--確かに示唆するところは大きいのだがーー、その観点が抜け落ちていはいないか、と疑いたくなるときがある)、それはかくの如し。

「歴史と反復」(『定本 柄谷行人集5』)の60年周期説は、近年120年周期説へと転回、1848年ヨーロッパ革命の1968年における反復構造など、世界資本主義の諸段階に即した対応関係が開示されつつあります第二回長池講義 高澤講義レジュメ)。


柄谷行人の周期説はわたくしの知る限り(いま憶い出す限り)、明治十年(西南戦争)と昭和十年(実際には昭和十一年 2.26事件)を対比させた「一九七〇年=昭和四十五年」1990という論文に始まる(『終焉をめぐって』)

明治十年は、1878年、昭和十年は、1935年なのだから、次の周期説は、そこからの「移動」である(いやこれは「移動」というより別の反復的構造なのだろう)。



このあと120年周期説への「移動」があるわけで、かつて、岩井克人との対談で、《コジューヴなんかも、歴史の終焉後はアメリカ的となるだろうと言ったり、次に日本的んいなるだろうと言ったり、しょっちゅう変えている。じつにいいかげんで(笑)。》(『終わりなき世界』p172)と語ったわけだが、これだけみると似たようなもので、「じつにいいかげん」と呟きたくなる。

もっともこの対談と同時期に、《コジューヴが「アメリカ」とか「日本」といっているのは、もともと実際のものではなく、ヘーゲルがそうしたように哲学的に反省された「原理」なのであって、そうでなければ滑稽な代物である。たとえば、「日本化」を「消費社会化」といいかえれば、コジューヴの考察はある妥当性と予見性をもっている。》(「歴史の終焉について」)と書いている。柄谷行人の洞察も「原理」として読む必要がある。そうであるならば、その妥当性と予見性は否定し難いものがある。

※コジューヴの有名な「日本的スノビズム」指摘の箇所は、ヘーゲル読解入門」の注にあり、たまたまウェブ上にその全文があるので、肝要な箇所を抜粋しておこう。
私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(一九五九年)後である。そこで私はその種において唯一の社会を見ることができた。その種において唯一のというのは、これが(農民であった秀吉により「封建制」が清算され、元々武士であったその後継者の家康により鎖国が構想され実現された後)ほとんど三百年の長きにわたって「歴史の終末」の期間の生活を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである。ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。  「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。


まあ、どんな作家にも毒のようなものがあるわけで、それが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなることはあるのだけれど、柄谷行人にも、その毒に耐えつつ読む必要があるといえるかもしれない。


柄谷行人が、足尾銅山事故と福島原発事故を重ねてみているのは周知の通り。

柄谷行人氏「足尾銅山鉱毒事件は(略)水俣病などとは異質な系列にある。それはむしろ福島原発事件に類似している。(略)類似するのは何よりも、足尾銅山が東京電力と同様に、国策民営企業だったということである」文藝春秋臨時増刊『3.11から一年 100人の作家の言葉』より

周期説が正しければ、足尾銅山暴動事件から、三年後に「大逆事件」であり、60年代の反復的構造からいえば70年の三島由紀夫自決がある。つまり福島原発事故から三年後の来年、「大逆事件」、もしくは「三島由紀夫自決」が起こるはずだ。原発再稼動があるとすれば、たとえばノーベル賞作家がハンガーストライキをして「自決」し(「自決」といっても、今は二一世紀なのだから、いろんな自決がある、あるいは二度目どころかなんども反復されて起こるなら、いっそうのみじめな笑劇としての「自決」かもしれない)、世界に注目されるなどということが起こらないとは限らない。

若者たちがこの一劃をひと廻りする間に、水のいらない鬚剃道具一式を差し入れに来た、昨日の段階であまりにムサクルシイふうだったので、という挨拶。その結果、鬚を剃った僕は、記者会見の模様がうつったこの夜のテレヴィ・ニュースで、鬚を伸ばしてやつれている参加者たちのうち、ひとり生き生きしているようで、妙に場ちがいなのだった。

ーーハンガー・ストライキの間はズルをして、どこかにひそんでいたのが、記者会見の場にはチャッカリあらわれている、という印象ねえ。……(大江健三郎『人生の親戚』)









2013年6月14日金曜日

母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)

バッハオーフェンの『母権制』をめぐって、少し前いくらかメモして、もう少し調べてみようと思ったのは、乱交、あるいは雑婚・集団婚への関心からだが、日本にも通い婚とか妻問い婚とかがあって、それを母権制に関連づける研究者もいるようだ(実際、子供ができれば、母方の家で養育される)。では「歌垣」とはなんだっただろう…、などと折口信夫や西郷信綱などにまで手を伸ばしだしたら、インターネット上の文献だけでも調べ始めたらキリがない。一週間でメゲ始めた。

まあ、結婚制度一般への興味もあって、それは、《「結婚」とは、もてない男を孤独から救う制度である。逆に言えば、自分で多くの友人や恋人を獲得する能力がある「もてる男」ならば、「結婚」などする必要がない。》(小谷野敦(『もてない男』)とか、タガメ女論、結婚とは《男性を”搾取”するシステム》などという文を垣間見たせいでもあるけどね。


とりあえず、手元の文献から、穏やか系の文をひとつ。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」)

ここにある母なる「無時間的なもの」は、ジョイスの「父なる時間、母なる空間(あるいは種)」Father's time, mother's species(クリスティヴァ引用によるが原出典不詳)を思い起させる。「無意識的なフェロモン」というのも、ひどく女性的なものを示唆する影響力であろうし、視覚偏重の文化から聴覚や嗅覚、触覚などへの目配りを忘れない中井久夫の真骨頂的な文で、そもそも視覚偏重が「父権社会」のひとつの特徴なのではないか、という問いを発してみることもできよう。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)


フロイトは、《家族が構成されたことと、人間の性欲が、もはや一種の客のようなものーーつまり、突然あらわれるが、いったん姿を消すとふたたび長いあいだまったく音信がないといったものーーとして登場するのではなく、いわば継続的な間借人として定着したことのあいだには関連がある》(「文化への不満」)としている。そしてこの文に注が付され、次のように書かれる。

生理機能としての性交の周期性はそのまま残ったけれども、心理的な意味での性欲がそれから受ける影響は、かえって逆になってしまった。この変化の最大の原因は、月経現象が男性の心理にあたえる影響の原動力だった嗅覚刺激の衰退である。すなわち、嗅覚刺激が果たしていた役割は視覚による興奮にとってかわられたのであって、視覚による興奮は間歇的性質の嗅覚刺激とは違い、一種の恒久的作用を維持することができたのだ。月経がタブーとされるようになったのは、すでに克服されてしまった発展段階の再登場防止の意味を持つこの「器官性抑圧」が原因であって、これ以外の動機はすべて二次的なものにすぎないように思われる。( C・D ・ダリイ『ヒンズー神話と去勢コンプレックス』参照)。古臭くなった文化時期の神々が魔神〔デーモン〕になるのも、これと同じ現象の別の次元での繰返しである。けれども嗅覚刺激の衰退という現象自体、人間が直立歩行する決心をつけて大地と訣別し、かくて、これまで隠蔽されていた生殖器が丸見えで保護を必要とするものになり、したがって羞恥心が生まれたことの結果である。こうしてみると、人類の呪いとなった文化というもののそもそもの発端は、人類の直立歩行という現象だったといえるだろう。その後事態は、嗅覚刺激がもつ意味の低下および月経現象の無視、視覚刺激の優位、性器の露出、性的興奮の持続、家族の成立から人類文化の開幕というふうにつぎつぎと進んでいったのだ。これはもちろん理論上の仮説にすぎないが、人間に近い動物の生活状況を手がかりになお詳細に検討してみる値打ちは充分にある。

いずれにせよ、最も女性的なものの近くにいるはずの文学者たちでさえもその視覚偏重は否定し難く、聴覚や嗅覚、触覚などの身体感覚の近くにいるのは稀少な女性の書き手たちであろうし、その女性たちでさえ、ドゥルーズ&ガタリによれば、エディプス的母親の支配のもとであればこうである、《最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。》(『千のプラトー』)

男女平等、わたしたち女性は云々、などと言いはなってフェミニスト風の言説を弄する女たちの大半は(すくなくとも少し前の「古い」フェミニストたちは)、男性社会の土俵で「男性化」した、つまり「父」と共犯関係を結ぶエディプス的女性に過ぎないのではないか、とはしばしば語られてきた(ラカンの愛の定義)。

女性独自のエクリチュールについて意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義者のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ。ここで問われるべきなのは、大がかりな二元的機械の内側で男性と女性を対立させる有機体や歴史や言表行為の主体ではない。というか、それだけが問題になっているのではない。ここではまず身体が、つまり二元的に対立する有機体を製造するためにわれわれから盗まれる身体が問題なのだ。(同『千のプラトー』)

「とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子」とは、マゾッホ的女性の理想像から導き出されるのではないか(参照:ドゥルーズのマゾッホ論『冷淡なものと残酷なもの le froid et le cruel』)。

マゾッホの理想的な「口唇的母親」は、《子宮的母親からその古代の娼妓的機能(売春行為)を奪う必要があり、それと同様に、エディプス的母親からそのサディスム的機能(懲罰行為)を奪う必要がある》のであり、それはオルギア(距離のない饗宴)の女性とも、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴さとも異質な存在だ。
女性は、反省的思考の前では感情的となり、粗野なものに対しては苛酷になったのである。冷淡さ、氷のような冷たさが、すべてのつとめを遂行してしまった。つまり感情性を男性の反省的思考の対象とし、残酷さを男性の粗暴さへの懲罰をとしてしまったのだ。冷たさを介して朋約を結ぶことによって、女性の感情性と残酷さとが男性に思考を強い、マゾッホ的理想像を構築するのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

まあ、これも古いフェミニストに言わせれば、勝手な理想像だね、ということになるのかもしれない。



ポール・ヴァレリー『カイエ』の「他者」をめぐる文を引用しつつ、中井久夫は次のように書いている、《荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。》、《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》(「感銘を受けた言葉」『アリアドネからの糸』所収)

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)
※この「他者」は、標準的な解釈では「言語」である。


上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化」を読むと、「性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい」やらカネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ」などと書かれている。

結婚は合法的売春である》とするのは上野千鶴子の専売特許ではなく、私有財産制を廃止するのなら、結婚制度も廃止しなければならないとする共産主義者たちの主張である。

売春は単に、労働者の普遍的な身売りの特殊形態にすぎない(マルクス『経済哲学草稿』)
“Prostitution is only a specific expression of the general prostitution of the labourer” K. Marx. Economic and philosophic manuscripts, 1844.


ニーチェ曰くも、《結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にある》(ニーチェ)。

※以上、ふたつに関連する文献を最後にもうすこし長く、あるいは別の文献をも含めて引用している。

ーーなぜ自慰ではすまないか、というのは、なんでだろうね。支配欲だけじゃないよな。

なによりも、触覚や嗅覚、聴覚などの身体感覚を求めるせいじゃないか。《触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。》(中井久夫「母子の時間」)--これは母胎内の話だけれどね。場合によっては、性行為によって、「無時間的なもの」を求めるといってもよいのかもしれない。--《無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう》、あるいはホルクハイマー&アドルノの《自分を失い他人と同化しようとする衝動》をもう一度想起しよう。


まあ、こう書けば、あの手の連中は、「小児性を克服できずに育った男たち」(「幼少の砌の髑髏」)と脊髄反射的に返すだけだろうけど。

上野千鶴子氏は、…《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》…、ーーほどよく「折り合い」がつけられてるのかね…自分のセクシュアリティと…あるいは他者のものと。


※もっとも、多くの男たちの振舞い(とくに若い男の)は。女たちにこういった感想を生みやすいことは否定しようもないけれど、《あたしは便器か/いつから/知りたくは、なかったんだが/疑ってしまった口に出して/聞いてしまったあきらかにして/しまわなければならなくなった?(「伊藤比呂美の<呪言>的リズム」)

…………

さて、前置きが長くなったが(つまりここでいったん切って別の投稿にすべきかもしれないが、そうせずに続ければ)、手許にある書籍で、母権にかかわるものは、フロイトや中井久夫の示唆するものぐらいで、フロイトはバッハオーフェンを読んでいたには違いないが、その名を言及する箇所はいまのところ見つからない。(6/17:『トーテムとタブー』の第四論文にバッハオーフェンの名あり p267 フロイト著作集3)


『トーテムとタブー』には、《トーテムは母系あるいは父系によって伝えられる。どこでも前者が本源的なもののようで、のちになってはじめて後者がとってかわったのだろう》(p151 人文書院)とはある。一般に父権制をベースとしてのみ考えられていると批判されるフロイトだが、どうもそれだけではないはずでありつつ、しかしながら「エディプス・コンプレックス」が理論の主柱であるには違いなく、バッハオーフェンに強い影響を受けたことが明らかなユングの「グレート・マザー」信仰に対抗する立場を固守するためなのか、『母権制』についての直接の言及はない。そもそも『トーテムとタブー』の冒頭にはこうある、《(この論文は)……民族心理学的素材をとり入れることによって個人心理学の諸問題を解決しようとするチューリッヒ精神分析学派の業績と対立する》。

ポール・ロビンソンによれば、フロイトはジェームズ・フレイザー (James Frazer)のトーテミズム研究を土台にして、人類の起源にまつわる神話を解明した。これにたいしてライヒはヨハン・バッハオーフェン (Johan Bachofen) 、ルイス・モーガン(Lewis Morgan) 、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels)、ブロニスラフ・マリノフスキー(Bronislaw Malinowski) らの著作から母権制の検討をはじめた。彼らの著作にあらわれた研究成果によれば、「母権制はいかなる支配体制をも欠如した状態」であり、それは、「マルクスのいう原始共産制の時期に該当する」のであり、「母権制社会では青少年が性欲にかんして完全に自由」であったという 。そのような立場から、ライヒは原始の母権制を民主主義的であり、性的に自由であったと賛美した。ところが父権制の発達とともに、禁欲主義のイデオロギーが発達したというのである。( フロイト左派utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-papers-j-reud-03.pdf)

フロイトはいったん脇に置き、再度中井久夫を引用するなら、母権制社会には、「つつしみがない……距離のない狂宴を伴う」、と書かれている。もちろん。これは「父なき世代」、つまり「超自我」なき世代である現代の「つつしみのなさ」批判(=吟味)としても読める文だ。

(……)父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。

宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』より)

このレリギオの欠如の時代をジジェクならこう書く。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)


「原初の父」の復活、とはこれだけ読めばいささか奇妙である、「父なき時代」であるはずなのに。だが「原初の父」とは「享楽の父」(すべての女を独占する原父)なのであり、そこには「つつしみ」などありようはずもない。

「エディプス」とか、「父の名」、「自我理想」などが語られるとき、それは「父性的な象徴権威」なのであり、「象徴界」の審級に属する。ところが「原初の父」「享楽の父」、あるいは享楽の父の変奏として「母なる超自我」が語られるとき、それは「現実界」に属する。

リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org
 “The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして「父なき世代」とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代の人たちということだ。

楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)

享楽(ジュイサンス)とは、快感ではなく、快感よりもむしろ痛みをもたらす暴力的な闖入なのであり、また、楽しむ(ジュイサンス)とは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ、気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうことである。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être  1999)――ZizekLESS THAN NOTHIG』(2012)より孫引き)

このFrançois Balmèsの文は、おそらく、ラカンの「現実は、現実界の顰め面」(『テレヴィジョン』)の変奏とも読めるはずだが、この文を援用して、上に書かれたことを意訳すれば、つぎのようになるのではないか。

――われわれの「超自我」は、かつては、「父の名」によって不器用に飼い馴らされた「享楽の父」のしかめ面であった。だが「父の名」の没落により、仮面が剥がれ、素顔の「享楽の父」(母なる超自我)の気味の悪い、歪んだ倫理的命令を発するリアルな「超自我」が回帰してしまった。


以下、「享楽の父」と「母なる超自我」をめぐるジジェクの説明を附記しよう。

オイディプス神話と、『トーテムとタブー』に描かれた原父殺しの神話とは、ふつう同じ神話の二つの版と見なされている。すなわち原父殺しの神話は、主体の個体発生の基本的表現としてのオイディプス神話が、神話的・先史的過去へと系統発生的に投影されたものと解釈されている。

ところが詳しく見てみると、この二つの神話はまったく非対称的であり、対立的ですらある。オイディプス神話は、われわれに享楽(近親相姦、すなわち母親との性的関係)を禁じるのは禁止の審級としての父親であるという前提の上に立っている。裏を返せば、父親を殺せば障害が取り除かれ、禁じられた対象を思う存分楽しむことができる、ということである。

原父殺しの神話が物語っているのはほとんどそれとは正反対のことであるーーー父殺しによって障害が除去されるわけではなく、享楽は結局われわれの手に入らない。それどころか、死んだ父は生きている父よりも強い。父殺しの後、死んだ父は父-の-名として、すなわち象徴的な法の審級として君臨し、われわれが享楽という禁断の果実に近づくのを断じて許さないのである。

なぜこのような強化が必要なのか。オイディプス神話では、結局のところ享楽の禁止がまだ外的障害として機能しており、その障害を取り除けばじゅうぶんな享楽が得られるという可能性を残している。だが享楽はすでにその本質からして不可能である。

ラカン理論のよく知られているテーゼの一つに、享楽への接近は語る主体には禁じられている、というのがある。父親像は、内在的不可能性に象徴的禁止という形式をあたえることによって、われわれをその袋小路から救い出してくれる。『トーテムとタブー』における原父殺しの神話は、この不可能な享楽を、享楽-の-父Father –of-Enjoymentという猥雑な姿に具現化することによって、すなわち禁止の審級の役割を担う当の人物に具現化することによって、オイディプス神話を補完している、いやより正確にいえば補足している。

そこにある幻想は、じゅうぶんに享楽を味わうことのできた主体が少なくとも一人いた(すべての女を独占する原父)という幻想である。したがって、享楽-の-父なるものは、父親は始めから死んでいた、つまり自分がすでに死んでいることを知らなかったという点を除けば一度も生きていなかった、という事実を見落とした神経症的幻想に他ならないのである。(ジジェク『斜めから見る』)


たいてい見過ごされているのは、 自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」 を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物になら ないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。(ジジェク『斜めから見る』――現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」より)



で、なんの話だったのか。実は、私有財産制を否定する共産主義者たちが、バッハオーフェンの『母権制』に注目すること(たとえば、マルクス、エンゲルス、レーニン)をめぐって、あるいは文化人類学者たちの言葉をメモしようと思ったのだが、すでに長くなり過ぎた…といっても次にいつメモするかもわからないので、そのいくつかだけでも附記しよう。


◆文化人類学者

《妻》や《夫》の語は、性的接近の権利を意味することなしに用いられることがあり得ず、そして実際にも用いられはしないのだ。性的接近の権利こそが、それらの語の意味の精髄をなすものである」(ブリフォールト『母性論』)

※ブリフォールトRobert Briffaultはマリノフスキーと結婚制度をめぐる論争もあった外科医、文化人類学者、小説家。

「すべての社会はメッセージの交換、財貨交換、女性の交換という最低三つの伝達形式を前提にしている。これらの水準の各々の研究は同じ方法によっている」(レヴィ=ストロース『構造人類学』)

◆マルクス『古代社会ノート』

一夫一妻婚家族が独立的に孤立した存在になることができるためには、どこででも家内的僕婢を前提としており、もともと僕婢はいたるところで直接的には奴隷たちであった
「一夫一妻婚へ持ち込んだ原動力は―富の増大と、子どもたち―合法的相続人たち―婚姻した一対の本当の子ども―への富の伝達の欲望であった」
 「一夫一妻婚家族について。まさに過去においてもそうであったように、それは社会が発展するにつれて発展し、社会の変化するにつれて変化しなければならない。それは社会制度の産物であり……両性の平等がえられるまでは、なおもより一層の改善がされうると想像されねばならない。文明のたえまない進歩を仮定して、一夫一妻婚家族が、遠い将来において、社会の要求にこたえることができないとしても、一夫一妻婚家族のあとにくるものの性質を、予言をすることはできない」

◆マルクス・エンゲルス『共産党宣言』

「ブルジョワの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えるとすれば、せいぜい、共産主義者は偽善的に内密んした婦人の共有の代わりに、公認の、公然たる婦人の共有を取り入れようとする、非難ぐらいであろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅する」(『共産党宣言』)
家族の廃止! 最も急進的な人々さえ、共産主義のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在のブルジョア的家族は、何に基礎を置いているのか? 資本に、私的営利にである。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、プロレタリアに強いられるところの家族喪失と公娼制度とがあるのである。ブルジョアの家族は、この補足がなくなるとともに当然なくなる、そして両者は資本の消滅とともに消滅する」(同上)

 ◆レーニンをめぐる

1929年、つまり24年にレーニンが没し、26年にトロッキーを追放して台頭したスターリンが支配の座を固める年に公式出版された『革命ロシアにおける恋愛・結婚・家族の問題』においてさえゼシカ・スミスがこう書いていることでもよくわかる。


「サヴエート政府の建設者たちの間では、所謂結婚なるものは国家と共に将来消滅するであらふと一般的に認められている」


これをレーニンの言葉に置き換えればこうである。革命直後の1917年12月19日、「 結婚の解体について」という布告を出したレーニンが1919年、婦人労働者会議の席上でいった言葉だ。


「立法化にあたっては、男女の地位を平等化するために必要な一切を考慮した。われわれの誇りうる点は……もっとも進歩的と称される国々と比較しても、理想的と呼ぶにふさわしいものといえよう。それにもかかわらず、それはほんの序の口にすぎないといえよう」


「諸君は皆完全なる平等の権利を以ってしても尚、婦人は抑圧されているということを知っている筈だ。何となれば彼女たちの双肩には、家庭の全負担が落ちかかっているからである。家庭労働は……婦人の進歩に助力し得る如何なる要素をも含んではいないのである」



…………


◆最後にニーチェの近代的結婚観。

…… 今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこを「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・その証拠は近代的結婚。近代的結婚のうちからは明白にあらゆる理性が失われてしまっている。しかしこれは結婚に対して異論をとなえるものではなく、近代性に対してである。結婚の理性 ――それは男性だけが法律的責任を負うことにあった。このことで結婚は重力をもっていたのに、今日では結婚は両脚でびっこをひいている。結婚の理性 ――それは原理的に離縁できないことにあった。このことで結婚は、感情、激情、瞬間の偶然に対して、心に聞くことを心得ている一つのアクセントをえていた。同じくそれは配偶者の選択に対して家族が責任を負うことにあった。人はますます寛大となって、恋愛結婚に有利なように、まさしく結婚の基礎を、結婚をしてはじめて一つの制度たらしめるものを除去してしまった。人は制度というものを或る特異体質のうえに建てることは絶対にない。すでに言ったごとく、結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にあるのであって、この支配欲が、家族という最小の支配形態をたえず組織化し、権力、感化、富の達成された量を生理学的にも固持するために、長い課題を、何百年かのあいだの本能の連帯性を準備するために、子供と後継者とを必要とするのである。制度としての結婚は、最大の、最も持続性のある組織形式の肯定をすでにそれ自身のうちにふくんでいる。だから、社会自身が全体として最も遠い世代の先までおのれを保証することができないなら、結婚は総じて意味をもたない。―― 近代的結婚はその意味を喪失した、 ――したがってそれは廃止されるのである。 ――(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」三十九  P130-131

…………


マゾッホの理想像は、大地の女神デメテールDemeter的な女性である。上にも挙げたように、《子宮的母親からその古代の娼妓的機能(売春行為)を奪う必要があり、それと同様に、エディプス的母親からそのサディスム的機能(懲罰行為)を奪う必要がある》のであり、それはオルギア(距離のない狂宴)の女性とも、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴さとも異質な存在。

もし、倒錯が大文字の他者を回復する試みなら、マゾッホ的な「母なる超自我」が望ましいということになるんじゃないか。

《鍵を握るのは倒錯の概念、精神病と神経症の中間、精神病者による<法>の排除と、神経症者の<法>への組み込みの中間……、倒錯とは<法>の支配の解体に対する答え、象徴による<禁止>を回復しようとする試みではないか。》(ジジェク“WHAT CAN PSYCHOANALYSIS TELL. US ABOUT CYBERSPACE?”)www.psybc.com/pdfs/library/Psa_Cyberspace.pdf‎

ーーこれはジジェクはすこし違う意味合いでいっているのだけれど(<法>との同一化という意味)。

このジジェクの文の、精神病者による<法>の排除は、古代の娼妓的な距離のない狂宴をもたらし、、神経症者の<法>への組み込みは、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴を生むことに注意しよう。

そして、《マゾヒスムは、二重の否認、つまり積極的で、理想的で、家長的な母親の否認(法と一体化した)と、父親(象徴的秩序から放逐されて)の無効的否認を遂行するのである。》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)なのであり、象徴的秩序から放逐された父とは、「享楽の父」のことであり、精神病的な法の排除によって齎されることは上でみた。法と一体化した家長的な母親とは、いうまでもなく、「父」と密約したエディプス的な女性像である。

※「否認」については、「フロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)」を参照。


最後にミレールが、ポストフェミニストの時代を語り、ふたりの女性をその象徴としている文を付記しよう。

In politics, the feminine enunciation is hence called to dominate. But be careful! It’s no longer about women who play elbows, modeling themselves on the men. We are entering an era of postfeminist women, women who, without bargaining, are ready to kill the political men. The transition was perfectly visible during Hillary’s campaign: she began playing the commander in chief and, since that didn’t work, what did she do? She sent a subliminal message, one that said something like: “Obama? He’s got nothing in the pants.” And she immediately took it back, but it was too late. Sarah Palin is not only picking up where she left off but, being younger by fifteen years, she is otherwise ferocious, slinging feminine sarcasm like a natural; she overtly castrates her male adversaries (and with such frank jubilation!) and their only recourse is to remain silent: they have no idea how to attack a woman who uses her femininity to ridicule them and reduce them to impotence. For the moment, a woman who plays the “castration” card is invincible.(Sarah Palin: Operation “Castration”Jacques-Alain Miller)