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2014年10月19日日曜日

聖者と道化、あるいはニーチェとラカン

ラカンの『同一化セミネール』には、《偉大な哲学者達は、彼らがはっきりと公表していることはまったく考えていないし、また、たとえばデカルトについても、彼はほとんど神を信じていなかった》云々とある。

このところフロイトとニーチェの仲良しぶりを探っているのだが、たまには息抜きをして、ラカン先生にお出まし願ったというわけだ。ラカンはニーチェの名を出すことはあまりなかったはずだが、名を出さないからといって影響を受けていないはずはない。

中井久夫はラカンとブランショの思想はヴァレリーから出たと断言しているそうだが(参照:書評『ヴァレリーの肖像』 清水徹 )、若いラカン派の精神科医曰く、「ラカン先生は自分が本当に参照しているテクストを隠す癖がある」などともある。これはひょっとして誰でもそうではないか。わたくしのようなものがブログを書く上でも、《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)でいる。

さて冒頭のラカンの言葉とニーチェを比べてみよう。

哲学者がかつてその本当の最後の意見を書物のなかに表現したとは信じない。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番 秋山英夫訳)

あるいはこう引用してもよい。

ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。(『悦ばしき知識』秋山英夫訳)

ここには「距離のパトス」が書かれていることをみるのは易しいが、世の中には不感症の連中も多いので、次の文を並べておこう。

人と人、階級と階級を隔てる深淵、種々のタイプの多様性、自分自身でありたい、卓越したものでありたいという意志、わたしが〈距離のパトス〉と呼ぶものは、あらゆる「強い」時代の特徴である》(ニーチェ『偶像の黄昏』原佑訳)

もちろん、これらの文もニーチェという「哲学者」が語っているのだから、《書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか》などと額面通り受け取らなくてもいいわけだ。ただ、翻訳文であるにもかかわらず、ギリシア人ニーチェの「音調」を聴く耳さえもっていればよろしい。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352ーー『幻影の哲学者ニーチェ』山口誠一よりーーおそらく氏の訳だろう)

《……(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)》(『彼自身によるロラン・バルト』)

強度、刺激、音調。それが思考である。思考が何を語るかはまた別の問題であり、思考が何を語ろうとも同じである。そして思考が何かに適用されれば、また他 の強度、他の刺激、他の音調が生み出される。いまやニーチェは、もはや概念的能力においてではなく、情緒的能力において、思考を実践しようとする。それは 一つの限界点。知が、悟性の平和のためにではもはやなく、〈カオス〉の呼びかけにも似た諸力の意のままに活動する、そのための手段のようなものを手にする 限界点にほかならない。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』「トリノの陶酔」兼子正勝訳)

ここにでてくる〈カオス〉という語彙を誤解してはならない。言語的に分節化されない一様な混沌、ソシュールの「星雲」といういささか迂闊な表現から丸山圭三郎が誤読したともいわれるーー実際そうなのかどうかは知るところではないがーー「コスモス=分節化されたもの」と「カオス=分節化以前のもの」のカオスではなく、《あらゆるものがもつれあっているが故にそれがカオスと呼ばれるのではなく、そこにあるすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっているが故にカオスなのである》(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて――ソシュールの記号概念をめぐって 丸山圭三郎の記憶に』)。すなわち、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいているものが、ここでのカオスである。

ニーチェは既に初期の段階で「概念」批判(吟味)として、無数の「木の葉」が犇く、その差異性を書いている。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」「哲学者に関する著作のための準備草案」1872∼1873ーー「dyssyntagmatismus者」たち、あるいはニーチェと樫村晴香

さらに、クロソウスキーは《強度、刺激、音調。それが思考である》としている。これについてもいささか捕捉するならばプルーストは「美しい書物は一種の外国語で書かれている」としたが、ニーチェの「音調」を流暢さと捉えてはならない。沈黙とスカンシオン(句読点、どもり)を綯い混ぜにした「音楽」を聴き取ること。そうすれば、不意に、馴れ親しんだ言語とはおよそ異なる「外国語」のさなかに自分を見いだし、あたりにつぶやかれている聞き馴れぬ物音に、ぎこちない吃音をたどるようにして耳を傾けることができる。すなわち、ギリシア人ニーチェの、言葉としては響かない「強度」、「刺激」、「音調」の洗礼をうける。この大気の流れにかすかでも触れえた者のみが、その表層に走り抜ける感知しえないほどの「暗き先触れ」に身をまかすことができる。

雷は相異なる強度の落差で炸裂するが、その雷には、見えない、感じられない、暗き先触れが先行しており、これが予め、雷の走るべき経路を、だが背面において、あたかも窪みの状態で示すかのように、決定する。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)


私は旗のように遠方に取り巻かれている
下のいろいろな事物(もの)がまだ身じろぎもしないのに
私は吹きよせる風を予感し それを生きなければならない
扉はまだおだやかに閉じ 暖炉のなかもひっそりしている
窓もまだふるえず 埃りも重たくつもっている

そのとき私はもう嵐を知って 海のように騒めいている
私は身をひろげたり 自分の中へ落ちこんだり
身を投げだしたりして たった孤り
大きな嵐のなかにいる

--リルケ「秋」(富士川英郎訳)


もちろん、「縁なき衆生」とは縁なきつもりでいるはしたない〈わたし〉や〈あなた〉、凡庸な資質しか所有していないにもかかわらず、 なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚に閉じ篭っている〈あなた方〉ーーすなわちギリシア人ではない〈わたくし〉や〈あなた〉だって、ニーチェの言葉、《生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ!》から、フーコーやドゥルーズのパクリを読みとるぐらいはできる。

すなわち、《外部は折り畳まれて内部へと陥没し存在に「襞」が生じる》というヤツだ。

〈わたくし〉が主体として構成されるのは、つまり「主体化」が行なわれるのは、ひとえにこの「褶曲」作用を通じて生れる…襞、それは外部でもなく内部でもない場所、中立性の空間…権力の網目のただなかにからめとられていながら、しかしそこだけぽっかりと空虚が穿たれ、関係しあい葛藤しあう諸力の自由な戯れが可能となる空白地帯…「生存の美学」を全うする能力を備えた倫理的主体としての「自己」とは、この「襞」の別名にほかならない…、

--ドゥルーズの『フーコー』にはこのように書かれるのだが、と読めば、フーコーの笑いさえ聞えて来るのが、「教養人」としての〈あなた〉のほどよい聡明さであろう…

《フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ

語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそのが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号)

ーーなどと引用しておれば、なかなかラカン先生にお出まし願えないので、ここでは当初の意図に戻ることにするなら、ラカンは『同一化セミネール』で次のように語っている。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。

ああ、ここにもニーチェがいるーー、ラカンはニーチェの名を口にすることはあまりなかったのは、フロイトに倣ったせいだとも憶測できる。


《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925 )

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)


あるいは、ラカンの「テレヴィジョン」の「聖人」をめぐる箇所。

実をいうと、聖人は自分に功徳があるとは考えません。だからといって、彼が道徳を持っていないというわけではありません。他の人たちにとって唯一困るのは、そのことが聖人をどこに運んで行くのかわからないということです。

私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこに到達していないからに違いありません。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑います。これが私の原則であり、ひいては資本主義的ディスクールからの脱却なのですが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならないでしょう。

《私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこにーー聖人にーー到達していないからに違いありません》だって?

パクリといったって、ラカンはニーチェよりも慎ましいじゃないかーー、《わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている》やら、《わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ》と書くニーチェよりも、ずっと慎ましい。


わたしはわたしの運命を知っている。いつかはわたしの名に、ある巨大なことへの思い出がむすびつけられるであろうーーかつて地上に例をみなかったほどの危機、最深処における良心の葛藤、それまで信じられ、求められ、神聖化されてきた一切のものを粉砕すべく呼び出された一つの決定への思い出が。わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。――しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。―― 一切の価値の価値転換。これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である。その自覚が、わたしの血肉となり、精髄となったのだ。わたしの運命は、わたしが最初のまともな人間であれねばならぬこと、数千年の虚偽と戦う自分だということを自覚することを欲している……わたしがはじめて真理を露わしたのだ、はじめて嘘を嘘と感じたことーー嗅ぎつけたことによって、わたしの天災はわたしの鼻孔にある……わたしは抗言する、これまでに行われたいかなる抗言よりも激しく。しかしそれにもかかわらず、わたしは否定精神とは正反対のものだ。わたしは、これまでに存在しなかったような福音の使者である。これまで誰も思いもよらなかったような高い使命を熟知している。わたしが出現して、やっとまた希望が生れたのだ。だがそれらすべてのことにもかかわらず、わたしは不可避的にまた宿命を担った人間である。なぜというに、真理が数千年にわたる虚偽と戦闘をはじめる以上、われわれはさまざまの激動に出会わざるをえないであろうから。かつて夢想もされなかったような大地のけいれん、山と谷との交替を経験するであろうから。そうなると政治などというものは、まったく亡霊どもの戦争になってしまう。古い社会の権力組織はすべて空中に飛散するーーそれらはすべて虚偽の上に立っているのだから。地上にためしのなかったような戦争が起こるだろう。わたしが現われてはじめて地上に大いなる政治が起こるのだ。――(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


《われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。

(一)〈力〉への意志に関して(〈力〉への意志が、「支配欲」を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じこむこと)。

(二)強い者と弱い者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。

(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。

(四)最も後期の諸作品に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。》(ドゥルーズ『ニーチェ』P74)




2014年10月10日金曜日

「オナニスト」ニーチェ

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そ して私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を 惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)

デリダ:《映画の中で、あなたにある問いが尋ねられました--「尊敬する哲学者になにでも尋ねることができるとしたら、なにを質問しますか」と。すると「性生活についてですね。決して話そうとしないことですから」と答えておられました。》(哲学クロニクル抜粋 映画『デリダ』記念インタビューまとめ

…………

コジマ・ワーグナーはニーチェからの手紙をすべて破棄してしまったそうだが、彼女の日記にはいくらかのニーチェについての記述が残っている。

たとえば1877年10月23日の日記には、《R(リヒャルト・ワーグナー)がニーチェの罹りつけの医師Dr. Otto Eiserへの長い手紙を送った》、という記述があり、続けて、《友の医学的忠告よりも医師の忠告を聞き入れるだろう》、と書かれている(英訳より)。

10-23-77 In the afternoon [R.] writes a long letter to Dr. Eiser in Frankfurt, who wrote a detailed report about our friend Nietzsche's state of health. R. says, "He (N.) is more likely to listen to the friendly advice of a medical man than to the medical advice of a friend."

どんな忠告だったのか、はコジマの日記には書かれてはいないが、ワーグナーの次のような手紙は残っている。もっとも日付はApril 4, 1878となっており、上のコジマの日記が書かれてから半年ほど経った後のものである。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。

"I have been thinking for some time, in connection with Nietzsche's malady, of similar cases I have observed among talented young intellectuals. I watched these young men go to rack and ruin, and realized only too painfully that such symptoms were the result of masturbation," Wagner on April 4, 1878

David Allisonは、1977年に出版されたThe New Nietzsche”にて、このワーグナーの手紙を引用しつつ、次のように書いている。

まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、完全にばらばらに崩れ堕ちた……1878年の春の出来事によって。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。

Quite simply, Nietzsche's world completely fell apart ... by the spring of 1878, when Wagner accused him of suffering from an excessive preoccupation with onanism, and this was revealed to Nietzsche by his physician, Dr. Otto Eiser, who, as President of the Frankfurt Wagner Circle, also Circulated Wagner's charge about Nietzsche's onanism to the assembled festival celebrants at Beyreuth. Nietzsche was humiliated, and forcibly had to remove himself from perhaps the single group of educated and cultivated figures with whom he would have enjoyed public contact and recognition. (David Allison “ The New Nietzsche”1977)

この出来事は、ニーチェの生涯纏わりつくトラウマになった筈であり、彼の「忘却」のすすめ、「同情嫌悪」などは、この心的外傷性記憶に由来するところが大きいのではないかとさえ憶測することができる。

たとえば『道徳の系譜』第二論文には、《健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえない》としつつ、また次のようにもあるのだ。

「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 P66-67)

烙印された記憶はトラウマであると読むことができる。

あるいはまた、ニーチェの友人たちは、ワーグナーによるオナニズム糾弾に触れて「同情」することにより、ニーチェの《誇りを苛酷に傷つけた》のではないか?

…わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う。そればかりでなく、自分の魂をも念入りに拭うのだ。

というのは、悩む者が悩んでいるのを見たとき、わたしはそのことを、かれの羞恥のゆえに恥じたのだから。また、かれを助けたとき、わたしはかれの誇りを苛酷に傷つけたのだから。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「同情者たちVon den Mitleidigen」手塚富雄訳)

1878年の春の「出来事」当時ニーチェ三十三歳。一年後にはバーゼル大学教授を辞職しーー果たして病気だけのせいで辞職したのだろうかーー、二年後には父が死んだ同じ齢、三十六歳となる。

わたしの父は、三十六歳で死んだ。きゃしゃで、やさしくて、病弱で、いわば人生の舞台をただ通り過ぎるだけの役割を定められている人だった。――生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出だった。父の生が下降したのと同じ年齢で、わたしの生も下降した。つまり三十六歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたもの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生れた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳 P17-18)

今気づいたのだが、ニーチェが5歳の時(1849年)にニーチェの父は死んでおり(36歳)、すなわちニーチェの父の生誕年は1813年前後となる。ワーグナー(1813-1883)は、ニーチェ(1844-1900)にとって、早死にした父のかわりでもあったはずだーー。

ここで、1880年に上梓された、――ニーチェが《わたしの最低の位置だった》状態から生れたとするーー『さすらい人とその影』から抜きだそう。


人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番 秋山英夫訳)


…………

深みへ、深みへ! わたしの釣り針よ。下れ、沈め、わたしの幸福という餌よ。おまえの最も甘美な露をしたたらせよ、わたしの心の蜜よ。深く食い込め、わたしの釣り針よ、あらゆる黒い悲愁の腹中に。

かなたへ、かなたへ! わたしの目よ。おお、わたしをめぐって、なんというあまたの海! 明けゆく人間の未来! そして頭上にはーーなんというばら色の静寂! なんという晴れわたった沈黙。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「蜜の供え物」手塚富雄訳)

《深く食い込め、わたしの釣り針よ、あらゆる黒い悲愁の腹中に。》

「あらゆる黒い悲愁の腹中」とは、過去の心的外傷性記憶の迷路=内耳(Labyrinth)とまでいうつもりはない、だが、ニーチェは最後までワーグナーの、いやワーグナー夫妻の、とてつもなく残酷な仕打ちの記憶から逃れられなかったのは確かだろう。

賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』)

『ニーチェ対ワーグナー』には《トリノにて1888年クリスマス フリードリヒ・ニーチェ》という署名があり、その僅か十日あまり後の、188913日がいわゆる「発狂」の日だ。この日、コジマ・ワーグナー宛に《アリアドネよ、私はお前を愛する。 ディオニュソス》との書簡が送られている。同日少し前の書簡にはこうもある。

「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」(Turin, January 3, 1889: Letter to Cosima Wagner)

そしてニーチェは、数ヵ月後、精神病者保護施設で「私の妻コジマが私をここに連れて来た」(March, 1889)と言明したとされる。

……to his guardians at the German asylum, Nietzsche declared, ''It was my wife Cosima Wagner who brought me here.''(The Will to Madness The story of Friedrich Nietzsche's fateful relationship with Richard and Cosima Wagner. By ALAN RYAN)

さて、『ニーチェ対ワーグナー  一心理学者の公文書』の「序言」にはこうある。

以下の諸章は残らず私の以前の諸著作から慎重に選び出されたものでありーーいくつかは1877年までさかのぼるがーー、おそらくはそこここで明瞭にされ、なかんずく短縮されている。これらの諸章は、次々に読んでもらえば、リヒアルト・ヴァーグナーに関しても、私に関しても疑惑の余地を残さないであろう。すなわち、私たちは対蹠者なのである。そのさいなおまた別のことも、たとえば、これは心理学者のためのエッセイであるが、ドイツ人のためのものではないということも理解されるであろう・・・(……) トリノにて1888年クリスマス フリードリヒ・ニーチェ

『ニーチェ対ワーグナー』の「結び」は、『悦ばしき知識』の《序言》三節と四節からである。

私は私の生涯の最も困難な年月になんらかの他の年月にもましていっそう深い義務を負っている》とあり、《私の長いあいだの病衰に関して言えば、私はそれに私の健康以上に言い知れぬほどはるかに多くのものを負っているのではなかろうか?》ともある。この「病衰」をただたんに「身体的」な病いとのみ考える謂れはない。ーー《大いなる苦痛、私たちがいわば時間のかかる生木でもって焼かれるがごときあの長期の緩慢な苦痛》などという表現もある。《時間のかかる生木でもって焼かれる》苦痛が、はたして身体的な苦痛だけであるだろうか。

もっともニーチェが若き頃より梅毒に罹患していたなら、進行性麻痺の症状として、それがあり得ることを否定するものではない。ここではヴァレリーの『カイエ』のなかの言葉を想起しておくだけにしよう。

《体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。》

私はしばしばこう自問してきた、私は私の生涯の最も困難な年月になんらかの他の年月にもましていっそう深い義務を負っているのではなかろうかと。私の最も内なる本性が私に教えているとおり、すべての必然的なものは、高所から眺めれば、また大きな経済という意味においては、有益なもの自体でもある、――人はそれに耐えるべきであるのみならず、人はそれを愛すべきである・・・運命愛 Amor fati  これが私の最も内なる本性である。――そして私の長いあいだの病衰に関して言えば、私はそれに私の健康以上に言い知れぬほどはるかに多くのものを負っているのではなかろうか? 私はこの長わずらいに、高次の健康を、それを殺すことのない一切のものによっていっそう強くなるそうした健康を、負っているのである! ――私はそれに私の哲学をも負っている・・・大いなる苦痛にしてはじめて、あらゆるUをXにする、正真正銘のXに、言いかえれば最後のものから二番目の文字にする大いなる疑念の教師として、精神の最後の解放者である・・・大いなる苦痛、私たちがいわば時間のかかる生木でもって焼かれるがごときあの長期の緩慢な苦痛にしてはじめてーー、私たち哲学者が、私たちの究極の深みへと降ってゆき、私たちがおそらく以前にはそのうちに私たちの人間性を置いておいたすべての信頼、すべての善良なもの、言い繕うもの、温和なもの、中位のものを身から振りすてることを余儀なくさせる。私は、はたしてそうした苦痛が「改善する」かどうかを疑うが、しかし私は、それが私たちを深めることを知っている・・・私たちがそうした苦痛に、私たちの矜持を、私たちの嘲笑を、私たちの意志力を対抗させることを学び、だから、どれほどひどく苦しめられても、毒舌によってその苦しめ手に対する埋め合わせをするインディアンと張りあうにせよ、また、私たちが苦痛のあまり、あの無のうちへと、唖のような、硬直した、聾のような自己放棄、自己忘却、自己抹殺のうちへと引きのくにせよ、人は、自己支配のそうした長期の危険な練習のなかから、いつくかの疑問符を、これまで以上にたずさえて、別の人間となって抜けでてくる、――なかんずく、これまで地上で問われてきた以上に、これからはいっそう多く、いっそう厳しく、いっそう冷酷に、いっそう意地悪く、いっそう静かに問う意志をたずさえて・・・生への信頼は消え失せている、生自身がひとつの問題となったのである。――このことで人は必然的に陰気な者と、ふくろう属となってしまうとは、けっして信じないでもらいたい! 生への愛さえなお可能である、――ただ人は別の愛し方をするにすぎない・・・それは、私たちに疑惑の念をおこさせる女に対する愛にほかならない・・・
このうえなく奇妙なことが一つある。それは、あとになって別の趣味をーー第二の趣味をもつにいたるということである。そうしたさまざまの深淵のうちから、大いなる疑惑の深淵のうちからさえ、人は新しく生れなおして帰ってくる、脱皮して、かつて以前にあったよりもいっそうくずぐったくなって、いっそう意地悪になって、歓びに対するいっそう繊細な趣味をそなえて、すべての優れた事物に対するいっそう柔らかな舌をそなえて、いっそう生きいきとした感覚をそなえて、歓びにおける第二のいっそう危険な無邪気さをそなえて、いっそう子供らしくなると同時に百倍も洗練されて。

おお、その人はいまや、享楽がいかに厭わしいことか、享楽者、私たちの「教養ある者」、私たちの富者や統治者のいつも解しているような、粗野な、鈍色の、褐色の享楽が、いかに厭わしいことか! 私たちはいまや、今日「教養ある」人間や大都会人が、アルコール飲料の助けをかりて、芸術、書物、音楽によって手ごめにされてそれで「精神的享楽」をたのしむ歳の市的大喧騒に、いかに意地悪く聞き耳をたてていることか! 私たちの耳にはいまや激情の芝居じみた叫喚がいかに痛くこたえることか、私たちの趣味には、教養ある賤民が好むロマン主義的擾乱や感覚の混乱の全部が、崇高なもの、高尚なもの、奇妙なものへの熱望をふくめて、いかに疎ましくなってしまったことか! いや、私たち快癒者が芸術をなお必要とするなら、それは別の芸術であるーー純なる炎のごとく一点の雲もない大空へと燃えあがるところの、嘲笑的な、軽快な、移ろいやすい、神的に屈託のない、神的に巧妙な芸術である! ……(『ニーチェ対ワーグナー』「結び」より 原佑訳)

これらの文を、1878年の出来事の記憶に苛まれるニーチェというレンズを通して読む方法もあるというだけで、それは冒頭のヴァレリーのいうような《彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない》ものかどうかは、わたくしの知るところではない。だが、われわれは、たとえば、これはアリアドネ=コジマ・ワーグナー説に関するヤスパースの見解なのだが、伝記的な謎解きは、哲学的意味の理解にはなんらの寄与をもたらさないという考え方に、囚われすぎているのではないか。

作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切り離して作品を論ずる気にはなれない。ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。(柄谷行人

ここ数日、”Nietzsche Wagner TRAUME”の語彙群で、ウェブ上を検索してみてはいるのだが、英文ではたいした指摘にはめぐり合えない。とはいえ、ここにいまわたくしが書いている文章は、”Out My Fishing Rod! Radical Uses of David B. Allison's Reading the New Nietzsche”(A. ALEXANDER ANTONOPOULOS,)に多くを負っており、そこに一箇所Allisonの引用として"Trauma"という語彙が出現するのだが、残念ながら詳しく追跡はされていない。

もっとも心的外傷ではなく、ニーチェ「精神病」説の論文は、"Were Nietzsche's Cardinal Ideas – Delusions? by Eva M. Cybulska"(2008)があり、上に書いたニーチェのワーグナーとニーチェの父の同一化の可能性が説かれている。また日本では樫村晴香のニーチェ分裂病説(統合失調説)が比較的よく知られている。

樫村晴香は、永劫回帰着想を分裂病の妄想と見なしていて、それってどうなんだろうと思っていたが、あながち大間違いでもないみたい。Wilhelm Lange-Eichbaumが、1948の研究で、進行性麻痺だがスキゾなところもあると見なし、「分裂病的進行麻痺」という言葉を使っている。(千葉雅也ツイート)


というわけで、ヴァレリーの言うように《我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない》にしても、これらの観点は、《何の役にも立たない》わけのものでもないように思う。

…………

なお18世紀から19世紀にかけて、いかに異様な反オナニズム運動が起こったのか、当時なぜ、マスターベーション(自慰)行為は、蛇蝎のごとく扱われ、《このときオナニスムはまるで今日のエイズを思わせるような扱いを受け》たのか。

これを巡っては、スイスの医師Samuel Tissotの“Tentamen de morbis ex manustupratione ”(1758)、すなわちティソ『オナニズム』や、フーコーの『異常者たち』Les anormauxなどを引用しつつの論文、「18世紀のオナニスム ティソを中心として 阿尾安泰」に詳しい。

これを読むと、19世紀のロマン主義芸術の興隆、梅毒の猖獗は、ひょっとして、この反オナニズム運動のせいではなかったか、とさえ疑いたくなるぐらいだ。17世紀まではたいして問題にもなっていなかった自慰,、その撲滅運動(主に精液=エネルギー流出説による)は、奇妙にも性交での精液流出は問題とされていなかった。

私は、二つの点において居心地の悪さを感じています。(……)なぜ、性的活動一般ではなく、自慰が問題となったのでしょうか。(…)次に、自慰撲滅運動の特権的な標的となるのが、労働する人々ではなく、子供ないし青少年である、という点も、やはり奇妙に思われます。しかも、この運動は、基本的に、ブルジョワ階級に属する子供や青少年を標的としています。(……)

自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)

…………

※附記:ヴァレリー詩のすぐれた翻訳者でもある中井久夫は、ヴァレリーがオナニストであったのではないかという推測を、こっそりとーー丸括弧つきでーー示してくれている。

(ここだけ私の医師に顔を出させてもらうが、彼(ヴァレリー)はストレートであり、敢えていえばおそらく masturbatorでもあったろう。「ナルシス断章第 Ⅱ」二五五― 二六一行の不定法の羅列で書かれている部分は、男女の情事と比べて男子同士が向かい合って夜を明かすことを「危険だが甘美」としている。この体験は思春期、青年期の男性においては決して稀ではない。不定法の使用は時間の停止あるいは、事態の(他のーー異性愛をも含む通俗的人生からの)解離を意味しているのか、のいずれかであろう。この際、程度の差はあれ、 mutual masturbationを伴っても不思議ではない。むろん、裸体同士の共寝に終わる場合もある。相手が親友ジッドであっても、この時期のジッドは相互自慰しかしていない。私はジッドがみずから喧伝するほどに同性愛者かどうかを疑っている、晩年を除いてであるがーー。) p319「ヴァレリーと私」『日時計の影』所収

もしこういう思いがあれば、ヴァレリー詩の訳語さえ異なった選択がなされることがあり得る。ニーチェの翻訳もしかり。

トラウマをあまりにも強調しすぎるのも、笑止千万なのは重々わかっているつもりだ。心に傷のない人間はなく、誰にでも、多かれ少なかれ持ち合わせているものであるのだから、-- 《季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう》(ランボー「地獄の一季節」)

だが1878年の春のは、やはり、ニーチェにとてつもない衝撃をもたらしたのではないか。それは過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueであり得るヴァレリーの20歳時の恋愛事件以上に。

彼はワーグナー夫妻とのあいだに甘美な記憶を持ちすぎている。そこでのあの仕打ちである。

ニーチェの処女作『悲劇の誕生』(1872)には、その決定稿にいたるまでに「ディオニュソス的世界観」と「悲劇的思想の誕生」という手稿があり、1870年のクリスマスに、その手稿のひとつが、ワーグナーの妻コージマの誕生日プレゼントとして捧げられている。このおなじ日、《ジークフリート牧歌》が初演されている。

《ジークフリート牧歌》は純粋に器楽用のものとしてヴァーグナーの書いた、ごく少数の曲の一つである。これは彼の息子ジークフリートの誕生を祝って、妻コジマの誕生日に当たる18701225日の朝、当時彼らが世間を避けて静かに暮らしていたトリプシェンの家で、初演された。(吉田秀和『私の好きな曲』)

ニーチェがワーグナーから離れたのちも、唯一の例外として顕揚された別名《トリプシェン牧歌》。彼は、この曲を愛し続けることをやめなかった。


――なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄のかわいい女であることである。……わたしは、ドイツ人が音楽とは何かであるかを知りうる力のあることを、断じて認めないだろう。(……)わたし自身は、依然としてポーランド人であることが抜けきらないので、ショパンを残すためには他の音楽を全部放棄してもよいという気持はある。ただし、三つの理由から、ワーグナーのジークフリート牧歌は例外としたい。おそらくはまた、すべての音楽家にまさって高貴なオーケストラ的アクセントをもつリストの作若干をも例外としよう。……(ニーチェ『この人を見よ』(手塚富雄訳)

ここに「リスト」の名が出てきているのにも注目しておこう。ニーチェは、リストの音楽を評価する口ぶりはあまりなかったはずだ。だが、この死後出版される1888年10~12月に執筆されたとされる書に、リストへの愛が語られる。反ユダヤ主義者でどうみても美人とはいえない、いまでは人気のない19世紀のヒロインであるとさえいえるコジマ・ワーグナーは、リストの娘である。


1861年; Wagnerの「トリスタン」ピアノ抜粋曲を知っての熱狂から始まり、そして1888年には《疲れたのである。(……)私はRichard Wagner以外には誰一人として所有してはいなかったからである。》と呟くことになる。

《ジークフリート牧歌》は、はじめ《トリプシェン牧歌》と題され、家族の内輪の音楽として、世間に公開するなど夢にも考えていなかった、という見解もあるようだ(E・ニューマン)。だがそんなことはどうでもいい、《今日この曲をきくものには、(……)ヴァーグナーの「室内楽」がききたい時、私たちはこれをきくのだ》(吉田秀和)。――そういうことだろう。

◆Richard Wagner - Siegfried Idyll




ーーこの演奏は、名高いチェビリダッケのものではなく、まさに「室内楽」のようであるショルティでなければならない(わたくしにとって)。

…………

以下は五十歳を過ぎて「女狂い」に陥り詩が書けなくなったヴァレリーをめぐる中井久夫の叙述である。《「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである》とある。ニーチェ(1844-1900)とコジマ(1837 - 1930)はわずか八歳違いである。

もっともアリアドネがコジマだというつもりは毛頭ない。いささかくだけた調子で書いた前投稿におけるロラン・バルトの引用を援用すれば、そこからアリアドネは享楽、あるいは対象aとすることができるのではないかと思う。ーー《「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。》

ラカンの対象aの最もシンプルな定義は、《私の中にあって私以上のもの》である。コジマの中にあってコジマ以上のもの、ニーチェの中にあってニーチェ以上のもの。

ーーだがこう書いたからといって、二人それぞれの中にあって、コジマ以上のもの、ニーチェ以上のものが、ワーグナーだというつもりもない。

《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)

ニーチェは遺稿の中で、「お前が迷宮だ」というディオニュソスの言葉をうけてアリアドネは「私のために英雄はみな破滅する運命なのです。これがテセウスに捧げる私の最後の愛です。<私はあの人を破滅させます>と言い返している、という指摘がある。(『賢くあれ アリアドネ:ニーチェ「ディオニュソス・ディテュランボス」第七歌の詩法(2) 高橋明彦より)

さて寄り道が長くなったが、中井久夫の文を引用してこの稿おわりとする。

「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』所収  p273)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)



2014年6月29日日曜日

「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」

周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)

…………

古井由吉は徳田秋声の「私小説」を次のように顕揚する。

まず意志からみる、意志から聞く、性格の事ではなかった、と私は見る。意志が最初の力として働いていれば、視野はおのずと自我を中心としてしぼられるだろう。時間もまた自我の方向性をもつ。ところが秋聲の小説においては、主人公が他者との葛藤の只中にあり、情念に揺すぶられている時でさえも、その姿は場面の中にあって、描写される。手法のことを言っているのではない。本質的に、描写される存在として、作者の目に映っているのである。これをたとえば漱石の、たとえば『道草』の同様の場面とくらべれば、差違は歴然とするはずだ。漱石の場合は、主人公の情念が場面に溢れ、場面を呑みこむ。つまり自我の空間となる。((……)

……自我を立てる。捩れていようと歪んでいようと、折れていようと曲がっていようと、とにかく自我を立てることによって成り立つ。それによって現実を得、現実を失う。そういう態の私小説にたいして、自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる態の私小説があり、秋聲文学は後者の第一人者ではないか。 (古井由吉「私小説を求めて」)

もちろんみずからこう叙すことからわかるように、これが古井由吉の小説の方法でもあるだろう。

とにかくある人物ができかかって、それが何者であるかを表さなくてはならないところにくると、いつも嫌な気がしてやめてしまう。そんなことばかりやつていたんです。で、なぜ書けるようになったかというと、本当に単純なばかばかしいことなんです。「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(……)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス(作家の方法)』)

――という文は、ヘルダーリン起源なのかもしれない(古井由吉はドイツ文学者でもある)。

もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳)

When I say: I am I, the Subject (Ego) and the Object (Ego) are not so united that absolutely no sundering can be undertaken, without destroying the essence of the thing that is to be sundered; on the contrary the Ego is only possible through this sundering of Ego from Ego. How can I say “I” without self‐consciousness? (Friedrich Hölderlin)

<ドイツ語原文>
Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn? Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? (Urtheil und Seyn)


…………

ところで、たとえば柄谷行人の『探求Ⅱ』にはこうある。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』P90)

《他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者》が、なぜ超越的(メタレベル)なのかは、他人を対象化して、おのれを階層的秩序の上においているからだ。《「メタ言語的陳述」と呼ばれているものは、支配の論理にほかならぬ(……)。「超=メタ」であることとはとりもなおさず階層的秩序の上位に位置することを意味する》(蓮實重彦『物語批判序説』)

柄谷行人の文は、メタレベルがありえないこと、あるいはデカルトの「超越論的態度」を称揚する「内容」をもっている。言表内容としては、メタレベル批判である。だが言表行為に注目してみよう。とすればたちまちメタレベルがありえないことをメタレベルから語っているようにみえないでもない。すなわち超越論的態度を顕揚する超越的ディスクールであると。もちろん文章を短く切り取ったからいっそうそのように見え勝ちだという側面はあるが、この文の前後を読んでみても、上方に向かっていて、《横に出ること》をしていないという印象を受ける(あくまでわたくしの印象である)。

古井由吉の云う《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》姿態、--ここではその態度を「超越論的」態度としてみるがーーそれをみることはむずかしい。これがロラン・バルトが支配の論理、父性原理の権化である論文形式をひどく嫌った理由であろう。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)
メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

ーーだがバルトの言葉さえこうやって抜き出せば、メタレベルではないか、という疑義が湧かないでもない。バルトが最晩年のコレージュ・ド・フランスの講義の主題は、『小説の準備Ⅰ、Ⅱ』(1978~1980)であったこと、プルーストのような小説を書きたいと願ったことはそれにかかわる。バルトはこの講義録の導入部で、次の日記を読み上げている。

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー嘘によってしか愛するものを語ることはできない


…………

…… 自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人では ないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて 語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつね に自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿 たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。 (フーコー『外の思考』豊崎光一訳)
……の作品はこの分裂を、言葉のさまざまに異 なる水準への絶えざる移行によって、言葉を口にしたばかりの〈私〉、もうすでに言葉を繰りひろげたり言葉の中に腰を据える用意ができている〈私〉に対する 組織的な断絶によって、はるかにまざまざと示しているのだ-時間における断絶(「私はこれを書いていた」とか、さらに、「私が後もどりして、またこの道を 行くなら」)、言葉とそれを語る人とのあいだの距たりにおける断絶(日記、手帖、詩、短編、省察、論証的言説など)、思考し書く主権性に内部的な断絶(著 述、無署名の文章、自分の著述に寄せる序文、付加したノートなど)。そして、哲学する主体のこの消滅の中核をこそ、哲学的言語は迷路の中でのように前進し てゆくのであり、それも主体をふたたび見出すためにではなくて、その喪失を(しかもその言語によって)限界に至るまで、ということはその実体が現出する、 だがすでに失われ、全面的にみずからの外に拡がって、絶対的空虚に至るほどに自己を空虚にされて現出するあの開口に至るまで、経験するためなのだ……。(同上)

…………

ここで唐突に、超越的/超越論的とは、じつはイロニー/ユーモア的態度のことではないか、という問いを発してみよう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

柄谷行人は『ヒューモアとしての唯物論』でフロイトのこの論文をめぐって次のように書いている。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(……)それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。

他方、ドゥルーズは「ユーモア」はフロイトのいうような超自我の態度ではないとする。

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P154 蓮實重彦訳ーー「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト)

「ユーモア」とは「横にずれること」だと読みうる主張である。それは《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》態度なのではないか。

――と書くわたくしは、メタレヴェルに立って書いていることに自覚的でなければならないだろう。

かつて浅田彰がどこかでイロニーの人柄谷行人とユーモアの人蓮實重彦としつつ、両者の態度は知らぬまに反転しているようにみえる、すなわち柄谷行人がユーモア的に、蓮實重彦がイロニー的に感じられるときもある、と語っていたはずだが、どこでだったかは思い出せない。

今、いろいろ書いている人(蓮實重彦、渡部直己、高橋源一郎)は、ロマンティシュ・イロニーの現代版だね。あえて無意味なものを選んで戯れて、自己意識の優位性を確保するといった審美的姿勢だ。しかし保田與重郎には、上田秋成と同じく、激烈なもの、奇矯なものがある。(柄谷行人「昭和をこえて」)

…………

最後に附記しておけば、たとえば、デカルトの『方法序説』、カントの『視霊者の夢』の叙述には、超越論的態度がある、だがその後、それは消えてしまったという観点がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部(恵)氏はいう。(近代批判の鍵

他方、柄谷行人は、《カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする。これは柄谷行人の書き物においても、《経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする読み方もあるだろうとは思う。

デカルトの「私は疑う」は私的な「決意」である。「私」とは単独的な実存、デカルトのことである。これはある意味で経験的な自己である。しかし、同時に、それは経験的な自己を疑う自己であり、それによって超越論的自己が見出される。こうした三つの自我の関係が、デカルトの場合あいまいになっている。

ここでデカルトが「我在り」(スム)というとき、それが「超越論的自己が在る」という意味なら、カントがいうように虚偽であろう。それは考えられるが、存在する(直観される)ものではない。しかし、スピノザは、「われ思う、ゆえにわれ在り」は、三段論法あるいは推論ではなく、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)と同じことであると述べた(『デカルトの哲学原理』)。もっと正確にいえば、それは「私は疑いつつ在る」ということである。心理的自我の自明性を疑うという「決意」はたんなる心理的自我ではありえない。が、またそのような疑いによって見出される超越論的自我でもない。とすれば、それは何なのか(しかし、厳密には、この時われわれは、在るものは「何か」というよりも「誰か」と問うべきなのだ)。

この問いはカントにとっても無縁ではないだろう。なぜなら、カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在しているからである。しかし、カントはそれについて語らなかった。デカルトの『方法序説』が重要なのは、そこで彼がもう一つの「スム」の問題――すべての自明性を括弧に入れる私はどのように在るかーーを開示しているからだ、この書物以後に、彼は二度とそれについて語らなかったとはいえ。だが、カントにおいて「スム」の問題は重要である。(……)カントの超越論的批判は、たんに理論的でありえず、彼自身の実存と切り離すことができないのである。(『トランスクリティーク』P134)


結局、「文体=スタイル」の問題であるのかもしれないし、読み手がその文体をどう受け取るかの問題でもあるだろう、《この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。》








2014年4月15日火曜日

「書くことは語らないこと」(マルグリット・デュラス)

私はひとり、でも声があらゆるところで私に語りかけてくる。そこで・・・ この溢れ出すような感覚をほんの少し知らせようとしているの。長いこと、私は、あれを外部の声だと信じていたけど、今ではそう思っていない。 あれは私なのだと思う。 ( 『マルグリット・デュラスの世界』デュラス)
デュラスの作品でとても美しい言い回しがあると思うと、それは決まって受動態、つまり「誰かが見つめられている」、といった文章なんです。ここで視線は主体の上に投げかけられているんですが、主体は視線を受け取っていない (ミシェル・フーコー「外部を聞く盲目の人デュラス」)




 デュラスは、「書くことは語らないこと」という。わたしたちは、いま語ってばかりいる。

書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの場所』)
私は、人々が何を出発点にしているのか知らない。物語を出発点にしているなんて、私には信じられない。できあがった、仕上げられた物語からなんて。そうでしょう、書く前から既に、はじまりも、真ん中も、お終いも、波瀾もある物語から出発するなんて、私は信じない。私は、自分がどこへ行くのか、決してよくわからない。もしわかっているなら、書かないでしょうね。だって、できあがっているんだから。できあがっているんだろうから。私にはわからない、既に探求され、調べ上げられ、記録された物語をどのようにして書けるものなのか。そんなことは、私には悲しいことのように感じられる。貧困とも言うべきね、…...要するに......おそらく同じエクリチュールではないということなのね。今のところ、私はどこかまちがっているのかもしれない (同上)

こうやってデュラスを引けば、ドゥルーズの『差異と反復』の「はじめに」から次の文を抜き出すこともできる。

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。

あるいは、
書くことは〔エクリチュール〕とは意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。(『千のプラトー』)

さらには、ドゥルーズがプルースト論の決定的な補遺「アンチ・ロゴスまたは文学機械」で書いた観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈、ことば/名などの二項対立を想い起こすこともできる。

プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

デュラスは器官なき身体、あるいは蜘蛛になって書いた、といってよいだろう。

しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(……)そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。……(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章)

デュラスの「書くことは語ることではない」というのは、エクリチュールはパロールではない、ということだ。

ロラン・バルト曰く、学者や知識人の書く文はエクリチュールではない。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)
要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわあち、ある種の能記〔シニフィアン〕の実践)が明確にしなければならない条件である。(同上)

《知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。》(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

あるいは「日記」はテクストではない、とも言う。

……私は私の「日記」のいくページかが《私が視線を向けている者》の視線のもとに、あるいは《私が話しかけている者》の沈黙のもとに置かれていると想像するのである。――これはすべてのテクストの状況ではなかろうかーー。いや、そうではない。テクストは匿名である。あるいは、少なくとも、一種の「ペンネーム」、作家のペンネームによって生み出される。日記は全然違う(たとえ日記の《私》が偽名であったとしても)。「日記」は《ディスクール》(特殊なコードに従って《writeされた》一種のパロール)であって、テクストではない。(ロラン・バルト「省察」『テクストの出口』所収)

ではエクリチュールとはなになのか。

いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……(デリダ「署名、出来事、コンテクスト」)

《自らの父の立会いから分離された》、すなわち書き手から分離され、《書かれた言語記号は本質的に無責任な漂流性を生きるもの》として書かれ読まれるものがここではとりあえずエクリチュールであるとしておこう。

これはなにも難しいことではない、《つねにいまここにありながら、 ある種の錯覚から見えなくなってしまっているものに改めて視線を注ごうとしているだけ》なのだ。

《父親が子供に対して持つのと同じ先行関係》にあるのではない作家たちの身振りを表現ではなく記入と呼ぶロラン・バルトは次のように書く。

彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。(ロラン・バルト『作家の死』)

これらのバルトの言葉を引用しつつ、蓮實重彦は『物語批判序説』のロラン・バルトをめぐる章「ロラン・バルト あるいは受難と快楽」でこう書く、

……まぎれもなく一人の人間によって書かれた文章の中に、 それが日常的な伝達とは異質の水準に展開される言葉である場合、 誰がそのように語っているのか識別が困難となるいくつもの指摘がまぎれこむことによってもたらされる、語る主体の曖昧化といったもの(……)。 書きつつある本人の生身の肉体はいうに及ばず、 あらゆる種類の自己同一性への言及が不可能となるそうした言語的環境がエクリチュールにほかならず、 それはどんな時代にも存在していたのだが、近代の登場人物としての「作者」の概念が誇大視された結果、あたかも「作者」がその言葉の起源であるかに考えられてしまった……。

そうであるなら、最晩年にはプルーストのような小説を書きたいと願ったにもかかわらず、そして最晩年の著作『明るい部屋』にはその「小説」的なものの僅かな痕跡があるにも係わらず、生涯「エッセイスト」であったことを否定しがたいロラン・バルトの書き物は、エクリチュールなのだろうか、パロールなのだろうか。

いま、わたくしの視線をとりわけ惹きつけるのは、世間的な意味からするなら、バルトにとっての「生涯の輝ける日」にほかならぬコレージュ・ド・フランス教授就任の日の儀式である。そこでの彼は、伝統にのっとった開講講義を多くの聴衆を前にして口にするのだが、「講義」(邦訳題名は『文学の記号学―― コレージュ・ド・フランス開講講義』)という題名で公刊された書物の中で、バルトは、新たな同僚となる著名な学者や研究者たちに対して、自分自身の存在様態を「不確かな主体」《 subjet incertain》と名付けている。この言葉に魅せられたわたくしは、それに類する語彙を「開講講義」のテクストから芸もなく拾いあげずにはいられなくなる。

すぐさま目にとまるのは、「曖昧な」《 ambigu》という言葉だ。「充分に自覚せざるをえないのですが、私は、エッセイと呼ばれるもののみを刊行してきました。エッセイとは、書くことが主体を分析と競わせる曖昧なジャンルにほかなりません」。ここでのバルトは、「エッセイ」という「曖昧なジャンル」ばかりにかまけてきたがゆえに、みずからを「不確かな」存在とみなしている。それを期に、おのれの存在を貶めるものともとれる形容詞や、否定的な色合いの言辞ばかりが彼の口からもれることになる。「私は、通常、この地位へと人を向かわせるにふさわしい学位を持ってはおりません」、「私が、早い時期から、記号論と呼ばれるものの発生とその発展に自分の探求を結びつけていたのはたしかであります。とはいえ、私は、それを代表する権利をほとんど持っていないのも確かな事実であります」、等々。そして、彼はこう結論づける。

それゆえ、科学と、知と、厳密さと、規律のとれが学問的創意が支配しているこの家に迎え入れられたのは、まぎれもなく、一つの不純な主体なのであります。(「開講講義」六頁)

すぐさまいいそえておかねばなるまいが、この「不確か」で「不純な」《 impur》主体や、「曖昧なジャンル」という言葉の中には、いかなる謙虚さもこめられてはいない。これらの形容詞は、いささかも主体の相対的な劣性を意味するものではなく、主体に「作家」としての身分を保証する絶対的な何かのあり方を示唆しているのである。

実際、「曖昧なジャンル」にほかならぬエッセイの作者としてのバルトは、いたるところで「確か」で「純粋」な存在たることをこばみ、「不確か」で「不純」な状態への執着を隠そうとしない。彼の開講講義の冒頭に読まれるこうした言葉は、コレージュ・ド・フランスという権威ある制度的な空間に教授として迎えられた以上、「不確か」で「不純」で「曖昧さ」であることを今後は自粛するつもりだなどとこれっぽちも断言していない。そればかりか、あなた方は、「曖昧さ」からはほど遠い「不確か」で「不純」である存在を同僚として迎え入れたのだから、私としては、それにふさわしく、あくまで言葉とのそうした関係を維持し続けるだろうという寡黙な態度表明として、その言葉は読まれるべきものなのだ。(蓮實重彦「バルトとフィクション」『表象の奈落』所収)

だが《「曖昧なジャンル」にほかならぬエッセイの作者としてのバルト》、あるいは《主体に「作家」としての身分を保証する絶対的な何かのあり方を示唆している》にもかかわらず、ロラン・バルトにとって自らの書き物が、十分にエクリチュールではない、との不満はあったようだ。


悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにて)

ここで蓮實重彦が、数々の著名な「小説家」の作品を取り上げて、あれらは「小説」ではなく、たんなる「物語」だと断じる論から、氏はエクリチュールという語を使用していないにもかかわらず、おそらく、その定義めいたものを示唆する文を掲げておこう。

波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。(『小説から遠く離れて』)

ここには冒頭近く引用したデュラスの文がある、ーー《私は、人々が何を出発点にしているのか知らない。物語を出発点にしているなんて、私には信じられない。できあがった、仕上げられた物語からなんて。そうでしょう、書く前から既に、はじまりも、真ん中も、お終いも、波瀾もある物語から出発するなんて、私は信じない。》

誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。だが、小説には名人など存在しない。語り口の魅力とは、もっぱら物語について口にさるべき誉め言葉だからである。石川淳がはたして優れた小説家かどうか疑わしいというのは、そうした理由による。彼は、何度でもその巧みな語りを再現してみせることができるだろう。だが、小説が再現されることなど必要としているはずがない。小説とはもっぱら反復されるべきものであり、反復が可能なのは、同じでないことが明らかな場合に限られている。われわれが擁護してみたいのは、再現ではなく、反復の対象としての小説なのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』ーー写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸

もっとも今ではこういうことを主張しても、まともに「小説」は読まれもせず、『エクリチュール至上主義』として嘲笑される時代になってしまった。とするなら、せめて、父性原理の権化ともいうべき論文形式ではなく、ロラン・バルトの書いたような「エッセイ」ーー書くことが主体を分析と競わせる曖昧なジャンルーーが、わずかにエクリチュールの生き残りの道なのかもしれない。

手始めは、一人称単数の扱いだ。

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。(蓮實重彦+川上未映子対談

では<私>を連発するたとえば柄谷行人をどう扱うべきか。

《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。》(蓮實重彦)

蓮實重彦のこの言明の起源のひとつはロラン・バルトの「自伝」の叙述からであるだろう。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

そこらじゅうに跳梁跋扈する、ぼく、ぼく、ぼく…、わたし、わたし、わたし…、ツイッターやブログを見よ。思想家だと? 哲学者だと? 「小説家」や「詩人」でさえも、あれら夜郎自大の満艦飾!

語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。

(…… )わかりきったことだ。そいつは前面に出てくる。哲学者は旅の逸話のなかで馬脚をあらわす。政治家は物語の色合いの秩序のなかで。さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。純粋な思考、それは私だ。絶対への暗示、それは私だ。超越性、それは私、またしても私だ。歴史の意味、それは私だ。異論の余地のない善、それはつねに私、私でしかあり得ない。小説が成功するのは、それが時代のある瞬間、時代の社会的喜劇のある一定の瞬間に、ナルシシズムのあの無限の機織りを感じさせるその正確な割合においてである、このナルシシズムにあっては、誰ひとり誰にも耳を傾けず、各々の生きた小片は一般化された夢遊病の性質を帯びている。眠りや死のそれ以外に、共通の場所、共同体の場所はないのだ。「人は理解し合っている」 …いや、理解なんかまったくしていない! これっぽちも! ……ぼくが、ぼくが、ぼくが …私が自分以外の存在を受け入れる振りをするのは、いまこの存在が腐敗しつつあり、私の望むとおりに霧散しつつあるような印象を私が抱いているからである …「それをぼくに話してみろよ」 …反復される言葉、妙な癖、声の抑揚 …すべての外観の下には、つねに最大限の暴力が …それは聴取可能だ…パラノイアのモザイク …小説とはペテンの技術であり、小説はこれを利用して、通過中のすべての身体の根っ子にはただペテンがあるということを暴露する …いかなるペテンもまるでペストのように小説を恐れる …それはペストなのだ…バルサックやプルーストは恐ろしいリンパ節腫である …そこから、嘘を規制するためには、「小説」と呼ばれる小さな風邪の途絶えることのない組織体をまるごとひとつでっち上げる必要がでてくる …そして、とりわけ野心的な語りのあらゆる可能性をできるだけ卵のうちに殺害してしまう必要が …小説を貶め、それを最大限去勢すること、小説が下等なものと見なされていようと、それが上っ面しか語っていまいと …権力の管理はそこにある …耳をかっぽじってよく聞くがいい …それはつねに女の問題なんだ、とどのつまり …人の語り合うことすべてが …女「なるもの」を伝えるため …問いのなかの問いから逃れるためだ …to beではなく……not to be でもなく …「父」… 禁断の核 …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




2014年1月11日土曜日

「欲動と享楽の反倫理学」覚書

ポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe)とジジェクをめぐる備忘」より引き続く。
最後に会った時、ミシェル(フーコー)は優しさと愛情を込めて、僕におおよそ次のようなことを言った。自分は欲望désir という言葉に耐えられない、と。 〔…〕僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、僕の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 僕にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 〔…〕快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見え、僕は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。 〔…〕マゾッホの中で僕の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。

〔…〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽Désir et plaisir」 、 『狂人の二つの体制 』)

ふたりの偉大な思想家が「欲望」と「快楽」をめぐって語っている
そしてここにいるどこかの「馬の骨」はこういってみよう
欲望? ウンザリだね
快楽のほうがましさ
フーコーの快楽とは享楽(悦楽)も含まれているはずだからな
晩年フィスト・ファックに耽ったフーコーだから

フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(出典:ギベール著『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者あとがき)。

《苦痛はまた一つの悦楽LUSTなのだ。呪いはまた一つの祝福なのだ。夜はまた一つの太陽なのだ、――おまえたち、学ぶ気があるなら、このことを学び知れ、賢者も一人の阿呆であることを。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』ーー悦楽(享楽)と永劫回帰

ソクラテスのいう快楽だって実は享楽さ

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

こっちのほうは欲望ではなくて欲動だな

いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌惡の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!』」
(……)「この話は間違いなく」とぼくは言った、「怒りは時によって欲望と戦うとことがあり、この戦い合うものどうしは互いに別のものであることを示している」(プラトン『国家』439c-440Aーープラトンとフロイトの野生の馬

《古代世界と現代世界の愛情生活における深刻な相違は、古代人が欲動そのものに重点をおくのに対して、現代人はその対象においているという点にある。古代人は欲動を讃美し、これによって下等な対象をも喜んで高尚なものとするのに対し、われわれは欲動の活動自体をさけずみ、ただ対象の優越性によってこれを許そうとするのである。》(フロイト『性欲論三篇』人文書院 p20)

ツァラトゥストラが次に語っているのは「欲動」のことであるぐらいは分るだろうな

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」より 手塚富雄訳)

※参考:資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

ジジェクの解釈ではドゥルーズの欲望機械は「欲動Trieb」のことらしいから
ドゥルーズも欲望ではなく欲動だったら許すがね
 ゲーテはなんといっていたか
「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」だってさ

……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。人生の目標がこのように二つに分かれていることに対応して、人間の行動も、これら二つのうちのどちらかをーー主として、ないし、場合によってはもっぱらーー実現しようと努めるかによって、二つの方向に発展してゆく。(……)

快感原則が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与ええないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいして快感を与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか強烈な快感を味わえないように作られているのだ(註)。

註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとお、これは誇張と言っていいかもしれない。(フロイト『文化への不満』人文書院 フロイト著作集3 P441)

ふぬけた満足はごめんだね
欲望なんてイカサマだよ

《欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。》(ジジェク『斜めから見る』)

《desire should be seen as a defence against the drive and jouissance. 》(THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe)

Trieb, drive, impulse: something drives the subject to a point where he himself does not want to go, where he loses all control.
The drive has an aim that a person is barely aware of, and what can be known about it is often enough for him or her not to want to know any more. I don't want to know any-thing about it'. But he has to know.
……the very first appearance of this jouissance is nothing more than anxiety, the harbinger of one's own disappearance. I disappear, and being takes over. No wonder that jouissance is what the ego does not want. The price is ceasing to exist as an ego. The fact that this anxiety is transformed into ecstasy does not reduce the price to be paid. In this light, desire should be seen as a defence against the drive and jouissance. A defence against something that gives one pleasure, though the status of the word 'one' is not quite clear in this context, and the concept of 'pleasure' is also strange.(Paul Verhaeghe)

《The drive is the source of a pleasure that is not desired by the subject. Therefore desire and drive are opposites like 'Beauty and the Beast'—or rather, like the familiar 'me' in contrast to the 'not-me'.》

しかし、精神分析に由来するのだが、快楽のテクストと悦楽のテクストとを対立させる間接的な手段もある。すなわち、快楽は言葉でいい表わせるが、悦楽はいい表わせない〔le plaisir est dicible, la jouissance ne l'est pas〕、というのである。

悦楽は いい表わせない[内部でいい表わされる]、禁じられている[間で語られるin-dicible]。私はラカン(《忘れてはならないのは、悦楽はありのままに語る者には禁じられている、あるいは、行間でしか語られないということである……》)とルクレール(《……みずからの言葉で語る者には悦楽は禁じられている。あるいは、相関的に、悦楽を享受する者は、あらゆる文字を――存在し得るあらゆる言葉を――彼の讃える無条件の無化作用の中で消滅せしめる》)を念頭に置いているのであ る。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

※ここでの「悦楽jouissance」は、『彼自身によるロラン・バルト』の訳語では、ラカン訳語と同様、享楽だ。

The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain; it is the part of jouissance which resists being contained by homeostasis, by the pleasure‐principle; it is the excess of pleasure produced by “repression” itself, which is why we lose it if we abolish repression.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")


詩も音楽も、そして匂いも快楽ではなく悦楽だ
享楽よりも悦楽のが字面がいい
ここは「悦楽」じゃなくてはいけない
とかげの舌
女の舌
女のまたのはこび
四十女の匂い
 おばあさんのせき……


・露にしめる /黒い石のひややかに /夏の夜明け

・もう秋は四十女のように匂い始めた

・野原をさまよう時 /岩におぎようやよめなをつむ/ 女のせきがきこえる

・黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が /一本立つている

・まだこの坂をのぼらなければならない/とつぜん夏が背中をすきとおした/石垣の間からとかげが /赤い舌をペロペロと出している

・柿の木の杖をつき /坂を上つて行く /女の旅人突然後を向き /なめらかな舌を出した正午

・けやきの木の小路を/ よこぎる女のひとの /またのはこびの/ 青白い/終わりを

・ちようど二時三分に /おばあさんはせきをした /ゴッホ(西脇順三郎)



ーーああすべて悦楽だ

・四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた(吉岡実「僧侶」)

・水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く(「感傷」)

・割れた少年の尻が夕暮れの岬で/突き出されるとき/われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める/波が来る 白い三角波(「サフラン摘み」)

わかるかい?
ニブイ<きみたち>のために
いささか解説的な谷川俊太郎をも抜き出しておこう

散文をバラにたとえるなら
詩はバラの香り
散文をゴミ捨場にたとえるなら
詩は悪臭

ーー谷川俊太郎「北軽井沢語録」より(八月三日)
言葉で捕まえようとすると
するりと逃げてしまうものがある
その逃げてしまうものこそ最高の獲物と信じて(同 九月四日)
詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

ーー「理想的な詩の初歩的な説明」より

音楽が悦楽だというのはいいだろうな?
もっともだらだらとした「欲望」の音楽だってあるさ
悦楽の音楽とはこういうことだ

グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。(ミシェル・シュネデール)

あの苦痛をともなう喜び
あのわれわれを分割する瞬間的な光
リルケが語ったあの「恐るべきもののはじまり」

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐えられないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。ーー「暗闇をさまよう者は、歌をうたってその不安をうちけそうとする」より)

匂いが特権的なのは
「一瞬よりいくらか長く続く間」(大江健三郎
しか続かないせいだ
悦楽とはそういうものだ

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

《小雨が降り出して埃の香いがする》(西脇順三郎『第三の神話』)

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」手塚富雄訳)

さてここでも説明的な文章を附記しておこう

《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、
散文とはその図式的側面を主にした使用である。》
(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

T・S・エリオットは、十七世紀の詩人ジョン・ダンについての評論の中でこの詩人は「観念をバラの花の匂いのごとくに感じる」と述べている。この一句には最近あらためて考えさせられるものがあった。観念には匂いと非常に似ているところがある。まず、それはいっときには一つしか意識の座を占めない。二つの匂いが同じ強度で共在することはありえないが、観念もまた、二つが同じ強度で共存することはーーある程度以下の弱く漠然としたものを除いてはーーきわめて例外的で、病的な状態においてかろうじてありうるか否かというくらいのものである。

第二に、匂いは、たしか二十秒くらいしかとどまらない。匂い物質は送られてきても、それに対する嗅覚は急速に作働しなくなってしまう。これは、嗅覚が新しい入力に対応するためで、こうなくてはならないことである。

観念はどうであろう。観念を虚空に把握しつづけることは、それこそ二十秒以上はむつかしいのではなかろうか。とすれば、持続的といわれる幻覚、妄想、固定観念も、たえざる入力によってくり返しくり返し再出現させて維持されていることを示唆する。ただ、この入力は、決して“ 自由意志 ”によるものではない。

最後に、両者とも、起そうとして起せるものではない。観念も、意識的というか人工的に催起させられるものではない。両者とも、基本的には意識を「襲う」ものである。少なくとも重要な気づきは、はげしい香りと同じく、ひとを打つのである、科学的、思想的発見であっても、パースナルな気づきであっても。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収 P20)


表題の意味はわかるだろうな
どこかのニブイ「哲学者」への皮肉さ
などとはわたくしはケッシテいわない
フィストファックがきらいな公衆むけには
あの程度がいい
猿の乾いた笑いを気味悪がる手合いには

語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号)

《フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ


70年代のフランスにいけるのだったら
フーコーを見てみたいな
ラカンやバルトに未練がないわけではない
ドゥルーズ?
ただの「やくざの親分」(蓮實重彦)だろ
デリダは?
「小さな衒学者」(フーコー)だよ


日本人のなかで見てみたい人物っているかい?
そうだな
作品の好みとは離れて
(谷崎や荷風ファンなのだが、まあ想像がつく)
大気の状態が変化しそうな人物は志賀直哉かな
「末期の眼」の川端康成も








2013年12月22日日曜日

備忘:デリダとフーコーの対象a

前投稿(ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)に附記しようと思ったが、長すぎて割愛した箇所。


◆エリック・ローランの『疎外と分離』より。

…………


……一つの重大な争点はデリダとフーコーの対立です.デリダとフーコーの著作に詳しい方々も多いかと思いますが,その議論の概略を手短にお話して,ラカンがその議論をどう見ていたのか,そしてフーコーとデリダがラカンにどれだけ負うているのかを示そうと思います.

デリダは主体が疎外の過程を通して定義されるという事実を際立たせます.しかし,フーコーは人間の語る言葉のより深い意味は,享楽の実践(pratique de jouissance),つまりどのように享楽を得るのかという実践に関係しているということを強調しています.

デリダにとっては,つねに散種(dissemination)がありえます.つまり,つねに別の意味を見つけることができるわけです.新しいシニフィアンは連鎖のなかで新しい発展を作ることが可能であり,その結果,主体はつねに空虚や空の場所として考えられています.フーコーはデリダを形而上学的であり非決定論の立場を受け入れていると非難し,非決定性を取り除き,問題となる享楽を定義する方法を提唱しています.

こうして,1960年代に一般的であった知と権力(savoir et pouvoir)のあいだの議論が発展しましたが,この議論はラカンが定義した二つの操作によって準備されているのです.デリダはラカンのセミネールの前年,コギトと狂気の歴史についての講義のなかでフーコーを批判しています.デリダの講義は,少し前に出版されたフーコーの『狂気の歴史』に対する手厳しい批判です.フーコーは講義中は何も言いませんでしたし,『エクリチュールと差異』が出版された差異にも返答しませんでした.フーコーは1972年の『狂気の歴史』の第二版まで待ちました.この著作の最後に,デリダの批判に対する手厳しい応答をフーコーは記したのです.

フーコーの伝記(Michael Foucault, Life and Work)からの一節を引用します.ここでフーコーは自らの論点を明確にしています.フーコーはこのように言っています.

「デリダのディスクールの実践の原典主義化に隠されているものが,その形而上学やその封鎖であるとは言いません.それは言いすぎでしょうから.明白に現れているのは,テクストの外部には何もないと学生に教える小さな衒学者です.それは,テクストを際限なく繰り返すことを許可する無限の統治権を主人の声に与える教育です」

デリダは高等師範学校のもっとも有名な代表であり教師であり,また現象学を高等師範学校の哲学者に伝えた現象学の優良な教師でもあったわけですから,彼を小さな衒学者と呼ぶことはきわめて辛辣です.むしろ失礼でしょう.ここから10年間,デリダとフーコーは対話することをやめてしまいましたが,最終的に,デリダがチェコスロヴァキアで刑務所に入れられた際に状況は変わりました.デリダはチェコを訪れた際に,チェコの非国教徒の勅許状に署名した人々に挨拶をしたときにチェコ警察に捕らえられました.警察はデリダにハシシを仕掛け,彼を薬物の売人に仕立てあげ,名誉を落とし投獄したのです.フランスではデリダを解放するために大規模な抗議運動が起こり,フーコーもそれに参加しました.デリダはそのことに関して,昼食を食べながらフーコーに感謝したそうです.しかしそれは10年後のことでした.二人の間にはきわめて大きな断絶があったのです.

私はこの小休止を,ラカンがセミネールXI巻で提示した操作から導き出せることを示すためにお話しました.フーコーはゲイでしたから,人が自らの享楽について話すことは,その人の経験にかかっているということを強調しています.フーコーは自らの理論がある意味では自らの性的実践の理論であることに気づいており,それを倒錯やそれに類似の何かとして単純に攻撃することはできません.それはむしろ,主人のシニフィアンに抗して,そして順応に抗して自らの反抗を定義しようとする正当な試みなのです.フーコーの理論は最終的には,分析においても大学においても,人が思考するとき問題となっているのは対象aであるということに言及しています.

デリダは対象aの位置がつねに十全であるという事実を脇においておきたいようです.問題となるこの場所については,セミネールXI巻の第16講義の終わりのところで,当時20歳のジャック=アラン・ミレールがラカンに質問をなげかけています.

 「主体は,己にとって外部にある領野の中で生まれ,その領野によって構成され,その領野において命を授けられている.主体の疎外はこのような定義を受けましたが,それでもやはりこの疎外は自己意識の疎外とは根本的に区別されるものだということを,あなたはお示しにならないのでしょうか.手っ取り早く言うと,ラカンをヘーゲルに「対抗するものとして」理解しなくてもよいのですか」(邦p.288

これにラカンは「とてもよいことを言ってくれましたね.ちょうど昨日グリーンが言ったこととは反対ですね」と答えています.グリーンは10年前にIPAの副会長をやっていたフランスの精神分析家ですが,1960年代に12年ラカンのセミネールに出席し,『生きたディスクール(Le discours vivant)』という著作を書いています.この著作は,ラカンは生物学を精神分析の外部においたために物事の生命的な側面を考慮していないということを強調しています.ラカンが逸話を披露したものですから,グリーンはこの質問に非常に反応しています.

「(グリーンが)近づいてきて,私の手をぎゅっと握りました.少なくとも気持ちのうえでは.そしてこう言いました.「構造主義は死んだ.あなたはヘーゲルの息子だ」.しかし私は同意できません.ヘーゲルに「対抗する」ラカンと言ったあなたの方が,はるかに真実に近いと思います.もちろんここで哲学的論議を始めるつもりはありませんが」(邦p.288)

何が問題なのでしょうか.ラカンが,主体を除去しようとしたレヴィ=ストロースの構造主義に対抗していたことは事実です.ラカンは構造主義に主体を再導入し,ある種の時間性を認めることのできる論理をも導入したのです.この意味において,グリーンは構造主義の死であると言っているのです.つまり,あなたはヘーゲルの息子である,なぜなら時間と主体――すなわち純粋意識――を導入したからということです.

ジャック=アラン・ミレールの質問は,主体の場所を空虚に保っておくことからは程遠く,ラカンが主体をフロイトのいう十全の享楽を伴う幻想や快感対象を以って定義していることを指摘しています.フロイトが19世紀の物理学の文脈にしたがって機械論的に公式化したエネルギー論的側面は,ラカンによって形式論理学の文脈で再公式化されています.このことは19692月のフーコーの「作者とは何か」という有名な講義におけるラカンのコメントにも見て取ることができます.フーコーはこの講義のなかで,ラカンを名指すことなしにフロイトへの回帰に何度も立ち返っています.フランスの学会は当時まだマルクス主義であり,フーコーを攻撃していました.フーコーがヴァンセンヌにおいて果たした役割は有名であり,彼の学生運動との関係もまた有名でした.しかし,ディスクールと構造を重視する構造主義というブランドが,主体を置き去りにしてしまう印象を与えたのです(もちろん,古い意味での「主体」つまり人間のことです).フーコーは講義において現代の作者はベケットのテクストによって最もよく定義されると言っています.ベケットのテクストでは,語る人間に可能な同一性は結局のところ消滅しまうからです.

ラカンは以下のようにコメントしています.

構造主義であろうとなかろうと,このラベルによって大まかに括られている領域において,主体の否定が問題となっているわけではまったくない,そう思えます.問題となっているのは主体の従属関係であり,これはおよそ異なった問題です.そしてとりわけ「フロイトへの回帰」に関して言えば,真の意味で基本的な何ものかに対する主体の従属の問題です.その何ものかを私たちは「シニフィアン」という名の下に見極めようとしました.三番目に――これで私の発言を終わらせますが――,「構造は巷に繰り出しはしない」と書いたことが公正であるとは私はすこしも考えません.なぜならば,五月革命の出来事が何かを証明しているとすれば,それはまさに「構造が巷へ繰り出していった」ということに他ならないからです.そのことを,巷へと繰り出していったまさにその場所に書くということは,行為が自らを誤認するものであることを証明しているにすぎません.それが多くの場合,いやもっぱら,行為と呼ばれるものの性質なのです。

ラカンの四つのディスクールの記載,あるいはフーコーのディスクールの実践において問題となっているのは,構造が「巷に繰り出す」ということです.なぜなら,構造は享楽の持分を内包しており,人々は享楽のために死ぬのですから.ラカンは大学のディスクールを,知を主人の場所に位置づけて書きます.
 
 学生運動と大学に必然的な連関があるように,このディスクールは巷に繰り出す主体を生産します,学会は15世紀から存在していますが,そこにはつねに学生運動がありました.この二つには必然的なつながりがあるのです.さまざまな社会体制と条件の下で,当時から現代まで一定なものは学生が運動するということです.ラカンは,学生が運動を起こすのは彼らが生産に巻き込まれていないからだというマルクス主義の説明を受け入れません.ラカンは,学生は大学のディスクールによってそのようにされているがゆえに運動を起こすのだと言っています.



…………


デリダのリシャール批判は、実はフーコー批判を陰に籠めているという議論があるようだ。



なお、両者の対立をいかにジジェクが考えているかのひとつは、次の論にやや詳しい。この文は『LESS THAN NOTHING』(2012)に同様の記載がある。また別の箇所ではもうすこし詳細に亙っている。

Some Marxists even, as if Foucault/Derrida = materialism/idealism. Textual endless self-reflexive games versus materialist analysis. BUT: Foucault: remains HISTORICIST. He reproaches Derrida his inability to think the exteriority of philosophy – this is how he designates the stakes of their debate:

《could there be something prior or external to the philosophical discourse? Can the condition of this discourse be an exclusion, a refusal, an avoided risk, and, why not, a fear? A suspicion rejected passionately by Derrida. Pudenda origo, said Nietzsche with regard to religious people and their religion.》 [13]

However, Derrida is much closer to thinking this externality than Foucault, for whom exteriority involves simple historicist reduction which cannot account for itself (to what F used to reply with a cheap rhetorical trick that this is a "police" question, "who are you to say that" – AGAIN, combining it with the opposite, that genealogical history is "ontology of the present"). It is easy to do THIS to philosophy, it is much more difficult to think its INHERENT excess, its ex-timacy (and philosophers can easily dismiss such external reduction as confusing genesis and value). This, then, are the true stakes of the debate: ex-timacy or direct externality?(Cogito, Madness and Religion: Derrida, Foucault and then Lacan •.............Slavoj Zizek

同じ書にあるデリダとドゥルーズの対比箇所。

Deleuze is also opposed to Derrida who, from Deleuze’s perspective, remains caught within the vicious cycle of contradiction/identity, merely postponing resolution indefinitely
(Deleuze's Platonism: Ideas as Real •..........Slavoj Zizek)

※参照:ジジェクの「来るべき民主主義」(デリダ)に対する考え方。

マルクスを「ラディカル化」するデリダの基本的前提は、具体的な経済的・政治的方策がラディカルになればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュやセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場だ)、そうした方策は事実上ラディカルではなくなっていき、ますます倫理-政治的な形而上学の地平に囚われてしまうというものだ。言いかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味しているのは、或る意味で(正確を期せば、実践的な意味で、と言うべきだが)、「ラディカル化」とは正反対のことである。それはすなわち、真にラディカルな政治的方策を断念することなのだ(補足的に言っておくと、ネルソン・マンデラに対する賞賛や、共和主義下のチェコスロヴァキアの反体制哲学者のためのアンガージュマンから、湾岸戦争でのイラク空爆を条件付きで支持したことにいたるまで、デリダによる個々の政治的介入のすべては、左翼穏健派のスタンスと完璧に一致している)。

デリダの政治学のラディカリズムは、来るべき民主主義というメシア的約束とその積極的な実現とのギャップを伴っている。まさしくこのラディカリズムゆえに、メシア的約束は永遠に約束であるにとどまり、一連の具体的な経済的・政治的法則へと転化されえないのだ。決定不可能な<モノ>の深淵と個々の場面での決定との隔たりは埋められない。<他者>に対する負債は返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対する応答は十分ではありえない。こうしたポジションに立つわれわれは、ギャップを無化する双子による誘惑、つまり無節操なプラグマティズムと全体主義による誘惑に抗わねばならない。プラグマティズムは、超越的<他者性>をまったく参照せずに、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう。他方、全体主義は、絶対的<他者性>を特定の歴史的形象と同一視する(<党>は直接的に具現化された歴史的理性である,等々)。ここに、脱構築による一定のひねりを加えられた全体主義の問題規制が浮かび上がる。全体主義は、そのもっとも基本的な姿において、社会生活の全体的支配、社会全体の透明化を目論む政治力であるのみならず、メシア的<他者性>と具体的な政治主体〔エージェント〕との短絡でもあるのだ。したがって、来るべき(à venir)というのは、民主主義に後から付け加えられたたんなる形容ではなく、その最深部にある核であり、民主主義を民主主義たらしめているものなのである。民主主義が来るべきものではなくなり、現実となったーー完全に現実化されたーーかのような様相を呈するやいなや、全体主義が到来する。(ジジェク「メランコリーと行為」











2013年11月26日火曜日

ある途方もなく大きな疑問符の消滅

以下は、ドゥルーズのマゾッホ論に附された蓮實重彦の小論「問題・遭遇・倒錯」の冒頭である。この論は、『マゾッホとサド』の訳者でもある蓮實氏の「あとがき」によれば、おそらく1973年に書かれているはずで、1936年生まれの蓮實重彦だから、37歳前後のものということになる。今ならまだ若手研究者に属する年齢であり、蓮實重彦が『批評あるいは仮死の祭典』を上梓するのもこの一年後(1974)である。

ある途方もなく大きな疑問符が、不意に疑問の符牒たる自分をみずからこばみはじめ、虚空に佇立するその輪郭を徐々に曖昧にしながら、ひたすら希薄化の一途をたどり、あたりに散りばめられている幾つもの些細な「なぜ」へと投げかけていた反映を日々弱々しいものとしていって、遂にはいつとも知れず闇へと没入してしまうとき、そんな事態の進展ぶりに身をもって立ちあう魂たちは、ただ呆気にとられて絶句するほかはない。世界が巨大な疑問符たることをやめるとき、人びとはいつもの例にならって、「なぜ」の一語を発しようと思い、胸の奥で言葉をまさぐるのだが、その一語がなかなか声になろうとしない事実に当惑し、苛立ち、煩悶し、遂には途方にくれて、奇怪な失語症に陥っている自分をやがてはうけ入れざるをえなくなる。おのれの背丈にみあったころあいの疑問符は、あたりからすっかり姿を消してしまっているのだ。それまで、各自がそれぞれの思惑に従ってもっともらしく疑問と呼んできたものが、とどのつまりは、唯一にして巨大なる疑問符の、遥かな反映にすぎなかったのだという事実が、そのとき明確化する。そして二〇世紀の西欧が口にする言葉は、その最も尖鋭な部分からかなり弛緩した部分に至るまで、おおむねいまみた失語感覚を基盤として、みずから言葉たる資格を主張しようとするものなのだ。

なにかにつけてもっともらしい図式を捏造し、ありもしない透視図を望見しないと気がすまない性質のものたちなら、ニーチェの「神は死んだ!」あたりを恰好の起点として、カフカの「城」への彷徨を通過し、サルトルの「実存的不条理」へと至る一連の思想史的な流れの上に、いまみた疑問符の消滅と、それを前にする人間の失語症との因果関係を程よく解明してみせてくれもしよう。単一者たる神の不在と、「表象=代行作用〔ルプレザンタシオン〕」による世界解読の試みの失権、そしてそこから当然のものとして導きだされる自己同一性の不可能な模索、さらにはその困難な模索の過程で人が手にすることとなった新たな武器としてのマルクシスムとフロイディスム、等々、巨大なる疑問符の消滅が西欧的な知の相貌にいかなる変質を強いるに至ったかを、いまでは誰もがすらすらと語ってみせることができる。そして、いま少し気を利かせたつもりになりたければ、構造主義的風土を背景として「人間は死滅した」と宣言するミシェル・フーコーの横顔でも浮き上がらせてみれば、いわゆる「現代思想」なるものの一応の見取図を完成させることになりもしよう。そんな見取図の一画の、ちょうどフーコーのかたわらあたりにジル・ドゥルーズの名前を据えてみれば、『マゾッホとサド』の著者が出現する思想的背景とやらが満遍なく理解できそうな気までしてしまう。いまや行きづまったと人がいう「構造主義」的言説の停滞の脇をたくみにすりぬけて、新たな思考を可能にする誇り高い個体として、つまりはマルクシスムとフロイディスムの頽廃を厳しく批判するあの新たなる思想家の一人として、いまや『アンチ=エディプス』(ガタリとの共著 72年)といういささかうさんくさいベスト・セラーの著者ドゥルーズが、われわれの前に姿をみせたというわけなのだ。

人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』が途方もなく読みにくいのは、まさに絶句そのものをなぞろうとする言葉たちが、言葉の輪郭を極端に曖昧にし、その内実を可能なかぎり希薄にしようとしているからにほかならず、それ故にこそあの書物は、たとえようもなく美しいのだ。だからフーコーは、難解な思想を語る難解な思想家なのではない。巨大なる疑問符の消滅とともに、思想も思想家も消滅したという事実を、シュペーグラー流のあのうぬぼれきった饒舌によってではなく、最も絶句に近くあろうとする言葉たちの沈黙との戯れによって、身をもって示しているからにほかならない。

《「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草》については、後の書、たとえば『物語批判序説』(1985)にて、《他人の言葉によって自分の言葉を二重に奪われたさまを隠蔽する「問題」》、あるいは《人びとは、現代にふさわしい「問題」が何であるかを知っている自分を確認するために、神の死を語り、自己同一性の喪失を好んで口にする(……)、それが、善意の連帯による他人の物語の真の機能》(p120)などと書かれて、より詳述されているが、いまは敢えてそれを引用することはしない。


この「問題・遭遇・倒錯」の冒頭の文に引き続き、デリダやラカンにも言及されるのだが、それもここでは割愛せざるをえない。ただひとつだけ、《真理と呼ばれる巨大な疑問符の解明に奉仕する科学的なディスクール》、つまり排除と体系化の法則に対して、ラカンの「非=排除の法則」と「非=全体化の法則」に触れ、次のように書かれることだけつけ加えておこう。

「排除」と「体系化」とは、単一者の表象的な影としてあるあの途方もない疑問符を光源とする、小規模な無数の「なぜ」を脈絡づけるに恰好な、絶句を隠蔽する饒舌に属するものなのだ。

 こうすれば「巨大な疑問符」が何を意味するのか判然とし、そしていまでも二十一世紀を十年以上へたあとも小規模な無数の「なぜ」をめぐる議論がくり返されている理由の一端が明らかになるだろう、つまりは《ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる》無自覚な連中の跳梁跋扈の由来が。

そもそも研究論文とは、多くの場合、いまだ排除と体系化によって書かれるのではないか。
知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

彼らの楽天性と呼ばれるものは、《王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること》(蓮實重彦『物語批判序説』)という表現もされる。

蓮實重彦の論は、父性原理なき時代にいまだ父性原理があるかのようにして書く人びとへの批判とも読める。だが、その論文の調子は、今読んでみると、いかにも昂然として「父」の役割を果たそうとしているかの如くであり、批評家が「大文字の他者」として振舞うことができた時代の最後の残照の名残りのようにも見える。実際、柄谷行人と蓮實重彦の時代以降、権威としての批評家はいなくなったといってよいだろう。いま37歳の批評家が、あのいかにも「生意気」な調子で書いたら、いくら俊英でも袋叩きにあうのではないか。時代が80年代前後から大きく変わった、という感慨をあらためて抱かざるをえない。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰ーー父なき世代(中井久夫)

…………

《無神論の真の公式は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的である」である。》(ラカン『精神分析の四基本的概念』)

実際には,今日,ある意味で,「大文字の〈他者〉はもはや存在しない」(……)――しかし,どういう意味でのことだろう。この非存在が実際にどういうことなのか、明確にすべきだろう。大文字の〈他者〉については、ラカンによれば、あるところで神と同じである(今日では神が死んでいるということではない――神はそもそものはじめから死んでいたが、神自身がそれを知らなかっただけだ……)、「大文字の〈他者〉」が存在しないということは,最終的には,大文字の〈他者〉が象徴界の次元であるという事実、直接の物質的因果性とは別のレヴェルで作動する,象徴界の虚構の次元であるという事実に等価である(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)


ところでジジェクが「大文字の他者」の崩壊を語るときには、二〇世紀後半の「父の名」の喪失という観点から言われることが多いのだが、その文脈はここではひとまず保留し、上の蓮實重彦の文章と重ね合わせてみよう。

ジジェクは、「大文字の他者の崩壊」(象徴的法の失効)により、「小さな<大文字の他者>a big Other」としての無数の「倫理委員会」で埋められる、という意味のことを書いている。

蓮實重彦のいう《小規模な無数の「なぜ」》の乱立とは、まさに「小さな大文字の<他者>」としての無数の「倫理委員会committees」のこととすることもできるのではないか。

The paradoxical result of this mutation in the “inexistence of the Other”—of the growing collapse of the symbolic efficiency—is precisely the reemergence of the different facets of a big Other which exists effectively, in the Real, not merely as a symbolic fiction.
Perhaps the most eye-catching facet of this new status of the “nonexistence of the big Other” is the sprouting of “committees” destined to decide upon the so-called ethical dilemmas which pop up when technological developments in an ever-increasing way affect our life-world(WHAT CAN PSYCHOANALYSIS TELL US ABOUT CYBERSPACE?  Slavoj Zizek)


さて、このドゥルーズの『マゾッホとサド』の翻訳そのものは、「1972年の夏、時ならぬドゥルーズ・ブームのさなかの、パリで開始され、73年の春、幾度かの中断ののち、東京で完成された。」(訳者あとがき)

当時はもちろん、1968年の世界的な「権威への異議申立て」、進歩史観の上に成り立つ社会変革のヴィジョンへの激しい批判・抵抗運動の余燼がさめやらぬ時期であり、日本ではその後、70年代には権威の衰退、上から押し付けるはずの人たちが物分りのいい振りをしだして、そして80年前後から「ニューアカ」ブームがあり、80年代末には、世界的にもソビエト連邦の悲惨な崩壊を目のあたりにすることになる。そのあいだに権威の空洞化が瞭然とし、性急な近代へのシニシズムが起った。一般にこの時期のことを「ポスト・モダン」と呼んだり、「大文字の他者の消滅」、あるいは「父なき時代」と呼んだりするわけだが、蓮實重彦=フーコーの文脈では、「大文字の他者」、巨大な疑問符の消滅はずっと前に起っているということになる。それはニーチェが「神は死んだ」と宣言したよりもさらに前のことなのだ。

フーコーは、『言葉と物』で、「西欧の<エピステーメー>全体が一八世紀の末に転覆した」と宣言している。

ここで一八世紀末(1788 )に書かれたカントの『実践理性批判』をめぐって語るドゥルーズを並べてみよう。

カントの『実践理性批判』に、この上なく厳密なその表現がみいだしうる(……)。カント自身、その方法の斬新さは、いまや法が<善>に依存するのではなく、逆に<善>が法に依存するのだという点にあるのだと口にしている。それが意味するところは、もはや法には、その権利の源流となる上位の原理を基礎にしてみずからを築く必要性もなければ、またその可能性もないということである。法は、それ自身として有効でなければならないし、みずからを基礎として築かねばならず、したがってそれ自身の形態をおいてはいかなる手段も持たないのだということを意味している。以来はじめて人は《法》を、それ以外の特性によってでもなく、また対象を指示することもなく語ることが可能となり、またそうせざるをえなくなったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』「法、ユーモア、そしてイロニー」の章 蓮實重彦訳)

 もっともこれらの一八世紀末に大きな転回があったという見解が、つねに共有されているわけではないだろう。たとえばラカンは神が死んだのはニュートンによる、と捉えることもできる発言をしているようだ。

1955年のセミネールにおいてラカンは聴衆に対して一つの奇妙な質問を出す。「星はどうしてしゃべらないのだろうか」と。これにたいするラカンの回答は「第一に、星には何も言いたいことがないから、第二に、星には時間がないから、第三に、星を黙らせてしまったから」というものであった。(……)

かつてわれわれが夜空を眺めていたとき、星たちはわれわれにこれらの話を語りかけてきたのであり、われわれはそれにやさしく耳を傾けていた(……)。だが現代のわれわれにはもうそれが聞こえない。あるときから星たちは突然黙りこくってしまったのである。むしろラカンの言うように、星を黙らせてしまったのだ。いったい誰が星を黙らせたと言えるのだろう。

それはニュートンである。ニュートンが宇宙を支配する万有引力の法則を発見し、世界を何の意味もない数式にして書きとめ、パスカルの言う「無限空間の永遠なる沈黙」をうちたてたのである。以後、宇宙は何の意味もない数式に還元されるようになり、星には言いたいことはなくなってしまったのである。(向井雅明『真理と知』)

科学者が、「星」を、「神」を、「真理」を、黙らせてしまったのだ、というわけだ。

これで冒頭に引用された巨大な疑問符の喪失がなにを意味しているのかがより明確になったはずだ。だが真理が、善が、相対化されてしまったことを真理として語ってしまってはならない。それが二〇世紀後半の誠実な思想家たちの言葉の読みにくさの理由のひとつなのであり、なぜなら《最も絶句に近くあろうとする言葉たちの沈黙との戯れによって、身をもって示しているから》なのだ。

くり返せば、巨大な疑問符の喪失とは、真理といわれるものが、プラトン的な法の古典的概念ではなくなり、その逆転現象をこうむる契機となったカントのいうコペルニクス的転回、--法がそれに先行する<善>に根拠をおくのではなく、逆に<善>が法に依存することになったことーーつまりは法が「表象=代行作用」によって自分を支えきれず、それ自身として有効性を発揮せざるをえなくなったということである。

フーコーは、思想家の「思想」も、《緒規則の内部において》考えられたものに過ぎず、《われわれの言いうることは、そこから与えられているから》にすぎないという(『言葉と物』)。

「真理」は、イデオロギーであり、プロパガンダ、ドクサに過ぎないということになる。《真理を保証しているのは、たんに支配的なパラダイムにすぎない》(柄谷行人『隠喩としての建築』)。

ここで「神は死んだ」と宣言したニーチェの真理観をいくらでも並べることができるだろうが、今はひとつだけにしておく。

《われわれは、真理への意志がもつ価値を問うた。われわれは真理を欲するというが、ところでなぜむしろ非真理を欲しないのか。なぜ不確実を欲しないのか。なぜ無知をさえ欲しないのか。》(『善悪の彼岸』)

※たとえばここにいくらかまとまっている。「ニーチェの真理観」repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1339/1/ning_1(1)_ikeda.pdf




ここで、ふたたび蓮實重彦の解説文からその末尾を引用してみよう。

……『マゾッホとサド』をかたちづくるドゥルーズの言葉も、その論理の展開ぶりの驚くべき緻密さと厳密さと結論の明確さにもかかわらず、やはりある種の聞きとりにくい不明瞭な声として響き、フーコーをはじめとする一連の顔ぶれが口にする言葉と遥かに反響しあいながら、巨大なる疑問符の消滅を証明せんとしている。その聞きとりにくさは、みずから積極的な希薄たろうとするドゥルーズの言葉たちの、暗黙の了解からきているように思う。その言葉たちは、ちょうどマゾッホの文学がそうであったように、世界の不可思議な篏没や隆起へと人びとの視線を無理に引きつけ、その畸型性をあからさまにあばきたて、それに修正をくわえようとはしない。むしろ、その畸型性の内部に静かに身をひそめ、そこできわめて緩慢に位置をづらしてみて、それがほかならぬ畸型性たることをみずから確かめてみる。そのとき、畸型性は正常の名において排除されうことも、また畸型性ゆえに、逆説的正統性を付加されることもありはしない。そこには、荒々しい解体だの、破壊だの、蘇生だのといった、ありもしない特権的視点の構築作業が鳴りもの入りで遂行されるわけでもない。ただ、一つの関係が、ほとんど感知しがたいほどの慎しさで位置をかえたにすぎない。

その転位した関係とは、すなわち世界というものが、そっくり非倒錯者に属し、ごく限られた領土のみが倒錯者に許されている」のではなく、正常な人間と倒錯者とを、ともに容認することで、世界が世界として成立しているという事実によって具現化されているものだ。倒錯をめぐるディスクールが、倒錯者のロマンチックな擁護で終わっていない点が、一人の思想家の登場を待ちうけている人びとに、ある積極的な失望をもたらすかもしれない。だが、いまや、哲学の領域であれ文学の領域であれ、一つの疑問符であるような書物は、つまり「なぜ」と問うことに充実した返答となるような言葉は、無益な饒舌いがいにありえないのだときに先導者を気どり、また安定剤の役目をも果し、謎解きの欲望をみたしてくれもした「思想」なるものはもはや存在せず、またかりにあったとしても、それは、偽りの充足感によって読むものを一時的にかわし、いつのまにやらどこでもない場所に宙吊りにしてしまう、悪意にみちたものであるに違いない。

フーコーが難解な思想を語る思想家ではなかったように、ドゥルーズもまた、明解な思想を語る明解な思想家ではない。彼は、徹底して希薄な言葉によって、思想たることをこばむ、現代の倒錯的ディスクールの実践者なのである。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」)

《その畸型性の内部に静かに身をひそめ、そこできわめて緩慢に位置をづらしてみて、それがほかならぬ畸型性たることをみずから確かめてみる》とある。これは自ら病気になってみるということでもあろう。

週刊誌ブームが、現代日本文化の一種の病気であると考えるのは勝手であろうが、それが、ただ医者の見立てでは詰まらない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰まらない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。(……)私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。(小林秀雄「読者」

この態度は誤解を生むこともある。そして病気を楽しむということは、やはりそれが好きなのかもしれない、ということもある。

蓮實)浅田彰の言説を特徴づけるものとして、最終的に否定されるべき批判の対象とかなり快く戯れて、ことと次第によっては、自分がその「絶対的スノビズム」であることを恐れないといったところがあり、それがいわゆる若手の文芸批評家どもと彼の絶対的な違いなわけです。つまり、浅田彰はその点で間違いなく優位にあるんだけれど、その優位を彼は余裕をもって遊ぶんで、批評家としての拡がりが出ると同時に、否定と肯定の揺れ動きも大きくなって、たとえば否定さるべきポスト・モダン状況というのを率先して楽しんじゃっているというところがある。

……やっぱり小児的資本主義が面白くて、たまんなく好きなんですよ。

(柄谷)そうなんだ。しかし、それは彼が小児的ではないからですね。僕の方が小児的です(笑)。小児的人間は、小児性を嫌悪するからね。(『闘争のエチカ』)

倒錯をめぐっては、『表層批判宣言』(1979)所収の「倒錯者の「戦略」」という論文に、クロソウスキーとドゥルーズの名を持ち出して、《肯定すること。積極的に変容に身をさらすこと。肯定を思考し肯定を欲望すること。肯定を思考し欲望する身振りを肯定すること。その肯定的な身振りを思考と欲望との肯定的な戯れで支えること。その身振りと戯れとが肯定的に支えあうことで思考と欲望とが肯定的に自分であることをやめること》と「肯定」の語が散乱することになるのだが、今はそれに詳しく触れるつもりもない(ようするにわたくしはそれを語れるほどドゥルーズを読んでいるわけではない)。

いずれにせよ上に引用された文章によってすでに明らかであろうが、ドゥルーズ・蓮實重彦のいう「倒錯」とは器質的な倒錯ではなく、戦略的な倒錯であり、その戦略の目指す処はつぎのようなものだ。

「哲学の誤りは、人間のうちに思考することの善意を、真実なるものへの願望や自然な愛を前提として予想してかかること」にあると口にするドゥルーズであってみれば、彼の言葉をかりたてているのは、もちろん真実の意志ではあるまい。かえって、ある途方もない錯覚によって、真実を志向する手段と思われているものから、その虚構性を解き放つことにあるのだ。真実ゆえに犯される錯誤という錯誤の背後に、ということは、巨大なる疑問符の反映によってみずから一つの疑問符たりうると信じこんでいる些細な「なぜ」の基盤に、その錯誤がかたちづくられる条件を明らかにし、また同時に錯誤ならざるものが占めうる場所を準備しようとするのだ。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」)

もちろん、こういった目的のために別の戦略もある。パラノに対抗するためのスキゾは、浅田彰によって、80年代流行しすぎた。

まずファシズム的パラノイア的な型あるいは極があり、中央主権の組織体を備給し、この組織体を歴史上の他のあらゆる社会形態にとっての永遠の目的因として、これを超備給する。またもろもろの飛び地や周辺を逆備給する。あるいは、欲望のあらゆる自由な形態を脱備給する。――そう、私はあなたたちの一族だ。優越的階級と人種に属している。もうひとつは、革命的分裂者的な型あるいは極であり、欲望の逃走線をたどり、壁をうがち、流れを交通させ、自分の機械や融合集団を飛び地や周辺の中に構築する。つまりファシズム的パラノイア的な型や極とは、逆の仕方でふるまうのだ。私はあなたたちの仲間ではない。私は永遠に劣等人種に属する。私は獣だ。黒人だ。
(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス(下)』宇野邦一訳)

そして、浅田彰の『逃走論』から。

ここでまず思い起こされるのが、人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがある、という最近の説だ。パラノってのは偏執型(パラノイア)のことで、過去のすべてを積分=統合化して背負ってるようなのをいう。たとえば、十億円もってる吝嗇家が、あと十万、あと五万、と血眼になってるみたいな、ね。それに対し、スキゾってのは分裂型(スキゾフレニー)で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。

 さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同 時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》 でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成 長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりす ると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。ここで《住むヒト》にかわって登 場するのが《逃げるヒト》なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセ ンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、 子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくス キゾ型、というワケね。

そして「スキゾ」概念は、こんな具合になってしまった。

蓮實)……まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。

浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。

蓮實)ありますよ、それは(笑)。

浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガタリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。……(共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間 1996Ⅱ― 9)

いまかりに偽りの「問い」を発するのならば、この2013年の言論界にも無数に見られる「無償の饒舌」、ときに先導者を気どり、また安定剤の役目をも果し、謎解きの欲望をみたしてくれるふりをする偽りの充足感によって読むものを一時的にかわすことのみ汲々としているかの如き饒舌をどう扱うかだ。

あれら小規模な無数の「なぜ」の乱立やら、「小さな<大文字の他者>」としての無数の「倫理委員会」の代表者としての発言。

ドゥルーズ&ガタリの「スキゾ」やら、ドゥルーズ=マゾッホの「倒錯者」としての肯定的戯れが、ニューアカのシニシズムを生んで、いまの人文学の危機を生んだという批判もあるのだろう。だとしたら、「小さな<大文字の他者>」でもいい、まがいの頑固おやじの復権を担うものとしての「倫理委員会」の代表者・研究者たちをも「肯定」すべきだろうか。

そもそも「ニューアカ」批判、そのニヒリズム批判があるとしたら、その重要なひとつは、そこにあったニヒリズムは「真理」の追求の裏返しに他ならなかったからだろう。真理や善や自由などは虚偽だ、人生を生きている意味などない、というニヒリストの嘆きは、実は依然、かつての道徳慣習の残滓によって人生を解釈しようとしているに過ぎない。

他方、「問い」を捏造したり「解釈」しようとしたりすることそのものが、あらぬかなたに「意味」を想定する振る舞いであり、蓮實重彦の「倒錯」や、浅田彰の「スキゾ」は、そこから逃れる戦略であったはずだが、それが上っ面だけで受けとられ、ただひたすらシニカルな「戯れ」に終わってしまったという反省はあるのだろう。

自分はそもそも、近代はすばらしいと言っていた人に対して、近代にも様々な問題はあるし、近代が忘れてきた様々な問題をもう一回考える必要があるという立場だった。しかし気づいてみると近代こそが最低限の常識だ、という頑固親父がいなくなって、近代は絶対ではないとか、公教育というけれども情報量を詰め込むより生きる力をつけなければなどと言っている。今は、学校が妙に生徒に媚びて、やるべき情報の伝達もせず、もちろん生きる力もつかないといった袋小路に入りつつある。(浅田彰「知とは何か・学ぶとは何か」



・あらゆる理念がついえ去ったのであればもはやホンネに居直るしかないというシニカルなホンネ主義に抵抗するために、それまで「王様を笑い続ける少年」だった彼(浅田彰)が、今や、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」という役割を演じようとしている。

・もし「自由、そんなもんただの幻想だ、虚偽だ」と言ってしまえばもはや否定的契機も向上心も何も出てきやしないこない。だから、結局、(あきらめてシニックになって)今の現状のただの肯定にしかならない。だから、どんなに自由が抑圧されようがそれを肯定することにしかならない。だからこそ、我々はこの向上心とか否定的契機を失わないために、自由に対する抑圧にあきらめないで最後まで抵抗するために、野暮ったくても柄でもなくてもやっぱり声を大にして、もう一度、自由や人権の理念を掲げるという「頑固親父」(=啓蒙主義者)になるしかない


 「小さな<大文字の他者>」としての無数の「倫理委員会」の代表者でも、王様を笑い続ける少年よりはずっとましだというわけだ。

だが、小文字の「頑固親父」(啓蒙主義者)と、「無償の饒舌」、ときに先導者を気どり、また安定剤の役目をも果し、謎解きの欲望をみたしてくれるふりをする偽りの充足感によって読むものを一時的にかわすことのみ汲々としているかの如き饒舌者とをどうやって見分けるというのか。

そのとき「倒錯者の戦略」がひとつのヒントとなるだろう。

蓮實重彦の論から再掲しておく。

ある途方もない錯覚によって、真実を志向する手段と思われているものから、その虚構性を解き放つこと(……)。真実ゆえに犯される錯誤という錯誤の背後に、ということは、巨大なる疑問符の反映によってみずから一つの疑問符たりうると信じこんでいる些細な「なぜ」の基盤に、その錯誤がかたちづくられる条件を明らかにし、また同時に錯誤ならざるものが占めうる場所を準備しようとするのだ。

これはユーモアの戦略でもある。もっともフロイト的な超自我の勝利としてのユーモアに反して書くドゥルーズの「ユーモア」である。《われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない》(「マゾッホとサド」)。

ーー両者を仲介するかのような詩人の言葉を先に附しておこう。
《ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すもの》(ボードレール)
法からより高次の原理へと遡行する運動(イロニー:引用者)ではなく、法から諸々の帰結へと下降する運動をわれわれはユーモアと呼ぶ。誰しも、熱中に度がすぎて法を変質させてしまうやり方を幾つか知っている。そのとき、法の不条理を証明し、法が禁止し除去するべきものとみなされているこの無秩序を、まさに法から引きださんと人が企てるのは、ある細心の応用作業によってである。法を、言葉どおりとらえる。その至上の、あるいは第一義的性格に異議をとなえない。あたかもその性格の力によって法が人間に禁じる快楽を、法が自分のためにとっておくかのように行動する。するとその瞬間から、まさしく法を観察し、法と一体化することに徹しきることで、その快楽のいくらかが味わえるだろう。法は、もはや原理への遡行によってイロニックにくつがえされるのではなく、帰結を深く究明することによって、ユーモラスなかたちで斜めによじまげられるのだ。(ドゥルーズ「法、ユーモア、そしてイロニー」)

《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評》(蓮實重彦『逃走のエチカ』)ではないかどうかも、ひとつの決定的な「無償の饒舌」か否かを見分ける目安だろう。

つまり、自分はその物語に醜く汚染してはいないが故に装置にはいかなる犠牲をも提供してはおらず、したがって多くのものが信じがたい素直さで譲りわたしているものが何であるかを明確に識別することができるという確信が存在する。この確信を共有することはきわめて容易であろう。事実、多くの人が口にする「批判」とか「分析」なるものはその種の確信から生まれ落ちてくるものだ。だが、汚染せざる自分への確信があたりにばらまく「批判」的言辞や「分析」的思考、それが、いま「批判」し「分析」しつつある物語の言葉によってしか語られえないという点を便利に無視しているという意味で、この圏外者の指摘ははじめから抽象たるべく運命づけられているといえる。しかもこの手あいの抽象にもそれなりの物語がそなわっていて、間違いなくあの偉大なる忘却装置の中枢に据えられた歯車としてせっせとまわり続けているのだから、それは何もいわずにおくことと選ぶところがないわけだ。にもかかわらずあれだ、これだと指摘してまわらずにいられない言葉たちを、無償の饒舌と名付けよう。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」)


「倒錯者の戦略」における「倒錯」と、次に言われるようなラカン派によって説かれる「倒錯」とを混同しないようにしなければならない。
私たちの心のメカニズムは(……)際限のない享楽の追及と、その露出(見せびらかし)、および他者と「平等」に享楽する権利の要求によって特徴づけられる心的経済へと移行しつつある。この新型の心的経済は特定の回路を通じて確保される享楽への恒常的な依存を示す点で古典的な臨床構造のなかでは「倒錯」に最も近い。(『露出せよ、と現代文明は言う 』立木康介)


次に書かれるジジェクによる「倒錯」の叙述は、倒錯者の戦略と立木氏によって説かれる「倒錯」との橋渡しになる叙述としても捉えることができる。

時には〈法〉に違反することで(自慰、盗み……)享楽を得るために〈法〉を認め、盗まれた享楽を相手側から奪い返すことによって満足を得るような神経症患者と対照的に、倒錯者は,享楽する大文字の〈他者〉を、直接に〈法〉の代理人に引き上げる。 倒錯者の目標は、〈法〉を切り崩すことではなく、それを確立することである。よくある男のマゾヒストは、自分の相手、女王様を引き上げて、出される命令にこちらが従わなければならない〈法〉の制定者にする。倒錯者は、〈法〉の猥褻な裏面のことを重々承知している。彼は〈法〉にる支配を立てる身振りのまさに猥褻さ、すなわち「去勢」から満足を得るのだ。「正常な」事態においては、象徴界の〈法〉が、(近親相姦の)対象に手を出すのを妨げ、それでそれに対する欲望を創造する、倒錯においては、法を作るのはほかならぬ対象である(例えばマゾヒズ ムでは女王様)。マゾヒズムという倒錯の理論的概念が、「〈法〉にさいなまれることを楽しむ」 マゾヒストという 、ごくあたりまえの概念に重なっている。マゾヒストは、享楽に手を出すことを禁じる〈法 〉の作用の中に享楽を置くのである。

かくて倒錯した儀礼は、去勢という演目、主体が象徴の秩序に入れるようにしてくれる原初の喪失という演目を舞台にかけるが、そこには特徴的なひねりがある。〈法〉 が欲望 (の対象への回路)を調節する禁止の作用として機能する「正常な」主体とは違い、倒錯者にとっては、その欲望の対象はほかならぬ〈法〉そのものである。 ―― 〈法〉は彼が希求する〈理想=観念界〔イデアル〕〉であり、彼は〈法〉によってしっかり認知してもらいたいのであり、その機能に組み込まれたいのだ……。このことの皮肉を見逃してはならない。この、何よりも「正常」でまっとうなふるまいの規則をすべて侵すと言われる倒錯者という「違反者」が、実はまさに〈法〉の支配を求めているのだ。

倒錯者に関してもう一つ言えば、彼にとっては〈法〉は完全に定まっていない ( 〈法〉 は彼の失われた欲望の対象である)以上、彼はこの欠如を、手の込んだ規則群によって補う(マゾヒストの儀礼を見よ)。決定的に重要な点は、〈法〉と規制(あるいは 「ルール」 )の対立を念頭に置くことである。後者は〈法〉が不在あるいは棚上げになっていることを証しだてている。

すると倒錯において実際にあやうくなっているものは何だろう。ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。<存在>への通路を得る手段として彼らに開かれているのはそれだけだからである。ここで見逃してあんらない哲学的に大事な点は、<存在>への唯一の通路であるマゾヒスムは、近代のカント的主観性、つまり、自己関係する否定性という空虚な点に帰着する主体と、厳密に相関しているということである。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)



※追記

僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です…… (『闘争のエチカ』蓮實重彦発言)

…………

「神の死」にかんして

「ラカンの「カントとサド」をめぐる三つの思想史」において立木康介はラカンを引用しつつ次のように書いている。

ひとりキリスト教のみが、われわれが神の死と呼んだ真理の本性に、受難のドラマによって表象される、そのまったき内容を与えている。 〔…〕キリスト教によってわれわれに提示されているのは、この神の死を文字通り受肉するひとつのドラマである。また、キリスト教こそがこの死を、 〈法〉をめぐって起こったことがらと連帯させている。そのことがらとは、この法を破壊するのではなく、それに取って代わることで、それを要約することで、それを廃棄するのと同じ運動でそれをやり直すことで――これは Aufhebung というドイツ語のタームがものをいう最初の歴史的例である――これ以後たったひとつの命令が「汝の隣人を汝自身のごとく愛せよ」となる、ということにほかならない。 このことは、 福音のなかにそのままはっきりと書かれている 〔…〕 。 二つの項、すなわち、 神の死と隣人愛とは歴史的に連帯関係にあり、 それを見誤ることは、ユダヤ=キリスト教の伝統のなかで歴史的に成し遂げられていること全体に、体質的な偶然とでもいうべきアクセントを与えるのでもないかぎり、不可能である。 」 (SVII, 227-228)


そして《ラカンの議論は、どうもこういうことのようである》して、以下の如く書かれる。

ニーチェによって告知され、フロイト によって「原父殺害」として新たに神話化された「神の死」は、じつは近代の出来事ではない。神はずっと以前から死んでいたのであり、ただ、死んでいる以上、自分が死んでいるということを知らないだけである。 このことによって、 次のことが明らかになる。 すなわち、神が死んだのちにも、享楽はやはり以前と同様に禁じられたままである、ということである。

いいかえるなら、神が死んでも法はな くならず、それどころか法の強制は強まるばかりで(われわれが自らに禁止を課せば課すほど、禁止はますます強くなる、という『文化のなかの居心地悪さ』において徹底的に検討された超自我のパラドクス) 、フロイトがいうようにいつまでたってもわれわれは幸福になることができない。しかしこのことが明らかにするのは、法がいったい何に仕えているか、ということである。法の根拠は社会的なもの(のみ)ではなく、文化的なもの、すなわち、欲望の構造に根ざすものであることが分かってくる。

法は、主体を享楽から遠ざけることに仕えているのである。 ラカンによれば、まさにここから、す なわち、法の機能が明るみに出るこの地点から、真の倫理がはじまる。 「隣人愛」の掟は、この倫理の次元を代表するものとして到来するのである。 それはまさに快原理の彼岸であり、 フロイトは、そしてサドもまた、その「彼岸」をわれわれに垣間見せはしたが、その前で立ち止まった。フロイトについていうなら、そこで立ち止まった彼は、その境界線上の壁に「死の欲動」という名の抽象画を描き、まさにその限界で中座した彼の欲望を昇華したのだといえる。

このように考えるとき、私たちは、セミネール XI( 『精神分析の倫理』 )のなかで、ラカンがなぜ半ば揶揄するような調子で、 「父の機能の起源をその殺害に基礎づけながらも、フロイトは父を護っている」 (SXI, 58)と述べているのかが分かる。法の支えとして父の機能を救うことは、隣人愛の掟の前で立ち止まることといわば首尾一貫しているのである。