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2014年8月11日月曜日

ヒステリーの言説(ヒステリー者の疎外と主人の去勢)

まずラカンの「四つのディスクール」すべてのもととなる形式的構造を掲げる。


話し手 → 受け手(他者)

 ↑       ↓

真実  // 生産物


すなわち、次の如し。










やや詳しくは、私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」を参照のこと。

ここでは「FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES」(Paul Verhaeghe)から私意訳するが、そこでの主にヒステリーのディスクールをめぐって書かれている箇所である。

だがヒステリー者のディスクールは、時と場合によって、主人の言説、大学人の言説に変貌することが書かれているので、あわせて四つのディスクールの図をさきにしめしておく。




S1:主人、マスター、主人のシニフィアンなど
S2:教育者、知の体現者、知識など
$ :斜線を引かれた主体、欲望など
a :分析家、対象a、剰余享楽、愛など


また分析家のディスクールをめぐっては、ヴェルハーゲには、最近になって水際立った論がある(『Teaching and Psychoanalysis: A Necessary Impossibility』)。しかもそこには、「分析家」の言説のみではなく、「分析主体」の言説の構造を明かす内容が説かれており、数多あるだろうラカンの四つのディスクールを解説論のなかで、この分析主体のディスクールを明晰に説明する論に、わたくしは初めて出会ったのだが、ここではそれに触れることはしない。もちろんこれらも一ラカン派の臨床医よりの観点であり、ほかのより理論的なラカン派の論者には、種々の別の視点があることは言うもまたない。

…………

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説でね($→S1)。その言説だと他者はマスターのポジションととることを余儀なくされます。そして知識を垂れ流して去勢されることに終わります(後述:引用者)。他方、同じヒステリーの主体がマスター(主人)の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知識を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1→S2)

Since the main topic today is hysteria, let's examine the hysterical subject. Of course he or she can come to the consulting room with a typical hysterical discourse, in which the other is forced to take the position of the master, with the obligation to secrete knowledge and end up castrated. On the other hand, this same hysterical subject herself can appear on the scene with the discourse of the master – and that is not such an unusual situation. In that case, the patient identifies him or herself with his or her symptom as master-signifier S1 about which the other functions as a guarantee because he is supposed to possess the knowledge about it: “I have a postnatal depression, I am my postnatal depression, you are the specialist who knows ( S2) about such things, so just go ahead and cure me, do anything you want, as long as I don't have to enter the game as a subject”.
三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2→a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真実のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(s2/s1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみ転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。真実は半分しかいえない“le mi-dire de la vérité”のですから、車輪は回り続けています。セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!

Third, the same hysterical subject can come to us with a university discourse. He or she can impress us with a considerable sum of knowledge by which he or she reduces the other to a mandatory silent object, and by which he or she avoids looking at the hidden master at the position of the truth. Just as the reduction of hysteria to the hysterical discourse is wrong, the same goes for every discourse. As the truth can only be half said – “le mi-dire de la vérité” – the wheel keeps on turning. In the second chapter of his seminar Encore, Lacan tells us that, each time one changes one discourse for another, there is at that moment an emergence of the analytic discourse, as a possibility for grasping the determination from object a to $. In the same paragraph he tells us that every crossing of discourse is also a sign of love. I want to leave you with that idea!

 …………





構造的には、ヒステリーの言説はヒステリーの主体にとっては疎外をもたらし、主人には去勢をもたらします。主人による答えは、いつも的を外しています。というのは真の答えというのは対象a にかかわるのですから。その対象aは失われた対象であり、言葉で言い表わせないものです。この不首尾の古典的な反応は、いっそうもっとシニフィアンを生み出すことです。(S1/S2)それはますます真実のポジションにある失われた対象から遠ざかることです。

Structurally, the hysterical discourse results in alienation for the hysterical subject and in castration for the master. The answer, given by the master, will always be beside the point, because the true answer concerns object a, the forever-lost object, which cannot be put into words. The classical reaction to this failure is to produce even more signifiers, which creates of course an ever-increasing distance from the lost object at the position of the truth.
これは次々に、一方では主人と、他方ではシニフィアンの連鎖における根本的な欠如、このふたつのあいだの衝突という結果をまねきます。根本的な欠如とは、シニフィアンの連鎖が最終的な真実を言葉で言い表わすことの不可能性です。この不可能性は主人の不首尾を露わにします。それが彼の象徴的去勢ということです。そのあいだに、S1として他者のポジションにある主人はしきりにS2、すなわち知識を吐き出しています。この知識なのです、それが繰り返し決定づけるのは、ヒステリーの主体の根本的な疎外です。彼女のある特定な問いへの応答として、ヒステリーの主体は一般的な理論や信条等々を受け取ります。その応答に従うかそうでないかにかかわらず、あるいはまたその応答と同一化するか否かにかかわらず、それらは的を外しています。どの場合でも、応答は疎外をうながす答えです。生産物としての知識は、真理の場にある対象a についてはなにも重要なことを言い得ないのです。(a / / S2)

This in turn results in a confrontation between the master on the one hand and the fundamental lack in the signifying chain on the other, that is the impossibility of the signifying chain to verbalise the final truth. This impossibility causes the failure of the master, and so his symbolic castration. In the meantime, the master at the position of the other as S1 has produced an ever-increasing S2 and thus a knowledge. It is this knowledge which determines time and again the fundamental alienation for the hysterical subject: as an answer to her particular question, she receives a general theory, a religion, a… Whether or not she complies to it, i.e. whether or not she identifies herself with it, is beside the point: in every case, the answer will be an alienating one. The knowledge as a product is unable to say anything important about the object a at the place of the truth. (a / / S2)

…………

症例ドラのケースの時代は、すくなくともフロイトは主人のポジションを取っていたという指摘は多い。いやそれだけではなく女性ラカン派分析家の第一人者 として名高いColette Solerコレット・ソレールは、フロイトはけっきょく終生「父=主人」だったのではないかとしていたはずだ。


◆“Is Psychoanalysis Teachable?” Annual conference of The College of Psychoanalysts. London, 12th February 2011

「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility.」 Paul Verhaeghe

At that time, Freud became a real Master in discerning the resistances of his pupils/patients, even before they knew them themselves. Time and again, he formulates the critique of his pupils/patients himself – much better than they ever could have done – and each time he takes the edge off the argument. Such a strategy can only result in two possible reactions: either one is transformed from a patient into a pupil who says yes and absorbs everything, or one reacts as Dora did, by slamming the door and leaving.

ーーすなわちフロイトはドラ嬢に去勢されたということになるのだろう。


アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論「When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value」より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)

ヒステリー者は、権力自身よりも権力の弱さにいっそう多く憤る。そして彼女もしくは彼の基本的な不満の種は、ふつうは、マスターが十分にマスターでないことである。 
the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough.

と引用すれば、現在、ひとびとが、以前にも増してヒステリックにならざるをえないのは、総理大臣が十分に総理大臣でないことであるだろう。ーーというのは余談であり、ジュパンチッチの次の文が、ヴェルハーゲとはまた視点が異なった、ヒステリー者の特徴の豊かな指摘であるだろう。

ヒステリー者は、否定の守護神である。同じ標準で図れなさの、不可能性の守護神である。 このスタンスのよく知られた問題は、この放棄と自己犠牲そのものが、たちまちに剰余享楽あるいは満足の源となることである。ヒステリー者は“無”に満足する、この表現のふたつの可能な意味で。無が彼もしくは彼女を満足させるだけではない。それだけでなく無自身が満足の重要な源なのである。これは、ラカンのディスクールの図式において、剰余享楽(a)が真実の場所にある理由だ。

The hysteric is the guardian of the negative, of the incommensurable and the impossible. The well-known problem of this stance is that it fails to see that this renunciation and sacrifice themselves very quickly become a source of surplus enjoyment or satisfaction. The hysteric is satisfied with nothing, in both possible meanings of this expression. It is not only that nothing can satisfy him or her, but that the nothing itself can be an important source of satisfaction. This is why, in Lacan's schema of the discourse, surplus enjoyment (a) is in the place of truth.

…………


ーーと書いてきたが、現在、ヒステリーの症状が稀になってきた、という同じヴェルハーゲの指摘がある。もちろんこれは主人の、エディプスの斜陽(象徴的権威の失墜)にかかわるのは、たとえばミレール、ジジェクなどによってさんざん語られてきていることだが。


◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) 
A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」より




2014年8月8日金曜日

「どんな性行動の基底にも実は殺人があるってこと」

……ファルスは、ぼくの覚えている限り、サドにユーモアが欠けていると思っていたんだからな! でも、そんなこと言ったって!

「存在は、エスプリがあればあるほど歯止めがきかなくなるものだ。だから才気がある人間は、他と比べてつねに放蕩の快楽を好むようになるんだよ」

法王の「陰茎」! 美徳への悪徳の贈り物! ありがとう! サドを「読解不能」で、「単調」で、「退屈」だと思うのは本物のごろつきだけだ…そいつを耳にするときは気をつけろ! きみたちは、そういったことすべてが現実なものだと信じている田吾作たちのところにいるのだ! 教皇が大衆のおかもをいつまでも掘り続けていると! 

「サドは」、Sが続ける、「目に見えて取り乱しているか、その振りをしているんだよ、まあ二つの事柄を通して見てみろよ…まず最初は、自然のもつ最も聖なるもの、つまり性の激しやすさにしたがって、何者からあえて自然にとどめの一撃を加えたということだ…かれはそいつを耐え難い去勢のように感じる。そんなことが問題になってるんじゃないことを彼は証明したいんだ。殺人を通して性交するためのからくりは、時間と空間のように無限だってことをーーまさにそのことによって、貴重な論証だが、どんな性行動の基底にも実は殺人があるってことを明らかにしながらね …(ソレルス『女たち』p260)





●フリップ・ソレルス『女たち』(せりか書房 鈴木創士訳)訳者あとがきより

…登場人物たちにはなるほど実在の思想家たちのシルエットがダブって見えてくる(…)。傍受したメディアのノイズを要約するなら、本書がパリの文壇にショックを与えた(!)要因のひとつはこの点にあるらしい。問題の登場人物は次のとおりだ。ラカン(ファルス)、バルト(ヴェルト)、アルチュセール(ルツ)、クリステヴァ(デボラ)…




ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




ファルスは鍵束を取り出す、およそ十個はある…彼は女たちを自分の家の近くのアパルトマンに住まわせるのが趣味だった…何人いたのか? 三人? 四人? …
(……)…ファルスに復讐するために。彼はすくなくとも週に十通は殺しの脅迫状を受け取っている…気のふれた奴らのやることだ…海の彼方のあらゆる国々の、頭のいかれた女たち…
ところが疑念がぼくの心によぎる…もし彼がこういうのを好きだとしたら? これが彼らのエロティックなサーカスの一部をなしているとしたら? ひょっとして、ブラジル野郎は「じいさん」の覗き趣味のために種馬の役目を努めているのだろうか?





翌日、ファルスがぼくに何も言わずにインド旅行を取りやめにしたことを知る…それから、次の日、アルマンドの家の前の舗道で彼に出会う…「じゃあ、失礼するよ」、彼は疲れ果てた様子でぼくに言う、でもぼくが事の内幕をわかっているのは間違いないと確信して…まるでそのことに言い訳でもするみたいに…彼はどこにいったのか? 食事かな…セリメーヌの覗き窓へ…老いぼれの、おさわりかおしゃぶりの悲惨さにむかって…

それっきり会うことはなかった…ほとんど、と言ったほうがいい…ぼくは彼を置いてインドへ行った…ぼくはとにかく彼についてカルカッタでしゃべった…ボンベイで…ディスクールとパロールについての彼の極めて独特な考え方について…むこうの、その何とかってやつに合わせて…サンスクリットだ…

そして今、彼は死んだ。カクテ彼ハ身籠リヌ…栄光、最後に彼はそれを手にしたのだ…いっぱい…たいていは孤独だった戦いの日々を重ねて…彼の言ったことを理解した者はほとんどいなかった…彼にはめちゃくちゃな話がたくさんあった、彼の同僚、生徒、教育機関、新聞社との…たいがいは非難されていた。山師の気質、権勢の利用、転移の歪んだ使用、妖術、麻薬、恐喝、自殺…彼の企てが動揺していたことは言っておかなくちゃならない…いずれにしても、見てるぶんには面白い…みごとに現実離れしているし…ファルスはまぎれもなく一種の天才だったのだ。いいだろう、でもいささかやくざなところがあったのも本当だ…彼がその標的になった迫害のために、やくざにならざるを得なかったんじゃないか? そうかもしれない…ほんとうのところはわからない。人生は解きほぐせないものだ…彼は絶対的忠誠と抑え難い憎悪をかきたてた…どちらかといえばそれは良い兆候だ…ファルスは、とにかくたぶん彼がそうなるはずだったものを打ち砕いたか、歪めてしまったのだ…いつも彼は金をたんまりもっていた、これが肝心なところだ。スイスの口座…彼の診察室はすいていることがなかった…診察料は恐ろしく高く…時間は短い…彼が一番非難されたのはこれだった、どうやらテンポってものがあるらしい…地獄の足枷…普通の、公認の、協会に加盟した精神分析家は、一回に四十五分はかける…何が起ころうとも…男のあるいは女の患者はやって来ると、横になって、自分の夢を語る、等々。四十五分、これが必要な「時間」だ…「無意識の時計」…混信の、あるいは分析家に対する多かれ少なかれ抑えられた暴力の十五分。主体の核心に触れる十五分、でもそのうちの三分だけが決定的で、それは三十秒でかたがつく。それから水増しの十五分。これで一丁上がり、お次の方どうぞ…ファルスはといえば、そんなものすべてを覆してしまったのだ…彼は、そんなものはハエがぶんぶん唸っているようなものだと思っていた…それは何もせずに眠っていることだと…それは発見の否定だと…彼の狙いはそいつを蒸し煮にしてしまうことだ…あれでは作業の「毒性」を弱めてしまう、と。彼の弟子たちがそう言ったように…毒性、毒性って…ウイルスとしての生命…何はともあれ、彼はあえてやったのだ…三分間…こんにちは、さようなら…さあ払ってもらいましょう…こんどはいつ? 国際学会は調査にのりだした…陰口、事件の口にされなかった裏面があった…彼は除名された…それを彼は見事な叙事詩に仕立あげたのだ…彼は「学派」を創立した…運動…連合…結社…そして、そのつど彼はみごとに失敗した…彼は気にせず、続行した…それは形の上では教会の論争にとてもよく似ていた、ギリシャ正教、宗教改革、反宗教改革、そしてさらにもっと似ていたのが、マルクス主義と共産主義の隊列に起こった周期的爆発だ…精神分析のパウロたるファルスをトロツキーの再来と考えることもできた、武装解除された予言者、流謫の予言者、中央権力によって道を誤まった真理の予言者…ユダヤ教会を破門されたスピノザ…神話がひとり歩きした、ファルスは異端であることを自慢しさえした、いずれ異端が正しいということになるだろう…






「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』)

ーーーというわけでファルスはラカンがモデルではあるが、小説のなかの叙述であることを念押ししておこう。



       ーーーWhen Heidegger met Lacan


…………


ラカンとハイデガーそして聖人を、象徴的ファルスのようにしているのではないかとさえ読めないでもない小笠原晋也氏がなかなか示唆溢れることを語っている(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。

「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.

分析への導入が困難なケースはいろいろありますが,最も困難なもののひとつは,「わたしは,全く正常で,症状も何も無いのですが,分析家になりたいので,教育分析をお願いします」と言ってやってくる比較的若い男性精神科医でしょう.

自分が全く正常だと思い込んでいる人間ほど狂った者はいません.このような ケースは,まさに大学の言説にひたりきっており,場合によって,かなりの揺さぶりをかけないと,夢すら語ろうとしません.Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません.

ーーこれは若く聡明な、そしてまだ分析を受けていない、さらには大学人でもある男性精神科医に読ませてやりたいところだな

他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φbarré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.
精神医学であれ精神分析であれ,もともと何らかの精神病理をかかえている者が興味を持ちやすい分野です.わたし自身にも当然あてはまります.だからこそみづから精神分析を受けたいと思ったのです.

Paris ではこんな話も聞きました.つまり,小学校や中学校の教師のなかに小児性欲者がいることが避けがたいように,精神科医や分析家のなかに精神病者がいることも避けがたい.当然,望ましいことではありませんが,完全に防止することは困難です.

話は若干脱線しますが,カトリック司祭のなかにも同性愛者,小児性欲者がいることは事実です.それがゆえの事件が起きており,教皇は被害者に謝罪しています.神学校では,神学生が同性愛者でないかどうか非常に厳しいチェックが行われているそうです.

…………

2002 年のわたしの事件に関する御質問をいただきました.

わたしと分析をしようとする人には,当然,わたしの事件のことを事前に知っておいていただかなければなりません.

わたしが「患者と恋愛関係」に陥ったとの御指摘ですが,それは事実ではありません.「おがさわらクリニックにかつて通院していた女性」です.当時,治療関係には既にありませんでした.しかも,その女性は実際には,精神科医療を必要とする厳密な意味での病者ではありませんでした.

医師と患者ないし元患者との恋愛関係が職業倫理的に許されないのは,以下の条件のもとにおいてだと考えます: 1) 医師が患者に対する自分の優位な立場にもとづき患者を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が病状に悪影響を与える場合.

例えば,教師とその教え子との恋愛関係についても,それが職業倫理上許されないのは同様の条件においてでしょう: 1) 優位な立場にある教師が,その優位性にもとづいて教え子を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が教え子の教育学的状態に悪影響を与える場合.加えて,教え子が未成年ではいけないでしょう.

わたしのケースにおいては,それらの条件は全く当てはまりません.

わたしの事件に関して事実に反する記述は Internet 上にまだ残っています.いちいち訂正して行くことはしないつもりでしたが,御質問をいただいた機会に正確な事実をお伝えしました.質問者の意図は明らかに単なる嫌がらせにすぎませんが,あなたが意図せずにこのような機会を提供してくださったことにに感謝します.

なお小笠原氏は次のようなこともおっしゃられるお方であるようだ。

中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.

この論理で行くと、「心理学的な」小説はどうなるのだろう、たとえばプルースト。あるいは《人間の心理について教えてくれた最大の心理学者》とドストエスフキーを顕揚しつつ、みずからをその系譜とするニーチェ。彼が三島由紀夫や村上春樹の小説を書いてロマン派的(メロドラマ的な)なツイートをしているのは脇にやるとしても。

ーーこれがなかったら、ラカンは小笠原晋也の象徴的ファルスではないかとまでは書きたくなかったのだが、やはり繰り返し書いておこう。そもそもツイッターで質問者の答える形式のあり方は、質問者のヒステリーのディスクールに応じる主人=ファルスのディスクールとして受けとめざるをえないところがある。あれがはりぼての支配者のディスクールでなくてなんだろう。もちろんラカンがアンコールで書くように、ディスクールはあるものから別のものに変る。

I will remind you here of the four discourses I distinguished. There are four of them only on the basis of the psychoanalytic discourse that I articulate using four places - each place founded on some effect of the signifier - and that I situate as the last discourse in this deployment. This is not in any sense to be viewed as a series of historical emergences - the fact that one may have appeared longer ago than the others is not what is important . here. Well, I would say now that there is some emergence of psychoanalytic discourse whenever there is a movement from one discourse to another.(On Feminine Sexuality The Limits of Love and Knowledge BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)

すなわちときに大学人のディスクール、ときにヒステリーのディスクールではあるだろうが、おおむね主人のディスクールのように思わざるをえない。ーーとするわたくしはおそらくヒステリーのディスクールなのだろう。

◆アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)。
the hysteric likes to point out that the emperor is naked. The master, this respected S1 admired and obeyed by everyone, is in reality a poor, rather impotent chap, who in no way lives up to his symbolic function. He is weak, he often doesn't even know what is going on around him, and he indulges in "disgusting" secret enjoyment; he (as a person) is unable to control himself or anybody else.

 In popular jargon, this attitude of attacking and undermining the masters, pointing at their weaknesses, is usually said to be castrating. Yet, although it does indeed have to do with the question of castration, it is much more ambiguous than this popular wisdom implies. The hysteric's indignation about the master really being just this miserable human being, full of faults and flaws, does not aim at displaying how castrated he is; on the contrary, it is a complaint about the fact that the master is precisely not castrated enough—il he were, he would utterly coincide with his symbolic function, but as it is, he nevertheless also enjoys, and it is this enjoyment that weakens his symbolic power and irritates the hysteric. In this sense, the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough. In the person of a master, the hysteric thus attacks precisely those rights she is otherwise so eager to protect, namely what remains or exists of the master besides the master signifier. In other words, the target of the attack on the master is his surplus enjoyment, a. This is what is superfluous, what should not be there, and what, on the obverse side of the same coin, represents the point where the master is accused of enjoying at the subject's expense.





2014年7月30日水曜日

「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」

私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ! アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』の序文(ジジェク)

ーーもちろん、これはジジェク一流のレトリックであり、かつてからの朋友、スロヴェニアの三羽鴉(ジジェク、ムラデン・ドラー、ジュパンチッチ)の一人を顕揚するための惹句である。





結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』冨樫剛訳)
What, after all, are insults like 'your sister (or mother) is a whore' other than vulgar reminders of the fact that 'Woman doesn't exist', that she is 'not whole' or 'wholly his [ toute a lui] ' , as Lacan put it? Thus, the point is that the dictum 'woman is not-all' is most unbearable not for women but for men, since it calls into question a portion of their own being, invested as it is in the symbolic roles of the woman. This is best established by the extreme, utterly disproportionate reactions which these insults occasion, up to and including murder. Such reactions cannot be accounted for by the common explanation that man regards woman as his 'property'. It is not simply his property, what he has, but his being, what he is, that is at stake in these insults. Let us conclude this digression with another dictum. Once we accept the fact that 'Woman doesn't exist', there is only one way to define a man: a man is - as Slavoj Zizek put it in one of his lectures - a woman who believes she exists. (ALENKA ZUPANCIC『 Ethics of the Real Kant, Lacan』)


上の邦訳は、ウェブ上から拾ったので、正確な写しであるかどうかは判然としないが、“as Slavoj Zizek put it in one of his lectures”における“in one of his lectures”が抜けている。おそらくジジェクはどこかのレクチャアでも語ったのだろうが、これは『イデオロギーの崇高な対象』1989にも出てくる。

 Now it is perhaps clear why woman is, according to Lacan, a symptom of man - to explain this, we need only remember the well-known male chauvinist wisdom often referred to by Freud: women are impossible to bear, a source of eternal nuisance, but still, they are the best thing we have of their kind; without them, it would be even worse. So if woman does not exist, man is perhaps simply a woman who thinks that she does exist. (ZIZEK  THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY)

さてジュパンチッチに戻れば、冒頭の文の前に書かれている文もすばらしい。

《'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist'》

「〈女〉が存在しない」のは父権制社会の抑圧的特質の結果ではなく、「〈女〉が存在しない」という事実の結果が父権制社会なのである、とされている。

At this point, we can introduce Lacan's infamous statement that 'Woman [la f emme] doesn't exist'. If we are to grasp the feminist impact of this statement, it is important to realize that it is not so much an expression of a patriarchal attitude grounded in a patriarchal society as something which threatens to throw such a society 'out of joint'. The following objection to Lacan is no doubt familiar: 'If "Woman doesn't exist", in Lacan's view, this is only because the patriarchal society he upholds has oppressed women for millennia; so instead of trying to provide a theoretical justification for this oppression, and this statement, we should do something about it.' Yet -as if the statement 'la femme n'existe pas' were not already scandalous enough by itself - what Lacan aims at with this statement is even more so. The fact that 'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist', a vast attempt to deal with and 'overcome' this fact, to make it pass unnoticed.  For women, after all, seem to exist perfectly well in this society as daughters, sisters, wives and mothers. This abundance of symbolic identities disguises the lack that generates them. These identities make it obvious not only that Woman does indeed exist, but also what she is: the 'common denominator' of all these symbolic roles, the substance underlying all these symbolic attributes. This functions perfectly well until a Don Juan shows up and demands to have - as if on a silver platter - this substance in itself. not a wife, daughter, sister or mother, but a woman.


これは柄谷行人が、マルクス、ニーチェ、スピノザ、あるいはアリエスなどを引用しつつの結果と原因を取り違える「遠近法的倒錯」のことを語っている。

系譜学的な思考、つまり原因と結果の遠近法的倒錯を見出す思考は、《超越論的》な思考に固有のものである。実際に、そのことを最初にいったのは、前章で引例したようにスピノザである。

……いまや、自然が自分のためにいかなる目的因もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが私は、さらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけくわえておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に<結果であるものを原因>と見なすからである。(『エチカ』第一部付録)(柄谷行人『探求Ⅱ』P191)

ところで、女性が《「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい》とあるが、逆にそれだからこそ〈女〉に魅惑されるのだとも言える。

《女は存在しないil n’y a pas La femme》の否定は、定冠詞Laにかかっており、femmeにかかっているのではないことに注意しなければならない。



存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

さて、科学さえもが女が存在しないためにあるとされているが、それはこの際うっちゃるとしても、〈女〉は女たちにとっても〈他者〉であるには相違ない。

「女」 もまた「男」にとってというよりはむしろ「主体」にとっての他者なのであり、この決定的な他者性が表象する /されるの関係の成立を原理的に阻害することになる。何ものも表象せず、また何ものによっても表象されえないものが「女」なのだ。(……)

西欧の男根的なまなざしが「女」を裸にすることにかくも執着してきたのは、実のところはそれが、剥いても剥いても実体が露わにならず、よそよそしい他者であることを やめない永遠の「不気味なるもの」だからこそなのではなかったか。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象 | 松浦寿輝
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)



「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

…………

※附記:ジジェク『斜めから見る』より。

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)

《ふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》(ジジェク 象徴界(言語の世界)の住人としての女

2013年12月24日火曜日

ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール

以前、ラカンの四つのディスクール(あわせて資本家のディスクール)をめぐってメモしたときに、次の文に行き当たって印象に残っている。


資本家(主義者)のディスクールについて、ラカンがイタリアで講演したときにちょっと触れているのですが、資本家のディスクールについて聞いたことある人、いますか?これを誤って「資本主義のディスクール」と翻訳している人もいるようです。資本主義そのものは喋りません(笑)。ラカンのいう Discours capitaliste もしくは Discours du capitaliste は「資本主義のディスクール」ではない。発話の主体は人でなければなりません。四つのディスクールを見れば分かることですが、主人、大学人、ヒステリー(症者)、分析家はいずれも人です。ですから資本家のディスクールもしくは資本主義者のディスクールといわなければなりません。Discours du capitaliste、capitaliste というのは、資本家です。理論面に重きを置けば資本主義者といい換えても構いませんが「資本主義のディスクール」ではありません。

ところで若きラカン派の俊英である松本卓也氏が資本主義のディスクールについて何らかの論文を書いたそうで、その直後に次のようにツイートしている。

ちなみに「資本主義のディスクール」の訳語に関しては、ラカン自身の記述がdiscours capitaliste/discours du capitaliste/discours du capitalismeの3つで揺れていることと、エージェントとしての「資本家」よりもシステムとしての「資本主義」(つまり、誰か黒幕がいるわけではない)のことを述べているようにしか見えないことからして、「資本主義のディスクール」という訳語を採用しています。


彼は三十歳になったばかりだが、ラカン派ということにだけ限らず、若手の書き手のなかではもっとも期待される人物のひとりだろう。わたくしは以前彼のブログやそこに紹介されている『ファルスの意味作用』(ラカン)の解説やらラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールの翻訳(おそらく多くは彼自身の訳による)をかなり熱心に読んだ。もっとも難解なところは端折る気楽な読者としてではあるが。

その論文を読んでいないものが無闇に賞讃書評を引用するのもどうかと思うが、『現代思想』6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」についてこんな評価がある。

《このように論じる論者は少なくとも日本の「ドゥルーズ・ガタリ派(研究者)」にはほとんどいなかった。今さらいっても仕方がないけれども、ラカンとの「精神療法」の捉えかたの親近性(及び差異)を検討することなくガタリを語っても、ガタリの「実践者」、「運動家」としての実像には迫れない。また、この論文でドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』のあまりに「品の悪い」精神分析批判(それに基く資本制批判)に基いた、これまでの歪んだ理解はだいぶ矯正されるでしょう》と書かれたあと次のようにある。

松本論文は、ラカンの発言の含意-とりわけ70年代ラカン-を的確におさえることで、ガタリの問題意識の優れたところを見事に引き出してくれています。次の指摘などはその白眉でしょう。「60年代のラカン理論では、対象aは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)という不自由性を前提とした括弧つきの自由であった。いわば、対象aは因果性の安全装置の役割を担っていたのである。一方、ガタリの機械-対象aは、因果性のなかの爆弾であり、そのような自由とはまったく異なる自由をもたらす。機械の本質は「因果性の切断としての一つのシニフィアンが離脱すること」であると述べている。つまりガタリは、因果性を切断する機能を機械-対象aの中に読み込んでいるのだ」(P116、著者の傍点省略)、並びに「ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学において用いられるような無意味性を特徴とする記号を重視する(記:まさに『分裂分析的地図作成法』はその典型である)。つまり、患者の語りの意味作用を支えていたシニフィアンを削り取り、「記号を墓から「掘り起こす」ことを目指すのである。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている」(P120、著者の傍点省略)という論述は全てを言い当てている。対象a をめぐる両者の、理解の同質性(差異)の指摘により、ガタリが特異性の臨床-集団的アジャンスマンを強調する意味合いがそこからよく見えてくる。また、松本論文で、オイディプス的な主体の問題を過度に強調する旧来のラカン認識には抵抗感を覚えていた僕にはその点でもスッキリしたところがあり、両者のつながるところがよくわかった感じです。

さて資本家のディスクールと資本主義のディスクールの話に戻れば、冒頭の藤田博史氏の文にめぐりあって、以前すこし調べてみようとしたことがある。調べるといっても、インターネット上にて日本語による言及が少なければ、仕方なしに英語文献のみを探る程度だが。

ところで、ジジェクには、あれだけ数多く資本の論理、その死の欲動面について語っていながら、不思議に、資本主義、あるいは資本家のディスクールについての言及は見当たらない。ジジェクの朋友ジュパンチッチには四つのディスクールをめぐるすぐれた論文(『Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf』)があり、そこで「主人の言説」の凋落以降の時代、「大学人の言説」を資本の論理に結びつけているが、資本主義のディスクールへの直接の言及はない。

そんななか、Levi R. BryantInternational Journal of Žižek Studies, Vol 2, No 4 (2008)にて書く、ジジェクのディスクールの審級(agentへの問いから始る論Žižek’s New Universe of Discourse: Politicsand the Discourse of the Capitalistにめぐり合った。

Bryantはなんと六つのユニヴァース(二十四のディスクールのパターン)に分けている。

Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.

ここですべてを示すことはしないし、Bryantは主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースの説明をしているだけだ。そしてわたくしにはいまだ瞭然としない箇所もある。

だが、すくなくともこの議論は藤田博史氏と松本卓也氏の二者の主張に折り合いをつけるのではないか。

ディスクールとは本来、個人のものだから、資本主義のディスクールとしたら奇妙だ。だが主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースということはできる。

Bryantの議論は、「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の新たなユニヴァースとして、「主人」から「資本主義」の世界への移行があると読み取ることができる。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここでジジェクがいう「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の主人とは、「原初の父」、あるいは「享楽の父」の主人なのであり、現在ラカン派内では、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀のふつうの精神病(あるいはふつうの倒錯)の世界へなどと語られるが、その推移も「主人の言説」の時代から、「資本家の言説」の時代へ、というふうにも捉えられる。あるいは「欲望」の言説から「欲動(享楽)」の言説としてもよいし、「自我理想」の言説から「超自我」の言説としてもよい(ここでの超自我は、フロイト的な自我理想≒超自我のそれではなく、後期ラカン的な《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)の文脈上の「超自我」:参照「父なき世代(中井久夫)」)。それの具体的な現われは次のようなことだ。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

まがりなりにも理念というオブラートに包んで表現する時代が主人のディスクールの時代であり、資本主義という素顔が露骨にみえる時代が資本家のディスクールの時代としてよいのではないか。

いま主人の言説、資本家の言説として、あえて主人のユニヴァース、資本主義のユニヴァースとしなかったのは、次のジジェクの示唆による。

ジジェクの90年代初頭の四つの言説をめぐる論では次のような説明がなされている。

第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(『斜めから見る』)

すなわち主人の言説が語られるとき、それは主人のユニヴァース(象徴的権威没落以前の)の四つの言説の代表とする。そして資本家の言説が語られるとき、それは資本主義のユニヴァースの四つの言説の代表とする。Bryantの議論からはそういう捉え方ができる。もっともこの議論は、上に掲げたジュパンチッチの論文『When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value』では、享楽の父の言説の役割をするのは「大学人の言説」という主張とは相反するが、わたくしにはBryantの議論のほうが目から鱗が落ちた気分にさせられる。

Bryantによる主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースのそれぞれの四つのディスクールは次の如し。









資本主義のユニヴァースには、「資本家」、「生権力〔者)」(フーコーの概念から)、「批評理論(家)」、「非物質的な生産(者)」(すなわちサービス産業など)の四つのディスクールがあるという考え方である。

このあたりはいまだよくわからない(納得できない)ところもあるのでこれ以上は書かない。

そもそもわたくしのこれらの関心は、人はなんのディスクールで語っているのだろうかという問いが、どうしてもラカンの四つのディスクールをめぐって考えていると、浮ばざるをえないということからだ。

<彼>は大学人(インテリ)のディスクールで語っているのだろうか、それならば隠されているものは、主人であり支配・権力であるだろうとか(上の図のそれぞれの左下の部分が話し手の「真理」であり、それは抑圧されてもいるが発話の真の動因でもある)、《the paranoid subject is looking for followers and believers.》《the paranoiac who is most in need of an audience such as a group, in order to "keep his sanity,》(参照:「私はあなたを愛しています」)と語られるとき、どうもこの主張はいままでの主人のユニヴァースの四つの言説にはあたはまらないな、とかの問いだ。


たとえば、この後半のポール・ヴェルハーゲの指摘は、ナルシスティックなパラノイドパーソナリティ(自らの主張に絶対的な信認をおく主人S1)は、ヒステリー症者$を求めるということであり、上の生権力S1→$にあてはまるということになるのか、云々。

ところで、<あなた>のブログやツイッター上のディスクールは、どのタイプだろうか、ーー人はそれくらいの問いがたまには各人あってもよい。ただ情報を流しているだけ? では、《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)やら、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)をどう捉えるべきか。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

たとえばジジェクによれば、ラカンはセミネールではヒステリー症者として語っており、エクリでは分析家として語っているという。

ラカンのセミネールとエクリの関係は、治療における被分析者と分析家の関係に似ている。

セミネールでは、ラカンは被分析者としてふるまう。すなわち「自由連想し」、即興で語り、飛躍したり跳躍したりしながら、聴衆に語りかける。そのため聴衆のほうはいわば集合的な分析家の役割を負わされる。

これと比べ、彼の書いたものはひじょうに濃縮されていて、公式的である。時には託宣のような不可解で曖昧な命題を投げつけ、それに取り組んで明快な命題に翻訳し、適切な例を挙げ、その意味を論理的に証明しろ、と読者を挑発する。通常の学問的な手続きにおいては、著者が命題を公式化し、さまざまな議論によってそれを裏付けるわけだが、それとは対照的にラカンはしばしばこの仕事を読者に委ねる。いやそれだけでなく、読者は、ラカンが次々に繰り出す互いに矛盾した命題の中から、どれがラカンの本当の命題なのかを決めなくてはならず、託宣のような公式の真意を忖度しなければならない。そうして厳密な意味において、ラカンのエクリは分析家による介入のようなもので、その目的は、被分析者に既製の意見や陳述を提供することではなく、被分析者を働かせることである。(『ラカンはこう読め!』巻末「読書ガイド」より)

向井雅明氏もラカンはセミネールにおいて、ヒステリーの主体として語っているとしている(精神分析のためのグループについて)。

ラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っているのだ。

 分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。それはまた支配者という、他人に何かを命令する立場でもない。四つのディスクールにしたがって大学のディスクールを取りあげると、知を携えてそれを誰かに教え込む者としてでもないのだ。(……)

ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。

このあたりの問いが資本主義のディスクールの四つの言説を加えることで、新たな思いを馳せることができる。ちなみにBryantは、ジジェクのディスクールは資本主義のユニヴァースにおける「批評理論(家)」のディスクールとしている。


…………

補遺:上に引用されたジジェクの『斜めから見る』より。

忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。

もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん究極的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。(注)
注)……「意味としてのコミュニケーション」である。なぜなら、両者は究極的には重なり合う。循環する「対象」は意味である(無意味・意味の欠如とというネガティブな形での)、というだけではない。問題はむしろ、意味そのものはつねに間主観的であり、コミュニケーションの円環を通して構成されるということである(他者、すなわち受け手が、私が言ったことの意味を遡及的に決定するのである)。

この記事に書かれた文脈では、次の<一者>は考慮されていない。松本論文のガタリへの言及はこれにかかわるのか、とも思われるが、その論を読んでいないわたくしには、不明。
しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩ(encore)』に見出される網ひとつの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行である。

※四つのディスクールは、もともとフロイトの最晩年の著作におけるみっつの「不可能な職業」+愛(欲望)から導きだされていることをここで想いだしておこう。

分析治療を行うという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、教育することと支配することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

…………

※附記

ジジェクの比較的新しい(2012)四つの言説への言及。

S1、S2を男性の論理、$、a を女性の論理と関連付けて語っている。

“THERE IS A NON‐RELATIONSHIP” 

So, to conclude, one can propose a “unified theory” of the formulae of sexuation and the formulae of four discourses: the masculine axis consists of the master's discourse and the university discourse (university as universality and the master as its constitutive exception), and the feminine axis of the hysterical discourse and the analyst's discourse (no exception and non‐All). We then have the following series of equations:

S1 = Master = exception   S2 = University = universality

$ = Hysteria = no‐exception     a = Analyst = non‐All

We can see here how, in order to correlate the two squares, we have to turn one 90 degrees in relation to the other: with regard to the four discourses, the line that separates masculine from feminine runs horizontally; that is, it is the upper couple which is masculine and the lower one which is feminine. The hysterical subjective position allows for no exception, no x which is not‐Fx (a hysteric provokes its master, endlessly questioning him: show me your exception), while the analyst asserts the non‐All—not as the exception‐to‐All of a Master‐Signifier, but in the guise of a which stands for the gap/inconsistency. In other words, the masculine universal is positive/affirmative (all x are Fx), while the feminine universal is negative (no x which is not‐Fx)—no one should be left out; this is why the masculine universal relies on a positive exception, while the feminine universal undermines the All from within, in the guise of its inconsistency. This theory nonetheless leaves some questions unanswered. First, do the two versions of the universal (universality with exception; non‐All with no exception) cover the entire span of possibilities? Is it not that the very logic of “singular universality,” of the symptomatic “part of no‐part” which stands directly for universality, fits neither of the two versions? Second, and linked to the first, Lacan struggled for years with the passage from “there is no (sexual) relationship” to “there is a non‐relationship”: he was repeatedly trying “to give body to the difference, to isolate the non‐relationship as an indispensable ingredient of the constitution of the subject.”……(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説

このジジェクの見解は、向井雅明氏のかなりまえの論文(1995)だが、ヒステリーを男性の論理とする見解と相反する。

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル


2013年12月23日月曜日

ラカン派の「<男>は存在しない」

「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』

実際、<女>は存在しないなら、<男>だって存在しない。《The Woman does not exist, neither does The Man.》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

表題の《<男>は存在しない》は、はいささか惹句めいてはいるが、実のところ、当たり前のことなのだ。かつて象徴界のシニフィアン(あるいは「表象Vorstellung」)としての<男>は存在したかもしれない。

だが神が死んだあと、どうして<男>も死なないでいられよう

もっとも新種の<男>たちはいるかもしれない。

実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)

なんだって? 奇妙な主張だと? では日本の紳士的なラカン派ならこういうぜ

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル


もっとも、「自分が存在すると信じている女性」である男たちなら別だが。それはすなわち「<男>の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草なのだ。

人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。(蓮實重彦「ある途方もなく大きな疑問符の消滅」)

《父の機能を基礎づけるのは父親殺しだと主張さえしてフロイトが父なるものを守っているように、無神論の真の公式は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的である」である。》(ラカン『セミネールⅩⅠ』)ってのはなんだ? 違ったコンテクストで語っているだって? 別なふうに読んだっていいだろ?


――いやいや、そんなふうに断言はすまい。

象徴界の<男>が死んだら、現実界の<父=男>が現われる。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

「原初の父」の復活、とはこれだけ読めばいささか奇妙である、「父なき時代」であるはずなのに。だが「原初の父」とは「享楽の父」(すべての女を独占する原父)であり、「エディプス」とか、「父の名」、「自我理想」などが語られるとき、それは「父性的な象徴権威」(象徴界の表象)なのだ。

「原初の父」「享楽の父」は<現実界>に属し、それは猥雑な「母なる超自我」Maternal Superegoでもある。

すなわち、リアルな<男>が存在するなら、リアルな<女>も存在する。

リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして「父なき世代」とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということだ。

そこでは権威ではなく力が支配する。プレエディプス期の「全能の母」というのは力のことだ。われわれはつい先日猥雑な国会運営をみたばかりだ。

《わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目…》(ソレルス)

そもそもジジェクのいう「享楽の父」なんて嘘っぱちだ、「享楽の母」だよ、いるのは。父権制社会がおわったら、母なるオルギアの世界さ、どこもかしこも母性の距離のない狂宴だぜ

まあなんでもいい、マジで書いてるわけじゃないかもしれないからな、クリスマス前のちょっとした息抜きさ、それに日本の企業やら日本株式会社だったら、けったいな父権制が生き残っているかもな、あのあぶくたちめ

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)


…………


古典的な「<女>は存在しない」の説明を付記しておこう。
ミレール -「女La femmeは存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式を、ピロポを利用して皆さんに紹介しました。存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。たしかにこれは難しいことです。ラカンはこのことをイタリアで説明したところ、次の日の新聞に『ラカン、女は存在しない、と言う』と大きいタイトルで出ました。

 これについては、それ自体かなり不可思議なピロペアーダというこの女を取りあげてみなさんに示唆するにとどめておきます。男については「すべての男を一つにまとめる」ことができるが、女についてはそれができない、と言えるでしょう。本来ならば、性に関する、そして男性のセクシュアリティと女性のセクシュアリティに関するフロイトの理論の長い説明が必要なところです。

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。女性のシニフィアンが無いという考えは女性解放論者達を大変苛立たせました。しかしながら彼女達が、男が現実上このシニフィアンに対応するものを持っているということは男にとって有利なことだ、と考えるのは間違っています。ラカンの目には-これは確かに現実だと思えますが-それはむしろ困惑のもとなのです。それによって男は女よりもはるかに義務、そして超自我の奴隷としてしばられています。女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように加えます。「私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。」

 女性解放主義者達のように、フロイトが女性に反対だった、と考えてはなりません。彼にとってこれは単に一つの事実なのです。大切なのはこの事実から、例えばいかに男はグループ、団体を作る傾向にあるか、首長になりたがるか、などなど、そして女には間違いなくこのような男性的習慣を越えた次元があるというのを説明することです。

このことは、例えば、具体的にいうとどこに現れているのでしょう。それは男と女の享楽について我々が昔から知っていたことです。男において、享楽は限定されています。そして女から受ける印象ではこの享楽は無限に思えます-これについては女性から直接聞きだせるというものではありません。なぜなら女性はそのことについてむしろ沈黙を守るほうですから-。男はそれでも女性の享楽の無限性に引きつけられてきました。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びますが、彼女はピロポのにおけるものと同じ位置を占めているわけです。

 女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。

 このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ』)

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)


2013年12月21日土曜日

ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書

愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。(ジャック=アラン・ミレール on loveーー「ラカンの愛の定義」)

ここにある「欠如」をめぐって見事に書かれている文に行き当たった。

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)

The infant quite probably experiences the original internal drive as something peripheral; in any case, it can only disappear through the presence of the Other. The Other’s absence will be regarded as the cause of the continuation of the inner tension. But even when this Other is present and responds with words and actions, this response will never be enough either. For the Other must continually interpret the child’s crying, and there is never a perfect fit between the interpretation and the tension. At this point, we come up against a central element of identity formation: lack, the impossibility of ever answering the tension of the drive in full… The demand through which the child expresses its needs leaves a remainder in the sense that the Other’s interpretation of the demand will never coincide with the original need. It seems that the Other’s inadequacy will always be the first thing to be blamed for what goes wrong internally.
(Paul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics")

ここには主体の欠如と大文字の他者の欠如ということが、簡にして要を得て書かれている。

「元来の内から生じる欲動original internal drive」とは、まず出始めは「お腹が減った」とか「喉が渇いた」、あるいは「寒いよお」のたぐいとしてもよい。この欲求を<母>に向けて言いあらわそうとする。だが幼児の本来がもとめるものは、<他者>がいつまでもそばにいてほしいということなのだ。ところがかりに<他者>としての母がいつもそばにいてくれても、なんらかの物足りなさが残る。というのは、上に書かれている理由のほか、出産後から母との始原の共生は漸次喪われていき、その共生への融合が根源的なものなのだから。この融合をヴェルハーゲは究極のエロス、あるいは享楽と呼んでいる(参照:女性の困った性質

「元来の内から生じる欲動」については、フロイト後期の死の欲動以降の記述ではなく、前中期の「性欲論三篇」から、フロイトの叙述を拾っておく。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。(……)欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(『性欲論三篇』旧訳 p35)

ーーこれだけだとごく標準的な「本能」とどう異なるのか、という疑問が湧くが(実際、いくつかの英訳ではtriebはinstinctと訳されていたり、日本語でもフロイト旧訳では同様)、フロイトはこれ以外に、性的な欲動の部分対象を選ぶ特質(部分欲動)と自体愛的(auto-erotic)を強調しており、人の本来的な「倒錯」性が主張されることになるが(そして、ラカンにいたって頭も尻尾もない欲動の「モンタージュ」概念→「性関係はない」の公式が打ち立てられる大きな理由はそれにかかわる)、ここではその話題ではない。


さて少し前の文脈に戻れば、母の応答はつねに十全ではない。残余が生じる。残余、すなわち対象a、《あなたかのなかにあってあなた以上のもの》、あるいは《わたしのなかにあってわたし以上のもの》。





話し手の審級(agent)としての乳児は受け手の母(other)になにかを訴える。母はその要求に応えるが、そこには剰余としての対象a(product)が生まれる。

上に掲げられたヴェルハーゲの文には、欲望という語はないが、しかしながら欲求―要求―欲望の弁証法をも理解することができる。すなわち乳児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。この欲求を訴える(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していくのだ。

《大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、 むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。》(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』)

ここでラカン理論の基本、いまでは少しでも関心のある人なら誰でもがこれだけは知っているだろう<他者>の欲望を復習しておこう。

人間の欲望は<他者>の欲望である。そこではde(英of)が、文法学者が「主観的決定」と呼ぶものを提供している。すなわり人間は<他者>として(qua 英as)欲望する。それゆえに<他者>の質問―――それは主体が託宣を期待する場所から主体へと戻ってくるのだが―――は、「汝何を欲するか?」というような形をとる。「汝何を欲するか?」は、主体を自分自身の欲望に導く最良の道なのである。(ラカン『エクリⅢ』)

ジジェクは、この文を『ラカンはこう読め』で次のように解説している。


【第一の説明】
「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。

【第二の説明】
……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

※欲望と欲動の相違については、資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)を参照のこと。


さてもうひとつ、ヴェルハーゲの文にはアイデンティティidentityという語彙が出てくる。もっともラカン派にとってアイデンティティidentityとはほとんど禁句に近い言葉であり、実際には同一化identificationにより疎外alienation、分離separationが起るということである。

The human experience of identity is constructed via identification with the signifiers of the desire of the other. In order to stress the impact of the other on the experience of identity, Lacan refers to this process as alienation. As these signifiers present conflicting desires, the subject is essentially divided between and through them. Nevertheless, this alienation is never a total one because the signifiers of the desire of the other can never represent the real of the object a, meaning that there is a structural lack in the chain of signifiers. This opens the possibility of separation for the subject. At the same time, this lack indicates an even more essential division: that between the signified part of the subject and the real of the drive. The conflicting relation between the real, on the one hand, and the symbolic and imaginary elements of subjectivity, on the other, is a structural characteristic of the human being; it is unbridgeable by any efforts.(『 Identity through a Psychoanalytic Looking Glass』Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe  Theory Psychology 2009)

他者の欲望のシニフィアンとの同一化によってひとは「疎外」される。これが上に書かれた<他者>の欲望とともに、主体Sには斜線がひかれること$の内実のひとつである。それとともに肝要なのは傍線箇所である。


ところで上の文の分離separationという言葉をもうすこし詳しく見てみよう。


乳児の母との共生の願い(truth)は、母がいかに懸命に応答しようとも(product)、けっして実現しない.





ーー図は、『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』(Paul Verhaeghe)より(ここで下段に示されているinabilityは、impotenceとしてもよいだろう)。


agentの箇所にS1、otherにS2を代入すれば、次のような図となる。(参照:メモ:ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール




上の図は、エリック・ローランの『疎外と分離』からだが、和訳されたものがインターネット上にある→ lacan.kill.jp/translation/texte/E_Laurent/alienationandseparation.doc

aと$が分離する。ここに幻想の式$◇a《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》があることがわかる(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説)。左下の$からはじめて凹型の上下を反転させた形を進めば、幻想の式を分解した、《$ー S1 ー S2 ーa》がある。

エリック・ローランの『疎外と分離』から、いま書かれている文脈上の核心部分のみを抜き出しておこう。

主体と<他者>の和集合は喪失を残します.主体は<他者>のなかに自らを探そうとしても,主体は失われた部分としての自らを見つけることが出来るだけです.主体は主人のシニフィアンに囚われ,自らの存在の一部分を喪失しています.疎外(つまり,同一性を持たない主体が何かと同一化する必要があること)は,主体が自らを定義するのはシニフィアン連鎖においてだけではなく,欲動のレベルでは<他者>に関係するものとしての自らの享楽によってもまた定義するということを,より深い意味において覆い,あるいはオーバーラップさせています.ジャック=アラン・ミレールが最初に展開したシェーマを受け入れるなら,このようになります.





フロイトの用語では,1925年の「否定」と題された有名な論文で指摘されたように,疎外は享楽の対象そのものが失われたことを覆い隠します.主体を生産するこれら二つの公式あるいは論理学的操作はある意味で垂直にも読めます.最初に疎外,つまり,主体が彼を待ち受ける言語のなかで生産され,<他者>の場に書き込まれます.主体は自らを分割されたものとして,いくつもの部分欲動のあいだで寸断され,常に喪失を被った部分的なものとして見出します.

この公式は別なふうにも読めます.主体は根本的に<他者>の享楽の対象であり,子供としての主体の最初の位置づけはこの<他者>(現実の<他者>すなわち一般的には母)の失われた部分である,と読めるのです.主体は対象aとして人生を始め,失われた部分に同一化し,シニフィアンの連鎖に入るのです.ラカンが言うように,主体は「自らの一次的同一化を受け入れる」――これは『エクリ』で使われた表現です.主体の一次的同一化はある意味で主人のシニフィアンとの同一化です.より深い意味では,主体の一次的同一化は,最終的に主体が定義する対象との同一化です.これは完全な同一化です――主体が<他者>の欲望のなかで,欲望の象徴的水準だけでなく,享楽の現実的実体の水準においての同一化なのです.主体は,シニフィアン連鎖の発展の中でこの対象を回復したり同定しようとしているのです.

このようにして二つのシェーマを両方のやり方で読むことができます.最初に疎外があって,次に分離.あるいは,最初に分離があって,次に疎外があると.論理的に言えば,疎外が先にあります.分析状況のなかでは,分離が先にあります.

さらにジジェクのテキストから、比較的若い頃に書かれた(上に引用された『斜めから見る』と同様)、疎外と分離をめぐる文を掲げる。


ラカンは「分離」を二つの欠如の重なり合いと定義した。主体が<他者>の欠如に出会う時、それに対する主体の答えは、先行する欠如、彼自身の欠如である。このことはヘーゲルの有名な言葉、古代エジプト人の秘密/謎はエジプト人自身にとっても秘密/謎だったという言葉に正確に一致している。疎外された主体は、到達できない秘密/謎を隠し持つ十全で実体的な<他者>に直面する。そして疎外は、主体がその<他者>の核心にまで突き進み、その「隠された宝」を手に入れることによって克服されるのではなく、「隠された宝」(対象a、欲望の対象-原因)が他者自身にも欠けているということを経験することによって克服されるのである。秘密/謎の解消は、その二重化のうちにある。(『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』p233)

<他者>の欠如がなかったら、<他者>は閉じられた構造となり、主体に開かれた唯一の可能性は、主体が<他者>のなかへとみずからを全面的に疎外することだろう。したがって、まさに<他者>の欠如のおかげで、主体はラカンが分離と呼ぶ一種の「脱疎外」を達成する。ただしこれは、主体が、いまや自分が言語の障壁によって対象から永遠に分離されていると感じる、という意味ではなく、対象が<他者>そのものから分離されている、つまり、<他者>が「手に入れなかった」、すなわち最終的な答えを手に入れなかった、という意味である。(…) <他者>のこの欠如が、主体に、いわば息ができる空間を与える。(『イデオロギーの崇高な対象』p192)

2012年に上梓された『LESS THAN NOTHING』では、ヘーゲルの「否定の否定」との違い、要するに、ヘーゲルのほうは高次の次元の弁証法の基礎でありポジティヴであるが、疎外と分離の二重の欠如はそのような積極的な内容はないというようなことが書かれているのだが、ヘーゲルとなると途端に頭をひねる身なので、理解の十分に及ばない箇所を引用するより、上に引用された「古代エジプト人の秘密」と箇所と重なる文を抜き出しておく。

The core of Lacan's atheism is best discerned in the conceptual couple of “alienation” and “separation” which he develops in his Four Fundamental Concepts of Psycho‐Analysis. In a first approach, the big Other stands for the subject's alienation in the symbolic order: the big Other pulls the strings; the subject does not speak, he is “spoken” by the symbolic structure. In short, this “big Other” is the name for the social substance, for all that on account of which the subject never fully controls the effects of his acts, so that their final outcome is always other than what he aimed at or anticipated. Separation takes place when the subject takes note of how the big Other is in itself inconsistent, lacking (“barred,” as Lacan liked to put it): the big Other does not possess what the subject lacks. In separation, the subject experiences how his own lack with regard to the big Other is already the lack that affects the big Other itself. To recall Hegel's immortal dictum concerning the Sphinx: “The enigmas of the Ancient Egyptians were enigmas also for the Egyptians themselves.” Along the same lines, the elusive, impenetrable Dieu obscur has to be impenetrable also to himself; he has to have a dark side, something that is in him more than himself.

最近、フィンクの20年近く前の本が和訳されて、そこには「疎外と分離」をめぐる記述が豊富らしいが、手元に英訳はあるにもかかわらず、かすり読みしただけなので、ここでは、次の書評をリンクしておくのみにする→書評:ブルース・フィンク『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(2013)


…………

欠如、あるいは疎外と分離の話は終ったので、ここで終えてもよいのだが、冒頭はミレールの愛の話で始めたのであり、上に示された<欠如>やら、疎外と分離の議論から、愛とはなにか、をもう一度考えてみるための言葉を抜き出しておこう。もっとも男のファンタジー、女のファンタジーに耽り続けたい大半の連中に文句をいうつもりはない。それでうまくいく場合もあるのだから。そしてラカン派の考え方に熟知したってうまくいくわけのものでもないだろう。あるいはまたフロイト理論がラカンによっていくらかの調整があったように(最も大きな再構成のひとつは、実物のペニスからシニフィアンとしてのファルスへの変換だろう、参照:少年ハンス(フロイトとラカン))、ラカン理論もニューロサイエンス(神経科学)やらにより陳腐化することもありえよう。

だがあれらの新しい理論がいったい愛を語れるだろうか。

ここでも詳しいことは知らないわたくしは偏った視点から、ラカン派の向井雅明氏の言葉を引用することになる。
情動と感情のちがいについて言えば、ダマシオにとって何らかの刺激で生み出された心的イメージの身体的知覚が情動であり、この身体的条件に対する心的知覚が感情である。これを簡単に言えば、怖さで体が震えるのではなく、体の震えという情動的身体表出から怖さという感情が引き起こされるということになろう。このようなダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。ダマシオはこれを「情動は身体の劇場で演じられ、感情は心という劇場で演じられる」 と言う。 それは外に開かれてはおらず、 閉じられた体系なのである。

二つの劇場は脳のどこかに位置づけられる二つの部位なのであり、相互に繋がり合い対応しあっているので、一元論は保たれる。結局彼の考える人間はホメオスタシスによって調整される生物学的な機械であり、デカルトの延長に相当するものの次元においてすべては進行するのである。したがって、ダマシオの身体はスピノザ的な一元論というよりもラメートリーの人間機械論的な一元論的唯物論によって説明ができるものであろう。

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明「Dの誤り ダマシオ批判」

まあしかしながら、ダマシオ(ソマティック・マーカー仮説)やら大きく神経科学のたぐいを批判(吟味)するつもりはない、この向井氏の文と二三の短い解説的な文を読んだのみなのであって、それでなにが言えるわけのものでもないだろう。

ジジェクの見解は柄谷行人が巧みにまとめている。

本書で最も興味深いのは、近年急速に発達した、脳科学や認知科学に対する考察である。通常、これに対しては、意識(精神)は脳と異なる次元にあるといった、人文科学的な批判がなされる。しかし、ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(書評:パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク

ここでは「意識」はニューロン的なものの「行き詰まり」とされている(荒川修作の言葉、意識とは「躊躇」をここで思い出しておこう)。

さらに、ジジェクの『パララックス・ヴュー』から、ことさら印象的な一節を抜き出す(残念ながら和訳は手許になく、原文からになる)。

It is a standard philosophical observation that we should distinguish between knowing a phenomenon and acknowledging it, accepting it, treating it as existing—we do not “really know” if other people around us have minds, or are just robots programmed to act blindly .This observation,however,misses the point: if I were to “really know” the mind of my interlocutor, intersubjectivity proper would disappear; he would lose his subjective status and turn—for me—into a transparent machine. In other words, not-being-knowable to others is a crucial feature of subjectivity……

――他者が何を考えているか本当にすべてわかってしまったら、そのとき<他者>ではなく<私>がロボットになってしまう、<私>の主体性が消えうせてしまうのだ、と。


…………


それにしても、なんという無知蒙昧な戯言、なんという厚顔無恥な輩の跳梁跋扈よ、あれらプレフロイトの思考に戻るつもりかの如き「わけしり顔」の評論家たち、なかんずく類まれなる「自我」心理学者たちよ、そのアイデンティティ至上主義、ほとんどのフェミニストたちも同じ穴の狢だ、ーーなどとはわたくしはけっして言わない……。ニーチェだって言わない。ツァラトゥストラが下界から山の上の洞窟に帰郷して語るだけだ。

……あの下界ではーー一切が語っていて、一切が聞きのがされる。人が鐘や太鼓を鳴らして自分の知恵を売りつけても、それは市場の小商人たちの銅貨の音でかき消されるだろう。

そこでは一切が語っている。しかしだれもそれを理解しない。一切が水に落ちて流される。深い泉の底に沈むものは何ひとつない。

そこでは一切が語っている。だが成就するものは何もない、終結するものは何もない。一切が鵞鳥のように鳴き立てる。しかし静かに巣ごもりして卵を孵そうとするものはない。

そこでは一切が語っており、一切が語りこわされる。そして、昨日はまだ時代の歯にとってさえ固すぎたものが、今日は噛みくだかれ噛みほごされ、当世人の口のはしから垂さがっている。

そこでは一切が語っている、いっさいの隠されたことが明らかにされる。そして、かつて深い魂の秘密や秘事といわれたものが、こんにちは街上のラッパ手や太鼓たたきの持ち物になっている。

おお、おまえ、人間という奇妙なものよ、暗い街路にたむろする喧騒よ。……(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「帰郷」より 手塚富雄訳)

…………

小児が母の乳房を吸うことがあらゆる愛情関係の原型になっているのは、十分な根拠のないことではない。対象の発見ということは、本来は再発見なのである。(フロイト『性欲論』旧訳 p77)

《愛の基本的モデルは男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきだ。》
The basic model of love should be sought not in the relationship between a man and a woman, but in the relationship between mother and child(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界からの答え〉」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。

そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。

ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることができないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。

愛される者が愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。

つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。

この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。 (ジジェク『快楽の転移』 ーージジェクの愛の定義

結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』ーーひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない

ーーというジジェクとその朋友たちの過激な発言だけではなく、穏やかな紳士の風貌と発言をもつポール・ヴェルハーゲの言葉をも再度つけ加えておこう。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

Lacan(……)was to state explicitly that there is no sexual rapport as such, that The woman does not exist. This may sound very pessimistic indeed, a kind of confirmation of Freud's last theory. It is not. In his development, Lacan was to aband on completely the idea of an opposition between the biological and the psychological, and elaborate the ever-present field of tension between the Symbolic and the Real, with the Imaginary in between.

What Freud called a biological bedrock is for Lacan nothing but a defensive system within the Imaginary, directed against an ever lacking signifier. This opens up new alternatives. Freud saw no possibility of going beyond what he believed to be a biological fact, while the Lacanian conceptualisation gives rise to the dimensions of ethics and creation. Indeed, The Woman does not exist, neither does The Man. Both of them can deconstruct and reconstruct their identity during an analysis, in which they share the same experience, namely that their identity or lack of identity, is nothing but a defensive imaginary construction against the feared desire of the big Other. The working through of this - la traversée du fantasme -opens up ethics, which position do I consciously want in view of the desire of the other; it opens up creation, in which direction will I develop my own answers in view of the lack in the symbolic system, answers that will constitute my identity ?

Sexual rapport does not exist. This means that there is a choice beyond neurosis, which is essentially the refusal of a choice. This means that every subject has the possibility of creating one.

That is the challenge beyond analysis.


※補遺:デリダとフーコーの対象a

2013年12月18日水曜日

アランの「四つの徳」

前投稿(「プラトンとフロイトの野生の馬」)に引き続き、プラトン『国家』をめぐる資料。

◆アランのプラトンの『国家』について

プラトンは自己抑制について、素晴らしいことを言ひ、内面の統制は貴族的でなければならないことを示してゐる。つまり、優れたものが劣るものを統治するのだ。「優れたもの」で彼がさしたのは、私達の一人ひとりが内に持つ、知り、理解する力である。私達の内にある民衆、それは怒りであり、欲望であり、欲求だ。私はプラトンの『国家』を読んで欲しいと思ふ。それについておしやべりをするため、つまり、普通に言はれてゐるところを再確認するためではなく、自らを統治する術を学び、自らの内に正義を打ち立てるために。

彼の主な考へは、かういふものだ。人が自らをうまく統治できれば、さうしようと考へなくても、他人のためにも善き人、役に立つ人になる。これは全ての倫理の理念だ。それ以外は、野蛮人の取締りに過ぎない。諸君が恐怖といふ手段だけで、人々が争ひを避け互ひに助け合ふやうにすれば、確かに国の中にある種の秩序を築いたことになる。しかし、一人ひとりの内側は、単なる無政府状態だ。暴君に他の暴君が取つて代はる。恐怖が物欲しさを牢に入れてゐる。内側ではあらゆる悪が泡立つてゐる。外側の秩序は不安定だ。暴動、戦争、地震が来ると、牢から囚人達が吐き出されるやうに、私達の内でも牢が開かれ、怪物のやうな欲望が街を占領する。

だから、私は、計算や用心深さに基礎を置く倫理の教へは、凡庸だと判断してゐる。それ以上は言はないが。愛されたいと思へば、優しくしろ。お返しをして貰へるやうに、同胞を愛せ。子供に尊敬されたかつたら、親を敬へ。これは街頭警備に過ぎない。誰もが常に良い機会を、不正を犯しても罰せられない機会を待つてゐる。

私は、若いライオンの仔らが、倫理の教科書や教理問答集、全ての慣習や格子で爪を研ぎ始めたら、すぐに、別のやり方で語るだらう。彼らに、かう言ふだらう。何も恐れるな。自分が望むところを為せ。金の鎖にせよ、花で飾られた鎖にせよ、どのやうな束縛も受け入れるな。ただ、君たちは、自分自身の王になりたまへ。位を譲るな。欲望を、怒りを、そして恐れを支配する者たれ。羊飼ひが犬を呼び戻すやうに、怒りを呼び戻す訓練をせよ。諸君の欲望に君臨する王たれ。怖ければ、諸君を恐れさせるものに静かに歩み寄れ。諸君が怠惰なら、自らに任務を課せ。無気力なら、体を鍛へよ。我慢が足りないなら、縺れた糸の球を自分に与へよ。煮込みが焦げたら、大いなる食欲で食べるといふ王の贅沢を持て。悲しみに襲はれたら、自分に喜びを布告せよ。眠られず、草の上の鯉のやうに寝返りを打つてゐるなら、動かずにゐて、命令により眠る訓練をしたまへ。さうすれば、諸君は、自分の王になつてゐるのだから、王のやうに振る舞ひたまへ。そして、自らが良いと思ふことを為したまへ。

《君たちは、自分自身の王になりたまへ》とある。この勧告をどうどらえるか。前回みたように、フロイトーラカンの考えでは、われわれは自身の王にはなりえない。ここではあまりややこしいことは書きたくないが、ラカンの言い方では、主体の核には欠如がある。言語化されない欲動(欲望ではなく)の蠢きがある。もし己れの王になることを極限まで言うならば次のような定言命令がある。

汝の生み出した発話行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ。(アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』)
だがいまはその話ではない。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より

「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。

(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。

小林秀雄の読みはここではアランよりずっとペシミスティックであると言えるだろう。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)

《三島由紀夫が生きていたら、彼に読まれるということだけで、書けない小説があったはずだ。三島が死んでしまったら、同世代の作家たちの中に、あいつに読まれたら恥ずかしいという意識がなくなって、歯止めがきかなくなってしまった。小林秀雄が現職のときも、そういうことがあったと思う。》——蓮實重彦

後年、柄谷行人は小林秀雄批判の言葉を洩らすにしろ、柄谷行人の初期評論のモデルは小林秀雄にあったことは間違いない。


恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

いまそんなモデルはどこにもない。


◆プラトン『国家』(藤沢令夫訳)より

アデイマントス発言)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)
それではまた放埓であることが昔から非難されているのも、同じような理由によるとは思わないかね。すなわち、そのような状態においては、あのおそろしい、あの巨大で複雑怪奇な獣が、しかるべき限度以上に解放されるからなのではないかね?(……)

また強情や気むずかしさが非難されるのは、それがライオン的な部分や蛇的な部分を不調和に大きく成長させ、緊張させる場合ではあるまいか?(……)

他方、贅沢や柔弱が非難されるのは、まさにその部分をゆるめて弛緩させるためではあるまいかーーその部分の内に臆病さを植えつける場合にね(……)

また、へつらいや卑しさが非難されるのは、同じその部分、気概の部分を、あの荒れ狂って始末におえぬ獣の下に屈従させ、金銭のため、またその獣の飽くことなき欲望のために屈辱に甘んじさせ、ライオンであることをやめて猿となるように、若いときから習慣づける場合ではないだろうか(590B)


プラトンの議論では知恵、勇気、節制が国家の正義をもたらすということになる。
この国家は、<知恵>があり、<勇気>があり、<節制>をたもち、<正義>をそなえていることになる》(427E)

これは前回しめした、魂の三分説<知を愛する人>、<勝利を愛する人>、<利得を愛する人>、あるいは理(ロゴス)を知る「理性的部分」、怒りや情熱をおぼえる部分「気概的部分」、飢えや金銭欲感じる部分「欲望的部分」のそれぞれが「知恵」「勇気」「節制」に対応し、その三つが相俟って「正義」を生むという議論だが、実際は小林秀雄が指摘するように、不正ばかりが書かれている。あるいは同じ小林秀雄が要約するソクラテスの「民主主義政体」については、当時は奴隷や女性の投票権がない小さな民主主義(いまではエリートだけの民主政とでもいうものだろう)にもかかわらず、衆愚政治やファシズムに陥らざるをえない機微が書かれており、あらためて反デモクラシーの言説として読まざるをえない。それはまたフロイトが『ある幻想の未来』で次のように書いていることをも想起させる。


……指導者は、自分たちの影響力を持ちつづけたいと思うあまり、大衆を自分たちに近づけるよりはむしろ自分たちのほうが大衆に迎合してしまう危険にさらされている。そこで、大衆からの独立を保つためには、指導者たちに権力手段を与えることが必要に思われてくる。これは要するに、文化の諸制度維持のためにはある程度の強制が絶対に必要とされる原因は、人間には自発的に働く意志はなく、また、情熱のとりこになった人間は道理に耳をかそうとはしないという、多くの人間に見られる二つの性質に求められるのである。

以下はふたたびアランだが、ここではプラトンの名は出していないにもかかわらず、明らかに『国家』が下敷きとしてあり、アランは四つの徳を並列的にならべ、最後に知恵=叡知だけが肝要だと説くことになる。この議論はカント的、あるいはフロイト的観点からはそのまま受け容れがたいにしろ、通俗道徳としてはいまでも基本であろう。いま通俗道徳としたが悪い意味ではなく、われわれの生は99パーセント、その道徳によって生きていくことができる。ただそれだけではない、ということが、カントやニーチェ、フロイト、ラカンなどによって言われているのを忘れてはならないということだけだ。

上にプラトンの国家からアデイマントスの発言、《ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないから》と引用したのは、不正ではないが、以下にアランが巧みに書くように’節制の徳がたいして尊敬されず、その理由は人間の器の小ささによると思われがちなことを示すためだ。前記事でしめされた己れの核の享楽(死の欲動)を認めつつのフーコー的な節制であればだれも文句はいうまい。

《節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。》

成熟もしかり。

《「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう》(加藤周一「老年について 」1997)

《停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ》う(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

プラトンの冒頭近くに印象的な会話がある。
『どうですか、ソポクレス』とその男は言った、『愛欲の楽しみのほうは? あなたはまだ女と交わることができますか?』

ソポクレスは答えた、

『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの』

私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思ったが、いまでもそう思う気持にかわりはない。まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。さまざまの欲望が緊張をやめて、ひとたびその力をゆるめたときに起るのは、まさしくソポクレスの言ったとおり、非常に数多くの気違いじみた暴君たちの手から、すっかり解放されるということにほかならない。(329D)

ニーチェならひどく嘲弄する言葉だろう、連中の哲学はすべてこのたぐいさ、と。

わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者を笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「崇高者たち」手塚富雄訳)


さてようやくアランのプロポ「四つの徳」全文を引用することができる。実は前投稿から引き続き、このアランの文章を吟味するために、プラトンやフロイト、ニーチェ、小林秀雄などを引用しているようなところがある。ようするに十代の後半に出逢ったすばらしい文章であるにもかかわらず、齢を重ねて雑念が積み重なった身の者が引用するにはいささかの留保が必要なのだ(そして少年時にひどく愛したアランをなんとか救いたいという心持がある)。

そう、たとえばラカンならこう言う。

「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン「メルロポンティ追悼」)でありつつ、『セミネール一巻』では、それなりに好意的に取り上げていることを抜かさずにおこうーー《アランは、パンテオンについて心に描くイマージュにおいては人はその円柱の数を数えることはできない、と強調しました。それについては私なら、パンテオンを設計した人を除いては、と答えましょう。これだけでもう、私達は現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものそれぞれの関係に入り込んでいます。》(「フロイトの技法論」上 P231 岩波書店)


徳ということばは、まずそれ自身おどろくべき曖昧さをふくんでいる。日常のことばづかいにおいてもそうだ。植物の徳とはなにかは、だれでもこれを理解できる。それは植物に附された有効性のことで、これはけっして欺かず、けっして務めをおこたらず、確実にひとがそこに見出しうるものである。徳とは、これをいかように解そうともつねに力であることはかわらない。他方、徳とはつねに断念である。この矛盾は勇気のない精神の持主をなやます。まったく反対に、この矛盾は、語勢のためにすぎないときでも、まさしく人の個々とを刺激し、目ざめさせ、挑発すべきものなのだ。徳とは、たし
かに無力さゆえの断念ではなく、むしろ力ゆえの断念である。もし私が気狂いじみた怒りゆえに勇気があるのなら、それは徳ではない。もし私が卑怯さからして断念するならば、それはすこしも徳ではない。徳とはなにかといえば、自己の自己に対する力である。なんの役にも立たぬのについに罵りかえしてしまって、これを得意におもうものはない。肉屋の店先で、犬がやるのを見かけるように、快楽をまえにしてハアハアあえいで、これを得意におもうものはない。自分のかせぐお金によって自分の意見を規制するのを得意におもうものはだれもいない。自分の主人にへつらうことの好きなものはだれもない。自分の考えるところをいうこと、そして、まずもって自分の考えるところ、いうところを、そのため失敗をまねくかも知れないとおもわれるその状況のなかで、吟味すること、これが徳である。

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。ある人に対して勇敢にいどみつつ正義を体することは、自己の自己に対する正義を体することよりもやさしい。それならば、勇気に対するこの熱情はどこから来るのか。おそらく、勇気のあかしということには論議の余地がないからである。問題は危険な行動をおこなうこと、しかも、躊躇によってであれ、軽率によってであれ、けっして挫かれてしまうことなしにそれをやることだ。そうしたものは、顔や手や声でわかる。それゆえにこそ、いかなる人に対しても勇気のあかしを示すことがもとめられていいこと、またこの条件によってしかなにびとも尊敬されないということが、なん世紀にもわたって人びとにみとめられて来たわけだ。こんにち決闘や挑戦はいささか忘れられている。もっとも、すっかり忘れられているわけではない。むしろ、勇気のあかしということは依然として人びとのうえに君臨している。戦いへの招きはこばみがたいものだが、それもこうした理由によるのである。

人間のいま一つの敵、それは快楽だ。かくして、節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。こういうわけで、この節制という徳は、ややもするといかがわしく思われる。自己の自己に対するばあいでもそうだ。というのは、およそ金づかいというもののほうが、いかにも勇気ありげにみえるものなのだから。それゆえに、人はこのヴェールをかむった徳、節制のまえではためらう。

富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。

この三つの徳を考察してみると、これらのものが第四番目の徳、すなわち叡知によってもたらされた影のようなものだということに気づく。というのは、問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持することなのだから。そして、情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることである。それゆえ、第一の徳とは、よく判断することであり、よく判別することであり、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとってなにが重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲しないのかを知ることである。そして、あきらかなことだが、われわれを連れ去ろうとする人たちは、はなばなしくもそうぞうしい外観の花火により、賞讃により、侮辱により、皮肉により、恥辱により、威嚇によって、われわれの注意をおびえさせ、疲れさせ、がっかりさせることからまずはじめる。じつは、徳という名のもと、つねに目ざされているものは、判断力なのだ。徳は一つしかなく、自己自身をまえにした精神の自由な態度こそそれである。もろもろの徳のかげに姿をみせているのは、うまいことばでいえば、自己尊重ということである。有徳の人とは、自分がいわば精神の捧持者であると知り、またこの高い属性に対しみずから責任あると知る人のことである。それゆえ、賢者はただ自己をしか信ぜず、自己についてはただ自己の精神をしか信じない。かくして彼はときに、徳とはなにものでもないとさえいうにいたる。(アラン『人生語録集』(プロポ集 )彌生選書 1978 井沢義雄・杉本秀太訳)

これらはプラトンだけではなく、わたくしの狭い読書範囲でも、仏モラリストたちの系譜の言葉であることが分る。

たとえば、ラ・ロシュフーコーの箴言集から。

正義とは、自分に属するものを奪われるのでないか、との生ま生ましい危惧にほかならない。隣人のすべての権益に対する配慮と尊重、隣人にいかなる迷惑もかけまいとする、細心の注意はここから生まれるのである。この危惧が人間を生まれや運によって自分に与えられた富の限度内に踏みとどまらせるのであって、これがなければ、人間はとめどなく他人の財産を掠め取ろうとするようになってしまうだろう。

アランと小林秀雄より

森有正は、「彼(アラン)はアリストテレスを十八回読破したと言う!」と、感嘆の声を発しているが、およそアランほど、徹底して古典を読みこんだ者はいないであろう。

例えば、彼は、トルストイの大作『戦争と平和』を10回以上、あの厖大なサン・シモンの『回想録』を一行も飛ばさずに少くも三度以上反読する。『谷間の百合』、『パルムの僧院』、『赤と黒』に至っては実に五十回以上も読み返し、しかも読むたびに喜びを新にする。

「ステイヴンソンの『宝島』は、はとんど記憶の中に書きとめられている」と言う。おそらく、プラトンやスピノザ 、デカルト、ヘーゲル、(……)などの哲学者も、こんな風にして、その全著作をくり返し彼は熟読したのであろう。

例えば『谷間の百合』が退屈だとかつまらぬとか言う者がいるが、彼等はかけ足でページからページへと急いだだけで、ろくによく読みもしないで勝手な言辞を弄している、これこれしかじかの素晴らしい個所を引用してみると、彼等はそんな部分があったことにさえ全く気づいていない。

肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ、とアランは嘆くのである。

ーー森有正もアランに熱中した同じ頃熱愛したのだが、彼を救うための文章を書こうとして書き切れていない(もちろん救うといっても、わたくしの個人的な読書歴のなかで「救う」のであって、他人に強要するつもりはないが、少年時の愛は森有正のかんしては救い切れていないのだ)。

…………

アランは第一次大戦に自ら望んで従軍している。《46歳で兵役義務はなかったにもかかわらず、そして戦争を憎んでいたにもかかわらず、しかもアンリ四世校という名門中の名門の学校で哲学教師の職を得ていたにもかかわらず、志願して従軍しました。それも、アランの年齢と地位に配慮して後方任務が用意されたのを断り、重砲兵を希望して前線に赴いたのです。》(村井章子

《アランが世に知られるきっかけとなったのも、ドレフュス事件(1894年)の際に、スパイ容疑をかけられたドレフュス大尉を擁護し軍部を攻撃する論陣を張ったことでした。》

ほかにも一九三六年に組織された反ナチズム知識人連盟の会長になっている。
ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されよく読まれていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、あのオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のサルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。

アラン( 1868-1951)は、彼がプロポと名づけたこの種の短文を、 1906年いらい三十数年間、一日に一つ書くのを原則として、ほぼこの間の日数の半分に匹敵するおびただしいプロポをのこした。「君に天分があろうとなかろうと、毎朝、二時間ずつ書きたまえ。」というスタンダールのことばをアランは好んで引用するが、しかし彼はこうした短文をいたずらに書きためていたのではない。「自分の原稿を日ごとに活字にする人は、大理石ないし石材に彫刻する人んい似たところがある。彼は慎重をまなぶのである。」アランは 1906年2 月16日から 14年9 月1日にいたる間、『ルーアン日報』紙に「一ノルマン人のプロポ」と題して毎日かならず一篇の短文を、つまり合計して三千九十八篇のプロポを掲載したのである。以後も、数種の新聞・雑誌に定期的にプロポを発表しつづけた。慎重さは、まさに彼がいうように、翌朝には印刷されもはや修正加筆のきかない形にされた自分の文章が、無数の読者の手もとに配されてしまうという余儀なさによってまなばれる。まなばれた慎重さは、書き手のペン先を規制し、方向逸脱を監視するであろう。それにしても、まずはじめには決断をもってペンを動かすことが、つねに必要であろう。翌日の記事はさし迫っているからである。ところで、あつかう題目は、新聞の読者がよく知っている日常的な経験と毎日の報道のなかに求められねばならない、という余儀なさが、さらに加わる。人々が述べあう諸問題、しかも決して支配者ではなく民衆が語る話題。政治・社会体制は、そこで広い部分を占める。労働、情念、家庭、学校、小説、祭り、その他。以上が、アランのプロポの独特な展開とその文体とを鍛練した主たる条件だと考えられる。そして proposという語は、これらの条件をそのまま一語のうちに含むのである。プロポーー決意・主題・時宜・話題。(『アラン人生語録』弥生書房 1978 杉本秀太郎「あとがき」より)