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2014年9月22日月曜日

「痴漢ファンタジー」について、あなたはどう思う?

レイプファンタジー(女性がレイプされたい幻想)があるなら、痴漢ファンタジー(痴漢されたい幻想)もあるのだろうか、などという捏造された問いを発してはならない。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。

From 1973 through 2008, nine surveys of women's rape fantasies have been published. They show that about four in 10 women admit having them (31 to 57 percent) with a median frequency of about once a month.(Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean?

もちろん日本でこんな調査がなされるわけのものではない。「恥の文化」の国である。ましてや痴漢ファンタジーの有無の調査など。

だがどうやらわが国の作家、吉行淳之介やら大江勘三郎は、女性の痴漢ファンタジーを想定しているのではないかと勘ぐることはできるのは、「精神的な痴漢たち」における抜き書きから憶測されうる。

もしいま娘が嫌悪か恐怖の叫び声をあげれば自分はオルガスムにいたるであろうと感じる。かれは懼れのように、あるいは、熱望のように、その空想に固執する。しかし娘は叫ばない。唇はかたくひきしめられたままだ。そして舞台に切られた垂れ幕がおりるように、瞼が不意にきつく閉じられる。その瞬間、Jの両手は尻と腿の拒否から自由になる。柔らかくなった尻の間をなぞって右手はその奥にとどく。ひろがった腿のあいだを左手は正確に窪みにいたる。

そしてJは恐怖感から自由になる、同時にかれ自身の欲望も稀薄になる。すでにかれの性器は萎みはじめている。かれはいま義務感あるいは好奇心のみにみちびかれて執拗な愛撫をつづけているだけだ。そのときJは、ああ、いつものとおりだ、こういう風にすべて容認され、この状態をこえたひとつの核心にいたることが不可能となるのだ、というようなことを冷たくなってくる頭で考えていたのだった。(大江健三郎『性的人間』)

いやいや単なる憶測である。これだけではなんとも言えない。

吉行の『砂の上の植物群』を、上野 千鶴子、富岡 多恵子,、小倉 千加子による『男流文学論』などで《時代遅れの通俗小説》とか、《こんなに女性に無理解な男が、なんで女を知っているということになっているのか》とさんざんに貶されたのは已む得ない。

女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。

窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。

その眼と唇をみると、彼は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに軀を彼の方に向け直した。その溜息と軀の捩り方は、あきらかに共犯者のものだった。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

「あきらかに共犯者」だと? 彼女らには「想定外」の、小説のなかの叙述にすぎない。


ところで男性諸君、とくに若く聡明な貴君たちは、女性の「痴漢ファンタジー」には関心がないのだろうか。

ジジェクはどうやら関心がありそうだ。そしてジジェクのレイプファンタジーの論理を援用すれば、痴漢ファンタジーを抱いている女性ほど、実際に痴漢に遭遇したとき、トラウマ的な衝撃を受けるということになりはしないか。それともレイプと痴漢を同列に扱うわけにはいかないのだろうか。

ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。

主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。

(ジジェク注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。)

結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

《ラカンは、恥は定義上幻想〔ファンタジー〕にかかわっていると主張する。アガンペンは、恥はたんなる受動性ではなく、積極的〔能動的〕に受け入れられた受動性であることを強調している。私がレイプされた場合、私に恥じるところは何もない。だが、レイプされることに喜びを感じている〔享楽している〕としたら、私は恥じ入ることになる、というわけだ。》(ジジェク『メランコリーと行為』ーー「パンツという制度」)

ーーとだけ引用しようと思ったのだが、同じリンク先に、以前メモしたパンツという「恥」をめぐる井上章一氏の文に再会したので、ここにやや文脈から外れるが、挿入しておく。

彼女達は、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部を隠すパンツが、それまでにないはずかしさを学習させたのである。(井上章一)

いずれにせよフロイトやラカン、そしてジジェクなど読んでいいことはない。
わたくしのように掠め読むだけでも悪影響がある。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

清き正しき青少年や乙女たちは、このブログなど読むべきではない。

ソレルスの小説『女たち』、そこではラカンがモデルであるファルスについて、こう書かれているではないか、《ファルスは十分に滑空しなかったんだな……浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること》。ここにも悪く考え、悪化させる男がいる。

「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた …これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた …彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明 …だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ …吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている …憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ …でもそれだって避けることはできる …ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな …かれはそのことでまいっていたのだと思う …どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない …実際にはちがう…気違いじみてもいなかった …後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった …そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる …大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること …ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる …眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し …見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


《レイプファンタジーって何なのだろう? 私の意見を言わせてもらえば、ほかのファンタジーとの違いは何にもないね。悪いものでもないし倒錯的でもないさ。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものさ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からないな。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておくよ。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものなんだ。あなたはどう思う?》(Michael Castleman「レイプファンタジーの統計調査」)

で、痴漢ファンタジーについて、あなたはどう思う? などという問いをやはり発してはならないのだろうか。痴漢ファンタジーの実態が明らかになれば、痴漢は増えるのだろうか? ひょっとして莫迦らしくなって痴漢などしなくなる男が増えるなどということはないか?

魅惑の力がその効果をうみだすためには、その事実は隠されたままでなければならない。主体が、他者が自分を見つめていることに気づいたとたん、魅惑の力は霧散する。(ジジェク『斜めから見る』)

いやいやそんな生やさしいものではない。
いじめが容易になくならないように、痴漢はなくならないのかもしれない。

《国によっては痴漢するぐらいなら最後まで襲う、というのが一般的なのです。それと比べるとまだマシと言えるかもしれません》(「痴漢対策&痴漢冤罪対策まとめ」)などという記述がある(参照:「痴漢文化といじめ文化」)。

長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。ーー「日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる」)

おそらく「痴漢文化」と「いじめ文化」は相関関係があるのだろう。日本では最後まで襲うこと少なく、かつ学校での本物のギャングは少ない。

レイプと暴力が少ないのなら、痴漢といじめは我慢すべきなのだろうか?

2008年のデータだが、「第7回国連暴力白書のレイプ発生率・国別」なるものがあり、それによれば、アメリカは日本の17倍、韓国は日本の7倍となっている。

…………

というわけでこの文は、いささか「倒錯」的な気質をもつ初老の男のーーただし、痴漢めいた振舞いは少年時に一度しかないにも拘わらず、いまだ痴漢行為への心残りをひそかに滲ませている、と読まれることは覚悟の上のーーたんなる「思いつき」に過ぎない。

「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(……)

「倒錯」とは、何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで、そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくり馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである。ひとことで、「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ。(松浦寿輝『官能の哲学』

倒錯の肯定的側面をこのように表現してくれる松浦寿輝はエライ。ただし、男たちは痴漢でなく別の倒錯行為を探し求めるべきではある。

《私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて》(谷崎潤一郎 「痴人の愛」



2014年9月21日日曜日

「世界は女たちのものだ」

日曜日だな、反フェミとの「汚名」を濯ぐため、「女性」を顕揚してみよう。

@HistoryInPicsより



若いときにこういった写真をみて、ああ、うらやましいなあ、オレも一度はこのお零れにあずからなくちゃな、と思わない男は、やっぱりどこかいかがわしいぜ、ちがうかい?

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

ところで「いかがわしい」とは便利な言葉だが、若く聡明なきみたちは多用しないほうがいいんじゃないか? 相手にされなくなるぜ。多用するヤツは、オレのように「いかがわしい」ヤツだな。

……イカガワシサときみがいい、H氏やK氏の僕への言葉だともいうんだが、きみ自身として当の言葉をよく考えてのことだろうか? そのように僕は内心の思いを展開させていたのだ。鋏でよく髯を刈りこんでいるが、それゆえにかえって薄汚れた風情の、若い同胞よ。初対面の会話できみが軽く使う、その言葉を、僕は相当の心づもりに立たずには使ったことがない。いったいきみはどういう対決の理由があって、この旅先まで僕を訪ねて来ているのか? それをまず聞くことができれば、話は早手まわしとなるはずだが。きみがイカガワシサという言葉について、それを発したとたんに始まる厄介な闘いへの、心準備なしにしゃべりたてる人物なら、僕として真面目に答える必要もないわけだ……(大江健三郎「見せるだけの拷問」)




役者がちがうって感じだな、ーー「なんなの、ダリ坊や?」

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

もちろんうらやましがるのは、こっち系でもいいのだが
これはやっぱり十代~二十代に修業を積んでからじゃないか

江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)


ここで唐突にロラン・バルトと吉岡実のまねをしてわたくしの好きなものを書き出そう。

といっても吉岡実のようにイキに書けるわけではない、《ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ……》(私の好きなもの(吉岡実、ロラン・バルト)





《私の好きなもの》、女の腰、脚、足指、チェロ、太股、イタリア産のサラミ・生ハム、サフランのリゾット、山羊のチーズ、恥垢の臭いがかすかにする女の膝で耳かきしてもらうこと、三時間後のCHANEL ANTAEUSの首筋の香り、五時間後のCHANEL五番の女の髪の匂い、くちなしの白い花と香り、散歩途次の金木犀の匂い、生牡蠣、トリュフ入りチョコレート、ヴェトナムカフェ、白い肌に真っ黒い縮れた腋毛、カンボジア産の葉煙草(なかったらダンヒルでもダビドフでもいいさ)、ダンヒル製のパイプ、40年代ロレックス、鮒寿司、このわた、テニスでトップスピンサーブがきまること、川蟹タマリンド煮、初期ヴェンダース(都会のアリスなどの三部作)、フォレ、ドガの踊子、タンニンくさい濃厚な赤ワイン、プルースト、丘のうなじ、西脇順三郎、吉岡実、バッハはあげたくないがあげる、かっこつけてヴェーベルン、霧のかかった高原の朝のかたつむりの白い足跡ーーといってもニブイヤツがいるからつけ加えておくよ、《枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つく》(プルースト)ーー、飯田線で温泉場にいくこと(縄と蠟燭持参)、がらがらの渥美線で終点までいくこと(象徴的ファルス持参)、ーー象徴的ファルス? わからないだろうなこれもーー





伊良湖岬まで女とともにバスの最後部席でいちゃついて擦れ違うトラックを溝に嵌めること、夕刻、下穿きを履かずに浴衣で女と散歩すること(温泉場だぜ、もちろん)、マイルス・デーヴィスの「Kind of Blue」が好きな酔っ払い女、木綿のワンピースを無造作に着た汗ばむ女など






男ってのは、やっぱり女にかなわないんじゃないか?
いまごろようやく悟るってのもなんだが。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)





ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity(1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)




若い男性たちよ、安心したまえ! きみたちが悪いのじゃない。ただ女性たちが真実を語り始めた〈不幸な〉時代に〈運悪く〉生れ合わせただけさ

ーー《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである》(ヴァージニア・ウルフの『私ひとりの部屋』)

・女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。

・文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。

・つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。

・鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。





《男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてる》だって? マイッタネ

さきほどつけ加えるのを忘れた、私の好きなもの、女の去勢。

……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(フロイト『呪物』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)



もっとも、男性諸君! こっちのほうだけは牛耳られないほうがいいらしいぜ、あとはどうでもいいさ。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)



ある写真が気に入り、それに心をかき乱されると、私はいつまでもそれにこだわる。そうやって写真を前にしているあいだずっと、私は何をしているのか? 私は写真に写っている事物や人間についてさらに詳しく知ろうとするかのように、写真を見つめ、子細に検討する。……(ロラン・バルト『明るい部屋』p123)

どうしてこんな「平凡な」写真に心をかき乱されるんだろ? なにが突然向うからやってきたというのだ? 覗き窓から覗くようにして学生たちが宴の卓を囲んでいるのが見える(背中を向けているのは教師か)。若く知的な男女の慎みと節度、はじらいの気配に領され、無礼講になるようすはまったくない……

まあ、いいさ
オレの一見反フェミ風というのは、こういうことだぜ

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)

ーーというわけで、文明国の男女のみなさんは、こういったものを読んどかなくちゃな

イラク北西部、ヤズディ(ヤジディ)教徒の町シンジャルを制圧したイスラム国は、住民の殺戮と迫害を開始した。イスラム過激派から「邪教」とされてきたヤズディ教は銃をつきつけられ、イスラム教への改宗を迫られる。さらに数百人を超えるヤズディ教徒の女性を集団拉致。戦闘員と強制結婚させられたり、「奴隷」として売られたりしたという。その多くは今も行方不明のままだ。このひと月間に女性たちの身に何が起こったのか。イスラム国に拉致され、脱出してきたばかりの女性は声を震わせながら語った。(イラク北部ザホー 玉本英子

ーーとすれば日曜日にはふさわしくない読み物かい? ならば、

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)

この何年かのあいだでめぐり合ったもっとも忘れ難い女の表情の画像も附載しておくよ。








2014年8月10日日曜日

鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

ラカンの「責めに得る」ⅩⅦの有名な母なる鰐の口の話を原文で拾ったが、仏文がたいして読めるわけではない。


"Je vais commencer par la fin, en vous donnant tout de suite ma visée, parce que je ne vois pas pourquoi je n’abattrais pas mes cartes. Ce n’est pas ainsi que je comptais tout à fait vous en parler, mais au moins, ce sera clair. Je ne suis pas du tout en train de dire que l’OEdipe ne sert à rien, ni que cela n’a aucun rapport avec ce que nous faisons. Cela ne sert à rien aux psychanalystes, ça c’est vrai, mais comme les psychanalystes ne sont pas sûrement des psychanalystes, cela ne prouve rien. De plus en plus, les psychanalystes s’engagent dans quelque chose qui est, en effet, excessivement important, à savoir le rôle de la mère. Ces choses, mon Dieu, j’ai déjà commencé de les aborder. Le rôle de la mère, c’est le désir de la mère. C’est capital. Le désir de la mère n’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, que cela vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts. Un grand crocodile dans la bouche duquel vous êtes — c’est ça, la mère. On ne sait pas ce qui peut lui prendre tout d’un coup, de refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère. Alors, j’ai essayé d’expliquer qu’il y avait quelque chose qui était rassurant. Je vous dis des choses simples, j’improvise, je dois le dire. Il y a un rouleau, en pierre bien sûr, qui est là en puissance au niveau du clapet, et ça retient, ça coince. C’est ce qu’on appelle le phallus. C’est le rouleau! qui vous met à l’abri, si, tout d’un coup, ça se referme." (Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, 1960-1970, Seuil, p. 129)

というわけで向井雅明氏の説明を掲げておこう。


◆向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋。

子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。



だが、そんな父親はいるのだろうか、と向井氏は問い、フロイトのエディプス・コンプレックス論の説明をしているがここでは割愛。

ここにある《父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である》という表現が、いわゆる象徴的ファルスがなんであるかの説明として、最も分かりやすい例のひとつであろうと思う。ただあまりにもイメージ豊かであり、欠如のシニフィアンであるにすぎない象徴的ファルスが父の実際のペニスであるような誤解を生みやすい表現ともいい得るが、しかしながら、逆に、あまりにも理解されていないーーラカンを読んでいるつもりになっている人たちにさえーー誤解の多い象徴的ファルスについての標準的な公衆の理解をすこしでも促すには、まずは、これでいいのではないか。肝要なのは、母の欲望に呑み込まれてしまうことを救う「支え」であるという点である、それは父のペニスであるはずがない。

たとえばジジェクのような「象徴的ファルス」の仕方が正統的なのだとは思う。だがこれは、ある程度の哲学的な素養がないとお手上げである。

What makes the phallic signifier such a complex notion is not only that, in it, the symbolic, imaginary, and Real dimensions are intertwined, but also that, in a double self‐reflexive step which uncannily imitates the process of the “negation of the negation,” it condenses three levels: (1) position: the signifier of the lost part, of what the subject loses and lacks with its entry into (or submission to) the signifying order; (2) negation: the signifier of (this) lack; and (3) negation of the negation: the lacking/missing signifier itself.The phallus is the part which is lost (“sacrificed”) with the entry into the symbolic order and, simultaneously, the signifier of this loss. (Therein is grounded the link between the phallic signifier and the Name‐of‐the‐Father, the paternal Law; here also, Lacan accomplishes the same self‐relating reversal, for the paternal prohibition is itself prohibited.) Why is this the case? Why should the prohibition itself be prohibited? The answer is: because there is no meta‐language.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

向井雅明氏の説明に戻れば、さらに、《人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる》

ーーこれも「想像的ファルス(小さなファルス(φ))を理解するためにとてもよい。イマジネールファルス(φ)になるとは、母の欲望の対象になるということである。もっとも小さなファルス(φ)は、母に欠如したファルスという側面があり、通例は(ーφ)と書かれる。


◆小笠原晋也氏ツイート

ギリシャ語大文字の Φ については,Lacan は 1960 年の「主体のくつがえし」のなかでこう定義しています : « Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素].ここで impossible à négativer と言っているのは,小文字の φ が ( − φ ) : phallus négatif であるのとは異なって,ということです.

小笠原氏は彼独自の訳語を使う。« Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素]とあるが、日本での通例の訳語に直すならば、《大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な象徴的ファルス,享楽のシニフィアン》ということになる。

もっとも彼のツイートは、この二つのファルスだけではなく、一般には耳慣れない現実界的ファルスという「学素」φbarréを提示している文脈での語りである。

ギリシャ語大文字の Φ はオィディプス複合と男女の性別にかかわります.小文字の φ は,それに対して,より源初的なものにかかわります.φbarréは,本当の源初そのもの,失われた源初そのものです.
三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

※参照:ラカンの S(Ⱥ)をめぐって


さて話を元に戻そう。母なる鰐の口の話である。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳)。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

Due to structural reasons, the archetype of a woman will be identified with a dangerous and devouring big Other, the original primal mother who can recapture what was originally hers, thereby recreating the original state of pure jouissance. That's the reason why sexuality is always a mixture of fascinans et tremendum, that is, a mixture of Eros and death drive. This is the explanation for the essential conflict within sexuality itself: every subject longs for what he fears, namely the return to that original condition of jouissance.
この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

The primary defense against this fear is the grafting of the idea of castration onto this threatening figure: instead of a nameless and therefore complete desire, she can be satisfied with a particular object. It is the same defensive movement that gives rise to the idea of a superfather as original holder of this object. Lacan expresses this in a well known metaphor: "The mother is a big crocodile in whose mouth you are; one doesn't know what she's going to do, eventually to close her jaws. That is the desire of the mother. (...) But there is a stone between the jaws, keeping them apart. That is what has been named the phallus.It is that what keeps you safe, if suddenly the jaws were to close."
このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

This reminds us of the situation where one is confronted with the sphinx and her riddle, the sphinx that will devour you if you don't produce the right answer, that is, the right signifier. Indeed, we are no longer talking about a concrete woman, on the contrary, every woman falls victim to this figure in a twofold way: as a subject, she is confronted with this threatening figure; moreover, as a woman, she is invested with the fear for this figure. If you want to have a description of this threatening female figure, just read the introduction chapter on sex and violence in Camilla Paglia's book on Sexual Personae, where she correctly identifies this figure with nature itself. If you want to read a clinical description of male anxiety in confrontation with this figure, just read Otto Weiningers' Geschlecht und Charakter, in combination with Zizek's comments on it. Both of them are unintentional clinical illustrations of the fact that this threatening female figure is a construction a posteriori with a clearly defensive function. If you want to read an intentional clinical illustration, just try to get hold of the beautiful Männer Phantasien by Klaus Theweleit.

 さて、ここで三人の著者の名前が挙げられている。カミール・バーリアとオットー・ヴァイニンガー、それにKlaus Theweleit.。最後の著者の名はわたくしには耳に新しい。ここでは前二者の文をいくらか引用しておこう。


◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。……

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(参照:「男なんざ光線とかいふもんだ」)

オットー・ヴァイニンガーについてはジジェクが、彼だけではなく、カフカ、そして猥褻な法に関連して語った次の文がよいだろう。実際、「法」とは貪り食う原初の母のようなものなのだから。そもそもわれわれは日夜次のようは猥褻な法の顕れに直面している、《公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない》(参照:「コード・レッド」)。

……Kは審問室に入り、判事席の前で熱弁をふるうが、それは猥褻な闖入によって邪魔される。そのとき、Kは洗濯女が法に対して重要な立場にいることを知る。

そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断される。何が起きたのかを見ようとして、彼は眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女かどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口を大きくあげて、天井を見上げていた。(カフカ『審判』)

それでは、この女と法廷との間にはどんな関係があるのだろうか。カフカの小説では、「心理学的類型」としての女はオットー・ヴァイニンガーの反フェミニズム的イデオロギーとぴったり一致している。すなわち、女は本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為をしているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。そうした女性のイメージに直面したカフカは、ありふれた批判的・フェミニスト的誘惑(つまり、このイメージが特殊な社会的条件のイデオロギー的産物であることを明らかにしたい、あるいは別のタイプの女性のイメージと比較した、という誘惑)には屈しない。それよりもはるかに価値転倒的な身振りで、カフカは「心理学的類型」としてのヴァイニンガー的な女性像を全面的に受け入れ、それを、前代未聞の、前例のない場所に立たせる。その場所とは、法の場所である。スタッハがすでに指摘しているように、おそらくこれが、カフカの基本的戦略である。すなわち、女性的「実体」(「心理学的類型」)と法の場所を短絡させることである。でんとうてきには純粋で中立的な普遍性であった法が、猥雑な生命力に彩られ、享楽に貫かれた、さまざまな異物からなる、一貫性の欠如したプリコラージュの特徴を帯びるのである。(ジジェク『斜めから見る』P277-278)

 もちろん、これらの精神分析的捉え方は、次のような側面はある。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

女が貪り食う鰐の口、あるいはヴァギナ・デンタータだって?
もう一度、穏やかな紳士であるヴェルハーゲの「内気な」説明を聞こう。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

ーー「ヤリたい男」などと、やや下品なのは翻訳のせいだけである。


究極のエロスとは、母なる大地に貪り食われるものであることは否定しがたい。《熱望するものは、享楽の原初の状態》なのだ。だがそのとき主体は消滅する。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

この一見、われわれの「常識」を揺らめかせる表現は次のことを意味する。

すなわち、エロスが死をめざす、という意味は、〈母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光

だから、われわれは愛することを憎み、憎むことを愛する。

たとえば、小笠原晋也氏が現実界的ファルスを、φ barré としているのはそのことであろう。母との究極との融合がφであるならば、それは斜線を引かれているのだ。

女、あるいは母なるものとは、論理的・究極的には、貪り食う鰐の口となる。女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪

フロイトは三人の女について語った。ドゥルーズもマゾッホ論で同じフロイトの三人の女に言及しつつ語った。

……三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)


生涯、鰐の口に遭遇しない「幸福な」男たちも、ひょっとしているのかもしれない? すなわち彼らは死をもたらす真の「女」に出逢っていないのだ! いずれにせよ、中井久夫のように実は分かっていながら、表向きは「ジ・アザー・セックスは謎のままにして置きたい」とする態度もありうる。


男たちの勝手な思い込みよ、ーーなどと言うなかれ。

「反フェにスト」と揶揄される「真の」フェミニストのカーミル・パーリアの考え方が受け入れがたくても、女の真の敵は女であることを、あなたがた女性はひそかに感じとっているのではないだろうか。《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。


◆ソレルス『女たち』(鈴木創士訳)より

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる!
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ!




2014年8月8日金曜日

「どんな性行動の基底にも実は殺人があるってこと」

……ファルスは、ぼくの覚えている限り、サドにユーモアが欠けていると思っていたんだからな! でも、そんなこと言ったって!

「存在は、エスプリがあればあるほど歯止めがきかなくなるものだ。だから才気がある人間は、他と比べてつねに放蕩の快楽を好むようになるんだよ」

法王の「陰茎」! 美徳への悪徳の贈り物! ありがとう! サドを「読解不能」で、「単調」で、「退屈」だと思うのは本物のごろつきだけだ…そいつを耳にするときは気をつけろ! きみたちは、そういったことすべてが現実なものだと信じている田吾作たちのところにいるのだ! 教皇が大衆のおかもをいつまでも掘り続けていると! 

「サドは」、Sが続ける、「目に見えて取り乱しているか、その振りをしているんだよ、まあ二つの事柄を通して見てみろよ…まず最初は、自然のもつ最も聖なるもの、つまり性の激しやすさにしたがって、何者からあえて自然にとどめの一撃を加えたということだ…かれはそいつを耐え難い去勢のように感じる。そんなことが問題になってるんじゃないことを彼は証明したいんだ。殺人を通して性交するためのからくりは、時間と空間のように無限だってことをーーまさにそのことによって、貴重な論証だが、どんな性行動の基底にも実は殺人があるってことを明らかにしながらね …(ソレルス『女たち』p260)





●フリップ・ソレルス『女たち』(せりか書房 鈴木創士訳)訳者あとがきより

…登場人物たちにはなるほど実在の思想家たちのシルエットがダブって見えてくる(…)。傍受したメディアのノイズを要約するなら、本書がパリの文壇にショックを与えた(!)要因のひとつはこの点にあるらしい。問題の登場人物は次のとおりだ。ラカン(ファルス)、バルト(ヴェルト)、アルチュセール(ルツ)、クリステヴァ(デボラ)…




ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




ファルスは鍵束を取り出す、およそ十個はある…彼は女たちを自分の家の近くのアパルトマンに住まわせるのが趣味だった…何人いたのか? 三人? 四人? …
(……)…ファルスに復讐するために。彼はすくなくとも週に十通は殺しの脅迫状を受け取っている…気のふれた奴らのやることだ…海の彼方のあらゆる国々の、頭のいかれた女たち…
ところが疑念がぼくの心によぎる…もし彼がこういうのを好きだとしたら? これが彼らのエロティックなサーカスの一部をなしているとしたら? ひょっとして、ブラジル野郎は「じいさん」の覗き趣味のために種馬の役目を努めているのだろうか?





翌日、ファルスがぼくに何も言わずにインド旅行を取りやめにしたことを知る…それから、次の日、アルマンドの家の前の舗道で彼に出会う…「じゃあ、失礼するよ」、彼は疲れ果てた様子でぼくに言う、でもぼくが事の内幕をわかっているのは間違いないと確信して…まるでそのことに言い訳でもするみたいに…彼はどこにいったのか? 食事かな…セリメーヌの覗き窓へ…老いぼれの、おさわりかおしゃぶりの悲惨さにむかって…

それっきり会うことはなかった…ほとんど、と言ったほうがいい…ぼくは彼を置いてインドへ行った…ぼくはとにかく彼についてカルカッタでしゃべった…ボンベイで…ディスクールとパロールについての彼の極めて独特な考え方について…むこうの、その何とかってやつに合わせて…サンスクリットだ…

そして今、彼は死んだ。カクテ彼ハ身籠リヌ…栄光、最後に彼はそれを手にしたのだ…いっぱい…たいていは孤独だった戦いの日々を重ねて…彼の言ったことを理解した者はほとんどいなかった…彼にはめちゃくちゃな話がたくさんあった、彼の同僚、生徒、教育機関、新聞社との…たいがいは非難されていた。山師の気質、権勢の利用、転移の歪んだ使用、妖術、麻薬、恐喝、自殺…彼の企てが動揺していたことは言っておかなくちゃならない…いずれにしても、見てるぶんには面白い…みごとに現実離れしているし…ファルスはまぎれもなく一種の天才だったのだ。いいだろう、でもいささかやくざなところがあったのも本当だ…彼がその標的になった迫害のために、やくざにならざるを得なかったんじゃないか? そうかもしれない…ほんとうのところはわからない。人生は解きほぐせないものだ…彼は絶対的忠誠と抑え難い憎悪をかきたてた…どちらかといえばそれは良い兆候だ…ファルスは、とにかくたぶん彼がそうなるはずだったものを打ち砕いたか、歪めてしまったのだ…いつも彼は金をたんまりもっていた、これが肝心なところだ。スイスの口座…彼の診察室はすいていることがなかった…診察料は恐ろしく高く…時間は短い…彼が一番非難されたのはこれだった、どうやらテンポってものがあるらしい…地獄の足枷…普通の、公認の、協会に加盟した精神分析家は、一回に四十五分はかける…何が起ころうとも…男のあるいは女の患者はやって来ると、横になって、自分の夢を語る、等々。四十五分、これが必要な「時間」だ…「無意識の時計」…混信の、あるいは分析家に対する多かれ少なかれ抑えられた暴力の十五分。主体の核心に触れる十五分、でもそのうちの三分だけが決定的で、それは三十秒でかたがつく。それから水増しの十五分。これで一丁上がり、お次の方どうぞ…ファルスはといえば、そんなものすべてを覆してしまったのだ…彼は、そんなものはハエがぶんぶん唸っているようなものだと思っていた…それは何もせずに眠っていることだと…それは発見の否定だと…彼の狙いはそいつを蒸し煮にしてしまうことだ…あれでは作業の「毒性」を弱めてしまう、と。彼の弟子たちがそう言ったように…毒性、毒性って…ウイルスとしての生命…何はともあれ、彼はあえてやったのだ…三分間…こんにちは、さようなら…さあ払ってもらいましょう…こんどはいつ? 国際学会は調査にのりだした…陰口、事件の口にされなかった裏面があった…彼は除名された…それを彼は見事な叙事詩に仕立あげたのだ…彼は「学派」を創立した…運動…連合…結社…そして、そのつど彼はみごとに失敗した…彼は気にせず、続行した…それは形の上では教会の論争にとてもよく似ていた、ギリシャ正教、宗教改革、反宗教改革、そしてさらにもっと似ていたのが、マルクス主義と共産主義の隊列に起こった周期的爆発だ…精神分析のパウロたるファルスをトロツキーの再来と考えることもできた、武装解除された予言者、流謫の予言者、中央権力によって道を誤まった真理の予言者…ユダヤ教会を破門されたスピノザ…神話がひとり歩きした、ファルスは異端であることを自慢しさえした、いずれ異端が正しいということになるだろう…






「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』)

ーーーというわけでファルスはラカンがモデルではあるが、小説のなかの叙述であることを念押ししておこう。



       ーーーWhen Heidegger met Lacan


…………


ラカンとハイデガーそして聖人を、象徴的ファルスのようにしているのではないかとさえ読めないでもない小笠原晋也氏がなかなか示唆溢れることを語っている(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。

「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.

分析への導入が困難なケースはいろいろありますが,最も困難なもののひとつは,「わたしは,全く正常で,症状も何も無いのですが,分析家になりたいので,教育分析をお願いします」と言ってやってくる比較的若い男性精神科医でしょう.

自分が全く正常だと思い込んでいる人間ほど狂った者はいません.このような ケースは,まさに大学の言説にひたりきっており,場合によって,かなりの揺さぶりをかけないと,夢すら語ろうとしません.Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません.

ーーこれは若く聡明な、そしてまだ分析を受けていない、さらには大学人でもある男性精神科医に読ませてやりたいところだな

他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φbarré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.
精神医学であれ精神分析であれ,もともと何らかの精神病理をかかえている者が興味を持ちやすい分野です.わたし自身にも当然あてはまります.だからこそみづから精神分析を受けたいと思ったのです.

Paris ではこんな話も聞きました.つまり,小学校や中学校の教師のなかに小児性欲者がいることが避けがたいように,精神科医や分析家のなかに精神病者がいることも避けがたい.当然,望ましいことではありませんが,完全に防止することは困難です.

話は若干脱線しますが,カトリック司祭のなかにも同性愛者,小児性欲者がいることは事実です.それがゆえの事件が起きており,教皇は被害者に謝罪しています.神学校では,神学生が同性愛者でないかどうか非常に厳しいチェックが行われているそうです.

…………

2002 年のわたしの事件に関する御質問をいただきました.

わたしと分析をしようとする人には,当然,わたしの事件のことを事前に知っておいていただかなければなりません.

わたしが「患者と恋愛関係」に陥ったとの御指摘ですが,それは事実ではありません.「おがさわらクリニックにかつて通院していた女性」です.当時,治療関係には既にありませんでした.しかも,その女性は実際には,精神科医療を必要とする厳密な意味での病者ではありませんでした.

医師と患者ないし元患者との恋愛関係が職業倫理的に許されないのは,以下の条件のもとにおいてだと考えます: 1) 医師が患者に対する自分の優位な立場にもとづき患者を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が病状に悪影響を与える場合.

例えば,教師とその教え子との恋愛関係についても,それが職業倫理上許されないのは同様の条件においてでしょう: 1) 優位な立場にある教師が,その優位性にもとづいて教え子を利用しようとする場合; 2) 両者の関係が教え子の教育学的状態に悪影響を与える場合.加えて,教え子が未成年ではいけないでしょう.

わたしのケースにおいては,それらの条件は全く当てはまりません.

わたしの事件に関して事実に反する記述は Internet 上にまだ残っています.いちいち訂正して行くことはしないつもりでしたが,御質問をいただいた機会に正確な事実をお伝えしました.質問者の意図は明らかに単なる嫌がらせにすぎませんが,あなたが意図せずにこのような機会を提供してくださったことにに感謝します.

なお小笠原氏は次のようなこともおっしゃられるお方であるようだ。

中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.

この論理で行くと、「心理学的な」小説はどうなるのだろう、たとえばプルースト。あるいは《人間の心理について教えてくれた最大の心理学者》とドストエスフキーを顕揚しつつ、みずからをその系譜とするニーチェ。彼が三島由紀夫や村上春樹の小説を書いてロマン派的(メロドラマ的な)なツイートをしているのは脇にやるとしても。

ーーこれがなかったら、ラカンは小笠原晋也の象徴的ファルスではないかとまでは書きたくなかったのだが、やはり繰り返し書いておこう。そもそもツイッターで質問者の答える形式のあり方は、質問者のヒステリーのディスクールに応じる主人=ファルスのディスクールとして受けとめざるをえないところがある。あれがはりぼての支配者のディスクールでなくてなんだろう。もちろんラカンがアンコールで書くように、ディスクールはあるものから別のものに変る。

I will remind you here of the four discourses I distinguished. There are four of them only on the basis of the psychoanalytic discourse that I articulate using four places - each place founded on some effect of the signifier - and that I situate as the last discourse in this deployment. This is not in any sense to be viewed as a series of historical emergences - the fact that one may have appeared longer ago than the others is not what is important . here. Well, I would say now that there is some emergence of psychoanalytic discourse whenever there is a movement from one discourse to another.(On Feminine Sexuality The Limits of Love and Knowledge BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)

すなわちときに大学人のディスクール、ときにヒステリーのディスクールではあるだろうが、おおむね主人のディスクールのように思わざるをえない。ーーとするわたくしはおそらくヒステリーのディスクールなのだろう。

◆アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)。
the hysteric likes to point out that the emperor is naked. The master, this respected S1 admired and obeyed by everyone, is in reality a poor, rather impotent chap, who in no way lives up to his symbolic function. He is weak, he often doesn't even know what is going on around him, and he indulges in "disgusting" secret enjoyment; he (as a person) is unable to control himself or anybody else.

 In popular jargon, this attitude of attacking and undermining the masters, pointing at their weaknesses, is usually said to be castrating. Yet, although it does indeed have to do with the question of castration, it is much more ambiguous than this popular wisdom implies. The hysteric's indignation about the master really being just this miserable human being, full of faults and flaws, does not aim at displaying how castrated he is; on the contrary, it is a complaint about the fact that the master is precisely not castrated enough—il he were, he would utterly coincide with his symbolic function, but as it is, he nevertheless also enjoys, and it is this enjoyment that weakens his symbolic power and irritates the hysteric. In this sense, the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough. In the person of a master, the hysteric thus attacks precisely those rights she is otherwise so eager to protect, namely what remains or exists of the master besides the master signifier. In other words, the target of the attack on the master is his surplus enjoyment, a. This is what is superfluous, what should not be there, and what, on the obverse side of the same coin, represents the point where the master is accused of enjoying at the subject's expense.





2014年8月3日日曜日

獣めく夜/お尻を差し出す夜/暴力によってのみ実現すること

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -

――悦楽は愛しようとする、憎もうとする。悦楽は富にあふれ、贈り与え、投げ捨て、だれかがそれを取ることを乞い求め、取った者に感謝する。悦楽は好んで憎まれようとする。――

- sie will Liebe, sie will Hass, sie ist überreich, schenkt, wirft weg, bettelt, dass Einer sie nimmt, dankt dem Nehmenden, sie möchte gern gehasst sein, -

――悦楽はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。

- so reich ist Lust, dass sie nach Wehe durstet, nach Hölle, nach Hass, nach Schmach, nach dem Krüppel, nach _Welt_, - denn diese Welt, oh ihr kennt sie ja! (悦楽(享楽)と永劫回帰(ニーチェ)





獣めく夜もあった
にんげんもまた獣なのねと
しみじみわかる夜もあった
シーツ新しくピンと張ったって
寝室は 落葉かきよせ籠り居る
狸の巣穴とことならず
なじみの穴ぐら
寝乱れの抜け毛
二匹の獣の匂いぞ立ちぬ
なぜか或る日忽然と相棒が消え
わたしはキョトンと人間になった
人間だけになってしまった

ーーー茨木のり子 遺稿詩集『歳月』所収「獣めく」





妻にセックスを要求する男からパートナーをレイプする男へのステップはしばしばほんのわずかなギャップしかない。この内的分裂がいっそう強くなるのは、優しい夫が我を失い/妻を殴る瞬間だ。妻を罵り、彼女を縛り上げ、サディストのようにアナルレイプし、それから彼は罪の感覚に囚われて妻が慰めるとき。Trieb、欲動drive、衝動。なにかが主体をdriveするのだ、彼自身がそこまで行きたくない先にまで。そこでは彼はすべてのコントロールを失う。犯罪とのつながりは私たちに教えてくれる、――どの欲動の現われも暴力の成分があることを。すなわち暴力のない欲動は、その用語からすれば、矛盾している。「闘いではなく愛せよ」などというのは不可能な組み合わせだ。欲動には人がほとんど気づいていない目標がある。そして欲動について知りうることは、しばしば、彼、彼女にはもはや知りたくないことである。「オレはそれについてなにも知りたくないね」。だが彼は知らなくてはならない。(Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe私訳)

《きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)


2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)





「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)




……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



2014年7月20日日曜日

禁断の大麻の地と聖なるふにゃちん

隣国に小旅行。旅行といっても、パイプにつめる煙草と干物の魚の買い出しがおもな目的だが、しばしば訪れる。食事がおいしいのは王国だからか、今住んでいる土地の料理も日本では好まれるようだが、隣国の料理は、よく選べば、味の繊細さという面では段違いだ。とくに行きつけの場末にあるあまり綺麗とはいえない食堂、そこの香菜と揚げた魚の鰭をタマリンドのソースであえたサラダのなんという美味なこと。これが当地の黄色く澱んだ米焼酎にぴったりだ。何度も訪れているので、そこの女主人とは顔馴染みで四階建てのその住まいの三階と四階が貸間になっていて、そこに宿をとる(女主人? ばあさんだ…だが娘がいる…美人で…上品で…艶があって、しなやかで、やせている…三十前で、やくざの三下のような夫がいる、ヒモのような野郎だ…これが玉にきずだ…かすかな悪徳…翡翠の笛…水ぎわの物語…月光の露…ほとんど子どものようなからだ…四人で花札のようなカードゲームをやった…膝の崩し方がなんともいえない…軀は痩せているのに、その太腿の緊りのない肉づきの猥褻さ、輪廓の素直さと品位とを闕いているどこか崩れたような貌…いや、ばあさんのほうさ、ばあさんって言ったって、オレより五歳ほどは若い…)

おんぼろバスに揺られて五時間ほどの買い出しなのだが、今回は雨季ということもあり、また痛風のぐあいを惧れるので、アンコール・ワットまでは行かなかった(隣国の首都からさらにバスなら五時間ほどかかり腰が痛くなるのもある)。途中にあるメコン川でバスはフェリーに乗るのだが、その川の濁流がいつもにも増して見事だった。あの川幅は二百メートル以上はあるのではないか。うまくいけば、河海豚にだって廻り会える(といってもたぶん三十回以上は往復していて、オレの場合一度だけだが)。





ジボナノンド・ダーシュの『美わしのベンガル』(臼田雅之訳)の至高の詩句、「ベンガル」に「メコン」を代入してもいいくらいだ。

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に

ーーメコンの濁流の生と死の過剰、メコンの稲田の上にただよう靄の湿り、密林に鳴く鳥の声、乙女の黒髪の匂い…私はこのメコンの岸に残るつもりだ…酔っ払って、死んだら灰にしてメコンに流してほしいと妻に向かってくだを巻くのはただのジョークではない。

いずれにせよメコンのカフェオーレ色の水が水量を増して渦巻いているのを眺めるのは、何度見ても素晴らしい。海よりも川が美しいことがありうるのを知ったのは、メコンに出逢ってからだ。この川の下流に妻の故郷の町があるのだが、かつては(クメール・ルージュの時代は)頭をちょん切られた屍がプカプカ流れてきたとは、妻の母や叔父たちから聞いた。きっと今でも川の水は滋養溢れ、魚が美味なのはそのせいだろう…。河岸の住まいの女たちはいまでもこの川水で風呂に入る。美しい黒髪、大理石の肌、頭を洗うときに垣間見える腋毛の翳…柔らかな昆布の繊毛から滴り落ちる水滴…死の匂い、エロスとタナトスのかおり…トラクターで運ばざるをえなかった夥しい髑髏の山の成果…





(この髑髏の陳列室に入ると臭う。肉の細片が残っているわけでもないだろうが。五分以上の長居をしたくないにおいである。)



自宅から、バスに揺られて二時間すれば隣国との国境だが、そこからさらに二時間強行くと隣国の首都だ。帰路、そこのフェリーの待ち時間のあいだ河岸で、香菜や生の川魚も買う。物売りの老婆や中年の女、少女たちが寄ってきて、ときにこちらの肘やら手の甲に触れたりして、押売りするのは相変わらずだ。慣れない当初は、それが鬱陶しかったが、これもあしらい方のこつをつかんで、いまでは楽しいやりとりのひとつになった(デルタの土地だよ…メコンデルタ、黄金の三角形…禁断の大麻の地…大文字のママ、母なる神…聖なる川の楽園…)。ーー《あまりにゴヤ的なゴヤ的な/それからホウガスの小海老売りの女/も安い複製の通りの女がいた/また買ってくれたお客をよろこばす/ために閨房のまねをする梨売り女》(西脇順三郎「第三の神話」)

宿泊は上に記したように壁の薄い安宿。空調はなく天井扇だけ。シャワーも温水はでないが、そのかわりひどく安い宿賃だ。近傍に薄暗いマッサージ屋もある。だが、ここでは、《手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまで柔らかくつつましやかにといったタッチで……》(開高健『玉、砕ける』)とだけにしておこう(いやクメール風マッサージのあとは、追加料金を払ってラベンダーの匂いが主なアロマオイルを使ってもらうのはいつものことだ…初老の男はいつのまにか若い女にかわっているなどということはないか…気怠るさの感覚…決して無垢ではないある種の陶酔感…何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動…太陽の光を十分にすいこんだ枯れ草のにおいのようであったり、かすかに腐乱した果実のようなにおいであったりする女たちの腋窩やデルタの匂い…デルタの匂い?…いやメコンデルタの泥水の淀み饐えた匂い…)合間に女がすすめるジャスミン茶…ひどく色濃い…まるで翡翠の粋…なにか別のものが入っていないか…《無上のソクラテス、緑色をした冥府の飲み物…ギリシア人たちの地獄…亡霊たちの隙間風…ブルブル! ところがなんと、わが子たちよ、この毒薬はこともあろうに軟膏だったのだ…制淫剤…これはかつて秘密の儀式で使われていた…ウルトラ秘密主義の儀式…聖地エレウシス…偉大なる巫女と偉大なる神官が、宇宙の豊穣を保証する模擬交接を二人で執り行うに際して、聖なる洞窟のなかの神秘の穴の奥で、いままさに偉大なる神官のペニスに毒ニンジンが塗られようとしていた…そうやって、神官はふにゃちんのまま、敬虔で、聖なる状態にとどまっていたのだ…》(ソレルス『女たち』)いや毒ニンジンなどなくたって、最近はほとんどふにゃちんのままさ、安心しな、仏顔の美少女たちよ






中井久夫は八十歳近くになってベトナム語を学んでいるそうだが、オレもブログなどぐたぐた書いておらずに、クメール語を学ぶべきかもしれない。




夜半、ラベンダー油の薄い膜をまとったをベッドに横たえる…古い植民地時代のつくりの家のため、天井はひどく高い…天井扇が不規則にカラカラと鳴る、そろそろ寿命ではないか…窓はいささか傷み過ぎてきるが鎧戸で覆われており、さいわいにも今晩は虫も蚊もいない…薄い壁の向うの隣室から、なにかが蠢く気配…ささやき声…シーツの擦れる音…いつものことだ…《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)気がする…あるいは、《そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった》(プルースト)…かつて歌舞伎町にある新宿プリンスを常宿にしていた…学生時代によく馴染んだ高田馬場の盛り場にも近い…馬場には安いイタリア料理屋があった…つまみが豊富で、サフランのリゾットがいけた…ワインもボトル二本開けたって予算内で済む…なんの話だ…歌舞伎町のプリンスホテルの壁だったな…あそこの壁はひどく薄い…しかも客層がわるい…ひどく悪い…なんど間歇的なさけび声を聞いたことか…



2014年7月16日水曜日

女たちの「申し分のない仕返し」(ボーヴォワールと夏目鏡子)

サルトルとボーヴォワールのオープンマリッジ(開放結婚)には袋小路がある。二人の手紙を読めば、彼らの“取り決め”は事実上非対称であり、うまく働かず、ボーヴォワールに多くのトラウマを引起こした。彼女は、サルトルが一連の愛人を持っていながら、自分は「例外」の存在であり、真の愛の関係にあることを期待したのだが、サルトルのほうは、ボーヴォワールは一連のなかの”ただ一人”ではなく、まさに一連の複数の例外の一人だったのである。すなわち彼の一連とは、一連の女たち、それぞれが彼にとって例外的ななにかだったのである。(ジジェク)

――と拙く訳せば、なんのことやら分からないが、原文は次の如し。

(I owe this point to a conversation with Alenka Zupancic. To give another example: )therein also resides the deadlock of the “open marriage” relationship between Jean-Paul Sartre and Simone de Beauvoir: it is clear, from reading their letters, that their “pact” was effectively asymmetrical and did not work, causing de Beauvoir many traumas. She expected that, although Sartre had a series of other lovers, she was nonetheless the Exception, the one true love connection, while to Sartre, it was not that she was just one in the series but that she was precisely one of the exceptions—his series was a series of women, each of whom was “something exceptional” to him. (Slavoj Zizek 『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)






冒頭に引用された文は次の文の注である。

in Seminar XX, when Lacan developed the logic of the “not-all” (or “not-whole”) and of the exception constitutive of the universal.The paradox of the relationship between the series (of elements belonging to the universal) and its exception does not reside merely in the fact that “the exception grounds the [universal] rule,” that is, that every universal series involves the exclusion of an exception (all men have inalienable rights, with the exception of madmen, criminals, primitives, the uneducated, children, etc.). The properly dialectical point resides, rather, in the way a series and exceptions directly coincide: the series is always the series of “exceptions,” that is, of entities that display a certain exceptional quality that qualifies them to belong to the series (of heroes, members of our community, true citizens, and so on). Recall the standard male seducer's list of female conquests: each is “an exception,” each was seduced for a particular je ne sais quoi, and the series is precisely the series of these exceptional figures.(『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)

文末に、《Recall the standard male seducer's list of female conquests: each is “an exception,” each was seduced for a particular je ne sais quoi, and the series is precisely the series of these exceptional figures.》、すなわち、《想起してみたらいい、標準的な男性の誘惑者の女性征服のリストを。それぞれは”ひとつの例外”であり、それぞれの女は、”言葉では言い表わせない”特別な存在として誘惑される。そしてセリエ(シリーズ)は、これの例外的な女たちのシリーズなのである》、とある。


ジジェクは、この内容を近著『LESS THAN NOTHING』2012で、よりわかりやすく説明している。

全体という普遍性とその構成的な例外という論理は次の三段階にて展開されるべきだ。

1)最初に、普遍性への例外がある。すべての普遍性は個別的な要素――それは公式的には普遍的な領域に属しているのだがーー、普遍性のフレームにはフットせず突出している。

2)全体のどの個別的な例あるいは要素はひとつの例外である。“標準の”個別性などない。どの個別性も突出している、すなわち普遍性に関するその過剰あるいは欠如によって。(ヘーゲルが存在するどの国家も「国家」概念にフットしないと示したように)。

3)ここで弁証法的ひねりが加えられる。すなわち、例外の例外――いまだひとつの例外ではあるが、単一の普遍性としての例外、その要素であり、その例外は、普遍性自身に直接のリンクをしており、それは普遍性を直接的に表わす(ここで気づくべきなのは、この三つの段階はマルクスの価値形態論と相等しいことだ)。(私意訳)
The logic of universality and its constitutive exception should be deployed in three moments: (1) First, there is the exception to universality: every universality contains a particular element which, while formally belonging to the universal dimension, sticks out, does not fit its frame. (2) Then comes the insight that every particular example or element of a universality is an exception: there is no “normal” particularity, every particularity sticks out, is in excess and/or lacking with regard to its universality (as Hegel showed, no existing form of state fits the notion of the State). (3) Then comes the proper dialectical twist: the exception to the exception—still an exception, but the exception as singular universality, an element whose exception is its direct link to universality itself, which stands directly for the universal. (Note here the parallel with the three moments of the value‐form in Marx.)


…………

ほら、もう一冊別の本だ…シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『別れの儀式』…サルトルの晩年…またしても主体、そこから抜け出してはいない(……)それにしても、ボーヴォワールが晩年のサルトルの肉体的衰えに魅せられたとは奇妙なことだ…彼女は自分の偉大な男のしなびた肉体を発見する、彼がとんずらしようというときになって…彼女はサルトルの没落の綿密な日記をつける…申し分のない仕返し…まじめな気持ちで…彼の欠伸。サルトルはどのようにしてあっちこっちでおしっこを出すのか…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)







男の場合の全体の論理:普遍性(欠くことのできないーー私にとって全てのーー女)、ある例外を除いて(キャリアや公的な生活という例外を除いて)。

女の場合の非-全体の論理:非-普遍性(男は女の性生活にとってすべてではない)、例外はない(すなわち性化されないものはなにもない)。

the universality (a woman who is essential, all…) with an exception (career, public life) in man's case; the non‐universality (a man is not‐all in woman's sexual life) with no exception (there is nothing which is not sexualized) in woman's case.("LESS THAN NOTHING")

男性の全体の論理、そのアンチノ ミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害であって、他方、女性の非-全体の論理、そのアンチノミーが、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害だということになる。

これはカントの【男性の論理=力学的アンチノミー/女性の論理=数学的アンチノミー】としても説かれるが、後者の女性の論理とは、「無限集合」ということでもあり、「排中律」は機能しない。

排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

《女は非-全体(無限集合)なのだから、女でない全てがどうして男だというんだね?》(ラカン)
“since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?”(Lacan)

※附記

It is not that man stands for logos as opposed to the feminine emphasis on emotions; it is rather that, for man, logos as the consistent and coherent universal principle of all reality relies on the constitutive exception of some mystical ineffable X (“there are things one should not talk about”), while, in the case of woman, there is no exception, “one can talk about everything,” and, for that very reason, the universe of logos becomes inconsistent, incoherent, dispersed, “non‐All.” Or, with regard to the assumption of a symbolic title, a man who tends to identify with his title absolutely, to put everything at stake for it (to die for his Cause), nonetheless relies on the myth that he is not only his title, the “social mask” he is wearing, that there is something beneath it, a “real person”; in the case of a woman, on the contrary, there is no firm, unconditional commitment, everything is ultimately a mask, and, for that very reason, there is nothing “behind the mask.” Or again, with regard to love: a man in love is ready to give everything for it, the beloved is elevated into an absolute, unconditional Object, but, for that very reason, he is compelled to sacrifice Her for the sake of his public or professional Cause; while a woman is entirely, without restraint or reserve, immersed in love, there is no dimension of her being which is not permeated by love—but, for that very reason, “love is not all” for her, it is forever accompanied by an uncanny fundamental indifference.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

…………


               (左側が漱石夫妻)



「断腸亭日乗 大正十二年歳次葵亥 荷風四十五」より

昭和二年。終日雨霏霏たり。無聊の余近日発行せし『改造』十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話をその女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり。漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり。縦へその事は真実なるにもせよ、その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至つてはこれまた言語道断の至りなり。余漱石先生のことにつきては多く知る所なし。明治四十二年の秋余は『朝日新聞』掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時にまた最後にてありしなり。先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んでその夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや。余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり。この夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし。新寒肌を侵して堪えがたき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり。彼岸の頃かかる寒さ怪しむべきことなり。

仕方がありませんよ、荷風先生
やっぱり相当こたえてたんじゃあありませんか
『道草』であんなこと書かれちゃあ、
これは恨みが募ってもやむえません
それに「女の道」、「妻の道」なんていまどき通用しませんよ

彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。

「教育が違うんだから仕方がない」 
彼の腹の中には常にこういう答弁があった。
「やっぱり手前味噌よ」 
これは何時でも細君の解釈であった。 
気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる度に気不味い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心から忌々しく思った。ある時は叱り付けた。またある時は頭ごなしに遣り込めた。すると彼の癇癪が細君の耳に空威張をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷」の四字に訂正するに過ぎなかった。

義父の恨みもかさなっているんですよ
元貴族院書記官長中根重一さんにもこんな態度じゃあ

けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自ら進んで母に旅費を用立った女婿は、一歩退ぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着でもなかった。むしろ黒い瞳から閃めこうとする反感の稲妻であった。力めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。 

父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。

 ところで漱石先生は奥さんとちゃんとヤッていたのでしょうかね
でも子供はたくさんできていますね
熊本時代は仲がよさそうですし





幸にして自然は緩和剤としての歇私的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。 

枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。 

発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
 
或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。

ーーああ失礼しました、「ヤッて」なんて下品な言葉を洩らしてしまって
でも十八世紀人のディドロもこんなこといってるじゃあありませんか

卑しい偽善者どもには私をほっといてほしいのです。荷鞍をはずした驢馬みたいに、ヤッてもらってもかまいません。ただ、私が「ヤル」という言葉を使うのは認めてもらいたいのです。行為はあなたにまかせますから、私には言葉をまかせてください。「殺す」とか、「盗む」とか、「裏切る」とかといった言葉は平気で口にするくせに、この言葉には口ごもるわけですね! 不純なことは言葉にすることが少なければ少ないほど、あなたの( vous)頭の中には残らないというわけですか? 生殖の行為はかくも自然で、かくも必要で、かくも正しいというのに、あなたは( vous)どうしてその記号を自分の会話から排除しようとしたり、自分の口や、眼や、耳がその記号で汚されることになるなどと考えるのですか? 使われることも、書かれることも、口にされることももっとも稀な表現が、もっともよく、もっとも広く知れわたっているというわけだ。だってそうでしょう。「ヤル」という言葉は、「パン」という言葉と同じくらいなじみ深いものではありませんか? この言葉は年齢に関係なく、どんな方言にも見出され、ありとあらゆる言語のうちに数え切れないほどの類義語をもっている。声も形もなく、表現されることもないにもかかわらず、誰の心にも刻みこまれているというのに、それをもっともよく実践する性が、それについてもっとも口をつぐむならわしなのです。私にはまたあなたの声が( vous)聞こえてきます。あなたは( vous)叫んでいらっしゃいますね。(ディドロ Denis Diderot, OEuvres complètes, t. XXIII)

「発作に故意だろうという疑の掛からない以上、
また余りに肝癪が強過ぎて、
どうでも勝手にしろという気にならない」なんて
ヒステリーの発作のとき以外は
故意と思ってたりどうでも勝手にしろだったんでしょうしねえ

細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆いていた。彼は心配よりも可哀想になった。弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉しそうな顔をした。 

だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。

美しい晩年じゃあないですか
漱石が早死にしてくれてよかったんでしょうねえ





《肉体をうしなって/あなたは一層 あなたになった/純粋の原酒(モルト)になって/一層わたしを酔わしめる》(茨木のり子『歳月』)

ヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、
ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢
になったんでしょうねえ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)




2014年5月10日土曜日

五月十日 フェミニストであることの「困難」

女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける、等々)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私意訳) 
How does a woman become a feminist subject? Only through renouncing the crumbs of enjoyment offered by the patriarchal discourse, from reliance on males for “protection” to the pleasures provided by male “gallantry” (paying the restaurant bill, opening doors, and so on).(Zizek”LESS THAN NOTHING“2012)

――で、どうしよう? 女たちは少なくとも「肉体的」には(おおむね)男たちに比べてかよわいよなあ、かよわい連中は守ってやらなくちゃあいけないよなあ、社会的「弱者」に“心遣い”をしなくちゃあいけないように。

なんだって? まったく関係のないことを唐突に囁かなくてよいよ、ニーチェさん。《女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである》(『人間的な、あまりに人間的な』)

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

どうも女性に親切にする男はアンチ・フェミニストらしいぜ。

まあこのあたりは「常識」なのだろうな、つい最近、というか日付を見ると一ヶ月以上まえだが、「優しい男の男尊女卑〜STAP細胞・小保方さん騒動を考える」という若い研究者の記事を読んだがね。

岡田斗司夫、小林よしのり両氏が共有している前提は、「女に対する男の優しさ」の根底には「男尊女卑」があるという認識である。


ところで女というのはほんとうにかよわいのだろうか。“フェミニスト”のパーリアに訊ねてみよう。

男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カミール・パーリア「性のペルソナ」鈴木明他)

カミール・パーリアは、フェミニストであるが(第二世代の?)、アンチフェミニズムのフェミニストとも揶揄されたらしい。それは従来のポリティカル・コレクトネスの衣裳を着るばかりであったフェミニストたちの主張を逆撫でするものだったことから来るのだろう。

なあ、どうだいパーリアの見解は?

「歯の生えた力」ってのは“toothed power”ってらしいな
「自然という雌の竜」は“the female dragon of nature”。

すなわちヴァギナデンタータなんだよなあ
For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature. (Camille Paglia “Sexual Persona ”1990)

In sex, the male is consumed”ともあるなあ
消費されるんだろうなあ

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

ヴァギナ・デンタータというのは、ラカンによって母親の鰐の口って変奏されるんだよな

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。(「ファルス」と「享楽」をめぐって 向井雅明

で、このくらいにしておくよ、実は「フェミニスト」をめぐる下書きが八つほどあるのだが、どれも読み返すとかなりひどいこと書いていて、あれはあのまま投稿できないヤツばっかりで、修正もし兼ねるのだなあ

引用だけで誤魔化さなくちゃなあ、オレの見解じゃあないって具合で。

すこし引っ張りだしておくか

…………

問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …(ソレルス『女たち』)
かつて教会は、《女は教会においては黙っていよ!》と宣したが、それも女に対する男の心遣いであり、欨りであった。ナポレオンが余りに能弁すぎるドゥ・スタール夫人に《女は政治においては黙っていよ!》とそれとなく言ったのも、女のためを思ったからであった。――そこで、今日では婦人がたに向かって《女は女においては黙っていよ!》と呼びかける者こそは真の女の味方なのだ、と私は思う。(ニーチェ『善悪の彼岸』木場深定訳)


 ◆浅田彰『構造と力』より

ーーソレルスがクリステヴァの旦那だってくらい知ってるだろうな

例えば、クリステヴァは、サンボリックを父の命ずる言葉の場として極めて父権的な相でとらえる一方、そこから遡行して見出されるセミオティック(過剰なサンスを孕む欲動の場:引用者)を「乳母であり母である」と性格付けている。つまるところ、サンボリックは《男》でありセミオティックは《女》である。《女》は《男》に抑圧され深層に身を潜めるが、時として抑圧をはねのけて噴出し、《男》の秩序を解体すると共に再活性化する。(……)女性は…カオスの介入の担い手の重要な一翼を占めるものと言えるだろう。カオスは、共同体の外から訪れる異人や、通過儀礼における境界状態の個人を通して入ってくる以外に、構造内に明確な位置をもたないはみ出し者や、構造内で最下層に抑圧さらた者をも、その担い手とする。記号論的に言って有徴の要素である女性は、最後に挙げた構造的劣位者(……)の典型と言えるだろう。クリスティヴァは『中国女』において女性をこうした《負》の存在としてとらえるとともに、そこに象徴秩序を転覆する潜勢力を見出している。

けれども、《女》とは本当にそのようなものだったのだろうか? むしろ、それは、《男》の側に視点を置いた上で見出された《女》の像にすぎないのではなかったか? これこそニーチェの、そして、デリダの問いである。彼らは、《男》の側から遡行して《女》を見出すといった安全策を講ずることなく、端的に《女》を直視する強さをもっている。そのとき、《女》は、抑圧を耐えしのび、時に抑圧をはねのけて反乱を起こす存在という、余りにも単純な仮面を投げ捨て、複雑怪奇な姿を現わすだろう。「女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである」(『人間的な、あまりに人間的な』)とニーチェは述べている。言いかえれば、《女》は、奪われるままになり、時に奪回に立ち上がる存在ではなく、与えることによって奪う存在なのである。「女の本質的賓概念である贈与は、自らを与える=身を委ねる/自らに対して与える=身を委ねるふりをする、与える/奪い取る、奪い取らせる/わがものにする、という決定不能な動揺のなかに現れていたものであるが、それには毒薬の価値もしくは費用=犠牲がある、パルマコンの費用=犠牲が。」(『尖筆とエクリチュール』)デリダはこう書いたあと、(……)ギフトの決定不可能性を想起しているが、ここに、「ゲルマン諸語では『ギフト』giftという言葉は、今でも、『贈り物』と『婚約』という二つの意味をもっている」(『親族の基本構造』)というレヴィ=ストロースの指摘を接木することによって、我々はhymenの決定不能性へと導かれるのである。

Hymenとは何か? それは婚姻であると同時に処女膜でもある。コイトゥスによる連続と融合であると同時に、女の外と内を分かつーーただし不完全にーーことによって処女性を保護するヴェールでもある。後者が「女の外と内の間に、従って、欲望とその成就の間にある」ものだとすれば、前者はそうした分類と距離を無化することに他ならない。結合と分離、疏通と遮断、破ることと破られないことの、この決定不能性。ところで、象徴秩序とその外部、あるいは、サンボリックとセミオティックとして語ってきた二元構造は、その実、このようなhymen構造だったのではなかろうか? してみると、抑圧/被抑圧と侵犯という弁証法のロジックではなく、「hymenの、もしくはパルマコンのグラフィック」――それはもはやロジックではないーーこそが問題なのではなかったか?

ニーチェは、この立場に立つ者こそ「真の女の味方」(『善悪の彼岸』)であると言っている。しかしまた、この立場からすると、二元構造を踏まえて抑圧への反乱を説く女たち、いわば男になろうとする女たちほど、批判されるべきものはない。これがニーチェを反フェミニズムへと駆り立て、ニーチェが女性蔑視の思想家であるかのような錯覚を生んできた。しかし、「実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。」(デリダ『尖筆とエクリチュール』)けれども、《女》とは、外見の美しさと軽やかな決定不能性によって、「物自体のーー決定可能なーー真理のエコノミー、あるいは、決定者としての去勢のディスクール(プロかアンチか)」(デリダ)の閉域を、つまりは、「真理―去勢の罠」を、やすやすと摺り抜けるものではなかったか? 「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)

この浅田彰の文は、三十年ほど前だから、かなり古いところはある。今は少なくともこういった時代だからなあ

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)より孫引き)

あるいは、ラカンの娘婿のミレールは、ポストフェミニストの時代っていうんだけど、日本では昔からこういうタイプがいるんじゃないか→ Sarah Palin: Operation "Castration" •......Jacques-Alain Miller

たとえば浅田彰なんて、上野千鶴子や金井美恵子に去勢されまくってるからなあ

上のミレールの論文に引用されているヒラリー・クリントンの"Obama? He's got nothing in the pants."って感じで、「浅田くん? ズボンのなかにはなんにもないんじゃないの」などの類と似たようなこと言ってるからなあ


※附記

象徴的思考が出現するためには、女性が、言葉と同じように、交換されるものになることが必要であったにちがいない。それは実際、同じ女性が二つの両立しえない視点から見られているという矛盾を克服する唯一の方策であった。すなわち、女性は、一方では、自分の欲望の客体であり、それゆえ性的本能と所有本能を刺激する。そして他方で、他者に欲望を喚起させる主体であり、まさに婚姻によって他者を繋ぎとめておく手段でもある。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)