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2014年8月16日土曜日

「同じ空間で」

カヴァフィス「同じ空間で」(中井久夫訳)

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。







ウンベルト・サバ「トリエステ」(須賀敦子訳)

……
活気に満ちた おれの町には
おれだけのための 片隅がある
憂愁のある 引込み思案な
おれの人生のための 片隅が




サイゴンの街を歩き廻っていたときは
フォーレのメロディばかりを聴いていた
Barbara Bonneyの歌唱ではないけれど

シクロに王侯のようにふんぞりかえる
若く貧しい娘たちがひどく美しかった

白いTシャツに亜麻色の短パン
ひどく暑い国なのにイッセイミヤケの
麻のカーディガンを肩に洒落る
こげ茶の革サンダルに黄色のフレームのサングラス
日本の無印で手に入れたストローハット
このいでたちで街をさ迷い歩いた
少女デュラスの中年男風変装
ラマンの物真似というわけさ

(アクセサリーかい?
四十年代のゴールドロレックスに
伊で手に入れたまがいグッチの二十四金ネックレス
というひどく「シンプル」なふたつだけさ
こっちの女はゴールドに目がないのでね)

さあてとなんの話だったか

長方形の殺風景のアパート
コロニアル様式のやたらに天井が高い部屋
天井扇がカラカラ鳴るのが珍しかった

ベニヤ張りの薄っぺらいベッドと机のみの
独りで住むには広すぎる伽藍堂の部屋

扉と窓が不調和にがっしりしていた
バスルームのドアの五倍ほどの厚み
古材の紫檀扉の四隅の角は
長年の使用で円くなっている
磨耗した真鍮ノブを握るのが心地よい

グリーンとクリームを混ぜた色調で塗られた鎧戸
朝そこから斜めに漏れ入る光の筋
床に描く模様のゆらめく焔
沈黙のなかの叫び
それはフォーレの内気な詩趣と抑制
夢幻と超脱にとてもよく共鳴した






2014年7月25日金曜日

「自分の声をさがしなさい」

《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子)

文章が表現しようとする内容の混濁と、にもかかわらず文章そのものの音調の明解さというのがありますね。僕は還暦の頃になってようやく、ひとつの極端な例だけど、わかったんですよ。マラルメです。

何を言っているのかわからないんだけど、その言葉の音調だけがきわめて明晰なものとして残るでしょう。そこまで表現として極端にはできないけど、僕は同じようなことを下のレベルでやっていたんじゃないかなと思いましたね。

僕の口調の明澄さを保証するものは何なのか。努めて音調を練ってできるだけ明澄さをつくり出そうとした覚えが、実はないんです。どこかでインプットされたものなのでしょうが、とにかく人間としてもそうだけど、作家としてもいちばんわからないのは自分の本質なんですね。(古井由吉「文藝」2012年夏号)





中井久夫ならこう言う。

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」)

…………

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)須賀敦子訳)

四方田犬彦が原典と読み比べて驚愕し呆然とした須賀敦子の訳である。《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と(参照:おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫))。

四方田氏が仮に試訳してみたという訳文なら次の通り。

女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)
…………

言語と身体に共通にあるのは声である。しかし声は言語でも身体のいずれの部分でもない。声は身体から生じる。だがその部分ではない。声は言語に属することなく、言語を支える。このパラドックストポロジー。この場のみが言語と身体が共有するものだ。これは対象aのトポロジーである。(ムラデン・ドラー Dolar, Mladen 『A Voice and Nothing More』 eng7007.pbworks.com/f/Dolar.pdf 私訳)

標準的なラカン派であっても、あるいは一般的な研究者の人間把握においても、さらに文学への接近方法においてさえも、声はあまりにもないがしろにされている。視線(まなざし)、あるいは視覚的領野だけが注目されがちなのだ。音楽家や一部の映像作家たち(ビクトル・エリセやストローブ=ユイレなど)はさておき、エクリチュールの領野に限るなら、ごく限られた詩文のすぐれた書き手や読み手のみが、声の秘密を知っているかのようである。





ジジェク曰く、欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

《In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)



《あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。》

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)





《異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さ》、痛みであり傷であるもの。聴取活動を危機に陥らせる悦楽(享楽)の音楽。《私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である》(ライスブルック)。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)


……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)


音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)



アファナシェフは、ある種の作品の演奏で吃るのだ、唐突にどもりだす。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ-』)

◆シューベルトの最後のピアノソナタ第21番変ロ長調D.960について(アファナシエフ『ピアニストのノート』より)

それに私も、どうすればこのソナタの心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。





《このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ》、あるいは《私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばす》とも言う。


彼の演奏は、吃るというだけでは足りない。音が流れてしまうことを拒絶し(いわゆる華麗な演奏にあるような)、その一音一音を刻み込むさま。「耳で聞く」のではなくて、ほとんど読まねばならないこれらの音。華麗な演奏が流暢な演説口調のパロールであるならば、ここには《二行を探し求めて二日》のフローベールのようなエクリチュールがある。それは異質の聴き手に語りかけているかのようであり、あるいは聴くのではなく読まなければならないかのようなのだ。あるいはこう言ってもいい、アファナシェフは、音のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけているかのようだ、と。

こうして、音楽の未来の扉が開くかすかな予感ーー何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているこの感覚、ーーがあたりに瀰漫しはじめる。そして、いつのまにか未来のドアがわずかに開き、隙間のなかに保留されていた光が漏れ入るかのような瞬間がある。そこにあるのがわからなかった部屋が見えるのだ。

…………

ケロールは作家や詩人たちの視覚的感受性の代わりに正真正銘の声の想像力を持っている。第一に、声はどこからか現れ、流れ出ることができる。だが、一旦発せられると、その声はどこかには存在する。あなたの周囲に、あなたのうしろに、あなたの横に。しかし、結局、決してあなたの前にはいない。声の真の次元は、間接的、側面的次元なのである。声は脇から他者に接し、軽く触れ、去っていく。声は自分の出自を名乗らず触れることができる。したがって、声は名づけられないものの記号である。それは、身体の物質性、顔の特徴、あるいは、視線の人間味を取り除いてもなお、人間から生まれ、存在し続けるものである。それは最も人間的であると同時に非人間的な実体である。声がなければ、人間同士のコミュニケーションもないが、声があると、また、冥界にせよ天界にせよ、超=自然から、つまり異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さをも生ずる。よく知られたテストによると、皆(テープレコーダーで)自分自身の声を聞くのを嫌がり、自分の声だということがわからないことさえしばしばあるという。それは、声というものは、その出所から切り離しても、つねに、一種の奇妙な親密さを生み出すからであるが、この親密さこそ、ケロールの世界、すなわち、その正確さによって識別され、しかし、その起源消失によって識別されることを拒む世界の親密さである。声はまた別の記号でもある。つまり、時間の記号である。どのような声もじっとしていない。絶えず過ぎ去る。さらには、声が示す時間は穏やかな時間ではない。声はどんなにむらがなく、慎ましくとも、その流れに何の切れ目がなくとも、声は皆脅かされている。人間の生の象徴的な実体である声は、つねに始めには叫びがあり、終わりには沈黙がある。この二つの契機の間に、パロールの頼りない時間が広がるのである。流動的で、しかも、脅かされている実体である声は、したがって、生そのものである。そして、おそらく、ケロールの小説は、つねに、純粋で孤独な声の小説であるからこそ、それはまた、つねに、頼りない生の小説でもあるのだ。(ロラン・バルト「削除」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

そしてもうひとつ、ニーチェの音調、文である思想、という歌唱。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

だが肝要なのは声だけではない。においやフェロモンがさらに根源的であるという視点がある。

……無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」ーー不安のにおい
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p57)

2013年10月15日火曜日

橋をわたって

もうすぐ雨が降ってきそうな曇り日は
土の匂いがこみ上げてきて
とても懐かしい人が
すぐそばまで
来てくれているような気がします
                    (黒田ナオ「曇り日の気配」

《2行目の「こみ上げてきて」がいいなあ。
土がにおうのではなく、自分の肉体が土になっている》
とする谷内修三氏の評言もいいなあ

土でなくてもよい
アスファルトの匂いでも

ずっとわたしは待っていた。
わずかに濡れた
アスファルトの、この
夏の匂いを。
たくさんねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。

ダヴィデ(須賀敦子訳)

-----1945年、425日、ファシスト政権と、それにつづくドイツ軍による圧政からの解放をかちとった、反ファシスト・パルチザンにとっては忘れられないその日のこみあげる歓喜を、都会の夕立に託したダヴィデの作品である。(須賀敦子「銀の夜」『コルシア書店の仲間たち』)



六月    
                 茨木 のり子         

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール
鍬を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる


昨日、《ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。》(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

あるいは、

《ああ私がステッキや傘でりんごの木の幹や垣根の茨をたたいていた時、どれほどそこから女性を出現させたいと願ったことだろう。》(プルースト「カイエ7」)

と引用したときに、《鍬を立てかけ 籠をおき/男も女も大きなジョッキをかたむける》をも想い出し、あわせて引用しようとしたが、思い止まった。


鋤は立てかけ、籠はおかなければならない

どこかに美しい村や街があるのではない

身近なところにある

それに気づかないだけだ

わたくしはやむ得ない事情があって、19951月に起こった地震の現場にむかった(ようするに別れた直後の妻と娘があのあたりに住んでいた)。

そこで次の光景に行き当たった。

外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終ったそうである。……(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収)

だがこの国に、つねに
歌と踊りがあるわけでもなく
食べられる実をつけた街路樹がどこまでも続くわけでもなく
美しい人と人の力があるわけでもない
日本よりはすこしは多くあったか
だが経済至上主義だって日本よりも多くあった 
鉈を立てかけ茨をつつかない連中など何処にいた?
黒ビールのジョッキをかたむけたあと
酒池肉林の輪に勇んで加わったのは
だれだ?


橋をわたって  ベトナム民謡

あのひとに上着をあげた
家に帰って父母に
橋をわたるとき風にとられた、と嘘ついた

あのひとに指輪をあげた
家に帰って父母に
橋をわたるとき落とした、と嘘ついた

あのひとに菅笠をあげた
家に帰って父母に
橋をわたるとき風にとられた、と嘘ついた



While I was Crossing the Bridge by Yuji Takahashi/ 高橋悠治作曲「橋をわたって」








2013年8月14日水曜日

私はとても旅をしようという気になれない(ドゥルーズ)

たとえばツイッターのドゥルーズbotに次のようなものがある。

旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。(ドゥルーズ『記号と事件』)

ひとはこれをどのように読むのか。ひょっとして、その感想を語るために旅に出るなどと読むなどということはないか。

わたくしはまったくドゥルーズ読みではないが、あまり「動かない人」であったドゥルーズというおぼろげな「知識」というかイメージ程度はあり、すこし調べると上の文の続きはこうあるようだ。

旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。だから、私はとても旅をしようという気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。『放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ』というのがそれです。(ドゥルーズ「哲学について」『記号と事件』)

ーーここで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の冒頭、《私は旅や探検が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心に決めるまでにどれだけ時間がかかったことか!》を想い起こしてもよい。

まあこういったものであって、短く切り取られたツイッターのbotは、その前後を探ってみれば、そこで受け取られかねない内容のまったく反対のことを語っている場合がある。以前、ロラン・バルトbotをリツイートしながら、まったく逆の理解をしている人を見かけて、すこしからかってみたことがあるが、わたくしも知らぬ作家の短文で同様なことをやっているのかもしれず、他人の誤読を鬼の首をとったようにして諌める気分は失せてきつつある。そんなことをしたって無駄だ、抵抗できようがない……

《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。》(小林秀雄「林房雄」)


上の文には、わたくしが数少なく読むことのあるドゥルーズの『プルーストとシーニュ』、――1964年に初版が出版、1970年に「アンチロゴスまたは文学機械」の部分がつけ加えられた第二版。そして1976年に、「狂気の現存と機能――クモーー」を追加した第三版が刊行されているのだが、――ドゥルーズがひどくこだわり続けたこの書の「アンチロゴス」、あるいは「クモ」の章のドゥルーズがいる。

しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用でできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者――狂人――普遍的な分裂病患者である語り手の身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、器官のないおのれの身体の強度な力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシュルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんそれ以前にも『アンチ・オイディプス』にはこうある。

はっきりしているのは、語り手は何も見ず、何も聞かないで、ひとつの器官なき身体であり、あるいはむしろ、いわば自分の巣の上でじっと身構えている蜘蛛のような存在であるということである。この蜘蛛は何も観察しないが、ほんの僅かの兆候、ほんの僅かの震動にも反応して、自分の餌にとびかかる。


もっともこう引用したからといって旅をするのが悪いわけではない。ユルスナールや須賀敦子のような方もいるだろう。
ずっと見ていると、あなたっていつもそうなのよ。このところ、なにか暗いなあ、って思うことがあって、そんなとき、あなたはじぶんで気づいているかどうかわからないけれど、ちょっと旅行にでもって思いつくらしいの。そして、どういうわけか、旅のあとはふわっと明るくなって帰ってくる。なにか重たいセーターを、旅先で脱ぎすてたみたいなのね。(須賀敦子『ユルスナールの靴』)

ただし須賀敦子は、旅の思いや、ミラノの記憶を語るのに、二〇年ほどの年月の醗酵が必要だった。

多くのひとの旅はアランが書く次の文の冒頭のようにになり勝ちなのだ。

丁度今はバカンスの季節だが、次から次へと名所旧蹟のたぐいをかけずり回る人々で、どこもかしこもいっばいだ。もちろん、わずかの時間のうちに、いっぱい見物しょうという寸法だろう。なるほど、あとで話の種にするのであれば、これほど結構なことはない。引き合いに出す場所の名前は多いに越したことはなかろうし、これで十分暇つぶしにもなるだろう。

だけども、自分のために、本当に見るために、そんな風にかけ回るのだとすると、私は首をかしげざるを得ない。走りながら眺めれば、何もかも似かよって見える。いかなる渓流も、渓流であることに変りはない。かくして、大急ぎで世界を駆けめぐつてきたところで、出発前よりたいして思い出が豊富になってはいない。

何を見物するにしろ、その真の豊かさは細部にある。見る、ということは、細部を一つ一つ経めぐること、その各々にしばし足をとどめること、そして再び全体を一目で把握すること、である。こんな手順を踏みながらも、次から次へと素速く見て回ることができるのかどうか、私にはわからない。が、少くとも私はだめだ。毎日、美しいものを眺めることが出来、例えばサントゥアン寺院を、自分の家にかけてある絵と同じように見ることの出来るルーアンの人達は幸せである。

それに対し、美術館にしろ観光地にしろ、たった一度きり立ち寄るだけでほ、まずきまってその思い出は混乱し、ついには輪郭のぼやけた一種の灰色の画面となってしまうだろう。

私の好みに従えば、旅行するとは、一度に一メートルか二メートル進んでは立ち止まり、再び同一の物の新たな相貌をじっくり挑めることなのである。しばしば私は、ほんの少し右や左に動いては、腰をおろす。すると、全てが一変して見える。それは、百キロ進むよりも、はるかに有益だ。

一つの渓流から次の渓流へと訪れたところで、眼に映るのは、常に同じような渓流である。しかし、岩から岩へと足場を変えれば、この同じ渓流が一歩ごとに姿を変える。すでに見物したものへ再び立ち戻ると、間違いなく、それは新しいもの以上に心をとらえて離さない。事実、そこにあるのは、新しいものなのだ。(アラン「旅行者」)

ここでさらにフローベールの友人であったマクシムとシャルル、つまりマクシム・デュ・カンとシャルル・ボードレールのふたりを対照させて書く蓮實重彦の文を抜き出してみよう(『凡庸な芸術家の肖像』)。

そこでは、「旅」とは「何かを述べるために帰ってくること」――《そう宣言することの率直な凡庸さは、こんにちではもはや凡庸さとは意識されることもなく希薄に共有されてしまっている》とすることができる文が含まれる。


凡庸さを、何ものかの欠如としてではなく、過剰なる何ものかとして具体的に触知すること。それがこの物語の主題というべきものであるとするなら、不断の運動によって空間を踏査するマクシム的「旅人」と、室内にとどまったままの空想的旅行者シャルルとの比較はほとんど意味を持ってはいない。マクシムが凡庸であるとするなら、「乾かされた海藻の上に、山の頂きに、激流の岸辺に、人里はなれた岩の上にこそ身を横たえてまどろむべきなのだ」と説く『現代の歌』の詩人が、そうした孤独な彷徨者を顕揚するかにみえる詩的姿勢にもかかわらず、実は、旅をいささかも無償の運動体験とは見做していないからである。

無償という言葉が惹き起こしがちな誤解を避ける意味からいいそえるなら、旅は、旅を表象するものの生産を伴わぬかぎり旅とは認識されていないとすべきかもしれぬ。表象という言葉がまぎらわしいというのであれば、さらにはそれを証拠といいかえてもよい。つまり、旅は、「旅行記」の執筆とその過程で撮った「写真」の整理を伴わぬかぎり、マクシムにとっては旅ではないということだ。

未知の世界の表情と触れることは、その風景を知識としてたくわえ、それによって存在を豊かにしうるものだとする確信がマクシムにはある。だからその個人的な豊かさを人びとに共有させるために「旅行記」と「写真集」とを刊行することが義務だと彼は考える。ここでもマクシムは、誰に頼まれたわけでもないのに、その個人的かつ特権的な旅人としての体験を、人類の知的資産として民主化すべき義務があると信じているのだ。この確信が凡庸さを特徴づける第一の側面であることはすでに見たとおりである。だがここではそれに続く第二の側面について触れておかねばならない。それは、時間的なものであれ空間的なものであれ、人が一般に旅と呼びならわしている体験が、「旅行記」なり「写真集」なりの生産を可能としないかぎり、体験としての濃度を希薄化するような印象を与えるという、体験の物語化の傾向の中に姿をみせるものなのだ。つまり、あるできごとを言葉で記録し、それをフィルムにおさめないかぎり何ものかを喪失したような心もとない気持に襲われ、それを言語による、あるいは映像による物語として再編成せずにはいられないという心の動きが、凡庸さの第二の側面を構成するのである。(『凡庸な芸術家の肖像』p117~)
ここではただ、『現代の歌』の詩人が、旅行を物語として知識化していない点をシャルルの作家的な欠陥だと呼んでいることにのみ注目しよう。「旅行記」も「写真集」も伴わぬ旅行は、彼にとって旅行とは呼べなかったのである。そしてそう宣言することの率直な凡庸さは、こんにちではもはや凡庸さとは意識されることもなく希薄に共有されてしまっている。実際、未知の世界へと旅立った詩人が「旅行記」を執筆することなく帰還することがあるだろうか。それを出版するか否かはおくとしても、旅先きで撮った写真を整理することに喜びを感じない詩人がいるだろうか。マクシムは、こうして希薄に共有された常識を制度化した最初の芸術家である。旅という運動体験が物語として反復されることなしには旅たりがたいという常識を規格化した最初の芸術家なのである。旅の途中で蒐集した知識を帰宅後に整理し、そこにかたちづくられる物語によって運動体験を表象すること。それが進歩に加担する芸術家のあるべき姿だとマクシムはいう。これほど偉大な凡庸さを、人は十九世紀の中葉にそうたやすく想像することはできない。(同上p119)


ここでの「芸術家」は、現在、「知識人」とか「文化人」を代入して読むべきだろう。そして現在ひとは誰もがマクシムと似たようなことをやっている。旅行どころではない、そして帰ってきてからでもない、レストランに行けば、その写真を食べる前にSNS上に貼り付けて他者と共有する。《誰に頼まれたわけでもないのに、その個人的かつ特権的な旅人としての体験を、人類の知的資産として民主化すべき義務があると信じている》のであり、そうしないと《何ものかを喪失したような心もとない気持に襲われ》てしまう。本を読んだって、その感想を書かずにはいられない。葬式に行ったって、哀悼の気持をネットにすぐさま書き綴る。そのうち性交の最中のさまを他人と共有するようになるだろう(いやそんなものさえすでにある)。


たとえば蓮實重彦自身、《われわれの誰もが、マクシムのように…凡庸な存在だからかもしれない……時代そのものが人に凡庸たれと要請している》(P799)と『凡庸な芸術家の肖像』の末尾近くに書き綴っているように、己がつねに凡庸さをまぬがれているとは思っていないはずだ。自らが凡庸さから逃れうるのはよほどの戦略家でなければ至難の技なのだ。

ここで誤読を恐れつつ、つまりこの文の前後を知らないドゥルーズの文を恐る恐る引用してみよう、

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)


だがこの「凡庸さ」の何が悪いのか。それは、ひとが他人と共有できることしか語らなくなってしまう、いやそれだけでなく共有できることしか考えなくなったり感じなくなってしまうことだ。

あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出されたとき』)

《……人は、知っていることについてしか語らなくなくだろう。たまたま未知のものが主題になっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるいは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようにあつかうふりを演ずる。そして、その錯覚と演技とが、知と物語との相互保証をますます完璧なものにする》(蓮實重彦『物語批判序説』)


「僕はレスポンスを求めないために書く」、「レスポンスを求めるのは批評の死を意味する」、と浅田彰と蓮實重彦が対談で語るのも、この凡庸さに抵抗する意味に他ならない。(参照:青空のさなかで耐えること






2013年8月3日土曜日

おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫)

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。》(松浦寿輝『クロニクル』)





浮き彫りの飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に坐る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、物語の陰に、おのれのさまざまな仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と改悛のあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと聖性の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。(リッツォス「カヴァフィスにささげる十二詩の一、詩人の部屋」中井久夫訳)


何度か中井久夫訳のカヴァフィス「市」を引用しているのだが、ここでも反復しよう。

「いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。/いつかおれは行くんだ」と。/「あっちのほうがこっちよりよい。/ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?/眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。/ここで何年過したことか。/過した歳月は無駄だった。パアになった。//きみにゃ新しい土地はみつかるまい。/別の海はみあたるまい。/この市はずっとついてまわる。/……/まわりまわってたどりついても/みればまたぞろこの市だ。/他の場所にゆく夢は捨てろ。/きみ用の船はない。道もだ。/この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには/きみの人生は全世界で廃墟になったさ」(カヴァフィス「市」中井久夫訳)


《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。》


「埋葬」といえば、エリオットの『荒地』の第一節の題は、The Burial of the Dead(死者の埋葬)である。

田村隆一は、中桐雅夫訳の『荒地』を引用しつつ次のように謳い呟く(「だるい根」)。

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている


老いてくると、《ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつた》、
あるいは、《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ》、と
むなしい気分に襲われることがあるのさ
そうだな、若かりし頃熱狂した音楽や詩
あるいは女に
だるい根のおぼつかない顫えしかない
そんな刻限

まだだるい根は残っている
ときおり掘りかえして磨耗してしまったひげ根の
かすかな残留のさまを慈くしむため
水撒きしてみることだってあるさ
乾ききっているわけじゃない

驟雨のびっしょりした濡れ具合じゃなくていい
霧雨ほどのかすかな濡れ具合でいい
だるい根の表皮を蔽う鈍重なかさぶたが罅割れて
免疫の薄い年頃のかすり傷から新しいひげ根が芽生える
そんなむなしい願いだってないわけじゃない
老少年が埋葬された少年の屍を掘りかえすため


――この中桐雅夫訳「だるい根」は、西脇順三郎訳では「鈍重な草根」だが、これは前者でなくてはならない、すくなくともこの「老少年」にとっては。

「かなしみ」 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

…………

ところで、中井久夫にはエリオットの詩句の次のような訳がある。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264


この中井久夫が「超訳」するエリオットの詩句は、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実 には堪えられない」とでもされるところだ。この詩句は『四つの四重奏』からくるのだろうが、エリオットの原詩では、“Go, go, go, said the bird: human kindCannot bear very much reality.”であり、いささかの相違がある。だが、中井久夫の引用するそのままの詩句あるいはフレーズは、エリオットのほかの詩や論のなかにはみつからず、おそらく、少年時から多くの詩の暗唱の習慣があるとしている中井氏が、その暗唱の記憶で書かれているのだろうと推測する。

ちなみに、バードン・ノートンの第二節には”Protects mankind from heaven and damnationWhich flesh cannot endure.”endureの語が出てくる。


あるいは『四つの四重奏』の「エピグラフ」(ヘラクレトスの英訳)は次の如し。
"Although logos is common to all, most people live
as if they had a wisdom of their own."
"The way upward and the way downward are the same."
Heraclitus

”most people live as if they had a wisdom of their own.”は、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである》と訳せないこともないだろう。


…………


《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》

この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。






下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、

And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされるKeeleySherrard

Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)

などであり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となるらしい。


この箇所を、各国の十一もの翻訳を引用して比較されている中村幸一という方がおられる(「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究

この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。


精神科医であることが強調され過ぎているきらいがないでもないが、中村氏のいう通り稀にみる訳であるには相違ない。

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。》(中井久夫『治療文化論』)

しかし、文学研究者のなかにも、「精神科医」のようにしてテクストを読む人たちが、仮に稀にせよ、いるのではないか。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?

私たちは星座をみるのではない。星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。

また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、語る時に、私たちの中に起っていることだ。患者の中にもおそらく起っていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起らない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの“健常者”をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

わたくしには、むしろ本来は詩人となるべき人が精神科医になったのだ、としたくなるときがある。

私が別に臨床医という仕事を持っていることは、この場合に大きな救いとなっている。専業著者であれば私は発狂しそうな気がする。しかし、臨床医であるということには大きな制約もある。私が訳詩で止まって詩を書かないのはなぜかと聞かれることがあるが、才能は別としても、もし詩を書こうとすれば、そのために、私は分裂病患者の診察の際に重要な何ものかを流用せざるをえなくなり、患者にたいへん申し訳ないことになるであろう。私は何も一般論として精神科医と詩人とが両立しないと言っているのではない。私の器量では双方が一つのうつわに収まらないという確実な感触があるというのである。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)


風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を!


ーーーヴァレリー『海辺の墓地』最終節 中井久夫訳


徹底的に暗誦すればよいかというと、どうもそこまでは行かないほうがよいらしい。私は十六歳が十七歳の時、翻訳する廻り合わせになるなどゆめ思わずにヴァレリーの「海辺の墓地」を暗誦してしまった。六十歳近くになってさて翻訳に取りかかった時、私の訳の歩みは完成した形の原文に先回りされてしまって何度も立ち止まった。訳文はできかけては霧散霧消した。しょせん、原詩の美と完成度に敵うわけがない。どうもある程度の覚え間違いと覚え残しがあるぐらいでないと、訳詩過程に必要な日本語の最適語juste motを選ぶための自由な言語空間が閉ざされて失われてしまうようだ。心理学には「本の内容を記憶し活用するためには完全に読み切らないで未読の部分をごく一部でも残しておくのがよい」という実験的事実があるが、それとどこか関連している事柄ではなかろうか。

また、読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。彼の詩を英詩やイタリア詩あるいはボードレール詩に関連づけようと比較文学研究の真似事をしたのは、この不快感を中和するためであったとは後から気づいたことである。(中井久夫「訳詩の生理学」 『アリアドネからの糸』所収)

…………


最後に四方田犬彦が驚愕した須賀敦子のタブッキ訳、「窓ぎわですっぽりはだかになって」をめぐるメモをつけ加えておこう(一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら(須賀敦子、プルースト))。


文芸別冊の須賀敦子追悼特集(1998)に四方田犬彦の「須賀敦子、文体とその背景」という追悼エッセイがある。

《翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえるということがままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顕著となる。》

また、《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と、ある。


そうしてダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)の一節を、まず彼は自ら逐語訳してみて、須賀敦子の文体と比べてみる試みを読者に提示する。

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)

須賀訳ではこうだ。

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(須賀敦子訳)

―――《平仮名が多用されているせいで、全体に柔らかい印象がする。「裸になる」は「すっぽりはだかになる」であり、「出る」は「どこかへ行く」となっている。……行動を示す言葉に、原文よりも派手な身振りが添えられていて、原文の持つ素気なさを越えて、強い官能性が伺える》、四方田犬彦はそう指摘する。

《あるいは付けられた句読点の多さ……。須賀敦子の訳文を眺めていると、イタリア語が本来的にもっている単語の凝縮性を簡潔性を、どのように日本語に置き換えていけばよいのかという問いをめぐって、彼女の長らく思索していたことが、ありありとわかる》、と。







2013年7月25日木曜日

ああ、海がみたい

まずは前投稿で中井久夫の恋文のひとつとした文から再度抜き出す。

……こういうことをすべて忘れて、人は大人になる。なりふりかまわずといってもよいほどだ。ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる。(中井久夫「村瀬嘉代子『子どもと大人の心の架け橋――心理療法の原則と過程』)

わたくしも凡人のひとりとして、なりふりかまわず、少年時代のことを忘れて大人になってきたにもかかわらず、この何年か、ふとしたきっかけで過去を想いおこすことが多くなってきた。

安永ファントム空間理論によれば、ひとは老年になって「自極」に戻っていく。

安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極を両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
※安永ファントム空間については、次を参照→..ウォーコップの次世代への寄与


過去の想起は、わたくしの場合、五十歳で死んだ母の年齢を超えてからが顕著だ。

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね
ーー「奇妙な日」(高橋睦郎)


ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

――そう、こんな具合に言葉だけでなく風景や映像、あるいはふとした旋律で、過去の「開け」が唐突にあることが多くなった。

今、「旋律」と書けば、ほかの文を憶い出す、それは老年にならずとも誰にでもあるだろう。

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになってゆきます。……
(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――『光をめぐって』蓮實重彦インタヴュー集 所収)

そもそもそんなふうに思い出さない読書は、読んだうちに入らない。

何もいうことがない連中は、名前だけでものをいう。あるいは、《われわれは、決して同じイメージを共有することなく、「海」la merだの「田舎」la campagne だのの語彙を口にしあっている》。

名前だけでものをいうとどんな具合になるか。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知ってるという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。

(……)誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。

結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなくだろう。たまたま未知のものが主題になっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるいは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようにあつかうふりを演ずる。そして、その錯覚と演技とが、知と物語との相互保証をますます完璧なものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

つまり、ゴダールのいう通り、 人びとは驚くほど馬鹿になるのだ。


アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

アンとは、アン・リンドバーグのこと。リンドバーグ夫妻の、千島列島での不時着事件をめぐる文への衝撃、《いまでも、目をつぶると、アンが夫とふたりで、おそらくは自然の中で人間はどれほど無力かという苦い自覚につつまれて、息をひそめるようにして葦の中で救出を待った時間が私の中をしずかに通りすぎる、その耳に聞こえない音が伝わってくるようだ。そして、闇のうこうから近づいてくる人たちの声が。それはなつかしい人間の声だった、というふうにアンは書いていた》にかかわるのだが、今はそれにはこれ以上は触れない。あわせて『遠い朝の本たち』に引用されている吉田健一訳の『海からの贈物』の一節を抜き出しておくだけにする。

我々が一人でいる時というのは、我々が一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。女はチャールズ・モーガンが言う、『回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない。(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈物』)

さて、前回、中井久夫による書評「村瀬嘉代子『子どもと大人の心の架け橋――心理療法の原則と過程』」を全文引用したが、ここではもうひとつ、「村瀬嘉代子さんの統合的アプローチに思う」2006初出『日時計の影』所収)の冒頭を抜き出してみよう。

村瀬さんは能登半島の旧家のお生まれである。それは、日本海に臨み、杉林でおおわれた谷あいを流れ下る清水を引いて棚田を作り、それが山頂近くから海に落ち込むような急角度で浜辺まで続くところにある。澄んだ青色が水平線まで続く日本海も、「耕して天に至る」厳しい日々の営みがようやく稔りをもたらす棚田も、共に村瀬さんの原世界を作ったであろうと私は思う。棚田は日々の営みによって初めて維持されるものであり、海は太古から永遠に変わらない色を湛えている。その二つは村瀬さんの二つの面を思わせる。

しかも、海は、チリからこの浜べまでずっと海だというのがいかにもと思われる怒涛の洗う太平洋でもなく、島々の間を見え隠れしつつ水路が縫う瀬戸内海でもない。日本海は夏はあさみどりに静かであり、冬は天暗く波逆巻くというように相貌を異にするとしても、古くから航路が開けた海である。ことに、能登半島の外海側は対馬海峡を通ってくる暖流が洗い、クスノキ、タブなど南方系の樹が繁る。単純な北の海ではないのである。

さらに能登の人は棚田を守るだけでなく、江戸に出て、殊にその浴場を支配してきた。戸籍上農家と分類されている家が北前貿易に深く関与していたことも分ってきたそうである。農家という公式の分類では済まない、非常に広い世界に深く関与しているところも村瀬さんを思わせるであろうか。

幼い時、たいへんなお転婆であったと仰る。たまたま、自伝的エッセイの挿絵を描くまわりあわせになった。写真があればお持ち下さいとお願いしたのだが、手ぶらで神戸においでになった。やむなく、お話をうかがいながら「こうですか、それともここはこうでしょうか」といくつかの絵を描いたものである。村瀬さんは一党を引きつれてトロッコに載せ、危うげなレールの上を走らせ、「そーれっ」と坂を下ることを繰り返してたそがれに及んだという。本の帯に使われたその絵でトロッコの最後尾に立ってブレーキを握っているのが村瀬さんである。長じても、乗馬、大排気量のバイク・ライダーと、このスリルへの傾きは変わらなかったらしい。微妙できわどい操作を自力だけでやりおおせる人である。もっとも、そこで重要なのはブレーキ操作であることは言っておかなければならない。一党を統率する時にはいちばん危険なところにわが身を置くことも、また。

それを動とすれば静の世界にも窓が開いている。蒸気機関車の時代、列車の最後尾の赤いランプが遠ざかってついに消えるのを見つめている少女であった。家にいた韓国人の好青年も消える。彼女は多くの別れを経てきている。彼女には努力と機転と共に祈りと無常感とがある。

そういう少女がある時より広い世界に出ようとする。

彼女は奈良女子大時代のことを多くは語っていない。奈良は古い都の跡はあるが、近世にマニュファクチュアが最初に開け、菜種油から漢方薬までの換金作物が堺、大阪に運ばれたところであって武士の支配を受けない時代を室町末期に経験している。加賀も一世紀間武士の支配を受けていないことを思い合わせてもよいかもしれない。しかし、奈良は学生の町とはいえない。女子大はお茶の水と並ぶ名門であるが、奈良で学生時代を送った人はしばしば孤立感を語る。

大阪府に対する奈良県の関係は今の東京都に対する埼玉県の関係である。秩父と吉野という奥の院があることさえ対応している。……(中井久夫「村瀬嘉代子さんの統合的アプローチに思う」)

ああ、ここにも「無常感」という言葉がある。

人との出会い、そして年をへだてての再会、あるいは消息を聞く彼女の筆づかいには、まぎれもなく「無常」の感覚がある。彼女のエッセイが私たちの心を打つのはこの清冽な無常感あってのことと私は思う。(……)彼女の本のどれを読み終えても、いちばん長く残る余韻はこの無常感である。中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」(『時のしずく』所収)ーー「風がちがうのよ」より)



さて、以下は、中井久夫の村瀬嘉代子オマージュの前半に書かれている凝縮された「海」をめぐっての叙述からのみの想起された文のなかのいくつかの引用である。

オスタンドに着いたのは、午後の時間で、日があるうちにと、私たちは教会も美術館も見ないで、まっすぐに海岸をめざした。なにをその海に期待していたのか、いまもはっきりとはわからないのだが、海岸の防波堤に立ったとき、私は、海が、それまでじぶんの中にあったどの海のイメージとも異なっているのに気づいた。

灰色の雲にとざされた風景の中を、雨が横なぐりに吹きつけて、波がしらの白さが、牙をむいて飛びかかってくる獰猛な野獣に見えた。( ……)

子供のころ、岩場をつたって、日がないちにち、歓声をあげて遊びほうけた白い砂の浜辺が、小さい足をサイダーみたいにやさしく洗ってくれた波が、ふとなつかしかった。(須賀敦子『ユルスナールの靴』「フランドルの海」の章)

そう、フランドルの海と日本の海は、ぜんぜん違うらしい。似ているようにみえるわたくしの住んでいる土地の海だって、日本の海ではない。そして日本の海だって、地方ごとに違う。



さう! 大海の素性は狂気。
豹の毛皮、また陽の千の肖姿に
孔穿たれた古代ギリシャの軍用マント、
絶対の水蛇のおのが青い身体に酔ひ、
燦めく尾を噛み続けてゐる、
沈黙に似たざわめきで、

(ヴァレリー『海辺の墓地 』第23節 中井久夫訳)


ミシュレの『海』は、次のような文で始まる。
《「海からうける第一印象というのは、恐れだな。」――生涯を海ですごし、冷静沈着な観察者となった一人の勇敢なオランダ人船乗りは、正直にそう言った。》

私もまた、恨みをだきながら、飽くことなくこの海をながめていた。実際の危険にさらされてはいないので、私はせいぜい、海に対して不安と悲しみとをおぼえた程度であるが、海は醜く、おぞましい形相をしており、詩人たちの絵空事のような情景描写をしのばせるものはなにもなかった。ただただ奇妙なコントラストがあって、私には、自分の実在感が薄れればうすれるほど、海のほうが生き生きと感じられていた。そのものすごい動きで帯電した波の一つ一つが、生気をえて、奇怪な魂をもったかのようであった。総体としての激しさのなかには、個々の波の激しさがあり、全体的な均一性(たとえ矛盾した物言いと思われようとも、これは真実である)のなかに、悪魔的なひしめきが秘められていた。それは私の目の迷いであったのか、それとも、疲れた頭の迷いであったのか。はたまた、実際にそうであったのか。波は私には、忌まわしい下賤の者たちのうごめき、いや、人間というよりも吠えたてる犬どものうごめき、たけりたった、あるいはむしろ、発狂してしまった何千何万の番犬どもの恐ろしいうごめきのように思われた……。だが、どう表現すればいいのだろう。犬? 番犬? いや、それでもまた言いたりない。おぞましく名づけようもない幽霊、目も耳もなく泡をふく口だけをもった獣とでもいうべきか。

怪物どもよ、おまえたちは何がのぞみなのだ。私が四方から得た海難の知らせに、おまえたちはまだ飽きたらぬのか。いったい何が欲しいのだ。――「おまえの死、大地の崩壊、そしてカオスへの回帰なのさ。」(ミシュレ『海』藤原書店 加賀野秀一訳 P68)

ああ、海がみたい。幼き日であれば浜名湖の遠浅の海であり、廊下に松の老樹が天井を突き抜けていたあの古い旅館の和座敷の前の松林のなかに拡がる砂の感触であり、あるいは蒲郡の海、鯔や蝦蛄手づかみしたり、浜辺で殻ごと火にかけた蛤やら浅蜊を立ち食いしたあの泥臭い海、さらに後年は、伊古部と赤羽海岸の荒い海、臆病な少年には到底泳げない波の高い潮風の強烈な海、海辺でテントを張って合宿し焚火を囲んで少女たちと輪になって踊り胸を高鳴らせた少年の股間のテントの海、あるいはもう少し足を伸ばせば伊良湖岬の崖の上から遠眺する神々の海、岬の高台では伯父たちが友人やらその女ともだち、ときには水商売の女の着物姿もまじえて正月三が日を過ぎたあと何部屋か借り切って麻雀三昧する習慣のあったあの眺望豊かなホテルから眺める海であり、母の一番下の弟である叔父が、若い女と腕をからみあわせたまま立ち上がりそのまま別室へとゆっくり横切っていって小一時間して戻ってきたってなんのことか分らずにひたすら宵闇のなか灯台の光が瞬きだすのやらはるか遠くに船が行き交うのを眺めていたあの海。夏休みだったら、伊良湖内湾の簀の子小屋の諒闇のなかでサイダーをラッパ飲みしつつ傍らの女子着替え部屋のかすかな気配に動揺した少年の、あの波の静かな穏やかな海、さらに友とひそかに漁船で行き着いた漁村の軒下につるされた干物の魚と漁師の娘たちの海、三島由紀夫の神島の海。

漁師たちの下卑た歓声だって聞こえてくる「神島」。情熱の笏をむぎゅっと摑まれる感触だって残っているあの神島の海。
……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。

(……)私が薄くひらかれた彼女の唇の端と熱い耳たぶに接吻したとき、彼女の体はふるえ、ひきつった。頭上の細長い葉の影絵のあいだから、星の群団が青白い光をのぞかせていた。顫動する空は、かるい室内着の下の彼女の肢体と同様、透きとおって見えた。そして、その空のなかに、彼女の顔が、それ自体かすかな光を放つかのように、妙にはっきりと浮かんでいた。彼女の脚、かわいらしいぴちぴちした脚は、あまりかたくはとじられず、私の手が求めていたものをさぐりあてると、よろこびと苦痛の相半ばした、夢みるような、おびえたような表情が、あどけない顔をかすめた。彼女は私よりもやや高い位置に腰をおろし、一方的な恍惚状態におそわれて私に接吻したくなると、彼女の顔は、まるで悲しみに耐えられなくなったように、弱々しく、けだるそうに私にしなだれかかり、あらわな膝は、私の手首をとらえて、しめつけては、またゆるめた。そして、何か神秘的な薬の苦さにゆがんで小刻みにふるえる唇が、かすれた音をたてて息を吸いこみながら、私の顔に近づいた。彼女は最初、愛の苦痛をやわらげようとするかのように、かわいた唇を、あらあらしく私の唇にこすりつけたが、やがて顔をはなし、神経質に髪の毛をうしろへはらってから、またそっと顔をよせて、かるくひらいた唇を私に吸わせた。一方私は、心も首も内臓もすべてを惜しみなく彼女にあたえたい一心から、彼女のぎごちない手に私の情熱の笏〔しゃく〕を握らせた。(ナボコフ『ロリータ』)

いくら当地の中部にある My Khe beach(英名チャイナ・ビーチと称され、世界五指に入る美しい海などとされることもある)の海が誉れ高くても、やっぱりあれらの海ではない。蛤の焼き物のかわりに、山のように茹でた蝦蛄があったり、烏賊釣り漁船からとりたてのいかを炙って食べたり、醤油とワサビ、あるいは生姜が手元にあれば、刺身にして頬張ることができたって、あるいは松林のかわりに椰子林のむこうにひろがる砂浜と海鳴りがあったって、あれらの海ではない。


ああ、海がみたい。




鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め(「海辺の墓地」第一節 中井久夫訳)


それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。

薔薇色の蕾をもちあげている小高い一双の丘のあいだには、よく日に灼けた、しかも肌の繊細さと清らかさと一脈の冷たさを失わない、早春の気を漂わせた谷間があった。四肢のととのった発育と歩を合わせて、乳房の育ちも決して遅れをとってはいなかった。が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎわの眠りにいて、ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましそうにも見えるのである。 (三島由紀夫『潮騒』)

朝目覚めて、思いついたようにして行けたあられの海。学校帰りにひょいと自転車で寄り道して悪友とともに行けた海。バスの最後部座席にゆったり座っていくばくかの固みを帯びたふくらみを育てているおきゃんな女友達のこころやすい微笑みとともに行けた海。わざわざ旅していく海じゃない。日常生活のかたわらにあった海たち。ああ、海がみたい。


…………

◆蓮實重彦『反日本語論』「海と国境」の章より。

海の不在 
日本は島国で漁業がさかんだとか、バルチック艦隊を破ったほどの提督を持つ海軍国だったとか、海洋性の気候で夏は湿度が妙に高くなるとか、そんな話は昔から聞かされて知ってはいたけれど、まさか、日本に海がないとは思っていなかった。太平洋も見たし日本海も眺めはしたけれど、あれは海なんてものではないと妻はいう。海ってものは、もっと途方もない何ものかでなければいけない。たとえば、英仏海峡に面したノルマンディーからフランドルにかけての海岸。断崖がそそりたっていてもいいし、砂丘がどこまでも伸びていてもかまわないが、そこでの海は、もっともっと大がかりな表情の変化を持っている。潮の干満によって、いままで砂丘だと思っていたところが、いつの間にか灰色の波に蔽われてしまう。かと思うと、潮が二キロにも三キロにも引いていって、気の遠くなるほどの広さの湿った砂が露呈する。そして何頭もの馬の黒い影が、濡れた砂丘を思いのままに駈けぬける。とり残されたように鈍い空の色を映している水溜りのまわりには、鷗たちが群がっていて、そこに、飼主から遠く離れた犬が走りこんでゆく。そして、カフェで風を避けて熱いチョコレートをすすって浜辺に戻って行ってみると、海はもうついそこのところまで拡がりだしていて、最後の砂のお城を崩しさってゆく。海とは、陸と海とが演じるおそろしく気まぐれな、それでいて調子の狂うことのない戯れの場でなければならない。少なくとも、わたくしの知っている海は、視線の尽きはてるあたりまでが陸になったり水になったりする巨大な周期的な反復の舞台なのだ。ところが、と妻はいう。ところが、日本では、海と砂浜とが、あまりにも几帳面にたがいの領土を尊敬しあっている。ゆっくり時間をかけて、だが着実に満ちてくる潮のあの官能的な運動が日本の海には欠落している。嵐の日の途方もない波のうねりとか、台風の高潮とか、そんな海の粗暴な表情がどうしたというのではない。そうじゃなくて、何といったらいいのか、あの動物たちが群がみせる秩序だった奔放さとでもいうべきものが、ごく日常的なさりげなさで海に生気を吹きこんでゆく。そうした生気が日本の海には感じられない。だから、そんな光景としての海に馴れ親しんできたものにとっては、日本には海がないとしかいいようがない。海のない島国に住むことになろうとは、本当に考えてもみなかった。ああ、久しぶりに、海がみたいと妻は時折り嘆息する。ああ、海がみたい。

いうまでもなく、妻は、朝から晩まで日本の海に難癖をつけているわけではない。伊勢志摩の入江の松林ごしにのぞまれる海や、伊豆半島の突端で耳にする海鳴りの音などは、やはり美しいという。ただ、故国を遠く離れしかもその土地に住居を定めて暮らす者にとって、その郷愁の思いがこうした表現をとることは、いかにも現実感をもって夫の胸をうつ。誰もが、自分の海を持っている。その海が、いま実際に目にしている海と異なることは、発見の喜びの源であると同時に、ある崩壊の意識ともつながっているだろう。もちろん、妻にしたところで、カリフォルニアの海が象牙海岸の海と同じ顔を持っていまいことは充分承知している。プルーストの海がヘミングウェイのそれと違っていることも、知らぬわけではあるまい。それでいながら、日本には海がないと断言することの重さは、軒下につるされた干物の魚とか、漁師たちの網を引くかけ声だとか、夏の浜辺のスノコ小屋とか、松林の赤い幹とか、そんな断片的な記憶を綴りあわせて海をイメージする日本人の夫にとって、痛いまでに感じられる。倖いにして、妻は、あああれが喰べたいこれが飲みたいといって、外国人向けの高級食料品店をはしごしてまわるといった習癖は持ちあわせていない。電車を乗りついで評判のフランス・パンを買いに行くといった日本人の奇行には目をそむけながら、米の水加減に気をつかい、ざるそばの歯切れ具合を云々する。コーヒーよりは遥かに日本茶を愛好し、近所のお茶屋では、いつものところを二百グラム頂戴などと日本語で注文する。行きつけの寿司屋の板前さんと仲よくなって、行くたびにオアイソが安くはならないまでも、物価上昇の割には決して高くならないことをいまでは当然の事と考えている。子供の参観日には、前の晩からコクゴやサンスウのおさらいをして、早朝の混雑電車に揺られてゆく。それでいながら、やはり、時折り、ああ、海がみたい、本当の海がみたいというつぶやきがその口から洩れる。

そんなとき、日本に欠けているのは海ばかりではない。日本には、田舎もないという。田舎とは、妻にとって、見わたす限り拡がった畑のつらなりであり、牛が草をはむなだらかな緑の丘であり、樹々に囲まれた農園の屋根であり、親のあとを追う仔馬の歩む光景にほかならない。だからわれわれは、決して同じイメージを共有することなく、「海」la merだの「田舎」la campagne だのの語彙を口にしあっているわけだ。フランスであれば、パリから二十分も電車に揺られれば、窓の外に田舎が横溢しはじめる。終末を田舎で過ごすといった言葉が想像させる豊かさは、たまたまとび込んだレストランんのもうしれだけで腹がはってしまいそうな前菜とか、何にでもない庭さきで手づかみでほおばるサクランボの甘さとか、とりたてのアスパラガスが山ほど緑色の湯気をたてている粗末な皿とか、そんなものによっていかにも気軽に自分のものとすることができる。だが、日本では、何時間汽車に乗れば、田舎の出逢えるというのか。たしかに、真夏の山形とか秋田とかの米作地帯に行くと、田圃一面に実った稲の穂からタタミの匂いがたちのぼってくる。あれが日本の田舎の豊かさというものかも知れないと妻はいう。だがそれにしても、それは東京から何と遠いことか。おまけに、今夜、不意に思いたって明日の朝汽車に乗るというわけにもいかない。そして、それはやっぱり自分の知っている田舎とは違っている。だから、無いものねだりだとはわかっていても、妻はつい、ああ、本当の田舎が見たいとつぶやいてしまうのだ。馬や牛といった平凡な家畜たちが風景と調和しあっただけの、何の変哲もない田舎に行ってみたい。

日本には海もなければ田舎もないという妻の修辞学的誇張が隠している郷愁を癒すべく、われわれは、ヨーロッパに行くたびに、長い休暇を海と田舎とが共存する地帯で過ごすことになる。……(蓮實重彦『反日本語論』)