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2014年2月15日土曜日

社会の矛盾を隠蔽するものとしての流行語

海外住まいなのでこの二十年来の日本における「流行語」に疎いのだが、「オタク」という語さえも日本に住んでいたころ誰かが使っているのをきいたおぼえがない。調べてみると、83年に中森明夫がさる集団を命名するのに「オタク」としたとあり、世間一般に知られるようになったのは90年前後だそうだから、まだその頃は日本に住んでいたのだが。

もっともそのまえの「ネクラ」ぐらいは知っている。そう呼ばれたことはないが、自ら「ネクラ」の資質は充分にあるのを自覚していたので、そのレッテルを貼られないように無理して「ネアカ」に振舞おうとした時期がある。これはこれで苦しいもので、無理がたたって疲れる。演技をしている気分になる。一年ぐらいしてバカらしくてやめた。

小学生時代「オボッチャン」とあだなされたことがある。というのは六歳のとき母が病気になり母の実家裏に家を建てて移り住んだ。大都市から地方都市への移住だったので、そして当時は家族あるいは親族が比較的裕福だったこともあり、田舎の小学校では服装などで目立ったことによる。後年同級会で、「いまだったら、いじめにあっただろうな」と指摘されたが、たしかにやや仲間から浮いていたのは間違いない。「オボッチャン」でもいやなものだ。

オタクと似たようなものに、ニート、アスペなどがあるのだろう。ツイッターを眺めるようになってその記号が如何に使用されているかはなんとなく感じられるようになった。ごく最近では、腐女子、ヤンキー、新型うつなどいう語も流通してるのを見かけるが、どの程度まで流行語なのかは判然としない。

海外に住んでいれば、「日本人」とこちらの言葉で呼ばれれば(nhat)、それもある種の「レッテル」であり、目には触れない隔離の幕が張られた気分になって不快になることがある。もっとも長いあいだ植民地だった国で、都心部にいけばいくほど外国人馴れをしており、日本に住む外国人のような居心地悪さは少ないはずだ。当国大都市の住民の精神には「歓待の掟」が備わっているのだ。

確かに、言葉が巧みであればあるほど、自分が歓迎されている、容認されているという印象が誇張されはしよう。だが、真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう。まぎれもない差異としての他者の不気味さに、存在のあらゆる側面で馴れ親しむことこそが、歓待の掟であるはずだ。したがって、自然さとは、忘却の身振りではなく、あくまで意識化のそれでなければならない。(蓮實重彦『反=日本語論』)

そもそも負の流行語によるレッテル張り(有徴性の付与)とは共同体の選別と排除の仕草、「村八分」的な差別の振舞いであることが多いはずだ。世の中とうまく折り合いをつけた大多数の人間が、他人とうまくやって行けそうもないごくかぎられた少数者に対して隔離の幕を張ること。日本という風土にはこの種の陰湿さを蔓延させるものが絶えず漂っている。己れが多数者に属しているという安堵感がこの疎外の身振りにいっそう拍車をかける。とはいえ、たとえば「オタク」や「アスペ」などは逆に、当人がそう命名されることの稀少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして、傲然と居直りかえるなどという現象もあるのだろう。

一度張られたレッテルというものは、なかなか逃れられないものだ。そしてレッテル張りとは、《社会全域に散在しているはずの複数の矛盾をそっくり隠蔽》するためのものでもあり得る。

たとえば「新型うつ」という語が流行したとする。初期段階でその語の流通に抵抗するのも大事だが、いったん流行語になってしまえば、これはもう抵抗しようがない。そのとき記号の流通の阻止のための無駄な労力を払うのではなく、その流行語がなにを隠蔽しているのか、その流行によって得しているのはだれか、それを追及して暴き立てるほうが効果があるのではないだろうか。

フローベールは『紋切型辞典』の構想を年上の女友達の書簡に書き綴っている。《ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰もがもう口がきけなくなるようにしなければなりません。》ーーこんな具合に、その語彙を口にすることが恥ずかしくてできないようにさせるのがフローベール流の倒錯的戦略、紋切型辞典の基本構想だった。

なるほどあらゆる流行には、ときとして不快な軽薄さが露呈されているが、その軽薄さそのものを生活とは無縁の頽廃と見なして排除するなら、歴史に注ぐべき視線の抽象化を促進することは目に見えている。われわれは、流行という軽薄な現象を言葉の領域にとりこんだことで始めて可能となった世界に暮らしている。(……)そうした現象を前にして顔を顰めてみせることは、逆に、軽薄さが演ずべき説話論的な機能に対する敗北の表明の一形態というべきかもしれない。すでに敗北が決定的であるが故に、防禦的な排除の身振りしか演じられないのだ。流行語に対する防禦的な排除の運動は、たしかに一つの力学的な葛藤を導入しはするが、しかしその葛藤が決定的な矛盾として砕裂しないのは、流行語と、それに対する不快感の表明とが、ともに社会構造そのものの安定を潜在的に望んでいるからである。というより、特権化と相互排除の二重運動によって現象となる流行語には、社会そのものを物語として虚構化する説話論的な機能が含まれているとすべきかもしれない。流行語そのものが、鏡のように社会を反映するからではなく、それが特権的に煽りたてるかりそめの小葛藤が、社会全域に散在しているはずの複数の矛盾をそっくり隠蔽してしまうが故に、物語が勝利するのである。現代的な言説が、語ることの知からの解放に基づくものであるとするなら、それは、現代にふさわしい物語が、まさに現代そのものを見ることの無意識的な回避を契機として語られてゆくという特徴を持っているからなのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)


◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテルーージジェクの『LESS THAN NOTHING を参照している)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。

…………

※附記

◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。


◆現在の自民党のイメージ(左翼サイドからの)。

二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所化。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。





2013年8月9日金曜日

フローベールの『紋切型辞典』をめぐって

【フローベール『紋切型辞典』より抜粋】

書く 「つい筆がすべって」(クレンテ・カラモ)と言えば文章や綴りの過ちの言いわけとなる。

  底なし。無限の象徴。高尚な考えをもたらしてくれる。海辺に行くときはかならず望遠鏡を持参すべきである。
海を眺めたら、いつでも「なんという水の量だろう!」と言うべし。

音楽 そこはかとなき物思いをさそい、世の風俗を浄化す。例、ラ・マルセイエーズ。

詩人 「能無し」を人聞きよく言い換えた同義語。昼日中から夢を見ている人。

怒り 血行をよくする。したがって、ときどき怒りを覚えることは体によい。

羞恥心 女性にとってもっとも美しい装飾品。

・神経 病気の正体がわからないときは神経のせいにすること。この説明で病人はけっこう納得する。

・聖職者 女中と寝て、子どもが生まれると甥と称す。よろしく去勢すべし。「いや、なかには立派な坊さまもいますよ」

・編集・編纂 だれでもできる


…………


◆一八五二年の暮れの年上の女友達への書簡(『紋切型辞典』の構想)
ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。……そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したい。(フローベール)


…………

『紋切型辞典』とは、刊行を夢みられながらもついに刊行されなかった遺著の一冊ではなく、あらかじめ所属すべき世界を奪われたままあたりを漂っている引用文の群にすぎない。それ故、任意の項目とその定義を分析しながら、そこに作家の思想なり世界観なりを抽出しようなどと試みてはなるまい。気の利いた反語的アフォリズムでもなければ、批評的な箴言集ですらないのだから、そこに人が見いだすものは、世界そのものの容貌にも似た退屈さだけだ。

たとえば「芸術」Artsの項目を見てみるとどうか。

芸術 まったくもって無駄であるーーそれよりみごとに、また迅速にやってのける機械がこれにとってかわったのだから。

もっとも早い時期に書かれたと見なされる原稿のこの定義は鉛筆で消され、いま一つの原稿に、次のようなかたちでふたたび姿を見せている。

芸術 施療院へ通じる道。機械のほうがずっと手際よく、迅速にやってくれるのに、今さら何の役に立つ。

(……)

「芸術」の定義が蒙る動揺は、二つの側面において進行する。一方では、それを享受する層の飛躍的な増大という現象があり、また他方、増大した享受者たちの趣味に見合った芸術品の質的な低下、及び量産の可能性という事態がある。いってみれば、それまで芸術品と思われていたものに酷似した芸術まがいの生産物があたりに氾濫し、軽薄な複製のごとき類似品の群によって、本物の姿が見きわめがたくなってしまったのだ。事実、オペレッタの方がオペラより気軽に楽しめるし、文豪の手になる本格的な小説よりも新聞の連載小説の方がはるかにわかりやすいに違いない。(……)

ここで重要なのは、本物よりもそれに酷似した模造品が大量に生産され消費されてゆくという文化的な状況のもとで、その定義にとどまらずあり方そのものまでが曖昧になってゆく「芸術」を、社会全般があからさまに無視し、それについて語ることをやめたわけではなく、かえって、かつてないほどの饒舌さで、誰もがこの語彙を口にしていたという点である。初期の産業社会が可能にした複製技術と大衆化現象とを介して、「芸術」ははじめて普遍的な話題となったのである。「芸術」の定義に自足しきっていた時代ではなく、模造品の氾濫による定義の動揺が起ったときに、「芸術」は芸術の物語を持つに至ったのだといってもよい。それ故、『紋切型辞典』に読まれる「まったくもって無駄である」「今さら何の役に立つ?」といった語句から、すぐさま芸術の無益性という概念を読みとり、興隆期の市民社会に支配的だった芸術蔑視の風潮に対する編纂者の苛立ちをさぐりあてらりしてはならない。かりに編纂者の側に苛立ちがあるとするなら、それは、あまりに芸術が話題になりすぎるという現象に対してである。本来の意味での芸術とは無縁の生活をいとなんでいる連中までがこの語彙をたやすく口にし、誰に頼まれたわけでもないのにその未来の姿を語ってみせたりする説話論的な磁場の成立こそがここでの真の問題なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(「同上」)

…………


・アーティスト 「芸術家」たちの愚痴の矛先。彼らの血行をよくする。

無感覚なくせに、やたら「身体」と言ってみたり、まったく他人の言葉を聞かないで自分を認めろ、とわめきたてているだけなのに「他者の声をきく」と言ってみたり・・・・。
目的はただ一つ、自分が芸術家、アーティストと呼ばれ、称賛されることのみ。自分が羨望される存在になること。自分が承認されること。それしか頭にない。
たぶん劣等感や、不安を隠そうとして、異常なほどのナルシシズムになるのだろう。言動のすべてに、その醜悪さが迸り出る。(福山知佐子


・知識人  「知識人」批判をする人たち。SNS上では、にわか知識人の餌食。嘲弄すれば知識人(インテリ)になった気分になれる。

われわれは今日ある種の言葉を使えなくなっている。厳密にいえば、それらは死語ではなく、今でも使われているが、あるためらいや留保の感じなしに使えないだけである。その一つは知識人という語である。知識人と名乗る人はほとんどないし、いたところで誰も彼らを相手にしない。にもかかわらず、知識人を攻撃し嘲笑する言葉だけはあいかわらず続いている。むしろいまや知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきである。しかし、実は、知識人、intelligentzia intellectualtという語が使われ実際にそのような者があらわれた時点から、すでにそうであったのではないだろうか。“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」『終焉をめぐって』所収)


・芸術家  上の文の「知識人」に「芸術家」を代入して読むべし。

いまだ一九世紀に発生した「芸術家」に郷愁をもつ輩は次の如くノタマウ。
「昔は誰かがパトロンになって芸術をまもったが今は皆無。これからは自分で高めて行く戦略とマネージメントが必要ですよ」

・職人  「芸術家」を夢見る人としてバカにする傲慢な人たち、あるいは「芸術家」になるのを諦めたつつましい人たち。ときにアーティストの変種。当人は真の「芸術家」のつもりでいる。施療院へ通じないためには「職人」になるべし。

もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに“芸術家”を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。(柄谷行人「死語をめぐって」『終焉をめうぐって』所収)

まれには、旧来の「職人=芸術家」の生き残りもいる。だが、その類はマスコミやインターネットなど相手にしている暇はないから、あたかも存在しないが如し。
いかなる着想も作品ではないことを、はっきり言っておこう。そしてこの機会にすべての芸術家に忠告しておきたい、単なる可能のうちからどれが最も美しかろうなどと捜しあぐむのは時間の浪費というものである。いかなる可能も美しくはなく、ただ現実のもののみが美しいのだから。まず製作せよ、判断はそれからのことだ。これこそあらゆる芸術の第一条件である。芸術家( artiste)と職人(artisan )との言葉のつながりを見ても、このことはよくわかる。しかし想像力の本性に関する持続的な反省は、さらに確実に重要な考えに導いてくれる。それは、現実の対象をもたぬあらゆる冥想は必然的に不毛だということである。君の作品を考える、いかにも、結構! しかし、人は存在するものをしか考えることはできない。まず君の作品を作ってみることだ。(アラン 『芸術論集』(諸芸術の体系)桑原武夫訳)



・人類  もう人類の将来は長くない、と憂い顔でいうべし。人類愛に燃えた高尚な人物にみえる。

・被害者/社会的弱者 真摯に憂いて社会の不正を糾弾すべし。「人類愛」に燃える人たちの注視の対象。彼らの「正義感」を鼓舞してくれる掛け替えのない人たち。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


・匿名者  「実名」にしても「匿名」と変わるところはない「無名」の人たち。「社会的無名者は黙れ」と、かつての社会的評価の高かった「知識人」にノスタルジーを覚える人たちの餌食となる。
「いや、攻撃欲動を発散させるタチの悪い匿名者ばかりですよ」


・実名者 己れの名を流通させるのが生き甲斐のひとたち。多数の無名の視線に憧れる。そのため「匿名者」にアンビバレントな愛憎を抱く。

反デカルト、ヴァレリー主義者。ーー隠れた人生が最高の人生である」(デカルト)「自己でありたくない欲望」(ヴァレリー)。

「匿名者たちは衆愚の集団ですよ」。--ひそかに「選挙」も実名投票にして、階級別に一票の比重を変えたいと願う類の輩もいる。それがかなわぬため、選挙前には衆愚洗脳の発言を振り撒く。

・法律家・医者  若い頃、最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を指向した者の成れの果て。社会的地位が安定したらリベラル左翼を気取るなどという手合いもいる。


・学者  学生のとき、学校に長く居続けたいと願った者の成れの果て。社会に自分が責任を免除されたままで大学に居続けるための特別の在り方。(レヴィ=ストロースーー猟場の閉鎖

「内なるプロレタリアート」の学者を貶すべからず、大学を道化師の溜まり場にしないために。

文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめる。(中井久夫ーーインテリ「実名」道化師の「匿名」批判

大学からは奇人・変人はすでに一掃され、すでに芸人的道化師しかいないなどという噂もある。

大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

「いや、立派な専門家たちもいますよ」
「人文学の危機ですからねえ、生きていくためには芸人もやむえないですよ」


・自分の表現 どこかで小耳にはさんで暗記していた台詞やテクストを「優雅に」置き換え劣化させること。

しばしば古典を読まないことの言い訳になったり、過剰な「自意識」露呈への羞恥心の欠如を示す。

《彼は自分のことを語り、自分のことを繰りかえし、自分を押しつけ、強迫的な独白のように際限もないディスクールのなかに、あたかも閉じこめられているかのようである。》(ロラン・バルト)
「おかしいと思うのは」と彼(シャルリュス男爵)は言った、「そんなふうに戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいることですよ」(プルースト『見出された時』)


 「自分の言葉で表現しろ」「きみのは引用ばかりだよ」ーー、この類の表現が引用でないことに気づかない幸福な人たちに所属する言葉。


・紋切型表現  「そんなのは昔からのクリシェ(紋切型)ですよ」


…………

【附記】:

サルトルの『大戦の終末』でさえ、紋切型表現の例として餌食となってしまう。

《サルトルのもっともできの悪い文章をとりあげて、作家サルトルの文学的資質をことさら軽視しようとしてこの一節を引いたのではない》、としつつも、《終りという事態を前にした場合、サルトルさえもがこうした貧しい比喩に逃れるほかないという点が問題》(蓮實重彦)である、と。

「世界終末の年」への逆戻りという表現は、サルトルのいわんとすることの表現であるより、むしろその思考の運動を出来合いの言葉の方へと招きよせ、語りつつある主体を、それが喚起するもろもろの象徴へと、検証を欠いた安易さで同調させる機能を演じているように思う。(蓮實重彦『物語批判序説』)

◆サルトルの『大戦の終末』より

・この次の機会には、地球は破裂するかもしれぬし、この不条理な結末は一万年も前から我々人間の心にかかっていた様々な問題を、宙ぶらりんにしてしまうだろう。

・もし明日また新しい事変が起ったと告げられても、我々は、あきらめたように肩ををびやかせながら、「予定どおりさね」と言うに違いない

・大洪水前の虚無からは幾世代にもわたる祖父たちによって守られており、未来の虚無に対しては、何代にもわたる甥孫によって守られており、つねに時間の流れの中間にあって、決してその末端にはいなかったのだ。しかし、今や我々は、この「世界終末の年」へ戻ってしまったのであり、朝起きる度毎に、時代の終焉の前日にいることになるだろう。



――原発事故のあとには似たような表現が跳梁跋扈したのは誰もが想いだすことができる。

『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)






2013年6月15日土曜日

戦略的なマゾヒストたれ!


六週間たった。ロドルフはいっこう訪ねてこなかったが、ある晩とうとう姿を現わした。

共進会のあくる日(ロドルフがエンマに情熱的な「愛」を告白したあくる日:引用者)、彼はこう考えたのだった。

「そう早くは訪ねて行くまい。まずいから」

こう考えてその週末に狩猟に出かけた。狩猟がおわると、もう手おくれのような気がした。しかしロドルフは理屈をつけた。

「しかし、あの女が初手から俺にほれたのだとすると、早く会いたい一念で、ますます恋心を募らせるだろう。もっと会わずにおいてやれ!」

客間にはいって行って、エンマが顔色を変えるのを見たとき、彼は自分の目算が正しかったことを知った。(フローベール『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳)

六週間とはいかにも長い。クンデラが三週間と書いたのも、三十年前だ。《三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984

さて今では手おくれにならない限度は何日だろうか。

もちろん、これらは「愛の遊戯」を心得ている人の策略であり、ラカンの愛の定義(のひとつ)、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール Ⅷ」)―― つまり、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」のとは程遠い。

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。(ミレールーー「ラカンの愛の定義」)


ーーもっとも、ラカンにとっては「性関係はないIl n'y a pas de rapport sexuel」のだが、ここではそれをめぐっては触れることはしない。


携帯電話の普及後、ひとは待つことがますます苦痛になった。あるいはまた、《携帯電話の普及が心の襞まで書き込む男女のあやというべきものを奪い取ってしまった》(古井由吉『人生の色気』)エンマがロドルフの思惑を思いやる余地は、携帯電話をかけて、声を聴くことにより、消え去る。こうして人は思い悩むことから、考えることから、遠ざかってゆく。「愚かさの進歩」(フローベール=クンデラ「エルサレム講演」)はこんなところにもある。


待つことを忘れた現代人は、騙されることに憤ることがより烈しい。だが、《騙されないで人を愛そう、愛されようなんて思うのは、 ずいぶん虫のいい話だ。》(川端康成『女学生』)


しかし、どうしても待たなければならない状況は、現在でもある。そこに「転移=愛」が生まれる(ただし、その人物の資質が「神経症」的であったら、としておこう。)

転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

待つことを楽しむことができるのは倒錯者の資質だ。

「倒錯」とは,本来,徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである.欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく,その中間に何ものかを, ――「 フエテイツシユ」を,「言葉」を,「演戯」を,「物語」を介在させ,欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが,「倒錯」なのである.これは必ずしも性の営みにかぎった話ではなく,「倒錯」は,たとえば記号の意味作用をめぐる磁場においても生きられうるものだ.「倒錯」的な記号,それはその「意味」がただちに消費されてしまうことを拒む記号 ――透明なものであるべき表象作用を混濁させ,そのなめらかな進行をみずから妨害して,それに向けられたまなざしを攪乱し,読もうとする欲望が成就する瞬間をどこまでも遅らせつづけようとする記号のことだ.(松浦寿輝「電子的レアリスム」『官能の哲学』所収)

松浦寿輝のこの文は、《「電子的レアリスム」は,当然,こうした「倒錯」とは真っ向から背馳する概念である.「媒介」的な中間項の縮減を――究極的にはその無化を志向する「電子的レアリスム」は,欲望の宙吊り状態を楽しもうとする余裕を持ってはいない.そうした無意味な迂回を,むしろ軽蔑し疎んじていると言ってもよい.》としており、この示唆溢れる論文がインターネット上に落ちているのは貴重だ。

携帯電話も、この《「媒介」的な中間項の縮減――究極的にはその無化を志向する》ツールのひとつだろう。

戦略的な倒錯者、マゾヒストたれ!、というのはこれらの文化に対抗するための至上命令である。
期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態において生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それのみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれている対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能にする条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してかかるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)


ところで、ラカン派からみれば、ドゥルーズの「欲望機械」とは「欲動」のである。《The starting point for a Lacanian reading of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and Guattari talk about “desiring machines”(machines désirantes), we should replace this term with drive.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

そして、欲望が、「飛んで火に入る夏の虫」であるなら、欲動は、灯火にむれる蛾の,灯りを目ざしてはそれてゆく,その反復運動である。《One should bear in mind here Lacan's well-known distinction between the aim and the goal of drive: while the goal is the object around which drive circulates, its (true) aim is the endless continuation of this circulation as such.》(The Liberal Utopia ........ section I: Against the Politics of Jouissance.........Slavoj Zizek

欲望ではなく、この欲動の反復運動を楽しむことができないか。

人間において偉大なものとは、彼が一つの橋であって、最終的目的地ではないということだ。人間において愛しうる点とは、彼が過渡であり、破滅であるということだ》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)



――《おまえは待てるか。いつでもとはいわないが、私はいつの間にか待つのが好きになった。「実現してしまえばそれだけのことである」とさえ思うようになった。》(中井久夫)

そして、いまだ、いつでもどこでも耳にする「日本の待てない母」のヒステリックな(神経症的な)金切り声。


ロンドンを発つ朝、ヒースロー空港は霧であった。

(……)「空港閉鎖、無期限」という標示が出た。しかし信じれらないほどに空港の群集は静かであった。怒号はもちろん、どよめきする起こらない。係員に詰問する人すらいない。

ぱたぱたぱたという音がして食堂が開いた。「無料で何をとってもよい。どこへ持っていって食べてもよい」とスピーカーが鳴る。人々はゆっくりとカウンターに歩み寄っては盆に思い思いの皿を載せて外に散ってゆく。皆慣れたものである。

「そうか!」と私は思い当たった。腹がすいた群集は荒れがちだ。食堂にぎっしり詰めるといっそう良くないだろう。食事代など知れたものだ。食器もほぼ回収できよう。

連中は待つのもうまいが、待たせるのもうまいな、と私は独りで感心していた。(……)

突然遠くで「ひぃーっ」という子どもの悲鳴。わが同胞でないようにと祈る。だが、おっかぶせるように「何とかちゃん、さっさと歩かないと置いてゆきますよ」と金切り声。まちがいなく、いつでもどこでも耳にする「日本の待てない母」の声である。(……)

待つ能力、逆境への耐性、機会を捉える能力、これらなくしてもそもそも船、特に帆船は操縦できない。英国が海洋国でありうるための不可欠な美質である。提督・東郷平八郎が日露戦争において示し、太平洋戦争で多くの提督たちが示しえなかったものである。(……)

医師も人を待たせる。待たせるからには、待たせる作法があろう。せめて待合室に時折顔を出すなどの工夫が必要だろう。待合室には特に緊急を要する患者がきっといるはずだ。(……)

英国人はのんびりしているという人がいれば大まちがいである。ペイシェンスを発明する国、釣りの好きな国民がどうして悠長でありえよう。これらはほとんどマゾヒスト的に焦りをいじめ殺すものである。(……)

おまえは待てるか。いつでもとはいわないが、私はいつの間にか待つのが好きになった。「実現してしまえばそれだけのことである」とさえ思うようになった。駅や港や空港は私の好きな場所であり、そこの人たちはたっぷり私を楽しませてくれる。このエッセイも、その産物でなくもなかろう。(中井久夫「待つ文化、待たせる文化」『記憶の肖像』所収)

…………

小説を読む、とはおそらく、マゾヒスト的「宙吊り」に耐える振舞いである。それは、《相対的で両義的な言語》で出来上がっており、無媒介性の時代の精神には「不確実性の知恵」を体現する小説には耐えられない。

善悪の判断をすぐさま求める精神、理解する前に判断したいという欲望を抑えることのできない精神、<あれかこれか>を早急に判断したい精神には、小説は無縁のものなのだ。

かつて神は高い地位から宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、ものにはそれぞれひとつの意味を与えていましたが、この地位からいまや神は徐々に立ち去ってゆこうとしていました。ドン・キホーテが自分の家を後にしたのはこのときでしたが、彼にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわしました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像〔イマージュ〕でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした。

デカルト“ 考えるわれ ”を一切のものの根拠と理解し、かくて宇宙にただひとりで対決することは、ヘーゲルが英雄的と正しく判断した態度です。

しかし、セルバンテスとともに世界を両義性と理解し、絶対的なひとつの真理のかわりに、たがいに相矛盾する多くの相対的な真理(人物と呼ばれている “想像上のわれ” に具現化された真理)に対決しなければならず、したがって、唯一の確実性として “不確実性の知恵”を所有すること、この態度も前の態度におとらず偉大な精神力を必要とするものです。

セルバンテスの偉大な小説の意味は何でしょうか。この問題についてはたくさんの文献があります。たとえばこの小説には、ドン・キホーテの曖昧な理想主義に対する合理主義的な批判があると主張するものもあれば、一方にはまた同じ理想主義の賛美があるとするものもあります。しかし、これらの解釈はいずれも間違っています。といいますのも、これらの解釈が小説の根底に見届けようとしているものは、ひとつの問いかけではなく、ひとつの倫理的な先入観であるからです。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)

…………

ラカンのcourtly love(宮廷風恋愛、騎士道的愛)の定義、《性的関係への道に障害を置いているのは我々なのだという装いをすることによって、その性的関係がないことを埋め合わせる非常に洗練された様式》(ラカン セミネール『アンコール』)

This is why Deleuze insists that desire has no object (whose lack would trigger and sustain its movement): desire itself is “a purely virtual ‘movement’ that has always reached its destination, whose moving is its owndestination.” This is also the thrust of Deleuze’s reading of masochism and courtly love—in both cases what is at stake is not the logic of sacrifice, but rather how to sustain desire.

According to the standard reading of masochism, the masochist, like everyone else, is also looking for pleasure; his problem is that, because of his internalized superego, he has to access pleasure with pain, to pacify the oppressive agency which finds pleasure intolerable.

For Deleuze, on the contrary, the masochist chooses pain in order to dissolve the pseudo‐link of desire with pleasure as its extrinsic measure. Pleasure is in no way something that can only be reached via the detour of pain, but that which has to be delayed to the maximum since it is something which interrupts the continuous process of the positive desire. There is an immanent joy of desire, as if desire fills itself with itself and its contemplations, and which does not imply any lack, any impossibility.

And the same goes for courtly love: its eternal postponement of fulfillment does not obey a law of lack or an ideal of transcendence: here also, it signals a desire which lacks nothing, since it finds its fulfillment in itself, in its own immanence; every pleasure is, on the contrary, already a re territorialization of the free flux of desire.(Zizek“LESS THAN NOTHING”)


《宮廷恋愛の〈貴婦人〉の逆説は、「公の欲望」は〈貴婦人〉と寝ることであるのに、実のところ〈貴婦人〉がこの望みを寛大に受け入れることをわれわれは最も怖れている。〈貴婦人〉に対して本当に期待し望んでいることは、また新たな試練を、さらなる延期を与えてくれることなのだ。》(ジジェク『快楽の転移』)


宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。

こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。

つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)

したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。

ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。

これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)

2013年5月4日土曜日

決まり文句(谷川俊太郎)


「たとえば<愛>という言葉の中身が、年齢とともに経験を重ねて、私の場合若い頃に比べて深まっていると感じています。同じようなことが震災という言語化し難い大きく深い経験によって、多くの人にたとえば<絆>という言葉に起こったのではないかと考えられます。しかしメディア上で多用されるにつれて、この言葉の中身は急速に軽く薄くなってゆき、個人の心の中ではかけがえのない大切な言葉だったものが、ただの決まり文句に堕していったのも事実でしょう」(震災後、「言葉」は変わったのか 谷川俊太郎さんから返信


  


一億総懺悔の現代版

責任の所在を隠すときに使われる

ときに「寄り添う」と言い換えられる


学校教育の場でもいじめ事件の折などに使われる

「クラス全員が反省しています」

みんなに責任があると言いながら誰も謝罪しないこと




「震災が原因で書けなくなったこと、書きたくなったこと、書かねばならないと思ったことはありません。<言葉を失った>という言葉が新聞、テレビなどのメディア上でしばしば見られましたが、本当に言葉を失ったのなら沈黙するかもっと寡黙になるはずなのに、目についたのはむしろ過剰なまでの饒舌だったと私は感じています。

 私自身は震災後、善かれ悪しかれ平常心を保っていられたので、普段の生活では饒舌にも寡黙にもなりませんでしたが、私的な日常の言葉と公的な詩の言葉とでは、少々発語の次元が異なるので、詩に関しては寡黙に傾きました」(同 谷川俊太郎)


言葉を失う


絶句ともいう

減らず口の常套句

何にでも口を出すのを義務とこころえる

インテリ連に多用される

一歩下がって身を引くことには縁がない


追悼式の日に

「自分は追悼を拒否する」

「今さら感慨めいたことはいいたくない」

「突然ひとが311を語りだしたのを怪訝におもう」

などとノタマウことになり

口を塞ぐことができない


 《禁欲主義{stoicisme}=そんなものは実行できない、と言うべし。》(フローベール『紋切型辞典』)


…………

以下、附記


「人々がどんな言葉を求めているかは、私には分かりません。ただ、社会に大きな出来事が起こったとき、その衝撃から逃れようとして、人々には短く要約された言葉、スローガン的な言葉を求める傾向があると思います。感性に訴える詩が、理性に訴える散文よりも震災後の人々に力を持ったとすれば、詩の言葉がその曖昧さ、多義性によって、理性が及ばない意識下の混沌に届いたからではないでしょうか。情報、解釈、意見の洪水からのつかの間のカタルシスを、詩というジャンルが担ったのではないかと思います」(同 谷川俊太郎)


《アウシュヴィッツ以降、不可能なのは詩ではなく、散文である。収容所の耐え難い雰囲気を詩的に喚起することは功を奏する。(……)言葉がついえる時音楽が現れるという警句に耳を傾けるべきである。》(ジジェク『暴力ー6つの斜めからの省察』)





2013年5月3日金曜日

ありきたりな言葉


昨日(5/2)、丹生谷貴志氏がツイッターで次のように書いているね


しかし「〜の語りの魔術師」式の解説の言い方は何とかならないでしょうかね。大体こんなふうに形容される書き手は空疎な紋切り型文章のくせに変に「文学風」だったり空疎なレトリックが多いだけの駄文を書く場合が多い・・・という論評も紋切り型ですがね。

例えばフローベールの手紙を読むと、彼が完全に”言葉を見失った者”であることが分かるはずだ。

それに対しいわゆる「エンタ系」の小説家は使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない。要は、「違う」ところで文が書かれるという確認だけはしておくだけのこと。




まあここに書かれているように、いわゆる「エンタ系」の書き物、あるいはそれだけではなく人文系の論文などでさえ、「空疎な紋切型」の表現ばかりの文章だと感じてしまうことがままある。

逆に「言葉を見失った者」の文章に親しむ習慣をもっていない人なら、それらの空疎なレトリックの多用された文を名文とし、「言葉を見失った者」の文章を悪文などとする具合にもなる(たとえば大江健三郎や中上健次の文章は読みにくいには違いない)。

マニュアルのような文章ばかり読んでいれば、あれらが悪文と評されるのも致し方ない。

そしてそれはもうとり返しがつかないところまでいっているのだろう、と嘆息するなどということにもなる。

書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。―――「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009、2,6」

…………

紋切型とは、蓮實重彦曰くは,《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(『凡庸な芸術家の肖像』)ということであり、安堵と納得の風土とは、「共感の共同体」の風土、気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいの場、要は馴れ合いの場である。

同じ共同体のなかで共有しあったカテゴリー的認識の居心地のよい磁場に支えられ、そこでの文例、紋切型表現を「プロフェッショナル」として無分別に使用する(もちろん非専門家は、知ったかぶりを気取るために、いっそう多用する)。そこで繁殖するものが「「凡庸さ」=「先入観の無思想」にほかならない。

プロフェッショナルは、《ある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている》。ーー学者村、原子力村、あるいは「クラスタ」などと称されるものをみよ


もちろん、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

丹生谷氏が、「……使用すべき文例のデータベース的ストックを持ち、それを疑うことなく使用できる「プロ」であって・・・そして僕はそれを低く位置づけるつもりはさしあたりない」とするのは、このあたりの消息を伝えている。


ここで、《カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさ》と書く松浦寿輝の文を引き出そう。


たとえばブルターニュ地方への旅を回顧し、世界と素肌で触れ合い自然と一体化した悦びを語りながら、そのとき自分は海になり、空になり、岩になり、岩に滲み入る水になってしまったと述べる小説家フローベールは、カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさを文章行為の現場においても全面化させることで、あの尋常ならざるエクリチュールを実現しえたわけだ。『サランボー』や『ブーヴァールとペキュシェ』の作者は、言葉を主体的に操作し成型すること──すなわちあたかも粘土を捏ねて自分の好きな形を作るように言葉を捏ね上げるといった「能動的」な作業など、うまくやりおおせた試しがない。彼はむしろあたりに瀰漫し自分めがけて蝟集する言葉の群れに全身の皮膚をさらし、それにひたすら犯されつづける途を選んだのであり、作家としての彼の生涯は、言葉のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけることに捧げられたと言ってよい。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象



たとえば、巷間に蔓延る「自分の意見」とか「自分の考え」とかを主張する言葉、それらが「政治」をめぐるものであれ、「文芸」やら「思想」をめぐるものであれ、あれらのほとんどは、どこかの文を読んでの無自覚な「要約」に過ぎないのではないか、あるいは昔からひそかにくり返し暗記していた台詞がふと口から洩れてしまっただけではないかというような印象を与えたりもする。(……つまりこのオレの文のように、としておこう、そうしとかないと、あとで突っ込まれるからな。まあしかし「無自覚な要約」などというハシタナイ真似はしていない筈で、ポール・ド・マンがいったらしい、古典主義的な意識的ななぞり書きであって、ロマン主義的な無自覚ななぞり書きではないぜ)

丹生谷氏がぽろっと自らのツイートに、「……という論評も紋切り型ですね」とするのも、そのことに自覚的なためだろう。ーーしかし、まあなんというのか、あの思想系だか文学系だかわからない連中の生意気なツイートのなんという紋切型表現の猖獗よ!、そしてその厚顔無恥な無自覚さよ!(例外はあるぜ、もちろん、ーーそれにいわゆる「政法経」やら「理系」の大半は致し方ない、「言葉を見失った者」たちの文章なぞ毛ほども読んじゃいないだろうから)、あいつらやっぱり抜けてる(間抜け)としか思えないがね。(失礼!)


あれらの「自分の考え」の大半は、《しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。》(蓮實重彦『物語批判序説』)

現代版『紋切型辞典』の項目を作りたくなるぐらいだぜ

《「あらゆる主題について、 ……礼節をわきまえた慇懃無礼な人間たりうるために人前で口にすべきすべてのことがらが列挙されるはず」と構想されたフローベールの『紋切型辞典』……「多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示す」のが目論見。「文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある。」》

…………

 かなりレヴェルを落として書いてみよう(つまりオレのレヴェルだ)。


・バッハのBWV12の二番目の合唱は、不協和音の美の極致のようなで最高です!

・カフカの『城』で、フリーダが宿の食堂の電燈のスイッチを切り、カウンター台の下でKと絡まる部分は奇跡的な官能を与えてくれます!

・クララ・ハスキルのシューマンの心に絡みついてくる親密な音色とスタイルは稀にみる詩情に溢れています!

――などと「最高」とか「奇跡的」とか「詩情あふれる」などと語られるのをきいたとき、ーーいやオレがよくやったんだがーーおい、やめてくれよ、そんなありきたりな表現は!、と先ずはそういう目というのか耳を持つ必要があるのだろうよ(オレのレヴェルなら、”ときには”、でいいよな)。


「言葉を見失った者」に属する、いや属さないまでも、彼らの文章に震撼したものたちは、こんなありきたりな表現を避けようとするに違いない、もっとも、日常会話でつい気を許して、やむなく、あるいは相手のレヴェルにあわせて、という場合はあるのだろうし、たとえばフィクションとしての使うってことはあるが。

たとえば蓮實重彦曰くは、

僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。

その意味で、柄谷さんの文章はそれを全部廃している。つまり、共同体に対してはぶっきらぼうなんです。ところが僕の文章は非常に形容詞が多い。これはほとんど同じことをやっているんだけれども、方向ば別で、フィクションとしての形容詞を使っているわけですね。“美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎない(『闘争のエチカ』)

蓮實重彦が「美しい」をどのように使ったか、ひとつだけ例をあげよう

「知」のあらゆる領域で、あの波がしら、あの蒸気船、あの湿った綱、あの白い壁、あの髪、あの日傘、あの扉、あの噴水、あの手袋といったものを、構図を超えて饗応させねばならない。あの声、あの身振り、あの空、あの水、あの炎、あの老眼鏡、あのペン先。そしてあの長方型、あの円運動、あの直線を共鳴させねばならない。とりわけあの美しい畸型の怪物たち、あの過激なる現在を荒唐無稽に嫉妬しなければならない。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

しかし、ここに書かれている語句でさえ、いまでは紋切型として使い難いのではないか、「美しい畸型の怪物たち」、「過激なる現在」、「荒唐無稽に嫉妬」など、つまりは蓮實重彦の弟子筋に多用されてきたせいで。


この言葉の紋切性については、金井美恵子が吉岡実を語るなかで、つぎのように語っている。かなり長いが、ああ、そうか、と感心した箇所なので引用してみよう(前半は読み飛ばしてもよいだろうが、わたくしのメモとして引用する)。

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

 なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)

吉岡実はその詩作において、一度成功してしまった表現やスタイルは、その後二度と使わなかったそうだ。これも《あらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性》を避けるためということだろう。どんなすぐれた表現でも繰り返されれば、紋切型に陥りざるをえない。

ここで遠く遡って、アンドレ・ブルトンの初期の詩論のタイトル『皺のない言葉』、--つまり手垢にまみれていない言葉を追い求めた態度を思い出してもよい。(いや「皺のない」は、どういうわけか、いまだそれなりの鮮度があるがーーオレのようなブルトン共同体外の人間にとってはだぜーー、「手垢にまみれていない」という形容句は、とっくの昔に「手垢にまみれた」表現だよな)

詩人や文学者、あるいは大きく「芸術家」たちが、《創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難》(中井久夫)だろう。最初の成功をおさめた後、古典芸能の俳優のように芸の質を落とさないように精進しているだけの作家たちが殆んどのなかで、いやむしろ、成功作の萌芽的豊穣さを犠牲にして、光りを当てられた部分だけを反復している作家たちが多いなかで、吉岡実の「自己模倣」拒否の姿勢は特筆されてもよい。『僧侶』の成功から『サフラン摘み』の成功までの、過渡期十数年、『紡錘形』、『静かな家』、『神秘的な時代の詩』の三つの詩集はあるにしても、『僧侶』のスタイルを真似ることなく、まさに「神秘的な時代」を潜ったわけだ。


「沈黙」…。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」
…………


さてかなり寄り道したが、われわれ凡人は、「〜の語りの魔術師」などという表現を、ひそかに暗記して、しかも自分の台詞として「得意面」で繰り返し使用してしまう。

まあそれでも「最高だ」とか「奇跡のよう」、「詩情あふれる」よりはマシだがね、そんなもの要するにカワイイの類じゃないのかい? 《早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したいわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう》(蓮實重彦)


古井由吉は『東京物語考』でつぎのように書いている。

徳田秋声の『足迹』。葬式の、納棺の場面がある。そろそろ葬儀屋が棺をしめる折。《「さあ皆さん打っ着けてしまいますよ。」葬儀屋の若いものと世話役の安公とが、大声に触れ立てると、衆〔みんな〕はぞろぞろと棺の側へ寄って行った。》女たちがもめる、死者が生前に好んだ人形、色々の着物を縫って着せるのが楽しみだったそれを棺に入れるかどうか。《「入れないそうです。」と、誰やらが大分経ってから声かけた。衆〔みんな〕が笑い出した。》

ーーそして、《衆〔みんな〕が笑い出した。》と、変に印象に残る一行であった、と文芸時評家の流儀に従えば、それで済みもすることなのだが、としつつ、その変な印象の由来を念入りに書き綴ることになる。

《変に印象に残る一行》、これも「最高」だとか「奇跡」とか「詩情」の類の仲間だが、まだマシというべきなのか、文芸時評家さんたちよ

しかし文芸時評などというものは、あの繊細さを誇るはずの詩人・小説家の松浦寿輝でさえ、字数制限のせいなのか、「クレオール的な混淆文体の超絶技巧、小説の自由への獰猛なマニフェスト。」 松浦寿輝 書評『晰子の君の諸問題』(朝日新聞/425日/文芸時評より)などと書いてしまうわけで、止む得ないというべきなのか。

それとも「〜の語りの魔術師」とか「変に印象に残る一行」とかほどには、紋切型への傾斜による劣化を受けていないというべきなのか……いや、「超絶技巧」「獰猛なマニフェスト」ってのは、「〜の語りの魔術師」式と同様で、「エンタ系」の書き手以外は、もはや《フィクションとして》としてしか使い難いのではないか。(わかってるよ、そんなこと言ってたら、何も書けなくなるのは)。


でも、「すぐれた」書評家たちでも、”やむなく”かどうかは知らねど、こういうことをするのだから、ツイッターで140字範囲で、どこかの馬の骨が書けば、そのほとんどはこういった表現で溢れかえる(まあ、だから何度も連発するなよな、ってことだよ、口癖のようにして。連投しなかったら目を瞑るぜ)。

それは致し方ないにしても、ときにはそれを恥じる資質があるかが、繊細さの感覚の有無というものだろう。連発して「最高」とか「詩情」「奇跡」などとノタマウ手合いはまったく恥じていないことは明らかで(しかもそんな輩が文学好きなどと自称しているなどということがあれば尚更)、お前さんは「才能がない」と一言いうしかないね。--金井美恵子あたりだったら、なんというかね、島田 雅彦とか高橋源一郎あたりまで糞味噌だぜ、彼女にかかったらーーまさかその文学好きは金井美恵子ファンではあるまいよ(まあつまりこれもオレのことだ)


このあたりを古井由吉は、最近も、《感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる》としているが、これが《変に印象に残る一行》や《〜の語りの魔術師》の「ありきたりさ」というものだ。


今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)
ーーというわけで、紋切型やらありきたりの表現もやむえないよ、そんなものいつも気にしてたら何も書けなくなる、ただし「思考の上でのポイントに入るところで」だけは、それらの表現をさけて、「真面目に」やろうぜ。



ヴィトゲンシュタインに言わせればこういうことになる。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。 ──ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」

ーーということで、この文も「あら削りで不正確な表現」に満ち溢れているだろう、今一度読み返してみて、それに気づかないオレは「才能がない」、ミナサンと等しく(「まあ」ってのが多いよな、それくらい気づいたよ、これでも今だいぶ削ったんだがな、それと丸括弧多用だよな、この丸括弧内の文はだいたい一度書いたあと、追記しているんだがね)。


※追記:あいつらを「間抜け」というのはやや繊細さに欠けたな、ナボコフのいう如く「真の俗物」としておこう。


俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。─ナボコフ『ロシア文学講義』




2013年5月2日木曜日

「女たち」の躍動と疾走


だが決定的な瞬間が。ここでぼくがきみたちに語りたいのはこれについてだ。瞬間のなかの瞬間、ぼくにとってそれは、昼食後、庭の、温室のそばでのことだった…レモンとオレンジの木のそばの、二本の大きな棕櫚のうちの一本の下で…あれらの南仏の庭の美しさは想像できないだろうな…藤、木蓮、月桂樹、アカシア、土地のおびただしい花がいっせいに咲き乱れる…







ぼくの叔母のひとり、エディットはひとりだけ長くそこに居残っていた…奇妙な目つきをした、褐色の髪の大柄の女性だった、当時彼女は三十六歳、ぼくは十四…母の末の妹…ずっと前からぼくに対して攻撃的で、皮肉で、辛辣だった…で、その夏は、彼女は退屈していたらしく、本ばかり読んでいた…彼女は日なたで長椅子に座ってぐずぐずしていた、他の者たちは部屋に昼寝に行ったか、急いで町に買い物か映画に出かけたというのに…二人っきりだった。






ぼくは彼女の目のなかの新たな注意に気づいていた、にらみつけるような目のひかりに…ぼくは寝に上がるふりをして、壇〔まゆみ〕の木越しに彼女を観察しに戻っていた…白い綿のワンピース、足を立てて、広げて…小麦色の肌、それは、母の肌のようにとても柔らかく、いい香りがして、絹のようだろうなと思った…彼女の白いパンティー…彼女がぼくを見ていたのは確かだ、そしてある日、黒い染みが…そんな、まさか、あり得ない…パンティーがない…腿をだんだん開いて…それから手はゆっくりと、巧みに、頭を後ろにのけぞらせて、まるでうとうとしていたみたいに…まぶたは時おり見開かれ…眼差しの網、黒い光線…ぼくはとうとう全部脱いでしまった、そこの、暗い緑の垣根の陰で。





ぼくは緑の仕切り窓に近づいた、そこなら彼女はぼくを完全に好きなようにできた…二十メートル…彼女はちょっと手を止めた…ぼくは自分のものをいじり始めた、ゆっくりと、それからしだいに早く…彼女はもう身じろぎしなかった…死んだみたいに…それから彼女の手は再び下がり、わずかに震え、そして一緒にやった、なかば目を閉じて、七月のうんざりするような陽ざしの下で…ぼくはイッた、そのとき彼女はほんとうに後ろにのけぞって倒れた、わずかにくずおれ、自分の肩に首をかしげる前に…さんさんと照りつける陽を浴びて、ぼくの精液が葉っぱのうえに飛び散るのがいまも目に浮かぶ、とても美しかった、ぼくは梢の下をくぐって、家に戻った…彼女は再び小説を読み始めた…また翌日から、ほとんど毎日のようにやった、いつも何も言わず、自分以外の者がそこにいることに気づいているそぶりも見せずに…夜、夕食のときは、互いに知らん顔だった…魔法だった…それ以来、ぼくが女たちからどんな目にあったかは神のみぞ知ることだ、ぼくを前にして、そしてぼくに向かって、結局はぼくを通して、自分自身に向かって自慰をやる女たちから…

        ーーーソレルス『女たち』鈴木創士訳 P28~






ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る…(同p230)


…………


ということで、引用だけにしようか、と思ったが、いいねえ、ソルレスのこの文体のリズム感、躍動感、疾走感、ーーその翻訳。





ーーまあ鈴木創士氏の翻訳は、手許にはこのソルレスしかないんだけど、二十年ほど前(1993)読んだとき、とても新鮮だったね、--《…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…》と「…」の中断符としての三点記号を多用するスタイル。

ところで、セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などと言われるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。

晩年の、「亡命三部作」のセリーヌ、その省略と絶えざる中断によるテンポとトーン。
そうさ、と私はひとりごつ、もうじきなにもかもけりがつく…ふう!…もう嫌ほど見た…人間六十五にもなりゃどんなひどいH〔水素〕爆弾だって驚くもんじゃない!…Z爆弾だろうと…そよ風さ! 花火さ! ただそれ大事な一生の時間と何万トンもの労苦をただただあのアル中のおかまの下種の忌わしい呪われた陋劣漢の一味のためにふいにしちまったことを思うと、身が顫えるほど口惜しい……惨めってもんですよ、マダム!《その恨みつらみを売るんですね、四の五の言わずに!》…ふむ、良いともさ…望むところだ、でも誰に売る?……お客は私にそっぽを向く、らしい…(同『北』冒頭)

ーー勿論ソレルスの文体はこの系譜だ。

ここで鈴木創士氏のランボーに関するツイートを引いておこう。

《ランボーがビートニクスだったことを知らないの? ランボーの訳で一番重要なことは、だから思考のリズムと同時に言葉のリズムが作り出すある種のトーンなのさ。ランボーはとにかく速いんだよ。「詩情」とやらがべったり張り付いたかったるい日本語訳はランボーの書いたものとはまったく違うってこと!》

《さらについでに言っておくと俺のランボーの訳(河出文庫)には「何の詩情もない」とわざわざ仰る人がいるが、言っとくがランボーは文章を徹底的にきりつめることによって「君たちの詩情」など全部殺してしまったのだ。ランボーの原文を見りゃわかる(日経新聞20111112日参照)。残念でした》

少なくともツイッターやブログぐらい、すこしは礼節を取り払って自由に書けないもんかね、おい、そこのおまえさんたちよ

自由っていっても、いわゆる「怨恨の時代」の手合いの、攻撃欲動の自由じゃなくて、ある種の「計算」と「推敲」、ニュアンスが必要で、「精神の」自由ってやつだぜ

そうしたら皮肉ではなくユーモアが滲みでる


フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』)

ここでのユーモアは、「親」のように「メタレベルから見下ろすこと」と書かれているが、ドゥルーズの『マゾッホとサド』にもその議論があってこう書かれる、


サディズムの場合、母親を恰好の犠牲者とする高次の原理たる法の上に位置するのは父親である。マゾヒスムにあっては、法はそっくり母親へと回帰する。そして母親は象徴的空間から父親を排除してしまうのだ。

そして、サディズムがイロニー、マゾヒズムがユーモアとされていることから、この叙述だけから判断すれば、メタレベルから見下ろすのが「父」の場合イロニー、「母」の場合ユーモアということになるのだろうが、他にも、《法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から諸々の帰結へと下降する運動をわれわれはユーモアと呼ぶ》としており、だとすれば「メタレベル」とは言い難い。


いずれにせよ、ドゥルーズはフロイトのユーモアに反して書いている。



われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(『マゾッホとサド』P154)

ーーここに書かれている否認の技術、つまり倒錯者の技術がどうやら肝要で、ドゥルーズのこの書の最後で、《サディズムにおける母親の否定と膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄》と書かれることになる。

ここで『マゾッホとサド』の訳者蓮實重彦の解説からこの「否定」と「否認」をめぐる箇所を抜き出しておこう。


ドゥルーズは、精神分析の領域が抽象的な変質をこうむっていた「父親」と「母親」のイメージを修正しつつ、法学的ディスクールをかりて、マゾッホの契約的思考とユーモア、サディスムの制度的思考とイロニーというかたりで、「否定」と「否認」の展開ぶりを明らかにする。それは、とりもなおさず、異質な衝動や本能のあいだに転位は起こりえないと説くフロイトが、なおサディスムを起点としてマゾヒスムの生成を説き続けたことの矛盾を明らかにする役割を果たしている。だが、そのフロイト的自己撞着の指摘によってドゥルーズは精神分析の風土と訣別するのではなく、かえってその領域に深くとどまり、まさに精神のフロイト的基本構造としての「自我」と「超自我」の関係にマゾヒスムとサディスムが対応しているが故に、二つの倒錯症状がたがいに還元性を持ちえない独自の世界であることが立証されるのだ。



柄谷行人は後年までこの議論に拘っており、最近もつぎのように書いている。


ユーモアにおける超自我は、自発的・能動的に働くのであるが、意識的なものではない。もし意識的なものであれば、それはユーモアではなく、イロニーや負け惜しみになってしまうだろう。(柄谷行人『超自我と文化=文明化の問題』) 



このあたりの議論はいまだ<わたくし>には判然としないが、ここではとりあえず、ボードレールの簡潔な言葉、《ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと》とだけしておこう、そして、セリーヌやソルレス、あるいは訳者の鈴木創士の力のひとつとはそういうものだ。


たとえば、上のツイートのような、《……わざわざ仰る人がいるが、言っとくが》っていう気味合いを出すにはかなりの修業がいるよな





《おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい/人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで/いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり/……/今おまえは応えてばかりいる/取り囲む人々への善意に満ちて/少しばかり傲慢に笑いながら》(谷川俊太郎)

やめとけよ、かみしも脱いじゃえよ

なんだって? 無理かい?

そうだろうよ


ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように…彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている……実際どこでも同じことだ…犬小屋の犬…自分の家でふんづかまって…ベッドで監視され…(『女たち』P98)





まあオレはなんどかツイッター上で上品ぶった手合いを「すっぽりはだかにした」ことがあるがね

そうしたら今度はまったく距離感がなくなっちまうんだよな

まいったね

修業が足りないんだろうな

ユーモアじゃなくてイロニー(皮肉)にとられるんだよ

くわばらくわばら

…………


次の文はソレルスが引用するフローベールの『ボヴァリー夫人』。


彼女はまた、次のような類の文章を読むとまたしてもぞくぞくする。「彼女はコルセットの細い紐をもぎ取って、荒々しく服を脱いだ、それはスルスルと滑り抜ける蛇のように腰の回りで音を立てるのだった。彼女は素足のまま爪先だって、ドアが閉まっているかどうかをもう一度見に行くと、一気に服をすっかり脱ぎ捨てた、 ――そして、蒼ざめ、なにも言わず、真剣に、いつまでもわななきながら、彼の胸に倒れかかるのであった」。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



「細い紐をもぎ取って」、「スルスルと滑り抜ける蛇のように」、「素足のまま爪先だって」……、こんな官能的な箇所があったか。





エンマは荒々しく着物を脱ぎ、コルセットの細紐を引き抜いた。紐は這ってゆく蛇のうなりのように、腰のまわりにうなりをあげた。エンマは、戸がしまっているか素足のままの爪先でもう一度見に行った。それから、まとっているものをみんな一度にかなぐり捨てた。――そして彼女は青ざめて、物もいわず、真剣に、わなわなとふるえながら、男の胸にとびかかった。(フローベール『ボヴァリー夫人』(下) 伊吹武彦訳 岩波文庫 p174


ここでの鈴木氏の翻訳の自在さ加減は、タブッキ須賀敦子訳の「すっぽりはだかになって」を思い出させるね

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキ『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』須賀敦子訳)

ソレルス『女たち』に戻ろう。


エンマは、もういまはこんな風に書かないと思う …だからフランス語が世界中で後退しつつあるとしても驚くにはあたらないのだ、と。どんな現代作家といえどもこんな喚起力をもっていない、と。一人でもいいからぼくに名前を言ってもらいたい! もちろん、いくつかの要素は古びてしまった(彼女のこの条りを読み返すたびに、しばらくのあいだコルセットを身につけたくなるのだが)、でもスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力がある …いや、この文体の巧みな中断のなかに人はすべてを感じ取るのだ …「何かしら極端で、漠然として、沈痛なもの」 …そしてとりわけ、「彼女が彼の情婦であるというより、むしろ彼が彼女の情婦になっていた …彼女は、深淵で、隠されているためにほとんど実体の無いこの堕落を、はたしてどこで習い覚えたのであろうか?」


実際、彼女のように仰々しいいでたちの女は現代的な解放すべてに属しており、エンマはエンマのままなのだ …奇妙なことに唯一文学だけが書き留めているこの荒々しい発見を前にすれば、あるのは同じ反芻、同じ痛み、同じ激昂、同じ失望である。この世界における、その名に値する男たちの不在 …男などいない! ただの一人も! 全員がでくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろなのだ …果てしなく、再び、彼女のすべての連続的再生において、エンマはこの単調な同じ絶望的結論に達する …彼らはいかなる堅固さを有していない …その空しさと同様、彼らの獣性がそこで暴かれる時間をのぞいては …その時の彼らの眼差しにはそっとさせられる …彼らは根本からほんとうに腐っている …結局は全員が贋のエンマなのだ …ぺてん師たち…  (ソレルス『女たち』p116鈴木創士訳)