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2013年5月21日火曜日

メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$

最初に、以下は必ずしも定説ではないだろうことを断っておく。


わたしは、臨床において必要なものは、たった一つしかないと思っています。頭のなかにあるのは一つ、(……)ファンタスム、つまり人間の幻想(ファンタスム)の式です。

$◇a

これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。(藤田博史「セミネール断章2012年2月」

ーーー$◇aは次のように読まれる、《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》




$◇aが分解される、$ ー -φ ー Φ ー A ー a

(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)

ーー想像的ファルスの欠如は、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687)

ーー象徴的ファルスΦの注意:”The symbolic phallus is written Φ in Lacanian algebra. However, Lacan warns his students that the complexity of this symbol might be missed if they simply identify it with the symbolic phallus (S8, 296). The symbol is more correctly understood as designating ‘the phallic function' (S8, 298).”(Dylan Evans An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)ここで男性の論理、女性の論理を視野にいれる必要がある。

あるいは、"Lacan argues that in order to assume castration every child must renounce the possibility of being the phallus of the mother; this "rapport to the phallus is established without regard to the anatomical difference of the sexes." The renunciation of identification with the imaginary phallus paves the way for a rapport with the symbolic phallus which is different for the sexes: the male has the symbolic phallus, i.e. "he is not without having it" - woman does not. Yet the male can only lay claim to the symbolic phallus if he assumes castration, i.e. to give up being the imaginary phallus. Further, the woman's lack of symbolic phallus is in itself a kind of possession."  http://lacan.com/seminars1.htm


$ ー -φ ー Φ ー A ー aに戻る。

次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》

藤田博史氏は、”a”を「到達できない愛」としている(ラカンが、プラトンの饗宴のagalma ( 愛)を語っていることを想起しよう、そしてthe agalma—the objet petit a, the “playthings” of feminine jouissance(zizek"LESS THAN NOTHING"


a”は、<対象a>と読まれることもある。対象aは、ラカンによって剰余享楽とも読まれる。

《マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのは当然といえば当然であって、剰余享楽もまた貨幣と同じように、事物(快楽の対象)をその反対物に変え、通常はきわめて快い「正常な」性体験と見なされているものを猥褻なものに変え、(愛する人を苦しめるとか、辛い辱めに耐えるといった)ふつうは胸糞悪い行為と見なされているものを言葉では尽くせないほど魅惑的なものに変える、逆説的な力をもっている。》(ジジェク『 斜めから見る』)


”jouissance is ‘the path towards death” (Lacan S17)であるならばそのとき、欲動の式(マテーム) $◇D とファンタスムの式とはどう違うのか、という疑問が生じる。








---Lacan's Later Teaching Jacques-Alain Millerより


ミレールは併せて晩年のサントーム概念をΣとして次のように示す。




このあたりを言い出せば限りなく複雑化する(欲望/欲動、あるいは欠如lack/穴hole、などに関わる。あるいは、この図式は、もしΣからへの循環が示されれば、岩井克人が『貨幣論』において、マルクスの価値形態論を説明する図式に驚くほど近似する、つまりは「資本の欲動」の循環論法)。



ちなみに、藤田博史氏は「死の欲動」についてまったく異なった形で語っている(むしろ倒錯のマテームに近似した形で。このへんは、セミネール録だけからは、なぜこのように語っているのか窺い知れない)。


さて、ここでは、対象aは、「ラカンによって剰余享楽とも読まれる」とした文に戻る。

剰余享楽の「剰余」とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。

《「快楽」はフロイトが『快感原則の彼岸』において見出したような、解放することによって精神が可能な限り最も緊張の少ない状態を目指すという恒常原則に従う。一方、「享楽」はこの原則を逸脱し、フロイトでいえば、「快感原則の彼岸」に位置するものである。》(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文)

ラカンは「エクリ」のなかで、《すべての欲動は、実質的に、死の欲動であるevery drive is virtually a death drive (Ec, 848)》、と書いている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

「死の欲動」とは、ジジェクが別の書(『斜めから見る』)で語っている例をあげれば、アンデルセンの童話「赤い靴」でもある。少女が赤い靴を履くと、靴は勝手に動き出し、彼女はいつまでも踊り続けなければならない。靴は少女の無制限の欲動ということになる。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  ジジェク


…………

倒錯の式  a◇$

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。……主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。……サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)


”The pervert does not pursue his activity for his own pleasure, but for the enjoyment of the big Other. He finds enjoyment precisely in this instrumentalisation, in working for the enjoyment of the Other; ‘the subject here makes himself the instrument of the Other's jouissance' (E, 320). Thus in scopophilia (also spelled scoptophilia), which comprises exhibitionism and voyeurism, the pervert locates himself as the object of the scopic drive. In SADISM/MASOCHISM, the subject locates himself as the object of the invocatory drive (S11, 182–5).”(Dylan Evans An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis









マイケル・マンの映画『マンハンター』は、直感的に、「第六感」によって、サディスティックな殺人犯の心に入りこむことで有名な刑事の話である。彼の任務は、一連の田舎の平和な家族を皆殺しにした、特別に残酷な大量殺人犯を発見することである。彼は、殺された家族の一軒一軒によって撮影された自家製八ミリ映画を繰り返して上映して、<唯一の痕跡>、すなわち、殺人犯を惹きつけ、彼にその家族を選ばせた、すべての家族に共通の特徴を見つけ出そうとする。だが内容のレベルで、つまり家族そのものの中に共通の特徴を探しているかぎり、彼の努力はいっさい報われない。ある矛盾に眼が惹きつけられたとき、彼は殺人犯の特定への鍵を発見する。最後の犯行現場での操作の結果、裏のドアを破って家に押し入るために、犯人は、そのドアを破るには不適切な、というより不必要な道具を使っていることが判明した。犯行の数週間前、古いドアは新しい型のドアに取り替えられたのだった。新しいドアを開けるためには、別の道具のほうがはるかに便利だったはずだ。殺人犯はどのようにして、この間違った情報、より正確にいえば古い情報を手に入れたのだろうか。自家製八ミリ映画のいくつかの場面には、その古い裏のドアがはっきりと写っていた。殺されたすべての家族の唯一の共通点は、“自家製映画そのもの”である。殺人犯はこれらの私的な映画を観たにちがいない。殺された家族を結ぶ線はそれ以外ないのだ。それらの映画は私的なものだから、それらを結ぶ唯一の考えられる線は、その八ミリ・フィルムを現像した現像所である。すぐさま調べたところ、すべての映画は同じ現像所で現像されたことが判明し、じきにその現像所の工員の一人が犯人であることが判明する。この結末の理論的興味はどこにあるのか。刑事は、自家製映画の内容の中に、犯人逮捕の手がかりになるような共通の特徴を探し、そのために形式そのもの、すなわち彼はつねに一連の自家製映画を見ているのだという重要な事実を見落としてしまう。自家製映画の上映そのものを通じて、自分はすでに殺人犯と同一化しているのだということ、すなわち画面のあらゆる細部を探り回る自分の強迫的な視線は犯人の視線と重なり合っているのだということに彼が気づいた瞬間、決定的な変化が起きる。その同一化は視線のレベルの上のことで、内容のレベルにおいてではない。自分の視線がすでに他者の視線であるというこの経験には、どこかひどく不快で猥褻なところがある。なぜだろうか。ラカン的な答えはこうだーーそうした視線の一致こそが倒錯者の定義である(ラカンによれば、「女性的」神秘思想家と「男性的」神秘思想家との違い、たとえば聖テレザとヤコブ・ベーメとの違いはそこにある。「女性的」神秘思想家は非男根的な「すべてではない」享楽を含んでいるが、「男性的」神秘思想家の本領はまさしくそのような視線の重複にある。彼はその視線の重複によって、神にたいする自分の直観は神が神自身を見る視線なのだという事実を経験する。「自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえないLACANGod and the Jouissance of The Woman” in Chapter 6 of Encore)。(ジジェク『斜めから見る』PP.202-204

参照:Hysteria, Psychosis,Perversion-----Zizek "Less Than Nothing"


One of the best indicators of the dimension which resists the pseudo‐Hegelian understanding of psychoanalytic treatment as the process of the patient's appropriation of repressed content is the paradox of perversion in the Freudian theoretical edifice: perversion demonstrates the insufficiency of the simple logic of transgression. The standard wisdom tells us that perverts actually do what hysterics only dream about doing, for “everything is allowed” in perversion, a pervert openly actualizes all repressed content—and yet, nonetheless, as Freud emphasizes, nowhere is repression as strong as in perversion, a fact amply confirmed by our late‐capitalist reality in which total sexual permissiveness causes anxiety and impotence or frigidity instead of liberation. This compels us to draw a distinction between the repressed content and the form of repression, where the form remains operative even after the content is no longer repressed—in short, the subject can fully appropriate the repressed content, but repression remains.(LESS THAN NOTHING)




2013年5月11日土曜日

倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)


「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(松浦寿輝『官能の哲学』)


デモ生キテイル限リハ、異性ニ惹カレズニハイラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思ウ。(…)スデニ無能力者デハアルガ、ダカラト云ッテイロイロノ変形的間接的方法デ性ノ魅力ヲ感ジルコトガ出来ル。現在ノ予ハソウ云ウ性慾的楽シミト食慾ノ楽シミトデ生キテイルヨウナモノダ(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)

ーー《僕はまだ瘋癲老人じゃありませんよ。あんなにはなっていませんもの。 谷崎さんは前から大分そうですけど》(伊吹 和子「川端康成 瞳の伝説」

「倒錯」とは、何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで、そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくり馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである。ひとことで、「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ。(前掲 『官能の哲学』)

《鍵を握るのは倒錯の概念、精神病と神経症の中間、精神病者による<法>の排除と、神経症者の<法>への組み込みの中間……、倒錯とは<法>の支配の解体に対する答え、象徴による<禁止>を回復しようとする試みではないか。》(ジジェク“WHAT CAN PSYCHOANALYSIS TELL. US ABOUT CYBERSPACE?”)www.psybc.com/pdfs/library/Psa_Cyberspace.pdf‎


…………

丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)

「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かったという。(九鬼周造『いきの構造』)


私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(谷崎潤一郎 「痴人の愛」)

盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)


春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)


漸ク両足ヲ満足ニ塗リ終ッタ。右足カラ先ニ少シ高ク擡ゲテ,下カラソレニ色紙ヲ当テ,足ノ裏デ印ヲ捺スヨウニサセタ。何度モ何度モ試ミテ巧ク行カズ,希望スル拓本ガ作レナカッタ。二十枚ノ色紙ハ凡ベテ徒労ニ帰シタ。予ハ竹翠軒ニ電話ヲカケ,直チニ色紙ヲモウ四十枚届ケサセタ。今度ハ方法ヲ改メテ,足ノ裏ノ朱ヲ一遍キレイニ洗イ落シ,足ノ趾ノ股マデモ一本々々拭イトリ,立ッテ椅子ニ掛ケサセテ,予ハソノ下ニ仰向イテ臥,窮屈ナ姿勢ニ堪エナガラ足ノ裏ヲ叩キ,色紙ノ上ヲ両足デ蹈マセテ捺印サセタ。(『瘋癲老人日記』)

その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起こつて小指に終わる繊細な五本の指の整い方、  繪の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤澤。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であつた。 (『刺青』)
ーーああ、昨今は、若い乙女でさえハイヒールなるもので素足を変形させてしまった、その風俗と流行ニクムベシ




僕は一体子供の時分から若い女の整った足の形を見ることに、異様な快感を覚える性質の人間でしたから、実は疾うからお富美さんの素足の曲線の見事さに恍惚となって居たのでした。(……)あの、お富美さんの足が僕の顔の上を踏んでくれた時の心持ち――あの時僕は踏まれている自分の方が、それに見惚れて居る隠居よりもたしかに幸福だと思いました。(『富美子の足』)

イヤ、止メヨウト思ヘバ思フホド、マスマス気狂ヒノヤウニナツテシヤブツタ。死ヌ、死ヌ、ト思ヒナガラシヤブッタ、恐怖ト、興奮ト、快感トガ、代ル代ル胸ニ突キ上ゲタ(『瘋癲老人日記』)


…………

私は、対女性の態度でも先生(=荷風)とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はそうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、ファナチックであり、ラジカルで生一本であるが、先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風であるが、私はそれに堪えられない。私は女は自分より上でなければ女とは思わない。(略)私は又外貌がどんなに美しくても、病的で、不健康で、体内が不潔そうに思える女を嫌った。美人ではあるが、過去にさまざまな経歴を持った、所謂海千山千の女を嫌った。ところで晩年の永井先生は、私の最も忌み恐れている階層の女に好んで近づき、彼女たちを無二の友とすることで世間に反抗した。私には先生のような反骨や社会的批評の精神がない。先生のものには「ひかげの花」のお千代や「墨東綺譚」のお雪のような女が現れるが、私の作品に出て来るのは「蘆刈」のお遊さんや「春琴抄」の春琴や「鍵」の郁子や、せいぜい「台所太平記」の女中たちのように若くて清潔で溌刺した女性ばかりである。(谷崎潤一郎『雪後庵夜話』)




《自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。》(永井荷風『深川の唄 』)

毒婦好みは谷崎(すくなくとも若い頃の谷崎)、荷風と同様なり

毒婦の第一の資格は美人でなければならぬ。其れも軽妙で、清洒で、すね気味な強みを持つてゐる美人でなければならぬ。其れ故、毒婦が遺憾なく其の本領を発揮する場合には観客は道義的批判を離れて、全く芸術的快感に酔ひ、毒婦の迫害に遭遇する良民の暗愚遅鈍を嘲笑する(永井荷風『虫干』)

幾十人の男の魂を弄んだ年増のように物凄く整って(……)国中の罪と財との流れ込む都の中で、何十年の昔から生き代り死に代った麗しい多くの男女の、夢の数々から生れ出いづべき器量(谷崎潤一郎『刺青』)

…………


素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ









………… 


女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇拝し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行う人間の役割を演じているのである。(フロイト「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝(フェティシズム)』)

もしフェティシストが呪物を崇拝していると強調するならば、それは片手落ちである。多くの場合、彼らは、呪物を明らかに去勢をしめしているとすぐ分かるような仕方で扱っている。(……)呪物を扱うさいの愛撫と敵視は、去勢の否認と承認に平行しており、種々の症例で、それぞれ異なったふうに入り混じっているので、前者か後者かがより明らかに見分けられる。(同『呪物』)




……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(『呪物』)


以下はメモ。いや上もメモなのだから、なんといったらいいか。

---閑話休題(あだしごとはさておきつ)としておこう。

つまりは、《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)



「フェティッシュfethish」とは、ポルトガル語の「フェイティソ(呪符・護符 feitiço )」,「魔術」から転用された語であり、「プリミティヴな社会での石や木像などの物的な崇拝対象から転じ、訳語として「物神」やら「呪物」とされる。 


「フェティッシュ」は、ラカンが晩年頻用した「みせかけsemblant」のひとつである。

――以下、The Concept of Semblant in Lacan's Teaching • .........Russell Griggを援用しつつ(原文は二重山括弧《 》にて)。


「みせかけ」は、「信じた振りをするfaire semblant」のように使われる。そしてその「みせかけ」が本来のものでないと知っていても、そこに歓びを見出すことである。

《its strange ersatz quality such that we are capable of finding greater satisfaction in it than in the real thing; and, the fact that it has the quality of pretence, where we are happy to make believe (faire semblant as the French say) and pretend it is what it is not, even as we know it is not that thing. 》


「みせかけ」とは、<対象a>のことでもある。それは誘惑し、かつ騙す。「空虚」を覆い、その場に代替物として収まり、われわれはそれに満足を覚える。「空虚void」、あるいは「欠如lack」に直面すれば、われわれは不安を直面する、それを避けるためのものが「みせかけ」だ。


上に引用されたフロイトの文から抜き出すなら、<母>に、《ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴》ということになる。


The semblant in Lacan

First, though a word on its significance. The importance of the concept is indicated by Lacan's description of objet a as a semblant that fills the void left by the loss of the primary object. If we can explore the nature of this semblant, we shall be able to come to a better understanding of some aspects of objet a. For Lacan a semblant is an object of enjoyment that is both seductive and deceptive. The subject both believes and doesn't believe in semblants but in any case opts for them over the real thing because paradoxically they are a source of satisfaction, better than the real thing that one avoids any encounter with at all cost. Or more accurately, because the semblant fills a lack, we should say that the semblant comes to the place where something should be but isn't, and where its lack produces affects focusing on anxiety. 》



――このRussell Griggの文では、voidとLackが混在して使用されているが、本来、「欠如」と「空虚」、あるいは「穴」は別の物だ。


・Manqué(Lack)欠如 →象徴界

・vide(void)       空虚 →現実界

・trou(hole)       穴    → 想像界
欠如manqueは象徴界におけることがらです。例えば、空虚は場所を、その場所が空いていることを示します。空虚videが現実界にかかわるもの、穴trouが想像界にかかわるものであることを心に留めておいてください。(ラカン『セミネール不安』勉強会 荻本) 


他方、ミレールを参照しつつ、ジジェクに次のような叙述がある、”two types of lack, the lack proper and hole” (The Liberal Utopia ........ section I: Against the Politics of Jouissance.........Slavoj Zizek )。

For Lacan, on the contrary, objet a is a(nother) name for the Freudian "partial object," which is why it cannot be reduced to its role in fantasy which sustains desire; it is for this reason that, as Lacan emphasizes, one should distinguish its role in desire and in drive. Following Jacques-Alain Miller, a distinction has to be introduced here between two types of lack, the lack proper and hole: lack is spatial, designating a void WITHIN a space, while hole is more radical, it designates the point at which this spatial order itself breaks down (as in the "black hole" in physics). (――Jacques-Alain Miller, "Le nom-du-père, s'en passer, s'en servir,").

Therein resides the difference between desire and drive: desire is grounded in its constitutive lack, while drive circulates around a hole, a gap in the order of being. In other words, the circular movement of drive obeys the weird logic of the curved space in which the shortest distance between the two points is not a straight line, but a curve: drive "knows" that the shortest way to attain its aim is to circulate around its goal-object. (One should bear in mind here Lacan's well-known distinction between the aim and the goal of drive: while the goal is the object around which drive circulates, its (true) aim is the endless continuation of this circulation as such.)


――これも混乱を招く叙述だが(わたくしにとって)、最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)では、次のようにされている。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.

もっとも、このあたりは単純ではなく、同じ著書のべつの箇所には、次のような叙述もあり、ジジェクはある意図をもってholeという語を使っているのが分かる。

the concept of drive makes the alternative “either get burned by the Thing or maintain a safe distance” false: in a drive, the “Thing itself” is a circulation around the void (or, rather, hole, not void). To put it even more pointedly, the object of the drive is not related to the Thing as a filler of its void: the drive is literally a countermovement to desire, it does not strive towards impossible fullness and, being forced to renounce it, get stuck onto a partial object as its remainderthe drive is quite literally the very “drive” to break the All of continuity in which we are embedded, to introduce a radical imbalance into it, and the difference between drive and desire is precisely that, in desire, this cut, this fixation onto a partial object, is as it were transcendentalized, transposed into a standin for the void of the Thing.

…………


さて元に戻れば、「みせかけ」とは、「不気味なもの」とは異なる。《the semblant closer to Freud's fetish object than to the uncanny》



たとえばフロイトによれば、無気味なものとは見知らぬものではなく、馴染みのあるものが亡霊のように回帰することであり、《隠されているはずのものが表に現われてきた時は、なんでもすべて無気味な(unheimilich)とよばれる》(フロイト『不気味なもの』)

ーーフロイトの「不気味なもの」は、松浦寿輝が、「フロイトがたぶん女性性器の外観をそのメタファーとして思い描きながら語った「不気味なるもの」は、いかなる心的機制によって抑圧されようと必ず回帰する…」(「死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象」)と書いているように、女陰の隠喩としても読めるだろう。

神経症者が、女の性器はどうもなにか気味が悪いということがよくある。しかしこの、女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。(フロイト『無気味なもの』)


「みせかけ」は、「ファルス」や「仮装」とも異なると、Russell Griggは指摘する(このあたりは、諸々の見解があるし、ラカン派でも、「仮装」は「みせかけ」と同じ意味合いで使われている場合が多い)。

《The semblant is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade.》


Russell Griggは、ファルスと見せかけの相違を、ラカンの「無意識の位置Position de l'inconscient」の記述から抽出している。

《I take Lacan to be holding to this distinction between semblant and phallus when in "Position of the unconscious" he remarks, "In restoring... the function of the 'partial' object (by introducing the concept of objet a)... I have not been able to extend it to... the object (φ) as 'cause' of the castration complex."》


ところで、少し前に、“void”の使用例としてジジェク=ミレールの文を引用した。

《semblance is a mask (veil) of nothing(J‐A. Miller). Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void.》


Russell Griggのみせかけとフェティッシュ論は、この文の批判(吟味)としてもある。

Semblant as phallus?

……A second way to look at semblants is picked up by J.A. Miller when he says that the function of semblants is to "veil nothing" and also to convert this nothing into something. [4] Again, the double aspect of semblants appears in this definition which emphasizes the functions of veiling and also of drawing our attention to this very veiling. Miller goes on to say that it is because of this double aspect of semblants that as a semblant the veil phallicizes, and phallicizes the body in particular.》



ここでは、ヴェールが身体をファルス化する、それが「みせかけ」だとされているが、Russell Griggは、いや「みせかけ」とはファルスにかかわるものではなく、フェティッシュにかかわるものだ、としているわけだ。再掲すれば、《The semblant is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade》とGriggは書いている。


ジジェクは『LESS THAN NOTHING』(2012)のおいて、Russell Griggのこの『The Concept of Semblant in Lacan's Teaching』から別の箇所(「擬態mimicry」と「かかしscarecrow」にかかわる箇所)を引用している(電子書籍版P39)  。だがそこではGriggの「みせかけ」吟味には触れられず、この大部な著書の後半になって、”the phallus is the semblance par excellence. What the phallus “causes” is the gap that separates the surface‐event from bodily density”(P615)とされる。

もっともジジェクの"semblance"解釈は、一筋縄ではなく、semblanceをめぐって、ミレール批判をも書く(ミレールはジジェクの師であり、かつては、「わたしのラカンはミレールのラカンです。So I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan. Prior to Miller I didn't really understand Lacan」(『彼自身によるジジェク』)としているのが知られている)。


At a more theoretical level, we should problematize Miller's (and, maybe, if one accepts his reading, the late Lacan's) rather crude nominalist opposition between the singularity of the Real of jouissance and the envelope of symbolic semblances. What gets lost here is the great insight of Lacan's Seminar XX (Encore): that the status of jouissance itself is in a way that of a redoubled semblance, a semblance within semblance. Jouissance does not exist in itself, it simply insists as a remainder or product of the symbolic process, of its immanent inconsistencies and antagonisms; in other words, symbolic semblances are not semblances with regard to some firm substantial Realinitself, this Real is (as Lacan himself formulated it) discernible only through impasses of symbolization.(『LESS THAN NOTHING』P695)