このブログを検索

ラベル 大澤真幸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大澤真幸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年6月24日火曜日

ハラスメント、あるいは苦情の文化

かなり前のことだが、ツイッター上で、あるプロ写真家の女子高生たちの花見写真のRTと彼が女子高生側から難詰(だまってとらないでよ!)をぼやく発話をRTしたとき、フェミニスト風のオジョウサンから、「被写体の人物に了解をとってから、写真を撮るのが現在の最低限の礼儀だわよ、おじさん!」とさとされたことがある。

この「おっさん」はフェミニストのたぐいが怖いタチなので
「でもねえ、こっちの国では若い女の子たちはこっそり撮られて
あとで気づいても、にこっと微笑みかえすだけだけどねえ」
と応答しておくだけにして
ややこしい反論はしないでおいたが。

「写真の本質は盗写じゃないかね」なんて言っても
通用しそうな相手じゃなさそうだったから。





「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p46)

こっそり写真を撮るのは、スカートの下じゃなくても
ハラスメントなんだろうなあ、いまでは。




「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。

(……)あるいは、「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」という塀ゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』P173-174)

この「ハラスメント」への極度の敏感さの現代的傾向については、大澤真幸の説明がわかりやすい。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』より)

ここで《現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い》とあるのは、ラカン派では「<エディプス>の斜陽」とか「父性的な象徴権威の弱体化」、さらには「大文字の他者の不在」などと言われるものだ。

「大文字の<他者>の非存在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「政治的に正当な」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大文字の<他者>」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大文字の<他者>」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大文字の<他者>」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大文字の<他者>」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者>が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはあんらないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」)

…………

ところで都議の「セクハラ」発言と大臣の「金目」発言(パワハラ)があって世論の反撥を生むのは当然だが、その反撥の度合、温度差が著しく異なる(たとえば「署名」数)。

@AtaruSasaki: 「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります。確かにたいへん重大な問題です。しかし石原金目発言も同じように問題ではないでしょうか。みなさん、福島をお忘れですか? →【署名はこちら】http://t.co/f8x6tjh3pw (佐々木中)

《「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります》や、あるいは「福島」はわすれられているとあるが、それだけではなく、あの温度差は、じつは石原金目発言は、かなりの割合の人々はひそかに「正しい」と思っているせいかもしれない。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

実際、「原子力安全委員会」の委員長であった斑目春樹はかつて次のように発言しているようだ。

(最後の処分地の話は)最後は、結局、お金でしょ。
どうしても、みんなが受けて入れてくれないとなったら、じゃあ、おたくには、今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう、それでも手を挙げないんだったら5倍払いましょう・・・・(斑目春樹2011.5)

インターネット上からは次のような見解をも拾うことができる(石原伸晃の「金目」発言の裏側でうごめくものの正体)。

私はある意味では伸晃君を買っているのです。彼は、絶望的な正直者なのです。だから、政治家には向いていない。


都議の「セクハラ」発言は、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》の対象でもありうるのかもしれない、そのため多くの「正義の士」による反撥を生む。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

《現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。》(中島義道『醜い日本の私』)

…………

以下は資料。

Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?

Rationally, of course, we know that not everyone should have kids, and that not everyone wants to have kids, and that life without kids is an entirely plausible and even pleasant possibility; and yet, do many of us secretly feel sorry for or condescend to or fail to understand women who don’t have children? Do we assume they are bravely harboring some deep disappointment, do we think they can’t possibly be happy with things as they are, that there is some brittleness, some emptiness at the center? This is the argument of the French feminist, Elisabeth Badinter, and I think she is probably right.

(意訳、すなわちテキトウ訳)
理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の核には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。
Taboo is a strong and unsubtle word, probably, for how we feel about childlessness; it might be more precise to say that the shrewder, wilier form that taboo takes is probably something closer to pity, as if the childless woman has somehow not pulled it together, as if she is damaged or thwarted. Especially if that childless woman conforms to our clichéd narrative, and say has a dog or cat, or a dog and a cat, or multiple dogs or cats: the general interpretation is that she is sad, not that she is doing a different thing.

We know of course that we are not supposed to judge other women for something like not having children, but we do it all the time.……

タブーは強くて、隠微なものなんてものじゃ全然ないわ、わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より突き刺すように、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はいくらか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェに語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというのじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……

ーーエリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)はかつて『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)で次のように語った人物である。

著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)

ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)


…………

◆2013年07月21日(日)東浩紀 @hazumaツイートより。

ぼくは基本的に異性愛だろうが同性愛だろうがなんでもいいひとです。ただ他方で子どもを作るのも尊いことだと思っているひとです。この両者を両立させるのはなかなか難しいんですが、今後はそれしかないでしょう。

このあいだも某政治家さんから雑談で「いまは選挙戦説でも難しい。子作り支援する社会を作ろうと言うと、では子ども作らないひとはどうなるのかという話になるので、そこはむろん個人の選択でみたいな註釈を付けねばならずすべてがぼやけていく」とかいう話を聞かされたのだけど、それはほんと問題。

問題は、保守的で家父長的で女性差別的で異性愛中心主義的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇になっていて、子ども作ったらそれなりに楽しいよーとか、子ども作るなら年齢限界あるよーとかいう話がほとんどできなくなっているということなのですよ。

この、「保守的で家父長的で差別的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇なので結果的になにも発言したくなくなる問題」は、結婚出産の問題に限らず、リベラルの影響力をあらゆる方面で削ぎ落としているので、そろそろなんとかしたほうがいいと思うんだけどね。

まあ、とはいえ、一方に頑迷な差別主義者が残っているのは事実で、他方で差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多いのも事実なので、ぼくみたいな主張は理解されないんだろうけどね。差別と受け取られることを怖れないで積極的に提言していくリベラルとか、想像つかないよな。。

…………

以下のような言説は、現在では一言でも口に出してはならぬ(?)、ことさら《差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多い》現代日本では。

「私は母性が何をもたらすかわからない。わかっているのは、子供を産まないと、世界の半分を失うということよ。同性愛は決してこの働きを知らないでしょう。それが同性愛の限りない貧しさよ」マグリッド・デュラス
いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)
 …………

(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰

バッハオーフェン、あるいはニーチェの「ディオニソス」思考系譜の、ケレーニンは、女ははゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、とする。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であると。


ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない(参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

男/女の二項対立(分子)の土俵には、無限の生(zoe)の分母があるに決っている。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)


女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より




2014年3月17日月曜日

論文指導要項そのⅠ:「コピペはやめて優雅に置きかえなさい」

巷間では盗用、あるいは剽窃論争が花盛りである。

《コピペはよくない、「自分の言葉」で書かなくては、それが「基本」》とオッシャル先生がイラッシャル。ーーご尤も!

だがこの文自体、われわれが小学校や中学校の先生から耳にした台詞の「盗用」の印象を生むのだ。そして、《はい、よく「自分の言葉」で説明できました、オリコウねえ》などと優しい小学校の先生の貌を想起することになる。まあでもひねくれ者の戯言はやめよう。

だが「自分の言葉」とはなんだろう。

ランボー曰く《私は他者である》(“Je est un autre”)であるなら、私の言葉とは<他者>の言葉ということになる。あるいは次のヴァレリーのカイエの文を読んでみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年

この他者とは、訳者によれば「言葉」である。とすれば、「私=他者」の「言葉=他者」は、「他者」の「他者」ということになる。などとすれば、まるでラカンの<大他者>の<大他者>は存在しない、すなわち私の言葉は存在しないとなってしまう、ーーもちろんこれは言葉遊びでありまったく関係ないよ、としておかないと、ネット上には真に受ける方々がいらっしゃるから、くどくなるが書いておく。


ーーああ、またひねくれた戯言を言ってしまった!

このような人物はひたすら「引用」するに限る。


…………

みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦
どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。(松浦寿輝『官能の哲学』)
自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ(鈴木創士ツイートーー「言葉のコラージュ」と「原典のない翻訳」

もちろんこれらの主張はそれぞれの意味するところが違う。だがそれはここでは追求しない。ここでは上の三つの文に対して次の文を対比させるみる。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

すくなくとも「身体」から出た言葉は、自分の言葉である、と仮にしておこう。こう書けば、アルトーを想起するひとがあるかもしれない。

アルトーの創作活動は狂気のなかで自らの不在を体験しているけれども、こうした体験、こうした体験をくりかえし始める勇気、言語活動の根本的な不在にふかって投げつけられるすべての語、空虚をとり囲む、いやむしろ空虚と合致している、あの身体的苦痛と恐怖にみちた空間、これこそ、創作活動それじだいである。つまり、創作活動の不在という深淵に臨んでいる急斜面である。(フーコー『狂気の歴史』(558頁)

だがここではアルトーの、たとえばグロソラリ(舌語)にかかわるつもりはない。たいして知っていないことを語るのは口はばったい。ただ「身体」からの発話は、小学校の先生の言葉の剽窃であっても、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えない、--ことがあり得る…だろ? とだけしておく。

ーーもちろんこれらは極論を言っているのであって、いわゆる「自分の言葉」がこれら以外にないということではない。しかるべき条件下でしかるべき形式におさまる所謂「自分の言葉」が自分の言葉のつもりの「他人の言葉」でしかないということだけであり、そのまま真に受けてもらったらこまる。


…………

いまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている(批評をめぐって(蓮實重彦)―――『闘争のエチカ』より

《「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。「作品=テクスト」を「読む」行為(こ れも一種の「労働」です)の軽視という「ニューアカ」の特徴は、浅田彰や中沢新一の本当の気持ちは別として、彼らのブレイクにとっては重要な要素だったのだと思います。》(阿部公彦書評『ニッポンの思想』佐々木敦より

あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。(ニーチェ遺稿)

《ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている》(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))

…………

さてここからが「本題」の人文系の「優雅な置き換え」の例である。

ユリウス・カエサルの殺害というヘーゲルの挙げている古典的な例をみてみよう。カエサルに敵対する共謀者たちの直接的・意識的目標は、もちろん共和制を復活させることだった。しかし、彼の共謀の最終的結果――「本質的副産物」――は、帝政の樹立、すなわち彼らが意図していたこととは正反対のことだった。ヘーゲルの用語を使えば、歴史の理性がその目的を達成するために、何も知らない彼らを道具に使ったのだといえよう。

いうまでもなく、歴史の糸を操るこの理性とは、ラカンの<他者>をヘーゲル流に言い換えたものである。ヘーゲルによれば、歴史の背後で機能しているこの理性の所在を突き止めるためには、歴史の担い手たちが掲げた偉大な目標や彼らを導いた理想に目を向けるのではなく、彼らの活動の実際的「副産物」に目を向けなければならない。

ヘーゲルの「歴史の狡知」の歴史的源泉の一つである、アダム・スミスの「市場の見えない手」についても同じことがいえる。市場では、個々の参加者が、自分の利益だけを追求することによって、知らないうちに共通の利益に奉仕する。彼らの行動はまるで目に見えない善意の手に導かれているようだ。この「市場の見えない手」もまた、<大他者>の言い換えにほかならない。

「<大他者>は存在しない」というラカンのテーゼは、以上のようなことを踏まえた上で読まれなければならない。<大他者>は歴史の主体としては存在しない。それはあらかじめ与えられるものではなく、われわれの活動を目的論的に調整するわけではない。目的論というのはつねに遡及的な幻想であり、「本質的に副産物であるような状態」は本質的に偶然的なものである。

コミュニケーションに関するラカンの古典的な定義もまた、以上のようなことを踏まえた上で捉えなければならない。ラカンの定義によれば、話し手は相手から反転した真の形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体に返されるのである。その際に問題なのは、一般に主体は自分の行動の結果生じた混乱状態の中に自分の行動の真の意味を見出すことができない、ということである。(ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳 149~150頁)


上記のジジェクの叙述を大澤真幸がより丁寧に「置き換え」している(ドクター・ショッピングと原発情報)。

ヘーゲルが援用している、きわめて顕著なケースは、ブルータス等によるカエサルの暗殺である。カエサルは、大きな軍功をあげ、ライバルのポンペイウスを打ち負かし、ローマ市民にも圧倒的な人気があったため、ついに終身独裁官の地位に就いた。ブルータスたちは、カエサルにあまりにも大きな権力が集中し、ローマの共和政の伝統が否定されるのではないかと懸念し、カエサルの暗殺を決行した。クーデタは成功し、カエサルは殺害された。

しかし、この出来事をきっかけとして、歴史が大きく動き出し、紆余曲折の末に結局、暗殺から17年後にあたる年に、政争を勝ち抜いたオクタヴィアヌスが事実上の皇帝に就任し、ローマは帝政へと移行する。

これはまことに皮肉な帰結だと言える。ブルータスたちは、最初、カエサルが皇帝になってしまうのを防ぐために――つまりローマが帝政へと移行することがないようにと――カエサルを暗殺した。そして、その暗殺は、実際に成功した。しかし、まさにその成功こそが、共和政から帝政へのローマの移行を決定的なものにしたのだ。オクタヴィアヌスが初代の皇帝に就位するに至る出来事の連なりは、この暗殺によってこそ動き出すからである。

ヘーゲルは、この過程を、次のように分析している。カエサルが個人的な権限を強化し、さながら皇帝のようにふるまっていたとき、実は、本人は気づいてはいないが――つまり即自的には――歴史的真理に合致した行動をとっていたのだ。共和政はすでに死んでいたのだが、カエサルや暗殺者たちを含む当事者たちは、まだそのことに気づいていなかったのである。

したがって、暗殺者たちは、カエサル一人を排除すれば、共和政が返ってくると思ったのだが、しかし、実際には、カエサル殺害こそがきっかけとなって、共和政から帝政への転換が決定的なものになった――即自的なものから対自的なものへと転換した。それによって、「カエサル」は、個人としては死んだが、ローマ皇帝の称号として復活したのだ。

「カエサルの殺害は、その直接の目的を逸脱し、歴史が狡猾にもカエサルに割り当てた役割を全うさせてしまった」(Paul Laurent Assoun, Marx et répétition historique, Paris, 1978, p.68)。この場合、まるで、歴史の真理を知っている理性が、ブルータスやカエサルを己の手駒として利用し、歴史の本来の目的(ローマ帝国)を実現してしまったかのようである。これこそが、ずるがしこい理性である。

こうした考え方の原型は、プロテスタント・カルヴァン派の「予定説」であろう。キリスト教の終末論によれは、人間は皆、歴史の最後に神の審判を受ける。祝福された者は、神の国で永遠の生を与えられ、呪われた者には、逆に、永遠の責め苦が待っている。これが最後の審判である。神による最終的な合否判定だ。

予定説は、このキリスト教に共通の世界観に、さらに次の2点を加えた。第一に、神は全知なのだから、誰が救われ(合格し)、誰が呪われるか(不合格になるか)は、最初から決まっている。しかし、第二に、人間は、神がどのように予定しているかを、最後のそのときまで知ることができない。このとき、人はどうふ るまうか。それぞれの個人は、神の判断を知ることもできないのだから、ただ己の確信にしたがって、精一杯生きるしかない。彼らは、歴史の最後の日にしかる べき判決を受けるだろう。

これら三つの例に登場している第三者の審級(見えざる手、ずるがしこい理性、予定説の神)には、共通の特徴がある。第一に、どの例でも、第三者の審級が何を欲しているのか、何をよしとしているのか、渦中にある人々にはまったくわからない。つまり、人々には、その第三者の審級が何者なのか、何を欲望する者なのかが、さっぱりわからないのである。

これは、第三者の審級が、その本質(何であるかということ)に関して、まったく空白で、不確実な状態である。しかし、第二に、にもかかわらず、第三者の審級が存在しているということに関しては、確実であると信じられている。第三者の審級の現実存在に関しては、百パーセントの確実性があるのだ。

本質に関しては空虚だが、現実存在に関しては充実している第三者の審級、これがあるとき、リスク社会は到来しない。三つのケースのどれをとっても、内部の 個人には、ときにリスクがある。たとえば、市場の競争で敗北する者もいる。カエサルもブルータスも志半ばで死んでしまった。カルヴァン派の世界の中では、 神の国には入れない者もたくさんいる。だから、個人にはリスクがある。

しかし、全体としては、第三者の審級のおかげで、あるべき秩序が実現することになっている。全体が崩壊するような、真のリスクはありえない。見えざる手 は、最も望ましい資源の配分を実現するだろう。ずるがしこい理性は、歴史の真理に従った目的を実現するだろう。神は、しかるべき人を救済し、そうでない人を呪うだろう。


ジジェクの『斜めから見る』には、カルヴァンの話も出てくる。

カルヴァン主義は、その信者たちを休む間のない熱狂的な活動へと駆り立てることで知られているが、この宗教は予定、すなわち運命はあらかじめ決まっているのだという信仰にもとづいている。カルヴァン派の信者は、かならず起きるとされている出来事はひょっとしたら起こらないかもしれない、という不安にみちた予感に駆り立てられているのではなかろうか。(『斜めから見る』p137)

…………

さてこうやって並べたからといって、なにも大澤真幸の文にいちゃもんをつけるつもりはない。多くの文というのは、このような「書き換え」であることが多いのを示したいだけだ(ここまで似ているのは稀ではあろうが)。いやいや実はよくシラナイ…そうじゃなかったら「ごめんあそばせ!」 きっと独創的な書き手がいるのだろう、ニーチェ並には、ーー《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》--「ごきげんよう!」、並み居る独創家さんたちよ。


ジジェクの文も、ヘーゲルの、あるいはラカンの「書き換え」である気味は多分にあるだろう。より「分かり易く」書き換えたら、ラカンやジジェクを敬遠している読者にも理解され、役に立つこともあるだろうと思う。

なんの役に立つ?

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。

ーーこれだけでないことを祈る。

ここでまったく悪気はないのだが、浅田彰の発言を想い起こしてしまったので、つけ加えることにする(ゴメンアソバセ、國分ファンの方々よ!)

僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。(「えらくなろう」という不滅の幼児願望


僕の言葉、僕の見解、僕の「盗用」、……を語りたいヤツが多いのだよな、この「僕」のように。


さて話を元に戻せば、ジジェクやラカンの名を出さずに「書き換え」られた文は、失われるものがある。

ひとつだけ挙げれば、大澤真幸の主要概念「第三者の審級」と、ジジェク、あるいはラカンのいう「大文字の他者」といったいどう違うのか、が不鮮明なのだ。仮に同じものなら、わざわざ言い換えるまでもなく、よりよく流通している「大文字の他者」概念でいい筈だ。

なお「審級」については、agencyの訳として、『斜めから見る』のなかに次のような記述がある。

死んだ父親が父―のー名という象徴的審級として君臨しさえすれば、父親殺しは象徴的宇宙に組み入れられる。(鈴木晶訳)
The murder of the father is integrated into the symbolic universe insofar as the dead father begins to reign as the symbolic agency of the Name-of-the-Father.

そして、『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』(松浦俊輔 訳 ネット上で無料ダウンロード可)では「第三の媒体」という訳語があるが、これは原文ではThird Agencyになっており、「第三者の審級」と訳すこともできるだろう。

……すなわちサイバースペースで生じているのは,象徴的去勢(近親相姦的二者関係を禁止/妨害し,それによって主体が象徴界の次元に入り込むのを可能にする〈第三の媒体〉の介入)という構造から,ある新たなエディプス以後のリビドーの経済への移行だということである。


もしかりに大澤氏が独自に「第三者の審級」を言い募るなら、「大文字の他者」概念や上のジジェクの「第三の媒体」との相違を鮮明にすべきだろうとは思う。それが、大澤真幸の論や書物に明示されているかどうかについては、寡聞にして知らない、ーーなどとエラソウに書いているが、実はわたくしは大澤氏の書物を読んだことはない。インターネット上で片言隻語を拾って、ときにニヤニヤしているだけだ。なんのニヤニヤかはあまり書きたくない。


◆大澤真幸『<自由>の条件』2008

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』2008)

◆ジジェク 『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007)

あるいはまた『ジジェク自身によるジジェク』には、--これは邦訳が手元にないのだがーー、次のような発話がある。《The whole obsession that we have today with different forms of harassment - smoking, sexual, social, etc. - is simply how to keep the neighbour at a proper distance.》ーーこれだけではなく似たような叙述は枚挙にいとまがない。

ジジェクの「わかりにくい」文章を優雅に置きかえている大澤真幸に、真の幸あれ!


ーーところで世間にはこんなことをオッシャル方もイラッシャル。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より






2013年5月24日金曜日

父なき世代(中井久夫)


[春画 アートなのに… 国内巡回展は開催難航]への反応として「クレーム文化」だから仕方がない、という発話を読んだ。美術館側が公衆のクレームをおそれて、春画展を開催できない、というもの(わたくしは、すこしまえ騒がれた会田誠展へのクレームをまずは思い起したが)。

そのうち、「青少年」には、こんな文も禁止されかねない。

あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)







苦情の文化(culture of the complaintについては、わたくしの知るかぎり、ジジェクや、日本ではそれに依拠する大澤真幸によって、語られている(ジジェク曰く、社会学的には常識の部類に属するらしい)。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』)

「伝統的な規範の枷が効力を失う」とは、大文字の他者の喪失とか、「主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効する」(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純)とか語られる。その規範の支えを失ったわれわれは、反面、「従来ではありえなかったような規範」を求める。つまり、「大文字の他者」の欠如は、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな<大文字の他者たち>little big Others」としての「倫理委員会」などを求める。

それはまた別に次のように説明されたりもする。象徴的規範の失効により、パラノイアティック(妄想的な)病理的ナルシストが跳梁跋扈するようになり、彼らは伝統的な規範が失われたことを知りつつ、その規範の影の欺瞞の糸を握って操っている「<他者>の<他者>」(ラカン)を要請する、と。

The Return of the Big Other
Besides the construction of little big Others as a reaction of the demise of the big Other, Zizek identifies another response in the positing of a big Other that actually exists in the Real. The name Lacan gives to an Other in the Real is "the Other of the Other". A belief in an Other of the Other, in someone or something who is really pulling the strings of society and organizing everything, is one of the signs of paranoia. Needless to say that it is commonplace to argue that the dominant pathology today is paranoia: countless books and films refer to some organization which covertly control governments, news, markets and academia. Zizek proposes that the cause of this paranoia can be located in a reaction to the demise of the big Other……

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者。が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にならないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったことに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確かめる。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」松浦俊輔訳)www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic024/084-097.pdf

今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信,つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり、すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(同上)

もちろん「<他者>の<他者>」は存在しない(ラカン)。あくまでもパラノイアの機制である。


中井久夫はこのあたりのことをより平明な言葉で間歇に語っている。


中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


1970年代を契機に変ったとすれば、なぜなのか。それはやはり「父なき世代」のせいである。

「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。

では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。

二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。


では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。

異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威silly authorityだけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995中井久夫)

このあと、《しかし、この精神分析的解釈は、反乱が学生・知識人に限局して起こったことを説明しない》とあり、《最近、私は文化大革命の記録をいくつか読んで、はっと思うことがあった。大学の教師も迫害され、農村に追いやられているが、もっとも迫害されたのは高校教師であって、彼らはしばしば生徒に殺害されている》とも。

以下はいささか割愛して、次のように書かれることになる。

せっかく入試にとおったエリートの学生がなぜ真先に異議申立てをするのか。フランス革命においてもロシア革命においても貴族たちが身分社会への反乱の理論を用意したのと似ている。これは単純な「ノブレス・オブリージェ」ではない。「体制」の中で不当に低く待遇されるであろうという予感を抱いていた若者である。今あまり人気のない歴史家トインビーであるが、彼が指摘するとおり、文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。  
冷厳な事実は、二つの大戦が優秀な青年を戦死させたために、多くの国でその同世代と続く世代との、それほどでない人たち(たとえば私の世代の)に余分の機会を与えたことである。反乱世代は、この余沢が消滅した時点において成人に達しつつあった。団塊の世代といわれる彼らのところで行列が渋滞しはじめたのである。(同上)

しかし、日本がことさら「父なき」国の特質が目立つということが実感としてあるなら、次のようなこともあろう。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)



これが日本は露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にある、ということでもある。


浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。(……)

偽善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されている。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰・柄谷行人)

 …………

ここでもう一度、冒頭の「ナルシシスト的主体」に戻ろう。


象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。(ジジェク

この社会的ゲームの規則に耐えられない人たちが、たとえば「ひきこもり」に向かうといってよいのかもしれない。

浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、その一方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。(批評空間2001-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

もう少し付け加えよう。

浅田)まあ、ラカンのように難しいことを言うまでもなく、人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたら、まったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。


斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。


中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。


斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。


中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提 というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。


斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。


※「超自我」と「父の名」、あるいは「自我理想」など、フロイトやラカン用語が出てくるが、これらは論者によって扱いがひどく違う。ここでは厳密な区分はせず一律「大文字の他者」として扱っている。

――たとえば柄谷行人にとっては、《寛大な親に育てられた子供が強い倫理感(超自我)をもつことがある》(超自我と文化=文明化の問題)とされるように、中井久夫の《良心(あるいは超自我)》、おそらく象徴界的なものと近似する。

他方、ジジェクにとっては、ラカンの《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)に依拠して、「超自我」は、現実界的なもの。このあたりは、『ラカンはこう読め!』の第五章「自我理想と超自我」に詳しい。

最近の書LESS THAN NOTHING(2012)でも、《まなざしー恥ー自我理想、声ー罪ー超自我gazeshameEgo Ideal, and voiceguiltsuperego.》としており、自我理想と超自我の区別はジジェクの理論的核心のひとつだろう。


2010年12月23日木曜日

現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」

ジジェクは、looking awryのなかで次のように述べている。社会学的な三つの「主体」の形態、すでに社会心理学では常識の部類だが、と断った上でだが。


三つの形態とは、プロテスタント倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的ナルシスト」である。

ここでぜひとも強調しなければならない重要なことは、いわゆる「プロテスタント倫理の衰退」と「組織人間」の出現、つまり個人的責任という倫理が、他者のほうを向いた他律的人間の倫理に取って代わられても、そのそこにある自我理想の枠は無傷のままだということである。変わるのはその内容だけで、自我理想は、その個人が属する社会集団の期待として「外在化」される。道徳的満足をあたえてくれるのは。もはや、周囲の圧力に屈せず、自分自身に(つまり父性的自我理想に)忠実でありつづけたという感覚ではなく、集団への忠誠心である。主体は集団の眼を通して自分をみるようになり、集団から愛され評価されるような人間になろうと必死にある。

※「自律的な」あるいは「他律的な」人間については次の記述が参考になる。ポストモダンを考えるためのメモ

<人間>とは、王や<神>に従う臣下ではなく、自分で自分を監視し、自分で自分に命令するような、カント流の「先験的経験的二重体」としての主体。その変奏は、フーコーの、パノプティコンをはじめ、フロイトのエディプス化の結果として、父権的な審級を自分の中に内面化した主体であるとか、ウェーバー的な自己に責任をもつ主体など。つまりなんらかの「抑圧装置」を内面化した主体、あるいは「対象としての自己」をコントロールする主体、ということが<人間>ということ


※自我理想とは、一般的にはフロイトの「超自我」のことであるが、ジジェクは次のように語っている。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

さて、looking awryの引用に戻る。(核心部分である

第三段階、すなわち「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。

※この第三の「病的ナルシスト」段階については、以下のものが参考になる。



(中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(……)


(浅田)再び社会学的に言うと、伝統志向や内面志向に対し他者志向こをがアメリカの大衆社会を特徴付けるのだというようなことは昔からリースマンなんかも言っていたわけですが、それでも、基調としては、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』じゃないけれど、自己が責任ある主体として行動するというディシプリンが支配的だった。それが原理としても承認されていたし、フーコーの言うような権力装置としても機能していた。

しかし、それがある時期から機能しなくなる。エディプス化によって父権的価値を内面化した自己責任の主体などというものがもはや成り立たなくなり、権力装置のほうから見ても、ディシプリンを叩き込んで主体化するなどということはもはや経済的でないのであきらめて、それこそ学校の門には金属探知機をつけるといった形で直接電子的にコントロールしてしまおうというように、フーコー/ドゥルーズの言葉でいえば「ディシプリンの社会」から「コントロールの社会」への移行が進む、それがおっしゃったような変化にもつながるのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)

 2、ハイパーメディア社会における自己・視線・権力 2、コンピュータと超パノプティコン


(浅田)フーコーが言ったパノプティコンのポイントは,真ん中の監視塔から常に見られているということではなくて,実際は真ん中から見られていなくても,見られているかもしれないから,そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまうということだったんだけれど,いまもし電子メディアですべてが透明化して社会全体が超パノプティコンになるとしても,その場合に,超越的あるいは超越論的な視線というのがどこにもないから,それを内面化して,主体を二重体として形成するというモティーフもないということになるんじゃないか.

(大澤)権力が持続的なディシプリン(規律・訓練)の作用を持つかというと,そうはならない.これは,少なくとも教科書的なフーコー理解の中には入っていなかった事態だと思うわけです.つまり,パノプティコン的な事態が本当に起きているにもかかわらず,そこでは結果としては19世紀的な主体性というのは全然出てこない.われわれのパフォーマンスは常にチェックされているのに,それが持続的な主体のアイデンティティに結び付くということは全くないわけでしょう.つまり,持続的に管理されているのに,先験的な主体の視線なんてものは,全然内面化されてこない.これは,ちょっとアイロニカルな結果だと思うんですね.そういうことを,いまのデータ・ベースに関して考えたんだけれど,構造的によく似たような事態が電子メディアが関わるいろいろなところで起きているんじゃないかなという感じがしているんです.

浅田――だから,ドゥルーズがフーコーを踏まえつつさらに現状を展望して,ソヴリンティ(君主権)の時代があり,ディシプリンの時代があったけれども,いまはコントロールの時代だと言っているわけですね.しかし,そのコントロールの時代というのは,逆説的にも,ディシプリン以前の時代と通底するところがある.



このあたりから、現在の状況は、遠い昔への退行的な状況であり、一部の識者から、絶望的なつぶやきなどが生まれる所以である。


さて、ところがジジェクは、上記のような話は、社会心理学的にはすでに常識の部類に属する、といいつつ、さらに次のように述べている。


だが、たいてい見過ごされているのは、自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。

今日の「寛容な」社会は、「組織人間」、つまり官僚制の強迫的な召使の時代よりも「抑圧」が少なくなったわけではけっしてない。唯一の違いは、「社会的交渉の規則への服従を要求しつつ、その規則を道徳的行動の掟に根づかせることを拒む社会」においては、つまり自我理想においては、社会的要求は非情で処罰的な超自我の形をとるということである。

Today's "permissive" society is certainly not less "repressive" than the epoch of the "organization man," that obsessive servant of the bureaucratic institution; the sole difference lies in the fact that in a "society that demands submission to the rules of social intercourse but refuses to ground those rules in a code of moral conduct,"15 i.e., in the ego-ideal, the social demand assumes the form of a harsh, punitive superego.

上記の内容は、ジジェクは後ほど「ラカンはこう読め!」のなかで、より具体的に、わかりやすく説明している。「ポストモダン」をめぐって、あるいは「猥雑なる超自我」



…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。
          

ここで言われる「猥雑なる超自我」が「母なる超自我」であり、すなわちラカンの「現実界」である。
上記の文脈からいえば、「病的ナルシスト」である現代の主体は、「何を欲するか」まで、「母なる超自我」によって命令されていることになる。再度引用するなら、この箇所である。

象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。

こういったジジェク=ラカンの理論から、大澤氏の次のような発言もある。ラカン=ジジェク派としての大澤真幸――『<自由>の条件』より


(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。



どうだろうか。「情報」「コミュニケーション」などを新しく錦の旗にした「新しい言説」を旧来派が徹底的に批判する根拠のひとつがここにある。ジジェクの主張によれば、内的な自由さえ奪われている、ということだ。再度引用すれば、そこにあるのは、

自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。

では、どうすればいいのか。ラカン=ジジェクの解答は、

ラカンにとって、唯一の正しい審級は、三つからなるフロイトのリストにはない第四の審級、すなわちラカンが時おり「欲望の法」と呼ぶ、欲望に従って行動せよとあなたに命令する審級である。ここで重要なのは、「欲望の法」と自我理想(主体が教育を通じて内在化する社会的・象徴的規範と理想のネットワーク)との差異である。ラカンにとって、道徳的成長と成熟へと導く、自我理想という一見善意にみちた審級は、現存する社会的・象徴的秩序の「理に叶った」要求を採用することによって、「欲望の法」を裏切るよう強いる。過剰な罪悪感をともなう超自我はたんに自我理想の必然的な裏返しであり、われわれに「欲望の法」を裏切らせるために、耐えがたい圧力をかけるのだ。超自我の圧力の下でわれわれが経験する罪悪感は幻想的なものではなく実際の罪悪感である。「ひとが罪悪感を持ちうる唯一のことは、自分の欲望に関して譲歩したこと」であり、超自我の圧力はわれわれが自分の欲望を裏切ったことについて実際に罪があるのだということを示している。。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

このあたりを、「欲望」だけでなく、「欲動」、あるいは、ラカンの最晩年の「サントーム」概念を考慮して、もう一度捉えなおそうというのが、ラカン理論主流派の立場である。資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)



果たしてラカン=ジジェクは古くなったのだろうか。