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2014年10月6日月曜日

集団いじめへの「選択的非注意」

@kdxn: 結局この3年間重点を置いてやってきたことというのは、気楽に足を引っ張ろうとするやつの腕をがっつりつかんで離さず、不快な気分にさせるということの繰り返しだったのかも。その不快さの中に、問題の本質があるんだよ。(野間易通)

そうだな、反差別は差別の温床になるなどと言い募るだけで
なにもしないツイッター「正義派」の連中が大なる「標的」なんだよ

次は、ひどく「左翼」に怨みがあるらしい「マイノリティ=ひきこもり当事者」の
最近のツイートだがね(名前を挙げないでおくよ)。

いじめや差別にも言えることだが――集団的暴力については、メタなスローガンや「思い込み」はどうでもいい。左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている。それは(いわば)唯物論的に検証すべきことで、彼らの自意識はどうでもいい。
差別の再生産装置として、左翼・リベラルの言説こそが、ひどい機能を果たしている。たったこれだけのことすら、まったく論じられていません。

もっともらしくTwitterでどっちもどっち論を繰り返し
ネトウヨの猖獗に貢献している「インテリ」くんたちの典型ツイートだな

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?


…………


まずはヘイトスピーチやレイシズムなどと言わないまでも
いじめやら嫌がらせという語彙群でいいのさ
嫌がらせる“harass”は語源としては侵略する、悩ますだが
ジジェクはこんなことを言っているな

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

とすれば、この曖昧な意味づけがなされてしまっている言葉よりも
あれはーーたとえば在特会の連中がやっていることはーー
まずは「いじめ」のほうがいいのかもしれない。

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。 鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」ーー何もしないことのエクスキューズ

「在日」にGo home!というのは相互性がないよな
 街中でその集団いじめがあるのだよ
そのいじめを警察やマジョリティは見過しているのだな

池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫

徒党を組んだいじめ集団に苛立っても
少人数で対抗するのは難しいからな
選択的非注意」に憩うのだろ、きみたちは。
ーーそうだな、オレもやってきたよ
きみたちもいじめやら痴漢やらをみて
犠牲者にならなくてよかったという安心感を抱くのだろ?

《まるでありふれた風景を見たかのような通行人の無視、
それが警察右翼による在日に対するいじめを
普通の出来事として受け容れられる素地を作りだす》(ジジェク変奏)
ってわけだな

そうさ、きみたちは高度の政治的選択をやっているのさ
《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に
無自覚であることの高度の政治的選択》というやつだな
あるいは《政治からは顔をそむけるふりをしながら
彼らが演じてしまう悪質の政治的役割》でもいい

 …………

遠巻きに「このようないじめは決して許すことはできません」
と言っても効果は現われないのは「経験上」知ってるよな

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

で、仲間を集めて、すなわちいわゆる「集団的暴力」で対抗して、
たとえば「レイシスト死ね!」と言って何が悪いんだろ?




導火線つけるには、あれしかなかったんじゃないかい?
「暴力」が嫌いな「善良な」手合いがいるのは分かるさ
足をひっぱるのだけはやめとけよ

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。
かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、
自分を善良だと思っている。》
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
ーー「いまヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか


@kdxn: ずーっと何年も人数が少なかった反ヘイト・カウンターおよびいろんな反レイシズム活動が去年爆発的に増えた本当の理由は、たぶん「しばき隊がムカつくから」だったんじゃないかと想像しております。

@kdxn: だって自分はレイシズム批判をずっとしてきたのに、しばき隊みたいなのだけが目立ったらイヤだし、だったら自分でも何かしてやるわい!みたいになるでしょ。ルイシャムの戦いがあらゆるメディアから総叩きになったのに、その後反レイシズムの動きが活発化したって話と似てるよね。(野間易通)

ーーとあるんだからさ、しばき隊にムカつくのはいいさ
ツイッターで手だけ動かして、正義派ぶるのだけはやめとけよ
反野間でいいんだから、顔はしばき隊の方じゃなくて、レイシストに向けろよな


山谷えり子サンが国家公安委員会委員長、すなわち警察のトップなんだからさ
インテリくんたちは何か決定的なところを外してるんじゃないかい?




総理大臣かい? 最近は名前を挙げるのさえイヤになったね








在日外国人などに嫌がらせをする目的で、徒党を組み、商店街に入って行こうとするレイシストが、カウンターや警察に行く手を阻まれると(ほんとは警察が率先してレイシストの嫌がらせを阻止すべきだったのですが、カウンターがレイシストの妨害をするようになってから、ようやく警察も動いてくれるようになったので、「警察やカウンター」ではなく、「カウンターや警察」という順序で書きました)、ワンパターンのように「ここは日本だ! 日本人が日本国内を自由に通行して何が悪い!」と喚きます。  

しかしナニ人であれ、迷惑行為を目的に、ある場所を通ろうとする場合、止めることは当然です。  

迷惑ならカウンター側もかけているかもしれませんが、これは警察のような権力を持たない市民が、迷惑行為加害者の進行を妨げるには、「人数」という武器に頼るしかないからです。  

仮にビルの上などから、レイシストを狙撃しても構わないのであれば、少人数で事足ります。しかし、そんなことはできませんから、やむにやまれず大勢の怒号を持って、レイシストの嫌がらせを止めるしかないのです。  

ここまでしなければならないのは、警察がレイシストの嫌がらせ行為を黙認してきたからです。そして日本に、ヘイトスピーチ規制法が存在しないからです。  

警察がヘイトスピーチ規制法を根拠に、サクッとレイシストを取り締まってくれるのであれば、カウンターが大挙出動する必要もありません。  

逆に、ヘイトスピーチ規制法が作られないのであれば、カウンターが大勢でレイシストの嫌がらせを止めるのも、やむを得ないことと心得て下さい。  

ここまでわかりやすく書いても、尚文句を言いたい方は、まずレイシストに言って下さい。しかし文句だけでレイシストの嫌がらせをやめさせられるのであれば、やはりカウンターはいりません。(大石規雄BLOG 低く 飛ぶ

 などと「引用」しても、馬の耳に念仏なのはわかってるさ

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(第2の戦前・今日  加藤周一 2004ーー「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より

やっぱりこうでも言っておくより他ないんじゃないか、
善良な「どっちもどっち」論者のインテリくんたちに対しては。

人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。

その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』

まあオレは中上健次ほどまでは言うつもりはないがね
だがまっとうな人間としてものを考えてみろよ、
たとえば次の文を。


野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼ら は「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」と いう話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだっ て聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が 不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中に も不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができ るわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、 でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みた いな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと 普通に考えろよということです」(何もしないことのエクスキューズ)




2014年9月29日月曜日

何もしないことのエクスキューズ

またなんたら言ってくるヤツがいるがね
コメントもらったら、一応は読んでみることはするよ、オレは
返事するかどうかは気分しだいさ

コメント欄など閉じたらいいようなもんだが、
設定変更ができなくてね

このブログアカウント、何度もパスワードを換えてください、
という警告があって、それに従って何度も換えたんだが、
そうしたら最後に換えたパスワードを失念してしまったのだな
予備携帯連絡にも応答がなくて、たぶん電話番号も間違えて入力したんだろうが。

いずれにせよオレに反論しても致し方ないぜ
野間易通、ツイッターやってんだから直接文句入れたらいいだろ?


…………

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

まあ、この主張からすると、オレは「正義」の人じゃないがね。
痴漢やいじめは何度か見過してきているからな
というかそれが皆さん同様、オレの「常態」さ


池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」)

一度、見過してしまうと、こうなっちまうんだろうな、ハサミ状の拡大さ。

それは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い。》

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。(アラン『四つの徳』

ーーこれはプラトンの『国家』起源の話だがね
「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン)
の引用でいまは胡麻化しておくよ

ここでオレの悪い癖で、
マキャベリ=ニーチェの「徳」なんてことは言わないでおくよ
ーーいや、すこしだけ言わざるをえないな

マキャベリの「運ファルトゥナfortuna/力(ヴィルトゥVirtù)」
におけるヴィルトゥ(気概+正義)

「正義」とは実は気概に大きくかかわるもので、
野間易通の「正義」は、「ヴィルトゥ」や「徳」と「翻訳」したいところだな。
すなわち《有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)》(ニーチェ)


野間易通は「ヘイトスピーチ」への「カウンター」をめぐる文脈で
あのようにツイートしているはずだが、
そしていくら在特会に罵倒を駆使しても「オレは正しい」。
安倍死ね! といっても「オレは正しい」、と。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(中井久夫)

そして、中井久夫のいう入念な自己吟味を搔い潜ったあとの
男の言葉だと「錯覚」に閉じこもり得るのさ、オレには。


要するに次の図が彼の主張を的確に表わしているんだな



「旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通」より


これは罵倒でも「相互性」があるかどうかを指摘しているんだよ

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」ーーマジョリティの「選択的非注意」

で、野間易通は次のように言ってんだから、貴君は貴君なりになんたらの「正義論」--きみのはロールズじゃなくて、ローティらしいがーー言及しないで、まずは文句いったらいいじゃないか

@kdxn: ルソーだのロールズだのカントだのを持ちだして語るのが正義論で、日常の人間心理のしょーもない話はそれとは別、みたいに考えてるから、明らかな不正義を目の前にしても固まって終わりなんだよ。正義が観念の中にしか存在してないんだよね。

まあローティを持ち出したかったら持ち出したらいいさ、
リベラル・アイロニストってやつだろ
だいたいオレはローティなんて知らないからな
ただジジェクや浅田彰のボロクソ批判を知ってるだけさ
《ローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学》(浅田彰)

ローティにとって、リベラルとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」のことである。また、アイロニストとは、自分にとって重要な信念や欲求が、時間と偶然の範囲を超えた何ものか、つまり〈真理〉に関連しているのだという考えを捨て去る人のことである。(寛容・普遍性・肯定―「正義論」の脱構築―稲田真人)

ーーってことらしいな
「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」だったら
死ね! っていったらダメなんだろ、どんな場合もな

オレはこっちのほうが好みなだけさ

なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思った……(中上健次『鳥のように獣のように』)

というわけで、オレに反論するなよな
オレは次のようなことを語る野間易通に「惚れ惚れ」してしまっただけさ
一応は、デモの猥雑な補充物としての「享楽」もおさえつつの
「惚れ惚れ」のつもりだがね

野間易通は運動の「中心者」になることをしきりに避けてようとしている、
「議論しないこと」と「ほっとく」能力という主張から
権力の中心となることを避けようとしていると読めるからな

would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? The Parallax of the Critique of Political Economy


反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!

しばき隊に対する批判的言説への反論は、マスコミ以外にも向けられる。一部の「左翼」 勢力もまた、野間たちに対して「いちゃもんをつけてくる」という。いわく、「ポストモダン、ポ ストコロニアリズムの泥沼のなかで何が正しいのか分からなくなった人たち」。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうに も問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、とい うことに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言 った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この 問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもな んでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」 見せかけの公平さを装うことは、たしかに「無難」かもしれない。だが、それが報道の精神 ではないのか。

「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公 平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を 叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。 しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。そ れは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身は その議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」

野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼ら は「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」と いう話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立 場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要で すか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだっ て聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が 不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中に も不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問 題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができ るわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、 でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みた いな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと 普通に考えろよということです」

野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっ ているという。

「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴 走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観 の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポ ストモダンの失敗例なんです」

ーーで、わかるだろうな
きみだけではなく、この記事自体が
「何もしないことのエクスキューズ」であることが。

ただオレの言いたいのは、何かをしかかっている若者を
何もしないように誘う言葉だけはやめとけよ、ということだけさ


行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」)

ーーとだけ引用するのはマズイかな
肝要なのは、入念な自己吟味を搔い潜ったあとの「行為」だからな

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)



2014年9月26日金曜日

「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」

昨日からツイッターで、在特会とカウンターの
「どっちもどっち」論が賑わっているな
日本の政治に無知の身で「反応的」に書くのは、
マズイに決まってんだが
たまにはやってみたくなるものだ。
ただしよい子はやらないように、と忠告しておくよ

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

@TomoMachi: だからさ「安倍死ね」とか言っちゃ在特会と同じだってば。大多数の人の支持は得られないってば。政権を本気で変えたいなら大多数の支持を得なきゃならないでしょ。それを考えない運動なら、本気じゃない。ただのオナニーだよ。@bcxxx.

「大多数の人」ってなんだ?
まずは「何もしない人」だな

@TomoMachi「何もしない人」を批判するのではなく、そういう大多数の人々の支持を得ないと社会は変えられませんよ。 RT @royterek: 「そういうやり方では人は増えないよ」とだけ言って自分では何もしない人たちについては偽善的なものしか感じません。

嫌韓・嫌中本が売れているらしいが
それを購入する連中がマジョリティかどうかは断言しないでおこう。
だがたとえば丸善や三省堂のていたらくを
見て見ぬふりするのがマジョリティには相違ない。
嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」だって?

ところで教師や研究者はマジョリティだろうか

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

学者やケンキューシャ諸君も「大多数の人」の仲間だろうよ


フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』私訳)

フロイトだってこうだからな
「学者」という人種はこんなものさ

《学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。》(ニーチェ『悦ばしき知』)

・排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイートを「翻訳」したもの→元ツイート

で、このような「 大多数の人」の支持を得るというのは、
「カウンター運動者」の振舞いを見ているかぎりはすこぶる困難さ

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(野間易通語録

というわけで、次のような連中がうじゃじゃ這い出てくる。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

さて冒頭の町山智浩氏のツイートに戻れば
マジョリティの支持を得ないと「政権」は変わらないだって?
ご尤も、なんという「正論」!


オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。



「安倍死ね」がダメだったらこんなのはどうだろう?

@sosodesumus: 安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!今日は災厄の日だ!!! 馬鹿とキチガイによる、ばかのための、のうたりんの政治。こんな責任を誰が分かち合うのか。(鈴木創士)

これも町山氏にはダメかね?

白状しろよ。
いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。
安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。
田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。(辺見庸

あるいは「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)なんてのはどうだい?

さて言わせてもらえば、問題は 「マジョリティ」の支持を得ることではないのだよ

@royterek .@TomoMachi あくまでデモへの参加という点ではという意味です。3・11以降の社会的抗議の高まりの中で、穏当な表現のデモはことごとく「ただのお祭り騒ぎ」などと揶揄されてきました。少なくとも直接動員という点では、ストレートな抗議の方が好まれることは官邸前抗議以来の常識です。

 湿った瞳を交わし合い頷き合って「絆」やら「寄り添う」とかいってる
共感の共同体の連中がマジョリティなんだぜ

真の敵は在特会でもネオナチの連中でもなく、
「共感の共同体」に憩い切っている連中、
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)
をもった「大多数の人」なんじゃないかい? 
あのマジョリティの大半はひそかなレイシストだったらどうだろう
もっとも、かつての岩井克人のように
ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ
とまでは言わないでおくが。

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」の歯車がスムーズに動いているぜ
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが。

数十年前、ある婦人が、ブルックリンの大きなアパートメントの中庭でゆっくりと打たれて嬲り殺しになった。窓から何が起こっているのかをはっきりと見た七十人以上の目撃者がいたのだが、ひとりも警察を呼ばなかった。どうしてそうしなかったのか? のちの取調べでの大方の言い訳は、どの目撃者もだれか他の人がすでに報告しているだろうと思い込んでいたというものだ。この事実は、道徳的な臆病とかエゴイスティックな無関心のたんなる言い訳として、道徳的に払いのけるわけにはいかない。ここでわれわれの直面していることもまた、大文字の他者の機能である。今度は、ラカンの「知っていると想定された主体」ではなく、「警察を呼ぶと想定された主体」とでも呼ぶべきものである。(私意訳)

Some decades ago, a woman was slowly beaten to death in the courtyard of a big apartment block in Brooklyn; of the more than seventy witnesses who clearly saw what was going on from their windows, not one called the police. Why not? As the later investigation established, the most prevalent excuse by far was that each witness thought someone else would surely have already reported it. This fact should not be dismissed moralistically as a mere excuse for moral cowardice and egotistic indifference: what we encounter here is also a function of the big Other—this time not as Lacan’s “subject supposed to know,” but as what one might call “the subject supposed to call the police.”(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)

※ 「知っていると想定された主体」については、<ラカン派の「転移」のいろいろ>を参照。


「嬲り殺し」の高みの見物と似たようなもんじゃないのか、
たとえば「在特会」やら「ネオナチ」の動きをほうっておくのは。

湿った瞳を交わし合うのみで、
誰かがネオナチをとめてくれると想定しているだけの
去勢された子羊たちが「マジョリティ」ではないか

それともこっち系かね
ネオナチや在特会は「ほんとうの問題」を提起している
とひそかに思っている類だってマジョリティかもな

彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006

共感の共同体に憩っている手合いってのが、
田母神を「ほんとうの問題」を提起しているなどと言い出す
その境界線を跨ぐまでに半歩ほどしかないかもな、
いやもう越えているのかい?

「具体的に憲法を取り戻す。国軍を創設する。歴史を取り戻す。つまり東京裁判史観から脱却する。教育を再建する。このような今、国民が熱望している緊急課題、そしてもちろん領土を守る。拉致された国民を救い出す。これを具体的に実行できる国家体制をつくるということは、国民の総意なくしてはできない。その先頭に田母神俊雄閣下になっていただくということだ」(田母神氏「タブーない政治を」

いずれにせよ、正義の味方くんやら正論くんたちよ
ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?
ってことだよ、とくに町山智浩やら彼のツイートを大量RTしている手合いというのは。

オレが役に立っているなどと自惚れるつもりはないがね
すくなくともヘイトスピーチやネオナチへの「カウンター」運動者を
微力ながらサポートしたい心持はあるな
そしてそれに反する言葉には反吐をはきかけたいね

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)


あるいは次のようなことをことあるごとにつぶやく手合いがあまたいるんだが
(貴君らふたりにはなんの怨みもない、サンプルとして使わせてもらうだけだからな)

@ueyamakzk「意図がなくても差別だ」というのは、 まったく同じことが、左翼・リベラルについて言えます。意図として「差別に反対している」ことは、その人の言動が差別に反対していることを保証しません。

(以上の主張は、tweetやブログで何度かくり返していますが、折にふれて提示するつもりです。主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています。)
@unorthodox_TW: 私が危惧するのはやはり、他の差別者が「ヘイトスピーチ」のみを殊更に非難してみせて自分の差別性の隠れ蓑にすることであり、差別の問題を語るにあたってそれはゼロどころかマイナスの影響しか及ぼさない、ということです。 @dattarakinchan

ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」
ってわけでもないだろう、お二人さん
そろそろ役に立ったらどうだい?

それともただの「善良」なひとなのかい?

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


《@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。》(「議論しないこと」と「ほっとく」能力


繰り返せば、いま問われるべきは、
「大多数の人の支持を得」ることではないのさ
たとえばマスコミの記者だって、
「安倍のケツを、ペロペロと舐めてる」手合いがマジョリティなんだから


「行動「であり「態度」ーー、それが「大多数の人」の思考の牢獄の座標軸を
わずかでも揺り動かす可能性をもつ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

真の敵はこのソフトな閉塞の奈落の底へと吸引する
「共感の共同体」の不可視の牢獄なのでではないか。

カウンターの動きにおける「おみこしの熱狂気質」の傾斜に十分に心を配りつつ
ムラ社会の無責任性、ヒットラーが羨望したといわれる会社主義corporatism
すなわちいつのまにかそうなる「なあなあ主義」に抵抗しなくちゃな

《その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。》(中井久夫

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

《根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。》(同ジジェクーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」


根源的悪とは、パトローギッシュな理由から、「安倍死ね」という罵倒を、社会的規範に反するとして批判することだ、と言っておこう。



…………

※追記:ははあ、町山氏だけでなく「リベラル」なおっちゃんがぞくぞく湧いている。


◆小田嶋隆氏と野間易通氏(2014.9.26 4.30PM前後のツイート)

@tako_ashi: 「行動もしてないヤツが文句言うなよ」てなことを言って、行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。永遠に「行動する勇気を持った少数者であるオレ」であり続けたいということなのか?
@kdxn: 「反ヘイト程度のことでいちいち誰かの運動に "加わ" らずに自分でやる人が増える事態」ですかね。客商売じゃないので。RT @tako_ashi: 行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。

@kdxn: こういうこと言う人って必ず最初の段階で大きな間違いをおかしています。RT @tako_ashi: 行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化 まあ、一本道ですよ。

@kdxn: その「大きな間違い」とは、「行動しないマジョリティーを軽蔑」の部分で、ここは正しくは「行動しないでトンチンカンな論評ばかりやりたがるマジョリティーを軽蔑」です。単に行動しないだけの人は単に誘われたりするだけです。@tako_ashi

@kdxn: さらにもうひとつの大きな間違いは「主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除」ってところで、そもそも排除する主体も枠組みもないのに、何から排除されるというのか。あなたたちは単に反批判されているにすぎない。@tako_ashi

@kdxn: 同じ組織の「メンバー」でもないアカの他人に単にネット上で反批判された程度のことで「セクト化→カルト化→テロ化」とか陳腐極まりないこと書くのやめてほしいです。もう飽きた。それとも「メンバー」にならないと何もできないの? @tako_ashi

ーーさあ、貴殿たちも、よーく考えてみよう 、
どちらがわれわれの社会の「悪」なのか

町山氏も小田嶋氏も相対的にいえばマジョリティに好まれている書き手なのだろう。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

ーーこんな書き手というべきかどうかを判断するほどには、わたくしは彼らのことを知らないが。


※参照:寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか



2014年9月16日火曜日

「議論しないこと」と「ほっとく」能力

また「野間易通」話題だ。ややしつこすぎるし、彼を顕揚しすぎるのは、わたくしが政治的にナイーヴなせいかもしれないが、それはこの際どうでもよろしい。ひとはまず誰かを褒めてみるものだぜ。

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

…………

◆野間易通ツイート(2014.09.14)

「議論しないこと」って、実はすごく重要。みんななぜか「意見が違うなら話し合うのがよい」と思ってるでしょ。まあ敵とはそれでいいんだけど、「味方」とはそうしないほうがいい。するならケンカを。

なかなかうまく言葉にできないが、この「議論しない」というのはけっこう意識的にずっとやってきた面がある。他の人は知りませんけど、TwitNoNukesもしばき隊も合議制ではないし、意思決定は「民主的な方法」では行われていない(反原連は合議制)。

この、民主的な合議制を取らないことの引き換えに、組織の形態を取らないということがある。意見が違う場合はどんどん離脱して分裂して、新しいことをやっていけばいいわけで、しばき隊からプラカ隊やらなんやらが生まれたのは全部そういう方式を取ってるからなんだよね。

なので、みんなが「◯◯会」をつくったとか、なんとか団をつくったとか、それで会長だの代表だのの肩書をいちいち名乗ってるのは、なんかゴッコにしか見えないんだよね。遊びではなく真剣にやってるのはわかってますが。そんなにみんな一家の長みたいなのに収まりたいの? それでは広がらんで。

なんで味方陣営同士だと「議論しないこと」が重要かというと、だいたいの方向性は一致してるから、細かいとこまで詰めて合意する必要がないから。それでも議論したいならすればいいけど、全部ケンカに終わってるでしょ。だから最初からケンカのつもりでやれって。

逆に敵とはおおいに議論すべし。それも公の場で、目的は相手を説得することではなく論破すること。相手の間違いを広くいろんな人に訴えるため。「味方同士」の議論なんて、たいていどうでもいい人間関係のいざこざだし、それに時間取られてる場合じゃないでしょ。友達やめたらすむことやがな。

俺ってなんて冷たい人間なんだ……。でも味方同士のことはナァナァにしとけばいい。ナァナァにできないことがあるなら、それはもう「仲間」じゃないからどんどん決裂すればいい。決裂して自分で立てよ。そのほうが結果的に運動は多様になって、人数も増えまんのや。

あと俺と飲み会で一緒になったことある人わかると思うけど、俺って会うと超いい人でしょ? なぜか。「こいつアホなこと言うてるなー」と思ってもたいていニコニコとその場をやりすごしてるからじゃ。酔ったやつとする議論ほど無意味なものはないんじゃ。それは暇つぶしなんじゃ。

それでも許せない発言があったらさすがにケンカになるよね。で、そこでケンカしたら人間関係壊れますやん。そしたら次は別々の飲み会に行くようになるでしょ。これでまた少し広がるんですわ。反レイシズムに関しては「だいたい一緒」なんだから、これでいいのよ。

野間易通氏は、運動の「中心者」になることをしきりに避けてようとしている、権力の中心となることを。その姿勢のひとつが上の文に見事に現れている。ここには辺見庸のいう次の態度の実践者がいるように思う(もっとも即断は避けねばならない、彼にもどこかに落度はある、すくなくともあったはずだろう、その失敗の積み重ねによる者の言葉でもあり得る)。

 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録

組織がファンクラブになってしまったときの先行きは見えているのを、いままでの「運動」から学んでいるのだろうし、なによりも行動者・運動家の長年の実践から出てきた言葉として尊い。

まあ、僕は運動家じゃないのは初めからわかっているので、二、三年で誰か実践的なリーダーが出てきたら引っ込もうと思っていましたが、僕が悠然と引っ込めるような体制にはなりませんでした。NAMがうまくいかなかった理由の一つは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。(中略)もう一つは、運動に経験のある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかし、ファンクラブというのは実は互いに仲がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、むしろ柄谷批判をすることが真のファンだと思っているから、その中で軋轢が生じる。(『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)ーー「柄谷行人ファンクラブ」)

野間易通氏には、《そもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、……》という発言もあることから窺われるように、柄谷行人のNAM運動とその失敗への吟味から生れた、権力の中心はどうあるべきかという思考の裏づけからくる発言をもしているはずだ。もっともNAM運動と彼のやっている「カウンター」は運動のやや性格が異なるという観点をもつ人がいるだろうが、それはここではいったん脇にやる。いったん? いや後述する余裕はないので、次の文だけを挿入しておこう。《NAMの「原理」はいわば遺伝子であって、資本=ネーション=ステートというガンのなかに、対抗ガンを作り出す》(NAM〜New Associationist Movement(2000-2003))。野間易通の「カウンター」のあり方は「対抗ガン」に相違ない。(旧称「レイシストをしばき隊」は、今は「C.R.A.C」となっている。クラック? 割れ目、裂け目だーーどうしてこの名から「対抗ガン」を想起していけないことがあろう?

もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

そして野間易通には、ジジェクの柄谷行人批判(吟味)さえ念頭にあるように思う、それはその権力のフェティシズムfetishism of powerを怖れ、権力の「場」の神秘the very mystique of the PLACE of powerから免れようとする態度からの憶測に過ぎないが。

But is this effectively enough to undermine the "fetishism of power"? When an accidental individual is allowed to temporarily occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: "I know very well that this is an ordinary person like me, BUT NONETHELESS... (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!" Does all this not fit the general matrix of Kant's solutions where the metaphysical propositions (God, immortality of the soul...) are asserted "under erasure," as postulates? Consequently, would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? (The Parallax of the Critique of Political Economy

彼がジジェクを参照しているかどうかはどうでもよいことであり、おそらく自らの経験により、そのような結論を得たのではないだろうか。

《みんなが「◯◯会」をつくったとか、なんとか団をつくったとか、それで会長だの代表だのの肩書をいちいち名乗ってるのは、なんかゴッコにしか見えないんだよね。遊びではなく真剣にやってるのはわかってますが。そんなにみんな一家の長みたいなのに収まりたいの? それでは広がらんで。》





…………

ところでスローガン的発言(キャッチーさを主眼におく)を中心にして発言は、「思考」のレベルでは、それを鵜呑みにすることはでき難い。

@kdxn:アベノミクスの失敗やな。@MSN_Nagato https://twitter.com/kdxn/status/511387603740803072 … pic.twitter.com/mK7883VpHB(2014.9.15)

これだけ読んで(すなわち「貿易赤字はすべてアベノミクスのせいだという見解を読んで)、われわれはただひたすら頷くだけにはいかないだろう。

たとえば、少なくとも次のような分析を参照しなくてはならない。そして、これも数ある分析のひとつに過ぎない。



≪主因は製造業のアジア移転≫

 だが、貿易赤字自体を罪悪視する、「貿易赤字で大変だ」といった議論は根本的に誤っている。赤字が悪くて黒字が好ましい…まさに重商主義の発想に他ならない。アダム・スミスの名著『国富論』は相当部分を重商主義の誤りを正すために割いている。過去の実証分析でも、貿易赤字で成長率が低下するとか金利が上昇するといった傾向は認められていない。

 第2の誤りは、貿易赤字は原発停止-燃料輸入増によるとの見解だ。JPモルガン・チェース銀行の佐々木融氏が提示する分析によると、過去3年間の貿易収支悪化の約3分の1はエネルギー価格上昇と円安が理由だ。エネルギーの輸入増ではなく、価格要因(円安と国際価格の上昇)である。

残りの大半は対アジア貿易収支の悪化、アジアからの輸入増(機械など)で説明可能という。明らかに製造業が過去数年で生産拠点をアジアに移した結果だ。日本は景気回復で消費が拡大したが、国内製造能力の海外移転で輸出は増えず、逆に輸入が拡大する…。構造的変化が起きているのだ。

野間易通氏が先日リツイートしていたが、次の言葉はあれらの「カウンター」運動者の発言のありようを象徴するものだ。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

ここで古井由吉の言葉を並べて見比べてみることにしよう。

本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。切れ切れの話でやったららちがあかない。もちろん、複雑な事態を複雑なまま、できるだけ正確に伝えるのは難しいが。まずは、一つ呼吸を長くする、というようなことでしょうか。(古井由吉さん 衰えゆく言葉を鍛えよ

ファストフード的読者の席巻に同調する風潮、あるいは《若い人たちはマンガくらいしか読まないし、文学とか全然読まない訳です。そうやってマンガだけを読んで育った人が見る側もほとんどなので、ものすごく子供っぽくなっている》(桃井かおり)というわけだが、なにかを主張したければツイッターなどのSNSにて「わかりやすく」スローガン的な言葉だけを顕揚する風潮には警戒しなくてはならない。すなわち野間易通氏のときにある「挑発的・スローガン的」発話をすべて鵜呑みにするわけにはいかない。しかし冒頭に掲げられたようなツイートは、ひどく傾聴に値する。長年の経験に培われた「一つ呼吸を長さ」を感じさせる言葉である。


◆冒頭の野間易通氏のツイートと同じ時間帯に、佐々木中氏が、別の方のツイートに反応して書かれたドゥルーズの「議論」を否定することをめぐるツイートをしている。ここでは以前に呟かれた言葉を先に引用する。行動者としてもある佐々木中氏であり、その「政治的な」ツイートは、野間易通氏のものと同様に、傾聴に値する。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)ーー罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」

彼の他のツイートのいくらかはここに拾ってある→「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

だが、こうやって野間易通氏のツイートと並べて読むと、どこかに「弱さ」があるように感じてしまう(経験から生れた言葉ではなく、書物から生れた言葉)のは、--やむえないことだろう。

@noiehoie
でも、気をつけなきゃいけないのは、「洗脳したり支配してやろうとする奴は、この『話を聞いて欲しい欲求』をまずくすぐってくる」って事ですな。子供を巧妙に支配する親って、これの魔力に取り憑かれてるのよな。「一旦話さえ聞いてやれば、誘導できる」ことを知悉して、支配の道具にしてる。
@AtaruSasaki  仰る通りで、マネジメントや自己啓発に見られる安手の心理学の「傾聴」の応用なんて、一歩間違えればカルトですよね。@noiehoie

本当の対等な信頼に基づいた友情・愛情関係っていうのは、相手の言うことなんてまともに聞きゃしないし自分の言いたいことテキトーに全部言うけど、突然こっちのいうことをちゃんと聞いて深くわかってないと言えないことをグサッと言われて驚愕する、というものではないのか。

精神分析で言えば、フロイトと言う人は「傾聴」によって依存させるのも、しかしそれを突き放して依存から解放するのも天才的にうまい人だったよ。そして患者に絶対手を出さない。これについては講義でよく話す感動的な逸話がある。ラカンもそう。ちゃんと「自分から離脱」させないと駄目です。

ドゥルーズ=ガタリも共同執筆してるとき、つねに片方がしゃべりまくりその間片方はうんざりしていてて、それなのに不意に相手の言ってたことを自分が語りはじめ、その逆も起こり……ということを言ってる。

ゆえにドゥルーズは「議論」を否定し、別の水準の変化を重要視した。傾聴と透明なコミュニケーションを前提とした議論ではなく、もっと野放図な言葉の投げ合いぶつけ合いが真の変化をもたらし、支配関係のない真の集団性をもたらす。

ドゥルーズは仲間内でクネクネしてる人じゃない。議論を仕掛けられると「はいはいお説ごもっとも」って躱すし、いらないと思った人間は冷酷に撥ね付ける。ちゃんとものの本に書いてある。でも彼以上に愛に満ちあふれた哲学者っていないんだよ。身体めちゃ弱いのに鉄火場に強くてデモにも出てくるしさ。

というわけで、フロイトもラカンもドゥルーズもガタリも、俗流心理学や俗流ポストモダンとは何の関係もないから。無い。(佐々木中)

ここでジジェクのフロイトの政治的態度の批判を掲げておこう。

フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より 私意訳)

原文はここにある→ 「甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても


…………

◆数日前の野間易通氏のツイートも拾っておく。

@kdxn: 何よりも、在日と議論してボロカス言われたからといって「在日はなんでも差别と言う」とか「このままだと在日が嫌いになりそう」とかネットに書いてしまう人と、在日が対等に議論できるわけないじゃないですか。ひどい抑圧ですよ。それは周りがちゃんと批判しないと。@ndoro4 野間易通

@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。

@kdxn: 在日に「おまえはレイシストだ」と言われてカウンターやめるんだったら、しばき隊なんて結成翌日に解散やがな。「ザイトクとしばき隊なんてレイシスト同士のケンカ」と言われてたんだよ、在日に。でもそれって、在日にも日本人と同じぐらいの割合で馬鹿がいるという当然の現実を反映してるだけだよね。

…………

@kdxn: 凛さんの件ですが、今のところツイッター上で怒ってる人のほとんど全部が在日だということは、ちゃんと受け止めてほしいと思う。

@kdxn: 日本人は全然言及してないし、実際あんま怒ってない。なぜなら、「関係ない」から。でも在日の人は、凛さんの事件でものすごい恐怖を味わったはずです。

@kdxn: 凛さんの「生活保護不正受給」とされた件は、同様の事例が年間500件ほどあり、そのほとんどは日本人によるもので、刑事事件にもならない。仮にそういう刑事事件があったとして、日本人はその人に向けていちいち怒ったりしない。他人で知らない人だから。

@kdxn: これが在日の場合は、人数も少なく狭いコミュニティでそういうことがあれば、在日全体の印象が悪くなってしまう。この場合、在日全体に悪い印象を持つマジョリティのほうが間違っていてそれも差別なんですけど、実際にそうなってしまうんだから凛さんの同胞の恐怖は計り知れないものがあったと思う。

@kdxn: 年間500件の不正受給のほとんどに何も手を付けず、すでに返済済みの凛さんのものだけ逮捕・起訴して「犯罪者」としてテレビに報道させたのは明らかに警察の意図的な動きで、これは弾圧案件。しかし警察は、法的にはちゃんとNGになる事例を選んでそういうことをやる。

@kdxn: というわけで、いくら警察の弾圧だといっても、在日の人たちの恐怖や怒りにはちゃんと正当な理由があるので、そこは丁寧に対応してほしいと思います。

@kdxn: 日本人はこの場合、総体として在日に恐怖を与えている側なので、これに乗っかって一緒に凛さんを非難するようなことはやめたほうがいい。幸いカウンターの中には今のところそういう人は見当たりませんが。

@kdxn:というわけでこれは、社会的立場によって対応が変わってしかるべき事例だと思います。

@kdxn: あとスケコマシ問題とかいろいろあるけど、これは分けて考えるべし。仮に凛さんがダメ男だったとして、しばき隊に呼応して最初に立ち上がったのがそういう人しかいなかったのだからしょうがない。みんなの考える「まともな人」が立ち上がってればこうはならなかったけど、いなかったんだよ。

@kdxn: で、その意を決して立ち上がったことがひとつの原因となって警察にいらんことやられてるわけだから、そこは割り引いて考えたい。少なくとも日本人としては。

…………

@ARK_kandu: 野間さんの言ってた,つうのはこれ。泥さんも過労(たぶん極度の寝不足)で判断力落ちてると思います。(U) QT @kdxn: 本人連れてきて自分で反論させろよ。親かおまえは。

@kdxn: @ARK_kandu それ解決でもなんでもなくてスタート地点に戻るだけでしょ。で、自分の感情をコントロールできない人は、議論に向いてない。ていうか、いつまでチアフルの話につきあわせるの? 知らんがな。私が言ったのは「解決するな」ということ。君には無理だよ。

@kdxn: .@ARK_kandu なんでこんなトラブルを自分が「解決」できると思っているのか全くわからない。事実、あなたが種になって負のスパイラルを起こしたでしょう? 犯罪被害にあってる友人を助けるとかならともかく、個人の感情処理の問題を「解決」できるようなタマじゃないでしょう、あなた。

@kdxn: .@ARK_kandu みんな大人なんだから、いろんなことを「ほっとく」能力ちゃんと磨いたほうがいいですよ。そもそも「俺はもうやめてやる!」とか宣言してどっか言っちゃう人って9割9分復活するので、心配してあれこれやる必要は全くないです。本当に離反するのは黙っていなくなる人。

@kdxn: 「もうやめます」とか「休みます」とか「アカウント消します」とか、いちいち言わなくていいから。めんどくさいねん。勝手に休んだらいいやん。誰も文句言わんよ。

@kdxn: RT @鍵: もうやめます→構って 休みます→構って アカウント消します→構って


※参照:
1、旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通
2、罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」
3、「ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ

ーーさあて、これで野間易通話題をいったん打ち切りにすることができるだろうか?
オレにはわからんね




2014年9月15日月曜日

「詩は無駄なもの、役立たずの言葉」

またきみか
オレは「甘い」お話ききたくないんだよ
わかんねえのかな

…………

そよかぜ 墓場 ダルシマー  谷川俊太郎

騒がしい友だちが帰った夜おそく 食卓の上で何か書こうとして
三十年あまり昔のある朝のことを思い出した
違う家の違うテーブルで やはりぼくは「何か」を書いていた
夏の間に知り合った女に宛てた「別れ」という題ののそれは
未練がましい手紙のように いつまで書いてもきりがなかった
そのときもラジオから音楽が流れていて
その旋律を 今でもぼくはおぼろげに覚えている

そのときはそれでよかった
ぼくは若かったから
だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか
ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった

ぼくはよく話しよく笑ったけど ほんとうは静かなものを愛した
そよかぜ 墓場 ダルシマー
いつかこの世から消え失せる自分.......

だが沈黙と隣り合わせの詩とアンダンテだけを信じていていいのだろうか
日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情熱の騒々しさに気圧されて
それとももう手遅れなのか
ぼくは詩人でしかないのか三十年あまりの昔のあの朝からずっと
無疵で





「ふたつのロンド」より

六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型


…………

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。(……)

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎(震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎――<「芸術」「詩」の役割をめぐって(浅田彰、谷川俊太郎)>)

「震災後」、ツイッターの「クラスタ=村社会」内
すなわち仲良し小好しの仲間たちの間で
湿った瞳を交わし合い頷き合うのだけはやめたね
オレも詩やら芸術やらはどちらかといえば好きなほうなんだけどさ
クラスター内で「寄り添う」手合いは原子力ムラの連中と同じ穴の狢だぜ

原子力村ってのは国家寄生体だからな
クラスタ内で戯れ合っているお前らは「愛国者」なんだろうよ
やっぱりお前らネオナチの資質がぷんぷんするぜ

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)

「善良な市民」という名の「優しさ」にあふれた「愛国者」たちだね

@kdxn: もう3年ぐらい言ってるけど、原発を続けるかどうかは純粋に一部企業や業界の利益を守るか否かという問題であって、電力が足りる足りないとか、景気が上がる下がるとか、一切関係がないのよね。原発を今やめると膨大な損をする人たちがいる、それを国民が守ってやるかどうか。おこぼれは来ないよ。(野間易通)

貿易赤字や石油価格の上昇の可能性などを考慮してないだって?
まあいいじゃないか、でもこれはやっぱりこうなんだよ
原発再稼動容認なんてのは金持のための社会主義だね、

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008


いずれにせよ、ツイッターでどんな発言をしても「政治的」になるんだよ

象徴的権威の崩壊が意味するのは、どの倫理的体系も最も根源的な意味で「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とはまさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし他人と協議することである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私意訳)

どうも文芸のたぐいを呟いていると
原発再稼動だけでなく、レイシズム、ネオナチの猖獗という
《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に
無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
をやっぱりしている気がするんだな
ツイッターでのさえずりはすべて「政治的」であることに自覚しなくちゃな

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……( 同蓮實重彦『凡庸』)

もっとも谷川俊太郎のような態度を否定するものではまったくないさ
《詩を読んで人が心動かされるのは、
言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。
古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた》

詩だけでなく「芸術」は本来こういったものだろう
だがこういった態度をもつ「芸術家」が
湿った瞳を交し合ったり頷き合ったりするものだろうか
芸術愛好家のきみたちのように「かまってチャン」するもんだろうか

もちろんいまどきプルーストはどこにもいないかもな
《プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。
最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、
もっぱら月光のもとでのみ外出し、
ひたすら執筆に没入した。
記述を読むと鬼気がせまってくる。》(中井久夫)

未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

《ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、
事変はそのたびに、作家たちに、
そのような書物を判読しないための
べつの口実を提供したのだった》だって?

だったら「芸術家」たちが政治的発言するのは
真の創造的行為をしないための「口実」かもな

もっともプレヒトの言葉はあるがね

私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)


まあいいさ、ひとそれぞれだからな
だが仲良し子良しさんたちは
自らの「高度な政治的選択」だけは自覚しておけよ
きみらのようなインテリのつもりだか
感性がユタカだかのつもりになっている輩が
闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら
「やれやれ」と肩をすくめてみせる、
去勢されたアイロニカルな自意識の
マジョリティをいっそう鼓舞してんだからさ

サラエボの傘まで否定するつもりはないからな、オレは

雨よりも遙かに危険な砲撃に対して傘がまったく無力であり、それがいつ自分の頭上に炸裂するかもしれないと知っていながら、彼らは、それでも傘をさして外出するし、傘の選択には自分の趣味を反映させさえするだろう。それが現実というものにほかならず、砲撃から身を守るのに無力だという理由で、雨の日に傘を差す人々を嘲笑するのは、非現実的である。(蓮實重彦「柄谷行人 またはサラエボに住む人々も、雨が降れば傘をさして外出する」『「国文学解釈と鑑賞」別冊 柄谷行人』一九九五年所収)









2014年9月12日金曜日

「ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ」

◆《Japon: des photos avec un néo-nazi fragilisent deux proches de Shinzo Abe

おい、おまえオレのブログぱくっただろ? はあ
ネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダー」とそっくりじゃねえか

ーーもちろんジョークだが、このくらいしかウェブには情報ないんだよな
国家社会主義日本労働者党」の山田一成代表については

いずれにせよ仏ジャーナリズムの日本のネオナチにたいする熱心さは
日本のジャーナリズムの不感症をいくらか補ってくれるものには相違ない


野間易通御大は次のように語っている。

@kdxn · (9月9日) と、考えてしまいがちだが、大手新聞の記者がそこらへんいよくいる冷笑野郎やどっちもどっち論者みたいなのばかりだとしたらどうだろう? ばんちょう君の推測って、記者がまともであるという前提に立っているような…。RT@bcxxx安倍政権批判報道についてのマスコミの総すくみ態勢は、もはや確信を持たせるに充分なレベルに至っている。アメと鞭で圧力がかけられているのは間違いない。

というのも、そうした圧力から自由でゲスい記者満載の週刊誌も動いてる気配がないのは、やっぱあの写真程度のものはたいしたことないと考えてるとしか思えん。感覚というか、センスがもうそういうものになってる。ヘイトスピーチの問題だって順番的には同じだった。

若い記者なんてホリエモンとか家入一真みたいな政治観のやつばっかりなんじゃないのかなって気がしてる。90〜2000年代をエリートとして過ごした人たちでしょ。これいっぺん新聞記者の給料を工場労働者と同じぐらいに下げんと改善せんできっと。

ツイッターなんかにたまにいる匿名の現役記者っておそらく本当に大手の記者なんだと思うけど、新自由主義的にウヨッた冷笑か、そうでない場合はヘサヨ的なポーズだけの反権力みたいなのが多かった。ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ、きっと。

このところ彼に懲りすぎのきらいがあるが
彼のツイートにはことあるごとに刺激を受ける




オレの趣味からしても、これはちょっとやりすぎの気がするが
許してやるぜ、身長148cmらしいからな、このくらいやらなくちゃ

@kdxn · 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。


…………

ところで冒頭の話に戻れば
仏ジャーナリズムが日本のネオナチ報道に熱心なのは
仏では極右「仏国民戦線」が第一党(マリーヌ=ルペン党首)だからこそ、
日本のネオナチ傾斜に関心が向くという側面もあるだろう

標準的な“投影”理論、――その理論によれば、反-ユダヤ主義者はユダヤ人の姿に己れの否認された部分を投影するということーーそれだけでは不充分である。概念上のユダヤ人の姿は、反-ユダヤ人の内的葛藤の外在化したものには還元されえない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳ーー三種類の幻想、あるいは幻想と妄想

ここではジジェクが「それだけでは不充分だ」といっている箇所は割愛して
次のように言ってみよう
仏インテリは日本の政治の姿に己れの否認された姿、
「人間の顔をしたファシズム」を“投影”している(己れの内的葛藤の外在化)

人間の顔をしたファシズムとは次の文に由来する。
《中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ》
これは日本のマジョリティの姿かどうかは断言しないでおこう
だが似たようなものであるには相違ない。

私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼 が今や直接に労働者階級 に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!左翼 がそれをするときは、民族 的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ人」とか「移民 」云々で。極右 は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義 者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼 は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年 [大統領選挙 ]の第2回投票 の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右 を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト ・ポリティックの中道リベラルが極右の幽霊 を利用し、その想像上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治 対立の格好の例がここにあると私は思う。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006ーーー剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ

ジジェクのル・ペンをめぐる議論はここにもある。

When Jean-Marie Le Pen made a tasteless gas-chamber joke about a French Jewish pop singer – “we’ll do an oven load next time” (Le Pen denies this was intended to be anti-Semitic) – his daughter Marine Le Pen publicly criticised him, thereby promoting her image as her father’s human face. It is irrelevant if this family conflict is staged or real – the oscillation between the two faces, the brutal one and the civilised one, is what defines today’s populist right. Beneath the civilised public face, there lurks its obscene, brutal underside, and the difference concerns only the degree to which this underside is openly admitted. Even if this obscene underside remains totally out of sight, even if it there are no slips in which it breaks through, it is there as a silent presupposition, as an invisible point of reference. Without her father’s spectre, Marine Le Pen doesn’t exist.(Slavoj Žižek: Only a radicalised left can save Europe

娘のマリーヌ=ルペン極右「仏国民戦線」が第一党党首)は、
親爺のbrutalな顔に比して、civilised なファシストの顔だと言っているわけだ
すなわち「人間の顔をしたファシスト」ということだ

そして”Only a radicalised left can save Europe”のであれば
日本でも過激な左翼のみが日本を救うと言いうる

もし日本で「革命的な」変革があるなら
ーー野間易通から直接とは言わない
だが彼の周囲から立ち起こるのではないか

とは日本の過激な左翼の動きを殆ど知らないものが書いている




2014年9月10日水曜日

罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」

オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ)

ーーというわけで、たまには文体練習しなくちゃな

フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。(ジジェク『LESS THAN NOTHING]』私訳)


さあて、ここでふたたび野間易通語録を並べてみよう。

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」

ヘイトスピーチだけではない、
ネオナチの輩に対して、
「私たちはこのようなネオナチの政治家を
決して許すことはできません」
と上品かつ理路整然とした口調で応対すべきものだろうか

「死ね!、安倍」 「ふざけるな、この薄汚い高市早苗!」
などと罵倒するべきだろうか


わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)




お、すこしは上品に写ってるじゃないか、おばちゃんたち
だがやっぱりこの顔が透けてみえるな




女性大臣の登用大変結構なことです。だけど普通大臣などというと優秀な女性を登用するものだと思っていたが男政治家タヌキと全く同じように姑息に生き抜いてきたお子様愛国婦人会のスカンクたちが大臣になるとはね。国会の悪臭ここに極まれりといったところでしょうね。女性の地位云々の話ではない。(鈴木創士)

ーー鈴木創士氏は、神戸新聞にコラムを書くようになってから、罵詈雑言をオブラートに包む手法が目立つようになったのだけれど、さずがにいまだ巧いねえ、こうでなくっちゃいけない。

…………

――それで、反差別集団が差別集団に育ってしまったらどうするんだい?

おまえ、やっぱり上品なリベラルだな、それ

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、
それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、
もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


どうだい? たとえばこの類の発言をツイッターでしきりに振りまいてカシコイ「正義のひと」のつもりの貴君よ

主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています(<「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク>より)

なかなか「説得的」な言葉じゃねえか、なにもしないで冷笑しているだけのマジョリティに受けたいんだろうよ

@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」
@AtaruSasaki:何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)









2014年9月8日月曜日

旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」という記事を読み、ひさしぶりにあつくなったな

「“カウンターの『帰れ』も排除の一種”というあなたの記事の結論は、価値相対主義の悪い例。その前提には『どんな理由があるにせよ排除はよくない』という考え方がありますよね。僕らは、これにもアンチテーゼを唱えている。あの場でのカウンター側の『帰れ』は、『デモやめて家に帰れ』という意味であって、『外国人は国へ帰れ』という排外主義者の主張とは意味がぜんぜん違う。我々は『レイシストはここにくるな』『この場から排除する』とはっきりと言う。それを意識的にやることに、意味があると思ってる。『レイシストは町から出て行け』というスローガンは世界標準ですよ」

ところで、なんだい、この「首謀者」って?
このインタヴュー記事書いてる吉岡命なる人物は
言葉の使い方知ってるのかい?

首謀者」:(特に不法な行いの)先頭に立つ人、帳本人 ・ 巨魁 ・ 元凶 ・ 首謀 ・ 梟雄 ・ 張本人とあるな

対レイシスト行動集団「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)の「首謀者」というわけかい?

まあいいさ、オレもえらそうなことはまったくいえないからな。

“しばき隊”の名は知っていたが、「野間易通」という固有名詞はわずかに耳を掠めていた程度の政治音痴だからな。

しかも海外住まいを隠れ蓑にして、「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」の問いから免れているつもりになっているテイタラクさ

で、日本住まいのお前ら、この記事RTしたりファボしたりしているけど、どっちの立場なんだい?
「野間易通」を「首謀者」とする立場なのか
それともオレみたいにこの男に「惚れ惚れ」してしまうのか
どっちだい?
まあRTやファボしてんだから、彼にシンパシー感じてんだろうが
その割には威勢がないな

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

こうやって「あつく」なって書くのは、まずいんだろうがね
だがひどくあつくさせる男だな、野間易通は

ーーというわけで、熱さましのために、
野間易通のツイートを眺めてみることにしたんだが、
ツイッターの呟きというのは、オーラが消えるね
だだのオッサンだな、
だがさすがに「差別」等をめぐってよく勉強している
とても勉強になる

彼のツイートを眺めて後光を消すことができ
やっと以前メモした《デモの猥雑な補充物としての「享楽」》を読み返してみて
野間易通氏の弱点はないかと疑ってみる心持になったから
今こうやって書いているのだが

まずは参照してみるのは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』
ーーラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文と
とそれに対するジジェクの吟味だ。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

しばき隊と男組があるが、しばき隊が“人為的な”集団であり、男組というのが、後から来た“退行的な”原始集団とすることができる、--と断言するほどには、このしばき隊と男組の関係についてわたくしは詳しくない。





ここでは「世界で増殖する差別と憎悪…“反差別”という差別が暴走する(深田政彦ーNewsweek 2014 年 6 月 24 日号)の記事を附記しておくだけにする。

『しばき隊』を率いるのは、フリー編集者の野間易通だ。イラク戦争の際の反戦デモ、北京 五輪のときのチベット人解放運動、福島原発事故後は反原発……と、この 10 年余りの間 に次々と政治運動に参加。2012 年に首相官邸を 20 万人で包囲し、反原発活動家らと野 田佳彦首相(当時)の面会を実現させた官邸前デモで、運動家としての頭角を現した。た だ実際に野田との面会が実現すると、反原発運動はピークを過ぎたかのようにしぼんでい った。ちょうどその頃火が付いたのが、韓国の李明博大統領による竹島(韓国名・独島)上 陸をきっかけにした在特会のヘイトスピーチだ。2012 年末には、日本の政権が民主党か ら原発再稼働に意欲を見せる自民党の安倍晋三に代わった。「反原発運動もリセットしな ければ」という焦燥感。さらに「ファシズム政権に対抗する街頭闘争が重要だ」という使命 感に燃え、野間は反原発運動の仲間を中心に、組織を『しばき隊』に衣替えした。「反原 発運動の基盤が反ヘイト活動に転用された」(在特会を調査する徳島大学の樋口直人准 教授)のだ。

しかし、野間たちに唐突な方向転換を悪びれる風はない。それどころか、野間は反原発 運動を通じて確立した『怒りのマーケティング』の手法を反ヘイト活動に活用していることを 半ば得意げに語る。「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」。参加者同士が「頑張ろう」と呼び掛け合う生半可なスタ イルではなく、ただひたすら官邸に罵声を浴びせる。野間らの怒りのマーケティングは『炎 上マーケティング』でもある。反原発活動では、当時の民主党政権閣僚の“遺影”を官邸 前に掲げた。不謹慎とネットで炎上したが、その画像はツイッターなどで拡散。後に 20 万 人を動員する官邸前抗議につながった。

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。





ここでは失礼ながら予断を交えて、後から来た“退行的な”原始集団が予想外に育ってしまったとき、野間易通にはそれをコントロールする力があるのか、という疑念をーーかりに野間易通が男組から距離を置いているにしろーー呈しておこう。



…………

さて今度は野間易通氏がRTしているツイートに注目してみよう。

@whokilledxxxxx 毎日新聞に掲載されてる4コマ漫画のアサッテくん。 ヘイトスピーチとゆ言葉は市民権を得たかもしれないが、ヘイトスピーチとゆ言葉の意味は世間に全く浸透してない事がヨク解る。




すなわち、この漫画のヘイトスピーチの定義は間違っているということだろう。



今年の春ぐらいまではある程度しょうがなかったとも言えるのだが、ヘイト・スピーチという言葉が何を指すかいまだにわかっていない人がネトウヨはおろか左側にもけっこういて、レイシストを「死ね、クソボケ」とか罵っていると、「あなたもヘイト・スピーチをしていますよね?」とか言ってくる。してねえわ。

これをいちいち説明するのがめんどくさいのでここにまとめておく。

ヘイト・スピーチ はこれまで「憎悪表現」と訳されることが多かったが、これだと誤解が多いので有田芳生などが「差別煽動表現」という訳語を提案した。これを、「韓国メディアが旭日旗を戦犯旗と言い換えて嫌悪感を増幅させるやり方に似てい」るとか、知ったかぶりしているネトウヨがいたが、まったく違う。

hate は文字通りには憎悪を意味するが、hate crime / hate speech という熟語においては、「人種差別や性的マイノリティへの憎悪を強く連想させる」ものとなる。なんでそうなるのだ?と言われても、英語圏ではそのように使われてきたのだからしょうがない。

アメリカのヘイト・クライム禁止法(マシュー・シェパード法)(1)では、hate crime を以下のように定義している。

《人種、肌の色、宗教、国籍、民族性、ジェンダー(性犯罪は除く)、障害、性的指向に対する偏見に基づいた犯罪で、偏見に基づいた犯罪であることに合理的疑いの余地のないもの》

hate crime という語が頻繁に使われるようになったのは80年代に入ってからで、比較的新しい概念だ。hate speech は、このhate crime すなわち人種憎悪または性的マイノリティに対する憎悪犯罪を直接連想させる言葉である。

また、人種差別撤廃条約第4条では「人種的憎悪及び人種差別」「人種的優越又は憎悪」となっており、ここでは口語形の hate ではなく正式な名詞形 hatred が使われているが、これが hate crime / hate speech における hate の意味である。

要するに、hate crime / hate speech におけるhate とは、一般的な憎しみや憎悪感情を指すものではない。怨恨を動機とする暴行や傷害、殺人等犯罪には強い憎悪の感情が伴うことが多いが、そうしたものは通常の crime であって hate crime とは言わないのである。

カウンターからレイシストに対する罵詈雑言は民族的憎悪や性的指向への憎悪を伴っておらず、どこまでいってもヘイト・スピーチではない。したがって桜井誠をいくら「ヘイト豚!」と罵っても差別にはならないので問題はない。単なる罵倒、罵詈雑言にすぎない。まとめると、赤い矢印の部分だけがヘイト・スピーチである。




ところで、「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」には、次のような記述がある。

昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13 年 8 月 10 日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。

「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思 っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっ ちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら 言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」 冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。

上に黒字強調している文は、野間易通が、9月7日にリツイートしている次の文と重なる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

朝日新聞の野間易通インタビューからも拾っておこう。

-騒音はひどいし、通行もままならない。汚い言葉の応酬は不愉快です。これが理想的で すか?

「怒りをベースにした行動であれば、言葉も怒りをはらみます。欧米の反ファシスト運動は もっと怒りの要素が多いし、 実力行使もされている。それに比べれば、まったく平和的な光景と言ってもいいぐらいで す。 僕らは彼らを罵倒し続けることで、精神的にへこませ、デモに行く気を失わせようとしてい る」

「2010年から、在特会などへのカウンター行動に参加してきましたが、東京では多くても 数十人しか集まらず、 事実上何もできなかった。一方、彼らは昨年の李明博大統領の竹島上陸で勢いづき、新 大久保デモに加え、 『お散歩』と称する嫌がらせを始めた。通りの店に因縁をつけ、通行人に暴力的に絡む。 何とかしたいと今年1月末、ネットでしばき隊への参加を呼びかけました」

「最初はデモへの直接抗議ではなく、お散歩をやめさせることに重点を置いていました。 だが、2月17日のデモでは、しばき隊以外にもプラカードを掲げて抗議する人が30人ほ ど出て、1カ月後には数百人に膨らんだ。 それでごく自然に、全体がデモへの直接抗議に移行した。 色々な人がさまざまなやり方で抗議していますが、しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

-デモに抗議するにしても、他にやりようはないのですか?

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(聞き手・石橋英昭、太田啓之) 


さあて、きみたちはどっちの立場かい? 罵倒語を許す立場かい?
オレかい? オレはここでは上品さと傲慢さを綯い交ぜにして
「ジャーナリズムは上品じゃいけない」「強盗のようにあるべき」(佐高信、辺見庸両氏の対談)とか、以前の記事をリンクして逃げておくよ、「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)

「白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか」(辺見庸

こうやって語らなくちゃあな(だが正直なところオレはこの程度だね、《何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ》! 穏和な性格なのさ)。


ーーとすれば一方通行だから、丁寧で、資料を丹念に挙げ、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける「似非教養人」の一種のつもりでいるオレは、次の文を掲げておこう。こいつら、スローガン的言葉を顕揚する具合は、結局、大衆を侮蔑するヒットラーと同じじゃないかい?と。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」ーー「汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ」)

それに再度、穏やか系の辺見庸も引用しておかなくちゃ誤解があるな

 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録


やっぱり、みんなといても「ひとり」を意識することなんだろうな
これがひどく難しいんだな、「ひとり」ではどうしようもないときがあるしさ
「みんな」がいたから大久保のヘイトスピーチを阻止できたということもあるしな


…………


すこし話を方向転換する。

野間易通@kdxnそもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、世界のどの国においてもデモの是非なんて論点にすらなっていない。デモで社会は変わるか?とか。それで社会が変わろうが変わるまいが、デモはあるのが当たり前だから。

 というわけで、柄谷行人を続けて引用する。

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(「反原発デモが日本を変える」 柄谷行人


 …………

ところで、東浩紀氏は、デモには参加しない態度をながいあいだ表明していた。
たとえば、東浩紀 hiroki azuma@hazuma20130721()

ぼくはもともと、ネットでの動員の革命→官邸前デモの流れは在特会や橋下徹とかわらないポピュリズムだと言っていて、反原発左翼にマジ憎まれたりしていたのだけど、今回の山本太郎当選でそれが正しいことがわかった。

 ところが2014年09月07日(日)のツイートではこんなことを呟いている。

個人的には、野間さんとの最後の対話が収穫でした。野間さんはそういう表現をしなかったけれど、なるほど、(野間さんや五野井さんにとって)デモとは、自己正当化の論理でガチガチになっていた「正義」の感覚を解きほぐすための<リハビリ>だったのかと腑に落ちました。それは賛成です。

目の前で起きていることについて「これは悪だ」と直観が告げているにもかかわらず、「いやいや、もう少し考えてみよう」「そう決めつけるのこそ悪では」「そもそもおれになんの権利もない」と逡巡しているあいだに時間が経ち、被害者を見殺しにしてしまうことはよくあります。(→)

(→)最近さらにその逡巡の傾向が強まりました。ネットには「行動や判断を無限に引き延ばすための言葉遊び」が満ちています。たとえば人権を守れというだけでも、「まず人権を定義してください」「人権を守れも一種の差別ですよね」「人権の無視を排除するのは人権無視ではないんですか」……となる。

→)そういう状況でがちがちに強ばってしまった正義の感覚を、もういちど解きほぐし、一般市民でも適度に意見や感情を表明できるようにしてあげること。それはとても大切なことで、『一般意志2.0』『弱いつながり』の主張とも一致します。なるほど、デモをそう捉えているのかと腑に落ちました。

(→)この点ではぼくのほうが「頭が固かった」と反省しました。ぼくは率直に言って、大文字の政治においてデモが効果を上げているとは思わない(野間さん五野井さんは意見が違うと思いますが)。けれども、多くの市民の政治への接し方を変えているのは確かで、それは重要なことですよね。

(→)というわけで、行け行けと言われながらもどうしても躊躇して行けなかったデモの現場に、近日中に、取材に、というか、『弱いつながり』の言葉で言えば「観光」に行きたいと思います。それでよいのだ、いやむしろそれでよいのだと考え直しました。だれかお勧めのデモ(?)を教えてください。

これは東浩紀氏の決定的な「転回」の言葉のように思える。ただし若者たちにおおいに影響力があるようにみえる東浩紀氏に、若者がついていくかどうかは別問題ではある。

そしてこの発言は、《野間さんとの最後の対話》から生れたようだ。


※補遺:罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」