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2014年11月14日金曜日

「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」

◆まず、フロイト博物館の国際会議(17 October 2014)における基調講演者Paul Verhaegheの要旨より。

ーー「悲哀のなかのナルシシズムーー父権社会の消滅」(Paul Verhaeghe Narcissus in Mourning - The Disappearance of Patriarchy)

ある概念を理解するためのひとつの方法は、その対立物とその概念を対照させることである。私の考え方では、ナルシシズムはメランコリーの片割れである。ナルシシズムとは完全性と全能性omnipotenceを意味する。それは全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する。メランコリーは喪失と無力感を意味する。原初の全能性の幻想の不首尾は、父の避けがたい不首尾、あるいは父が請合うと見なされた安全保障感の失敗である。実際のところ最終的なファリックな保障などどこにもない。結果として、典型的な神経症の反作用が、代替物を絶え間なく探求することとなる。それが一連のイマジナリーな父たちを創りだす。これが導くのは、二次的なナルシシズムであり、ファリックな思考の領域の内部に留まることになる。

One way to understand a concept is to contrast it with its opposite. To my way of thinking, narcissism is the counterpart of melancholia. Narcissism implies completeness and omnipotence. It harks back to the identification with the almighty mother. She is almighty because she can give what the child lacks. During the oedipal period, this identification shifts to the father, who functions as a safeguard for the mother. Melancholia implies loss and helplessness. The failure of the original fantasy of omnipotence is the inevitable failure of the father and the safety that he was meant to guarantee; there is in fact no final phallic guarantee whatever. Consequently, a typically neurotic reaction is the endless search for a substitute, creating a series of imaginary fathers. This leads to secondary narcissism and stays within the realm of phallic thinking.
われわれは個人のレベルでのこのような考え方を解釈するのに馴染んでいる、父たちと子供、エディプスコンプレクス等々。フロイトが、彼のエッセイ『ナルシシズム入門』と『悲哀とメランコリー』を書いたとき、まさに同じ衝突が世界的なスケールで起こっていた。ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼。私の観点からは、この悲哀は父権制社会の終焉の告知であり、別の言い方をすれば、伝統的な権威の終焉である。これは権威の概念自体を再考するように、われわれを強いる。

We are accustomed to interpreting these ideas at the level of the individual – the child with his parents, the oedipus complex and so on. When Freud was writing his essays ‘On Narcissism’ and ‘Mourning and Melancholia’, the very same clash was happening on a global scale. Phallic narcissism was brutally shattered by the First World War, and a period of universal mourning followed – the mourning of the father, of The Father. In my view, this mourning announced the end of patriarchy, in other words, the end of traditional authority. This compels us to rethink the concept of authority as such.


まず前段の《全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する》をめぐっていささか捕捉しよう。ポール・ヴェルハーゲが1995年(40歳時)に書いた論文からである。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳ーー「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」より)

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

後段の《ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼》の捕捉については中井久夫の次の簡潔な文がよい。

二十世紀をもっとも大きく動かした詩は結局、フランス詩のポール・ヴァレリー( 1871-1945年)の「若きパルク」『魅惑』の一対、ドイツ詩のライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)の『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』の一対、そして英詩のT・S・エリオット(1888-1965年)の『荒地』に落ちつくかと私は思う。

これらの詩は一九二二年を中心とするごく狭い時期に出ている。「若きパルク」だけは一七年春に刊行されたが、この詩人が世に広く知られるのは一九年である。二二年は『魅惑』『荒地』との刊行の年である。翌二三年早々に『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』が伝説的な短期間で完成する。

これらの詩は成立の時間が近いだけではなく、互いに密接な関係にある。「若きパルク」『魅惑』の衝撃がリルケが書き悩んでいた『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その傍らに『オルフォイスへのソネット』を生んだ。リルケは『魅惑』の独訳にその後の短い晩年の多くを費やすとともに、フランス語で詩作するようになる。エリオットの『荒地』だけは詩でなく十九年に英国の雑誌に掲載されたヴァレリーのエッセイ「精神の危機」と密接な関係にある。ともに西洋の精神的危機を正面からとりあげたものである。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽)

もっとも最近のポール・ヴェルハーゲの論点は、冒頭の記事の叙述の範囲を超えた領域がその核心となっている。フロイトを生み出したヴィクトリア王朝時代の禁止ー抑圧の文化が、第一次世界大戦によってその文化の超自我(父権制社会)が揺るがされる。ここまでは同じである。だがその後、1968年の学生運動によって象徴的父の決定的な崩壊、さらには1989年のベルリンの壁の崩壊後の現在の課題とは、この今、われわれはどんな社会構造に囚われており、その社会構造では異なった人格(アイディンティティ)、異なった病が生み出されているという点を指摘することにある。

ヴェルハーゲによれば現在の自閉症の多発は、旧来型のものとは異質であり、この社会の「文化のなかの居心地の悪さ」から生まれているとする。世界的な「いじめ」猖獗、あるいはひとびとの幼児化などもこの新しい社会構造のせいであると。

これらの歴史的進展については日本ではやや様相が異なるという指摘もあるだろう、《かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか》(中井久夫「父なき世代」)。あるいはまた柄谷行人は、90年代初頭に、日本の権力構造の特徴のひとつとして、母系的なものの残存を指摘している、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》(柄谷行人「フーコーと日本」1992)。だがいまはそれについて詳しく触れることはしない。

ヴェルハーゲは、1990年以降の市場原理主義社会(新自由主義社会)における病理をたんに父権制社会の消滅のせいとして片付けるわけにはいかないとする。彼は21世紀の先進国における病理のよってきたる社会を「エンロン社会」と名づけている。すなわち、マッキンゼー出身でエンロン社CEOになったジェフリー・スキリングの「ランク・アンド・ヤンク」方式ーー役員から社員までをランク付けしておいて、下位の者をクビにしていくーーこの差別化方式がその多寡はあれ、あらゆる領域で運用されている社会である。勝ち組と負け組みをたえずつくりだしていく「効率的な」システム。

ここでは敢えて訳さずに英文のまま貼り付けておく。「文化のなかの新しい居心地の悪さ」と名づけれらた論文(2011)である。これについては、最近でもGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という記事が書かれている(参照:「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ))

◆『Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent』 Paul Verhaeghe

In the Enron company this became known as Rank and Yank. The achievements of every employee were judged competitively and on that basis one fifth of them were sacked each year after being publicly humiliated by having their name, photo and ' failure' posted on the company's website. (de Waal, 2009, p.Sl) In a very short time, almost every employee started to lie about his achievements, which ultimately led to the company's bankruptcy. Nevertheless, various weaker versions of the Enron model are still in operation elsewhere.

ポール・ヴェルハーゲのこの「エンロン社会」の主張は、ここでもまた中井久夫の次の文によって捕捉することができる。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。

セーフティーネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追求も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる世界である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきでないと私は思う。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』)


もっともこれらの見解は、ジジェクが90年の初頭に書いた『斜めから見る』にすでに書かれているという言い方もできるかもしれない。エンロン社会における「勝ち組」であるための典型的戦略が「病的ナルシシスト」として振舞うことであると言いうる。

……「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(「現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」」より)


おそらく多くの人が、「エンロン社会」においてどうやって「勝ち組」になるかを無意識的にせよ模索しているのだろう。そしてそれを全面的に否定するものでは、わたくしは全くない。

さて前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(デカルト『方法序説』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書)

ところで國分功一郎氏は、「哲学とは人生論でなければならない」と言っているそうだが、これはわたくしのような旧世代の人間には、驚くべき言葉である(彼のその真意は別のところにあるのかも知れないし、「人生論」という語彙の捉え方にもよるだろうが)。90年以前に思想なるものに出会った人間には、決して口に出来なかった言葉であり、かつてそんなことを言ってしまえばひどく嘲笑されただろう。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰)


「エンロン社会」をどうやって巧みに泳ぐかの「人生論」ではなく、「エンロン社会」で生きる前提を問い直す「人生論」であることを是非とも望むがーーすくなくともそれに触れていることをーー、わたくしは彼の著作を読んでいるわけではないので、あまりえらそうなことをいえない。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

いずれにせよ(市場原理主義にせよ、新自由主義にせよ、エンロン社会などにせよ)、われわれが囚われている所与の”環境”を批判=吟味するのが、「哲学者」やら「思想家」の仕事のはずだ。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

以下の千葉雅也氏のツイートに《精神医学の領域ですでに起こった変化》とあるのは、DSMという黒船のことや、認知科学や神経生物学、あるいは薬物療法や行動療法などに取って代わられつつある傾向を言っているのだろう。

@masayachiba: 根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。千葉雅也

上に引用したポール・ヴェルハーゲは痛烈なDSM批判をくり返している精神分析医でもある(参照:フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」)。

ここでは、千葉雅也氏の《文明全体がそういう方向に向かっている》という文をあえて「誤読」して、文明全体がエンロン社会に向かっているとしておこう。

さてくだくだしく書くのはもうやめる。ただ巷間に流通が目立ちはじめたらしい「人生論」なるものが、《「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則》やら《現実社会の苦痛にどう対処するか》だけでないことを祈るばかりである。

もっともアドラー心理学の流行も病的ナルシシスト育成のための見解に感じられないでもないし(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)、米国MBAで修業を積んだらしいどこかの経営コンサルタントが、文科省の有識者会議にて提案した「G型大学とL型大学」なるものを「真摯に」受け止めざるを得ないのも、エンロン社会の病いの臭いがしないでもない。

そしてくり返せば、成功やら苦痛をめぐる教えは、人生を巧みにやりすごすテクニックとしてはひどく大切であり、安易にばかにするつもりは毛頭ないことを念押ししておこう。たとえばアランの人生論から抜き出しておけば、こういった側面はわれわれは意想外に忘れがちなのだから。そしてアランの限界はあるにしろ(たとえば第二次世界大戦勃発前に、サルトルはアランのオプティミズムから離れた)、通常のわれわれの人生の99%はこれでやっていける。

赤ちゃんがはじめて笑うとき、その笑いは絶対になにも表現していない。幸福だからといって笑ったりしない。むしろこういったほうがよい。赤ちゃんは笑っているからこそ、いま幸福なのであると。赤ちゃんは笑うことに快楽を感じているのだ、食べることに快楽を感じるのと同様に。(アラン『プロポ集』井沢義雄・杉本秀太郎訳)

ーーすなわち、《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」)

だが第二次世界大戦直前のナチにはこれでは通用しなかった。そして現在のネオナチ猖獗にも通用するはずがない。

最後にエンロン社会のバイブル、アイン・ランドの書から抜き出しておこう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

※補遺:資料:金持のための社会主義

2014年11月13日木曜日

philia 愛とneikos闘争、あるいはビオスBiosとゾエZoë

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 「悦楽(享楽)と永劫回帰」より)

《フロイトのタナトス欲動は、〈他〉のなかの消滅に対抗して個の生の継続を確保する。このように解釈したら、死の欲動は、ビオス欲動である。ビオスBiosとは古代ギリシアの個の生の名である。それは死するが、また個がどのように彼もしくは彼女自身の生を処するかにかかわる。ゾエZoëは、逆に、永遠の生それ自体である。限定されたビオスを貫く縫い糸であり、個別的なものが消滅しても、ゾエは破壊されない。このように読めば、フロイトのエロスはゾエ欲動であり、タナトスはビオス欲動である。》(Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』私訳)

ここにあるように、ビオスとゾーエーは古代ギリシャ人が語った概念であり、フロイト派ならぬユング派のカール・ケレーニイの著作に次のように書かれている。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

このケレーニイの文は、冒頭のニーチェの《永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを》の変奏とさえ言いうるだろう。

『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像』という書名にあるように、ディオニソスは、ゾーエー(破壊されざる生)、エロスの神ということになる。とすれば、ディオニソス/アポロンの対立は、エロス/タナトスの対立となるのか。無限の生(ゾーエー)/一回性の生(ビオス)と。

「永遠の生」についてはラカンはこう語っている。

根源的な喪失とはなにか? 「永遠の生の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる、そのMeiosis(分裂)により」(ラカン『セミネールⅩⅠ』英訳からの私訳)

フロイトはその最晩年の著作(1937年)でーーラカンがフロイトの遺書と呼んだーー、「永遠の生」をphilia 愛=エロスとしている。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

このようにしてポール・ヴェルハーゲによって、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》と書かれることになる(参照:フロイトの『Why War?』における愛と憎悪)。

エロスが死をめざす、という意味は、〈大文字の母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。エロスは不安にかかわるのだが、その不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光)

もちろんこれらの解釈については異論があるだろう。とくにタナトス概念については諸説紛々である。だが、わたくしの書き物において、たとえば〈愛〉という語彙を使用するとき、このヴェルハーゲのフロイト解釈にもとづいて主に叙述している。そしてそれはニーチェにも繋がる、ーーというのは最近いささかどうでもよくなってきたのだが、カボチャ頭くんたちの誤読を惧れるので、いま念押ししておこう。

ここでやや遡って、フロイトの同じ後期でも1920年の著作ーーエロスとタナトス概念がはじめてこの論文で書かれたーー『快感原則の彼岸』におけるプラトンの『饗宴』の引用箇所をその前後も含めて抜き出しておく。

……われわれは科学の領域で性の発生の問題についてわずかしか発見したものをもたないので、この問題は、仮説という光線すらも射し込まない暗闇に比することができるほどである。まったく別の場所で、むろん、われわれはこのような仮説に出くわすことはあるけれども、それは非常に空想的なものである。たしかに科学的な説明というよりは、むしろ一つの神話である。だがそれは、われわれがまさにのぞんでいる一つの条件を満たすものであって、もしそうでなかったら、私はあえてここで引用する勇気をもたなかったであろう。それは、つまり以前の状態を回復するという要求から一つの本能を演繹しているのである。

言うまでもなく私はここでプラトンが『饗宴篇』の中で、アリストファネスを通じて展開させている理論のことをさしている。この理論は、性的衝動の起源のみならず、対象に関するその重要な変型の由来をも論じている。

「つまりわれわれの身体は、もとは現在とおなじにつくられていなかった。それはまったく別物だった。最初に三つの性があった。いまのように男と女だけでなく、この二つの性を結びつけていた第三の性……つまり男女〔おとこおんな〕があった……」この種の人間ではすべてが二重になっていた。つまり四本の手と四本の足、二つの顔、二重の陰部などをもっていた。ところがゼウス神は、あらゆる人間を二つの部分に分けようという気になった。「ちょうど『まるめろ』の実を漬け物にするために真っ二つにするように……こうして全体が二つに断ち切られてしまったため、二つの半分はたがいに憧憬に駆りたてられた。彼らは手と手で抱き合い、合体しようとの望みをいだいて、たがいにひとと絡み合った……」

われわれは、詩人哲学者の暗示にしたがって、生命ある物質は生を享けたさいに、小部分に引き裂かれ、これら小部分はその以来というもの、性的衝動によってふたたび結合しようと努めると、勇んで仮定すべきなのであろうか?(……)

しかし、批判的な考慮から出た数言をつけ加えておく必要があろう。ここに展開した仮定を、果たして確信しているかいないか、また、どの程度まで信じているのかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じていないし、他人にもそれを信じよなどと求めはしないと答えたい。もっと正確にいえば、私がどの程度それを信じているのか分からないのである。確信というような感情的な要素は、ここではまったく問題とするに足りないように思われる。われわれは、ある思考過程に身をまかせ、それがみちびくところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。いってみれば、悪魔の代弁者として思考の路を追うのだが、だからといって、悪魔に身を売ることにはならない。(……)

以前の状態を回復しようとするのが、現実に本能の一般的な性質であるとすれば、精神生活において多くの事象が快感原則の支配をうけずに成就されることは、あやしむにたりないであろう。この性質はそれぞれの部分的衝動につたえられて、それぞれの場合に応じて発展経路の一定段階にふたたび到達することになるであろう。しかし、これらのすべてのことは、快感原則がまだ支配するにいたらない場合のことであるから、快感原則に対立する必要はないのであって、衝動的な反復現象が快感原則の支配とどのような関係ひあるかは、未だに解決されていない課題である。

われわれは、心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する衝動興奮を「拘束」すること、それを支配する一次過程を二次過程に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギーをもっぱら静的な(強直性の)備給に変化させることなどのことをみとめた。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p188-190


2014年10月24日金曜日

天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」

 ◆ジジェク『LESSS THAN NOTHING』より(私訳)
哲学の存在論的前提に反して、ラカンは享楽の現実界に焦点を絞った。それは単純に言語の外部にあるのではないにも拘わらず(むしろ言語に関して外-親密“ex‐timate”である)、象徴化に抵抗し、言語内部で異物の核のままであり、裂開、切れ目、ギャップ、非一貫性、あるいは不可能として現われるなにかである。

Against this ontological premise of philosophy, Lacan focuses on the Real of jouissance as something which, though far from being simply external to language (it is rather “ex‐timate” with regard to it), resists symbolization, remains a foreign kernel within it, appearing as a rupture, cut, gap, inconsistency, or impossibility:

《私は、ある関係を今明らかにするために、いずれの哲学者にもけんかを売っています、関係、すなわち、シニフィアンの出現と享楽が存在に結びつく間にあるもの…… どの哲学者も、私に言わせれば、今日ここでわれわれに落ち合うことはできません。哲学のみすぼらしく挫折した酔狂、それは、ぐずぐずした習慣として、前世紀(19世紀)の初めから、われわれは足を引っ張られているのですが、この問いに直面しないで、その周囲を踊る方法にすぎません。それは真理についての唯一の問いであり、また言わば、フロイトが名づけた死の欲動、原初の享楽のマゾヒズムなのです…… すべての哲学的陳述はここから逃れ視線を逸らしています。》(ラカン セミネールXIII(未出版)

I challenge any philosopher to account now for the relation that there is between the emergence of the signifier and the way jouissance relates to being … No philosophy, I say, meets us here today. The wretched aborted freaks of philosophy which we drag behind us from the beginning of the last [nineteenth] century as habits that are falling apart, are nothing but a way of dancing around rather than confronting this question, which is the only question about truth and which is called, and named by Freud, the death drive, the primordial masochism of jouissance … All philosophical speech escapes and withdraws here. Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).


“ex‐timate”という語が出てきて、仮に外-親密と訳したが、外-密とも訳されることもある。この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということである。《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(Lacan S16 松本卓也氏ツイート)

それ以外にも、ことさらいつもにもまして自信のないイイカゲン訳であり、とくにラカンのセミネールのなんと訳しにくいこと! 

“ex-timate”をジジェクは他の書で次のように使っている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』――『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb)

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのでのex-timateが出て来ると同時に ,a foreign body at the very heart of myselfともある。foreign body は、本来、目のなかの異物という意味で使われることが多いらしいが、初期フロイトはすでにこの用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。

その独原語は”Fremdkörper”であり、邦旧訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。


Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

というわけで冒頭の文の”a foreign kernel ”も「異物としての核」と訳したんだが、要するにラカンやジジェクの文で”foreign”と出てくるときは、フロイトの”Fremdkörper”を想起しなさいということだな、ジジェクがかつて多用した“alien”ーー映画のエイリアンからだがーーこれも、この絡みであることに最近ようやく気づいた。

…………

で、何が言いたいかと言えば、快感原則の彼岸に死の欲動があるんじゃないんだな、ジジェク=ラカンの視点では。

ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳ーーラカンの三つの身体)


享楽も死の欲動も、言語=象徴界の空間に、傷として回帰する、象徴界の彼岸(向こう)にあるんじゃなくて。

ドゥルーズやジジェクは、死の欲動は超越論的であるというのだけれど(参照:攻撃欲動はタナトスではなくエロスである)、超越論的とは、柄谷行人の言い方では存在しない(目に見えない)けれど機能するものである。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

オレみたいな経験論者には、手強いなあ。至高の経験論者である〈きみたち〉にはいっそうそうだろ?

でも経験論者だと、いつまでも天動説のままなんだよ、地球のまわりを太陽動いたままなのさ、すなわち、〈きみたち〉にとっては、地球中心(自己中心)のままということになるな、〈きみたち〉にはオレも含めてもいいさ、もちろん!

一般には、コペルニクス的転回は、天動説(地球中心)から地動説(太陽中心)への華々しい転倒として理解される。しかし、地動説は古代から存在したものである。それがコペルニクスによってはじめて理論として成立したのは、主観が対象を受動的に受け取るという考えから対象が主観の形式によって能動的に構成されるという考えへの転回によってである。カントが重視したのは後者のように見える。そして、カントのあとの観念論はそこに成立する。だが、そのとき、カントがなそうとした転回が、本来、地動説(太陽中心)、いいかえれば、世界はわれわれが構成したものではなく逆にわれわれが世界の中に投げ込まれているのだという考えに向けられたことが忘れられる。(柄谷行人『トランスクリティーク』 P208

というわけでもう少し柄谷行人を引用しよう。

コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。(……)

フロイトの精神分析が画期的なのは、「無意識が人間行動の多くを制御している」という考え自体――それはロマン主義以来常識であった――にあったのではない。初期の『夢判断』――これも古来存するものだ――が示すように、意識と無意識のズレをもたらすものを、言語的な形式においてみようとしたところにあった。そして、そのことから無意識の「超越論的な」構造が見いだされていったのである。(……)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)

柄谷行人、二種類の反復(「反復強迫automaton」と「反復tuche」)、あるいは二種類の無意識(ふたつの主体)の区別ついてんだろうか? まああまりつっこまないでおくけどさ、えらそうなことはぜーんぜん言えないからな、オレは。

でもフロイトの無意識も「超越論的」なのさ、「無意識が人間行動の多くを制御している」なんていっているだけの連中は、天動説のままってわけ。


さて、ニーチェにお出まし願おう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸)


善悪の彼岸も、おそらく超越論的だよ、と言ってんじゃないか、ニーチェは。

とすれば、権力への意志や永劫回帰も超越論的なのかね? さあて、経験論者の凡庸な頭では、サッパリわかんねえな。

でもいつまでも天動説はいやだからなあ、きみたちはへいっちゃらかい? ひとが何を言おうと、自分の感じることは真実だ、なんて言ってる連中は、太陽がいまだ動いているつもりのボケらしいぜ。まあオレは阿呆のまま人生終ってもいいがね、若いきみたちはやめとけよ。

標準的な見方からすれば、主体性を構成している次元は現象的な(自己)経験の次元である。次のように自分に言えたならば、その瞬間に、私は主体になる。「どんな正体不明のメカニズムが私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私がたったいま見て感じていることを、何物も私から奪うことはできない」。たとえば私が激しい恋愛をしているときに、生物学者が私に、私の強烈な感覚は私の身体の生物学的なプロセスの結果にすぎないと言ったとする。私は見かけに固執してこう答えることができる。「あなたが言っていることはすべて正しいかもしれないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と。分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本的幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となったときに、はじめて登場するのである。接近不能な現象とは、最も根源的なレベルにおける無意識であり、私の現象的経験を規定する客観的メカニズムではない。したがって、常識的には、ある実体が内的生活(外的行動に還元できない幻想的経験)の徴候を見せたなら、そこにあるものは主体だと考えるわけだが、これと対照的に、われわれは以下のように主張すべきである。すなわち、人間の主体性を特徴づけているのはむしろ、外部と内部を隔てている落差、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である、と。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』p96)

しぱしぱよ、なぐさめに、船人ら
信天翁生け捕るよ、
潮路の船に追いすがる
のどけき旅の道づれの海の巨鳥。

ーー「信天翁(あほうどり)」『悪の華』 ボードレール、堀口大学訳

アホー、アホー、アホー





2014年10月23日木曜日

仕立屋の処刑

もうやめようと思ったのだが、、またニーチェとフロイトの仲良しぶりにめぐりあってしまった。意図せざる遭遇だね、前記事で、「エロス的祝祭」=攻撃欲動をめぐって書いて、祝祭って言えばやっぱりニーチェだな、と『道徳の系譜』第二論文眺めてたら、フロイトの鍛冶屋と仕立屋の話に当ってしまった。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

ーーで、以前はどうして気づかなかったんだろ?
そもそも本なんてものは、まともに読んでないのさ
やっぱり三度か四度程度読むだけじゃダメなんじゃないか

読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が『読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は牛になってもらわなくてはならぬ。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(道徳の系譜・序 八節)

で、「新自由主義」の二十一世紀人
ーーイデオロギー的にはみなさんイギリス人だからな、
《人間は幸福をもとめて努力するのではない。
そうするのはイギリス人だけである》(ニーチェ『偶像の黄昏』12番)ーー、
幸福をもとめるのに忙しくて、
牛になることなんてできるわけないだろ。

「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」(Paul Verhaeghe)
《われわれの時代、ひとびとはこんなに自由で、
こんなに無力であることはなかった》

ーー眠る暇さえないんじゃないか。

忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)

あきらめたほうがいいぜ、「教養」なんて。

私は読書する閑人をにくむ。
もう一世紀、読者であったならばーー
精神そのものが悪臭を放つであろう。(ツァラトゥストラⅠ)

もう一世紀経ってるぜ。

早朝、夜の明けがた、すべてがすがすがしく、
自分の力も曙光の中にあるのに、
本なんか読むことーー
それを私は罪悪と呼ぶ! (この人を見よ)


2014年10月22日水曜日

攻撃欲動はタナトスではなくエロスである

攻撃欲動はタナトスではなくエロスであるという仮説を立ててみよう。

まずはタナトス(死の欲動)をめぐって記述する。たとえば、ジジェクは次のように言っている、

フロイトが死の欲動の考え方にて目指していたものーーより正確にいえば、フロイト自身が彼の発見の真の重大性に盲目で気づいていなかった核心的な側面――は、ヘーゲルの「否定性」の非-弁証的な核、止揚や理想化のどんな動きもなしに反復される純粋な欲動である。(私訳)

what Freud was aiming at with his notion of death drive—more precisely, the key dimension of this notion to which Freud himself was blind, unaware of the full significance of his discovery—is the “non‐dialectical” core of Hegelian negativity, the pure drive to repeat without any movement of sublation or idealization.(Zizek“LESS THAN NOTHING”2012)
欲動は心理学とはまるで関係がない。死の欲動(そして欲動とは、まさに死の欲動である)は、死や破壊にやっきになる心的な(あるいは生物学的な)ものではない、ーーラカンがくり返し強調しているように、死の欲動は存在論的な概念である。そして死の欲動の正しく存在論的な側面は、考えるのにひどく困難なものだ。フロイトは、Trieb(欲動)を、生物学と心理学のあいだ、あるいは自然と文化のあいだに位置する限定された概念として定義した。――心的表象と通してのみ知られる自然な力として。しかし、われわれはここからいっそう歩みを進め、フロイトをもっとラディカルに読まねばならない。

The drive has nothing whatsoever to do with psychology: the death drive (and the drive as such is the death drive) is not a psychic (or biological) striving for death and destruction—as Lacan emphasizes repeatedly, the death drive is an ontological concept, and it is this properly ontological dimension of the death drive which is so difficult to think. Freud defined Trieb (drive) as a limit‐concept situated between biology and psychology, or nature and culture—a natural force known only through its psychic representatives. But we should take a step further here and read Freud more radically(同上)

これはドゥルーズがすでに『マゾッホとサド』や『差異と反復』で言っていることだ。

まず『差異と反復』から手元にある英訳のまま抜き出そう。

Eros and Thanatos are distinguished in that Eros must be repeated, can be lived only through repetition, whereas Thanatos (as transcendental principle) is that which gives repetition to Eros, that which submits Eros to repetition. Only such a point of view is capable of advancing us in the obscure problems of the origin of repression, its nature, its causes and the exact terms on which it bears. For when Freud shows -beyond repression 'properly speaking', which bears upon representations -the necessity of supposing a primary repression which concerns first and foremost pure presentations, or the manner in which the drives are necessarily lived, we believe that he comes closest to a positive internal principle of repetition. (Gilles Deleuze“Difference and Repetition” Translated by PauiPatton)

※上の英訳における“transcendental principle”は仏原文では“ principe transcendantal”になっていることに注意しておこう。

この『差異と反復』の一年前に上梓された『マゾッホとサド』にはこうある。

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

 ーー今仏原文を探し出せないでいるのだが、『差異と反復』においてタナトスが“transcendental”とされ、蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』では、「超越的」とある。これはおそらく誤訳ではないか。

「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。(箭内 匡 『映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 』)

だが誤訳云々はいまはどうでもよろしい。ここではタナトスは超越論的であるものとして話をすすめる。

冒頭に掲げたジジェクの「死の欲動」の捉え方とドゥルーズのそれとの同一性は、手早く言えば、次の文に現われる。

エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、(エロス化されたマゾヒズムとしての)二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳――「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」より)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)

ただしジジェクは《死の欲動の正しく存在論的な側面》とし、ドゥルーズはタナトスは《超越論的》と言う。

ここで「哲学」にはまったく詳しくないわたくしは、「超越論的」をめぐって長年考えてきた代表的な日本の思想家柄谷行人にお出まし願うことにする。


ハイデガーは経験的なレベルと超越論的なレベルのカント的区別を、存在的と存在論的の区別として言い換え、まるで彼がそれを初めて見出したかのように強調する。また、経験的自我(存在者)に対して、無=存在であるところの超越論的自我を強調する。だが、彼は「疑う私」、共同体と共同体の「間」にあるような外部的実存については語らない。ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在 ―――彼にとっては民族を意味する ―――である。ここから、疑う存在=単独的な実存は出てくる余地がない。

あえて存在論のタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学によって隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的( transcendental)な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的( tramsversal)な方向において見られねばならない。そして、私はそれを〈 transcritique〉と呼ぶのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P150)

というわけで、「存在論的」とは「超越論的」なものと、とりあえずしておこう。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです。(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

ここでもう一度、柄谷行人から引こう。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

さて「超越論的」談義はこのくらいにして、死の欲動に戻るとすれば、ドゥルーズとジジェクの解釈によるタナトスとは、実は「死なない」欲動、永遠の反復運動(永劫回帰)である。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

死の欲動を攻撃欲動やら破壊欲動と誤認してはならない。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

だが、もしそうであるなら、つまり死の欲動が攻撃欲動でないなら、攻撃欲動はエロスなのだろうか。もっともラカンはセミネールⅦでは、次のように言っていることをここで挿入しておこう。

欲動そのものは、そして欲動そのものとは破壊欲動なのだが、そのかぎりにおいて、非生命体〔無機物、inanimé〕への回帰への傾向の彼岸になくてはならない。(Lacan S7)

死への回帰への傾向の〈彼岸〉といっている。すなわち欲動は死への回帰ではない、と言っているとしてよいだろう。

だがここではこのラカンの言葉に囚われずに、再度素朴な問いを発してみよう。

攻撃欲動が、《快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓》であるタナトスでないなら、攻撃欲動はエロスでありえることはないか、と。
バタイユのエロスと暴力をめぐる論を想起しないでもないが、ここではもっと穏やかに、わが国の精神科医中井久夫を引こう。

行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にした全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

そもそも人間の怒りや攻撃は、動物にはない不能感と無力感の表現であるとはかねてより語られてきた。

The anger and aggression that often accompany it are always expressions of impotence and helplessness that are unknown to animals. Animals have instincts, not drives. (Paul Verhaeghe”Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”)

フロイトの破壊欲動の捉え方はここでは脇にやるとしてーー《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)》(『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb)--、攻撃欲動や暴力は、エロスでありうる。中井久夫やポール・ヴェルハーゲの叙述にみられるように、不能感や無力感、すなわちばらばらとなった精神を、束の間にせよ統一させるものであるだろうから。もし、ここでフロイトの叙述を活かして、エロスとは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》ようとするものであるなら、暴力は自己の統一を取り戻すものである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪)


こうしてベルギーのラカン派精神分析医ポール・ヴェルハーゲは次のように言うことになる。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーーエロスとゆらめく閃光)

エロスの欲動によって、大きなものに融合すれば、個の消滅がある。人間はだれしもそれを反復して目指すにしろ、個の消滅はすなわち個人の死である。その「死」を避けるために、融合を破壊するのがタナトスである、という解釈である。

もっともこの解釈を援用して、上に書かれた暴力=エロスによって獲得するのが自己の束の間の統一であるなら、それが個の消滅であるなどとすることはできない。ましてや、その統一を破壊するのがタナトスだとするには無理があるように思える。自我の統一をどうして破壊しなくてはならないのかーー。

ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、とした。偽の自己一貫性を嫌い、むしろヒューム的な蚊柱を目指すのがタナトスとでもいうべきなのか。カントは、ヒュームによるそういう徹底的な解体の認識を拒絶して、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図ったとされるのだが。

ーーなどとほとんど無知の領域での疑念はここでは脇にやることにして、われわれの日常的・政治的視点から叙述することにする。

エロスがよりおおきなものへの統合、タナトスがその統合の破壊だとすれば、たとえば、EC統合のエロスがすすめばすすむほど、個々の国家のナショナリズムによる破壊衝動が芽ばえるという現象が観察され、これはエロスとタナトスの相反する動きだとみなすことができる。

日本の植民地政策、とくに韓国における政策が憎悪を生んだのは、エロス政策であったからである。だから激烈なタナトスが生れる。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

あるいはヘーゲルの「自己を他者と同一化したいという模倣への欲望」と「自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望」とは、エロスとタナトスの欲動とさえできるのではないか。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

《欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。》

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より)

こういいった言い方をしてもよい。攻撃欲動は外部へは破壊、あるいは暴力としてあらわれるだろうが、心の内部のへ向けては、ーー脳/精神の低い水準ではーー統一感を取り戻してくれる。少なくとも、そこで生じる仮初めの内面の唯一無二感は、エロスであるといいうる。


もちろん、ここに書かれた叙述は仮説であり、フロイト自身くり返し語っているように、エロスとタナトスは別々に現われるのは稀である。そしてそこでの鍵言葉は、drive fusion (Triebmischung)であり、すなわちエロスとタナトスの欲動融合である。

とすれば、攻撃欲動もエロスとタナトスの欲動融合なのだろうか。ドゥルーズやジジェクの議論ーー超越論的、あるいは存在論的な議論ーーでは、そのあたりが曖昧なようにわたくしには思えるが、それはたぶん哲学的な素養のなさからくるのだろう。

…………

※附記:至高の暴力(攻撃欲動)の発現形態、「戦争」がエロス的祝祭でありうるのはいうまでもない。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。  これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。

なるほどこうやって比べてみれば、戦争の方が平和よりも100倍も「魅力的」に見えるだろう。個人の生命を越えた高貴な価値のために、死を賭して戦う戦士たちは崇高でうつくしい。これに反対する者は、臆病者、卑怯者と呼ばれる。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収
祭りの途中においては、通常は排撃されていることが許される――要求されさえする――のだ。祭りの時における侵犯は、まさしく、祭りに素晴らしい様相、神々しい様相を与えるものなのである。神々の中でも、ディオニュソスは、本質的に祭りに結びついている。ディオニュソスは、祭りの神、宗教的侵犯の神なのだ。ディオニュソスは、葡萄と酩酊の神として挙げられることがはなはだ多い。ディオニュソスは、陶酔の神であり、狂気を神的な本質とする神なのである。けれども、まずもって、狂気そのものが、神的な本質なのだ。神的な、すなわち、ここでは、理性の規則を拒否する本質というわけである。(バタイユ『エロスの涙』Les Larmes d'eros, Pauvert)

《われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。》(柄谷行人『歴史と反復』)


ーーだが攻撃欲動が生の肯定=エロスであるなら、「生の肯定」が「暴力的なもの」であるのは、なんの不思議でもない。




2014年10月21日火曜日

Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

フロイトとニーチェの仲良しぶりを探るのにもやや飽きてきたので、
いつもにもまして雑然と書くことにする。

…………

表題に示したように
Jenseits des Lustprinzips『快原理の彼岸』ってのは
Jenseits von Gut und Böse『善悪の彼岸』のパクリだよ

快原理とは、快・不快Lust und Unlustの原理のことだからな

そして善悪の彼岸ってのは権力への意志さ
快・不快の彼岸は欲動(衝動)でね

権力への意志というのは衝動(impulusion)さ
ドゥルーズの権力=〈力〉puissanceを活かしたいのなら
権力への意志は、〈力〉puissanceへの衝動implusionさ
いや”への”じゃなくて〈力〉の衝動かもな

フロイト=ラカン派なら欲動、あるいは死の欲動ってわけ
すべての欲動は潜在的には死の欲動だからな
《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

享楽の漂流だっていいさ

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流?」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

で、それでどうしたってんだ?
灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その永劫回帰
おれたちの生の形式はTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)さ

権力への意志が原始的な欲動=情動(Affekte)形式であり、その他の欲動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

死の欲動=権力への意志が人間の根源的なものだとしても
そう分かって何かの役に立つのかいね
どうたい? 大地と合体しようとして(エロス)
土の中に死(タナトス)をみてしまった中上健次よ
それでも永劫回帰(反復運動)するかね

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』ーーエロスとゆらめく閃光)

ロマン派をバカにできる程度じゃないか
憐れみとか惻隠の情とかいってるホモセンチメンタリスたちを。


クロソウスキーは、ニーチェ用語、
欲動Triebe、欲望Begierden、本能Instinke、
権力Machte、力Krafte、衝動Reixe, Impulse、
情熱Leidenschaften、感情Gefiilen、情動Afekte、
情熱Pathosを、ひとまとめに衝動implusionとするのだけれど、
フロイトやラカン用語のTriebやらDrangやらEncoreやらってのも
衝動implusionでいいさ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、(母)他者〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。

The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaegheーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書)

ーーここでの“ Encore”は、もちろんラカンのセミネールⅩⅩの題名であり、そこでの大きな主題は欲動(享楽)だ。そして“ Drang ”は、フロイトの『欲動とその運命』における、欲動の四つの区分のうちの最重要なひとつである。


われわれは欲動の概念と関連して使用される若干の術語を検討することにしたい。それは欲動の衝迫 Drang、目標 Ziel 、対象 Objekt、源泉 Quelleなどの言葉である。(フロイト『欲動とその運命』)

フロイトはこのDrang以外にも、
Affektbetrag  Erregungssumme  QuantitativeFaktorなどと言ってるのだが、
まあ全部クロソウスキーのimplusionでいいさ、あるいは権力への意志でね

お、藤田博史センセいいこといってるじゃん。

欲動の衝迫というのは、欲動の運動モーメントとか力の総和とか作業要求の尺度のことです。いわば欲動の本質といってもよいでしょう。フロイトは「あらゆる欲動は一片の能動性である」と表現しています。つまり欲動とはひとかたまりの能動性のことなのだと。能動性こそが欲動における本質的なものと見なしているわけです。(藤田博史 セミネール断章 2012年 9月8日講義より)

まるで、権力への意志の定義みたいだぜ。

…………

 ところで、次の文は、ニーチェの快・不快の彼岸じゃないかい?

『快』の本質が適切にも権力の『増大感』として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服される──抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる。(ニーチェ『権力への意志』「第三書・二・三・権力への意志および価値の理論」原佑訳)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」(同『権力への意志』第三書)

当面、『自我とエス』1923から次の文を抜き出しておく。

快の性質をおびた感覚は、人を促拍させるものをひとつももたないが、不快の感覚は最高度にそれをもっていて、変化と放出をうながす。それゆえ、われわれは不快をエネルギー備給の上昇、快をその低下と関係させて理解する。快および不快として意識されるものを、精神過程における質的にも、量的にも「別のもの」das Andere とみなすならば、このような別のものは、そのまま現場で意識されるか、あるいは、知覚体系Wにまでみちびかれなければならないかどうかという疑問が生れる。

臨床経験がこのことに決定をくだす。臨床経験によれば、この「別のもの」は抑圧された興奮のようにふるまう。それは人を駆りたてる力を発揮するが自我はその強迫に気づかない。その強迫に抵抗し、放出反応を停止するときに、はじめてこの「別のもの」はすぐに不快として意識される。(フロイト『自我とエス』フロイト著作集6 P271-272)


フロイトの『快感原則の彼岸』1920の冒頭にはこうある。

精神分析の理論では、何のためらいもなく、自動的に快感原則Lustprinzipsに支配されて信仰すると仮定している。すなわち、そのつどある不快な緊張によって喚びおこされ、ついでこの緊張の減退をもたらすような結末、つまり不快を避け、快を生むような結末にむかってすすむものと考える。

……われわれにとって、のっぴきらない快と不快との感覚が、いったい何を意味するものであるかを教えてくれる哲学や心理学の学説があるならば、われわれはよろこんで感謝の意を表わさなければならないだろう。しかし、残念ながらこの場合、役に立つものは何ひとつ提供されていない。問題は、精神生活のもっとも暗黒の近寄りがたい領域にかかっているからである。(……)

ところで、快感原則が心理的過程の進行の仕方を支配するものときめてかかることは、厳密には正しくないといわねばならない。

快と不快の感覚Lust−und Unlustempfindungenが、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない、としている。だが、しばらく読み進めると、次のようにある。

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー本能の特性、おそらくすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機体生命における惰性の表明であるとも言えよう。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p172)

そして次の註記が付されている、《「本能」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》

ここでの「本能」は新訳なら、「欲動」と訳されているはずだが、岩波新訳にあたっているわけではない。独原文は次の通り、《Ich bezweifle nicht, daß ähnliche Vermutungen über die Natur der »Triebe« bereits wiederholt geäußert worden sind.》


《「欲動」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》――冒頭に、《快と不快の感覚が、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない》としつつ、「欲動」の「反復強迫」については、すでに誰かが繰りかえし言っていることに、フロイトは気づいている、ーーと読んでよいだろう。

《〈欲動〉とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものである》とするフロイトだが、《以前のある状態を回復する》とは、回帰のことであり、とすれば、永劫回帰を想起せざるをえない。

ところで、20世紀後半の、二人の偉大なニーチェ読みは、永劫回帰とは、権力への意志の隠喩であると、あっさりオッシャッテイル。ここでは邦訳でもなく仏原文でもなく、英訳から抜き出す。

◆クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』より。

The Eternal Return lies at the origin of the rises and falls of intensity to which it reduces intention. Once it is conceived of as the return of power - that is to say, as a series of disruptions of equilibrium - the question then arises of knowing whether, in Nietzsche's thought, the Return is simply a pure metaphor for the will to power.

◆ドゥルーズの『差異と反復』より。

Nietzsche presents the eternal return as the immediate expression of the will to power, will to power does not at all mean 'to want power' but, on the contrary: whatever you will, carry it to the 'nth' power - in other words, separate out the superior form by virtue of the selective operation of thought in the eternal return, by virtue of the singularity of repetition in the eternal return itself. Here, in the superior form of everything that is, we find the immediate identity of the eternal return and the Overman.

ニーチェはどこでそんなことを言ってるのだろうと、『権力への意志』のpdf版を――これも英訳なのだが、――検索してみたが、直接には永劫回帰は権力の意志の表現であるなどとは言っていない。ただクロソウスキーが延々と引用する『権力への意志』の遺稿からそう読めないでもない、ということはある(クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』は、ドゥルーズに捧げられている)。

もっともクロソウスキーとドゥルーズの解釈はここまでは同じとしても、このあとの展開がひどく異なるという指摘が、樫村晴香の『ドゥルーズはどこが間違っていたか』にある。この論文は、ハイデガーとドゥルーズのニーチェ解釈に異議をとなえ、クロソウスキー解釈を顕揚する気味がある。「対象関係」という語彙にいささか齟齬を感じつつも、ここですこし長く引用してみよう。


ここで重要なのは、この分裂病的な「悪循環」は、固有に性的なものの作動と切り離 せず、単純な過程ではないことである。一般に性的な活動は抑圧されることによって、より 蒼古的な反復運動(反復強迫)として、対象関係から(てんかんのように)分離‐孤立して 発現するが、反復とは原初的な模倣(擬態/偽装)活動であるゆえに、まさに反復される 自己の(直前の)運動は、模倣される原初的他者=対象の相同物の感触と価値をもつ。性 的なもの(享楽/強度)によって、他者が想像‐幻想から切り離され、切り刻まれた物質的 基体(=反復)として言語に持ちこまれることによってこそ、その形成の根幹において他者と の現実的対話‐想像的なものに規定され、意味の確定を不断に曖昧な「他者の(への)要 求」として処理‐留保することで(かろうじて)成立している意味作用は、想像的=幻想的な ものと同一性に対し、真に破壊的なものへと反転する。強度‐反復のなかで、切り刻まれた 他者の存在と対になり、向かい合い、それに支えられることで、思考は現実の他者から分離した、抽象的な「叫び」の次元を獲得する(とはいえ叫びは誰か(=刻まれた他者)に向 けられているわけである)。

分裂病的な発話が、けっして機械的、無限増殖的ではなく、常 に絶対他者‐真理への関心をはらんでいること(精神病者は常に「存在論的」である)、悪循環の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与するのはそのためである(ニーチェの いう「春」の情動)。

しかもさらに重要なことだが、ここで性的なものの再帰は意識以前の反復強迫のオーダー に属するゆえに、常に「意に反した」ものとして意識‐象徴世界の外から侵入し、そのため 常に言語‐象徴に従属している幻想にとって、それは必ず悪しきものである。幻想‐快感 原則に反する悪しきものでなければ、原理上性的なものでなく、その作動において、主体 は意識の場から失墜し、結局それ自身において切り刻まれる。それゆえ至高の真理(永 劫回帰)とは、常に悪魔の真理であって、忌まわしい。精神病的存在論において、真理と は直接にセックスのことだが、その真理は同時に疑われ、憎まれる。実際、性的なものの 発動としての反復強迫は、単純な反復でなく、常に何かを打ち消す意味的なものをもはら んでおり、これは破瓜型分裂病者の機械的所作でさえ垣間みられる。それゆえこの悪魔 の真理(主体の惨めさ)を受け入れるには、主体は再度、それを原初的な幻想(原光景)と 重ね合わせ、悪魔を母に書きかえて、それをすでに経験し知りつくした劇(主体の原初的 無力性という、より無害な惨めさ)として再編しなおす、マゾヒズム型の倒錯的防衛を経ね ばならない。その防衛‐光景内部では、すべてはあらかじめ知られた劇‐視像として展開し なおされるので、主体は無力さと引き替えにその場の暴力から外在化し、切り刻まれること を免れる。それは(疑似)精神病者のヒステリー的戦略であり、悪魔は幼い主体を前にした 安全な母親に縮減される。つまりここで主体は、絶対的な力をもつ外部である母親に従属 することで、意識(と無意識)の主体であることを失わされて、受動的な視線となるが、とは いえこの劇はあらかじめ未知の部分(無意識)を排除しているので、受動的な観客である ことと能動的な意識‐欲望の主体であることに内実的差異はない。無意識=記憶をもたな い意識とは、その場限りの視線と同じだからである。

この主体の外在化によって、外部から 来る主体の性的拍動としての悪は、主体の外側の劇として無害化され、意識/無意識、 能動/受動の差異の抹消と並行して、悪と善の境界は消失し、悪は悪のシミュラクルとな り、真の「善悪の彼岸」が訪れる(とはいえそこまで行き着くのは、ニーチェの後からきたク ロソフスキーである)。


 《悪循環=永劫回帰の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与する》、とあって、この「性的」なもの、「抑圧」という語彙を嫌うひとがいるだろうけれど、悪循環=永劫回帰の「常に性的なもの」、そのトラウマがキライなひとは、ラカンもフロイトも読まなくてよろしい。

とはいえ、ここでの抑圧は、原抑圧とすべき、すくなくともそれをも含めての「抑圧」とすべきじゃないかな。

……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」

このドゥルーズの反復をどう読むかは、--ひょっとして齟齬があるひともいるだろう。

偽装し差異化する力をもつ潜在的な原形質、という一元論的・超スピノザ主義的発想は、 かなりの程度ベルグソンに源を発し、同時に Dz が内在的に抱えていたイマージュによっている。後者に由来する彼自身の感覚が前面化する際には、特筆すべき固有点を彼のテキストは描き出すが(後述)、ニーチェやフロイトといった、主体の情動/思考の全過程 を動員する分裂病的‐神経症的な「ハードな現実」を、批判主義的執拗さをもって哲学的= 統一的に処理する際には、前者の欠点が前面化する。すなわち、対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的‐暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、そ れ以上に、人間の身体‐情動の回路と、言語‐思考‐意味作用の回路が、系統‐個体発生的に起源を異にし、本質的亀裂をはらんでいることへの無関心である。既述のように、弁証法の排斥は、他者と抑圧(抑圧物の回帰)の問題系の忌避となり、その結果、絶対他者 や悪・侵犯を経由する倒錯的戦略を軽視して、現実には倒錯を通じてこそ結合している 強度‐身体と差異‐偽装を、腹話術的に短絡させてしまうことになる。そして身体と言語の オーダーの連結は、言語‐思考から離脱したゆえに出現するものとしての、反復(強度)と いう原初的な「世界‐意識の外からの」運動を、その運動を再解釈し、謎として構成しなお す、事後的‐神話的な思考内部で処理させることになる。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』1996)

クラインの「対象関係」へのラカンの異議としては、
母という全体的対象は、母それ自体として出現するのではなく、
エルンスト坊やの糸巻き遊びに代表されるような子供の反復遊びによる
現前-不在(+/-)の分節化によって出現する。
この分節化は呼びかけという領域でなされ、
母という対象が不在のときに呼びかけられ、
現前 するときには拒絶されることによって、
現前と不在が同時になりたつ(+/-)シニフィアンと なっている、と.

ただしこれはセミネールⅣの段階。
セミネールⅩⅠを経て、
セミネールⅩⅦ、ⅩⅩでなんやらややこしいことを言っている。

”jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself”

"Jouissance is what necessitates repetition,"

"jouissance is what serves no purpose [La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien]"


ーーラカンは、ドゥルーズの『マゾッホとサド』をべた褒めしている、《しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです》(1967年4月19日)。

一年後に出版された『差異と反復』(1968)にはコメントはないようだが、
やはりかなり影響受けているに相違ないので、
『セミネールⅩⅦ』1969での「反復」をめぐる発言なんてモロじゃないか


で、なんの話だったか。
ドゥルーズ派でいくのか、樫村晴香派でいくのかは、アナタしだいだよ
ーーとすれば、樫村を褒めすぎだけれど、1996年に書かれた論文として
今でも読むに値するすぐれた「ニーチェ」論だな

ところで、ジジェクは、反復のずれ(微細な差異)に対象aをみるんだな。

《The objet a and pure repetition are thus closely linked: the a is the excess which sets repetition in motion and simultaneously prevents its success》

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私意訳)

ーーこの文を読めば、反復に関してはドゥルーズの見解に沿っているようにみえる。
ただし反復のずれ(微細な差異)を対象aとするのだ。

そしてジジェクのいう対象aは、究極的には、繰り返せばこうだ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、
(母)他者〔(m)other〕を独占したい。
だがそのような完全な応答は不可能である。
そこにはつねに残余があり、
“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。
“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(Paul Verhaeghe)


要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。

欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、
主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。
構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。
というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、
現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。
Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、
Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、
Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。

これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。
ということはどの主体もイマジナリーな秩序において
これらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。
これらのイマジネールな答は、
主体が性的アイデンティティと性関係に関する
いつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。

別の言い方をすれば、主体のファンタジーが
――それらのイマジネールな答がーー
ひとが間主観的世界入りこむ方法、
いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。
象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、
キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。

La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、
L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、
Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、
たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって
女たちは存在しないんだとさと公表した、
構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実を
かき消してしまうようにして。

たとえば、フロイトは書いている、
どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、
三つの避け難い問いに直面することだと。
すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、
父の役割、
両親の間の性的関係。



原初の喪失とはなにか? 永遠の生の喪失、それは、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。Meiosis(分裂)によるのだ。(ラカン「セミネールⅩⅠ」私訳)

Encore, encore !
享楽は、権力への意志=衝動である。
われわれのすべての欲動は、永劫回帰(反復強迫)する。

《Jouissance is the driving force in all these attempts to return to a previous level.》(Paul Verhaeghe)

こういうわけで間違ってるんだよ、
“純粋な”死の欲動は(自己)破壊への
不可能な“全的な”意志とするなんてのはね、
主体が母なる〈モノ〉の全体性へと回帰する法悦の自己消滅で
でもこの意志が実現されえないとか妨害されてとかで
“部分対象”に凝り固まるなんてのは。

そんな考え方なんてのは、
死の欲動を欲望とその喪失した対象のタームに再翻訳しただけさ。
欲望においては、現実の対象は不可能な〈モノ〉の空虚の換喩的な代役なのさ。
欲望においてこそ、全体性へのあこがれは部分対象へと配置転換されるってわけさ。
ラカンがいってるだろ、これを欲望の換喩だって。
ここのところは極度に厳密でなくっちゃな、
ラカンのポイントを捉えそこなわないようにな。
欲望と欲動を混同しないように、だな。

ニーチェかい?
権力への意志は原意志と「翻訳」したっていいさ
きみ次第だね

Davis's thesis is that this “rebellious whiling” refers to a non‐historical ur‐willing, a willing which is not limited to the epoch of modern subjectivity and its will to power.

まあでもやっぱり死の欲動のほうがオレの好みだね

But one should here raise a more fundamental question: is the Will the proper name for the “stuckness” which derails the natural flow? Is the not Freudian drive (the death drive) a much more appropriate name?(ZIZEK)

※死の欲動のドゥルーズやジジェクの考え方については、「攻撃欲動はタナトスではなくエロスである」を見よ。


さて、最後に付け加えておこう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 P59)

とすれば、快原則の彼岸とは、快・不快の彼岸ということではないのだ、と言えるだろうか。





2014年10月17日金曜日

「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳)

この文は、《享楽の垣根における欲望の災難》(ラカン)のパクリである。

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。

欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)


バルトの文の、《欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもの》とあるが、これもパクリである(たぶん――、「漂流」の原語を調べてみることは今はしない)。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール フィンク英訳からの私訳)

《欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。》(ジジェク『斜めから見る』)


フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状(症候)には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。(“Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)私訳ーー症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン))

もちろんロラン・バルトのパクリには何の問題もない。

彼の《優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれる》そのやり方、《つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用する》のだ。

他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる…バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する…(蓮實重彦『物語批判序説』)


…………


ところで、ニーチェ『ツァラトゥストラ第四部』(酔歌)、いわゆる「永劫回帰」が謳われるツァラトゥストラのこのグランフィナーレには、手塚富雄訳では「悦楽」という語が出てくる。これはLustの訳語であり、文脈によって「快」とも訳される(参照:悦楽(享楽)と永劫回帰)。


悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー

Alle Lust will aller Dinge Ewigkeit, will Honig, will Hefe, will trunkene Mitternacht, will Gräber, will Gräber-Thränen-Trost, will vergüldetes Abendroth –

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -

さて、ここで再度、バルトに戻ろう。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳)

「悦楽jouissance」は、さきほども見たように、訳者によって「享楽」と訳される場合もある。

バルトにはこの「快楽/悦楽」の変奏であるだろう「ストゥディウム/プンクトゥム」が、最晩年の『明るい部屋』(花輪光訳)にある。

・ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

・プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

・ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する。

ーー「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか(ニーチェ)」より

ここで再度ニーチェを引用する。この文は、フロイトの『快感原則の彼岸』の出所のひとつではないかとさえ疑う。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである。(ニーチェ「権力への意志・第三書・二・三・権力への意志および価値の理論」原佑訳ーー「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」)

フロイトは、その『自己を語る』1925のなかで次のように書いているを以前みた。

私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。

フロイトはショーペンハウアーのなかにさえ、抑圧理論の端緒があるといっている。もちろんショーペンハウアーはニーチェの若き日の大先生である。

――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)

さて、ここではフロイトの『快感原則の彼岸』からではなく、より後年の論文『文化への不満』(新訳では『文化のなかの居心地の悪さ』)から引こう。

読者もおわかりのとおり、人生目標を設定するのは快感原則のプログラムに他ならない。われわれの心理機構の働きは、そもそもの始めからこの原則によって支配されている。この原則が合目的なものであることは疑いをいれない。(……)

厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話〔エピソード〕的な現象としてしか存在しえない。快感原則が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快感は与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか居売れるな快感を味わえないように作られているのだ。(フロイト『文化への不満』人文書院 フロイト著作集3 P441)

ーーと書かれ、次の註が付されている(「欲動と享楽の反倫理学」覚書より)。

註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。

以下、そのうちにーー気が向いたらーーたぶん? 続く。




2014年10月13日月曜日

ニーチェの妹

さて、――なんの話だったか。
まずはふたたびヴァレリーの言葉に耳を傾けることにする。

私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を 惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳――「オナニスト」ニーチェ)

だが今回はマスターベーションの話ではない
わたくしは伝記のたぐいを熱心に読む習慣がないので
エリーザベト・ニーチェのことについてもたいして知っていない

死後出版の『権力への意志』を編集しなおしたとか
(それにハイデガーとドゥルーズが騙されたとか)
初期のニーチェ全集に伏字をほどこしたとか
ニーチェの「手紙」のなかには、「妹のこしらえものの手紙」があるとか
原文がStille(静寂)なのにWille(意志)と印刷された箇所があるとか
まあせいぜいこの程度である

どうせなら「権力への意志」を、すべて「権力への静寂」にすべきではなかったか
実際これは冗談ではなく、わたくしのひねくれた頭にはぴったりくる。

フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』には次の文がある。

《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》
(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)

フロイトは権力への意志を、
タナトス(死の欲動)と近似したものとして扱っている。
で、ここでドゥルーズのお出まし願えば
『マゾッホとサド』には次のようにある、

エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口をとざしている。(蓮實重彦邦訳p143)

どうしてこの二つの文から、権力への静寂としていけないわけがあろう。
ニーチェだってラカンのように語呂合わせの趣味があったら
W-Stilleとでもしたのではないか

『権力への意志』には、英訳からだが次の文がある。

[My theory would be:_] that the will to power is the primitive form of affect, that all other affects are only developments of it

アフェクトとある。これはふつう「情動」と訳されるだろう。

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること(立木康介)--フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」)

情動と欲動、そして死の欲動は限りなく近い。
すべての欲動は潜在的には死の欲動である。
《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

しかもニーチェ遺稿、《Wer legt aus? - Unsere Affekte.》(688  March-June 1888)を
《誰が解釈するのか?――われわれの欲動(Affekte)である》
と訳されている先生がいる(『「権力への意志」の冒険』 砂原陽一)

ニーチェの『権力への意志』遺稿には“Triebe”の語も頻出するので、
“Afekte”を欲動と訳された場合、どうするつもりなんだろう、
という疑念は湧くが、これはこれでおもしろい。

クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』の訳者Daniel W. Smith
――彼はすぐれたドゥルーズ研究者でもあるーーの訳者序文にはこうある。

Nietzsche himself had recourse to a varied vocabulary to describe what Klossowslu summarizes in the term 'impulse': 'drive' (Triebe), 'desire' (Begierden), 'instinct' (Instinke), 'power' (Machte), 'force' (Krafte), 'impulse' (Reixe, Impulse), 'passion' (Leidenschaften), 'feeling' (Gefiilen), 'affect' (Afekte), 'pathos' (Pathos), and so on.
(”Translator’s Preface” Nietzsche and the Vicious Circle PIERRE KLOSSOWSKI Translated by Daniel W. Smith)

クロソウスキードゥルーズの混淆流なら、
「権力への意志」は、「〈力〉puissanceへの衝動implusion」とでもいうべきところか。
いや力puissanceへのパトスPathosってのがオレの趣味だな
ニーチェには「距離のパトス」という美しい表現がある。

《人と人、階級と階級を隔てる深淵、種々のタイプの多様性、自分自身でありたい、卓越したものでありたいという意志、わたしが〈距離のパトス〉と呼ぶものは、あらゆる「強い」時代の特徴である》(ニーチェ『偶像の黄昏』)

『偶像の黄昏』でしたか、ニーチェがおもしろいことを言っていて、ルネッサンスのような『強い』時代には、人と人との間、階級と階級との間に距離があり、その距離にパトスがみなぎっていた。そのパトスを通じてこそ、自分が自分自身になり、自分を他から卓越させたいという欲望が実現されたんだと。ニーチェ自身の生きていた十九世紀後半のドイツはそういう『強い』時代ではあり得ないという嘆きなんでしょうが、さらに時代がくだって、我々はそれよりさらにいっそう『弱い』時代を生きている。『距離のパトス』が失われているんですね。そうすると、結局、個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出していくしかない。これは何とも厳しい途ですよね。切羽詰った力業によって、そのつど捏造されるほかない文学の発生でしょう。(松浦寿輝 古井由吉との対談にて)

…………

さて寄り道はやめて元に戻れば、そもそもニーチェの恋愛事件
ーールー・アンドレアス・サロメとのーーにちょっかいをだして
仲をこじれさせたという話もたいして知らなかった.

という無知なわたくしを、ひどく《面白がらせる》論文にウェブ上で出会ったというわけだ。それは、「思想の歪曲としての「力への意志」 : エリーザベト・ニ ーチェの場合」(須藤訓任 Issue Date 2012-12-25)なるものである。

たぶん専門家の方々にとってはとっくの昔に「常識」なのだろうが、
そこにはこれも死後出版の『この人を見よ』の「序言」につづく
「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第三節が
妹によって原稿差し替えがなされているという話が書かれている。

これはすでに1969年に「本来」の原稿に戻されたらしいので、
現在の『この人を見よ』邦訳にも、
新しい「正規の」もので訳されているのかもしれない。
わたくしの手元の手塚富雄訳は、旧版の訳のままだし、
須藤訓任氏の指摘では西尾幹二訳もそのままである。

というわけで、ニーチェの「本来の」原稿から抜き取られた箇所を掲げよう。

「わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken 1 くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来 の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。―」 (KSA(Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter), 1980, Bd. 6, S.268)
注1) 一橋大学の田邉秀樹教授からこの「最高の瞬間」に関して、それは 「せっぱ詰まった、ぎりぎりの瞬間」 という 意味合いがあるのではないか、たとえば、最終ぎりぎりの列車についてhöchst という形容がなされるように、と いう示唆を頂いた。 (本稿最後の 「付記」 参照。 )余裕がなくなり無防備になったという意味であり、 そのかぎり、 ニーチェのいまの文脈に(また後に見る書簡下書きの内容にも)よく適った指摘であると考える。

とてもわたくしを面白がらせる。しかも、《しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ》とあるように、「永劫回帰」という語彙が出現する意味で、なんとも捨て難い(それはニーチェをオナニストと告発するワーグナーの話と同様)。

またこの論文には次のようなニーチェの手紙の下書きも二つ引用されている。

《いくつかの書簡や書簡の下書きのうちに確認される文面内容(……)。たとえば、 母親宛にしたためられた書簡下書きを見てほしい。1884 年1 月か2 月、ルー・サロメとの恋愛 事件が、家族、とくに妹の介入によってこじれにこじれる経過を辿って(ニーチェにとっては) 悲劇的な結末を迎えておよそ一年後に、執筆されたものである。そこには、 「私に対する妹の致 命的な倒錯行為die verhängnisßvolle Perversität meiner Schwester gegen mich」という語句に続けて、 次のように記されている。》

「ところでとっくに分かっていたことですが、妹は私が死ぬまで手を休めることがありません。 いまでは、ツァラトゥストラは〔第三部まで〕完成しています。それが完成し私が自分の港に入 っていったその瞬間を狙って、妹は立ち上がり両手いっぱいの汚物を私の顔めがけて投げつけた のです。 (…)あなた方でなければ、いったい誰が私に対して失礼な振る舞いをしたというので しょう。あなた方でなければ、誰が私の人生を危機に陥れたというのでしょう。あなた方のよう に、誰が私をこんなに完全に見捨て、私が慰めを必要としていた時に対するお返しとして、私の 人生と努力の全体を嘲笑し汚したでしょうか。/子供の頃から知っていましたが、私とあなた方 を隔てる道徳的な距離をますます痛感するようになりました。この距離をあなた方にあまり気取 られないようにするために、私は自分の全温和さ・全忍耐・沈黙を必要としてきました。あなた 方のような人間とこれほど近親であるためにどれほどの嫌悪感を克服しなければならないか、な にもお分かりにならないのですか! 妹の手紙を読み、愚鈍と傲岸さのこの混合が道徳的に着飾ってさえいるさまを飲み下さなければならないとき、どんな嘔吐に駆り立てられることでしょう か。 」 (KSB(Friedrich Nietzsche Sämtliche Briefe Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter) Bd. 6,S.468f.)

《また同時期のオーヴァーベック宛書簡の下書きにはこうある。》

「ちなみに、わが妹は不幸をもたらすウジムシです。この二年間六度にわたって彼女は、私の最 高にして至福の感情―およそこの地上では稀であった感情―のただ中に、あまりに人間的な ものの卑劣きわまりない臭気を漂わせる手紙を放り込んできたのです。/いつも不思議に思って いたのですが、ローマでもナウムブルクでも、妹の言うことで私の気持ちを逆撫でしないことは ごく稀でした。/妹から手紙を受け取るたびに、サロメ嬢について語るその汚らわしい中傷のや り方に憤慨させられました。 (…)妹の一番最近の手紙の類いには法的に本来、横っ面を二、三 発張ってやるくらいがふさわしいでしょう。 」 (Ibid., S.471f.)

…………

須藤訓任大阪大学教授に敬意を表して、あわせて付録も掲げておこう。

《付録として、 本邦最初のエリーザベトの評伝、 恒吉良隆著『ニーチェの妹 エリーザベト―その実像』 (同学社、 2009 年)の須藤による書評( 『図書新聞』2952 号、2010 年2 月6 日)の一部を載せておきたい。その論旨は以 上の議論と基本的に一致するはずである。》

第2 次世界大戦後はひたすら負の側面が強調されてきたエリーザベトであったが、みずからの精神的・経済的 自立を求めて格闘するその姿に、著者〔恒良氏〕は、時代に先駆けて解放された女性を見定めて、積極的に評価 する。正負のバランスに配慮しながら、なだらかな日本語で記された本書を読みながら、私〔須藤〕は改めて、 エリーザベトとは幸福な一生を送った人だとの印象を強くした。数多くの苦難にも挫けず、自分の意志を貫徹し た女性という意味においてである。運に左右される局面もあったにせよ、その運を結果的に自分の味方に転じる 力を備えていた。兄の言葉を借りるなら、 「残酷な偶然」を(自己流に) 「料理」するすべを心得ていた。

それ だけに、エリーザベトの正負の両面とは厳密に同じコインの表裏なのではないか、との思いが離れない。彼女の 「実像」とは、正の部分を残して負を切り捨てることが不可能な、まさに正負の一体であるところにこそ存する のではないか。この実像が兄にとって不幸だったのは、彼女の精神が兄の思想的テーマであった「価値転換」と 無縁だったからである。彼女はあくまで時代社会の基本的価値観を前提した上でみずからの野心の実現に奔走し た。そこには時代や伝統それ自体に対峙した兄の精神的苦闘に共感する余地はなく、だからこそ、兄を自分の理 解や利害の圏域に引きずり込んで恬として恥じることがなかった。ただ、厄介なことに、彼女の存在抜きでは兄 の思想の運命も一変していただろう。 それは吉と出るか凶と出るかは簡単には判定できない変化となっただろう。 兄の思想のファシズムやナチズムとの関連付けは弱められたかもしれないが、そもそも膨大な遺稿が散逸されて しまった可能性も高い。兄は妹の最大の被害者にして最高の受益者だったのだろうか。 

…………

※附記

途中で情動と欲動をめぐっていい加減なことを書いて誤解を惧れるので、ここに柄谷行人と浅田彰の見解を附記しておく(「悪い年」を超えて(1996 Ⅱー9 批評空間 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人)より)。もっともニーチェが「情動」という語彙でなにを言おうとしたのか、クロソウスキーのいう衝動のようなものであれば、死の欲動に近づくこともあり得るというだけである。その意味で、砂原陽一氏の訳文、《誰が解釈するのか?――われわれの欲動(Affekte)である》は、思い掛けない新鮮さをもたらしてくれた。


柄谷)ただぼくは、死の衝動や攻撃衝動は生物学的概念ではないと思うんです。つまり、死の衝動は感情や情動に属するのではなく、むしろカントが「理性」と呼んだものと結びついていると思う。カントにとって、感覚や感情が犯す誤謬などは高が知れていて、理性そのものが犯す誤謬こそが問題だった。理性のやみがたい欲動を何とか抑制しようというのがカントの「批評」の狙いです。しかし、ロマン派にはそういう認識はない、それは、平たく言えば、感情対理性の二元論で、それを想像力(美)によって統合するというものです。そして、ロマン派が保守化すると、現実の秩序が保たれるためには感情を、あるいは快感原則を抑制しなければならない、というようなことをいいはじめる。「成熟と喪失」とかね(笑)。

浅田)子供っぽいロマン派の夢を捨てて、「現実」に「責任」のとれる「大人」になろうという、最近また流行っている擬似ヘーゲル主義もそうでしょ。それこそがいちばん子供っぽいロマン派の考えなんだけど。

柄谷)そうですね。文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。

ここには浅田彰の「権力への意志」の見解もあると読めるだろう、《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》。

ジジェクもこの点については、柄谷行人や浅田彰の見解とほぼ似たものだとすることができる。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン)

だが、ニーチェがこのようでないはずはーーカントを喰べていないはずはーーまさかあるまい。

ニーチェは永遠の愚行に堕ちこんだ。本能を弁護するという愚行、自然を弁護するという愚行に。(ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』)

ヴァレリーの言葉遣い「本能」は、二十世紀初頭のことであり、許しておこう。これはすくなくとも今ならAfekteやらTriebeやらにするところだろう。

本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』P34)

動物にはアウシュヴィッツも、コソボもない。レイシズムもないし、ヘイトスピーチもない。

Animals have no Auschwitz, no Kosovo. The element of biology cannot turn into psychology and, conversely, the element of psychology cannot become biology. The drive appears in the no-man's-land between these two and is the effect of this impossible crossing of the borders. The anger and aggression that often accompany it are always expres-sions of impotence and helplessness that are unknown to animals. Animals have instincts, not drives.(THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe)


…………

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

であるにしても、『性欲論』の表現は微妙なものである。たとえば次の文を心理的なものと身体的なものの間にあるとするラカン派の学者(Paul Verhaeghe)はいるのだが。


「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はその自身いかなる性質ももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるにすぎない、というものであろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト『性欲論三篇』旧訳  p35)

《It situates the drive on the border between the psychic and the somatic》 (“Sexuality in the Formation of the Subject”(Paul Verhaeghe 2005)

”somatic”とは、ただ「身体的な」ではなく、「漂流する身体的な」とでも訳せるだろう。

そのときラカンの《欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流」と翻訳する》は、「享楽のソマティック」的なもの、とすることができるかどうかは、わたくしには判然としない。





2014年9月2日火曜日

「異物」としての原光景

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)

原光景(原幻想)といえば、このように狼男の症例がまっさきに参照される。


【狼男とラスキンの公式】

男性にとっては、女性との関係は、女性が彼の公式にフィットする限りでしか可能にならない。フロイトの患者として有名な狼男の公式は、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」であると考えられる。女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生するのだ。ジョン・ラスキンの 公式はギリシアとローマの塑像モデルにならったものである。結婚初夜の最中に、ラスキンが塑像に陰毛がないことを見たときに、この公式は悲喜劇的な落胆に 導かれた。この発見はラスキンを完全に不能にしてしまった。それ以来、ラスキンは妻をモンスターだと考えるようになった。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』より)

わたくしにも「原光景」らしきものが、--性的色調はやや希薄ではあるがーー二つほどある。そのうちの一つは、ここでの文脈における原光景=幼児型記憶とは言いがたいのかもしれない。というのはたぶん幼稚園集団登園の初日の記憶であり、幼児型記憶の分水嶺は通常、三歳前後以前とされ、このときは三歳を過ぎている(三歳三ヶ月)。

…………

田んぼの真ん中の一本道。周りに他の幼児たちの集まりがある。(集団登園だというのは後ほどの言語命題)。遠くに鎮守の森がみえる。遠い…。

幼児たちは、たすきがけ(ななめ掛け)にしてハンカチをぶら下げている。他の幼児はすべて白いハンカチなのに、私のものは柄ものであるのに気づいて泣き出している。母が駆けつけてくる、その上気した困惑の表情。




これとはすこし異なるが、ーー鎮守の森はずっと遠くにみえ、道はおそらく舗装はされていなかったにしろ、草が生えていたわけではないーーたとえば次の画像でもやはりやや異なる。殊に空のすがすがしい感じはまったくあの光景とは異なる。






二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された(注:バリント『治療論からみた退行』)。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。

(……)この大きな変化期において、もっとも重要なのは、そのころから記憶が現在までの連続感覚を獲得することではなかろうか。なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題ではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P44-46)




ーーこれは立ち去って行く自転車の女が含まれる画像であり、わたくしの「原光景」は母を残して鎮守の森に向うのだからやや異なるが、この「原光景」が遡及的に外傷化されたのは、この画像のイメージに大きく関わる。こういったことはあまり書きたくないが、「遠い道」という記事の後半に、いくらか仄めかしてある。

狼男の原光景、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」、女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生する、--とまではいかないにしろ、わたくしにとってかなり危ない女の後姿だ。

鎮守の森でなくてもよい。一本道の先に、たとえば「海」があってもよい。両方とも、母胎であり女性器である。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)



と書けば、かなりウソくさくなる。鎮守の森や海でなくても、穴だったらいいのだから。





要するに、このたぐいの画像を眺めて、いまでもドキッとするのは、わたくしの最初期の記憶にかかわるには違いない。

わたくしの「原光景」では、女たちが振り向いてくれないのが残念だが。

《柿の木の杖をつき
坂を上っていく
女の旅人突然後を向き
なめらかな舌を出した正午》(西脇順三郎)

もう一つの記憶は、これは明らかに三歳以前の記憶で、ひどくぼんやりはしており、ほとんど映像とはいい難くむしろ声に包まれた安堵の感覚。ただし右側の窓から光が射し込んでいる。薄暗いつやけしの光のなかで、若い母の穏やかな低く囁くような歌声。歌は、「かあさんが夜なべをして」だ。――かあさんが 夜なべをして 手袋 編んでくれた 木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて せっせと編んだだよ ふるさとの 便りは届く 囲炉裏の 匂いがした」。母の歌で思い出すのは、もうひとつあるが、これはもうすこし後年になってからだ、――ロシア民謡の「赤いサラファン」。

これは適当な画像がないが、木漏れ日や樹々の間に差し込む光をひどく愛するのは、そのせいかもしれない。




ーーもっとも樹間から斜めから光の束や、曇天の空から束の間幾筋もの光が差し込む光景は、多くのひとが愛するものなのだろう。もちろん、窓から漏れ入る光でもよいのだ。

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
  手にてなす なにごともなし(中原中也)


とすれば、最初期の幼児型記憶は、わたくしの音楽の趣味にいっそう大きくかかわるといったほうがよいのかもしれない。あの、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のような感覚。

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

 フォーレOP.121のアンダンテへの愛は、幼児型記憶に関係する、とまで言ってしまえば、これもこじつけになる(要するに、原光景は、本来言語化できない記憶なのだから、言葉に表して説明しようとしても、画像を示しても、すべてウソくさい)。

むしろ、上の画像の樹間の斜めから来る光の感覚は、マタイ受難曲の「真に彼こそは神の子だった」と重なり合う。





さて、なんの話だったか。

スタンダールのような、より性的な原光景がなくて残念だ……。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。
急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)

実は、中井久夫の「原光景」をめぐって書こうとしたのだが、寄り道が長くなったので、またの機会にし、いまはそのさわりのみとする。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁)

ここに鉤括弧つきで「異物」と出てくるのは、フロイトの“Fremdkörper”のことだろう。『ヒステリー研究』1895に頻出し、この語は、トラウマに関連して使用されている。中井久夫の幼児型記憶論は、原光景という語はたしか出てこなかったはずだが、フロイトの「原光景」概念をより拡がりをもって再構成する試みだともいえるのではないか。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるが、これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976


シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


…………

以下、原光景をめぐる資料。

◆向井雅明「精神分析とトラウマ」

1885年(1895?)頃にはフロイトは次のような要素で構成される、最初のヒステリー理論を完成する。

1-ヒステリーは父親もしくは近親者の性的誘惑によるトラウマにがもとになって引きおこされる。

2-トラウマは常に性的な性格を持っている。

3-トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。

4-抑圧理論。トラウマの記憶は不快を呼び起こすので、快感原則によって支配されている他の記憶とは隔離され抑圧される。

これがneuroticaと呼ばれるフロイトの最初のヒステリー論の中核を構成する考えです。
しかしそれから少し経って、フロイトはこの理論を捨てることになります。

1987年(1897年:引用者)9月21日付けのフリースへの手紙の中で、フロイトは、この理論を否定する理由を説明しています。

フロイトがneuroticaを捨てた理由

1-トラウマを追求することの患者側からの拒否。分析が続けられない。
2-父親の倒錯的行為がそれほど多いとは考えにくい。
3-無意識では実際に起こったこととファンタスムの区別がつけられない。
4-精神病においては外傷の無意識的記憶を明らかにできない。

父親または近親者による性的誘惑によって生じた心的外傷がヒステリーの原因になるという理論をフロイトはここで捨てたわけです。そして、その代わりにくるのは幻想の理論です。外傷体験だと見なされていたものは実はファンタスムだという考えです。幼い子どもは父親のような人にたいして愛されたいと、かわいがってほしいという願望を抱く、だがこれは近親相姦的な願望であるので抑圧され、逆転されて誘惑されたというファンタスムになるのである。

したがって、トラウマはファンタスム、つまりフィクションだということになります。

ところがここでまた問題がひとつ生じます。トラウマがたんなるフィクションであるというなら、トラウマがどうしてつよい不安や様々な深刻な症状を生みだすのか理解することが困難となるでしょう。単なるフィクションであるなら、その苦しみから逃れるのには別のフィクションで対抗させればよいだけですから。それが主体を現実に苦しめるのはやはりそこにはフィクションを超えた何かの現実界との繋がりを考えることが必要となります。

フロイトはここでファンタスムを持ち出していますが、ファンタスムを単純にフィクションであると決めつける必要はありません。たとえファンタスムであろうと、何もないところからそれが生まれるわけではありません。ファンタスムにはファンタスムを構成する素材が必要なのです。では、そうした素材はどこから来るのでしょうか。それはやはり主体が出会った実際の出来事です。

したがって、よく言われる、フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません。それまでの理論が

- 現実界に繋がるトラウマ→症状

という図式であったのにたいして、ここでは

-現実界との遭遇→ファンタスム(トラウマ)→症状

という図式となるので。また神経症の原因としての性という要素はここでもずっと保持されています。したがって、ここにおける神経症についての理論は、誘惑理論に比してより現実的であり、かつより精緻な理論的把握を許すものとなっているのです。

neurotica以後の理論化において外傷的経験の重要さをよく示しているテクストは狼男の症例です。

フロイトは患者の神経症の背後には何らかの現実的な出来事との遭遇があったはずだという考えで、執拗に、そしてまた強引とまで感じられる手法をもって狼男の分析を推し進めました。その結果、分析の場で患者が提供する様々な素材から、患者は両親の性行為のシーン(原光景)を目撃したと結論するのであった。それもかなり具体的に、患者が一歳半のとき、ある日の夏の夕方五時に、両親は子どもの前で後背位による性交を行ったと断定するのです。そしてこれば患者の以後の人生にとって決定的な出来事となったと考えました。

フロイトがこれほどまでに強く原光景の実在性に執着したのは、トラウマを引き起こすのが単なるフィクションであるならば、トラウマがそれほどまでに強力な影響を及ぼすとは考えにくいからでした。そしてそれに関連して、ユングとの理論的な確執もありました。ユングにとって、無意識には元型というものが備わっており、原光景はそれを元に空想されるということになるでしょう。したがってユングにとっては現実的なとの出会いは必要ないのです。それにたいしてフロイトはあくまで原光景の体験の先行性を認めて、現実界との接触を保持しようとしたのだ。ユングはすべて観念の次元でかたづけようとするのに対して、フロイトは唯物論的に考えようとするのです。

オオカミ男の症例ではフロイトは分析を通して原光景を構築したのであって、直接トラウマとして得られたものではなかったという点に注目すべきです。



             (Bernardo Bertolucci  «Novecento»)


◆『光をめぐって』(1991)より(ベルトルッチインタヴューは、1982.10帝国ホテルにて)

蓮實重彦)……ある一つの事実に気がつきました。それは、あなたの映画では、人は決してベッドで寝られないという事実です。まるで、ベッドから追いはらわれるように、公園とか庭先の椅子といったところで熟睡するのです。

ベルトルッチ)ああ、そうだろうか。

―――ええ、もちろん、あなたの映画にベッドはたくさん出てきます。でも、そこでは誰も熟睡できず、むしろ不安な表情で目覚めている。『革命前夜』の美しい叔母は、一晩、ベッドの上で眠れぬ夜を過し、『暗殺の森』のコンフォルミストも、冒頭から正装のままベッドに横たわり目覚めていた。彼らは、ベッドの上で眠れないだけではなく、そこで愛戯にふけることもできない。『ラストタンゴ・イン・パリ』でも『1900年』でも、男女は、床の上や藁の中といったところで交わり、もっぱらベッドを避けているようです。後者でのロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューとは、女に誘われてその部屋に行き、着ているものを脱ぎすてさえするのですが、ベッドに裸身を横たえる女が突然引きつけを起してしまうのでそのまま何もできない。ベッドに横たわる唯一の人間は、『ラストタンゴ』のマーロン・ブランドの死んだ妻ばかりです。こうしてみると、あなたの映画ではベッドが不吉な場所ということになるのですが……。

ベルトルッチ)なるほど、おっしゃる通りです。そう、こういうことがいえるかもしれません。私の父の小説に『寝室』というのがあります。イタリア語では文字通りベッドのある部屋となりますが、その小説は私や兄弟たちの少年時代は、家庭では『ベッドルーム』と英語で呼ばれていました。父が、とりすましたふりをしてそう呼んでいたのです。もちろん、子供たちにはベッドルームという音の響きが何を意味しているかはわからなかった。十五、六歳になって英語を習ってから、はじめてこの小説の題の意味が理解できたのです。

もし私の映画にそうしたイメージが恒常的に現れるとすれば……。

―――もっと多くの例も引けますよ(笑)。

ベルトルッチ)……それはまぎれもなく、タブーを意味しています。フロイトのいう原光景という奴です。つまり、そこで両親がセックスをする場所であったわけで、この原光景は、それを見る必要はない、想像されるだけでよいのだとフロイトはいっています。しかし、そんなことは、こうした場面を撮るときは考えてもいなかった。

―――意図的な表現ではなかったわけですね。

ベルトルッチ)いや、自分ではあなたに指摘されるまで考えてもいなかったことです。私は、撮影にあたっては、理性的、合理的ではありません。私はちょっと音楽を演奏するように撮るのです。したがって理性に導かれてというよりは、情動に従って映画を作ります。ですからそうした問題を模索するといったことはしません。たしかピカソが、「私は探すのではない、発見するのだ」といいましたが、まあ、それに近い状態です。

しかし、こうした統一性を誰か他人が発見してくれるのは、何とも不思議な気がします。なるほどおっしゃる通り、ベッドはずいぶん出て来ますね(笑)。で、『革命前夜』では、二人はベッドの上にいるが、女が写真をベッドの上に置いてみたりして遊んでいて、実際に二人が抱き合うのは別の場所です。そう、こうした映画は、自分が成熟した大人とは思っていない人間たちを描いているわけだから、ベッドで抱擁することができない。ベッドで愛戯をするのは、大人になっていなければいけないのです。デ・ニーロはドミニク・サンダと農家の麦藁の中で寝るし、ドパルデューは人民の家で、ステファニア・サンドレッリと抱き合う。レーニンの肖像の前で。……