このブログを検索

2014年3月2日日曜日

「露悪」せよと日本文明は言う

まず夏目漱石の『三四郎』から引く。
近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。
昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜|爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」 「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」
「そりゃ……」
「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」
「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
「どんなのです」
「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」

つぎに漱石(186729 - 1916129日)とほぼ同時代人であるプルースト(1871710 - 19221118日)の『失われた時をもとめて』の最終巻「見出されたとき」から、主人公マルセルの友人ロベール・ド・サン=ルー侯爵の「露悪」(らしき)の描写を抜き出そう。

サン=ルーは(……)軍務に復帰しない自分自身に向かって皮肉のありったけを弄し、その調子のはげしさにこちらは不快を感じるほどであった。「なあに」と彼は力をこめて陽気に叫んだ、「たたかいに出ないというのは、その人間がどういう理由をつけるにせよ、それはみんな殺されたくないからだ、恐怖からだ。」そういって、身ぶりを加えて他人の恐怖を強調し、さらにその身ぶりよりももっと力強い肯定の身ぶりでもって、彼はつけくわえた、「ところでそういうぼくが、軍務に復帰しないとすれば、これもあからさまにいって、まったく恐怖からだよ、なあ!」賞讃に値する感情をわざと強くおしだすのが、やましい感情を被いかくす唯一の手段であるとはかぎらない、もっと新しい手は、むしろやましさをさらけだす、すくなくともそれをかくしているそぶりを見せないようにすることである、という点については、私はすでにさまざまな人にあたって気づいていた。おまけに、サン=ルーにあって、そんなやましさをさらけだす傾向が強められたのは、失態を演じたりへまをやったりして人に非難されかねないとき、自分でわざとやったのだといってそのことを大っぴらにする、という彼の習慣によるのであった。その習慣は、私の察するところ、陸軍大学のある教官からもたらされたものにちがいなく、その教官とは親密な生活を送り、いまも大きな讃辞を口にしていた。したがって私は、サン=ルのこんな突拍子もない発言を、なんの躊躇もなく、つぎのように解釈した、すなわち、それは彼の内心の感情の、言葉による追認であり、開戦時のサン=ルーの行為と忌避とをうながしたその内心の感情を、彼が好んでこのように大っぴらにいってのけたのだと。(井上究一郎訳)

さて、サン=ルー侯爵の《やましさをさらけだす、すくなくともそれをかくしているそぶりを見せないようにすること》とは、漱石が書く「露悪」のいくつかのどのヴァリエーションであろうかーー。いやそうではない。
 
それから四十八時間も経たないうちに、私が知ったいくつかの事実から、「前線に出ないやつらはみんな恐怖を抱いているからだ」といったロベールの言葉にたいする私の解釈が全然まちがっていた、ということが証明された。サン=ルーがそういったのは、会話で光彩を放つためであり、心理的な独創をねらうためであり、それはあくまで彼がねがいでた服役志願の受理が確定を見るまでのあいだのことなのであった。しかも、そのあいだ、それが受理されるように、八方手をつくしていたのであって、その点では、独創という言葉に彼がふくませるべきだと思っていた意味通りに、彼が独創的であったわけではなく、むしろ、サン=タンドレ=デ=シャンのフランス人のなかに当時見出された最良のものすべてと、いっそう緊密に一致していた……

…………

柄谷)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。
むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

浅田)理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある…。

柄谷)しかし、偽善者は少なくとも善をめざしている…。

浅田)めざしているというか、意識はしている。

柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。


柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。日本にはリアル・ポリティクスという言い方をする人たちがいるけれども、あの人たちも露悪趣味に近い。世界史においては、どこも理念なしにはやっていませんよ。


浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

柄谷)偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。自由主義や共産主義という理念があれば、これではいかんという否定的契機がいつか出てくる。しかし、こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰)

ところで「日本には露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にある」のはどういうわけか。

漱石は、《我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった》としているが、これは明治天皇を父権的象徴としたごく一時期のことではないかという見解がある。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

中井久夫は江戸文化の大きな特徴として、「大家族同居の禁」、「刀狩」、「布教の禁」の三つを挙げている(いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」)。


…………


露出せよと現代文明は言う』(立木康介)という書が最近上梓されたようだが、「露出」の論拠のひとつらしい「象徴界の権威の失墜」は、日本、あるいはアジア諸国は先進国であるといえるかもしれない。《江戸時代から、日本の父は超自我ではなかった》のならば。

だが韓国(そしておそらく中国も)はそうではないと受け取れる柄谷行人の論がある。

韓国では、中国の制度=文明が全面的に受け入れられた。科挙や宦官をふくむ文官制が早くから確立されています。しかし、日本では中国の制度=文明を受け入れながら、同時に受け入れを拒んでいる。その奇妙なあり方が文字のあり方としてあらわれているのです。私はそれを、ラカンから学んだ考えで説明しようとしました。結論としていえば、日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。〔『日本精神分析再考(講演)(2008)』


ラカンの日本語論を依拠しつつの柄谷行人の主張は、日本文化の特殊性は、漢字、平仮名、片仮名の三種類の表記の特異性に由来するとほぼ読めるが、このあたりはわたくしにはいまだ十分納得できていない。

日本と韓国を比べたときに最も目立つのは、漢字に対する態度の違いです。韓国やベトナムなど中国の周辺諸国は、すべて漢字を受け入れたのですが、現在は全部放棄しています。言語のタイプが異なる(中国語が独立語であるのに、周辺の言語は膠着語である)ので、漢字の使用が難しいからです。しかし、日本には漢字が残っている。のみならず、漢字に由来する二種の表音的文字が使われています。しかも、日本では、三種の文字によって、語の出自を区別しています。たとえば、外国起源の語は漢字またはカタカナで表記される。このようなシステムが千年以上に及んでいるのです。こうした特徴を無視すれば、文学はいうまでもなく、日本のあらゆる諸制度・思考を理解することはできないはずです。というのも、諸制度・思考は、そうしたエクリチュールによって可能だからです。

 丸山真男は、日本ではいかなる外来思想も受けいれられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがない、と言いました。しかし、それが最も顕著なのは、このような文字使用の形態においてです。漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念はどんなものであれ、先ず日本語に内面化されるがゆえに、ほとんど抵抗なしに受け入れられる。しかし、それらは、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、本質的に内面化されることなく、また、それに対する闘いもなく、たんに外来的なものとして脇に片づけられるわけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されるということになる。


ところで己れ加害性を忘れるために、あるいは隠蔽するために、「正義感」の表出を繰り出す手合いは、偽善というべきか、それとも究極の露悪というべきか。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

すこし以前にツイッター上で、さる二人の「やりとり」における一人が、さんざん相手方に専制的な対応をしておきながら、そのあと、「さあ反レイシズムのデモにみなさん行きましょう」のたぐいの「正義感」の誇示をするのを垣間見たことがあるが、あれはあきらかに漱石のいう《偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする》露悪家的あてつけであるとの錯覚に閉じこもり得、他人事ながらひどく不快感を感じたことがある。

われわれの多くは「露悪的」であることはどうやら間違いなさそうだ。ところで、「露悪」と「露出」はどう違うのだろう。

精神分析以後の世界、すなわち自己分析が前提とされる社会では、失策行為すらも操作的になされうることを示す典型例事例であり、こうした例は枚挙に暇がない。自分の母親を陵辱したいと語る男性、あっけらかんとペニスを欲しがる少女、彼らは単に露悪的なのではなく、自己分析によって本来的な欲望の隠蔽を試みようとしているのである。(斎藤環ーーフロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)ーージジェク『LESS THAN NOTHING』より

本来的な欲望を隠蔽するのが「露出」で、自ずからのものが「露悪」なのだろうか。いやどうもそうではなさそうだ。むしろ逆であるようにも感じられるときがある。ーーこのあたりもわたくしにはいまだ判然としない。

立木康介氏は「露出」を倒錯概念(「ふつうの倒錯」概念)と結びつけているらしい。

立木氏は、倒錯を「真の倒錯」と「普通の(それほど異常性が顕著でない)倒錯」とを区別する。真の倒錯が、(サディストのように)他者を道具化し、そこに仮初の全能的自己を上演するのに対し、「普通の倒錯」では、自らにナルシス的全能感の放棄を迫る契機をことごとく否認し、主体化を拒否し、想像的世界への自閉に固執するという形を取る。それは、「主体がある享楽に捉われ、そこから抜け出せなくなっていることを告げている。その享楽とは、つまるところ、主体が否認に訴え、否認共同体に守られて手放さずにいる、その「幼児的万能感」に由来するものだ。フロイトにおいて「母の去勢」と名指されていたものを、ルブランはもっぱら「幼児的万能感の喪失」と捉える。」(書評『露出せよと現代文明は言う』)

立木氏は別の場所で次のような発言をしている。

フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECFが「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらのALI(国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。最近では、ジャン=ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』(2007)という本を出した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています。このようにポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します。(来るべき精神分析のために

ミレール派/メルマン派の対立とあるが、たとえばジジェクーーミレール派としてよいだろうーーによって、かなり前からパラノイア的ナルシシズムが現代文明の典型的主体の特徴とされてきた。

「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(『斜めから見る』1991ーー現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」

今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信、つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり,すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)


これらはいまならほとんど「ふつうの精神病」の説明として読むことができるのではないか。あるいはまた、立木氏の文の断片からみるかぎり「ふつうの倒錯」の説明とあまり大差がないようにみえる。もちろんあくまで僅かの断片からの印象だけであり、他にどのような記述があるのかは不明の身である。またラカン派内の対立はラカンの構造論に拘泥すれば微妙な差異が大きな齟齬の要因となるのかもしれない。

ーーと書いて今Lacan.comの"Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant"(Thomas Svolos)2009をリンクしようと思ったら、消えてなくなっている。さてさてミレール派内でも紛糾があるということか? この小論はPDFにして保存はしてあるのだが、ここに引用するのは避けよう。

代わりに「ふつうの精神病」でも「ふつうの倒錯」でもないスタンスをとるポール・ヴェルハーゲへのインタヴュー(2011)記事の断片を附記しておこう。
I would formulate it differently. Post-Lacanians indeed came to understand this with the term ‘ordinary psychosis’ — I do not like this, for two reasons. …………

そもそもフロイトの論文の「倒錯」をめぐる個所を読んでいても、ラカン的な「倒錯」概念(精神病、神経症、倒錯の三つの構造論における倒錯)は掴みがたい。フロイトの倒錯分析は、神経症の領野のそれである。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より
These perversions are of course only so-called perverse traits within the context of common neurosis, and not perversion as one of the three possible positions of the subject in relationship to the big Other, besides the neurotic and the psychotic one. I hasten to add that in my opinion the difference between these three positions only becomes possible with Lacanian theory; as long as one stays with Freud, the accent is solely put on perverse traits within the realm of neurosis. Even his paper on A child is being beaten, explicitly announced as a contribution to the theory of perversion, is exclusively based on the study of neurotic patients. Anyhow, if there is a masculine paradigm for perversion, it is without any doubt fetishism, with its narrow focus on the phallus. It is even so paradigmatic that it is rather normal, in the sense of the French homonym norme mâle, which means both "normal" and "male norm". It could be turned into a motherly advice to the daughter: "As long as your lover is fetishistic, don't worry, he's normal. It's only beyond that that they become really dangerous." Indeed, when Freud wrote his very last paper on the generality of the splitting of the ego, that is, in our language, the divided subject, the clinical material from which he started was a case of fetishism.


フロイトの文脈では、「あなたの恋人がフェティッシュ(倒錯)であるなら、心配しないでいい。そうでない輩が厄介なのだ」、ということになる。男性とは本来的にフェティシストなのだ。あるいはまた、比較的初期の有名な『性欲論三篇』の文脈では、女性もふくめて多形的な倒錯であったすべての幼児がなぜ成長したのちには倒錯でなくなるのかという問いがなされている。

“Freud n'a jamais réussi à concevoir ladite sexualité autrement que perverse. ... la perversion est l'essence de l'homme.” J. Lacan, Le Séminaire XXIII, Le Sinthome, Ornicar ?, 11, 1977

※ラカンの標準的な「倒錯」概念をめぐっては、「幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$」にいくらかのメモがある。


さて、上の文脈から離れて、われわれはほんとうに「露出」しているのだろうか、という問いもある。ジジェクは「現代の後期資本主義社会」の人権の特徴を次のように書いている。

他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

むしろときに「妙に気を使い合っている」のが、現在日本の主体の特徴である、と感じられることもあるのだ。
最近ネットなどを見ていると、妙に気を使い合ったりして、あまり人の名前を出して批判したりはしない。他方、批判が一回出てしまうと、それが非難の応酬に繋がってあっという間に絶縁、といった、狭い所でお友達どうし傷つけ合わないようにという感じになっている。 しかし、コミュニケ-ションは常にディスコミュニケーションを含むし、議論は常に相互批判を含むから、それができにくくなっているとしたら忌々しき事態。人格・個人に対する批判ではないという前提で、相互に攻撃すればいい。ある程度けんかしなければお互い成長はしない。けんかするとお互い傷つくが、傷だらけでなんとかやっていくのが社会。別に仲良くやっていく必要はない。けんかし、けんかした上で共存していくというのが重要だ、ということは知っておくべき。(浅田彰「「知とは何か・学ぶとは何か」