あくまでも私の場合だけどさ、お悔やみツイートは、こんな人にも関心ある私ってカッケーさしょ?ってアピりたいだけ、って気がするんで、ルー・リードの死はそっと悼もう……って言っちゃ同じことか(香山リカ ツイート)
ってのが揉めたよな
揉めたといっても炎上というほどではなかったかも
いま検索して日付みると
2013年10月28日か
もう皆さん忘れているかもしれないけど
《われわれはみな心のうちに好みや嫌悪や無関心の一覧表をもっている》(ロラン・バルト『明るい部屋』P28)
失礼ながら香山リカさんは
どちらかというとわたくしの一覧表では
嫌悪と無関心のあいだを揺れ動いている方なのだが
追悼批判のツイートは「好み」の引き出しに仕舞ってある
追悼ツイートがカッケーでしょ?
ってアピリたいだけかどうかは保留するにせよ
こんなに哀しんでいるアタシやボクチャンを見て!
って印象を抱きたくなるのは同意見だな
なかには真摯にボソっと
哀しみの発露をする囀りはあるさ
だけどそんなのは稀な例外だね
追悼とは本来「死者」に向けてなされるもの
眼差しと声は「死者」に向けられるもの
仮に生き残った者へのメッセージがあるとしても
それは背中で語るもの
仲間同士の湿った瞳の交わし合いのために
お悔やみツイートされちゃね
ドゥルーズがある種の「知識人」を批判したらしいけれど
「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる
「屍体を食い物にしている」と
そんな印象を受けるのだよな
追悼の大合唱の輪が
毎度のこと拡散するのを見ると
…………
誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)
人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう、言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差といわれるものだ。
たとえばジジェクならこう言う、《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)
もちろんこれは発話行為だけではなく、たとえば何を所有しているかを示すときにも、その「所有」内容ではなく、「所有」行為の意味するところに注意することができる。
大都市に住み、(どうみても彼には役に立たない)四輪駆動車を所有している男は、たんにきまじめで現実主義的な生活を送っているだけではない。むしろ彼は、自分がきまじめで現実的な姿勢という旗印の下で生活していることを示すために、そのような車を所有しているのだ。ストーン・ウォッシュのジーンズをはくことは、人生に対するある特定の姿勢を示すことである。(『ラカンはこう読め!』)
たとえばある人が、この三年経た現在、福島に訪れたと囀るとしよう。これは言表内容だが、それをわざわざツイッターでつぶやくという行為は、《私はあなたたちのように福島のことを忘れているわけではなく、今もって痛みをもってあの災害を反芻しているのだ》と己れの優越性を誇示したいのではないかと推察(あるいは邪推)することができる(もちろん例外はあるぜ)。
真に「喪の作業」とやらで強い哀惜の念を覚えたなら
やっぱり帰ってきてすぐさまツイートなどしないよな
発酵させて語るべきものだよ
真に「喪の作業」とやらで強い哀惜の念を覚えたなら
やっぱり帰ってきてすぐさまツイートなどしないよな
発酵させて語るべきものだよ
事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はその物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれる欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出合いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
このブログの例をだそう。わたくしが「差別」や「排外主義」をめぐってなにやら書く。その内容以外も、そこで伝えているのは、《私はきみたちのように「差別」に無関心な人間ではないのだ、わたくしはつねに「差別」に関心を持ち続けている《誠実な人間》なのだ》ということを伝えたいのではないかと勘ぐることができる。
ツイッターなど眺めていると、こうやって勘ぐる楽しみのサンプルには枚挙の暇がないのであって、こういう人物を「ひねくれ者」という、――と書けば自らを相対化して、笑うことのできる人間であることを示したいという言表行為とすることができる。そしてこの但し書きでさえ、自らの言表行為の内実を暴露する「謙虚さ」を示したいのかもしれない。
香山リカさんの《ルー・リードの死はそっと悼もう……って言っちゃ同じことか》ってのは、これと似たような相対化のメカニズムが働いており、まあやっぱり「精神科医」らしいツイートだな(二流の、だろうな、一流の精神科医だったら、密かにひとりでほくそ笑む程度にしておくはずじゃないか。ーーシツレイ!)。
次のような素朴な「インテリ」の反撥ツイートよりは余程まともだね(これは「糸井重里とその仲間たち」の一員のツイートだけどね)。
以前ルー・リードへのお悔やみツイッターに「(よく知らないのに)私っておしゃれピープルなのよ!とアピールしてるだけ」といった意見を見かけたが、これもさっきの映画と同様。マニア的になんでも全部記憶する人だけがファンじゃない。作った人は自分の作品を喜んでもらっただけで価値があるでしょ。
ロラン・バルトは日記を書く動機をいくつか挙げ、最後に言表行為/言表内容を対比させ、自らの言表行為に注意深くあれ、と書いている。
……第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)
だがひとびとの発話は、その殆どが「偽善」だといってバカにするなかれ!とも言っておこう。
「福島」や「差別」を言い募ることは偽善かもしれない。だが偽善者の言表内容は、場合によっては、人々の目に触れることによって、それを忘れるな、眼を塞ぐな、という機能をもつ。
その偽善ばかりに注目して顔を顰めてみせていたら、「肝腎なことを見落としてしまう」。これがラカンの「[騙されない]人は間違える(Les
non-dupes errent)」の意味するところである。
マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
ひとびとの偽善を暴いて悦に入るのはやめようぜ
「屍体を喰い物にする」お悔やみツイートだって
ほんとうに哀しみたい人への
情報提供になることだってあるさ
でもヤメラレナイんだよな
プルーストさん あなたのせいだよ
……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)