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2014年1月9日木曜日

ポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe)とジジェクをめぐる備忘

2002年に上梓されたラカンのセミネールⅩⅩ(アンコール)をめぐる解説書があって、その編者のひとりは最近二十年近く前の書『後期ラカン入門: ラカン的主体について』1996がようやく邦訳された著者ブルース・フィンクである。

その『Reading Seminar XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality』( Editor  Suzanne  Barnard& Bruce Fink )には、Colette SolerSlavoj ZizekRenata SaleclPaul Verhaegheなどが八名の著者が書いている。

と云っても、熱心に読んだわけではなく、編者の一人、フィンクの論などはいささか退屈であって、斜め読みしかしていないし、ジジェクの論は以前にネット上で拾って読んでいる。最近、しばしば引用しているPaul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲと読むのだろう)の論もいささか堅すぎて、ほかの論文におけるようなキレがないという印象を受ける。

だがそれはこの際どうでもよろしい。

ポール・ヴェルハーゲはベルギーの精神分析医で、ディレタントのわたくしがいっても詮なきことだが、とてもすばらしいフロイト、ラカン読みに思えて、とくにいくつかの指摘は目から鱗が落ちるような気になる(もともと中井久夫のトラウマ論を読むなかで、その参照としてヴェルハーゲの小論「TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN」に二年ほど前に行き当たり、感心したのがはじまりだ)。






たとえばここではひとつだけ挙げるとするなら、フロイトの論文のなかでUr(原)と名づけられる概念はほとんど全て、その頭辞がない概念と比較すれば、つまり原抑圧抑圧、原父エディプスの父、原幻想(光景)幻想などは、前者が現実界、後者が象徴界に属するものであるとする。

Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way』(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq )より。

In the second period of Lacan's teaching, after 1964, he systematically demonstrated the twofold character of the symptom – Real and Symbolic – thus continuing a central theme of Freud's work.

The very same twofold structure can be found back in every Freudian key concept. Each time, Freud makes a differentiation between a “primal” form and a second version: primal repression – “after-repression”, primal father – oedipal father, primal phantasm – phantasm.

このような指摘は、そう言われてみれば当たり前のことであるにもかかわらず、寡聞にしていままで出逢ったことがなく、早速、フロイトの著書のいくつかを繙いてみるなどということになる。とくにフロイト最晩年の論――ラカンがフロイトの「遺書」と呼んだーー『終りある分析と終りなき分析』1937の記述では、その指摘は正鵠を得ているに相違ない。

ヴェルハーゲの論でとくに目ざましいのは「欲動」「享楽」の扱いで、その刺激から、『性欲論』1905、『欲動とその運命』1915、『快感原則の彼岸』1920、『文化への不満』1930などをパラパラ読んでいるのだが、いまは具体的内容に触れるつもりはない。

ところで、ポール・ヴェルハーゲは、ジジェクの論にしばしば触れるのだが、ジジェクはポール・ヴェルハーゲの論に触れていない(わたくしが調べた範囲では)。

ジジェクは、多くのラカン派やフロイト派の他の著者の引用があるので、これが奇妙に思える。

多様な解釈が跳梁跋扈するフロイトの死の欲動(タナトス)概念の二人の捉え方はとても類似しているにもかかわらず。あるいはLacan.comにおいてThomas Svolosが二人のエディプスコンプレックスの論を似たものとして併記していにもかかわらず。

All of which is not to say of course that Oedipal and to a certain extent pre-Oedipal phenomena do not exist. Though some have argued that the Oedipal complex does not exist in any form - contemporary or historical - , that it is simply a fiction of Freud's, I feel that a more complicated relationship between the Oedipus complex and social and historical formations remains to be elaborated, though Paul Verhaeghe's essay "The Collapse of the Function of the Father and Its Effect on Gender Roles" and "Whither Oedipus?", a chapter in Slavoj Zizek's The Ticklish Subject, are suggestive of the direction such an analysis might take.Of course, Oedipal structures are encountered often in clinical work, and they have a clinical significance. But we must follow the example of Jacques-Alain Miller in his "Petite introduction à l'au-delà de l'Oedipe" and explore a psychoanalysis beyond this. (Past and Future of Psychoanalysis in Psychiatry


あるいは以前、これもLacan.comからだが、Janne Kurkiの『Heidegger and Lacan their most important difference 』から次の文章を拾ったのだが、今見るとその箇所が無くなっている、削除されているようにみえる(わたくしの勘違いでなければ)。

For my knowledge, the best example of this kind of psychoanalytic theory nowadays is what Paul Verhaeghe is doing: there are universal (in regard to the Western world of scientific era) phenomena called “disorders” etc, and what psychoanalysis – and it seems that only psychoanalysis can do this – can do is to give a coherent theory of the non-present dynamics behind these present phenomena.


ポール・ヴェルハーゲは、最近、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念に反旗を翻しており、フロイトの初期概念を参照して、theory of actualpathologyを展開している。LACAN.COMは、ミレール(ラカンの娘婿でもある)の影響力が強いはずなので、そのせいかと邪推したくもなる。

ヴェルハーゲへのインタヴュー(2011)より。
I would formulate it differently. Post-Lacanians indeed came to understand this with the term ‘ordinary psychosis’ — I do not like this, for two reasons. This has little if anything to do with psychosis in the classical Lacanian sense. Furthermore it brings about even greater confusion and a breakdown of communication with non-psychoanalytically trained colleagues in the discipline.http://www.lineofbeauty.org/index.php/s/article/view/60/121

ミレールの「ふつうの精神病」概念とヴェルハーゲの”actualpathology psychopathology”理論を比較して論じるミレール寄りの  Jonathan D. Redmondの論。
In contemporary Lacanian psychoanalysis, Verhaeghe's theory of actualpathology psychopathology in psychosis and the Millerian idea of “ordinary psychosis” provide diverging conceptual approaches to psychosis. In this paper, the two approaches to psychosis are examined with a particular emphasis on “mild psychosis” and compensatory mechanisms. Despite the shared focus on similar clinical phenomena, particularly body disturbances, these two theories provide different explanations of psychosis. Verhaeghe's theory of psychosis is a synthesis of Lacanian theory, Freud's idea of actual neurosis and psychoanalytic attachment concepts. Moreover, these ideas are situated in the “schizophrenia/paranoia dichotomy” an important heuristic device utilized in clinical practice with psychosis. In contrast, the Millerian field of ordinary psychosis aims to broaden the idea of psychosis by reviving the idea of “mild psychosis” and the different forms of stabilization possible in psychosis. Clinicians adapting the idea of ordinary psychosis aim to rethink pivotal Lacanian concepts—“untriggered” psychosis and stabilization—beyond the scope of the schizophrenia/paranoia dichotomy. Although the idea of ordinary psychosis requires further development, it promise greater utility than Verhaeghe's model, as it provides a broader and more nuanced approach to the complex vicissitudes of triggering and restitution in psychosis.Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis

※ここでactual neurosisと出てくるのは初期フロイトの概念「現勢神経症」 (Aktualneurose)のことだろう。

…………


ポール・ヴェルハーゲのエロスとタナトス概念の捉え方は、次の文があまりにも示唆的だ。

life drive aims towards death and the death drive towards life (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)
Freud's discovery of a Beyond of the Pleasure Principle ended with an opposition between Eras and Thanatos, to be understood in terms of Philia and Neikos.Eros is supposed to pursue coupling, association, and mergers into ever-larger unities - just think of the ego's main function : synthesis. At the other end, Thanatos pursues disconnection, disintegration, and destruction.(『BEYOND GENDER. From subject to drive』)

簡単にいえば、エロスの究極の目的は<母>との融合であり、その「享楽」の刻限、「個」を失う。だから「死」に向う。タナトスはその合体を「破壊」し、「個」の「生」に向う。

ラカンがフロイトの遺書と呼んだ「終りある分析と終りなき分析」の叙述ではこうなる。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト
『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

※「trieb」の訳語については、旧訳では「本能」と訳されていることが多い。フロイト岩波書店全集では「欲動」と訳されていることが多いようだ。旧訳の『本能とその運命』(「欲動とその運命」)の註では次のように書かれている。

本訳書ではTriebを「本能」と訳出した。このTriebというドイツ語は本能(instinct)、衝動(impulse)、欲求または要求(need)、欲動または動因(drive)、などの意味を含むし、フロイト自身のTriebということばの用い方も多義的である。したがって、これらの多義的なものを総括するもっとも根源的で包括的な概念である「本能」という訳語を用いることにした。

旧訳の『終りある分析と終りなき分析』でも、すべて「本能」と訳されてており(英訳でもいくらか見た限りでは「instinct」のようだ)、日本で「欲動」概念があまり流通していないのは、そのせいでもあるだろう(参照:欲動と原トラウマ)。

ポール・ヴェルハーゲと同様、すぐれたフロイト、ラカン読みである十川幸司の最近の著書 来たるべき精神分析 のプログラム 』では、《人が、感覚、欲動、情動、言語という四つの異なるシステムの複合として捉えられている。そのうち、情動(他者 との同調や反発)と言語はコミュニケーション を行うが、感覚と欲動は行わないとされる》そうだ。ここに「欲望」という語彙が出てこないことに注目しよう。この十川氏の理論には、よりラカンよりの立木康介などから若干の問いかけ(とくに「情動」の扱い)があるが、「欲望」ではなく「欲動」を中心にもってくる考え方であるに相違ない。

対人関係のなかで「欲望」がないわけではない。だがヴェルハーゲもジジェクも欲望は欲動の防衛機能であり、欲望が象徴界、欲動が現実界のものという捉え方は同じくする。
欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。(ジジェク『斜めから見る』)

そもそもドゥルーズが「欲望機械」というとき、それは「欲動」のことだ、とジジェクは言う。
The starting point for a Lacanian reading of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and Guattari talk about “desiring machines”(machines désirantes), we should replace this term with drive.(“Less Than Nothing”(2012)(CHAPTER 9 Suture and Pure Difference )


なおジジェクは死の欲動(タナトス)をめぐって、次のように書いている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー悦楽(享楽)と永劫回帰(ニーチェ)より)


《すべての欲動は、実質的に、死の欲動であるevery drive is virtually a death drive (Ec, 848)》とラカンは書いているが、このあたりには今は深入りしない。

次のように語る人たちもいるということだけを附記しておく。

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために
(十川)
 死の欲動は、フロイトとラカンにおいて最も重要な概念だと思いますね。ラカンはある時期、フロイトのこの概念を生かすためにみずからの理論を構築していったようなところがあります。しかし、死の欲動は臨床の中で生き延びてきた理論ではないんです。それは、むしろテクスト解釈の中で洗練されてきた概念です。『快感原則の彼岸』(1920)は、ラカン派ないしラカンの影響を受けた研究者にとって特権的なテクストになっています。そして、現在もラカン派は『快感原則の彼岸』の読解を行っている。しかし、私はそういう形での概念の洗練の仕方に以前から疑問をもっています。現在の臨床現場から死の欲動を考えるなら、それは外傷性障害や解離といったトピックと直接的に結びついています。フロイト自身も、そもそも死の欲動という概念を、外傷神経症者が反復して見る悪夢をどのように考えればいいか、という問題意識から導き出している。とすれば、死の欲動の問題は、最近研究が進んでいる外傷性記憶、あるいは幼児性記憶システムといった観点からも捉えられるのではないか、というのが私の問題提起です。

 このような論点が、これまで行われた『快原理の彼岸』に関する豊かな読解の成果を十分に汲んだものではないということはよく分かっています。死の欲動という概念が持つ可能性を狭めている、という批判もあるでしょう。しかし、私はこれまでのテクスト主義からは決して出てこないような、臨床的な一つの読解を提示してみたかったのです。

(立木)
 死の欲動の問題に記憶の問題から迫っていくのは正しいやり方なのだろうか、というのが僕の疑問です。(座談会 その2