マグダ・タリアフェロMagda Tagliaferroはブラジル出身でコルトーの秘蔵弟子。フォーレのお気に入りのピアニストで、演奏旅行をともにしたり、多くのフォーレの作品を演奏している。1960年から70年にかけて、タリアフェロの名を冠した国際ピアノコンクールがパリであった。
わたくしの長男は幼い頃タリアフェロに教えをうけたピアノ教師に学んでおり、独特なタリアフェロ体操なるものをさせられた。日本のラジオ体操に近いが、手首や肘の関節を柔らかくする体操が中心だ。息子は妻やときにわたくしの同伴のもと週一回当地の音楽大学の校長室(教師の夫は校長)に通うのだが、その教育のあまりの厳しさに音をあげて数年後にやめてしまった。その後もこの夫妻の自宅に招かれることがあるが、自宅には小田実とともの着物をきた彼女の写真が飾ってある。ベトナム戦争時、一度日本に招かれて演奏旅行をしており、そのときのものだ。
この教師の演奏スタイルはその肘や手首の動かしかたが、まさに冒頭の映像のようであるが、いかんせんミスタッチが多い!
上の映像は昨日ツイッターから拾ったものだが、つい先日、次の文を読んでタリアフェロの演奏するフォーレの「バラード」を聴いたところだった。
プルーストは1903年にフイガロ紙に掲載された「エドモン・ド・ポリニャッ夫人のサロン」と『失われた時を求めて』の「因われの女」の中で、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番に言及している。また、フォーレの「バラード」をヴァントゥイユのソナタに「利用」した、と1915年のアンス・ビベスコ宛ての書簡で明かしている。そして翌年、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の演奏によリフォーレのピアノ四重奏曲を聴き、それをヴァントウイユの七重奏に利用したという。また、プルーストはフォーレのピアノ五重奏曲にも興味を寄せ、オデオン座でのフォーレ・フェステイバルでこの曲を初めて聴き、ガストン・プーレ四重奏団と作曲家フォーレ自身を思い切つて自邸に招き、自分ひとりのために演奏を依頼している。この曲もヴァントゥイユの七重奏のモデルになつたことは「ここは、フォーレの弦楽四重奏曲第1番卜短調のカペーの弾くヴァオリン・パート」とプルーストの残したノートにあることから明らかである。(Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)書評 安永愛ーーフォーレとヴァントゥイユ(プルースト))
次の演奏録音は、《Magda played this work at 15 y. old, invited by Faurè for the first audition. And HE played the second piano!》とある。
◆1965年9月28日 パリ、サル・ブレイエルでのリサイタルのプログラムより
ピアノは芸術、ピアノは快楽、もっともまれな、もっとも洗練された楽しみ。私たちのすべての夢をかなえてくれるもの。演奏者がその演奏によって聴衆の一人一人に音楽の魔法の力を伝えるとき、音楽を聴き愛する人は、たんにそれをうけとるだけではなく、音楽の魔法と魅力に世界にわけいる冒険者になるのです。
音楽は私のよろこび、忍耐強い練習を積み重ねてはじめてえられる深いよろこび。演奏者としての長年の経験のすべてをこめた、合理的な演奏法によって、できるだけ多くの人々にこの魅力的な世界のエリートになってもらうようにするのが、私の願いです。この願いの実現こそが私の苦労の代償であり、そのために私はピアノ教育にも熱意をもって取り組んできました。小さな子どもたちを導くことにも、すでに演奏家の域に達しているピアノストたちに助言を与えることにも、ひとしなみに喜びを感じています。
ああ、聖なるミュージック、音楽こそ私の全人生!(マグダ・タリアフェロ)