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2014年3月6日木曜日

棺桶に片足つっこんだような文体

棺桶に片足つっこんだような文体
で書いてる若い連中がいるが
まあオレもひとのことはあまり言えないけど
そろそろ片足つっこんでもいい齢だからさ
オレは棺桶文体で書いてもいいだろ

たとえばラカン読んでいて
どうしてあんな学者風の無味乾燥な文体で書く気になれるんだろ
と思わざるをえない若いラカン派の「聡明な」若者がいるが
あれはラカンの初期博士論文風なのかね
いや医者のディスクールってやつだろうな
ラカンの四つのディスクールの区分けからいえば
医者のディスクール」は、大学人(知)のディスクールじゃなく
主人のディスクールということになるらしい

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

ってわけだな ファルスだったら
ラカン「解説者」にはお似合いってわけのものでもないだろ
あれじゃあラカンを生きていないといわれても仕方がないな
Meaningのひとで、Senseのひとでは全くない
解釈ではなくて解釈学でしかない

ジジェクによればMeaning is an affair of hermeneutics(解釈学),
Sense is an affair of interpretation(解釈)で
前者が男性の論理、後者が女性の論理というわけだが
男性の論理、すなわちやっぱり父性原理の権化ということになるな
医者のディスクールのやまいに侵されてんだろうよ
評価すべき惜しい人材なんだがね

Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning.(「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より

オレはいまこんな文体で書いてるがね
似合いもしないのはわかってんだが
これじゃあダメなんだよなあ
メリハリがない
メロドラマに染まり易いたちで
つとめてそれに抵抗してんだよ

でなにがいいたいだって?
いやね
鈴木創士の文章読んで唖然としたんだよ
ここで呼び捨てにするのは
言い切りによる敬称だがね
鈴木創士氏といままで書いてきたんだが
これからは「鈴木創士」だな

縦横無尽な、バロック風、セリーヌ的
なんて「紋切型」の形容句しか思い浮かばないけどさ
今月の「鈴木創士の部屋」の文章は
稀に見る傑作じゃないか
誰も言っていないようだから敢えてそういうが
毎回魅力溢れるのはたしかだけれど
今回は格別だな
(オレだけかね 
あれに魅せれらないのはやっぱなにかが欠けてるんじゃないか)
以前の大野一雄追悼にも眩暈がしたな

舞踏家・大野一雄が103歳の生涯を閉じた。
何もない明るい丘に、葉っぱを落とした一本の古木が立っていた。ここからは見えない丘のむこうからかすかな口笛が聞こえる。時おりはしばみの実をくわえた大きな鳥が裸の枝にとまりにやってくる。
 手が、幾度となく、鳥のように宙で小さな弧を描いているだけだ。青空。眼を閉 じて、何も言うまいとする大野一雄。何も言うことがないのだ。……

今回は別の種類の眩暈で
ちょっと引用する気にもなれないな
あの「日常語」や「罵倒語」を織り交ぜる見事さは

かわりに蓮實重彦の「失語体験」でも引用しとくか
事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はその物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれる欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出合いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

鈴木創士の著作が売れるかどうかは別の話さ
メロドラマ風文学趣味の連中をぶっとばす文体だからな

※鈴木創士のツイートより
ランボーがビートニクスだったことを知らないの? ランボーの訳で一番重要なことは、だから思考のリズムと同時に言葉のリズムが作り出すある種のトーンなのさ。ランボーはとにかく速いんだよ。「詩情」とやらがべったり張り付いたかったるい日本語訳はランボーの書いたものとはまったく違うってこと!
さらについでに言っておくと俺のランボーの訳(河出文庫)には「何の詩情もない」とわざわざ仰る人がいるが、言っとくがランボーは文章を徹底的にきりつめることによって「君たちの詩情」など全部殺してしまったのだ。ランボーの原文を見りゃわかる(日経新聞2011年11月12日参照)。残念でした

…………

ワカンネエやつがいるらしいからつけ加えておくよ
スカンション、言い澱み、沈黙、飛躍、跳躍……、それがラカンの、すくなくともセミネールのラカンの蠱惑だろ。

……ラカンは、書いてきた原稿を読むということはありませんでした。また、何らかの神憑りの状態で、即興で語ったわけでもありません。そうではなくて、ラカンは、机の上に散らばっている夥しい量の彼のノートと対話しながら彼の道を辿り、熟考し、様々な問いを立てました。聴衆の動向に対しても注意深く、ある時は駆け足で進み、ある時はじっくり論じ、熟達したスキャンションの技術をもちいて、話ぶりや調子を変化させました。それはまるで、気紛れな風が様々の形の大きさの雲を作り出し、ついには入道雲が沸き立ち、稲妻が輝き、突然の嵐がやってきて、哀れな聴衆に襲いかかるように、ラカンはほんのしばらく人々を揺さぶるような調子で語ったかと思うと、次の瞬間には穏やかな口調となり、静かな講義の調子を取り戻しました。そして、その結論は時間のセミネールに新しい光をもたらすことを約束するものでした。(ミレール

《でくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろ》たちめ!

エンマは、もういまはこんな風に書かないと思う …だからフランス語が世界中で後退しつつあるとしても驚くにはあたらないのだ、と。どんな現代作家といえどもこんな喚起力をもっていない、と。一人でもいいからぼくに名前を言ってもらいたい! もちろん、いくつかの要素は古びてしまった(彼女のこの条りを読み返すたびに、しばらくのあいだコルセットを身につけたくなるのだが)、でもスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力がある …いや、この文体の巧みな中断のなかに人はすべてを感じ取るのだ …「何かしら極端で、漠然として、沈痛なもの」 …そしてとりわけ、「彼女が彼の情婦であるというより、むしろ彼が彼女の情婦になっていた …彼女は、深淵で、隠されているためにほとんど実体の無いこの堕落を、はたしてどこで習い覚えたのであろうか?」

実際、彼女のように仰々しいいでたちの女は現代的な解放すべてに属しており、エンマはエンマのままなのだ …奇妙なことに唯一文学だけが書き留めているこの荒々しい発見を前にすれば、あるのは同じ反芻、同じ痛み、同じ激昂、同じ失望である。この世界における、その名に値する男たちの不在 …男などいない! ただの一人も! 全員がでくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろなのだ …果てしなく、再び、彼女のすべての連続的再生において、エンマはこの単調な同じ絶望的結論に達する …彼らはいかなる堅固さを有していない …その空しさと同様、彼らの獣性がそこで暴かれる時間をのぞいては …その時の彼らの眼差しにはそっとさせられる …彼らは根本からほんとうに腐っている …結局は全員が贋のエンマなのだ …ぺてん師たち…  (ソレルス『女たち』p116鈴木創士訳)

すこしは味わいをつけろよな、学者文体のはしたないやからめ!

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」


ーーなどとつけ加えて、貴君たちを子どものように扱いたくなかったのだがね。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(蓮實重彦インタヴュー テオ・アンゲプロス『光をめぐって』より)

お、平倉圭氏がいいこといってんじゃないか、この感覚がないような連中というのを「うすのろ」っていうんだよ

露骨に狙った「いい文章-感」を、許しがたく・汚らしいものに感じるというわけさ

@hirakurakei: @EnricoLetter @masayachiba そこはかとなくただよう(あるいは露骨に狙った)「いい絵-感」を、許しがたく・汚らしいものに感じるということです。でもどうしてそんなに強い感情を覚えるのか考えたことなかった。私は落書きは好きです